長篠設楽原の鉄砲隊
~三段撃ち連射工夫小技伝承~
長篠設楽原の戦いにおける「三段撃ち」は後世の創作であり、実際の勝利は地形、馬防柵、大量の鉄砲、効率的な連続射撃システムが統合された結果であったことを解説。
「長篠設楽原の鉄砲隊~三段撃ち連射工夫小技伝承~」に関する学術的考察:神話の解体と戦場の実像
序章:設楽原前夜―通説の確認と本報告書の視座
天正三年(1575年)五月二十一日、三河国設楽原。日本の戦史における転換点として、この地で繰り広げられた織田・徳川連合軍と武田軍の激突は、後世に多大な影響を与えた。この戦いの勝敗を分けた決定的要因として、織田信長が考案したとされる革新的な戦術「鉄砲三段撃ち」は、あまりにも有名である 1 。旧来の戦術の象徴たる武田の騎馬隊を、最新兵器である鉄砲の組織的かつ連続的な射撃によって粉砕したという鮮烈なイメージは、小説や映画を通じて国民的歴史認識として深く浸透している。
この著名な逸話に加え、「雨天の合戦であったため、火縄が湿らないよう味噌を塗って防水した」といった「小技」の伝承も、戦場のリアリティを補完するエピソードとして断片的に語られてきた。これらは、信長の合理性と先進性を象徴する物語として、長きにわたり多くの人々を魅了してきた。
しかしながら、これらの逸話は、近年の歴史学研究、特に一次史料の厳密な批判と再検討によって、その史実性が大きく揺らいでいる 5 。本報告書は、通説として語られる「三段撃ち」や「味噌による防水」といった逸話を無批判に受け入れるのではなく、その成立過程と背景を史料批判を通じて解き明かすことを第一の目的とする。そして、神話のベールを剥がした先にある、より現実に即した鉄砲隊の運用法、すなわち戦場のリアルな「連射工夫」と「雨天対策」を、地形、防御施設、兵站、兵士個々の技術といった多角的な視点から再構築することを試みるものである。本稿は、設楽原の戦場に響いた轟音の真実を探るための、学術的な探求の記録である。
第一章:戦いの舞台装置―鉄砲隊を活かすための周到な「システム」
長篠・設楽原における織田・徳川連合軍の鉄砲隊がその威力を最大限に発揮できた背景には、単一の画期的な戦術が存在したからではなく、地形の選定、防御施設の構築、兵站の確保、そして技術的工夫が有機的に結合した、一つの巨大な「戦闘システム」が構築されていたという事実がある。この章では、そのシステムの各構成要素を解剖し、勝利がいかにして準備されたかを明らかにする。
1-1. 設楽原の地形と布陣:勝利への布石
天正三年五月十三日、織田信長は三万の軍勢を率いて岡崎城に到着し、徳川家康の八千と合流。翌十四日には設楽原へと進軍を開始する。連合軍の布陣は、極めて計算されたものであった 8 。当初、信長は戦場全体を見渡せる後方の極楽寺山に本陣を構え、後にやや前方の茶臼山へと移動する 9 。これは、総大将として戦局全体を俯瞰し、的確な指揮を下すための戦略的配置であった。一方、徳川家康は最前線に位置する高松山(弾正山)に本陣を置いた 9 。これは、長篠城を包囲され、領国を蹂躏された当事者としての決死の覚悟を示すと同時に、最前線で戦う将兵の士気を最大限に鼓舞する役割を担っていた。
連合軍が最終的な決戦の場として選んだのは、連吾川を挟んで武田軍と対峙する西岸の台地であった。これは、武田軍に意図的に連吾川を渡らせ、ぬかるんだ窪地から坂を駆け上がらせるという、防御側に圧倒的に有利な地形であった 10 。攻撃側の突進力は地形によって殺がれ、防御側は高所から一方的に攻撃を加えることが可能となる。この地形選定そのものが、勝利への第一の布石であった。
1-2. 馬防柵の構築:鉄砲隊の生命線
連合軍の布陣において、地形利用と並んで決定的に重要だったのが、連吾川の西岸に沿って築かれた長大な「馬防柵」である 9 。これは、当時最強と謳われた武田軍の騎馬および徒歩の兵による突撃を物理的に阻止・遅滞させるための簡易的な野戦築城であった。
火縄銃は絶大な威力を持つ一方で、弾込めに時間を要し、その間は全くの無防備になるという致命的な弱点を抱えていた 1 。馬防柵の存在は、この弱点を完璧に補うものであった。武田軍の突撃速度は柵によって強制的に減速させられ、柵を乗り越えようともがく兵士たちは、連合軍の鉄砲隊にとって格好の的となった 14 。馬防柵は、鉄砲兵が安全に射撃と次弾装填に専念するための「時間」と「空間」を創出し、彼らの生命線となったのである。
