最終更新日 2025-10-27

黒田官兵衛
 ~秀吉に九州平定兵使わず智略譚~

黒田官兵衛の「兵を用いず九州平定」の智略譚を、理想と現実の対比から考察。彼の戦略思想、歴史的背景、そして後世に語り継がれた理由を解説。

黒田官兵衛「九州平定、兵を用いず」の智略譚 ― 理想と現実の狭間

序章:智将・黒田官兵衛と「九州無血平定」の神話

豊臣秀吉の天下統一を支えた二人の軍師、「両兵衛」。その一人、黒田官兵衛孝高(後の如水)の智謀を語る上で、ひときわ異彩を放つ逸話がある。天下統一の総仕上げとして九州平定に臨む秀吉に対し、官兵衛が「九州平定の法は兵を使わず」と進言したという智略譚である 1 。この言葉は、古代中国の兵法書『孫子』が説く「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という思想を体現するものとして、後世、官兵衛の人物像を鮮やかに彩ってきた 3

しかし、天正14年(1586年)から翌15年にかけて行われた実際の九州平定は、決して平穏な道のりではなかった。豊臣方の先遣隊が壊滅した戸次川の戦い、島津軍の組織的抵抗を打ち砕いた根白坂の戦いといった激戦が繰り広げられた 5 。さらに、平定後に官兵衛自身が豊前国(現在の福岡県東部から大分県北部)の統治において直面した国人一揆では、その鎮圧のために謀略を用い、多くの血が流れる凄惨な結末を迎えている 8

「兵を用いず」という理想と、数多の血が流れた現実。この鮮烈な対比は、我々に一つの問いを投げかける。官兵衛の進言の真意とは何だったのか。そして、史実とは異なる側面を持つこの逸話は、なぜ生まれ、今日まで「天才軍師」の象徴として語り継がれてきたのか。本報告書は、この智略譚が生まれた歴史的背景を丹念に解き明かし、献策の内容を時系列に沿って再構成するとともに、実際の軍事行動との比較を通じて、逸話の背後に隠された多層的な真実に迫るものである。

第一部:献策の舞台裏 ― 天正十四年(1586年)の九州

官兵衛の献策がなされた背景には、一刻の猶予も許されない切迫した政治・軍事状況が存在した。九州の覇権をほぼ手中に収めた島津氏と、滅亡の淵に立たされた大友氏、そして天下統一の最終段階に臨む豊臣秀吉。三者の思惑が交錯する天正14年の九州を概観する。

第一章:覇権目前の島津、滅亡寸前の大友

天正6年(1578年)、日向国(現在の宮崎県)で起こった耳川の戦いは、九州の勢力図を根底から覆す転換点であった。この戦いでキリシタン大名・大友宗麟(義鎮)率いる大友軍が薩摩国(現在の鹿児島県西部)の島津軍に歴史的な大敗を喫すると、長らく続いた大友氏の権威は失墜。代わって島津氏が急速に台頭し、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺氏をも沖田畷の戦いで破り、九州統一に王手をかけていた 6

そして天正14年(1586年)、島津義久は九州制覇の総仕上げとして、宿敵・大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)への全面侵攻を開始する。世に言う「豊薩合戦」の勃発である 11 。島津の猛攻の前に大友軍はなすすべもなく、その命運は風前の灯火であった。

この絶体絶命の危機に際し、大友宗麟は最後の望みを託して驚くべき行動に出る。同年4月、自ら大坂城へ赴き、関白となった豊臣秀吉に拝謁。臣従を誓うことで、その庇護と軍事介入を懇願したのである 6 。これは単なる救援要請に留まらない、極めて重要な政治的決断であった。長年、九州という半ば独立した地域で覇を競ってきた大名が、中央政権の権威に全面的に服属し、その裁定を仰いだのである。この宗麟の行動は、九州の紛争を地域的なものから、日本の統一政権と一地方勢力との間の問題へと昇華させ、秀吉に「臣下を救う」という、九州介入におけるこの上ない大義名分を与えることになった。

