最終更新日 2025-10-21

長宗我部盛親
 ~落城後も民に手を出さず、義に~

長宗我部盛親は落城後も再起を諦めず、家康暗殺を企図。民に手を出さず義に殉じた逸話は、将帥としての責務を貫いた彼の生涯を理想化したもの。

葦原の龍、六条河原に散る ― 長宗我部盛親、最後の七日間

序章:逸話の源流と本質 ―「潔白譚」の再定義

長宗我部盛親。四国の雄、長宗我部元親の四男にして、土佐の名門の最後の当主。彼の生涯は、関ヶ原の戦いでの改易、浪人としての雌伏、そして大坂の陣での再起と、波乱に満ちている。その最期を飾る逸話として、「落城後も民に手を出さず、義に殉じた潔白譚」が語り継がれてきた。これは、敗軍の将でありながら略奪に走ることなく、捕縛された後も武将としての矜持を失わず、堂々と死に赴いたという、彼の高潔な人格を伝える物語である。

しかし、この「潔白譚」を史料の光に照らして精査する時、その輪郭は新たな様相を呈し始める。徹底的な調査を経てもなお、盛親が潜伏・逃亡中に「民に手を出さなかった」ことを具体的に証明する直接的な記述は、江戸時代中期の逸話集『常山紀談』をはじめとする主要な史料群の中に見出すことは困難である 1 。この事実は、逸話の核心が、民への不加害という消極的な徳目にあるのではなく、むしろ別の次元に存在することを示唆している。

本報告書が解明を試みるのは、この逸話の本質そのものである。盛親の行動が、如何にして「潔白」や「義」として解釈され、後世に語り継がれる物語へと昇華されていったのか。その力学は、大坂城が燃え落ちた慶長二十年(1615年)五月八日から、彼が六条河原の露と消える五月十五日までの、わずか七日間の言動に凝縮されている。

彼の「義」とは、民を慮る心根以上に、最後まで再起を諦めず、勝利を希求し続けるという、将帥としての積極的な責務であった。本報告書は、この仮説に基づき、盛親最後の七日間の足跡を厳密な時系列に沿って再構築する。落城の喧騒、潜伏先の静寂、捕縛の瞬間、そして尋問における対峙。それらの情景を克明に描き出すことで、「潔白譚」が形成された真の要因を解き明かすことを目的とする。

以下に、本報告書で詳述する盛親最後の七日間の行程を概観する。

日付(慶長二十年)

盛親の行動・状況

関連する場所

典拠となる主要史料・伝承

五月八日

大坂城落城。多くの将が討死・自決する中、再起を期して城を脱出。

大坂城

『常山紀談』の思想的背景、各種戦記物 2

五月九日~十日

京街道を北上し、山城国八幡に到着。石清水八幡宮麓、科手の民家(T家)に潜伏を開始。

山城国八幡・科手

T家伝承、八幡市地域の伝承 4

五月十一日

食料調達の際に小判を使用し露見。餅屋の密告を受け、蜂須賀家臣により葦原にて捕縛。

八幡・橋本付近の葦原

『常山紀談』の逸話、T家伝承、各種記録 4

五月十二日~十四日

二条城へ連行。板倉勝重らによる尋問を受ける。「一方の大将たる身…」等の言葉を語る。

二条城

『常山紀談』 1

五月十五日

市中引き回しの後、六条河原にて斬首(享年41)。遺骸は蓮光寺に葬られる。

六条河原、蓮光寺

各種年代記、蓮光寺の記録 1

第一章:落日の大坂城 ― 慶長二十年五月八日、最後の抗戦と脱出

慶長二十年五月、大坂夏の陣は最終局面を迎えていた。豊臣方の命運は、風前の灯火となっていた。この絶望的な状況下で、長宗我部盛親は最後の輝きを放つ。

八尾・若江の戦いにおける奮戦

五月六日未明、盛親率いる五千余の長宗我部隊は、徳川家康の本陣を突くべく、木村重成らと共に出陣した 1 。彼らが向かった八尾・若江方面で待ち受けていたのは、徳川方の猛将・藤堂高虎の軍勢であった 8