ここで重要なのは、「三段撃ち」という攻撃戦術の有無を議論する以前に、この馬防柵という「静的な防御施設」と、鉄砲隊という「動的な攻撃力」が、当初から一つのパッケージとして計画・運用されていたという点である。これは、信長が単一の戦術(タクティクス)ではなく、地形、兵器、施設を組み合わせた戦場全体のシステム(ストラテジー)としてこの戦いを構想していたことを示唆している。勝利の本質は、画期的な攻撃戦術の発明にあったのではなく、既存の要素を最適に組み合わせ、鉄砲隊の長所を最大化し、短所を最小化する複合的な防衛システムを設計・構築した点にあったのである。
1-3. 鉄砲の数:千挺か、三千挺か
この戦いに投入された鉄砲の総数については、史料によって記述が異なり、現在も議論の的となっている。信長の側近であった太田牛一が記した最も信頼性の高い史料『信長公記』においても、広く流布している刊本では「鉄炮千挺ばかり」と記されているのに対し 16 、加賀前田家に伝来した古写本である尊経閣文庫本には「鉄砲三千余挺」との記述が見られる 18 。
研究者の間では、藤本正行氏などが諸本を比較検討した結果として千挺説を、平山優氏などが尊経閣文庫本の記述を重視して三千挺説を支持するなど、見解が分かれている。この数の違いは、後述する戦術の解釈にも影響を与える(千挺では、通説で語られるような千人ずつの三段撃ちは物理的に不可能となる)。しかし、この議論で最も重要な点は、千挺であれ三千挺であれ、当時の日本の合戦において前例のない規模の鉄砲が、一つの戦場に集中的に投入されたという事実そのものである。この圧倒的な火力の集中こそが、戦いの様相を一変させる根源的な力となった。
1-4. 「小技伝承」の検証:雨と味噌、そして真実
逸話として語られる「火縄が湿らないよう味噌を塗った」という伝承は、戦場の創意工夫を伝える興味深い話ではあるが、残念ながら信頼できる同時代史料や、江戸時代の軍学書などにもその記述を見出すことはできない。これは後世に生まれた創作か、あるいは何らかの事実が形を変えて伝わった民間伝承と考えるのが妥当である。
しかし、この伝承が生まれた背景には、「雨天でも火器を安定して使用したい」という戦場の切実なニーズが存在した。そして、そのニーズに応えるための、より現実的かつ効果的な技術的工夫が当時既に開発・実用化されていた。
第一に、火縄そのものの改良である。当初、火縄の素材には竹や檜の繊維が用いられたが、やがて雨に強い木綿製が主流となった。さらに、火縄に漆を塗布したり、火薬の原料でもある硝石や、お歯黒に使われた鉄漿(かね)で煮沸したりすることで、防水性と燃焼持続性を格段に高めた「水火縄(みずひなわ)」あるいは「雨火縄(あめひなわ)」と呼ばれる特殊な火縄が開発されていた 19 。
第二に、銃本体の雨対策である。火縄銃の構造上、火種を落とす「火皿」は露出しており、雨水が入れば点火しなくなる。この弱点を克服するため、火皿部分を保護する革製などの「雨覆い(あまおおい)」や「台かぶ(だいかぶ)」といった部品が考案され、銃に装着された 19 。
「味噌を塗る」という伝承は、科学的根拠に乏しい一方で、示唆に富んでいる。それは、「戦国時代の兵士たちが雨という天候上の制約を克服するために、何らかの特殊な工夫を凝らしていた」という歴史的事実の記憶が、後世の人々にとってより身近で理解しやすい「味噌」という素材のイメージに置き換えられて語り継がれた結果と解釈できる。伝承そのものは史実ではないが、それが生まれた背景には、漆や硝石、雨覆いといった具体的な技術史の裏付けが存在するのである。
第二章:午前六時、開戦―「三段撃ち」神話の解体
夜明けと共に設楽原に立ち込めた霧が晴れ始めた午前六時頃、ついに武田軍の総攻撃が開始された。この瞬間から、通説では織田信長が考案したとされる「鉄砲三段撃ち」が火を噴いたとされている。しかし、この戦史において最も有名な戦術は、果たして史実なのであろうか。本章では、史料批判と技術的検証という二つのメスを入れ、この神話を徹底的に解体する。
2-1. 通説としての「三段撃ち」
