酒井忠次
~鳶ヶ巣山奇襲で退路断ち鶴翼完成~
酒井忠次による鳶ヶ巣山奇襲は、長篠の戦いで武田軍の退路を断ち、織田・徳川連合軍の大勝に貢献。信長は忠次を「背に目を持つ」と絶賛。その功績は大きい。
酒井忠次、鳶ヶ巣山を衝く ― 長篠に完成せし鶴翼の陣
序章:設楽原の対峙、膠着する戦況
天正三年(1575年)五月、三河国の設楽原は、日本の歴史の転換点となるであろう巨大な軍事力が対峙する舞台となっていた。しかし、その決戦の火蓋が切られる直前、戦場は重苦しい膠着状態に包まれていた。この状況を理解するには、全ての始まりである長篠城の攻防に遡る必要がある。
長篠城は、寒狭川と宇連川が合流する断崖絶壁に築かれた天然の要害であった。しかし、この難攻不落に見える城には、一つの致命的な弱点が存在した。それは、宇連川を挟んだ対岸にそびえる鳶ヶ巣山である 1 。この山頂からは、長篠城の本丸を含む城内の様子が手に取るように見渡せてしまう。武田勝頼率いる一万五千の軍勢は、この弱点を的確に突き、鳶ヶ巣山に主将の武田信実を置いて本砦とし、さらにその周囲に久間山砦、中山砦、姥ケ懐砦、君ケ懐砦という四つの支砦を構築した 2 。この五砦からなる包囲網は、長篠城を物理的に圧迫するだけでなく、城兵の士気を削ぐ監視拠点としても機能し、城の救援を極めて困難なものにしていた。
五月十八日、長篠城の窮状を救うべく、織田信長率いる三万、徳川家康率いる八千、合計三万八千の連合軍が設楽原に着陣した 5 。信長は連吾川を天然の堀と見立て、その西岸に三重の土塁と馬防柵を組み合わせた、当時としては異例の堅固な野戦陣地を構築させた。これは、武田軍自慢の騎馬隊の突撃力を無力化し、三千挺ともいわれる大量の鉄砲でこれを迎え撃つという、徹底した防御戦術を意図したものであった 5 。
これに対し、武田軍も設楽原に進出するが、連合軍の堅固な陣地を前に攻めあぐね、鉄砲や弓矢の射程外で睨み合いを続けるという膠着状態に陥った 1 。信長の戦略は、武田軍の焦りを誘って陣地へ突撃させ、鉄砲の威力で殲滅することにあった。仮に武田軍が戦わずに兵を引いたとしても、「織田・徳川との決戦を避けた」と天下に喧伝でき、政治的な勝利を収めることができるという二段構えの戦略であった 7 。この動かざる信長の戦術は、武田勝頼に多大な心理的圧迫を与えていた。しかし、この膠着状態は、連合軍にとっても一つの問題を抱えていた。それは、背後に存在する鳶ヶ巣山の砦群である。この砦群は、連合軍が下手に動けばその側面や背後を突きかねない脅威であり、信長をして防御に徹せしめた一因でもあった。この戦況を打破し、かつ長篠城を救援するためには、鳶ヶ巣山砦群の排除が不可欠であった。この軍事的必然性が、一人の徳川家臣による画期的な献策の土台となったのである。
第一章:運命の軍議、酒井忠次の献策
天正三年五月二十日の夜、設楽原を一望する極楽寺山に置かれた織田信長の本陣では、重苦しい空気が漂う中、軍議が開かれていた。堅固な陣地で待つという信長の戦略は合理的であったが、それは同時に戦況の停滞を意味していた。諸将が有効な打開策を打ち出せずにいる中、徳川家臣団の筆頭、酒井左衛門尉忠次が静かに進み出た。
忠次は、この膠着状態を根本から覆す大胆な作戦を進言した。それは、鳶ヶ巣山砦群に対する奇襲攻撃であった 1 。作戦の骨子は、別働隊を編成し、夜陰に乗じて武田本隊に察知されることなく大きく南へ迂回し、鳶ヶ巣山の背後に回り込む。そして夜明けと共に奇襲をかけ、砦群を陥落させるというものであった。この作戦が成功すれば、第一に長篠城を解放できる。そして第二に、設楽原にいる武田本隊の甲斐への退路を遮断し、その背後を脅かすことができる 7 。それは、戦いの主導権を完全に奪い返す起死回生の一手であった。
しかし、この進言に対する信長の反応は、冷ややかなものであった。諸将が固唾をのんで見守る中、信長は忠次の作戦を「田舎侍の考えそうな浅はかな作戦よ」「そのような小細工が、あの武田に通じるものか」と一笑に付し、公然と却下したのである 1 。本陣の空気は凍りつき、忠次は黙って引き下がるしかなかった。
だが、軍議が終わると、事態は劇的な展開を見せる。信長は密かに家康と忠次だけを呼び寄せた 1。そこで信長は、先ほどとは打って変わって満面の笑みを浮かべ、こう言ったと伝えられている。
「さすがは忠次よ。面白い作戦だ。そなたの発案は理に適った最善の策である」1。
信長が軍議の場でわざと作戦を貶し、却下したのは、敵の間者(スパイ)が紛れ込んでいる可能性を考慮し、作戦情報が武田方に漏洩することを絶対に防ぐためであった 5。万が一情報が漏れたとしても、「信長が却下した作戦」として武田方に油断を生じさせるという、高度な情報戦・心理戦でもあった。そして信長は、忠次に直ちに作戦の実行を命じた。