第二章:天下人・秀吉の決断

秀吉にとって、宗麟の救援要請はまさに「渡りに船」であった。彼は天下統一事業の一環として、早くから九州の情勢に介入する機会を窺っていた。前年の天正13年(1585年)10月には、関白の権威を以て、九州の諸大名に対し私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発令している 6 。この命令に、劣勢の大友氏は即座に従ったが、破竹の勢いで九州統一を進める島津義久はこれを事実上黙殺した 6 。島津氏内部には、由緒ある名門である自分たちが、成り上がり者と見なす秀吉の命令に従うことへの強い反発があったのである 14

島津氏のこの態度は、結果的に秀吉の思う壺であった。秀吉は島津氏の命令違反を「逆徒」の所業と断じ、「朝廷の権威に背く者を征伐する」という、日本全国の大名を動員しうる最高の正当性を手に入れた。秀吉が残した書状には、島津氏の反抗を「幸の儀(好都合なこと)」と記したものさえ存在する 15

天正14年8月、秀吉はついに九州征伐の号令を発する。まず、中国地方の雄・毛利輝元を総大将とし、小早川隆景、吉川元春といった歴戦の将を配した先鋒隊が九州へ派遣された。そして、この重要な先遣軍の「軍監(軍勢の監督・監察役)」として白羽の矢が立ったのが、黒田官兵衛孝高であった 15

秀吉が官兵衛をこの役に任じたことには、複数の戦略的意図が込められていた。第一に、かつての敵であった毛利氏を監視し、豊臣軍の総意から逸脱させないという政治的な役割。第二に、播磨出身で西国の地理や人情に精通する官兵衛の知見を活用する地理的・戦術的な役割。そして最も重要なのが、秀吉本隊が到着するまでの間に、官兵衛が最も得意とする「調略」によって九州現地の国人衆を切り崩し、来るべき決戦を圧倒的有利な状況で迎えるための「地ならし」を行わせるという、戦略的な役割であった。官兵衛の能力を最大限に引き出すための、まさに最適任の人事であったと言えよう。

第二部:「兵を用いず」の真意 ― 官兵衛の戦略思想と献策の再構成

九州平定という壮大な事業を前に、官兵衛はいかなる戦略を描いたのか。逸話の核心である「献策」そのものに焦点を当て、その具体的な内容と戦略的意味を、官兵衛の思想と過去の戦例から紐解いていく。

第一章:軍監・黒田官兵衛の戦略思想

黒田官兵衛の軍略の根底には、一貫した哲学が存在する。それは、孫子の兵法に由来する「戦わずして勝つ」という思想である 3 。彼の輝かしい戦歴は、まさにこの思想を戦場で具現化したものの連続であった。

  • 鳥取城攻め(天正9年): 秀吉軍が攻略に手こずっていた因幡国(現在の鳥取県)の鳥取城に対し、官兵衛は正面からの力攻めを避ける策を献じた。事前に城下の商人を通じて周辺の米を高値で買い占めさせ、城側の兵糧備蓄を空にさせた上で、近隣の農民を城内へ追い込み、食糧消費を加速させる。この徹底した兵糧攻め、いわゆる「渇え殺し」によって、難攻不落の城をわずか3ヶ月で降伏に追い込んだ 3
  • 備中高松城攻め(天正10年): 沼沢地に囲まれた毛利方の要害・備中高松城に対し、官兵衛は巨大な堤防を築いて川の水を引き込み、城を水没させるという前代未聞の「水攻め」を考案したとされる 13 。この策により城は孤立し、最終的に城主・清水宗治の切腹と引き換えに開城、秀吉軍は大きな損害を出すことなく勝利を収めた。
  • 小田原城攻め(天正18年): 天下統一の総仕上げとなった北条氏との戦いでは、20万を超える大軍で小田原城を完全に包囲。武力による威圧で城兵の戦意を削いだ後、官兵衛は単身で城内に乗り込み、当主の北条氏政・氏直親子を説得。結果、歴史的な無血開城を実現させた 1

