最終更新日 2025-10-29

黒田長政
 ~戦後論功誉れは父にあり謙譲譚~

関ヶ原の黒田長政の功績と「誉れは父にあり」の真意を深掘り。父如水の野望、長政の政治的処世術、黒田家のアイデンティティ形成への影響を解説。

『誉れは父にあり』― 黒田長政、謙譲譚の深層分析:自負と敬意、そして野望の狭間で

序章:関ヶ原、勝利の天秤を動かした男

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原。日本の歴史を二分したこの天下分け目の決戦において、徳川家康率いる東軍の勝利を決定づけた要因は数多存在する。しかし、その中でも黒田長政の貢献は、単なる一武将の武功に留まらず、合戦全体の戦略的帰趨を左右するほどの決定的な重みを持っていた。彼は戦場における勇将であると同時に、戦いの始まる以前から勝利の礎を築き上げた、稀代の「戦の設計者」であったと言える。

長政の功績は、「調略」と「武功」という二つの側面から捉えることができる。まず調略において、彼の働きは東軍の勝利に不可欠であった。豊臣恩顧の武将たちが去就に迷う中、長政は父・黒田如水(官兵衛孝高)譲りの知略と、自身が長年かけて築き上げた人間関係を駆使して、西軍の切り崩し工作を主導した。その最たるものが、小山評定における福島正則の説得である 1 。石田三成挙兵の報に動揺する家康と諸将に対し、長政は親友であった正則の支持を取り付けることで、豊臣恩顧大名の結束を固め、東軍の戦意を統一させた。これは、家康にとって最大の懸念材料を払拭する、極めて重要な心理的勝利であった。

さらに、戦場における二つの大きな調略も長政の手によるものである。一つは、西軍の総大将・毛利輝元の叔父にあたる吉川広家との内通である 3 。長政は広家と書状を交わし、毛利本隊1万5千の軍勢を戦場で「日和見」させる約束を取り付けた 1 。これにより、東軍は側面からの脅威を無力化され、主戦力に集中することが可能となった。そしてもう一つが、戦局を最終的に決定づけた小早川秀秋の寝返り工作である 1 。長政は、自身の父・如水の姪婿にあたる秀秋の重臣・平岡頼勝らを通じて秀秋に働きかけ、土壇場での東軍への寝返りを確約させた 1 。この裏切りがなければ、関ヶ原の戦いが一日で決着することはなかったであろう。

しかし、長政は単なる謀将ではなかった。彼自身もまた、戦場を駆ける猛将であった。率いた黒田勢5,400は精強であり、合戦本番では石田三成の本隊と激しく衝突した 5 。特に、三成軍の中核をなし、「治部少(三成)に過ぎたるもの」と謳われた名将・島左近を討ち取ったのは黒田勢の功績であり、西軍の士気を大きく挫いた 1

このように、黒田長政は戦前から戦中にかけて、知謀と武勇の両面で東軍勝利の立役者となった。彼の働きは、数ある功労者の中でも群を抜いており、家康が彼を「一番の功労者」と称賛したのも当然の評価であった 3 。この絶大な功績こそが、本稿で分析する「誉れは父にあり」という謙譲の言葉に、深い意味と複雑な背景を与える前提となるのである。

第一章:戦後の邂逅 ― 家康、長政の手を取る

関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的勝利に終わった直後、徳川家康の本陣は、勝利の興奮と安堵、そして戦の後処理に追われる喧騒に包まれていた。血と硝煙の匂いが立ち込める中、諸将が討ち取った敵将の首を家康の前に差し出す「首実検」が執り行われていた 8 。この勝利を祝う厳粛な儀式の中で、一人の武将が家康の前に特別に召し出された。黒田長政である。

