最終更新日 2025-10-23

長宗我部元親
 ~母の短刀握り男子の誉れと叫ぶ~

長宗我部元親の初陣「長浜の戦い」における『母の短刀』逸話は創作の可能性が高い。史実では冷静な判断力と大胆な行動で「鬼若子」と称された。

長宗我部元親、初陣の真実:『母の短刀』伝説と『鬼若子』誕生の時系列的再構築

序章:逸話の探求へ

戦国の世、土佐の片田舎から身を起こし、一時は四国全土をその手中に収めんと猛威を振るった風雲児、長宗我部元親。その生涯は数多の逸話に彩られているが、中でも彼の劇的な出発点を象徴するものとして、一つの物語が語られることがある。『初陣に臨む前、母より授かりし短刀を固く握りしめ、「男子の誉れ、ここにあり」と己を鼓舞し、戦場へと赴いた』という逸話である。この情景は、臆病とさえ見なされた青年が、武士としての覚悟を定め、英雄へと変貌を遂げる感動的な瞬間として、多くの人々の心に刻まれてきた。

しかし、この鮮烈な逸話は、果たして歴史の真実を映すものなのであろうか。本報告書は、この一点の逸話に焦点を絞り、その源流を徹底的に探ることを目的とする。まず、現存する主要な歴史資料を精査し、この『母の短刀』伝説の真偽を検証する。

その上で、本報告書は第二の目的へと進む。それは、史料が雄弁に物語る、元親の初陣「長浜の戦い」の真実の姿を、利用者の要望である「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」が「時系列でわかる形」で、可能な限り詳細に再構築することである。そこから見えてくるのは、創作された情緒的な英雄像とは一線を画す、冷静な合理性と内に秘めたる激情を併せ持つ、生身の人間・長宗我部元親の実像である。

創作された英雄譚と、史実から浮かび上がる複雑な人間像。この二つを対比し、その相克と融合の中に、長宗我部元親という武将の非凡さの本質、そして彼が四国の覇者へと駆け上がっていく、その原動力の源泉を探求していく。

第一部:提示された逸話の源流を探る

1-1. 『母の短刀』と『男子の誉れ』:史料上の検証

長宗我部元親の人物像を伝える上で、最も重要な一次史料に近い軍記物語として、家臣であった高島正重が著したとされる『元親記』と、江戸時代に成立した『土佐物語』が挙げられる 1 。これらの書物は、元親の初陣である「長浜の戦い」について、後述する家臣との詳細な問答を含む、具体的な記述を残している 3

しかしながら、提供された全96件のリサーチ資料を横断的に精査した結果、利用者が提示した『母の短刀を握り「男子の誉れここにあり」と叫んだ』という逸話、あるいはそれに類する記述は、これらの主要史料をはじめ、いかなる学術的資料の中にも一切確認されなかった。

この「不在の証明」は、単なる記録漏れとは考え難い。なぜなら、この逸話は英雄の誕生譚として極めて象徴的かつ記憶に残りやすい要素で構成されているからである。「母の短刀」は、それまで庇護される存在であった青年が、母性的な世界と決別し、武士としての自己を確立する精神的な通過儀礼を象徴する。そして「男子の誉れ」という言葉は、死をも恐れぬ覚悟を端的に示す、非常に劇的な台詞である。このような感動的なエピソードが史実であったならば、元親を英雄として描く傾向のある後代の軍記物語が、これを見逃したり、記録から削除したりするとは到底考えられない。

むしろ、この逸話は、英雄の物語にしばしば見られる典型的なモチーフ、すなわち「象徴的なアイテム」と「決意を示す言葉」によって構成された、ある種「出来すぎた」物語であると言える。史料に残る「槍の突き様を知らぬ」という逸話が、英雄らしからぬ未熟さや人間味を感じさせるのとは対照的である。この対比は、前者が英雄像をより単純で分かりやすい形に脚色しようとする後世の創作意図によって生み出されたものであり、後者がより事実に近い、複雑な人間性を伝える記録であることを強く示唆している。