まず、一般に広く知られている「三段撃ち」のイメージを確認しておきたい。それは、鉄砲隊を三つの列に分け、最前列が射撃を終えるとすぐさま最後尾に下がり、次弾の装填作業に入る。その間に、待機していた第二列目が前進して射撃。続いて第三列目が射撃を行う。その頃には、最初に撃った第一列目の装填が完了し、再び最前列へと進む。このローテーションを繰り返すことで、火縄銃の欠点である装填時間の長さを組織力でカバーし、敵に対して途切れることのない弾幕を張るという、画期的な戦術として理解されている 1 。この鮮やかなシステムが、個々の武勇に頼る武田の旧来の戦術を打ち破ったとされてきた 1 。
2-2. 史料批判:『信長公記』と『甫庵信長記』の決定的差異
「三段撃ち」の存在を検証する上で、避けて通れないのが史料の比較検討である。この戦いを記録した主要な史料は二つ存在するが、その記述には決定的な違いがある。
一つは、織田信長の側近であった太田牛一が執筆した『信長公記』である。これは同時代に書かれた一次史料に極めて近いもので、その記述の信頼性は非常に高いと評価されている。この『信長公記』巻八「三州長篠御合戦の事」を読むと、武田軍の第一陣・山県昌景隊の突撃に対し、「鉄炮を散々に打立てられ」(鉄砲をさんざんに撃ちかけた)とあり、戦闘全体を通しても「御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ」(味方の兵を一人も(柵から)出さず、鉄砲だけで応戦した)といった記述が見られる 17 。これらは、鉄砲による激しい射撃があったことを明確に示しているが、兵を三列に分けた、あるいは順番に入れ替わって撃った、といった具体的な戦術を示す文言は一切見当たらない 5 。
もう一つは、長篠の戦いから約四十年後、江戸時代初期に儒学者の小瀬甫庵によって書かれた『甫庵信長記』(または『信長記』)である。これは同時代史料ではなく、後世に編纂された軍記物語としての性格が強い。この『甫庵信長記』には、「敵馬を入れ来らば、間一町までも鉄砲打たすな。間近く引受け、千挺づゝ放ちかけ、一段づゝ立替り/\打たすべし」(敵の騎馬が迫ってきても、一町(約109m)の距離までは撃たせるな。十分に引きつけてから、千挺ずつ撃ちかけ、一隊ずつ入れ替わりながら撃たせるべきだ)という、まさに「三段撃ち」そのものを示唆する具体的な記述が存在する 17 。
この二つの史料の比較から導き出される結論は明白である。信頼性の高い同時代史料には「三段撃ち」の記述がなく、後世に書かれた軍記物語に初めてその具体的な描写が登場する。つまり、「三段撃ち」は史実ではなく、小瀬甫庵による文学的創作である可能性が極めて高いのである。甫庵は、信長という英雄の物語をより劇的に、より革新的に見せるため、この整然とした集団戦法を「発明」し、紙上に描き出したと考えられる。戦乱の記憶が薄れた江戸の泰平の世において、このシンプルで分かりやすい英雄譚は大衆に広く受け入れられ、やがて史実として定着していった 24 。これは、歴史的事実そのものよりも、「物語としての歴史」がいかに強く人々の心に残り、歴史認識を形成していくかを示す好例と言える。
表1:長篠の戦いにおける鉄砲運用に関する主要史料の記述比較
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項目 |
『信長公記』(太田牛一著・同時代史料) |
『甫庵信長記』(小瀬甫庵著・江戸初期) |
現代の学術的見解 |
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鉄砲の数 |
「千挺ばかり」(刊本)、「三千余挺」(尊経閣文庫本)と諸本で差異あり 16 |
「三千挺」と記述 25 |
千挺~三千挺の間で議論があるが、千挺説が有力視される傾向。 |
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射撃方法の記述 |
「さんざんに打立てられ」「鉄炮ばかりを相加へ」など、激しい射撃を示唆するが具体的な陣形・手順の記述はない 5 |
「千挺づゝ放ちかけ、一段づゝ立替り/\打たすべし」と、明確な三段交代戦法を記述 17 |
『甫庵信長記』の記述は創作の可能性が極めて高い。「三段撃ち」はなかったとするのが定説 5 。 |
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戦術の呼称 |
