雑賀孫市
~信長の馬印を遠撃ちで撃ち折る~
雑賀孫市が信長の馬印を遠撃ちで撃ち折った伝説を解明。史実と講談の狭間で、鉄砲技術と英雄像が融合した戦国時代の象徴的逸話の真価を探る。
雑賀孫市による信長狙撃譚の徹底解明 ― 史実と伝説の狭間にある一射
序章:伝説の狙撃手、雑賀孫市 ― 一射に込められた意味
戦国の世、数多の英雄豪傑が覇を競う中で、一人の鉄砲撃ちの名が、ひときわ異彩を放ちながら語り継がれてきた。その名は雑賀孫市(さいかまごいち)。紀伊国を拠点とし、戦国最強と謳われた鉄砲傭兵集団「雑賀衆」を率いたとされる謎多き人物である。彼の武名を不朽のものとした逸話は数あれど、その頂点に立つのが「織田信長の馬印を遠撃ちで撃ち折った」あるいは「信長本人を狙撃し負傷させた」という、大胆不敵な狙撃譚に他ならない。
本報告書は、この雑賀孫市による信長狙撃という一つの逸話にのみ焦点を絞り、その物語が語る情景、背景にある史実、そして伝説として昇華されていく過程を、現存する資料を基に徹底的に調査・分析するものである。この物語がなぜ、単なる武勇伝を超えて人々の心を強く捉え続けるのか。それは、旧来の武士社会の秩序と権威を体現する天下人・織田信長に対し、鉄砲という新時代の力を背景とした地方の独立勢力が、その棟梁の一射をもって公然と挑戦するという、極めて劇的な構図を有しているからに他ならない 1 。
この一射は、単に敵将を狙った戦術行動に留まらず、時代の転換点において旧体制の価値観そのものを撃ち抜こうとする象徴的な行為として、後世の人々に受け止められてきた。本稿では、まず講談などで語られる逸話の情景を時系列に沿って克明に再現し、次いで信頼性の高い史料との比較検証、さらには当時の技術的側面からの考察を加え、最後にこの物語が伝説として形成されていく文化的背景を解き明かしていく。これにより、信長の馬印を狙ったとされる一弾の軌跡を、あらゆる角度から追跡する。
第一章:天正四年五月、天王寺の戦場 ― 緊迫の前夜
戦略的背景 ― 石山合戦の泥沼化
雑賀孫市による信長狙撃の逸話が生まれる直接的な舞台は、天正4年(1576年)5月の「天王寺の戦い」である。しかし、その根源はさらに遡り、元亀元年(1570年)から実に10年もの長きにわたって続いた、織田信長と石山本願寺との宗教戦争「石山合戦」に求められる 1 。
天正4年当時、信長はすでに天下統一の途上にあり、その圧倒的な軍事力をもって石山本願寺を幾重にも包囲していた。しかし、本願寺門徒の強固な信仰心と、全国の反信長勢力からの支援、とりわけ毛利水軍による海上からの兵糧補給路の存在が、信長の完全勝利を阻んでいた。この膠着した戦況を打破するため、信長は本願寺への補給路を陸海双方から完全に遮断する作戦に着手する。その陸路からの圧力を強めるべく、天正4年5月、信長は配下の将・原田(塙)直政を方面軍司令官に任じ、本願寺の重要拠点である天王寺砦の攻略を命じた 1 。
雑賀衆の参戦と織田軍の惨敗
この織田軍の攻勢に対し、石山本願寺の宗主・顕如が最後の切り札として救援を要請したのが、雑賀孫市率いる紀州雑賀衆であった。雑賀衆は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲の扱いに長けた傭兵集団であり、その戦闘力は「雑賀衆を味方にすれば勝ち、敵にすれば負ける」とまで言われるほどであった 3 。顕如の要請に応じた孫市は、一説に3千ともいわれる鉄砲隊を率いて石山本願寺に入城。この援軍は、本願寺にとって数万の兵力にも匹敵する、まさに乾坤一擲の戦力であった 1 。
同年5月3日、天王寺砦を包囲する原田直政の軍勢に対し、孫市率いる雑賀衆がその真価を発揮する。雑賀衆の強みは、個々の狙撃技術もさることながら、敵が有効射程内に入った瞬間を見計らって放たれる、統率の取れた一斉射撃にあった 4 。孫市の号令一下、雷鳴のような轟音が戦場に響き渡り、立ち上る硝煙が視界を覆う。その一撃で織田軍の先鋒は薙ぎ倒され、数度の一斉射撃の間に、瞬く間に300人もの兵士が倒れたという 1 。そして、この熾烈な銃撃の最中、軍の先頭で指揮を執っていた総大将・原田直政が被弾して落馬、討ち死にするという最悪の事態が発生した。
