長束正家
~算盤握り戦もまた勘定皮肉譚~
豊臣政権の財政を担った長束正家。関ヶ原で算盤を握った逸話の真偽を検証し、計算を超えた人間の裏切りに直面した彼の悲劇的な生涯を考察する。
勘定の果て ― 関ヶ原南宮山における長束正家の真実と、算盤を握る皮肉譚の誕生
序章:語られし「皮肉譚」の提起
日本の戦国時代、その終焉を告げる天下分け目の決戦、関ヶ原の戦い。この戦場において、一人の武将にまつわる極めて象徴的な逸話が語り継がれている。豊臣政権下で随一の算術能力を誇り、五奉行の一人として財政を一手に担った長束正家(なつか まさいえ)。彼が関ヶ原の戦陣にあって算盤を握りしめ、「戦もまた勘定よ」と呟いたという皮肉譚である。
この情景は、彼の人物像を鮮烈に描き出す。刀槍が交錯し、血と怒号が渦巻く戦場の喧騒の中で、ただ一人、冷静に算盤を弾く官僚武将。その姿は、数字と論理の世界に生きた男が、非論理的な暴力の世界と対峙した際の究極の悲哀と皮肉を凝縮しているかのようである。この逸話は、長束正家という人物の本質を捉えたものとして、広く知られている。
しかし、この鮮烈なイメージは、果たして歴史的な事実なのであろうか。それとも、後世の人々が彼の生涯と関ヶ原での悲劇的な結末を重ね合わせ、創り上げた物語なのであろうか。本報告書は、この「算盤を握る皮肉譚」を徹底的に調査し、その核心に迫ることを目的とする。
そのために、本調査は二部構成で進められる。第一部では、逸話の舞台となった慶長五年(1600年)九月十五日の関ヶ原、特に長束正家が布陣した南宮山(なんぐうさん)での出来事を、信頼性の高い史料に基づき、リアルタイムで再構築する。彼の視点から、その日の期待、焦燥、絶望に至るまでの心理的変遷を時系列で追跡する。
続く第二部では、逸話そのものを解剖する。この物語が同時代の史料に存在しないことを確認した上で、ではなぜ、そしてどのようにして「算盤と勘定」の物語が誕生したのかを考察する。そこでは、南宮山での動かしがたい史実、長束正家という人物に付与された象徴的なパブリックイメージ、そして物語の生成を促した触媒の存在という、三つの要素が交錯する様を明らかにする。
この二つのアプローチを通じて、我々は逸話の真偽を超えた、より深い歴史の真実に到達することを目指す。それは、一人の有能なテクノクラートが、計算の及ばぬ人間の裏切りという巨大な不条理によっていかにして砕け散ったか、そしてその悲劇が、いかにして後世の記憶に刻まれる「物語」へと昇華されていったのか、という軌跡の解明である。
第一部:鉄枷の布陣 ― 慶長五年九月十五日、南宮山のリアルタイム再構築
長束正家が関ヶ原で体験した一日は、計算され尽くした計画が、予測不能な裏切りによって無残に崩壊していく過程そのものであった。彼の専門領域である兵站と算段が、全く意味をなさない状況へと追い込まれていく様を、時系列に沿って再構築する。
夜明け前 ― 計算通りの布陣と静かなる期待
慶長五年九月十五日の夜明け前、関ヶ原盆地を見下ろす南宮山の東麓には、長束正家率いる約1,500の兵が静かに布陣していた 1 。彼の陣は、西軍の戦術計画において極めて重要な位置を占めていた。山頂には西軍総大将・毛利輝元の名代である毛利秀元が本陣を構え、その周辺には安国寺恵瓊、長宗我部盛親といった大名が兵を連ねていた 3 。この総勢3万に及ぶ南宮山支隊は、徳川家康率いる東軍本隊の側面、あるいは背後を突く強力な遊撃部隊となるはずであった。
豊臣秀吉の下で九州平定や小田原征伐において兵糧奉行を務め、巨大な軍勢の補給と輸送を完璧に管理してきた正家にとって、この布陣はまさに計算通りであっただろう 5 。兵の配置、兵站線、攻撃開始の合図、全てが合理的に計画されている。彼の役割は、石田三成ら中央の部隊が東軍主力を引きつけている間に、この南宮山の大軍が計画通りに戦線へ投入されるよう連携を密にすることであった。
唯一の懸念は、南宮山から関ヶ原主戦場へ至る唯一の進軍路を、毛利軍の先鋒である吉川広家(きっかわ ひろいえ)の部隊が固めていることであった 2 。しかし、これも毛利本家の安全を確保するための戦術的な配置と理解されていた。この時点での正家の心境は、自らの計算と計画が現実のものとなる瞬間を待つ、緊張感を伴った静かな期待に満ちていたと推察される。
午前8時頃 ― 開戦の轟音と焦燥の序曲
午前8時頃、関ヶ原の霧が晴れ始めると同時に、静寂は破られた。東軍の井伊直政・松平忠吉隊が西軍の宇喜多秀家隊に発砲したのを皮切りに、両軍の主力部隊が激突。鉄砲の轟音と鬨の声が、数キロ離れた南宮山の麓にまで地響きを伴って届いた 7 。