これらの戦例から明らかなように、官兵衛の言う「戦わずして勝つ」とは、決して理想論や平和主義ではない。それは、①徹底した情報収集に基づく周到な準備、②兵糧や経済を断つことによる兵站への攻撃と、圧倒的な兵力差を見せつけることによる心理的圧迫、③そして、それらを背景とした巧みな交渉、という三つの要素を組み合わせた、極めて現実的かつ合理的な「勝利の方程式」であった。彼にとって、兵士同士が刃を交える直接戦闘は、目的を達成するための最終手段であり、最も人的・物的コストの高い選択肢だったのである。

第二章:智略譚の核心 ― 「九州平定の法は兵を使わず」の再構成

この有名な進言は、主に江戸時代中期に福岡藩の公式史書として編纂された『黒田家譜』や、同時期の逸話集である『名将言行録』などに記されている 28 。秀吉や官兵衛自身が残した一次史料である書状などに、この言葉そのものが直接記録されているわけではない。しかし、彼の思想と九州平定全体の流れを鑑みれば、この献策がなされた際の状況と会話を、高い蓋然性をもって再構成することが可能である。

時期は、秀吉が九州出兵を最終決定し、軍議を開いた天正14年後半から15年初頭。場所は、諸将が集う大坂城か、あるいは出陣後の前線基地である赤間関(現在の下関市)の陣中であったと推測される 14

【想定される軍議の再現】

場面: 赤間関の陣中。壁には九州の地図が広げられ、秀吉を前に諸将が居並ぶ。

秀吉: 「島津の勢い、侮れぬ。薩摩隼人の精強さは天下に聞こえておる。いかにしてこれを速やかに、かつ損害少なく平らげるか。皆の考えを聞こう」

諸将の中から、力攻めや決戦を主張する声が上がる。その中で、軍監たる黒田官兵衛が静かに進み出る。

官兵衛: 「殿下。この度の九州平定の要は、島津の精兵と正面から雌雄を決することにはございませぬ。かの地には、島津の威勢にやむなく従うておる国人衆が数多おります。彼らの心は、未だ定まっておりませぬ。まずは、彼らを調略をもって一人、また一人と切り崩し、島津を孤立させることが肝要に存じます。殿下が大軍を率いて九州の土を踏まれる前に、我ら先鋒隊が豊前・筑前の諸城を味方に引き入れることができれば、島津は手も足も出せなくなりましょう。さすれば、殿下の兵を大きく損なうことなく、九州は自ずと殿下の御威光の内に帰するはず。 九州平定の法は、兵を(主力決戦に)使わずして、まず調略を尽くすにあり と心得ます」

秀吉: (官兵衛の言葉に深く頷き、地図に目を落とす)「……面白い。いかにも官兵衛らしい策よな。よし、その方と毛利勢に先陣を任せる。わしが着くまでに、存分に地ならしをしておくがよい」

この再現から浮かび上がるのは、「兵を使わず」という言葉の真意である。それは「一兵卒も動かさない」という非現実的な意味では断じてない。その本質は、**「豊臣軍の主力部隊を、島津軍の主力との大規模な決戦で無駄に消耗させない」**という、極めて明確な戦略方針の表明であった。官兵衛が描いた計画は、①調略による敵勢力の分断と弱体化、②局地的な戦闘による各個撃破、そして最後に、③孤立し戦意を喪失した島津本体を、満を持して進軍する秀吉本隊の圧倒的な武威の前に屈服させる、という三段階のグランドデザインだったのである。

この献策は、官兵衛が主君・秀吉の意図を完璧に理解していたことの証左でもある。秀吉は、本能寺の変の直後、官兵衛の「ご運が開けましたな」という一言と、それに続く「中国大返し」の献策によって、絶体絶命の危機を天下取りの好機へと転換させた経験を持つ 31 。秀吉は官兵衛の類稀なる才覚を誰よりも信頼する一方で、その切れすぎる頭脳がいつか自分に向かうのではないかという畏怖の念も抱いていた 23 。この九州平定においても、秀吉は官兵衛の策が最も効率的であることを認めつつ、その辣腕を自らの管理下に置くために、あえて「軍監」という立場を与えたのであろう。