この劇的な逸話は、主に江戸時代の『常山紀談』に記されているものであり、後世の脚色が加わっている可能性は否定できない 5 。しかし、より一次史料に近い『信長公記』にも、信長が忠次に別働隊を率いて奇襲を命じた事実は明確に記録されており、作戦が極秘裏に進められたという核心部分は史実を反映していると考えられる 5 。この重要な奇襲作戦の総大将を、織田家の将ではなく同盟者である徳川家の重臣に全面的に委ねたという事実そのものが、信長の家康と忠次に対する絶大な信頼の証であった。
第二章:闇夜の進軍、松山越えの奇襲部隊
信長の密命を受けた酒井忠次は、直ちに奇襲部隊の編成に取り掛かった。それは、織田・徳川両軍の精鋭からなる強力な混成部隊であった。総大将はもちろん酒井忠次。徳川軍からは、弓や鉄砲の扱いに長けた兵を中心に約二千が選抜された。その中には、松平伊忠、松平家忠、本多広孝、西郷吉員といった、現地の地理に明るい東三河の将士たちが名を連ねていた 10 。一方、織田軍からは、信長自身の旗本(御馬廻)鉄砲衆五百挺を含む約二千の兵が加わった。さらに信長は、目付役である検使として金森長近や佐藤秀方らを派遣し、作戦の成功を期した 10 。総勢約四千の精鋭部隊は、こうして歴史的な夜間行軍を開始する。
表1:酒井忠次 鳶ヶ巣山奇襲部隊 編成
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軍 |
総大将/検使 |
主な武将 |
兵力 |
備考 |
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徳川軍 |
酒井忠次 |
松平伊忠、本多広孝、西郷吉員など |
約2,000 |
東三河衆を中心とした弓・鉄砲の精鋭 |
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織田軍 |
金森長近、佐藤秀方(検使) |
- |
約2,000 |
信長旗本の鉄砲衆五百を含む |
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総計 |
- |
- |
約4,000 |
- |
天正三年五月二十日、戌の刻(午後8時頃)、奇襲部隊は設楽原の陣地を密かに出立した 10 。この日の月の入りは午後7時48分頃であり、部隊はまさしく漆黒の闇の中を行軍することになった 10 。部隊はまず豊川(乗本川)を渡河し、武田本隊から見て南側へと大きく迂回するルートを取った 1 。
この前代未聞の夜間山岳行軍の成否は、道案内人の能力にかかっていた。この重責を担ったのが、地元の吉川村に住む郷士、豊田藤助秀吉と近藤石見守であった 10 。彼ら土地勘に優れた案内人がいなければ、この作戦は出発と同時に頓挫していたであろう。彼らは、後続の兵たちが道に迷わぬよう、縄を張って大木に縛り付け、道標とするという念の入れようであった 10 。
一行が直面した最大の難所は、松山峠、通称「松山越え」と呼ばれる険しい山道であった 11 。折からの雨で道はぬかるみ、兵士たちは濡れた鎧や武具の重みに耐えながら、息を殺して黙々と歩み続けた 12 。奇襲ルートとなった山地は、尾根筋が複雑に入り組み、特に南側が急峻な地形をしていた 14 。しかし、この地形の複雑さと行軍の困難さこそが、武田方に「このようなルートでの奇襲はあり得ない」という油断を生じさせ、作戦の成功確率を高めるという逆説的な結果をもたらした。困難そのものが、成功の母だったのである。
第三章:払暁の強襲、鳶ヶ巣山砦の陥落
約十時間にも及ぶ、想像を絶する闇夜の行軍を終えた酒井忠次の奇襲部隊は、五月二十一日の払暁(夜明け頃)、ついに目標である鳶ヶ巣山砦群の背後、大峰平と呼ばれる地点への展開を完了した 4 。東の空が白み始める頃、忠次の合図一下、静寂は破られた。
まず、織田の鉄砲衆による一斉射撃が夜明け前の静寂を切り裂き、それを合図に四千の兵が鬨の声を上げ、五つの砦に一斉に襲いかかった 4 。完全に意表を突かれた武田軍の守備兵は大混乱に陥った。しかし、彼らもまた武田家譜代の精鋭であった。砦の主将であり勝頼の叔父でもある武田信実、勇将として知られた三枝勘解由(昌貞)兄弟、浪合民部といった将たちは、狼狽しながらも必死に防戦した 2 。
特に、砦群の中核である鳶ヶ巣山砦では、壮絶な白兵戦が繰り広げられた。両軍は三度にわたって砦の争奪戦を繰り返したが、奇襲の勢いに乗る連合軍の猛攻の前に、衆寡敵せず、武田方の守備隊はついに崩壊した 4 。武田信実をはじめ、三枝昌貞、五味与惣兵衛、名和無理之助ら、砦を守っていた名のある武将のほとんどがこの戦闘で討死を遂げた 5 。こうして、長篠城を一年近くにわたって苦しめ続けた五つの砦は、奇襲開始からわずかな時間でことごとく陥落したのである。