この音は、南宮山の将兵にとって行動開始が近いことを告げる合図であった。主戦場が膠着状態に陥り、西軍が攻勢に転じる好機が訪れれば、笹尾山に陣取る石田三成から合図の狼煙が上がる手はずとなっていた。開戦の報を受け、正家は自軍の兵士たちに即応態勢を命じ、全ての準備が整っていることを確認したであろう。彼の思考は、これから始まるであろう側面攻撃のタイミング、兵の動かし方、そして勝利後の戦果の「勘定」にまで及んでいたかもしれない。期待は現実味を帯び、焦燥の序曲が静かに奏でられ始めていた。
午前10時頃 ― 狼煙、行動への渇望と最初の絶望
戦況が激しさを増す午前10時頃、ついにその時が来た。笹尾山から、黒い煙が一筋、天へと立ち上った。石田三成が南宮山の毛利勢と松尾山の小早川秀秋勢に出撃を促す、事前の取り決め通りの合図の狼煙(のろし)である 8 。
この狼煙に誰よりも早く気付き、即座に反応したのが長束正家であったと記録されている。「狼煙に真っ先に気付いたのは長束正家であった。彼は急いで攻撃体勢を整えて軍を進めるべく、使者を毛利秀元の元にも走らせて直ちに毛利勢の参戦をも促した」 8 。この記述は、正家が単なる傍観者ではなく、作戦計画を遂行しようと積極的に行動した、忠実な指揮官であったことを明確に示している。
彼の行動は、彼の経歴そのものを反映している。太閤検地や蔵入地の管理で示されたように、彼の本質は計画を立案し、それを寸分の狂いなく実行することにあった 9 。狼煙は、計算式の最後の変数を投入する合図に他ならなかった。彼は即座に自軍を動かす準備を整え、同時に総大将である毛利秀元にも行動を促す使者を送った。これは指揮官として当然かつ最善の行動であった。しかし、この迅速で論理的な行動が、南宮山に潜む巨大な不条理の壁に阻まれることになる。彼にとっての最初の絶望は、この瞬間に始まったのである。
午前11時頃 ―「宰相殿の空弁当」、繰り返される催促と動かぬ山
正家が派遣した使者は、山頂の毛利秀元本陣に駆けつけた。しかし、返ってきた答えは信じがたいものであった。秀元は、先鋒の吉川広家が進軍路を塞いで動かないために出撃できないと述べ、さらに刻一刻と戦況が変化する中で、正家や安国寺恵瓊からの度重なる催促に対し、「兵卒に兵糧を食させている最中なり(兵士たちに食事を取らせているところだ)」と返答して時間を稼いだのである 6 。
この逸話は、後に毛利秀元の官職(参議、唐名で宰相)にちなんで「宰相殿の空弁当」として世に知られ、戦意のなかった毛利勢を揶揄する言葉となった 6 。しかし、この言い訳は、他の誰よりも長束正家の心を深く抉ったはずである。彼の生涯は、兵糧の計算と管理に捧げられてきた。兵糧とは、兵士を戦わせるために供給するものであり、戦わないための口実に使うものでは断じてない。兵站の専門家である彼にとって、自らの専門領域が、作戦行動を妨害するための最も非論理的で侮辱的な言い訳として使われたのである。これは単なる作戦の遅延ではなく、彼の存在意義そのものへの冒涜に等しかった。
彼は、怒りと不信感を抱きながら、何度も使者を送ったであろう。しかし、現実は変わらない。吉川広家は徳川家康と内通し、毛利家安泰のために決して動かないという密約を交わしていた 2 。南宮山の3万の軍勢は、たった一人の武将の裏切りによって、物理的に進軍路を絶たれ、巨大な置物と化してしまった。山は、微動だにしなかった。
正午過ぎ ― 松尾山の裏切りと戦局崩壊の遠望
正家が南宮山で無為な時間を過ごしている間、主戦場の運命を決定づける出来事が起こる。正午過ぎ、徳川家康からの再三の催促と威嚇射撃を受け、松尾山に布陣していた小早川秀秋がついに西軍を裏切り、麓の大谷吉継隊に襲いかかった 6 。
これを合図に、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠といった西軍諸将が次々と東軍に寝返り、西軍の戦線は一気に崩壊を始めた。南宮山の麓から、正家はその光景を遠望することしかできなかった。個々の部隊の動きまでは判別できなくとも、西軍の旗指物が後退し、陣形が乱れ、戦いの流れが雪崩を打って東軍に傾いていく様は明らかであった。
これまで抱いていた焦燥と怒りは、もはや絶望と恐怖へと変わったであろう。戦は、今や「負け」へと向かって突き進んでいる。そして自分は、この豊臣家の命運を賭した決戦において、一兵も動かすことなく、ただその崩壊を眺めているだけの無力な傍観者でしかない。計算され尽くしたはずの勝利の方程式は、人間の裏切りという計算不能な変数によって、完全に破壊されたのである。
午後2時以降 ― 屈辱の撤退と最後の「勘定」
午後2時を過ぎる頃には、西軍の敗北は決定的となった。石田三成、宇喜多秀家、小西行長らの主力部隊は壊滅し、戦場から離脱していく。南宮山の軍勢も、もはや戦う意味を失い、戦わずして撤退を開始した 2 。