第三部:理想と現実 ― 九州平定戦における官兵衛の実像

「兵を用いず」という理想を掲げた官兵衛の戦略は、複雑な利害が絡み合う九州の地で、どのように展開され、どのような現実に直面したのか。その光と影を、実際の戦いの軌跡に沿って検証する。

第一章:調略の光 ― 豊前・筑前の国人衆を切り崩す

天正14年(1586年)10月、軍監として九州に上陸した官兵衛は、毛利軍と共に豊前国の玄関口である小倉城を攻略 15 。ここを拠点として、直ちに周辺の国人衆への調略活動を開始した。

官兵衛の調略は、必ずしも相手を完全に豊臣方へ寝返らせることだけを目的としていたわけではない。島津方から離反させ、中立的な立場(日和見)に追い込むこと、あるいは秀吉本隊が進軍してきた際の抵抗を弱めさせることだけでも、戦略的には大きな意味があった 16

その調略の最たる成功例が、筑前国(現在の福岡県西部)に36万石の勢力を誇った大名・秋月種実の降伏であった。当初、島津方として徹底抗戦の構えを見せていた種実であったが、秀吉本隊が筑前へ迫る中、官兵衛は粘り強く交渉を続けた。最終的に、豊臣軍の圧倒的な軍容と、一夜にして築かれたかのように見せかけた陣城(いわゆる「一夜城」)の威圧に戦意を喪失した種実は、戦わずして降伏を決意する 34 。この時、種実が自身の命と引き換えに、天下の名物と謳われた茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を秀吉に献上したことは、官兵衛の「戦わずして勝つ」戦略が結実した象徴的な出来事として記録されている 7 。官兵衛の役割は、秀吉の圧倒的な軍事力という「脅威」を、無血降伏という「政治的成果」へと巧みに転換させる、優れた交渉人としてのそれであった。

第二章:謀略の影 ― 宇都宮鎮房との死闘

官兵衛の「兵を用いぬ」戦略が、理想通りにはいかない厳しい現実に直面したのが、平定後の豊前国で勃発した国人一揆であった。九州平定後、秀吉は大規模な国分け(領地の再編)を断行。これにより、多くの国人領主が先祖伝来の土地からの移封(転封)を命じられた。

この決定に最も強く反発したのが、豊前の名族・宇都宮鎮房(城井鎮房)であった。彼は、鎌倉時代から続く自らの所領である城井谷からの移封を断固として拒否し、天正15年(1587年)10月、他の不満を持つ国人衆と共に一斉に蜂起した 1

折悪しく、官兵衛は肥後国で起こった別の一揆鎮圧のために豊前を離れていた。留守を預かる嫡男・黒田長政は、血気にはやり鎮圧軍を率いて城井谷へ攻め込むも、地の利を得た宇都宮勢の巧みな戦術の前に手痛い敗北を喫してしまう 18

急遽豊前に帰還した官兵衛は、毛利勢の支援を得て反撃に転じ、一揆勢を追い詰めていく。最終的に鎮房は和睦に応じたものの、秀吉から下されたのは「一揆の首謀者は断じて許すべからず」という非情な命令であった。天下の秩序を絶対とする秀吉にとって、自らの決定に逆らう者は、たとえ降伏したとしても見せしめとして厳罰に処する必要があったのである 18

主君の厳命を受け、官兵衛は苦渋の決断を下す。天正16年(1588年)4月20日、和睦後の挨拶と称して鎮房を新たに築いた中津城に招き、油断させたところを酒宴の席で謀殺。同時に、城外で待機していた鎮房の家臣団も襲撃して殲滅し、さらには肥後に人質としていた鎮房の嫡男・朝房も殺害した 8 。この時、斬り合いの末に寺の壁が血で赤く染まり、何度塗り替えても血が滲み出てきたため、ついに赤く塗られるようになったという合元寺の「赤壁伝説」は、この謀略の凄惨さを今に伝えている 8