この時の家康と長政のやり取りは、単なる戦功報告と労いの言葉を超えた、極めて象徴的なものであった。『黒田家譜』などの記録によれば、家康は長政の功績を称え、感謝の念に堪えない様子で、長政の手を固く握りしめたという 9 。そして、その行為は一度に留まらなかった。家康は、感謝の言葉を重ねながら、三度にわたって長政の両手を取ったと伝えられている 10 。さらに、「我が徳川家の子孫の末まで黒田家に対して疎略あるまじ(決して黒田家を疎かにはしない)」と、一族の末代までの安泰を約束したのである 10

この「手を取る」という行為は、当時の武家社会の儀礼的な慣習から見れば、異例中の異例であった。主君が家臣の身体に直接触れることは稀であり、ましてや戦勝に沸く本陣という公の場で、何度も繰り返し手を握るという行為は、家康が抱いた感謝の念が尋常ではなかったことを物語っている。それは、長政の功績がなければこの勝利はなかったという、家康の偽らざる本心の発露であった。

しかし、このジェスチャーは単なる感情表現に留まらない、高度な政治的計算に基づいたパフォーマンスでもあった。家康はこの行為を、居並ぶ諸将、特に豊臣恩顧の「外様大名」たちの前で意図的に行ってみせた。そのメッセージは明確であった。「私に忠誠を尽くせば、これほどの栄誉と信頼、そして未来永劫の安泰が与えられるのだ」と。

家康にとって、関ヶ原の勝利はゴールではなく、新たな天下統治のスタートラインに過ぎなかった。彼の最大の課題は、軍事力で屈服させた強大な大名たち、特にこれまで徳川家に直接の臣従関係のなかった外様大名たちの心をいかに掴み、新たな秩序の中に組み込んでいくかという点にあった。土地や金銭による恩賞は当然のことであったが、それだけでは真の忠誠は得られない。家康は、黒田長政という最大の功労者を最大限に称賛する姿を公開することで、物理的な報酬以上の、個人的な信頼と名誉という価値を示したのである。これは、恐怖や利害だけでなく、恩義と信頼によって結ばれる新しい主従関係のモデルを提示する、巧みな政治的投資であった。この瞬間、黒田長政は単なる功労者から、徳川の世における「忠臣の鑑」へと昇華され、その後の論功行賞の象徴的存在となったのである。

第二章:九州のもう一つの関ヶ原 ― 父・如水の野望

黒田長政が中央で家康の天下取りを演出し、その功績を認められていた頃、遠く離れた九州の地では、もう一つの「関ヶ原」が進行していた。その主役は、長政の父であり、豊臣秀吉に「次の天下を狙う男」と警戒された稀代の軍師、黒田如水(官兵衛)であった。表向きは隠居の身として豊前国中津城にいた如水であったが、天下の動乱を好機と捉え、生涯最後の大博打に打って出ていたのである 11

石田三成挙兵の報が届くと、如水は即座に行動を開始した。「吝嗇」と噂されるほど倹約に努めてきた彼であったが、その真の目的はこの時のためであった 13 。蓄えに蓄えた金銀を惜しげもなく放出し、浪人や地侍、さらには領内の百姓や商人まで動員して、わずかな期間で約9,000人もの軍勢を編成した 10 。これは、主力を長政に預けていた黒田家にとって、まさにゼロから生み出した軍隊であった。

如水の戦略は壮大かつ明快であった。家康からは、九州における西軍方の大名を討伐することを許可され、その領地は「切り取り次第(攻め取った分だけ自分のものにしてよい)」という墨付きを得ていた 15 。これを大義名分としながら、関ヶ原の本戦が長期化することを見越し、その間に九州全土を平定。独立した一大勢力を築き上げ、疲弊した中央の勝者と天下を賭けて対峙する、あるいは漁夫の利を得るという壮大な野望を抱いていた 14

如水の九州平定戦は、電光石火の早業であった。慶長5年9月9日、豊後国へ侵攻を開始。関ヶ原の合戦のわずか2日前である9月13日には、豊後の石垣原において、毛利輝元の支援を受けて挙兵した大友義統の軍勢を撃破する 11 。この勝利を皮切りに、如水は破竹の勢いで九州の西軍諸城を次々と攻略。降伏させた敵兵を自軍に組み込み、その軍勢は雪だるま式に膨れ上がっていった 15