正家にとって、これは屈辱以外の何物でもなかった。彼は自らの居城である近江水口城へと退却する 1 。この混乱を極めた撤退行の最中にも、彼の本質を示す逸話が残されている。それは、同じく敗走する島津義弘の部隊を助けるため、道案内の家臣を派遣したというものである 5 。たとえ完全な敗北の中にあっても、彼の思考は最後まで兵の安全な移動という兵站管理者のそれであった。彼にとっての最後の「勘定」は、勝利の計算ではなく、いかにして兵を生き延びさせるかという生存の計算だったのである。
しかし、彼の運命はすでに定まっていた。水口城に戻った正家は、間もなく池田輝政ら東軍の追撃部隊に包囲される。もはやこれまでと覚悟を決めた正家は、九月三十日、城を開城し、自刃して果てた 1 。享年39。豊臣家の財政を支え続けた稀代の官僚は、その能力を一度も戦場で発揮することなく、生涯を閉じた。
南宮山における時系列行動表
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時刻 |
関ヶ原主戦場での主な動き |
南宮山陣営の状況 |
長束正家の心理状態推察 |
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夜明け前 |
両軍布陣完了。深い霧に包まれる。 |
毛利秀元、吉川広家、長束正家らが計画通りに布陣完了。 |
静かな期待 :計算通りの布陣に、計画の成功を確信。 |
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午前8時頃 |
井伊・松平隊の発砲により戦闘開始。宇喜多隊と福島隊が激突。 |
開戦の轟音を聞き、全軍が臨戦態勢に入る。 |
高揚と緊張 :合図を待ち、出撃のタイミングを計る。 |
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午前10時頃 |
戦況は一進一退。石田三成が合図の狼煙を上げる。 |
長束正家が狼煙を即座に認識し、毛利秀元へ出撃を促す使者を派遣。 |
行動への渇望 :計画実行の時来たり。迅速に行動を開始。 |
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午前11時頃 |
大谷吉継が小早川の動きを警戒しつつ奮戦。戦線は膠着。 |
正家らの使者が「空弁当」の言い訳で繰り返し追い返される。吉川広家は進軍路を固守。 |
焦燥と怒り :非論理的な言い訳に不信感が募り、裏切りを疑い始める。 |
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正午過ぎ |
小早川秀秋が西軍を裏切り大谷隊を攻撃。西軍の右翼が崩壊開始。 |
松尾山の裏切りを遠望。南宮山は依然として動けず。 |
絶望と無力感 :戦局の崩壊を目の当たりにしながら、何もできず傍観するしかない状況に絶望。 |
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午後2時以降 |
西軍の組織的抵抗が終わり、総崩れとなって敗走。 |
主力部隊の壊滅を受け、戦わずして撤退を開始。 |
屈辱と諦念 :戦に参加すらできずに敗北。屈辱の中、自らの運命を悟る。 |
第二部:逸話の解剖 ―「算盤と勘定」の物語はどこから来たのか
長束正家が関ヶ原で算盤を手にしていたという逸話は、第一部で再構築した史実の中には見出すことができない。では、この極めて印象的な物語は、どこから来たのであろうか。本章では、逸話の典拠を検証し、その不在を確認した上で、物語が生成されるに至ったメカニズムを解き明かす。
典拠の不在 ― 史料に見えぬ算盤の影
まず結論から述べれば、長束正家が関ヶ原の陣中で算盤を手にしていた、あるいは「戦もまた勘定」と述べたとする同時代の記録や、それに準ずる信頼性の高い一次史料は、現在のところ一切確認されていない。
江戸時代中期に成立した武将の逸話集の代表格である湯浅常山の『常山紀談』には、「長束正家の籠城」という逸話が収録されていることが確認できる 15 。しかし、これは関ヶ原の後の水口城での籠城戦に関するものであり、関ヶ原の戦陣での算盤の話ではない 16 。さらに興味深いことに、正家の逸話と密接に関連する「宰相殿の空弁当」ですら、『常山紀談』や幕府の公式史書である『徳川実紀』といった主要な文献には記載が見られないという指摘もある 12 。
これらの事実は、正家と算盤を結びつける逸話が、少なくとも合戦直後から江戸時代中期にかけて成立したものではなく、より後世、おそらくは講談や読み物などが大衆化した時代に創作された物語である可能性が極めて高いことを示唆している。史料の沈黙は、我々の問いを「その逸話は事実か」から「なぜその逸話が創られたのか」へと転換させるのである。
