最終更新日 2025-10-24

鍋島直茂
 ~幽霊が枕元に立ち我を弔え怪異~

鍋島直茂の枕元に龍造寺隆信の幽霊が現れ「我を弔え」と告げた逸話は、史実でなく、隆信の死と直茂の責任感、権力移譲、怨念譚が融合し伝説化。宗龍寺建立を正当化。

鍋島直茂と龍造寺隆信の怪異譚 ―「我を弔え」と告げた幽霊の逸話に関する歴史的・伝承的考察

序章:枕元に立つ主君の霊 ― 逸話の提示と本報告の主題

戦国時代の肥前国(現在の佐賀県・長崎県)。この地を巡る興亡の歴史の中に、ひときわ異彩を放つ怪異譚が語り継がれている。それは、家臣であった鍋島直茂の枕元に、非業の死を遂げた主君・龍造寺隆信の亡霊が現れ、低く、しかし威厳を帯びた声で「我を弔え」と告げた、という逸話である。この短い物語には、主従の宿縁、忠義、そして権力移譲の裏に渦巻く怨念といった、戦国という時代の情念が凝縮されているかのようである。

利用者様より寄せられたこの特定の逸話について、その詳細を徹底的に解明するにあたり、まず一つの重要な事実を提示せねばならない。すなわち、この怪異譚を具体的な会話内容や状況と共に記録した、同時代の一次史料や、それに準ずる信頼性の高い編纂物を見出すことは、現在の研究では極めて困難であるという点である。

したがって、本報告の目的は、この逸話の真偽を判定することにはない。むしろ、なぜこのような物語が生まれ、人々の間で語り継がれるに至ったのか、という根源的な問いを主題とする。逸話の成立を促したであろう土壌を、「史実」「伝承」「心理」という三つの側面から深く掘り下げ、分析すること。それこそが、この怪異譚の核心に迫る唯一の道であると考える。本報告は、枕元に立ったとされる主君の霊の正体を、歴史の文脈の中に探る試みである。

第一章:歴史的背景 ― 沖田畷に散った主君と残された家臣

逸話の起点、それは龍造寺隆信の死そのものである。この悲劇的な出来事と、その直後の鍋島直茂の行動を時系列に沿って克明に追うことは、物語が生まれる「動機」の土壌を理解する上で不可欠である。

天正十二年(1584年)三月二十四日、沖田畷の悲劇

天正十二年(1584年)、九州の覇権を狙う「肥前の熊」こと龍造寺隆信は、島津氏と結んだ有馬晴信を討伐すべく、大軍を率いて島原半島へ出陣した。兵力では島津・有馬連合軍を圧倒しており、当初の戦況は龍造寺軍に有利に進むかに見えた。しかし、沖田畷と呼ばれる湿地帯の隘路に誘い込まれたことで、戦況は一変する。身動きの取れなくなった龍造寺軍本隊は、島津家久の巧みな伏兵戦術の前に大混乱に陥った。

この乱戦の最中、総大将である隆信の最期は壮絶なものであった。輿に乗っていた隆信の周囲は、護衛の兵すら逃げ出すほどの混乱状態となり、瞬く間に敵兵に囲まれた 1 。隆信は臆することなく大声で己の名を名乗り上げた後、島津方の武将・川上忠堅によって討ち取られたという 1 。享年56歳。九州に覇を唱えた「五州二島の太守」の、あまりにもあっけない最期であった。

直茂の絶望と殉死の覚悟

当時、別動隊を率いて柳川方面にあった鍋島直茂のもとに、主君・隆信討死の凶報が届いた時の衝撃は計り知れない。直茂はすぐさま軍を返し、主君を失った戦場へと駆けつけた。そこで目の当たりにした惨状と、主君を守りきれなかったという自責の念は、直茂をある決意へと駆り立てた。

史料によれば、直茂はその場で「隆信公も御戦死され、御一門も続かれた。この上はこの場で腹を切る」と叫び、殉死を遂げようとしたとされる 2 。その覚悟は本物であり、彼はすでに具足を脱ぎ、帯まで解いていたという 2 。主君と共に死ぬことこそが、家臣としての最後の忠義であると信じて疑わなかったのである。