しかし、この如水の野望は、あまりにも皮肉な形で潰えることとなる。その最大の障壁となったのは、他ならぬ息子・長政の活躍であった。如水の戦略は、関ヶ原の戦いが数ヶ月にわたって膠着状態に陥ることを大前提としていた 12 。だが、長政による小早川秀秋の寝返り工作が決定打となり、本戦はたった一日で東軍の圧勝に終わってしまった 5 。あまりに早すぎる決着の報は、九州を席巻していた如水にとって、まさに青天の霹靂であった。息子の忠勤が、結果的に父の野望を打ち砕いたのである。この父子の行動の対比は、戦国という時代の終焉と、新たな時代の到来を象徴しているかのようであった。


表:黒田父子の二つの戦線(慶長5年9月)

年月日

黒田長政の動向(本州)

黒田如水の動向(九州)

考察

9月9日

東軍主力と共に美濃へ進軍中。

豊前中津城より出陣、豊後国へ侵攻開始。

九州の戦役が、関ヶ原の決戦に先んじて開始される。

9月13日

関ヶ原へ向けた最終的な軍議と配置。

石垣原の戦いで大友義統軍を撃破。

如水、本戦の2日前に九州における最初の大きな軍事的勝利を収める。

9月15日

関ヶ原の戦い。調略と武功により東軍勝利に決定的な貢献を果たす。

豊後国内の西軍方諸城の攻略を継続。

息子の功績が、父の戦略の前提を根底から覆す。

9月下旬

家康と共に戦後処理に従事。論功行賞の準備。

富来城などを攻略。捕らえた飛脚船から関ヶ原の西軍敗報を入手 12

如水、息子の勝利を知りつつも、九州平定戦を継続。

10月以降

論功行賞で筑前52万石余の大封を得る。

九州の大部分を制圧するも、家康からの停戦命令により進軍を停止 14

息子の忠誠が報われる一方で、父の野望は終焉を迎える。


第三章:父子の対峙 ― 「空いた手は何をしていた」

関ヶ原での大功を立て、徳川家康から直々に最大級の賛辞を受けた黒田長政は、意気揚々と父・如水が待つ中津城へと凱旋した。彼はもはや、偉大な父の息子というだけの存在ではない。天下分け目の決戦を勝利に導いた英雄として、その名を天下に轟かせていた。父に自身の功績を報告し、その労をねぎらってもらいたいと願うのは、息子として当然の心情であっただろう。

長政は、戦の経緯、とりわけ自身の調略がいかにして勝利を呼び込んだかを誇らしげに語った。そして話の最後に、クライマックスとして、家康が三度も彼の手を取り、「黒田家の末代までの安泰を約束する」とまで言ってくれたことを報告した 10 。これは長政の武将としてのキャリアの頂点であり、一族にとってこれ以上ない名誉であった。父もきっと喜んでくれるに違いない。

しかし、如水の口から発せられたのは、賞賛の言葉ではなかった。息子の輝かしい報告を静かに聞いていた如水は、冷ややかに、そして鋭くこう問い返したと伝えられている。

「内府(家康)がそなたの片手をとった時、もう片手は何をしておった!」 8

この言葉の意味は、火を見るより明らかであった。「なぜ、その空いていた手で家康を刺さなかったのか」。それは、労いや賞賛とは正反対の、千載一遇の好機を逃した愚かさを詰る、痛烈な叱責であった。

この逸話は、如水と長政という父子の間に横たわる、埋めがたい世界観の断絶を浮き彫りにしている。如水は、下剋上が常であった戦国乱世の価値観に生きた人物である。彼にとって、敵対する可能性のある勢力の頂点に立つ者が、無防備に身を寄せ、手を握ってくるという状況は、名誉ある瞬間などではなく、相手を排除し自らが成り上がるための絶好の機会に他ならなかった。彼の思考は、常に天下を狙う者の冷徹な合理性に基づいていた。

