雑賀孫市
~火縄が消えぬうちは死なぬと言い放つ~
雑賀孫市は「火縄が消えぬうちは死なぬ」と豪語。信長狙撃の史実を核に、鉄砲への信頼と独立精神が結びつき、司馬遼太郎の創作で伝説となった。
『火縄が消えぬうちは死なぬ』— 雑賀孫市・鉄砲豪語譚の徹底解剖
序章:伝説の銃声 — 逸話の提示と本報告の射程
戦国時代の乱世、数多の武将がその武勇を語り継がれる中、ひときわ異彩を放つ一人の男がいる。紀州雑賀衆を率いた鉄砲傭兵集団の頭領、雑賀孫市(さいか まごいち)。彼を象徴する逸話として、現代にまで広く知られているのが、『銃弾を受けても「火縄が消えぬうちは死なぬ」と言い放った』という、いわゆる鉄砲豪語譚である。この一言は、死の淵にありながらも揺るがぬ剛胆さと、己が手にする鉄砲という武器への絶対的な信頼を凝縮した、戦国武将の気概を示すものとして、多くの人々の心を捉えてきた。
しかしながら、本報告の出発点として、まず提示しなければならない極めて重要な事実がある。提供された全63件の調査資料を精査した結果、この鮮烈な逸話そのものを直接的に記述した、同時代の一次史料(例えば『信長公記』など)や、それに準ずる信頼性の高い二次史料(江戸時代中期に成立した軍記物など)は、現在のところ確認されていない 1 。
この「史料の不在」こそが、本報告が解明すべき核心的な課題である。我々は、単に逸話の真偽を判定し、それを「虚構」として切り捨てることを目的としない。むしろ、「なぜこの逸話は、史料的裏付けがないにもかかわらず、これほどまでに雑賀孫市という人物を象徴する物語として、力強く語り継がれているのか?」という、より深い問いに答えることを目指す。
そのために、本報告は三部構成を採る。第一部では、逸話の「言葉」そのものを技術的側面と精神的側面に分解し、そこに込められた意味を解剖する。第二部では、逸話が生まれた歴史的土壌、すなわち、この伝説を「ありそうな話」として受容させるに至った「史実」の存在を明らかにする。そして第三部では、この逸話が近代以降、いかにして確固たるイメージを獲得し、我々の知る英雄像を完成させたのかを、物語の世界から考察する。史実の断片と言葉の力が交差する点にこそ、伝説の核心は隠されているのである。
第一部:逸話の解剖 — 言葉に込められた二重の意味
この豪語譚が持つ力は、その言葉が「技術的なリアリティ」と「精神的な矜持」という二重の層を内包している点にある。この二つの側面を分析することで、雑賀孫市と彼が率いた集団の本質が浮かび上がってくる。
技術的視点:「火縄」という生命線
雑賀孫市の言葉を理解する上で、まず不可欠なのが、彼らが駆使した火縄銃という武器のメカニズムへの理解である。当時の火縄銃は、火のついた縄(火縄)を、火薬を盛った火皿に叩きつけることで発火させる「緩発式(マッチロック)」と呼ばれる仕組みであった 3 。この構造上、射手にとって燃え続ける火縄は、単なる道具の一部ではなく、文字通り戦闘能力を維持するための「生命線」であった。
火縄の火が消えれば、いかに屈強な兵士であろうと、その手に持つ銃はただの重い鉄の筒と化す。つまり、火縄が消えることは、射手にとっての「機能的な死」を意味した。雑賀衆が雨天でも射撃を可能にするための笠などの工夫を凝らしていたという記録 4 は、この火縄の維持がいかに死活問題であったかを雄弁に物語っている。
この技術的背景を踏まえて孫市の言葉を再解釈すると、全く異なる側面が見えてくる。「火縄が消えぬうち」という条件は、「私が射手として機能している間」という言葉と完全に同義である。彼は、銃弾を受け、肉体が傷つくという「生物学的な危機」よりも、火縄が燃え続け、射手として未だ機能しているという「技術的な事実」を優先しているのだ。これは単なる精神論や虚勢ではない。自らの存在価値を「雑賀衆の頭領・孫市」というプロフェッショナルな役割に見出していた彼にとって、極めて即物的かつ合理的な自己評価であったと言える。彼のアイデンティティは、一個の人間としての生命以上に、戦場における機能と役割に深く根差していたのである。
精神的視点:「死なぬ」という矜持