大将を失った織田軍は総崩れとなり、この「木津川口の戦い」は雑賀衆の圧倒的な勝利に終わった。この戦果は、雑賀衆の戦闘能力の高さを天下に知らしめると同時に、信長に強烈な衝撃と屈辱、そして雑賀衆に対する激しい敵愾心を植え付ける結果となった。
信長、自ら前線へ
原田直政討ち死にの敗報に接した信長は激怒した。そして数日後、京都からわずかな供回りだけを連れて河内・若江城に入ると、自ら軍の先頭に立って天王寺砦の救援に向かうという、天下人としては異例の決断を下す 1 。これは、一軍の総帥が取るべき行動としては極めて危険かつ非合理的であったが、それほどまでにこの敗戦が信長のプライドを傷つけ、彼の冷静な判断を狂わせたことを示している。
一次史料である『信長公記』にも、この時の信長が「先手の足軽にまじらせられ」、つまり一兵卒に混じって自ら陣頭指揮を執ったと記録されており、いかに戦況が逼迫し、信長自身が感情的に突き動かされていたかが窺える 5 。雑賀衆の戦術的勝利が、結果として敵の最高指揮官である信長本人を、狙撃可能な危険地帯へと引きずり出すという、皮肉な状況を生み出したのである。伝説の狙撃手と天下人が、互いの射程距離内で対峙する運命の舞台は、こうして整えられた。
第二章:運命の瞬間 ― 逸話の時系列再現
天正4年5月7日、天王寺周辺は織田軍と本願寺・雑賀連合軍が激しく衝突し、鉄砲の轟音と鬨の声が絶え間なく響き渡る激戦地と化していた。この混沌とした戦場の只中で、伝説として語り継がれる一射が放たれることになる。後世の軍記物や講談によって描かれるその瞬間を、時系列に沿って再現する。
索敵と発見 ― 異形の兜
雑賀衆を率いる孫市は、自らも鉄砲を手に、刻々と変化する戦況を見極めていた。彼の視線は、敵陣の奥深く、兵士たちの動きが慌ただしい一角に注がれていた。数多の旗指物や武者の甲冑が入り乱れる中、ひときわ異彩を放つ兜が孫市の目に留まる。それは、当時の日本の様式とは明らかに異なる、南蛮渡来の兜、いわゆる「唐人兜」であった 1 。信長が異国の文物を好み、特に南蛮胴や南蛮兜を愛用していたことは広く知られていた。孫市は、あの異形の兜こそが、敵の総大将・織田信長の存在を示す何よりの証左であると直感した。
決断の対話 ― 首級への渇望
確信を深めた孫市は、傍らに控える配下の一人に、確認するように静かに声をかけた。
「あの唐人兜(ヨーロッパの兜)が信長のようだな」
配下は、孫市の視線の先を追い、力強く頷いた。その返答を受け、孫市の口元に不敵な笑みが浮かぶ。
「御大将自らの御出陣か。では、その首を貰い受けるか」1
この短い会話には、雑賀衆の棟梁としての絶対的な自信と、天下人であろうとも臆することなく標的とする反骨の気概、そして狙撃手としての己の腕前に対する揺るぎない確信が凝縮されていた。彼はすぐさま、弾込を終えた愛用の鉄砲を静かに構えた。
狙撃の刹那 ― 神業の引き金
孫市は、肩に銃床を当て、遙か先に揺れる唐人兜に照準を合わせた。戦場の喧騒が遠のき、彼の意識は標的である信長の一点に集中していく。距離は遠く、多くの兵士が信長の周囲を固めている。通常であれば、狙撃は不可能に近い状況であった。しかし、その瞬間、好機が訪れる。信長が前線の兵士を鼓舞するためか、何事かを大声で叫んだのが見えた 1 。その動きが一瞬の隙を生んだ。
孫市は、その刹那を見逃さなかった。呼吸を止め、全神経を指先に集中させ、引き金を絞る。
轟音と共に、肩に心地よい衝撃が走る。銃口から吐き出された鉛の弾丸は、硝煙の尾を引きながら、信長へと吸い込まれるように飛翔していった。
着弾と混乱 ― 凶弾の軌跡
孫市が放った一弾は、神がかり的な精度で信長へと迫った。しかし、その弾道上に、偶然か必然か、一人の足軽が立ち上がった。弾丸はまずその足軽の身体を貫き、それでもなお勢いを失うことなく、信長の右足の脛を掠めた 1 。
信長は、目の前の足軽が声もなく崩れ落ちるのと、自らの足に走る searing な衝撃とを、ほぼ同時に感じた。何が起きたのか瞬時には理解できず、信じられないものを見たかのように、がくりと膝を折り、その場に転倒した 1 。天下人が、名もなき一兵卒の放った(と彼には思われた)一発の銃弾によって、土の上に崩れ落ちたのである。