対照的に、長政はすでに新しい時代の到来を肌で感じ取っていた。彼の行動は、もはや終わりのない権力闘争ではなく、徳川家康という新たな覇者の下で、いかにして自らの家を安泰にし、繁栄させていくかという、新しい秩序の中での生存戦略に基づいていた。家康からの厚遇は、暗殺の機会ではなく、一族の未来を盤石にするための最大の保証と捉えていたのである。

この「空いた手」の逸話は、本稿の主題である「誉れは父にあり」という謙譲譚と、鮮烈な対比をなしている。片や、主君への忠誠を貫き、その功を父に帰そうとする謙虚な息子。片や、その忠誠の対象を討ち取らなかったことを叱責する野心的な父。この二つの相容れない物語は、黒田家が時代の転換点において抱えていた、二つの異なるアイデンティティを象徴している。すなわち、戦国的な野望の残滓と、近世的な忠誠の萌芽である。この強烈なカウンター・ナラティブの存在を念頭に置くことではじめて、長政の謙譲譚の真意を深く読み解くことが可能となる。

第四章:謙譲譚の深層 ― 「誉れは父にあり」の真意を探る

黒田長政が関ヶ原の戦後の論功行賞の場で、家康からの賞賛に対し「誉れは父(如水)にあり」と述べ、恩賞を辞退しようとした――この逸話は、長政の謙譲と孝心を象徴する美談として広く知られている。しかし、この物語を歴史的事実として鵜呑みにする前に、その背景と意図を多角的に分析する必要がある。なぜなら、この言葉は単なる謙遜の発露ではなく、極めて高度な政治的計算と、複雑な父子関係が織りなす、多層的な意味合いを内包しているからである。

まず、この逸話の典拠を検証すると、一つの壁に突き当たる。関ヶ原直後の公式な論功行賞の場で、長政が具体的にこのように発言したことを直接証明する、同時代の一次史料は確たるものが見当たらないのである。長政が後年、死の直前に口述筆記させた遺言状の中で、家康の天下統一における父・如水の貢献を高く評価し、その功績を称えていることは事実である 15 。しかし、これはあくまで後年の回想であり、リアルタイムで恩賞を辞退したという逸話とは性質が異なる。したがって、この有名な謙譲譚は、後世に形成された一種の説話、すなわち「謙譲譚(けんじょうたん)」である可能性が高い。

では、仮にこの物語が文字通りの事実でなかったとしても、なぜこのような逸話が生まれ、語り継がれてきたのか。その理由を探ることで、長政という人物、そして黒田家が置かれた状況の本質が見えてくる。この謙譲譚には、少なくとも三つの解釈が可能である。

解釈1:徳川政権下で生き抜くための「公的な建前」

最も重要な解釈は、この逸話が徳川の世を生き抜くための巧みな政治的処世術であったという見方である。長政の関ヶ原における功績は、あまりにも巨大であった。それは、新興の覇者である家康にとって、賞賛の対象であると同時に、潜在的な脅威ともなり得た。功績が大きすぎる家臣は、時に主君から警戒され、粛清の対象となるのが戦国の常である。長政が自らの功を父に帰すことで、自身の突出した能力と影響力に対する家康の警戒心を和らげ、あくまで黒田家は徳川家に忠実な存在であるというメッセージを発信する狙いがあったと考えられる。

さらに重要なのは、父・如水の野心的な行動を隠蔽し、正当化する効果である。第二章で述べた通り、如水の九州における電撃的な軍事行動は、家康への忠誠を大義名分としつつも、その実態は天下獲りの野望を秘めたものであった 14 。この行動は、一歩間違えれば謀反と見なされ、黒田家取り潰しの口実を与えかねない危険なものであった。