戦端が開かれると、長宗我部隊の先鋒・吉田重親が藤堂隊と激突 1 。一時は藤堂隊の先陣を突き崩し、その猛攻に浮き足立たせるほどの奮戦を見せた 9 。関ヶ原の戦いでは、毛利勢に阻まれ戦うことすらできずに終わった盛親にとって、この戦いは失われた名誉を回復し、長宗我部家の武威を天下に示す絶好の機会であった 9 。しかし、戦況は非情であった。徳川方の別動隊である井伊直孝の軍勢が側面に回り込み、長宗我部隊を強襲したのである 1 。側面を突かれた盛親は苦戦に陥り、奮戦も虚しく、大坂城への退却を余儀なくされた 9

この八尾での惜敗は、盛親の心に深い刻印を残したに違いない。あと一歩で敵将の首級を挙げられたかもしれないという手応えは、完全な敗北感よりも、むしろ「次こそは」という再戦への渇望を掻き立てた可能性がある。この経験こそが、二日後に訪れる運命の選択に、決定的な影響を与えることになる。

落城と「戦略的撤退」という選択

五月八日、徳川方の総攻撃により、大坂城は燃え盛る炎に包まれた 2 。城内では、真田信繁(幸村)をはじめとする名だたる将たちが、豊臣家への忠義を胸に、壮絶な討死を遂げていく 11 。武士の本懐は、主君と運命を共にし、潔く自刃するか、あるいは敵陣に切り込み華々しく散ることにあった。

しかし、盛親はその道を選ばなかった。彼は、燃え盛る城を背に、戦場からの離脱を決意する 3 。これは、単なる臆病からの逃亡ではなかった。彼の胸中には、後に尋問の場で語ることになる、将帥としての一貫した哲学が存在していた。すなわち、「一方の大将たる身が、葉武者(はむしゃ)のごとく軽々と討死すべきではない」という思想である 1

彼にとっての「義」とは、死に場所を選ぶことではなく、生き延びてでも勝利の機会を窺い、一軍を率いる将としての責任を全うすることにあった。八尾での戦いの手応えが、彼に「戦いはまだ終わっていない」という確信を抱かせた。他の将が玉砕を選ぶ中での脱出は、彼の中では、次なる戦いへの「戦略的撤退」として明確に位置づけられていたのである。この決断こそが、彼の名を後世に伝える逸話の、全ての始まりであった。

第二章:葦原の潜龍 ― 五月九日~十一日、八幡での潜伏と再起への執念

燃え落ちる大坂城を脱出した盛親の足は、京を目指した。しかし、その目的は都での安穏な暮らしではなかった。彼の行動は、敗残者の逃避行ではなく、最後まで勝利を諦めない武将の、執念に満ちた戦争の継続であった。

潜伏の地、八幡

京街道を北上した盛親が潜伏先に選んだのは、山城国の八幡であった 4 。この地が選ばれたのには、複数の理由が考えられる。一つは、精神的な拠り所としての意味合いである。八幡に鎮座する石清水八幡宮は、古来より武神として崇敬を集めてきた。再起を誓う盛親が、その神威に一縷の望みを託したとしても不思議ではない 5

さらに現実的な理由として、八幡宮に仕える神人(じにん)との繋がりがあった可能性も指摘されている 5 。神人は独自のネットワークを持ち、聖域における治外法権的な特権を有していた。彼らの協力を得られれば、追手の目を逃れる上で大きな助けとなったであろう。

そして何よりも、八幡は軍事戦略的な要衝であった。木津川、宇治川、桂川の三川が合流するこの地は、京都と大坂を結ぶ交通の結節点であり、徳川軍が戦勝報告のために京都へ向かう際に通過する可能性が極めて高い場所であった。盛親の潜伏は、守りの姿勢ではなく、次なる一手を打つための、攻めの布陣だったのである。

科手の民家と最後の策謀

具体的な潜伏先として、石清水八幡宮の麓、科手(こうで)という集落にあった一軒の民家(伝承ではT家)が伝えられている 5 。この家の一部は、慶長年間当時の姿を今に留めており、盛親が寝起きしたとされる二部屋や、密かに外の様子を窺うための出窓が残されているという 5

この潜伏先で、盛親はただ息を潜めていたわけではなかった。T家に残る言い伝えによれば、彼は大胆不敵な最後の策謀を練っていた。それは、眼前に広がる木津川河畔の葦原に、生き残った僅かな家来を潜ませ、そこを通過するであろう徳川家康の本隊に奇襲をかけるというものであった 5 。一矢報いるための玉砕覚悟の突撃ではない。狙うはただ一つ、敵の総大将である家康の首。それさえ挙げれば、混沌とした天下の形勢を再び覆すことも不可能ではない。