その頃、設楽原の武田本陣にいた勝頼は、自軍の背後から突如として立ち上る狼煙と、断続的に響き渡る銃声に驚愕した 13 。それは、自軍の退路が遮断され、背後を完全に押さえられたことを意味していた。この予期せぬ事態は勝頼に強烈な心理的動揺を与え、後の冷静さを欠いた無謀な正面攻撃へと彼を駆り立てる大きな一因となった。
奇襲部隊の任務は、砦の攻略だけでは終わらなかった。忠次は追撃の手を緩めず、敗走する武田兵を徹底的に掃討した。さらに、この好機を逃さず長篠城からも籠城していた奥平軍が打って出て追撃に加わり、有海村方面に駐留していた武田の別働隊までも壊滅させた 5 。これにより、設楽原の武田本隊が甲斐へ帰還するための主要な退路は、完全に脅かされることになった。この奇襲は、長篠城の救援という第一目標を達成しただけでなく、武田本隊の退路遮断と勝頼への心理的圧力という、第二、第三の戦略的目標をも同時に達成したのである。
第四章:退路断絶、鶴翼の完成
鳶ヶ巣山砦から上がる煙を遠望した酒井忠次は、この奇襲作戦が持つ真の意味を理解した。後世に伝わる逸話によれば、彼はこの時、「鶴翼の完成を見たり」と述べたとされる。この言葉は、単なる感慨ではなく、長篠の戦いにおける連合軍の勝利を決定づけた、壮大な戦略思想そのものを的確に表現したものであった。
鶴翼の陣(かくよくのじん)とは、古来より用いられる陣形の一つで、自軍の部隊を鶴が翼を広げたようなV字またはU字型に展開し、両翼で敵を包み込むことを目的とする 17 。通常、自軍が敵軍より兵力で勝る場合に用いられ、敵を包囲殲滅するための攻撃的な陣形である 20 。
しかし、長篠における「鶴翼」は、単一の戦場における部隊配置という戦術的な次元を遥かに超えるものであった。設楽原の馬防柵の内に布陣する、信長・家康率いる三万八千の連合軍本隊が、いわば鶴の胴体と片方の翼を形成していた。そして、酒井忠次が率いる四千の奇襲部隊が、武田本隊の背後にあたる鳶ヶ巣山方面に出現した。これが、もう一方の翼となったのである。
これにより、設楽原の武田軍一万二千は、物理的に「前方(連合軍本隊)」と「後方(酒井奇襲部隊)」から挟撃される形となった。これは、設楽原という戦場全体を一つの盤面として俯瞰した時に初めて現れる、巨大な「 戦略的鶴翼の陣 」が完成した瞬間であった。忠次の「鶴翼の完成」という言葉は、この戦略的包囲網が完成し、武田軍の退路を断ち、勝利が確定したことへの的確な認識を示している。彼は、自らが率いる部隊が、単なる別働隊ではなく、勝利という名の絵を完成させるための最後のピース、すなわち「もう一方の翼」としての決定的な役割を果たしたことを、誰よりも深く理解していたのである。
この戦略的包囲網の完成により、武田勝頼に残された選択肢は極端に狭められた。このままでは後方の酒井部隊と前方の連合軍本隊に挟撃され、包囲殲滅される。それを避けるには、前方の連合軍本陣を正面から突破し、活路を見出す以外に道はなかった 6 。結果として、武田軍は信長の思う壺である、鉄砲隊が待ち受ける馬防柵へと死を覚悟して突撃せざるを得なくなり、歴史に残る壊滅的な敗北を喫することになるのである。
結章:勝利への布石、忠次への賞賛
酒井忠次による鳶ヶ巣山奇襲の成功は、単なる一局地戦の勝利に留まらず、長篠・設楽原の戦い全体における織田・徳川連合軍の大勝を決定づける、最大の要因となった 11 。この一撃によって、連合軍は戦いの主導権を完全に掌握し、武田軍を破滅的な正面攻撃へと誘導することに成功したのである。
戦後、織田信長は酒井忠次のこの功績を手放しで賞賛した。信長は忠次の働きを「 背に目を持つごとし (まるで背中に目がついているかのようだ)」と絶賛したと伝えられている 9 。これは、敵の背後、すなわち常人には見えない死角を的確に見抜き、それを突くという忠次の卓越した洞察力と大胆な実行力に対する、信長からの最大級の賛辞であった。
言葉による賞賛だけではない。信長は恩賞として、忠次に名工・真光作の太刀一振を与えた。この太刀は、その芸術的価値と歴史的背景から、後に国宝に指定され、「太刀 銘 真光」として現代にまでその栄誉を伝えている 22 。この現存する物証は、忠次の功績が単なる物語ではなく、当時の人々にも極めて高く評価された歴史的事実であったことを雄弁に物語っている。
「酒井忠次、鳶ヶ巣山奇襲で退路断ち鶴翼完成」という逸話は、単なる一武将の武功譚ではない。それは、戦国時代の合戦が、単なる兵力の衝突ではなく、地形の巧みな利用、徹底した情報管理、高度な心理戦、そして常識を覆す大胆な奇襲作戦といった多様な要素が複雑に絡み合った、知的な駆け引きであったことを象徴している。そして何よりも、徳川家臣団の持つ高い能力と、織田・徳川という強固な同盟関係がもたらした、歴史的な勝利の縮図として、後世に語り継がれているのである。この勝利は、名門武田家の衰亡を決定づけ、織田信長の天下布武を大きく前進させると同時に、徳川家康が後の天下人となるための重要な布石となった。一個の奇襲作戦が、日本の歴史の大きな転換点の一つとなった瞬間であった。
