最終更新日 2025-10-25

高山右近
 ~追放時に信は我が国と言い残す~

高山右近の「信は我が国」逸話は、信仰のため全てを捨て国外追放されたキリシタン大名の揺るぎない生涯を象徴。その史実性と殉教の深層を考察する。

高山右近「信は我が国」殉教譚の深層:慶長十九年、祖国との訣別における史実と象徴

序章:語り継がれる言葉―「信は我が国」という殉教譚

戦国時代のキリシタン大名、高山右近(ジュスト)。彼が徳川幕府による国外追放令を受け、長崎からマニラへ向かう船上で言い残したとされる「信は我が国」という一節は、彼の信仰に殉じた壮絶な生涯を象徴する言葉として、後世にわたり多くの人々の心を捉えてきた。この言葉は、領地も、財産も、そして生まれ育った祖国さえも捨てて、ただひたすらに神への信仰を選び取った武士の、揺るぎない決意表明として語り継がれている。

しかし、この劇的な逸話は、歴史の真実をどの程度反映しているのだろうか。それは、慶長十九年(1614年)の長崎港で実際に発せられた言葉なのか、それとも、彼の崇高な生涯が後世の人々によって昇華され、結晶化した「殉教譚」の一部なのであろうか。

本報告書は、この「信は我が国」という逸話に焦点を絞り、その史実性、出典、そしてそれが一つの「文化的記憶」として形成されていく歴史的プロセスを、同時代に記録されたイエズス会の一次史料にまで遡って徹底的に解明するものである。単に逸話の真偽を問うに留まらず、一つの言葉がいかにして歴史的象徴となり得たのか、その力学を多角的に分析・考察することを目的とする。

まず、本報告全体の理解を助けるため、高山右近の国外追放に関連する主要な出来事を時系列で以下に示す。

表1:高山右近 国外追放に至る主要時系列表

年(西暦)

出来事

天正15年 (1587)

豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。右近は棄教を拒否し、播磨明石6万石の領地を失う 1

天正16年 (1588)

前田利家の客将として加賀国金沢に迎えられる 3

慶長19年 (1614) 1月

徳川家康(大御所)が全国にキリスト教禁教令を発布。宣教師および高山右近、内藤如安らの国外追放を決定する 5

慶長19年 (1614) 1月下旬

幕府の命令が金沢に到達。右近は一族と共に、ほとんど猶予なく金沢を退去させられる 8

慶長19年 (1614) 2月-10月

京都、大坂等を経て長崎へ護送される。

慶長19年 (1614) 11月8日

右近、内藤如安ら148名のキリシタン、宣教師と共に長崎港からマニラ、マカオへ向けて出航する 10

慶長19年 (1614) 12月

右近一行、マニラに到着。スペイン領フィリピン総督フアン・デ・シルバらから国賓級の歓迎を受ける 6

元和元年 (1615) 2月3日

右近、長旅の疲労と熱病によりマニラで死去。享年63 13

第一章:慶長十九年の激震―キリシタン国外追放令

1-1. 禁教令の背景

慶長十九年(1614年)、徳川家康が発した全国規模のキリスト教禁教令は、日本の宗教政策における決定的な転換点であった。その直接的な引き金となったのは、キリシタンであった岡本大八と有馬晴信による収賄事件、いわゆる「岡本大八事件」である 16 。しかし、この事件はあくまで口実に過ぎず、その根底には、徳川幕府が確立を目指す中央集権的な封建体制と、キリスト教共同体が持つ強固な結束力との間に存在する、看過できない緊張関係があった。

幕府の目には、全国に30万人を超えたとされる信徒たちが、教会の指導のもとに団結し、世俗の権力とは異なる権威(すなわち神)に忠誠を誓う姿は、幕藩体制の秩序を揺るがしかねない潜在的な脅威と映った 5 。さらに、豊臣秀吉の時代から懸念されていた問題、すなわちポルトガル商人による日本人奴隷貿易 17 や、キリスト教布教の背後にスペイン・ポルトガル両国の軍事的・政治的野心が見え隠れすることへの警戒感も、禁教政策を正当化する大きな要因となっていた 18