この家康暗殺計画は、盛親の不屈の闘志を何よりも雄弁に物語っている。彼は捕縛されるその瞬間まで、一人の武将として思考し、行動し続けていた。大名としての地位も、領地も、軍勢も失った。しかし、彼の心の中では、戦争はまだ終わっていなかったのである。この一貫した姿勢こそが、彼の人物像に強烈な説得力を与え、後の逸話の根幹を形成していく。

第三章:一枚の小判 ― 五月十一日、密告と捕縛の瞬間

壮大な再起の夢も、それを支える兵站、すなわち食料がなければ画餅に過ぎない。大名から一介の浪人へと転落した盛親の現実は、極めて過酷であった。そして、英雄の悲劇的な転落は、しばしば些細な、しかし人間的な弱さから引き起こされる。

露見の引き金

潜伏生活が数日に及ぶ頃、盛親と僅かな供回りの手元から食料が尽きた 4 。空腹は、いかなる屈強な武将の精神力をも蝕む。食料を調達するため、盛親は苦渋の決断を下す。所持していた軍資金の中から、一枚の小判を使用することにしたのである 4

これは、致命的な判断ミスであった。当時、大坂城の落人狩りは厳戒態勢で進められており、見慣れぬ者が不審な行動を取れば、すぐに通報される状況にあった。そのような中で、庶民が日常の買い物に高額貨幣である小判を使うことは、極めて不自然であり、自らの素性を喧伝するに等しい行為であった。この一枚の小判が、彼の運命の歯車を狂わせる引き金となった。

密告と捕縛の情景

地域の伝承によれば、盛親の供の者が小判を使ったことで不審に思った近隣の者が、当局に密告したとされる。具体的には、盛親が潜伏していたT家の西隣にあった井筒屋という餅屋がその役目を果たしたと伝えられている 5

報せは直ちに徳川方の捜索網に伝わった。慶長二十年五月十一日、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の家臣である長坂三郎左衛門らが、現場へと急行する 5 。捜索の網は急速に狭まり、盛親はついに橋本付近の葦原に追い詰められた 4

かつて父・元親と共に四国を席巻し、数日前には大軍を率いて藤堂高虎と渡り合った名将が、今は身を隠す葦の葉叢の中で、息を殺している。しかし、再起の夢も、家康暗殺の策謀も、もはや尽きた。抵抗する間もなく、盛親は蜂須賀の兵によって捕縛された 4 。壮大な夢が、空腹という生理的欲求と、それに伴う日常的な経済行為によって潰える。この強烈な皮肉と哀愁に満ちた幕切れは、彼の物語の悲劇性を一層深化させている。

第四章:『常山紀談』に見る最後の対峙 ― 五月十二日~十四日、潔白と義の真意

捕らえられた盛親は、京都の二条城へと連行された 1 。そこで待っていたのは、京都所司代・板倉勝重らによる尋問であった 6 。この尋問の場で交わされた言葉こそが、本逸話の核心であり、盛親が抱き続けた「義」の本質を、後世に鮮烈に伝えることになる。その様子は、江戸中期の逸話集『常山紀談』に克明に記録されている 1

尋問の舞台と価値観の衝突

二条城の白州。縄で縛られ、引き据えられた盛親に対し、尋問者たちは当時の武士の美学に根差した問いを投げかける。徳川秀忠の側近の一人が、彼に尋ねた。

「何故、潔く自害しなかったのか」 1

この問いは、敗軍の将は主君に殉じるか、あるいは名誉ある死を選ぶべきであるという、当時の支配的な価値観を代弁するものであった。死の美学こそが、武士の名誉を保つ最後の砦と考えられていたのである。

しかし、盛親の答えは、その価値観を根底から覆すものであった。彼は、尋問者の目を真っ直ぐに見据え、堂々と答えた。

「一方の大将たる身が、葉武者(はむしゃ)のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」 1

この言葉は、彼の思想の核心を突いている。「葉武者」、すなわち一兵卒と、全軍の命運を預かる「大将」とでは、その死の意味も、果たすべき責任も全く異なると、盛親は断言したのだ。彼のプライドは、個人の武勇や潔さではなく、組織を率いて勝利を目指すという、指揮官としての職能意識に深く根差していた。彼にとっての恥とは敗れることであり、それを雪ぐ方法は、死ではなく、次の勝利によってのみもたらされる。彼の「義」は、死の美学ではなく、あくまで「生の戦略」の中にあった。