宇都宮鎮房の抵抗は、単なる領地の損得勘定ではなく、「一所懸命」という土地と一族の繋がりを命懸けで守ろうとする中世以来の武士の価値観と、秀吉がもたらす中央集権的な新しい秩序との根源的な衝突であった。この価値観の衝突は、もはや調略や交渉といった官兵衛の得意とする手法では解決不可能であり、彼は「天下の秩序」を維持するために、自らの信条とは裏腹の、最も血なまぐさい「謀略」という手段を選択せざるを得なかった。これは、彼が単なる理想主義者ではなく、目的のためには非情な決断も下せる冷徹な現実主義者であったことを物語っている。後に官兵衛が、宇都宮氏を滅ぼしたことへの後悔や虚しさを詠んだとされる和歌を残しているという逸話は、この決断が彼にとって大きな精神的負担であったことを示唆しているのかもしれない 8

第三章:圧倒的武力 ― 秀吉本隊の進軍と島津の降伏

官兵衛ら先鋒隊が北九州で地ならしを進める一方、豊臣軍本隊は二手に分かれて九州を南下した。秀吉の弟・豊臣秀長が率いる軍勢は豊後から日向へ、そして秀吉自らが率いる本隊は肥後国(現在の熊本県)へと、総勢20万とも30万とも言われる、まさに怒涛のごとき大軍であった 11

九州の諸勢力が次々と豊臣方に靡く中、孤立した島津軍は決戦を挑む。天正15年4月17日、日向の根白坂において、秀長軍と島津家久率いる島津軍主力が激突した。この「根白坂の戦い」で島津軍は奮戦するも、圧倒的な兵力差の前に大敗を喫し、島津方の組織的抵抗は事実上ここで終焉を迎えた 5

もはや勝ち目なしと悟った島津義久は、同年5月8日、剃髪して僧形となり、薩摩の泰平寺に置かれた秀吉の本陣に出頭して降伏した。これにより、秀吉による九州平定は完了したのである 5

最終的な島津の降伏は、まさに官兵衛の「智謀」と秀吉の「武威」という二つの力が完璧に噛み合った結果であった。官兵衛の事前の調略によって、島津氏は九州内の同盟者を失い、戦略的に孤立した。その上で、豊臣本隊という抗いようのない軍事力が迫ったことで、島津氏は全面対決を挑むことなく降伏を選択せざるを得なかった。これこそが、官兵衛が描いた「主力決戦を避け、最小限の戦闘で敵を屈服させる」という大戦略の完成形であったと言えるだろう。

時系列(天正)

逸話の側面(兵を用いず)

史実の側面(武力・謀略)

関連する主要人物

引用資料

14年10月

豊前国人衆への調略開始

毛利軍と共に小倉城を武力攻略

毛利輝元、小早川隆景

15

15年3月

秀吉本隊の進軍を前に地ならしを完了

(大規模な戦闘は回避)

豊臣秀吉

15

15年4月

交渉により秋月種実を無血で降伏させる

秀吉の大軍による軍事的威圧を背景とする

秋月種実

7

15年4月

(直接の関与は少ない)

豊臣秀長軍、根白坂の戦いで島津軍を撃破

豊臣秀長、島津家久

5

15年5月

島津氏が戦わずして降伏する状況を創出

圧倒的兵力差による降伏勧告

島津義久

7

15年10月以降

(逸話の理想とは乖離)

豊前国人一揆を武力で鎮圧。宇都宮鎮房を謀殺。

宇都宮鎮房、黒田長政

9

第四部:逸話の誕生 ― なぜ「無血平定」譚は語り継がれたのか

史実を検証すれば、九州平定が「兵を用いず」に行われたわけではないことは明らかである。にもかかわらず、なぜこの智略譚は生まれ、黒田官兵衛のイメージとして定着していったのか。その背景には、江戸時代の歴史編纂と大衆文化の潮流があった。