「三段撃ち」という言葉は一切登場しない 17 |
「三段撃ち」という言葉は直接使われないが、その戦法を具体的に描写 23 |
「三段撃ち」は後世に定着した俗称。 |
2-3. 技術的・物理的検証:なぜ「三段撃ち」は非現実的なのか
史料批判に加え、当時の技術レベルや戦場の物理的制約から見ても、通説の「三段撃ち」は極めて非現実的であったと言わざるを得ない。
第一に、 危険性 の問題である。火縄銃は、火のついた縄(火縄)を火薬に接触させて発射する。兵士たちは、腰に火薬を入れた「火薬入れ」をぶら下げている。そのような状態で、何百、何千という兵士が狭い場所で密集し、射撃のたびに前後の列を入れ替わるという複雑な行動をとれば、誤って他の兵士の火薬入れに火縄が接触し、大爆発を引き起こす危険性が極めて高い 7 。これは、部隊の壊滅に直結しかねない致命的なリスクである。
第二に、 空間的な制約 である。数千人規模の兵士が三列の縦隊を組み、スムーズに入れ替えを行うためには、相当な奥行きを持った平坦で広大なスペースが必要となる。設楽原の地形が、そのような大規模な部隊運動に適していたかは大いに疑問が残る 27 。
第三に、 時間的な効率性 の問題である。現代の実験によれば、火縄銃の装填から発射までには、熟練者であっても10秒から30秒程度の時間を要する 1 。三つの列が機械的に順番を待って撃つよりも、装填を終えた兵士から各自の判断で射撃位置に進んで撃つ方が、部隊全体としての射撃密度(単位時間あたりの発射弾数)は、かえって高くなる可能性がある。
最後に、 戦闘の継続時間 との矛盾である。『信長公記』によれば、この日の戦闘は午前六時頃から午後二時頃まで、約八時間にも及んでいる 26 。もし通説で語られるような、武田軍を全く寄せ付けない圧倒的な「三段撃ち」が間断なく行われていたとすれば、武田軍はもっと早い段階で戦意を喪失し、壊滅していたはずである。長時間の戦闘が継続したという事実は、戦いが一方的な蹂躏ではなく、武田軍の猛攻を連合軍が辛うじて凌ぎ続ける、熾烈な消耗戦であったことを物語っている。
第三章:激戦の核心―再構築される「連続射撃」の実像
「三段撃ち」という神話を否定したとき、我々は本質的な問いに直面する。では、設楽原で実際には何が行われていたのか。織田・徳川連合軍は、いかにして「連続射撃」を実現し、武田軍の猛攻を食い止めたのか。本章では、史料の断片、絵画資料、そして技術的な考察を組み合わせ、より現実的な鉄砲隊の運用法を再構築する。
3-1. 柔軟な交代射撃:「車撃ち」や「組単位」での運用
厳格で機械的な三列交代ではなく、より柔軟で現実的な交代射撃の方法が採用されていたと考えられる。その一つとして、部隊が車輪のように回転しながら射撃を行う「車撃ち(くるまうち)」のような戦術や、より小規模な「組」単位でのローテーションが考えられる 28 。
より具体的に想定されるのは、馬防柵に設けられた射撃用の隙間(狭間)を拠点とした運用である。前線で撃ち終えた兵士が後方に下がり、後方で待機し装填を終えた兵士が、空いた任意の隙間に入って射撃を行う。これは、ある研究者が「コンビニのレジ待ち撃ち」と表現したように 25 、厳密な命令系統によらずとも、準備ができた者から順次射撃位置につくという、合理的で自律的なシステムである 29 。これにより、部隊全体として切れ目のない射撃を維持しつつ、三列交代のような複雑な隊形移動に伴う危険や混乱を避けることができたであろう。
3-2. 個々の兵士の技術と工夫:「早合」の役割
部隊全体の射撃効率を高めたのは、陣形や運用法といったマクロな工夫だけではない。兵士一人ひとりの装填技術、すなわちミクロな工夫もまた、決定的に重要であった。その鍵を握るのが「早合(はやごう)」と呼ばれる道具の存在である 26 。
これは、一発分の弾丸と火薬をあらかじめ紙や竹筒にまとめておいた、現代の薬莢(やっきょう)の原型ともいえるものである。通常、火縄銃の装填は、銃口から火薬を注ぎ、弾丸を詰め、槊杖(さくじょう、かるか)で突き固めるという煩雑な手順を要する。しかし、「早合」を用いれば、これらの工程を大幅に簡略化し、装填時間を劇的に短縮することが可能となる。実験では、射撃間隔を10秒程度にまで縮めることができたという報告もある 26 。設楽原に集められた鉄砲兵たちがこの「早合」を携帯し、使いこなしていたとすれば、部隊としての連続射撃能力は飛躍的に向上したはずである。信長の革新性は、鉄砲を大量に揃えただけでなく、それを効率的に運用するための弾薬供給システム(兵站)まで整備していた点にも見出すことができる。