1-2. 「主君殺しの教え」という論理

幕府が禁教令の正当性を国内外に示すために用いた論理は、臨済宗の僧侶であり、家康の政治顧問であった金地院崇伝が起草したとされる「伴天連追放文」に集約されている 20 。この文書においてキリスト教は、日本の「神国」思想と相容れず、神仏を誹謗し、社会秩序の根幹を破壊する「邪法」であると厳しく断罪された。

特に問題視されたのは、キリスト教の教えが、幕府の支配イデオロギーである儒教的な徳目、すなわち主君への「忠」や親への「孝」といった価値観と根本的に対立するという点であった。デウス(神)への絶対的な忠誠を説く教えは、主君や親の命令に背くことを是とする「主君殺しの教え」であると解釈され、国家の根幹を揺るがす危険思想として排斥の対象とされたのである 19 。この禁教令は、単なる宗教弾圧ではなく、日本の国家アイデンティティと統治体制の根幹をめぐる「イデオロギー闘争」の様相を呈していた。

1-3. 標的とされた右近

数多く存在するキリシタンの中で、なぜ高山右近が名指しで追放対象者の筆頭に挙げられたのか。それは彼が、単なる一信徒ではなく、かつて高槻・明石の領主として領民をこぞって改宗させ、多大な影響力を持ったキリシタンの指導者であったからに他ならない 21

右近は、天正十五年(1587年)の豊臣秀吉によるバテレン追放令の際にも、6万石の大名の地位を潔く捨てて信仰を貫いた過去を持つ 1 。その不動の姿勢は、絶対的な服従を求める為政者にとって、「体制に従わない人物」の象徴として記憶されていた。徳川幕府にとって、この影響力のある象徴的存在を日本国内に留め置くことは、将来的な火種を抱え込むに等しい。したがって、右近を追放することは、他のキリシタンに対する「見せしめ」として、極めて重要な政治的意味合いを持っていたのである。彼の追放は、一個人の処遇を超え、「幕府の秩序に従わない者は、たとえかつての大名であろうと国内に居場所はない」という、徳川政権の強烈なメッセージであった。

第二章:訣別と苦難の旅路―金沢から長崎へ

2-1. 金沢での最後の日々

慶長十九年(1614年)正月、幕府からの追放命令は、厳寒の金沢城下にいる右近のもとへ突きつけられた。当時、右近を客将として庇護していた加賀藩主・前田利常は、彼の築城や茶の湯における卓越した才能を高く評価していたが、幕府の厳命に逆らうことはできなかった 3 。史料によれば、右近とその一族に与えられた退去の猶予はほとんどなく、わずか一昼夜で旅の支度を整えることを余儀なくされたという 9 。突然の別れを惜しむ加賀の人々に見送られ、右近は26年間にわたって身を寄せた地を後にした。

2-2. 厳冬の北陸路

当時63歳の右近にとって、真冬の北陸路を徒歩で京都へ、そして長崎へと向かう旅は、想像を絶する過酷なものであった 6 。この旅路は、単なる物理的な移動であると同時に、彼の信仰が試される精神的なプロセス、すなわち「殉教」の始まりであった。

そのことを象徴する逸話が残されている。周囲が右近の身を案じて駕籠を用意したところ、彼はそれを丁重に断り、次のように述べたと伝えられる。「それがしは、わが宗祖(イエス・キリスト)がなされたように、徒歩にて進みたいのです。これは信仰に基づく切なる願いです」 23 。そして、妻や孫を励ましながら、一行の先頭に立って深い雪の積もる峠を越えていったという。この行動は、単なる苦行ではなく、十字架を背負いゴルゴタの丘へ向かったキリストの受難を、自らの身をもって追体験しようとする、意識的な信仰表現であった。この「苦難の旅」という経験は、後に彼の死が「殉教」として意味づけられる上で、重要な伏線となった。

2-3. 長崎への護送

金沢を発った右近一行は、罪人として扱われながら京都、大坂を経て、追放船の出る最終目的地、長崎へと護送された。長崎では、同じく国外追放を命じられた元キリシタン大名の内藤如安(ジョアン)とその一族、そして日本各地から集められた宣教師たちと合流した 11 。出航を待つ間、港に集められた追放者たちは、二度と踏むことのできない祖国の地を前に、不安と覚悟が入り混じった複雑な心境で日々を過ごした。その様子を、長崎の街の片隅から、潜伏を余儀なくされた信徒たちが、祈りと共に見守っていたことであろう。