逸話誕生の三要素 ― 事実、象徴、そして物語
この逸話は、歴史的事実を核としながら、人物の象徴化と物語的な要請が結びつくことによって生まれた、優れた創作物であると分析できる。その誕生には、以下の三つの要素が不可欠であった。
第一の要素:核となる史実 ― 南宮山での絶望的な膠着状態
全ての物語には、種となる事実が必要である。この逸話の核にあるのは、第一部で詳述した、南宮山における長束正家の動かしがたい悲劇的な史実である。すなわち、「西軍の勝利のために計画通りに行動しようとした忠実な武将が、味方の裏切りによって身動きを封じられ、何もできずに敗北の様をただ見ているしかなかった」という事実である。
この状況は、それ自体が極めてドラマチックであり、同情を誘う。有能な人物が、自らの能力とは無関係な、外部の不条理な要因によって破滅に至るという構図は、物語の格好の題材となる。この実際に起こった悲劇が、後世の物語作家たちの想像力を掻き立てるための、豊穣な土壌を提供したのである。
第二の要素:人物の象徴化 ―「算盤」に集約されたパブリックイメージ
物語が魅力的であるためには、登場人物が象徴的な存在でなければならない。長束正家の場合、彼の生涯と実績は、後世の人々にとって極めて分かりやすいパブリックイメージを形成していた。それは「数字と勘定の専門家」というイメージである。
彼は豊臣秀吉から「お前の算段と知恵があってこそ、我が天下は成った」とまで言わしめた人物であり 17 、その高い算術能力は敵である徳川家康すら認めるところであった 5 。豊臣家の財政を一手に担い、太閤検地を推進した彼の姿は、まさに「帳簿のプロ」「豊臣家の金庫番」であった 18 。
この強力なパブリックイメージを、一つの道具で象徴的に表現するならば、それは「算盤」以外にあり得ない。後世の物語作家が、彼の悲劇を描くにあたり、その手に算盤を持たせるという着想は、極めて自然かつ効果的な演出であった。算盤という小道具一つで、観客や読者は瞬時に長束正家が何者であるかを理解し、彼の置かれた状況の皮肉さを感じ取ることができる。算盤は、彼のアイデンティティそのものを凝縮した、完璧なシンボルだったのである。
第三の要素:物語的触媒 ―「宰相殿の空弁当」という対話的逸話
核となる事実と、象徴的な人物。この二つを結びつけ、具体的な物語として結晶化させたのが、「宰相殿の空弁当」という逸話の存在である。この有名な逸話は、南宮山がなぜ動かなかったのか、その原因を「弁当を食べているから」という滑稽で無責任な理由として提示する。
しかし、この逸話は物語として片手落ちである。原因は語られるが、その理不尽な仕打ちを受けた側の反応が描かれていないからだ。物語には、作用があれば反作用が、問いかけがあれば応答が必要である。ここに、物語的な空白、つまり「語られるべきスペース」が生まれる。「宰相殿の空弁当」という逸話が広まれば広まるほど、「その時、催促していた長束正家はどうしていたのか?」という問いが自然と生じる。
「算盤を握る皮肉譚」は、この物語的空白を埋めるために生まれた、完璧な「応答」なのである。それは、「宰相殿の空弁当」と対をなす物語として機能する。
毛利方が「食事」という日常的で非戦闘的な行為に逃避したのに対し、長束正家は自らの専門領域である「勘定」という、理知的だがやはり非戦闘的な行為に没入することで、その不条理に応答する。両者は、戦場における異常な「日常」を描き出すことで、関ヶ原南宮山という場所の悲劇性と滑稽さを見事に表現している。
このように、「算盤の逸話」は単独で生まれたのではなく、「空弁当の逸話」という触媒に反応して生成された、対話的な物語なのである。二つで一つのセットとして、南宮山で起こった出来事の全体像を、歴史的事実以上にドラマチックに、そして記憶に残りやすく伝えているのだ。
結論:真実の皮肉 ― 勘定が及ばぬ領域
本報告書の調査結果は、長束正家が関ヶ原の戦場で算盤を握りしめ、「戦もまた勘定」と呟いたという逸話が、史実である可能性は極めて低いことを示している。それは同時代の史料には見られず、後世の人々が、南宮山での動かしがたい史実と、彼の「勘定のプロ」というパブリックイメージ、そして「宰相殿の空弁当」という先行する逸話とを巧みに結びつけて創り上げた、一種の歴史的フィクションであると結論付けられる。
しかし、この逸話が創作であるからといって、無価値なわけではない。むしろ、それは史実の乾燥した記述以上に、長束正家の悲劇の本質を我々に伝える「詩的真実」を内包している。
