黒田長政
~父官兵衛の墓前で「智は父に」~
黒田長政は父官兵衛の墓前で「智は父に学び、勇は敵に学ぶ」と誓い、偉大な父の影を乗り越え、福岡藩主として独自の統治哲学を確立。その生涯と功績を辿る。
報告書:黒田長政、父官兵衛の墓前にて—「智は父に」の誓い、その深層と実像
序章:ひとつの誓い、二人の巨星
福岡藩初代藩主・黒田長政が、父であり当代随一の智将と謳われた黒田官兵衛(隠居後の号は如水)の墓前で立てたとされるひとつの誓いがある。「智は父に学び、勇は敵に学ぶ」。この簡潔な言葉は、父への深い敬慕の念を示す美談として、長く語り継がれてきた。しかし、この逸話の深層には、単なる追慕を超えた、一人の武将が偉大な父の影を乗り越え、新たな時代の統治者としての自己を確立しようとする、複雑かつ強靭な精神的葛藤が秘められている。
本報告書は、この逸話を単なる感傷的な物語としてではなく、長政が父の死という絶対的な節目に際して行った、極めて重要な自己規定の儀式として捉える。それは継承と訣別、敬慕と自立という相克する感情を昇華させ、自らの統治哲学を凝縮した「所信表明」であった。本稿では、この誓いが立てられるに至った背景、その瞬間の情景、言葉に込められた多層的な意味、そしてその後の治世における実践までを時系列に沿って徹底的に再構築し、黒田長政という武将の魂の告白を解き明かすことを目的とする。
第一部:巨星墜つ — 父・黒田官兵衛の最期と遺されたもの
慶長九年三月二十日、京都伏見藩邸
慶長9年(1604年)3月20日、辰の刻。戦国の世を駆け抜けた巨星、黒田官兵衛孝高(如水)は、京都伏見の藩邸にて59年の生涯を閉じた 1 。その最期は、彼の生き様を象徴するかのように、静謐さと深遠な思慮に満ちていた。死の床で詠んだ辞世の句は、彼の心境を雄弁に物語る。
「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」 1
(思い残す言葉もなく、今まさに往く。進むべき道に迷いはない、ただ自然の摂理に任せるだけだ)
この句には、自らの知略を存分に振るい、天下の動乱を生き抜いた男の、達観した満足感が滲む。そこには後悔も未練もなく、ただ静かに自らの死を受け入れる覚悟があった。また、キリシタンであった官兵衛は、死の間際に自身のロザリオを胸の上に置くよう命じたと伝えられており 1 、その精神的支柱の一端を窺わせる。この信仰のあり方は、後に棄教し、領内キリシタンを厳しく弾圧することになる長政の姿勢 3 との間に、父子の思想的、そして時代的断絶を暗示する伏線となる。
最後の智略—「殉死の禁止」
官兵衛の最期における最も重要な決断の一つが、家臣たちに対する殉死の厳禁であった。主君の死に際して忠臣が後を追う「追腹」は、当時の武士の美徳とされる風潮もあった。しかし、官兵衛はそれを明確に否定する。その理由は、岡谷繁実が著した『名将言行録』に記されている。
「世の中で、主のために追腹を切るということぐらいつまらぬことはない。(中略)わしはただ立派な士を一人でも多く命を延ばして、大切に思う子(長政)に譲りたいのだ。かならず殉死を禁ぜよ」 4
この言葉は、単なる家臣への温情ではない。これは、官兵衛が生涯をかけて駆使してきた「智」の、最後の発露であった。彼は、自らが育て上げた有能な家臣団という黒田家最大の「人的資源」を、一人として欠くことなく次代の長政に引き継がせることこそが、家の安泰に繋がると判断したのである。これは感傷を排した、極めて合理的な統治戦略であった。
この「殉死禁止令」は、長政にとって無言の、しかし極めて重いバトンとなった。父の死は単なる喪失ではない。それは、父が築き上げた全ての遺産—領地、財産、そして何よりも経験豊富な家臣団—を、そっくりそのまま受け継ぎ、率いていくという巨大な責任の始まりを意味した。長政が父の墓前で立てる誓いは、この父からの最後の教えと、託された重責に対する、息子からの最初の公式な応答(アンサー)となるのである。
第二部:誓いの舞台 — 筑前崇福寺、墓前の情景
聖地の選定と建立
長政が父への誓いを立てた場所、筑前崇福寺は、彼にとって特別な意味を持つ空間であった。この寺は、もともと大宰府にあった臨済宗大徳寺派の古刹であったが、関ヶ原の戦いの直後、慶長5年(1600年)に、他ならぬ長政自身の手によって現在の福岡市博多区千代の地に移され、黒田家の菩提寺として定められたものである 5 。つまり、長政は父が眠るべき永眠の地を、自らの手で選び、創造したのである。