第一章:『黒田家譜』が描いた理想の創業者像

「九州平定、兵を用いず」という逸話の主要な典拠の一つが、江戸時代に福岡藩の公式史書として編纂された『黒田家譜』である 28 。この書物は、著名な儒学者であった貝原益軒らが中心となって編纂したものであり、その記述には、藩祖である官兵衛(如水)と初代藩主・長政の功績を顕彰し、黒田家の支配の正当性を後世に伝えるという明確な政治的意図が込められていた。

戦乱の世が終わり、幕藩体制が安定した江戸時代において、各藩は儒教的な価値観を統治の根幹に据えた 42 。そのため、藩史編纂においては、藩祖を単なる武勇に優れた武将としてではなく、「智」と「徳」を兼ね備えた理想的な為政者として描くことが求められた。「兵を用いず」という逸話は、官兵衛の卓越した「智」を象徴する格好の題材であった。この逸話は、宇都宮鎮房の謀殺といった、儒教的価値観からは正当化し難い「謀」や「覇道」の側面を覆い隠し、為政者としての官兵衛に「仁徳」に近いイメージを付与する上で、極めて効果的だったのである。

第二章:講談・物語の中の「天才軍師」

江戸時代には、武士や町人の間で講談や軍記物語といった大衆娯楽が隆盛を極めた 45 。特に、豊臣秀吉の立身出世を描く「太閤記」は絶大な人気を博し、その中で秀吉を支えた軍師として、竹中半兵衛と共に黒田官兵衛は物語のスター的な存在となった 46

講談のような大衆芸能では、歴史の複雑な背景よりも、個々の英雄の際立った能力や、勧善懲悪といった分かりやすい筋立てが好まれる傾向にある 49 。官兵衛にまつわる数々の逸話、例えば本能寺の変に際して動揺する秀吉に「ご運が開けましたな」と天下取りを促したという話 24 や、その才覚ゆえに秀吉から常に警戒されていたという話 23 は、彼の非凡さを際立たせる格好の題材として、講談師の脚色を交えながら繰り返し語られた。

このような文脈の中で、官兵衛は史実の人物というよりも、「天才軍師」という一種のキャラクターとして大衆に受容されていった。「兵を用いずして九州を平定する」という言葉は、そのキャラクター性を一言で表す、非常に優れたキャッチコピーであった。人々は、調略と謀殺が交錯する生々しい現実よりも、「知恵の力だけで強大な敵を屈服させる」という痛快な物語を求めたのである。この逸話は、そうした大衆の需要に見事に応え、物語としての「面白さ」によって、史実の正確さを超えて広く定着していったと考えられる。

結論:智謀と武勇の結合こそ官兵衛の本質

黒田官兵衛が秀吉に「九州平定の法は兵を使わず」と進言したという智略譚は、文字通りの史実ではない。それは、官兵衛の「可能な限り大規模な戦闘を避け、調略を駆使して勝利の条件を整える」という一貫した戦略思想を、後世の人々が象徴的に表現した物語である。

実際の九州平定は、官兵衛の巧みな「調略(ソフトパワー)」と、秀吉が動員した20万を超える大軍という抗いがたい「武力(ハードパワー)」が両輪となって初めて成し遂げられた、壮大な複合戦略であった。官兵衛の真骨頂は、武力一辺倒でもなければ、理想論としての無血主義でもない。この二つの力を的確に組み合わせ、状況に応じて謀略という非情な手段さえも辞さず、最も効率的な形で勝利を導き出した、その冷徹な現実主義と大局観にあった。

宇都宮鎮房の悲劇は、彼の戦略の限界と戦国という時代の非情さを示す一方で、秋月氏の無血降伏や島津氏の最終的な降伏は、彼の戦略が見事に結実した成果である。この逸話は、史実の複雑さを超え、単なる武力だけではない「智」の重要性を現代に伝え続けている。それは、黒田官兵衛という武将が、単なる戦の巧者ではなく、時代を動かす大局観を持った真のストラテジストであったことを示す、不朽の物語なのである。