3-3. 『長篠合戦図屏風』に描かれたリアルな射撃
文字史料が語らない戦闘の具体的な様子を、視覚史料である『長篠合戦図屏風』が補完してくれる。後世に描かれたものであるため、全ての描写を史実と見なすことはできないが、そこには通説の「三段撃ち」とは全く異なる、しかし極めて合理的で現実的な射撃陣形が描かれている。
屏風絵を詳細に見ると、馬防柵の内側で鉄砲隊が二段の構えをとっている様子が確認できる。前列の兵士は地面に膝をついて射撃姿勢をとり(膝撃ち)、後列の兵士は立ったまま前列の頭上越しに射撃している(立ち撃ち) 11 。この二段構えの陣形は、前後の兵士が互いの射線を妨げることなく、同時に射撃できるという大きな利点がある。狭いスペースで射撃密度を最大化するための、極めて空間効率の高い布陣である。これならば、危険で非効率な兵士の入れ替えを行うことなく、前後の兵士が交互に、あるいは同時に射撃することで、連続的な弾幕を形成することが可能となる。
さらに注目すべきは、描かれた兵士たちの射撃姿勢である。彼らの多くが、銃の反動を抑え、照準を安定させるために、銃床を頬にしっかりと押しつける「頬付け(ほおづけ)」という、現代射撃にも通じる基本姿勢をとっている 11 。これは、彼らが単なる寄せ集めの農兵ではなく、射撃の基本を体得した、十分に訓練された兵士であったことを雄弁に物語っている。
3-4. 戦場の再現:轟音、硝煙、そして指揮官の号令
これまでの分析を基に、設楽原の戦場の情景を再構成してみよう。
天正三年五月二十一日、午前六時過ぎ。武田軍の先鋒、山県昌景隊が鬨の声を上げ、連吾川へとなだれ込む。川を渡り、ぬかるみと坂に足を取られ速度が落ちたその瞬間、連合軍の陣から指揮官の「放て!」という号令が響き渡る。
馬防柵の隙間から、一斉に火線が閃く。数千発の鉛玉が轟音と共に武田の兵士たちに襲いかかり、立ち所に凄まじい白煙が戦場を覆い尽くす。射手たちは即座に銃を下げ、腰の「早合」を手に取り、慣れた手つきで次弾の装填を開始する。その間隙を埋めるかのように、鉄砲隊の後方に控えていた弓隊が、放物線を描く矢の雨を降らせ、敵の接近を阻む 11 。
「次、構え!」「空いたところへ入れ!」組頭たちの怒声が飛び交う。装填を終えた兵士が、煙の中から再び射撃位置につき、狙いを定める。膝撃ちの兵、立ち撃ちの兵。途切れることなく続く銃声、甲冑を鉛玉が貫く鈍い音、そして負傷者の呻き声。それは、整然とした機械的なローテーションではなく、訓練された兵士たちが自律的に射撃と装填を繰り返す、混沌としながらも極めて効率的な「連続射撃システム」が機能している光景であった。
第四章:伝説の誕生と歴史的意義
設楽原の戦いは、連合軍の圧倒的な勝利に終わった。武田軍は山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった多くの宿将を失い、壊滅的な打撃を受けた。この歴史的な勝利の核心には何があったのか。そして、なぜ史実とは異なる「三段撃ち」の神話が、これほどまでに広く語り継がれることになったのか。本章では、戦いの真の意義を総括し、伝説が生まれた背景を考察する。
4-1. 鉄砲の集中運用がもたらした戦果
結論として、設楽原における連合軍の勝因は、通説で語られる「三段撃ち」という単一の戦術にあったわけではない。その本質は、
- 地形の利 :敵に坂を駆け上がらせる防御に有利な布陣。
- 馬防柵 :敵の突撃力を無効化する物理的防御。
- 火力の集中 :前例のない数の鉄砲の大量投入。
- 効率的な射撃システム :二段構えの陣形や「早合」の活用による、現実的な連続射撃の実現。
これら複数の要素が有機的に結合した、高度な「戦闘システム」の勝利であった 1 。信長の真に革新的な点は、一つの戦法を発明したことではなく、既存の技術や要素(鉄砲、柵、地形)を最適に組み合わせ、その効果を戦場で最大化するシステム全体を構想し、実行した、その卓越したマネジメント能力と戦略眼にあったと言える。この戦いは、個人の武勇や伝統的な騎馬戦術が中心であった旧来の戦から、兵器の性能と組織的な運用、そして兵站を重視する新しい時代の戦争の到来を告げる、画期的な出来事であった。