この異常事態に、周囲を固めていた信長の親衛隊は色めき立った。「上様!」という悲鳴にも似た声が上がり、陣中はにわかに大混乱に陥った。
撤退と憎悪 ― 伝説の序章
信長は、もはや自力で立ち上がることもせず、屈辱と驚愕に顔を歪めたまま、駆けつけた将兵たちに四方を固められて後方へと運び去られていった 1 。この出来事は、信長に肉体的な軽傷以上の、深い精神的な傷を負わせた。自らが最前線で敵の弾丸に倒れるという屈辱的な体験は、彼の雑賀衆に対する怒りを、もはや和解の余地のない決定的な憎悪へと変質させた。
この瞬間、信長は「雑賀攻め」、すなわち雑賀の地そのものを根絶やしにすることを固く決意したと伝えられる 1 。孫市の放った一弾は、信長の足を傷つけただけでなく、織田家と雑賀衆との全面戦争の火蓋を切る、まさに歴史の引き金となったのである。
第三章:史実の検証 ―『信長公記』の記述との対峙
前章で再現した劇的な狙撃譚は、主に江戸時代以降に成立した軍記物や講談によって形成され、語り継がれてきたものである。では、歴史的な事実としては、この出来事はどのように記録されているのだろうか。ここでは、信長の一代記であり、同時代史料として最も信頼性が高いとされる太田牛一の著作『信長公記』の記述と、逸話とを比較検証する。
一次史料の記述
『信長公記』巻九、「天王寺御人数揃え、合戦の事」の項には、天正4年5月7日の天王寺の戦いにおける信長の動向が詳細に記されている。その記述によれば、信長は苦戦する味方を救援すべく、自ら三千ほどの兵を率いて出陣。先鋒の足軽たちに混じって陣頭指揮を執り、八方に下知を飛ばして駆け回るほどの奮戦を見せた。そして、その激戦の最中、「信長は薄手を負い、足には鉄砲疵をこうむった」と明確に記されている 5 。
この記述は、他の史料、例えば公家である山科言継の日記『言継卿記』や、奈良興福寺の僧侶による『多聞院日記』などでも裏付けられており、信長がこの戦いで足に銃創を負ったこと自体は、疑いようのない歴史的事実である 5 。天下人である信長が、合戦の最前線で敵の銃弾によって負傷したという事実は、それ自体が極めて衝撃的な出来事であった 8 。
逸話と史実の比較
信長が負傷したという「核」となる事実は共通しているものの、逸話と史実の記録には、看過できない重要な相違点が存在する。両者を比較することで、伝説がどのように形成されていったのか、その輪郭が浮かび上がってくる。
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項目 |
講談・軍記物等に描かれる逸話 |
『信長公記』等、一次史料の記述 |
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狙撃者 |
雑賀孫市(個人名が特定されている) |
不明(本願寺勢・雑賀衆の誰か) |
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標的 |
織田信長本人(唐人兜で識別し狙撃) |
織田信長本人 |
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結果 |
足軽を貫通後、信長の足を掠める |
信長の足に軽傷を負う |
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特記事項 |
物語性が高く、英雄譚として構成されている |
大将自らが前線で負傷したという事実の記録 |
この比較表が示す最も決定的な違いは、「狙撃者」が誰であるかという点にある。『信長公記』をはじめとする一次史料には、信長を撃った人物が「雑賀孫市」であるとは一言も書かれていない。記録されているのは、あくまで敵である本願寺勢力(その中核に雑賀衆がいたことは間違いない)からの銃撃によって負傷した、という客観的な事実のみである 5 。
分析と考察
この相違から導き出される結論は、信長を狙撃したのが雑賀孫市個人であったという確たる証拠は、同時代の史料には存在しない、ということである。ではなぜ、「雑賀孫市」の名が、この歴史的事件の実行者として後世に語り継がれることになったのか。