1-2. 逸話の成立背景に関する考察

では、この『母の短刀』の逸話は、いつ、どのようにして生まれたのであろうか。その直接的な出典を特定することは困難であるが、その成立背景については、いくつかの可能性が考えられる。

最も有力な仮説は、明治から大正期にかけて大衆的人気を博した「立川文庫」に代表される講談本や、それ以降の歴史小説、さらには現代のゲームや漫画といった大衆文化のメディアの中で創作されたというものである 4 。これらの創作物では、歴史上の人物が「物語の登場人物(キャラクター)」として、より読者やプレイヤーに分かりやすく、感情移入しやすいように脚色されることが常である 7

長宗我部元親の生涯における最大のドラマは、周囲から「姫若子」と揶揄されるほど頼りない青年が、初陣を境に「鬼若子」と恐れられる勇将へと劇的な変貌を遂げた点にある 8 。物語を創作する上で、「なぜ彼はそれほどまでに変わることができたのか?」という内面的な動機付けは、極めて重要な要素となる。『母の短刀』の逸話は、この問いに対する、非常に情緒的で分かりやすい「答え」として機能する。内向的な青年が、母という最も近しい存在の象徴(短刀)を握りしめることで覚悟を決め、男性的な原理が支配する世界(戦場)へと踏み出していくという構図は、物語として非常に魅力的であり、多くの人々の共感を呼ぶ。

つまり、この逸話は、史実が示す「姫若子から鬼若子へ」という劇的な変化の背景にある心理的なプロセスを、より視覚的で感動的なシーンとして補完するために創造された産物である可能性が高い。史実の「槍の使い方を尋ねる」という逸話が示す合理性や冷静さよりも、創作された「母の短刀を握りしめて叫ぶ」という情念的な姿の方が、物語としてはキャッチーである。そのため、講談や小説を通じて広く流布し、いつしか史実であるかのように人々の間に浸透していったと考えられるのである。

第二部:史料に基づく初陣「長浜の戦い」の時系列的再構築

『母の短刀』の逸話が後世の創作である可能性が高いと結論付けた上で、本章では、史料が詳細に語る長宗我部元親の初陣、「長浜の戦い」の真実の姿を時系列に沿って再構築する。そこに浮かび上がるのは、創作された英雄像とは異なる、より複雑で深遠な人間・元親の姿である。

2-1. 開戦前夜:『姫若子』の憂鬱と土佐の情勢

永禄3年(1560年)5月、長宗我部元親は22歳(数え年では23歳とも)になっていた 9 。天文8年(1539年)に土佐岡豊城主・長宗我部国親の嫡男として生を受けた彼は、少年時代、際立って異質な存在であった 12 。史料は彼を「色白で物静か」「華奢な体つき」と描写し、その内向的な性格から、家臣や領民から侮りを込めて「姫若子(ひめわこ)」、すなわち「お姫様のような若君」と揶揄されていた 1

このあだ名は、単に容姿や性格が女性的であったことを指すだけではない。それは、当時の武士社会が理想とする価値観からの逸脱を意味していた。戦国時代の武家の嫡男は、早ければ13歳、遅くとも17歳頃までには元服し、初陣を飾るのが通例であった 15 。しかし元親の初陣は、弟の親貞と同時であり、22歳という年齢は際立って遅いものであった 8 。父・国親ですら、その武将としての器量を危ぶみ、「あんな様子では、すぐに討死しかねん」と周囲に漏らすほどであったと伝わる 12