しかし、その場にいた家臣たちは、主君に続いて龍造寺家最高の将である直茂までも失うことが、龍造寺家の完全な崩壊を意味すると理解していた。ある家臣は必死に直茂に駆け寄り、「こたびは会稽の恥をすすぐべきです。はや御退却なされませ」と諫め、直茂の手を取って高所から引きずり下ろしたと伝えられている 2 。この生々しいやり取りは、直茂が自らの意思に反して、家臣たちによって「生かされた」瞬間を物語っている。

弔い合戦への転換

それでもなお「なまじ退却して雑兵ばらの手に掛かっては我が身の恥である」と自害を試みようとする直茂に対し、家臣たちは説得を続けた 2 。この説得が、直茂の絶望を次なる行動へのエネルギーへと転化させる契機となった。自らの死によって忠義を示す道が絶たれた直茂は、生き残った者としての責任を痛感したのである。

彼は自害を思いとどまると、すぐさま思考を切り替え、島津への報復戦、すなわち主君の「弔い合戦」を決意する。そして、筑後の諸将へ向けて報復戦への協力を求める書状を数通認め、早船で送らせた 2 。この迅速な行動転換は、直茂の並外れた精神力と、龍造寺家を支えるという強烈な使命感の表れであった。

この一連の出来事は、逸話の成立を考える上で極めて重要な心理的基盤を形成する。直茂にとって、殉死は許されなかった。家臣によって強制的に与えられた「生きる」という選択は、彼の責務を「主君と共に死ぬこと」から、「主君亡き後の龍造寺家を守り、その霊を慰め続けること」へと変質させた。この、死ぬことすら許されなかったという強烈な負い目と責任感こそが、後の彼の行動すべてを規定し、主君の霊からの「弔え」という命令を(たとえそれが幻聴や後世の創作であったとしても)受け入れざるを得ない精神的状況を生み出したのである。

第二章:行動による「弔い」― 宗龍寺建立の意図

隆信の霊が枕元に立つまでもなく、鍋島直茂は自発的かつ計画的に、主君を弔うための具体的な行動を開始していた。その象徴が、佐賀城下に建立された宗龍寺である。この寺院の建立は、直茂がいかに深く隆信の死を受け止め、その鎮魂に心を砕いていたかを示す動かぬ証拠であり、逸話の「結果」部分が史実に基づいていることを明確に示している。

天正十六年(1588年)、宗龍寺の建立

隆信が沖田畷に散ってから四年後の天正十六年(1588年)五月、直茂は主君・龍造寺隆信の冥福を祈る菩提寺として、一寺を建立した 4 。その寺の名は「金剛山宗龍禅寺」。この「宗龍」という名は、隆信の法号「法雲院殿泰巌 宗龍 大居士」に由来するものであった 4 。寺の名に主君の法号を冠するという行為は、この寺がまさしく隆信個人のために建てられたものであり、直茂の追悼の意がいかに真摯なものであったかを物語っている。

さらに直茂は、隆信の肖像画をこの寺に寄進している 5 。この肖像画は後年、十代藩主鍋島直正によって再表装されており 5 、鍋島家が代々にわたってこの寺と隆信の供養を重視していたことがうかがえる。

建立場所の持つ特別な意味 ― 鬼門鎮護

宗龍寺の建立において、その場所が持つ意味は特に重要である。この寺は、佐賀城の「鬼門」、すなわち北東の方角に建立された 4 。陰陽道において鬼門は、邪気や災厄が侵入してくる最も不吉な方角とされ、古来、城や都市の設計において、この方角をいかに鎮め、守護するかは極めて重要な課題であった。

その城の守りの要である鬼門に、亡き主君の菩提寺を置くという行為は、単なる追善供養を遥かに超えた、高度な意図を内包している。これは、生前「肥前の熊」と恐れられた隆信の強大な霊力をもって、佐賀城とそこに拠る鍋島家そのものを末永く守護してもらおうという、極めて戦略的な思想の表れであった。隆信の霊を、鎮めるべき怨霊としてだけでなく、強力な守護神として捉え、その力を積極的に活用しようとしたのである。