その境内は、新たな領主である黒田家の威光を象徴する建造物で荘厳されていた。山門は、長政が築城した福岡城本丸の表御門を大正時代に移築したものであり(当時は別の門があったと考えられるが、黒田家との繋がりは深い)、境内には豊臣秀吉から拝領した名島城の遺構と伝わる唐門も配されていた 5 。これらの建造物は、藩の世俗的な権威と、父祖を祀る神聖な空間とを分かちがたく結びつけていた。長政は、父への誓いを立てるにあたり、最もふさわしい舞台を周到に準備していたと言える。
墓所への道程と対峙の瞬間
官兵衛の死後、長政が父の墓前に立った時の情景は、史料に詳細な記述はない。しかし、残された情報からその一連の行動を再構築することは可能である。荘厳な山門をくぐり、静寂に包まれた境内を進む。寺の奥、藤水門と呼ばれる入口を抜けると、広大な黒田家の墓所が広がっている 6 。その一角に、父子の墓石は並んで建立されていた。
高さ3メートルにも及ぶ立派な墓石が二基、寄り添うようにしてそびえ立っている 8 。官兵衛の墓石は、黒みがかった、あるいは赤みがかった石であったとされ、その前に一人佇む長政の姿は、偉大な父の霊と、物理的かつ精神的に対峙する瞬間であった。この物理的な対峙こそが、彼の内面で繰り広げられる、魂の対話の始まりであった。この誓いは、突発的な感情の発露ではなく、自らが整えた聖域において、父の霊、そして黒田家の未来に対して行われる、厳粛な儀式としての性格を帯びていたのである。
第三部:魂の告白 — 「智は父に、勇は敵に」の徹底解剖
父・官兵衛の墓前に立った長政の口から発せられたとされる誓いの言葉は、二つの部分から構成されている。それぞれが、彼の複雑な内面と、統治者としての覚悟を映し出している。
第一の誓い「智は父に学び」— 継承とコンプレックスの昇華
まず、「智は父に学び」という言葉。これは、父・官兵衛の「智」が、常人には到底及ばない領域にあったことを、息子である長政自身が誰よりも深く認識していたことの証左である。官兵衛の「智」とは、単なる戦場の策略を指すのではない。それは、豊臣秀吉をして「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言わしめたほどの、政治、外交、人心掌握、そして治国経綸の全てを含む、総合的な知性であった 10 。その神髄は、『黒田如水教諭』といった家訓や、数々の逸話の中に示されている 12 。
長政は、この偉大すぎる父の智謀に対し、一種のコンプレックスを抱いていた可能性が高い。そのことを象徴するのが、関ヶ原の戦い後の有名な逸話である。戦の勝利に大きく貢献した長政は、徳川家康から直々に手を取って謝意を述べられた。この最大の功績を意気揚々と父に報告した長政に対し、官兵衛はこう問い詰めたと伝えられる。
「家康が右手をとったとき、お前の左手は何をしていたのか?」 14
なぜその場で家康を刺し、天下を奪わなかったのか、というのである。この問いは、父子の器量の決定的差異を突きつけるものであった。長政は、父が持つような天下簒奪の野心や、それを可能にするほどの深謀遠慮を持ち合わせていないことを、この瞬間に痛感したであろう。したがって、「智は父に学び」という誓いは、父への絶対的な敬意を示すと同時に、自らの限界を率直に認め、それを恥じるのではなく、生涯をかけて学び続ける対象として昇華させようとする、謙虚で、しかし強靭な決意表明であった。
第二の誓い「勇は敵に学ぶ」— 自立とアイデンティティの確立
次に、「勇は敵に学ぶ」という言葉。これは、長政が自らのアイデンティティの核をどこに見出していたかを示す、力強い自立宣言である。父・官兵衛が「軍師」としてその名を馳せたのに対し、長政は紛れもなく戦場で槍を振るう「武将」であった。天正10年(1582年)の備中巣雲塚城攻めでの初陣を皮切りに、賤ヶ岳の戦い、九州平定、文禄・慶長の役、そして関ヶ原の戦いと、彼は常に第一線で戦い続け、数多の武功を挙げてきた歴戦の勇士であった 15 。
「勇は敵に学ぶ」という表現は、彼の武人としての成熟を示している。自らの武勇が、石田三成配下の猛将・島左近のような強敵との死闘を通じてこそ磨かれてきたという認識がそこにはある 15 。敵を単に憎むべき対象としてではなく、自らを高めてくれる存在として捉える、これは武士道における一つの理想的な境地である。
そして何よりも、この言葉は父との明確な「差別化」による自己確立の試みであった。「私は父とは違う。父の道が『智』であるならば、私の道は『勇』である。しかし、その二つの道は対立するものではなく、共に黒田家を支える両輪となるのだ」という宣言に他ならない。彼は、偉大な父の模倣者となることを拒否し、自らが最も得意とする「勇」の領域において、家の安泰に貢献することを誓ったのである。これは、父の権威を一切傷つけることなく自己の存在意義を確立するための、絶妙な言葉選びであり、二代目としての力強い覚悟の表明であった。