不屈の精神の表明

さらに盛親は、尋問のさなか、戒めのために固く縛られた自らの両手を見つめ、こう言い放ったと伝えられる。

「命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」 1

これは、単なる敗者の負け惜しみではない。八幡での潜伏中、彼が本気で家康暗殺を企てていたことを考えれば、この言葉は彼の偽らざる本心であったことがわかる。捕縛されるその瞬間まで、彼の頭脳は勝利のための算段を巡らせ続けていた。その不屈の精神と、将帥としての自負が、この短い言葉に凝縮されている。

この尋問における一連の言動は、盛親の行動原理を解き明かす鍵である。彼が殉じようとした「義」とは、豊臣家への忠義という側面もさることながら、それ以上に、彼自身が信じる「将帥道」というプロフェッショナリズムそのものであった。敗北を潔しとせず、泥水をすすってでも生き延び、勝利の機会を追求し続けること。それこそが、彼が自らに課した、将としての唯一絶対の責務であった。この孤高の信念が、彼の最期を単なる敗残者の死から、一つの思想に殉じた者の物語へと昇華させたのである。

五章:六条河原の露 ― 五月十五日、名門長宗我部家の終焉

二条城での尋問を終えた盛親に下された沙汰は、斬首であった。彼の堂々たる態度は、徳川方にとって、生かしておくにはあまりに危険な存在と映ったのかもしれない。

最後の道程と処刑

慶長二十年五月十五日、長宗我部盛親の最期の日が訪れた。彼はまず、二条城の門外の柵に縛り付けられ、見せしめとして衆目に晒された 1 。その後、罪人として京都の市中を引き回された上、処刑場である六条河原へと連行された 1

六条河原は、古来より多くの罪人がその命を落としてきた場所である 7 。鴨川の河原に設けられた刑場で、盛親は静かにその時を待った。彼が辞世の句を詠んだという記録は残されていない。彼の関心が、死に際の風流や自己憐憫ではなく、あくまで生きて戦うことにあったことを、その沈黙は物語っているようでもある。

ついに時は満ち、盛親は首を打たれた。享年四十一 1 。ここに、土佐の戦国大名として一時代を築いた名門・長宗我部家の嫡流は、完全にその歴史を閉じた。

一族の末路と最後の慈悲

盛親一人の死では、徳川幕府の懸念は払拭されなかった。彼の息子たちもまた、父の罪に連座して捕らえられ、ことごとく処刑された 1 。これにより、長宗我部元親から続く直系の血筋は、未来永劫にわたって断絶したのである。

盛親の首は、三条河原に晒され、その武威も野心も、今は見る影もなかった 1 。しかし、その無残な亡骸に、最後の慈悲が差し伸べられる。処刑場の傍らにあった蓮光寺の僧が、京都所司代・板倉勝重に願い出て、盛親の遺骸の引き取りを許されたのである 1 。遺骸は同寺に手厚く葬られ、その墓は今なお、京都の街角にひっそりと佇んでいる 7

なお、一部の二次的な資料や伝承の中には、盛親が捕縛後や処刑直前に、見苦しく命乞いをしたかのような描写が見られることがある 17 。しかし、これは『常山紀談』に記された彼の毅然とした態度とは明らかに矛盾する。こうした相反するイメージの存在は、彼の劇的な最期が、後世の人々の強い関心を引き、様々に解釈され、あるいは脚色されていったことの証左と言えよう。歴史上の人物像とは、単一の史実からではなく、こうした多層的な語りの積み重ねの中で形成されていくものである。

結論:逸話の再検証 ― 「潔白譚」は如何にして生まれたか

長宗我部盛親、最後の七日間。その足跡を辿ることで、当初の問いであった「落城後も民に手を出さず、義に殉じた潔白譚」が如何にして生まれたか、その構造が明らかになる。

「潔白譚」の成立構造

この逸話の成立を支える要素は、複合的である。まず、前提として、①大坂夏の陣・八尾の戦いにおける彼の奮戦がある。これにより、彼は単なる敗軍の将ではなく、武勇に優れた悲劇の英雄という素地を得た。次に、②再起と家康暗殺という壮大な目的を掲げた潜伏生活が、彼の物語に不屈の精神という彩りを加える。そして、③一枚の小判という人間的な弱さに起因する捕縛が、物語に深い哀愁と共感を呼び起こす。