また、沖田畷の戦いの混乱の中、隆信の首は熊本に、胴体は佐賀に、と別々に葬られたとされ、遺骨が分断された状態にあった 7 。身体が五体満足でないことは、死者の成仏を妨げると信じられていた当時、手厚い供養の必要性はより一層切実なものであった。宗龍寺の建立は、こうした状況下で隆信の魂を安らかに鎮めるという、喫緊の課題に応えるものでもあった。

これらの事実から見えてくるのは、宗龍寺建立という行為が、純粋な追悼の情だけでなく、極めて計算された政治的・霊的パフォーマンスであったという側面である。それは、隆信の怨霊化を防ぐ「鎮魂」、龍造寺旧臣に対して鍋島こそが隆信公の遺志を継ぐ正統な後継者であると示す「正統性の誇示」、隆信の霊威を城の守護神として利用する「霊的武装」、そして権力移譲という現実に対する直茂自身の心理的負い目を清算する「自己正当化」という、少なくとも四重の意味合いを持つ深謀遠慮の策であった。

この文脈において、「隆信の幽霊が『我を弔え』と命じた」という逸話は、これら複雑な動機を「忠義」という一つの分かりやすい物語に集約し、直茂のすべての行動を正当化する、極めて効果的な口実として機能し得たのである。

第三章:怨念の変奏 ―「鍋島化け猫騒動」というもう一つの怪異譚

鍋島直茂と龍造寺隆信を巡る怪異譚は、枕元に立つ幽霊の話だけではない。むしろ、より広く大衆に知られ、後世の創作物に多大な影響を与えたのは、「鍋島化け猫騒動」と呼ばれる一連の物語である。このもう一つの怪異譚を分析することは、「龍造寺の怨念が鍋島を祟る」という物語の類型が佐賀の地に深く根付いていたことを示し、隆信の幽霊譚が成立する伝承的土壌を明らかにする上で欠かせない。

権力移譲の現実と怨念の発生

沖田畷の戦いの後、龍造寺家の家督は隆信の子・政家、そして孫・高房へと形式的には継承された。しかし、龍造寺家の実権は、豊臣秀吉の公認を得た鍋島直茂が完全に掌握していく 8 。この権力移譲は、当初、直茂が「高房が成人した暁には家督を返還する」という約束のもとで行われたとされる 10

しかし、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いにおける鍋島家の功績により、その支配体制は既成事実化し、徳川幕府も鍋島家を佐賀藩主として公認するに至る。約束が果たされることはなく、失意のうちに龍造寺高房は自害。これにより、龍造寺本家は事実上断絶した 10 。この一連の経緯は、表向きは穏便に進められた権力移譲の裏に、龍造寺側の深い無念と怨恨があったことを想像させ、「龍造寺家の怨念」という物語テーマの直接的な火種となった。

「鍋島化け猫騒動」の物語構造

江戸時代中期以降、この歴史的背景をもとに「鍋島化け猫騒動」が成立し、歌舞伎や講談の演目として絶大な人気を博した。物語の筋立ては様々だが、骨子は概ね共通している。

それは、鍋島藩主(二代・光茂や初代・勝茂とされることが多い)が、龍造寺家の末裔(又七郎など)を碁のいさかいなどで斬殺してしまう 11 。殺された末裔の母は、悲しみと鍋島家への怨みを飼い猫に語り聞かせた後、自害する。母の血を舐め、その怨念を吸った猫は巨大な化け猫となり、藩主の寵愛する側室・お豊の方などに化けて城に忍び込み、藩主を病で苦しめるなどして祟りをなす、というものである 10 。最終的には、忠臣・小森半左衛門などが化け猫の正体を見破り、これを退治することで怪異は収まる、というのが一般的な結末である 10

先行する亡霊譚の存在

興味深いことに、この化け猫という要素が加わる以前の、よりシンプルな形の亡霊譚も存在していたことが示唆されている。それは、「佐賀城内に、自害した龍造寺高房の亡霊が白装束で馬に乗って現れる」という噂であった 13 。これは、「龍造寺の霊が鍋島(の居城)に現れる」という物語の原型が、化け猫という複雑な装置を伴わない、より直接的な形で存在していたことを示している。