第三章:祖国との別離―長崎出航の刻

3-1. 慶長十九年十一月八日の長崎港

慶長十九年(1614年)十一月八日、高山右近、内藤如安ら148名の日本人キリシタンと国内外の宣教師たちは、3隻の船に分乗させられ、マニラとマカオへ向けて長崎港を出航した 10 。港は長崎奉行・長谷川権六の厳しい監視下にあり、厳戒態勢が敷かれていたと推測される 25 。見送りに来た信徒たちも、公然と彼らに近づくことは許されなかったであろう。寒風吹きすさぶ波止場を離れる船上から、右近は何を思い、何を語ったのか。この瞬間こそが、本報告書の核心となる逸話の舞台である。

3-2. 逸話の検証①:「信は我が国」の出典

高山右近がこの出航の際に「信は我が国」と語ったという逸話は、非常に有名である。しかし、この言葉の出典を同時代の一次史料に求めると、極めて困難な壁に突き当たる。

右近と共にマニラへ追放され、その最期までを看取ったイエズス会士ペドロ・モレホン神父は、後に詳細な報告書『日本におけるキリシタン迫害の小報告』( Relacion de la persecucion que vuo en la yglesia de Iapon... )を著している 26 。この報告書は、追放の経緯やマニラでの右近の様子を伝える最も重要な一次史料であるが、その中に「信は我が国」という発言を記録した箇所は 見当たらない 。他のイエズス会年報や関連書簡においても、この言葉を直接的に記したものは確認されていない。

この言葉が右近の発言として広く定着したのは、禁教の時代が終わり、キリシタン史の研究が本格化した明治期以降の伝記や研究、特に海老沢有道氏の著作『高山右近』などの影響が大きいと考えられる 13 。これらの著作を通じて、右近の崇高な精神性を象徴する言葉として紹介され、広く知られるようになったのである。

3-3. 逸話の検証②:南北朝武将の和歌

一方で、右近が国を去る際に、自らの心情を重ねて詠んだとされる、より具体的な伝承が存在する。それは、南北朝時代の武将・名和長年が詠んだとされる和歌に倣ったものとされている。

「梓弓(あずさゆみ)引きてもとまじ 生き帰る 名をば仏の みまえにぞ書く」 29

この歌は、「(弓を引いて引き留められても、もう留まることはない)生きて帰ることはないだろう。死んで仏(神)の御前に赴く者として、自分の名を書き記しておく」といった意味に解釈できる。これは、死を覚悟し、来世に望みを託すという、武士としての潔い死生観を示すものである。具体的な文化的行為(和歌)として伝えられている点から、「信は我が国」という抽象的な言葉よりも、実際に詠まれた可能性が高いと考えられる。

3-4. 逸話の思想的背景

では、「信は我が国」という言葉は全くの創作なのだろうか。文字通りの発言でなかったとしても、その根底にある思想は、紛れもなく右近の生涯を貫くものであった。その証左は、秀吉のバテレン追放令の際に、彼の棄教を説得するために遣わされた茶頭・千利休への返答に見ることができる。

イエズス会の記録によれば、右近はこの時、次のような趣旨の返答をしたとされる。「私は地上の主君として秀吉公に従う。しかし、それよりも高く、絶対的に従うべき義務を負うのは、天上の主君、イエス・キリストである。生命そのものと永遠の救いの約束を授けてくださったこの御方を、私が見捨てることはできない」 21

この言葉は、封建社会における主君への忠誠という絶対的な価値観よりも、神への信仰という普遍的な価値を優先するという、右近の確固たる信念を明確に示している。これこそが、まさに「信こそが私の帰属する国である」という思想そのものである。したがって、「信は我が国」という言葉は、出航の際に発せられた文字通りの記録(verbatim record)ではなく、彼の思想的本質を、後世の人々が凝縮して表現した「真実の要約(historical truth)」であったと結論づけるのが最も妥当であろう。

第四章:逸話の形成と昇華―殉教者・右近の誕生

4-1. ヨーロッパへの報告と英雄化

高山右近の追放とマニラでの死は、ペドロ・モレホンをはじめとするイエズス会士によって、ヨーロッパのカトリック世界へ詳細に報告された 26 。これらの報告書は、イエズス会年報としてラテン語、スペイン語、イタリア語、英語などに翻訳され、ヨーロッパ各地で出版された 33