この誓いは、長政の父への異常なまでの尊崇の念からも読み解くことができる。後年、息子・忠之の袴着の祝いで、重臣の母里友信が「父君以上の功名を挙げなさい」と述べた際、長政は「父以上の功名とは何事だ!」と激怒し、友信を誅殺しようとしたという逸話がある 3 。この逸話は、長政にとって父・官兵衛が、超えることなど到底考えられない、絶対的な存在であったことを示している。この心理から墓前の誓いを逆算すれば、「智は父に」とは、父の「智」が到達不可能な目標であることを認め、絶対的な畏敬の念を示す言葉となる。そして、「勇は敵に」という言葉は、父が専門としなかった「勇」の領域でならば、自分は第一人者として存在価値を示せるという、自己肯定のための唯一の活路を見出すための宣言であったと言えるだろう。
第四部:逸話の源流と歴史的意義
この感動的な逸話は、果たして歴史的事実そのものなのであろうか。その源流と、福岡藩の歴史の中で果たした役割を検証することは、この物語をより深く理解するために不可欠である。
黒田官兵衛と長政:思想と行動の対比年表
官兵衛の「智」と長政の「勇」が、それぞれの時代背景の中でどのように発揮されたかを視覚的に対比させることで、誓いの言葉が生まれるに至った背景と、二人の本質的な違いが明確になる。
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年代 (西暦) |
黒田官兵衛(如水)の思想・行動 |
黒田長政の行動・決意 |
関連史料 |
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天正6年 (1578) |
有岡城に幽閉される。忍耐と情報分析の重要性を体感。 |
織田家の人質として過ごす。父の危機に直面。 |
3 |
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天正17年 (1589) |
隠居し「如水」と号す。秀吉の警戒を解くための智略。 |
家督を相続。豊前中津城主として領国経営を開始。 |
11 |
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文禄・慶長の役 |
渡海せず国内にあって後方支援と情報収集に徹する。 |
三番隊主将として渡海。各地で武功を挙げる。 |
15 |
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慶長5年 (1600) |
九州で挙兵し、西軍諸大名を次々と破る(天下取りの野心)。 |
関ヶ原で東軍の勝利に貢献。小早川秀秋らの調略を成功させる。 |
15 |
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慶長9年 (1604) |
京都伏見で死去。家臣に殉死を禁じ、人材を長政に遺す。 |
父の死に直面。崇福寺の墓前にて「智は父に、勇は敵に」と誓う。 |
1 |
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慶長年間以降 |
『黒田如水教諭』などで統治の心得を遺す(後世への智の継承)。 |
藩政を確立。「異見会」設置や倹約令で藩の基礎を固める。 |
12 |
史料の検証—史実か、理想化された物語か
この逸話の主要な典拠は、江戸時代中期に成立した武将の言行録『名将言行録』などである 4 。これらの書物は、後世への教訓となる逸話を多く収録している一方で、物語としての面白さを優先する傾向があり、史料としての厳密性には注意が必要である。事実、歴史学界では信憑性の低い「俗書」と見なされることもある 21 。
一方で、福岡藩の公式な歴史書として貝原益軒が編纂した『黒田家譜』には、この逸話が同じ形で明確に記載されているわけではない 22 。このことは、この物語が長政の死後、特に藩主の理想像が求められた時代に、教訓譚として形成され、あるいはより劇的な形で脚色されて流布した可能性を示唆している。
物語の機能—福岡藩「建国の神話」として
史実性の検証以上に重要なのは、「なぜこの物語が生まれ、語り継がれる必要があったのか」という問いである。江戸時代も中期に入ると、多くの藩で財政難や武士の太平慣れといった問題が深刻化し、藩の精神的な引き締めのために「原点回帰」が叫ばれるようになった 24 。福岡藩も例外ではなく、藩祖・官兵衛や初代藩主・長政の言行が、理想的な統治の模範として頻繁に引き合いに出された 23 。