引用文献
- 其の八 酒井忠次の大作戦「鳶ヶ巣山(とびがすやま)」 - 新城市 https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/taiga/shinshiro/tobigasuyama.html
- 長篠城を包囲していた五砦の中心だった武田信実の鳶ヶ巣山砦 https://sengokushiseki.com/?p=9544
- 連合軍鳶ヶ巣山砦奇襲攻撃コース ―織田信長・徳川家康 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/course5.html
- 酒井忠次が奇襲した【鳶ヶ巣山砦】から【長篠城】を見下ろしてみた|愛知県新城市 https://delight-net.biz/archives/6829
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- 戦いの経過 http://www.shinshiro.or.jp/battle/keika.htm
- 設楽原で武田軍を殲滅した信長の恐るべき戦略眼 最強の騎馬を無効化し最新兵器で戦を変えた異才 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/677639?display=b
- 長篠の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7124/
- (酒井忠次と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/40/
- 鳶ケ巣山砦の奇襲 - 武田勝頼公と北条夫人の部屋 http://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-220.html
- 鳶ヶ巣奇襲隊進路松山越 - 新城市 - キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=355
- 鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え - 武田家の史跡探訪 https://mogibushi.com/aichi/shinshiro/matsuyamagoe/
- 鳶ヶ巣山陣地 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/tobigasu.htm
- とんでもない奇襲ルート:「長篠の戦い」を地形・地質的観点で ... https://note.com/yurukutanosimu/n/nd5e3234810d0
- 鳶ヶ巣山砦 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/higashi/tobigasuyama.sj/tobigasuyama.sj.html
- 長篠の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2376
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- 陣形 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%BD%A2
- 鶴翼の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%BF%BC%E3%81%AE%E9%99%A3
- 「魚鱗の陣」や「鶴翼の陣」とは?|三方ヶ原の戦いで家康・信玄が使った陣立【戦国ことば解説】 https://serai.jp/hobby/1125778
- ようこそ!新城市の長篠・設楽原古戦場へ https://togo-wakuwaku.jp/wp/wp-content/uploads/2021/03/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%83%BB%E8%A8%AD%E6%A5%BD%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E5%B7%A1%E3%82%8A%E5%89%8D%E5%8D%8A.pdf
- 長篠・設楽原決戦場跡/鳶ヶ巣山砦跡(愛知県) | 酒井家ゆかりの地 - 鶴岡市 https://www.city.tsuruoka.lg.jp/static/sakai400th/yukarinochi/nagashino.html