そこには、英雄伝説が形成される上での普遍的なパターンが見て取れる。つまり、「無名の兵士による偉大な功績が、その兵士が所属する集団を象徴する英雄一人の功績へと、後世の人々によって帰せられる」という現象である。実際に信長を撃ったのが、名もなき一人の雑賀衆兵士であったとしても、その行為は「雑賀衆」という集団全体の武威の高さと、信長を脅かす存在であったことを示すに十分な出来事であった。
しかし、物語として語り継がれる際、人々は抽象的な集団よりも、感情移入しやすい具体的なヒーローを求める。当時、雑賀衆の頭領として、また鉄砲の名手としてその名が知られていた「雑賀孫市」は、この「信長を撃った名手」という役割を担うに最もふさわしい人物であった 1 。こうして、「本願寺勢の誰かが信長を負傷させた」という史実が、「雑賀衆の頭領・孫市が信長を狙撃した」という、より鮮やかで記憶に残りやすい英雄譚へと姿を変えていったと考えられるのである。
第四章:狙撃の技術的考察 ― 当時の鉄砲性能の限界と可能性
逸話の真偽を問う上で、物語性や史料の記述と並行して検証すべき重要な要素が、技術的な実現可能性である。果たして、戦国時代の火縄銃で、雑賀孫市の逸話に描かれるような「遠距離からの狙撃」は可能だったのだろうか。
火縄銃の基本性能と限界
戦国時代に広く普及していた火縄銃は、現代のライフル銃とは比較にならないほど、性能に多くの制約があった。まず、銃身内部にライフリング(施条)が刻まれていない滑腔銃であったため、弾丸が回転せず、弾道が不安定で命中精度は著しく低かった。
一般的に、足軽が装備した「六匁筒」(弾丸重量約22.5g)クラスの火縄銃の有効射程距離、すなわち狙って命中させることが期待できる距離は、およそ50メートルから最大でも100メートル程度とされている 11 。最大射程距離は500メートルに達することもあったが、その距離では弾丸の威力はほとんど失われ、偶然当たることを祈る以上の意味はなかった 14 。逸話に描かれるような、多くの兵士に守られた「遙か先」の敵将を正確に狙い撃つことは、この標準的な火縄銃の性能を考えれば、限りなく不可能に近いと言わざるを得ない。
「遠撃ち」のリアリティと雑賀衆の特殊性
しかし、この技術的限界をもって、逸話が完全な創作であると断じるのは早計である。なぜなら、雑賀衆は単なる鉄砲足軽の集団ではなく、当代随一の鉄砲技術を誇る専門家集団だったからである。彼らが、標準的な火縄銃とは異なる、特殊な性能を持つ鉄砲を運用していた可能性は十分に考えられる。
その一つが、「狭間筒(はざまづつ)」と呼ばれる種類の鉄砲である。これは、城の狭間(銃眼)に据え付けて使用することを想定した長銃身・大口径の火縄銃で、通常の鉄砲よりもはるかに長い射程と高い威力を誇った 15 。こうした特殊な鉄砲を用いれば、有効射程は200メートルから300メートルにまで延伸したとされ、狙撃の可能性は格段に高まる。
さらに、雑賀衆の卓越性は、用いる道具だけに留まらない。彼らは地形や風向きを読み、弾道を計算する高度な射撃術を体得していたと推測される 16 。鉄砲を一斉射撃による面制圧の道具としてだけでなく、特定の重要目標を排除するための「狙撃」の武器として捉え、そのための技術を日々磨いていた専門家集団であった 4 。彼らにとって、敵将を狙うことは特別なことではなかったのかもしれない。
結論としての「神業」
以上の技術的考察を総合すると、信長への狙撃は、標準的な装備と技術では不可能だが、「最高の道具(特殊な長射程の鉄砲)を持つ、最高の技術者(雑賀衆の名手)が、最高の好機(信長の前線突出)に恵まれた」という、いくつもの幸運が重なった場合にのみ、かろうじて成立しうる行為であったと言える。
それは、通常の戦闘の範疇を超えた、まさに「神業」と呼ぶにふさわしい一射であっただろう。そして、この「常識的にはあり得ないが、完全には否定しきれない」という絶妙なリアリティのラインこそが、この逸話に不思議な説得力を与え、人々を魅了し続ける大きな要因となっているのである。技術的な困難さが、かえって狙撃手の技量を神格化し、伝説の価値を高めるという逆説的な構造がここには存在する。
第五章:伝説の形成と変容 ―「馬印」を撃ち折る物語へ