ここで「誉れは父にあり」という言葉が絶大な効果を発揮する。この一言によって、長政自身の功績も、そして父・如水の九州での軍功も、すべてが「家康公のために」という一つの物語の中に回収される。如水の行動は、天下を狙った野心的なものではなく、あくまで息子の忠勤を後方から支援するためのものであった、と再定義されるのである。これは、黒田家に向けられかねない疑念の目を逸らし、一族の行動すべてを「忠誠」という枠組みで塗り替える、見事な政治的レトリックであった。

解釈2:父への「真の敬意」と孝心

政治的な計算とは別に、長政が父に対して純粋な敬意と感謝の念を抱いていたこともまた事実であろう。長政は幼少期から、父・如水から直接、軍略や処世術を叩き込まれて育った 1 。関ヶ原で見せた彼の卓越した調略手腕は、まさに父の教えの賜物であった。自らの成功の根源が、偉大な父の薫陶にあることを、長政自身が誰よりも深く理解していたはずである。

したがって、「誉れは父にあり」という言葉は、自身の功績の源流である父への、偽りのない感謝と敬意の表明であったとも解釈できる。それは、偉大な父を持つ息子としての、ある種のコンプレックスの裏返しであったかもしれないが 19 、同時に、父から受け継いだ知謀が天下の趨勢を決したことへの誇りでもあっただろう。この解釈は、前述の政治的建前と矛盾するものではなく、むしろ公的なポーズに個人的な真情が重なることで、その言葉に一層の説得力を与えたと考えられる。

解釈3:福岡藩の正統性を飾る「後世の脚色」

最後に、この逸話が、江戸時代に入ってから福岡藩の創業者である長政の人物像を理想化するために、後世に創られ、あるいは脚色された可能性も考慮すべきである。江戸幕府の体制が安定すると、各大名家は自らの藩の歴史をまとめた公式史書(家譜)を編纂した。『黒田家譜』もその一つであり 9 、その目的は、藩祖の偉業を称え、徳川家への忠誠を強調し、自家の支配の正統性を内外に示すことにあった。

このような文脈において、「誉れは父にあり」という逸話は、まさに理想的な物語である。それは、藩祖・長政が、武勇や知略に優れるだけでなく、「謙譲」や「孝心」といった儒教的な徳をも兼ね備えた、完璧な君主であったことを示している。このような美談は、平和な時代の支配者として求められる道徳的権威を黒田家に与え、藩の創設神話をより輝かしいものにする上で、極めて有効な装置として機能したのである。

結論として、「誉れは父にあり」という逸話は、単一の真実を語るものではない。それは、徳川政権という新たな権力構造の中で生き残るための「政治的盾」であり、父への「真の敬意」の表明であり、そして藩の歴史を彩る「創設神話」でもあった。この言葉の価値は、その歴史的正確性にあるのではなく、関ヶ原直後の外様大名が置かれた絶妙な政治的バランス感覚と、黒田長政という人物の深層心理を、見事に映し出している点にあると言えるだろう。

結論:偉大なる父の影と、自負の狭間で

黒田長政にまつわる「誉れは父にあり」という謙譲譚は、単なる孝心や謙遜の美談として片付けられるべきものではない。本稿で詳述してきたように、この逸話は、関ヶ原という時代の分水嶺に立った一人の武将が直面した、複雑な政治力学と、偉大な父との関係性、そして自らの功績に対する確固たる自負が交錯する、極めて多層的な物語である。

長政は、二つの世界の狭間に立つ人物であった。一つは、父・如水に象徴される、実力のみがものを言う下剋上の戦国乱世。もう一つは、徳川家康が築こうとしていた、忠誠と秩序を絶対的な価値とする新たな近世社会である。彼の行動と言葉は、この二つの異なる時代の価値観の間を巧みに航行する、卓越したバランス感覚の産物であった。