この個人的な資質への不安に加え、長宗我部家を取り巻く情勢もまた、元親に重くのしかかっていた。元親の祖父・兼序の代、長宗我部氏は宿敵である本山氏ら近隣豪族の連合軍によって本拠・岡豊城を追われ、一時滅亡の寸前にまで追い込まれていた 8 。父・国親が土佐の名門・一条氏の後ろ盾を得て家を再興して以降も、土佐中部で最大の勢力を誇る本山氏との緊張関係は続いていた 23 。一時は国親の娘が本山氏当主・茂辰に嫁ぐという政略結婚によって和平が保たれたが、それは水面下で勢力拡大を続ける両者の、束の間の休戦に過ぎなかった 25

家臣団からは冷ややかな視線を浴び、一族の存亡をかけた宿敵との対決が目前に迫る。元親が初陣に臨むまでの約22年間は、このような二重のプレッシャーに晒された、いわば長い「溜め」の期間であった。しかし、この「姫若子」という評価は、彼の本質の一面しか捉えていなかったのかもしれない。彼はただ軟弱なのではなく、行動よりも思索を重んじる内向的で合理的な性格の持ち主であった。無駄口を叩かず、書庫に籠って『孫子』などの兵法書を読みふけっていたともいう 6 。その思索的な性格こそが、初陣という極限状況において、後に彼が見せる驚くべき冷静さと大胆不敵な行動の源泉となるのである。

2-2. 決戦当日:若宮八幡宮から戸ノ本へ

永禄3年(1560年)5月、ついに両者の緊張は限界に達する。本山方が浦戸湾で長宗我部方の兵糧船を襲撃したことをきっかけに、本格的な武力衝突が始まった 8

この戦いは、単なる偶発的な遭遇戦ではなかった。父・国親は周到な計画を巡らせていた。まず、譜代の家臣で大工仕事に精通する福富右馬丞という者を意図的に牢人として追放し、敵である本山方の長浜城に潜り込ませていた 4 。そして5月26日の夜半、国親・元親父子は兵約1,000を率いて小舟に分乗し、夜陰に乗じて長浜城へ奇襲をかける。内部から福富右馬丞が城門を開ける手引きをし、不意を突かれた城兵は混乱、城主の大窪美作守は逃走し、長浜城は一夜にして長宗我部方の手に落ちた 4

国親の狙いは、この長浜城を餌に、本山氏の主力を平野部におびき出し、これを撃破することにあった。予言通り、翌5月27日、長浜城落城の報を受けた本山茂辰は、激怒して約2,000から2,500と号する大軍を率い、城の奪還に向けて出撃した 4 。対する長宗我部軍は約1,000。兵力では倍以上の差があり、長宗我部方にとっては極めて危険な賭けであった 11

長宗我部軍は、決戦に先立ち、長浜にある若宮八幡宮に陣を敷き、戦勝を祈願したと伝わる 10 。そして、両軍は長浜の戸ノ本(とのもと)と呼ばれる地で、ついに激突することになる 4 。土佐の覇権をかけた、運命の一日が始まろうとしていた。

2-3. 戦陣での対話:元親と秦泉寺豊後

両軍が対峙し、まさに戦端が開かれようとするその時、長宗我部軍の本陣で、家臣たちが耳を疑うような光景が繰り広げられた。『土佐物語』や『元親記』が伝える、長宗我部元親と老臣・秦泉寺豊後(じんぜんじ ぶんご)との有名な問答である。

多くの兵が武者震いし、死を覚悟する緊迫した状況の中、元親はさしたる緊張の色も見せず、豊後を呼び寄せ、静かに問いかけた。

元親: 「豊後よ。武士の本分たるこの戦で死ぬことについては、何の異存もない。父上のためならば、敵と相討ちになることも本望だ。だが、一つ問題がある。わしは、いまだ槍の突き様を知らぬ。どうか、教えてはくれぬか」 15

戦場での心得ではなく、武器の基本的な使い方を尋ねるという、大将にあるまじきこの問いに、豊後は呆れ、あるいは眩暈を覚えたかもしれない。しかし、彼は主君の真摯な眼差しに応え、即席の指南を始めた。