一方で、「死なぬ」という断言には、雑賀衆という特異な集団が育んだ、強烈な精神性が込められている。彼らは特定の戦国大名に恒常的に仕える家臣団ではなく、地侍たちの連合による自治組織「惣国(そうごく)」を形成し、独立不羈(どくりつふき)の道を歩んでいた 5 。彼らの誇りの源泉は、主君への忠誠ではなく、自らの腕前と、誰にも支配されない自由にあった。「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」とまで謳われた 6 彼らにとって、戦場とは自らの価値を証明する舞台であった。
この文脈において、孫市の「死なぬ」という言葉は、単なる延命への執着とは次元が異なる。それは、銃弾一発程度では、戦局を左右する自らの役割、ひいては雑賀衆という集団が持つ戦場の支配力は揺るがないという、絶対的な自信の表明なのである。
さらに、彼らが掲げた「八咫烏(やたがらす)」の紋は、日本神話において神武天皇を勝利に導いたとされる導きの神であり、勝利の象徴であった 8 。孫市自身が自らを「八咫烏の化身」と称するほどの誇りを持っていたという伝承 8 を踏まえれば、「死なぬ」という言葉は、一個人の生命力を超え、集団の勝利への執念と、神話的な自己認識にまで繋がっていた可能性が考えられる。
ここに、伝統的な武士道とは一線を画す、傭兵集団・職人集団ならではの特異な死生観が垣間見える。武士にとっての「誉れある死」が、しばしば主君への忠義や家の名誉のために命を散らすことにあったのに対し、特定の主君を持たない彼らにとっての存在価値は、契約を履行し、戦場で結果を出すことにあった。したがって、彼らにとっての「死」とは、生物学的な心停止のみならず、最強の鉄砲衆としての役割を果たせなくなること、すなわち「機能の停止」を意味した。「火縄が消えぬうちは死なぬ」とは、このプラグマティックで誇り高い死生観を、これ以上なく簡潔に、そして鮮烈に表現した言葉なのである。
第二部:起源への遡行 — 史実のなかの蓋然性
逸話そのものが史料に見られない以上、次に問うべきは「なぜ、そのような逸話が生まれ得たのか」という点である。伝説は完全な無からは生まれない。多くの場合、人々の記憶に強く刻まれた史実の「核」が存在し、それを中心に物語が形成されていく。この逸話の背景には、まさに伝説の核となりうる、衝撃的な歴史的事件が存在した。
史料の沈黙と雄弁:信長狙撃事件
この逸話の起源を探る上で、避けては通れないのが、天正4年(1576年)5月に起こった天王寺合戦である。この戦いにおいて、雑賀衆は石山本願寺を支援し、織田信長率いる大軍と激突した。この時の様子を記した一次史料『信長公記』には、信長自身が雑賀衆の鉄砲玉によって足を負傷したという、驚くべき記録が残されている 2 。
後世の記述などを参考にこの劇的な瞬間を再現すると、その情景は以下のようであったとされる。敗報に接し、自ら前線へと乗り出してきた信長。その軍勢の中に、異様な南蛮風の兜(唐人兜)をつけた武将の姿を認めた孫市(鈴木重秀)は、それが信長本人であると確信する 9 。彼は即座に自ら鉄砲を構え、引き金を絞った。放たれた弾丸は、偶然信長の前に立ちふさがった足軽の身体を貫通し、さらに信長の足(脛)を掠めた。天下人・信長は、その場に崩れ落ちたという 9 。
この「信長狙撃」という事件は、雑賀孫市という人物が、単なる一介の傭兵隊長ではなく、当代随一の権力者である信長を直接の脅威に陥れるほどの、卓越した射撃技術と比類なき剛胆さを兼ね備えていたことを示す、動かぬ証拠である。この史実が持つ圧倒的なインパクトこそが、「火縄が消えぬうちは死なぬ」という伝説を生み出すための、必要十分な土壌となった。
人々は、「天下人・信長を撃った男」という規格外の事実を前に、こう想像を膨らませたに違いない。「そのような偉業を成し遂げた男ならば、きっと銃弾を受けた程度では動じず、あのような剛胆な言葉を口にしたに違いない」と。つまり、この豪語譚は、史実そのものではないかもしれないが、史実が指し示す人物像の延長線上に、極めて自然に発生しうる「ありそうな話」として、人々の間で受容されていったのである。信長狙撃という歴史的な「行動」が、後世、「言葉」という形の伝説となって補完されたと考えるのが、最も蓋然性の高い推論であろう。