4-2. なぜ神話は生まれたのか:英雄譚としての「三段撃ち」
では、なぜ史実ではない「三段撃ち」が、これほどまでに不動の地位を築いたのか。その答えは、この逸話が生まれた江戸時代という時代背景にある。戦乱が終わり、泰平の世が訪れると、人々は過去の戦国時代の英雄たちの武勇伝を物語として消費するようになった 23 。
その中で、織田信長は旧弊を打破する革新者として特に人気を博した。「三段撃ち」という戦術は、信長の天才性を象徴する上で、非常に分かりやすく、劇的なエピソードであった。複雑で地味な「システムの勝利」よりも、一人の天才が発明した「必殺戦法」という物語の方が、講談や読み物として遥かに魅力的である。小瀬甫庵の『甫庵信長記』によって創作されたこの英雄譚は、後の時代の小説家や映像作家たちによって繰り返し描かれ、増幅される過程で、いつしか疑う余地のない史実として国民的な歴史イメージの中に定着していったのである。
4-3. 結論:逸話の向こう側にある真実
本報告書を通じて行ってきた「長篠設楽原の鉄砲隊」を巡る逸話の検証は、以下の結論へと我々を導く。
第一に、通説として知られる「鉄砲三段撃ち」は、同時代の信頼できる史料には見られない、後世に創作された魅力的なフィクションである。
第二に、「雨中で火縄に味噌を塗った」という伝承の背後には、雨に強い「水火縄」や、火皿を保護する「雨覆い」といった、より現実的で高度な技術的工夫が存在した。
そして第三に、設楽原で実現された真の「連射工夫」とは、単一の戦術の発明ではなく、馬防柵という防御施設、大量の鉄砲の集中投入という物量、早合という兵站、そして膝撃ちと立ち撃ちを組み合わせた合理的陣形といった、あらゆる要素が統合された高度な「戦闘システム」そのものであった。
長篠・設楽原の逸話が我々に教えてくれるのは、歴史的事実がしばしば、より魅力的で分かりやすい「物語」に取って代わられるという現実である。しかし、その物語のベールの向こう側を探求することで、我々は、信長という人物の真の革新性―すなわち、個々の要素を組み合わせ、時代を画するシステムを構築した、その構想力と実行力―にこそ、より深く触れることができるのである。
引用文献
- 長篠の戦いと鉄砲・西洋銃/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89110/
- 火縄銃と長篠の戦い/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-nagashino/
- 長篠の戦い 三段撃ちの真実とは? - WAM ブログ https://www.k-wam.jp/blogs/2023/06/post113880/
- 信長の「鉄砲三段撃ち」に学べ! | [倍速DX]デジタルソリューションブログ https://baisoku.co.jp/wordpress/?p=1496
- 「織田徳川vs武田」長篠の戦い、通説の9割は嘘 「騎馬隊も3段撃ちも…」最新の日本史を紹介 https://toyokeizai.net/articles/-/197322
- 長篠の戦いはウソだらけ?真実や戦いの流れ、戦法をわかりやすく解説 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/history/nagashinono-tatakai-real/
- 長篠の戦いの「三段撃ち」 現実的でなく後世の創作か - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20170714_585547.html?DETAIL
- 織田vs武田 史跡の宝庫 長篠合戦を偲ぶ旅 - 歴史ぶらり1人旅 https://rekikakkun.hatenablog.com/entry/2021/09/10/212327
- 設楽原布陣図- 設楽原歴史資料館 名品10選!:新城市 https://www.city.shinshiro.lg.jp/mokuteki/shisetu/shiryokan/shitaragahara/fujinzu.html