これらの伝承を比較検討することで、一つの流れが見えてくる。まず、権力移譲の当事者たちの記憶が生々しい時代には、高房のような直接的な亡霊譚が語られた。それが時を経て、事件が風化し、娯楽として消費されるようになると、化け猫というより劇的でエンターテインメント性の高い要素が加わり、「鍋島化け猫騒動」として完成されていった。

この文脈に、本報告の主題である「隆信の幽霊譚」を置いてみると、その特異な位置づけが明らかになる。「化け猫騒動」が、数世代後の鍋島家全体を脅かす勧善懲悪的な怪奇譚であるのに対し、「隆信の幽霊譚」は、権力移譲のまさに当事者である直茂個人の内面的な葛藤と責任に焦点を当てた、政治色の濃い物語である。祟りというよりも、「死してなお主君は主君であり、家臣は家臣である」という、断ち切ることのできない主従関係の継続を象徴している。

「隆信の幽霊譚」と「化け猫騒動」は、同じ「龍造寺の怨念」という一つの根から生じながらも、それぞれ異なる時代背景と語り部の関心を反映して分化した、物語の異なる枝葉であると見なすことができるのである。

第四章:逸話の再構築 ― 歴史と伝承の融合仮説

これまでの歴史的背景、直茂の具体的な行動、そして並行して存在する伝承の分析を統合し、本報告の核心となる仮説を提示する。すなわち、「龍造寺隆信の幽霊が枕元に立ち『我を弔え』と告げた」という逸話は、史実として記録された単一の出来事ではなく、複数の要素が後世において融合し、一つの分かりやすい物語として結晶化した口承伝承である、という仮説である。

この逸話は、以下の三つの要素から再構築できると考えられる。

  1. 【核となる史実】: 鍋島直茂が、亡き主君・龍造寺隆信の菩提を弔うため、その法号を冠した宗龍寺を佐賀城の鬼門に建立したという、動かしがたい歴史的事実。
  2. 【物語の駆動力】: 龍造寺家から鍋島家への権力移譲、すなわち事実上の「お家乗っ取り」という歴史の大きな転換点に伴う、直茂側の政治的・心理的な負い目と、龍造寺家の怨念に対する人々の潜在的な恐怖や共通認識。
  3. 【物語の類型】: 「鍋島化け猫騒動」や「高房の亡霊譚」に代表される、「龍造寺の霊が鍋島に現れる(祟る)」という、佐賀の地にすでに存在していた伝承の枠組み。

この逸話は、複雑な政治的経緯と、直茂個人の内面的な葛藤を、「幽霊からの直接的な命令」という、誰もが納得しやすい超自然的な権威によって説明する、極めて優れた物語装置として機能した。この物語を通すことで、直茂の宗龍寺建立という行為は、彼の政治的計算や自己正当化の意図といった側面が浄化され、すべてが「亡き主君への揺るぎない忠義の発露」として理解される。結果として、鍋島家による支配の正統性を補強する役割を果たしたのである。

この構造は、以下の表によってより明確に理解することができる。

逸話の構成要素

対応する歴史的・伝承的背景

逸話における機能

誰が: 龍造寺隆信の幽霊

沖田畷で非業の死を遂げた「肥前の熊」。その怨念は「化け猫騒動」の源泉ともなる。

行為の命令者。超自然的な権威を付与し、行動を絶対的なものにする。

誰に: 鍋島直茂の枕元に

主君の死後、実権を掌握。内心に葛藤を抱え、隆信の鎮魂に実際に努めた。

命令の受信者。忠臣としての役割を強調し、行動の純粋性を担保する。

何を: 「我を弔え」と告げた

直茂が実際に宗龍寺を建立し、隆信を手厚く弔った史実 4

直茂の行動(宗龍寺建立)に対する、最もシンプルで強力な動機付けを提供する。

さらに、この逸話は、後に佐賀藩の武士道精神の根幹をなす書物『葉隠』に記された幽霊観と、興味深い対比をなしている。『葉隠』の中では、「我が身を主君に奉り、速に死に切って幽霊になりて、二六時中主君の御事を歎き…」と説かれている 14 。これは、 家臣が幽霊となってでも主君を守り、仕え続ける ことが武士の理想の姿である、という思想である。