伝説の萌芽:江戸期軍記物における英雄像の形成
信長狙撃という核から芽生えた伝説は、江戸時代という新たな土壌で育まれていく。泰平の世となった江戸時代には、『常山紀談』 1 に代表されるような、戦国時代の武将たちの言行を記した軍記物が数多く編纂された。これらの書物は、単なる歴史記録ではなく、武士の教訓や庶民の娯楽として、物語的な面白さが重視される傾向にあった。個々の武将の性格はより際立たせられ、その人物を象徴するような逸話が挿入・創作されることも少なくなかった。
調査資料の範囲では、江戸期の主要な軍記物にこの豪語譚が直接記録されている例は見当たらない。しかし、この時代に数多の武勇伝が講談や口伝といった形で流布し、英雄像が形成されていったことは間違いない。この逸話もまた、そうした口承文芸の世界で語られ、後の時代に記録される素地が作られていった可能性は十分に考えられる。
【表1】雑賀孫市の史実と伝説の比較
雑賀孫市という人物を正確に理解するためには、史料によって裏付けられる事実と、後世に形成された伝説の境界線を明確に区別する必要がある。以下の表は、その両者を比較整理したものである。
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史料に基づく史実 |
後世に形成された伝説・逸話 |
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実名は鈴木重秀(しげひで)である 10 |
『火縄が消えぬうちは死なぬ』という豪語譚 |
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石山合戦で本願寺方の主力として参戦 7 |
暗闇に飛ぶ蛍を撃ち落としたという神業 12 |
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本願寺方から「大坂之左右之大将」と称された 11 |
朝鮮に渡り「沙也加(さやか)」と名乗り将軍になった 12 |
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天正4年、天王寺合戦で信長の足を狙撃し負傷させる 2 |
司馬遼太郎の小説に描かれる、無類の女好きで自由闊達な人物像 13 |
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鉄砲の集団運用戦術に長けた指揮官であった 15 |
八咫烏の化身を自称したという伝承 8 |
この表が示すように、左列の「史実」は、それ自体が極めて劇的であり、右列の「伝説」が生まれるに足る説得力を持っている。特に「信長狙撃」という事実は、他のあらゆる伝説の信憑性を担保するほどの強い輝きを放っている。人々がこの逸話を信じ、語り継いできた背景には、こうした動かしがたい史実の裏付けがあったのである。
第三部:虚構の完成と再現 — 近代に蘇る英雄の息吹
信長狙撃という史実を核として生まれた逸話は、近代に至り、ある一つの強力な「物語」と出会うことで、その輪郭を決定的なものとし、現代にまで至る不動のイメージを確立した。
決定的影響:司馬遼太郎の『尻啖え孫市』
その物語とは、昭和の国民的作家、司馬遼太郎が著した歴史小説『尻啖え孫市』である。この作品で描かれた雑賀孫市像は、それまでの歴史上の人物としての彼を、一躍、大衆的なヒーローへと押し上げた。司馬遼太郎が描いた孫市は、豪放磊落で権威を嫌い、何ものにも縛られない自由な魂を持ち、そして無類の女好きという、極めて人間味あふれる魅力的なキャラクターであった 14 。
重要なのは、この司馬遼太郎によって創出され、確立されたキャラクター像が、『火縄が消えぬうちは死なぬ』という言葉を発する人物として、完璧に符合する点である。信長が率いる十万の大軍を前にしても臆することなく、「天下の信長と四つに組んだ相撲が取れる」と哄笑する 14 小説の孫市は、まさに銃弾を受けても不敵に笑うであろう人物として、読者の心に深く刻み込まれた。