当時、宗教改革の嵐が吹き荒れるヨーロッパにおいて、カトリック教会は信徒の結束を固めるための英雄を必要としていた。その中で、極東の国・日本の高貴な武士(Daimyo)が、信仰のために全ての地位と財産を捨て、追放の果てに死んだという物語は、信徒を鼓舞するための理想的な英雄譚として、極めて戦略的に紹介された 21 。右近は「キリストのサムライ(Samurai of Christ)」として、ヨーロッパでその名を知られる存在となったのである。

4-2. 「長い忍耐がいる殉教」という解釈

右近は、火刑や斬首といった直接的な処刑によって命を落としたわけではなく、マニラ到着後わずか40日で熱病により病死した 13 。しかし、カトリック教会は彼の死を「殉教」と認定した。その神学的な根拠は、彼の死が、信仰を理由とした追放という過酷な運命を受け入れた直接的な結果であるという解釈にある。

信仰のために地位、財産、そして祖国を捨て、苦難の旅の末に異郷の地で命を落としたこと自体が、血を流す殉教と同等の、あるいはそれ以上に崇高な信仰の証しであると見なされたのである。これは「 長い忍耐がいる殉教 (long martyrdom of patience)」と呼ばれる概念であり、この解釈によって、彼の生涯全体が殉教へ至る聖なるプロセスとして意味づけられた 35

4-3. 日本における再評価と逸話の定着

250年以上にわたる長い禁教の時代を経て、明治時代に入りキリスト教が解禁されると、日本のカトリック教会内で右近を顕彰する動きが始まった 36 。彼の伝記が次々と出版され、その中で彼の崇高な精神性を端的に表す言葉として、「信は我が国」のような象徴的な逸話が強調され、受容されていった。このプロセスを通じて、逸話は具体的な歴史的文脈からある種切り離され、独立した美談として日本社会に定着していったと考えられる。右近の物語は、近代化の中で新たな精神的支柱を模索していた日本において、国境を超えた普遍的な信念に生きた日本人の姿として、再評価されたのである。

4-4. 現代における列福

そして2017年2月、高山右近はカトリック教会によって、聖人に次ぐ崇敬の対象である「福者」に列せられた 38 。これは、彼の「殉教」が、400年の時を経て公式に認められたことを意味する。列福の理由書には、彼が信仰のために全ての社会的地位と財産を放棄し、屈辱と追放を受け入れ、キリストと福音に忠実であり続けたことが記されている。それは、彼の生き方が、現代社会に生きる人々にとっても信仰の模範となりうることを、カトリック教会が全世界に向けて宣言した瞬間であった 22 。「信は我が国」という逸話は、この現代的な意味づけを象徴する言葉として、今なお力強く語り継がれているのである。

結論:史実と象徴の狭間で

本報告書における徹底的な調査の結果、高山右近が国外追放時に長崎港で「信は我が国」と発言したという直接的な一次史料は、現時点では確認できなかった。しかし、彼が同様の思想、すなわち地上の主君への忠誠よりも天上の主君への絶対的忠誠を優先するという信念を、それ以前から明確に表明していたことは、同時代の史料によって裏付けられている。

したがって、この「信は我が国」という言葉は、文字通りの発言記録(史実)というよりも、彼の生涯を貫いた信仰の本質を見事に捉えた、後世の「真実の要約」(象徴)と結論づけるのが最も適切である。それは、封建的な忠誠の枠組み(国や主君)を超克し、神への信仰という普遍的な価値に自らのアイデンティティの拠り所を見出した右近の精神性を、これ以上なく的確に表現した一節と言える。

この逸話の価値は、その史実性の有無を問うこと以上に、なぜこの言葉が400年という長大な時を超えて人々の心を打ち、語り継がれてきたのかを考察することにある。それは、高山右近という一人の武士の生き様が、時代や文化、宗教の壁を超えて、「人間は何に帰属し、何を最も大切なものとして生きるべきか」という根源的な問いを、現代に生きる我々に投げかけ続けるからに他ならない。彼の物語は、歴史の中に埋もれた遠い過去の出来事ではなく、我々自身の価値観を映し出す鏡として、今なお静かな、しかし力強い輝きを放っているのである。

引用文献

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