逸話が描く皮肉は、戦場で算盤を弾くという行為そのものにある。だが、長束正家が直面した真の皮肉は、もっと根深く、そして残酷なものであった。彼の世界は、数字、論理、計画、そして忠誠といった、計算可能で合理的な原則の上に成り立っていた。彼はその能力を最大限に発揮し、豊臣政権という巨大な組織の屋台骨を支えてきた。しかし、その彼の全ての世界は、関ヶ原において、決して算盤の珠では弾き出すことのできない、たった一つの変数によって破壊された。それは、「人間の裏切り」である。
吉川広家が下した一つの決断の前では、正家が積み上げてきた全ての計算も、兵站計画も、全くの無意味と化した。彼の有能さは、裏切りの前では無力であった。これこそが、彼の生涯を貫く最大の悲劇であり、真の皮肉であった。
後世に創られた「算盤を握る皮肉譚」は、この計算が及ばぬ領域に直面した男の絶望を、見事に象徴している。私たちはこの物語を通じて、歴史上の出来事を単なる事実の連なりとしてではなく、人間の感情や運命が交錯するドラマとして理解し、記憶する。長束正家の物語は、人間の理知や計算には限界があり、世界は常に予測不能な不条理によって覆されうるという、普遍的な真実を我々に突きつけているのである。
引用文献
- 美濃 長束正家陣(西軍) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mino/sekigahara-natsukamasaie-jin/
- 関ヶ原古戦場を歩く(四)徳川家康 最初陣後|吉川広家 陣跡~岐阜観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/Sekigahara4.html
- 長束正家陣跡|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6872.html
- 毛利秀元陣跡|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6879.html
- 関ヶ原合戦 長束正家陣跡 - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/07/04/081625
- 宰相殿の空弁当 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B0%E7%9B%B8%E6%AE%BF%E3%81%AE%E7%A9%BA%E5%BC%81%E5%BD%93
- 時系列でみる関ヶ原合戦 その1 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=bOE3JpoCVWM
- 宰相殿の空弁当 ~午前十時の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki04.html
- 長束正家(ナツカマサイエ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6-17191
- 長束正家の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64094/
- 吉川広家(吉川広家と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/84/
- 東軍に内応した吉川広家、不本意な論功行賞に驚く(「どうする家康」184) https://wheatbaku.exblog.jp/33153844/
- 吉川広家 陣跡 (不破高校 西) - 垂井町観光協会 https://www.tarui-kanko.jp/docs/2015113000043/
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- 戦国武将逸話集 : 訳注『常山紀談』 - CiNii Research https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB0124131X?l=en
- 戦国武将逸話集 : 訳注『常山紀談』 - CiNii 図書 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB0124131X
- 長束正家(なつか まさいえ) 拙者の履歴書 Vol.104~行政の才で豊臣を支えし生涯 - note https://note.com/digitaljokers/n/n24df2e54c56b
- 戦国後期 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/koukiSS/index.htm
- 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/