この小説の絶大な人気により、逸話は具体的な人格と感情を伴って再生され、あたかも史実であるかのような鮮烈なリアリティを獲得した。多くの人々にとって、この豪語譚は、その真偽や出典を問う以前に、「司馬遼太郎の描いたあの孫市ならば、きっとそう言ったに違いない」と納得させるだけの力を持ったのである。これは、優れたフィクションが、歴史上の人物のパブリックイメージをいかに決定づけるかを示す、象徴的な事例と言える。豪語譚の現代における流布と定着は、新たな史料の発見によるものではなく、強力な物語による「追認」と「拡散」の結果なのである。
逸話のリアルタイム再現(歴史考証に基づく創作的再構成)
【注意】
本項は、利用者様の要望である「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を可能な限り再現するための試みであり、史料に基づくものではなく、歴史考証を元にした物語的な再構成である。
舞台:天正4年(1576年)5月、摂津国・天王寺砦周辺
硝煙が霧のように立ち込め、鬨の声と鉄砲の轟音が絶え間なく鼓膜を揺さぶる。石山本願寺を三重に囲む織田の大軍に対し、雑賀衆は地の利を活かしたゲリラ戦で抵抗を続けていた。その最前線に、八咫烏の紋を染め抜いた真紅の陣羽織が翻る。雑賀孫市、その人である。
- 状況: 孫市は、自らも手にした長銃身の雑賀筒を土塁に預け、冷静に戦況を見極めながら、的確な指示を飛ばしていた。「三段目の者ども、構え! 敵の足軽大将、あの朱槍の男を狙え!」彼の号令一下、数十の銃口が火を噴き、織田方の前線に血の華が咲く。
- 被弾: しかし、敵もさるもの。織田軍の鉄砲隊から放たれた一斉射撃の弾幕が、孫市の陣取る土塁を襲う。その刹那、孫市の左肩に焼けるような衝撃が走った。敵の鉛玉が、分厚い胴鎧の隙間を縫って、彼の肉を抉ったのだ。陣羽織がじわりと赤黒く染まり、その巨体がわずかに揺らぐ。
- 周囲の反応: 「若(かしら)!」「孫市様、ご無事か!」側近の兵たちが、血相を変えて駆け寄ろうとする。頭領の負傷は、部隊の士気に致命的な動揺を与えかねない。一瞬、雑賀衆の射撃が途絶え、戦線に不吉な静寂が訪れようとした。
- 孫市の行動: だが、孫市は痛みに顔を歪めるどころか、むしろ口の端に獰猛な笑みを浮かべた。彼は駆け寄ろうとする兵たちを片手で制すると、傷口を一瞥し、次いで自らが構える鉄砲の火皿に目を落とす。そこでは、火縄がなおも赤々とした光を放ち、いつでも火薬を発火させられる状態を保っていた。
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発言: 孫市は、動揺する兵たちを一喝するように、あるいは戦場全体に響き渡るような朗々たる声で、こう言い放った。
「騒ぐな。弾の一つや二つ、掠っただけじゃ。火縄が消えぬうちは、わしは死なぬ!」 - 影響: その言葉は、単なる虚勢ではなかった。それは、自らの存在価値を熟知したプロフェッショナルの宣言であり、揺るぎない覚悟の表明であった。兵たちの動揺は、その一言で霧散する。恐怖は消え、代わりに、この比類なき頭領と共に戦うことへの誇りと高揚感が、再び彼らの心を支配した。孫市は、血の滲む肩で再び鉄砲を力強く構え直し、その銃口を、遥か彼方の敵本陣へと向けた。
結論:なぜこの逸話は語り継がれるのか
本報告における徹底的な調査の結果、『火縄が消えぬうちは死なぬ』という雑賀孫市の豪語譚が、同時代の史料に記録された 史実である可能性は極めて低い と結論付けられる。その言葉が、いつ、誰によって、どのような文脈で語られ始めたのか、その正確な起源を特定することは困難である。
しかし、この逸話は、史実ではないからこそ、雑賀孫市という人物と、彼が率いた雑賀衆という集団の**本質を凝縮した「真実」**を内包している。その「真実」とは、以下の三つの要素の結晶である。
第一に、最新技術(鉄砲)への絶対的な信頼と、それを使いこなす卓越した技量。
第二に、いかなる中央権力にも屈しない、独立不羈の自由な精神。
そして第三に、自らの役割(機能)こそが存在価値であるとする、職人的な死生観。