豊後: 「若殿、よろしいか。まず両の手で槍を固く構えられよ。そして、敵の目と鼻を突く、その心持ちで突くのでございます」 3

元親: 「目か。なるほど。しかし、目は小さい。もし外した場合はどうする」 15

豊後: 「必ずしも目に当てる必要はございません。その辺りを狙う心持ちで突けば、自ずと体のどこかには当たるものにございます」 15

技術的な質問を終えた元親は、続けて戦術的な問いを発した。

元親: 「さて、もう一つ聞きたい。大将たる者は、真っ先に敵陣へ駆けるべきか、あるいは後から行くべきであろうか」 15

豊後: 「大将は、軽々しく先駆けもせず、さりとて臆して逃げもしないもの(大将ハ不懸不迯物也)。どっしりと構えておればよろしいのです」 3

元親: 「うむ。よく解ったぞ」 15

この一連の対話は、元親という人物の特異な知性を浮き彫りにしている。彼は初陣の興奮や死の恐怖といった感情に支配されることなく、極めて冷静に、自らが直面する問題を①「技術的課題(槍術)」と②「戦術的課題(将帥としての立ち振る舞い)」に分解し、それぞれについて専門家(豊後)から具体的な情報を引き出している。これは、彼が単なる臆病者や世間知らずなのではなく、未知の事態に対して、まず情報を収集し、合理的に対処しようとする、優れた指揮官としての素質をこの時点で既に備えていたことを物語っている。

2-4. 初陣の武功:『鬼若子』の誕生

戦闘は午前8時頃に始まり、午後1時頃まで続いたとされる激戦であった 4 。兵力で劣る長宗我部軍は次第に押され、戦況は不利に傾いていった。『土佐物語』は「両陣過半滅びて、死人戦場に充ち満てり」とその凄惨さを記しており、長宗我部軍は崩壊寸前にまで追い詰められた 4

その時、誰もが予想しなかった行動に出たのが、他ならぬ元親であった。秦泉寺豊後から「大将は動かぬもの」と教えられたばかりの彼が、自ら50騎ほどの精鋭を率いて、敵陣の最も厚い場所へと突撃を敢行したのである 8

その槍捌きは、まさに豊後の教えそのものであった。襲いかかる敵兵に対し、元親は巧みに槍を振るい、次々と2人を突き殺し、さらに太刀を抜いて1人を斬り伏せた 4 。これまで「姫若子」と侮っていた若君の、鬼神の如き奮戦を目の当たりにした味方の兵たちは、驚きと共に奮い立った。「若君を死なすな!」という絶叫が戦場に響き渡り、崩れかけていた長宗我部軍の士気は爆発的に高まった 4 。これを機に反撃に転じた長宗我部軍は、数に勝る本山軍を押し返し、ついに浦戸方面へと敗走させることに成功したのである 8

この獅子奮迅の活躍は、元親の評価を180度転換させた。侮りを込めて呼ばれた「姫若子」というあだ名は消え去り、人々は畏敬の念を込めて、彼を「鬼若子(おにわこ)」と呼ぶようになった 3

元親の行動は、豊後の教えを単に無視した無謀なものではない。彼は、教えを二つの次元で理解し、実行したと解釈できる。第一に、槍の使い方という「技術」レベルでは、教えを忠実に守り、具体的な戦果を上げた。第二に、大将の心得という「戦術」レベルでは、教えの「本質」、すなわち「軽率な行動で命を落としてはならない」という点を理解した上で、現状の劣勢を覆すためには「大将自身が範を示す」という、より高次の戦術的判断を下し、あえて「型」を破ったのである。原則を守って後方にいても敗北は必至であると判断し、自らの命を危険に晒すリスクを冒してでも、戦局を覆すという最大の目的を達成するために、原則を「超越」する決断を下した。これは、単なる血気にはやる勇猛さではなく、極めて高度な戦略的思考の現れであったと言えよう。