「信長が足に鉄砲傷を負った」という史実の核は、時を経て、いかにして「雑賀孫市が信長の馬印を撃ち折る」という、より洗練された英雄譚へと発展していったのだろうか。その背景には、物語を消費する人々の需要と、それに応える語り手たちの創作活動があった。
英雄譚への昇華
戦乱の世が終わり、徳川幕府による泰平の時代が訪れると、人々はかつての戦国時代の物語を講談や読み物といった娯楽として享受するようになった 17 。こうした場で求められたのは、無味乾燥な事実の記録ではなく、勧善懲悪がはっきりし、英雄が華々しく活躍する、痛快で分かりやすい物語であった。
この民衆の需要に応える形で、「信長を撃った名もなき兵士」の功績は、雑賀衆という反骨の集団を象徴するスター、雑賀孫市という一個人の手柄へと集約されていった。特に、幕末の浮世絵師・落合芳幾が描いた『太平記英勇傳』シリーズの一枚「鈴木孫市」は、鉄砲を構え、敵陣を睨みつける英雄としての孫市の姿を視覚的に描き出し、そのイメージを民衆の間に広く浸透させる役割を果たした 18 。このようなメディアを通じて、伝説はさらに強固なものとして定着していったのである。
「馬印」という象徴への変化
そして、この伝説化の過程で、物語はさらなる「創作的進化」を遂げる。それが、利用者様が当初提示された「信長の馬印を遠撃ちで撃ち折る」というバリエーションの誕生である。史実では「信長の足を撃った」はずの物語が、なぜ「馬印を撃った」へと変化したのか。そこには、物語をより劇的に、より象徴的にするための、巧みな改変の意図が見て取れる。
第一に、 象徴性の獲得 である。信長の身体を直接傷つける行為は、あくまで物理的な攻撃に過ぎない。しかし、「馬印」、すなわち総大将の権威と存在そのものを戦場で示す旗印を撃ち抜くという行為は、単なる攻撃を超えて、信長の「権威」そのものに対する挑戦という、極めて象徴的な意味合いを帯びる。それは、雑賀衆の独立不羈の精神を表現する上で、これ以上ない演出であった。
第二に、 物語としての洗練 である。狙撃手の技量の高さを誇示する上で、人間という比較的大きな的を狙うよりも、風になびく旗印の、さらにその中心にある紋や竿といった小さな的を正確に撃ち抜く方が、はるかに高度な技術を要するように感じられる。物語は、語り継がれる中で、より面白く、より英雄の超人性を際立たせる方向へと自然に、あるいは意図的に洗練されていく。つまり、「足を撃つ」という生々しい事実から、「馬印を撃つ」という様式美に満ちた物語へと昇華させることで、聴衆や読者はより高いカタルシスを得ることができたのである。
この物語の変容は、歴史的事実の風化というよりも、むしろ「物語市場」における需要と供給の力学によって能動的に引き起こされた、文化的な現象であったと結論付けられる。民衆が求める「天下人に一矢報いる反骨の英雄」という物語に対し、語り手たちは史実という素材をより劇的に加工して提供した。その究極の形が、「馬印狙撃譚」だったのである。
結論:雑賀孫市、英雄像の完成
本報告書で多角的に検証してきたように、「雑賀孫市、信長を狙撃す」という逸話は、天正4年の天王寺の戦いにおける「信長の負傷」という一つの歴史的事実を核としながら、そこに雑賀衆の卓越した鉄砲技術という現実的な裏付け、雑賀孫市という英雄への民衆の期待、そして後世の物語作者たちによる創作的な脚色が幾重にも重なり合って形成された、壮大な伝説である。
この物語の価値は、それが史実か否かという二元論的な問いによってのみ測られるべきではない。むしろ、この逸話は、戦国の世に確かに存在した、中央の巨大な権力に容易には屈しない地方勢力の独立不羈の精神 4 と、旧来の戦の形を根底から覆した鉄砲という新技術の衝撃を、雑賀孫市という一人の英雄の姿に見事に結晶させた、不朽の文化的遺産として捉えるべきであろう。
史実において信長の足を撃ち抜いた鉛弾は、一人の兵士の功績として歴史の闇に消えたかもしれない。しかし、物語の中で雑賀孫市が放った一弾は、信長の権威を撃ち、時を超えて人々の心を撃ち抜き、彼を「天下人に挑んだ不屈の狙撃手」として、歴史の中に永遠に刻み込むことになったのである。
引用文献