この逸話は、天下人・織田信長を狙撃したという衝撃的な史実を核とし、江戸時代の講談や軍記物といった物語文化の中でその芽を育み、そして近代、司馬遼太郎という傑出した作家の筆によって、血肉の通った英雄の言葉として完成された、歴史と創作のハイブリッドなのである。
人々がこの逸話に強く惹きつけられるのは、それが単なる過去の出来事の記録ではなく、逆境のさなかにあっても自らの矜持と存在価値を見失わない、普遍的な人間の強さを描いた「物語」だからに他ならない。雑賀孫市の銃声は、史実の行間を埋める物語の力によって、時代を超え、今なお我々の心を撃ち続けているのである。
引用文献
- 孫一なる人物の正体 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/kisyu/magoichi2.html
- 「雑賀孫一(鈴木重秀)」戦国一のスナイパー!? 紀州鈴木一族の棟梁 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/131
- 根来衆と鉄砲~その① 鉄砲と大砲 その開発の歴史 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/10/11/185741
- 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
- 雑賀衆 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saigaSS/index.htm
- 夢とロマンのあるれるまちに - ようこそ!和歌山市駅前【孫市の街】へ【まごりんの街】へ http://magorin.web.fc2.com/machizukuri01.htm
- 雑賀衆 と 雑賀孫市 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
- 雑賀孫市 和歌山の武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/kansai-warlords/kansai-magoichi/
- 信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9889
- 鈴木重意 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E6%84%8F
- 鈴木重秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E9%87%8D%E7%A7%80
- 雑賀孫一:謎めいた戦国スナイパーの生涯を解き明かす - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/n7101ed0d6e33
- 武将台詞集【雑賀衆/所属友好時】 - 信onとりっぷ https://nobuontrip.blog.jp/archives/13967292.html
- 尻啖え孫市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BB%E5%95%96%E3%81%88%E5%AD%AB%E5%B8%82
- 市駅地区のエース像「雑賀孫市」夢とロマンのあふれる街に・・・ http://www.mago1jyou.com/machiokoshi/machizukuri01.htm
- 戦国最強の傭兵集団・雑賀衆をトップとして覇王・織田信長に勝利した【雑賀孫一】とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/38668
- 雑賀孫市で街おこし-『孫市の会』のたたかい https://mago8.web.fc2.com/machiokoshi/siraisi-kikou.htm
- 「 尻啖え孫市」司馬遼太郎 著 講談社文庫 - 鳥取大学医学部附属病院 https://www2.hosp.med.tottori-u.ac.jp/kanijiru/backnumber/vol13/series/34081.html