第三部:逸話の比較分析と歴史的意義

3-1. 二つの初陣像:創作と史実の対比

ここまで見てきたように、長宗我部元親の初陣を巡っては、二つの異なる物語が存在する。一つは利用者が提示した『母の短刀』の逸話であり、もう一つは史料に基づく『秦泉寺豊後との問答』の逸話である。両者は、元親の人物像を全く異なる角度から描き出している。

前者が描くのは、母の形見を握りしめ、精神的な覚悟を叫ぶことで己を奮い立たせる、情緒的で精神論的な英雄像である。一方、後者が示すのは、目前の課題を冷静に分析し、専門家に教えを乞い、学んだ知識を基盤としながらも、状況に応じて大胆な決断を下す、合理的で実務的ながら内に秘めた闘志を持つ将の姿である。

両者の違いを明確にするため、以下の表にその特徴を整理する。

項目

利用者提示の逸話(創作の可能性)

史料に基づく逸話(史実)

象徴的な物品

母の短刀

自らの槍

キーパーソン

母(不在の存在)

家臣・秦泉寺豊後

発せられた言葉

「男子の誉れここにあり」(情緒的・決意的)

「槍の突き様を教えよ」(冷静・実務的)

示される人物像

情念に駆られ変貌する若武者

未知を学び、状況判断で型を破る合理的な将

主な典拠

不明(後世の講談や小説か)

『元親記』『土佐物語』 1

この比較から明らかになるのは、史実が伝える元親像の方が、後の四国統一という大事業を成し遂げる人物の器量を、より深く示しているという点である。戦国の世を勝ち抜くために必要なのは、情緒的な覚悟だけではない。現状を客観的に分析する冷静さ、未知の技術を学ぶ謙虚さ、そして定石を覆してでも勝機を掴む決断力こそが不可欠である。『秦泉寺豊後との問答』の逸話は、元親がこれらの資質を初陣の時点で既に兼ね備えていた非凡な人物であったことを、何よりも雄弁に物語っている。

3-2. 初陣が持つ意味:長宗我部元親の出発点

長浜の戦いが長宗我部家の歴史、そして元親自身の運命にとって持つ意味は、単なる一戦の勝利に留まらない。この戦いのわずか一ヶ月後の永禄3年(1560年)6月、父・国親が病により急死し、元親は22歳で家督を継承することになる 3

もし、元親がこの初陣で「姫若子」の評価を覆せないまま、凡庸な結果しか残せなかったとしたら、どうなっていただろうか。父という絶対的な支柱を失った権力の空白期に、頼りない若殿が家臣団をまとめ上げ、宿敵・本山氏の攻勢に耐えることは極めて困難であったに違いない。長宗我部家は再び滅亡の危機に瀕していた可能性さえある。

その意味で、長浜の戦いは、元親にとって権力継承を正当化するための、完璧な「通過儀礼」として機能した。父・国親が周到な調略で用意した戦という「舞台」の上で、息子・元親が家臣団の期待を遥かに超える「主演」を務め上げたのである。この劇的な成功体験は、「姫若子」への不安を払拭し、家臣たちに「鬼若子」という新たなリーダーへの絶対的な信頼と心服を植え付けた。

この一戦で生まれた元親のカリスマ性は、父の死後も家中の動揺を最小限に抑え、一族を一致団結させて本山氏との長期にわたる抗争を継続する原動力となった 23 。そして、後に「一領具足」と呼ばれる、半農半兵の強力な軍団を率いて土佐統一、さらには四国制覇へと突き進んでいく長宗我部元親の、まさにその求心力の原点となったのである。この初陣は、一個人の成長物語であると同時に、長宗我部家が土佐の一豪族から戦国大名へと飛躍するための、決定的かつ不可逆な転換点であったと結論付けられる。