引用文献

  1. 黒田官兵衛とは - 九州旅ネット https://www.welcomekyushu.jp/kanbei/abouts.html
  2. 文庫 黒田官兵衛 - 株式会社岩崎書店 この1冊が未来をつくる https://www.iwasakishoten.co.jp/book/b191854.html
  3. 黒田官兵衛/福岡の歴史 https://www.2810w.com/fmmainkanbei.html
  4. 竹中半兵衛と黒田官兵衛―伝説の軍師「羽柴の二兵衛」とは | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/1753
  5. 秀吉の九州遠征 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/tyuusei/kyusyu.html
  6. 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
  7. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  8. 黒田官兵衛を辿る旅 豊前・中津 - くぼて鷹勝 卜仙の郷 https://bokusennosato.com/stay_kurodakanbei.html
  9. 軍師官兵衛 宇都宮鎮房ゆかりの地 - 吉富町 https://www.town.yoshitomi.lg.jp/kanko/enjoy/history/gunshikanbei/
  10. 郷土の歴史(黒田官兵衛) - 中津市立図書館 https://libwebsv.city-nakatsu.jp/2021.html
  11. 九州平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11100/
  12. 豊薩合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%96%A9%E5%90%88%E6%88%A6
  13. 軍師官兵衛 福岡プロジェクト協議会 https://www.welcomekyushu.jp/kanbei/document/doc_05.pdf
  14. No.161 「豊臣秀吉の九州平定と熊本城&本丸御殿」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/161.html
  15. 【秀吉の九州出兵】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2040100010
  16. 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  17. 黒田官兵衛ゆかりの地、福岡県 - クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/feature/fukuokakanbe
  18. 19.黒田官兵衛 ~戦国時代を生きぬいた三軍師 其の3 - 猩々の呟き http://shoujou2017.blogspot.com/2014/05/19.html
  19. 現代でも通じる黒田官兵衛の部下の使い方|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-023.html
  20. 黒田官兵衛の名言・逸話46選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/398
  21. 黒田孝高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
  22. 黒田官兵衛(くろだ かんべえ/黒田孝高)拙者の履歴書 Vol.21〜三天下人に仕えし知将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n07c8f762f0e1
  23. 第36回 『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男 https://plus.jmca.jp/tu/tu36.html
  24. 秀吉の最強ブレーン・黒田官兵衛。劣悪な職場でも上司に尽くした理想の軍師|もうひとりの偉人伝 https://www.gentosha.jp/article/16134/
  25. 黒田官兵衛は何をした人?「秀吉と天下を取った軍師が関ヶ原の裏で大博打をした」ハナシ https://busho.fun/person/kanbee-kuroda
  26. 黒田官兵衛-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44327/
  27. 戦 国 時 代 を 駆 け 抜 け た - 瀬戸内市 https://www.city.setouchi.lg.jp/uploaded/attachment/105058.pdf
  28. 西脇市 荘厳寺 前編 - sogensyookuのブログ https://sogensyooku.hatenablog.com/entry/2020/06/09/222440
  29. Pan; まんが 名将言行録 - パンローリング https://www.panrolling.com/books/edu/edu18.html
  30. 黒田官兵衛は、本当に豊臣秀吉に恐れられていたのか - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/264
  31. 秀吉の中国大返し、一考察 https://kdskenkyu.saloon.jp/pdf/ts-oogaeshi2012.pdf
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  42. 武士道の源流を探求する vol.3 〜儒教編〜 - 高見空手 https://www.karate-do.jp/archives/238.php
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  44. サムライ、武士、武士道 (その3) - オンラインジャーナル/PMプロの知恵コーナー https://www.pmaj.or.jp/online/1406/samurai.html
  45. 講談 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E8%AB%87
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  47. 無欲にして剛毅な天才軍師「竹中半兵衛」…史料から見たリアルな半兵衛像とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/502
  48. 竹中半兵衛の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7491/
  49. 姫路から天下に翔けた男、稀代の軍師 黒田 官兵衛(後編) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=GeOEm68vOFk
  50. 講談いろは(ゼロからの講談入門) http://koudanfan.web.fc2.com/nyumon01.htm
  51. 軍師「黒田官兵衛」も読めなかった"我が子の行動" 頭が良すぎるために秀吉すら警戒した軍師 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/847001