しかし、本逸話ではこの主従関係が逆転している。 主君が幽霊となって現れ、家臣に要求する のである。この逆転した構図は、鍋島支配が安定した江戸中期に理想として語られた武士道(葉隠)と、まさに権力移行の渦中にあった戦国末期の生々しい緊張関係(本逸話)との間の、埋めがたい乖離を象徴している。それは、「死んでもなお、隆信公は恐ろしい主君であった」という、直茂や当時の家臣たちが抱いていたであろう偽らざる心象風景が、怪異譚という形で保存された結果なのかもしれない。理想化された武士道が語られる以前の、より現実的で切実な主従の力学が、この逸話には刻み込まれているのである。

結論:語り継がれる主従の宿縁

本報告では、鍋島直茂の枕元に龍造寺隆信の幽霊が現れ「我を弔え」と告げたという怪異譚について、その成立の背景を多角的に考察した。調査の結果、この逸話を直接的に記述した同時代の史料は見いだせなかったものの、その物語が生まれるに至った蓋然性の高い土壌を明らかにすることができた。

すなわち、沖田畷の戦いにおける隆信の死と、殉死を禁じられ「生きる」ことを選択させられた直茂の強烈な責任感。そして、その責任感の現れとしての宗龍寺建立という具体的な史実。これらが、龍造寺家から鍋島家への権力移譲という歴史的背景の中で、「鍋島化け猫騒動」に代表される龍造寺家の怨念譚という伝承の枠組みと結びつき、一つの逸話として結晶化した、というのが本報告の結論である。

この逸話は、文字通りの史実ではない可能性が高い。しかし、それが歴史的価値を持たないということにはならない。むしろ、この物語は、鍋島直茂と龍造寺隆信という二人の武将の、忠誠と葛藤、敬愛と畏怖が入り混じった複雑で宿命的な関係性を、鮮やかに後世に伝えている。そして、肥前の支配者が交代するという歴史の大きな転換点において、当事者たちが抱いたであろう不安、期待、そして拭いがたい罪悪感といった人間の感情を凝縮して保存する、「物語としての真実」を内包しているのである。

枕元に立ったという主君の霊は、直茂個人が見た幻覚だったのか、あるいは後世の人々が歴史の行間を埋めるために生み出した創作だったのか。その最終的な答えは、歴史の闇の中にある。しかし、この逸話が今なお我々の心を捉えて離さないのは、それが単なる怪談ではなく、一人の家臣が背負った巨大な宿命と、時代の転換期を生きた人々の記憶そのものを、時を超えて映し出す鏡であるからに他ならない。

引用文献

  1. 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
  2. 沖田畷の戦い・レポート(14) ― 鍋島直茂の退き口-(2023.7/25): 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/500116419.html
  3. 「葉隠」研究に精魂を預けられた栗原荒野はその名著『校註葉隠」に「葉隠」十一巻、一三五八節を 次のように分類している。 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34624_20130321053236.pdf
  4. 宗龍禅寺 - 佐賀市 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2417
  5. 2020年6月 龍造寺隆信像 - 公益財団法人鍋島報效会 徴古館 https://www.nabeshima.or.jp/main/4862.html
  6. 龍造寺隆信像 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/299909
  7. 殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/258456/
  8. 寺如法経の過去帳に、永徳三年(一三八三)四月十六日と記されているところから、南北朝時代後期にあたる。 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34631_20130124125517.pdf
  9. 鍋島直茂(鍋島直茂と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/81/
  10. 鍋島騒動とは?猫の怨念が巻き起こした恐怖 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/nabeshima-soudou/
  11. 秀林寺 猫塚 - “鍋島の化け猫騒動”ゆかりの地 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/saga/nekoduka.html
  12. 化け猫 日本の歴史 雑学の世界 https://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den178.htm
  13. 最 新 情 報 https://www.syoden.com/topics_syoden/syoden_topics.cgi?pg=25
  14. 葉隠とその教え - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2247&cityId=2
  15. んだ翌年の享保十九年には二十九万に減り、比率では二十パーセントの人が飢饉の犠牲となったのであ - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34621_20121227052909.pdf