結語:史実の奥深さへ

本報告書は、長宗我部元親の初陣にまつわる『母の短刀を握り「男子の誉れここにあり」と叫んだ』という逸話の検証から始まった。調査の結果、この逸話は主要な史料には見られず、後世の創作である可能性が極めて高いことが明らかになった。それは、英雄の誕生をより分かりやすく、感動的に演出するために生み出された、魅力的な「物語」であった。

一方で、史料が伝える初陣の真実は、創作とは異なる、しかしそれ以上に深い人間的な魅力を放っている。家臣に槍の基本的な使い方を尋ねるという、一見すると頼りない姿。その裏に隠された、未知の事態に冷静に対処する合理性と、学んだ定石を理解した上で、戦況を覆すためにあえて型を破る大胆な決断力。この冷静と激情の同居こそが、長宗我部元親という武将の非凡さの本質であった。

創作された逸話は、我々に英雄への憧れを抱かせる。しかし、史実の探求は、その英雄像の向こう側にある、生身の人間の葛藤、逡巡、そして決断の軌跡を追体験させてくれる。長宗我部元親の初陣は、単純化された英雄譚よりも遥かに複雑で、示唆に富む人間ドラマであった。歴史の真実の奥深さは、まさにそこにあると言えよう。

引用文献

  1. 長宗我部元親の名言・逸話23選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/182
  2. 長宗我部元親|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1614
  3. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  4. 兵は詭道なり!家臣を心服させた姫若子の初陣~長宗我部元親の ... https://shuchi.php.co.jp/article/22?p=1
  5. 長宗我部元親が最も恐れた男を描くひと味もふた味も違う戦国小説 - 本の話 https://books.bunshun.jp/articles/-/2136
  6. 兵は詭道なり!家臣を心服させた姫若子の初陣~長宗我部元親の野望 | PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/22
  7. 長宗我部元親 - 株式会社 学陽書房 |「信頼」「斬新」「面白い」を実現する! https://www.gakuyo.co.jp/book/b175540.html
  8. 「長浜の戦い(1560年)」槍の突き方さえ知らなかった元親が初陣で大活躍! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/47
  9. 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
  10. 長曾我部元親像 - 高知県観光情報サイト こじゃんとネット https://www.kojyanto.net/kanko/motochika
  11. 「土佐の出来人」と呼ばれ、農兵“一領具足”を総動員して四国統一を果たした武将【長宗我部元親】とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/39447
  12. 長宗我部元親 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/motochika.html
  13. 長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか) 拙者の履歴書 Vol.10〜「姫若子」土佐から四国へ - note https://note.com/digitaljokers/n/na649e3c70b2f
  14. キャラクター紹介 - 姫若子の湯 https://www.himewako.jp/character/
  15. もう「姫若子」とは呼ばせない!初陣で覚醒した戦国大名・長宗我部元親の武勇伝 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/194830
  16. あの名将たちの初陣は何歳?どんな戦国武将でも経験する通過儀礼「初陣」を深堀り! - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/238239
  17. 優秀な武将は若いころから強かった!初陣で功を挙げた猛将4人! - 歴史ハック https://rekishi-hack.com/fierce-general/
  18. 初陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E9%99%A3
  19. 武家の男子の成人式「元服」。その作法、年齢は? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/168
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  21. 「長宗我部国親」没落した一族を再興させた元親の父 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/611
  22. 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
  23. 「本山氏攻め(1560-68年)」本山氏を降した長宗我部氏が土佐中部四郡にまで勢力を拡げる! https://sengoku-his.com/53
  24. 長宗我部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E6%B0%8F
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  27. その間長宗我部国親はまず永禄三年 - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/20/2019/muse/choshi/choshi011.pdf
  28. 長宗我部元親初陣の像 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/uijinnozou.html
  29. 土佐の「宝物」と長宗我部家の栄光<高知県>(2) - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/002460.html
  30. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/