「空いた手は何をしていた」と問い詰める父の逸話と、「誉れは父にあり」と語る息子の逸話。これら二つの物語は、一見すると矛盾しているが、実は表裏一体の関係にある。前者は、黒田家が秘める戦国的な野心と潜在能力、すなわち「脅威」の側面を物語る。後者は、その能力を徳川家への忠誠へと昇華させる、近世大名としての「徳」と「賢明さ」を示す。この二つの物語が両立することによって、黒田家は「天下を狙えるほどの能力を持ちながら、あえて忠臣であることを選んだ」という、極めて洗練されたブランドイメージを構築することに成功したのである。

最終的に、この謙譲譚は、黒田長政自身の類稀なる政治的知性の証左と言える。彼が実際に論功行賞の場でその言葉を口にしたか否かは、もはや本質的な問題ではない。重要なのは、この物語が彼の、そして福岡藩黒田家のレガシーの一部として定着したという事実である。それは、関ヶ原の後に到来した新しい時代において、最大の強さとは、功績を声高に主張することではなく、戦略的に「謙譲を演じる」ことにあると、彼が深く理解していたことを示している。

この卓越した政治感覚こそが、彼に関ヶ原一番の功労者として筑前国52万3千石という破格の恩賞をもたらし 2 、その後250年以上にわたって続く福岡藩の礎を築かせた原動力であった。黒田長政は、偉大なる父の影を乗り越え、自らの手で自らの価値を証明し、そしてその功績を父に捧げるという最高の政治的パフォーマンスによって、自らの家を未来永劫安泰なものとしたのである。彼の謙譲の言葉の裏には、戦国の世を生き抜き、新たな時代を切り拓いた男の、静かだが揺るぎない自負が隠されている。

引用文献

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  2. 黒田長政と後藤又兵衛の嫉妬と敵がい心の効用 ライバルの存在が能力を伸ばす原動力になる https://toyokeizai.net/articles/-/364708?display=b
  3. 黒田長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
  4. 「関ヶ原の戦い一番の功労者は調略担当の黒田長政です」功労者へのご褒美は筑前国(現在の福岡県)52万石でした。黒田長政は秀吉が一番恐れた戦国屈指の軍師、黒田官兵衛の嫡男です。黒田長政は関が原 - note https://note.com/bright_eel176/n/n1255d5112a30
  5. 黒田官兵衛が息子に激怒した理由とは?活躍しても𠮟られた黒田長政の関ヶ原の戦い逸話 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/108610/
  6. 関ヶ原の戦いで加増・安堵された大名/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41119/
  7. 黒田長政: 関ヶ原で家康に勝利をもたらした勇将 - 近衛龍春 - Google ブックス https://books.google.co.jp/books?id=uM5dNYmAk3wC&hl=ja&lr=&num=20
  8. 「どうする家康」何が三成を変えてしまった?その最期にネット号泣…第43回放送「関ヶ原の戦い」振り返り | エンターテイメント 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/210576/2
  9. ま ちの 史 跡 め ぐり https://www.town.sue.fukuoka.jp/material/files/group/12/1095.pdf
  10. 第36回 『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男 https://plus.jmca.jp/tu/tu36.html
  11. 石垣原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 石垣原の戦い ~黒田如水の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/ishigakibaru.html
  13. 黒田長政 (1568年 http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2013summer/14-18.pdf
  14. 黒田官兵衛は何をした人?「秀吉と天下を取った軍師が関ヶ原の裏で大博打をした」ハナシ https://busho.fun/person/kanbee-kuroda
  15. ~九州の関ヶ原~黒田如水が抱いた野望とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8vXwpFbA0oc
  16. 【関ヶ原の舞台をゆく⑤】日本中で行なわれた「関ヶ原の戦い」~北と南の関ヶ原はどう終結したのか - 城びと https://shirobito.jp/article/519
  17. 企画展示 | No.599 没後400年 黒田長政 - 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/599/
  18. 黒田長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34588/
  19. 黒田長政の遺言書~家康に天下をもたらした男の矜持と父親自慢 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4169