しかし、これらの出来事を一つの高潔な物語として結びつけ、昇華させた触媒こそが、④二条城での尋問における堂々たる言明であった。「一方の大将たる身が…」という彼の言葉は、それまでの全ての行動、すなわち自決を選ばなかったことも、潜伏したことも、全てが彼独自の「義」―将帥としての責務―に基づいていたことを後世に証明した。この強烈な思想的バックボーンが与えられたことで、彼の敗走記は「潔白譚」へと昇華されたのである。そして、⑤六条河原での悲劇的な最期が、この物語を人々の記憶に永遠に刻み込むこととなった。

「民に手を出さず」と「義に殉じた」の真意

この構造を理解する時、逸話の各要素の真意も見えてくる。

「民に手を出さず」という要素は、史料に直接的な記述がない以上、彼の高潔な最期から逆算して付与された、後世の理想化されたイメージであると結論付けられる。敗軍の将が略奪や狼藉を働いたという記録がないという「事実の不在」が、時を経て、民を積極的に思いやったという「美徳の存在」へと物語の中で転化していったと考えられる。彼の毅然とした最期が、「このような高潔な人物が、民を苦しめるような卑しい行いをするはずがない」という人々の願望を呼び起こし、物語の一部として定着したのである。

一方で、「義に殉じた」という言葉の核心は、より明確である。盛親が殉じた「義」とは、主君への忠義や、死の美学ではなかった。それは、あくまで「生き抜いて戦い続け、勝利を追求する」という、彼が自らに課した将帥としての職責そのものであった。彼は、自らのプロフェッショナリズムに殉じたのである。

長宗我部盛親の逸話は、史実の断片が、後世の人々の価値観や共感と結びつき、理想化されることで形成された、歴史物語の典型例と言える。その物語の核心には、ただひたすらに、敗北を認めず、最後の瞬間まで勝利を信じ続けた一人の武将の、孤高で純粋な執念が存在している。その執念こそが、時代を超えて人々の心を打ち、彼を単なる敗将ではなく、「義」に生きた武将として記憶させているのである。

引用文献

  1. 長宗我部盛親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E7%9B%9B%E8%A6%AA
  2. 長宗我部元親 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/cyosokabe.html
  3. 長宗我部盛親 牢人にまで転落した戦国大名、一発逆転を狙うも夢破れる - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v3cJsMqfld8
  4. 武将印紹介30 「長宗我部盛親」(墨将印) - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/3675
  5. 長宗我部盛親が潜んだ家 15号 - 八幡の歴史を探究する会 https://yrekitan.exblog.jp/21402416/
  6. SI039 長曽我部盛親公埋首地 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si039.html
  7. 六条河原 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9D%A1%E6%B2%B3%E5%8E%9F
  8. 長宗我部盛親|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=183
  9. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  10. 最後の当主・長宗我部盛親はなぜすべてを失ったのか?…関ヶ原から大坂の陣へ、名家の終焉 https://sengoku-his.com/614
  11. 長宗我部盛親で考える ~最後まで勝ちへの執念を持ち続けるには~|吉祥旦(きったん) - note https://note.com/nqh07729/n/n7bcf8094b4ab
  12. 長宗我部盛親 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/CyousokabeMorichika.html
  13. 長宗我部盛親(チョウソカベモリチカ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E7%9B%9B%E8%A6%AA-98064
  14. 長宗我部元親(長宗我部元親と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/51/
  15. 一人の戦国武将の死が、その後の四国の運命を変えた? < 長宗我部信親公墓所 / 高知市 > - コトバス https://www.kotobus-express.jp/column/2018/10/post-72.html
  16. 家康との一戦へ駆り立てた長宗我部盛親の「焦燥」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28534
  17. 【漫画】長宗我部盛親の生涯~長宗我部家、最後の当主~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=DlSo7xEtxJk
  18. 【滅亡】長宗我部家が辿った結末… #歴史漫画 - YouTube https://www.youtube.com/shorts/LkrmaG9hbl0