- 1575年 – 77年 長篠の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1575/
- 三段撃ちの真実・・信長は鉄砲をどう使ったか: 長篠合戦図屏風に ... http://tagalabo.com/
- 馬防柵 - 新城市 https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/meisyo/babousaku.html
- 馬防柵 - 新城市 - キラッと奥三河観光ナビ https://www.okuminavi.jp/search/detail.php?id=516
- 秘策は馬防柵!徳川家の重大な分岐点、長篠・設楽原の戦いは如何なるものだったのか? https://san-tatsu.jp/articles/246186/
- 長篠の戦い|最新の研究で明かされた真実!最強の騎馬隊がボロ負けした本当の理由 https://www.youtube.com/watch?v=KVaq4MwoawA
- 信長の「天才的戦術」は旧日本陸軍のウソである…長篠の戦いで大敗した武田勢の評価が見直されているワケ 敵陣に突入する戦法は「正攻法」だった - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70430?page=1
- 長篠の戦で鉄炮の三段撃ちはあったのか - BIGLOBE http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/think/zakki_000b.htm
- 三千挺の鉄砲による三段撃ちは史実か(「どうする家康」78) https://wheatbaku.exblog.jp/33001542/
- 雨の日に火縄銃は使えたのか?戦国時代、欠点だらけの武器は ... https://mag.japaaan.com/archives/239914
- 火縄銃(鉄砲)の部位名称・仕組み/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/arquebus-knowledge/
- 織田信長の科学 - 知識の宝庫!目がテン!ライブラリー https://www.ntv.co.jp/megaten/archive/library/date/13/11/1124.html
- なぜ鉄砲 が急速に普及したのか、鉄砲は何を変えたのか - 戦国リサーチノート by 攻城団 https://research-note.kojodan.jp/entry/2025/05/01/142211
- 歴史を創作した男の創作 - 紀行歴史遊学 - Typepad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2020/04/%E7%94%AB%E5%BA%B5.html
- 【歴史夜話#3】長篠三段撃ち伝説はなぜ生まれた? - note https://note.com/coco_waon/n/n4ecd6e288240
- 【感想】NHK『歴史探偵』第7回「長篠の戦い」を観ました|hayahi_taro - note https://note.com/hayahi_taro/n/n44da5edc261f
- 長篠の戦い http://www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub207.htm
- 戦国時代屈指の戦いを描いた「長篠合戦図屏風」 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12005/
- 上杉謙信の「車懸りの戦法」の凄さ【川中島の戦い、武田信玄、村上義清…】 乃至政彦 氏『謙信×信長 手取川合戦の真実』2/4 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=bCFwDaYZCOw
- 「大量の鉄砲が武田の騎馬隊を蹴散らした」はウソである…最新の研究でわかった長篠の戦いの本当の姿 武田軍の主力は騎馬隊ではなく長槍隊だった (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/66303?page=2