- 信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9889
- 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
- 雑賀孫市 和歌山の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-magoichi/
- 雑賀衆 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saigaSS/index.htm
- 織田信長が天正4(1576)年に本願寺と天王寺の辺りで戦った際、織田信長が足に鉄砲傷を受けたそうだが... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000279679&page=ref_view
- 第74話 石山本願寺を攻めに大苦戦 織田信長の異例な助け方? https://akechikai.or.jp/archives/oshiete/59924
- 信長・秀吉・家康が恐れた紀伊国...一大勢力「雑賀衆」の消滅とその後 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9886
- 「雑賀孫一(鈴木重秀)」戦国一のスナイパー!? 紀州鈴木一族の棟梁 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/131
- 天王寺の戦い (1576年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1576%E5%B9%B4)
- 戦国最強の鉄砲集団登場!?雑賀孫市と「孫市まつり」〜雑賀孫市の自主独立 - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/historical-greats-saikasyu-2023-2/
- 信長を狙撃した雑賀孫一が使用した銃のスペックは? https://www.rakuten.ne.jp/gold/auc-outsider/column/kyara-12.html
- 火縄銃とはどんな武器?仕組みや使用方法、種類を解説 https://katana-kaitori.com/7108
- 【戦国トリビア】火縄銃の威力ってどんだけだったの? https://www.kyozuka.com/entry/2020/10/08/190000
- 弓矢と火縄銃、果たしてどっちが強い? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=3sUvGIWNPDA
- 火縄銃 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%B8%84%E9%8A%83
- 鉄砲伝来と戦いの変化/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113823/
- 「 尻啖え孫市」司馬遼太郎 著 講談社文庫 - 鳥取大学医学部附属病院 https://www2.hosp.med.tottori-u.ac.jp/kanijiru/backnumber/vol13/series/34081.html
- 芳幾 Yoshiiku 『太平記英勇傳 鈴木飛騨守重幸』-雑賀孫市-【浮世絵 武者絵 Ukiyo-e Worriors ... - 古美術もりみや http://www.morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/U638.html
- 古美術もりみや/落合芳幾 Yoshiiku 『太平記英勇伝 鈴木孫市』 https://morimiya.net/online/ukiyoe-syousai/M332.html
- 戦国最強の鉄砲集団登場!?雑賀孫市と「孫市まつり」 - オマツリジャパン https://omatsurijapan.com/blog/historical-greats-saikasyu-2023-1/