この文脈において、「智は父に学び、勇は敵に学ぶ」という逸話は、極めて優れた機能を果たした。それは、福岡藩の精神的支柱を「官兵衛の智」(倹約、知恵、深慮)と「長政の勇」(尚武の気風、決断力、武威)という、分かりやすい二本の柱で象徴的に示す「建国の神話」として機能したのである。毛利家に伝わる「三本の矢」の教えが、史実ではないにもかかわらず毛利家の結束を象徴する物語として広く知られているのと同様に 25 、この逸話もまた、福岡藩士のアイデンティティを形成し、藩校「修猷館」などにおける教育の教材として、重要な役割を担ったと考えられる 27 。長政自身が「聖照権現」として神格化されていったことも、この流れと無関係ではない 24 。
第五部:誓いの実践 — 初代福岡藩主・黒田長政の治世
墓前での誓いは、単なる精神論に終わらなかった。それは、その後の長政の治世において、福岡藩52万石の具体的な統治方針として結実していく。
「智」の実践—藩政の礎を築く
長政は、父から学んだ「智」を、平時の統治システムへと巧みに応用した。まず、藩主として質素倹約を徹底し、「贅沢をするな。見栄を張るな」といった黒田家の家訓の基礎を築いた 10 。これは、生涯を通じて倹約家として知られた父・官兵衛の姿勢を直接受け継いだものであり、「智は父に学ぶ」という誓いの具体的な実践であった 10 。
さらに画期的であったのが、「異見会」の設置である 20 。これは、毎月、家老などの重臣と下級武士の代表者を集め、身分に関係なく無礼講で藩政について自由に意見を述べさせるという制度であった。これは、父が重視したであろう「人心の掌握」や「情報の重要性」という無形の「智」を、藩の公式な統治システムとして制度化したものであり、極めて先進的な試みであったと評価できる。
「勇」の継承と発揮—武家の棟梁として
一方で、長政は自らの本領である「勇」を、徳川体制下における武家の棟梁としての務めに遺憾なく発揮した。大坂冬の陣・夏の陣への参陣は 15 、徳川家への忠誠を示すと同時に、黒田家が依然として強力な武門であることを天下に示し、藩の安全保障と幕府内での地位を確保するための、計算された「勇」の発露であった。
彼の「勇」は、単なる戦闘能力に留まらなかった。家中の剣の達人に無謀にも挑んだ若者に対し、これを罰するのではなく、その勇気を褒め、正式に入門して技を磨くよう諭したという逸話がある 3 。これは、個々の家臣が持つ武勇を尊重し、それを組織全体の力へと昇華させる、統率者としての器量、すなわち大将としての「勇」を示している。長政の治世は、父から学んだ「智」を内政に応用し、自らの本領である「勇」を軍事・外交に活かすという、誓いの内容を忠実に実行したものであった。
結論:継承と超克の誓い
黒田長政が父・官兵衛の墓前で立てたとされる「智は父に学び、勇は敵に学ぶ」という誓いは、単なる父への敬慕の言葉ではない。それは、偉大すぎる父の存在という巨大なプレッシャーと正面から向き合い、自己の資質と限界を冷静に分析した上で、父とは異なる自らの道で家を継承し、発展させることを内外に宣言した、成熟した二代目としての「自立宣言」であった。
この逸話は、その史実性の探求以上に、福岡藩という巨大な組織がその草創期において、いかなる精神的支柱を必要とし、どのようにして藩祖と初代藩主の理想像を構築していったかを示す、貴重な文化的遺産と言える。それは、藩士たちの精神的拠り所となり、時代を超えて黒田家の統治理念を伝え続けた。
長政の誓いとその後の治世は、偉大な先人の遺産をいかにして受け継ぎ、そして自らの時代に合わせて乗り越えていくかという、後継者にとって普遍的な課題に対する、一つの優れた回答を示している。それは、盲目的な模倣ではなく、深い自己認識に基づいた、誇り高き「継承と超克」の道であった。
引用文献
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- 秀吉を天下人にした天才軍師 福岡藩祖 黒田官兵衛 - 福岡市 https://www.city.fukuoka.lg.jp/promotion/kanbei/chuo.html
- 黒田長政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
- 家臣の「殉死」を防ぐために黒田官兵衛が犠牲にしたものとは⁉︎「殿、ワタクシも!」は、ダメ。ゼッタイ。 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/121871/
- 福岡藩主 黒田家墓所 | 観光スポット一覧 | 【公式】福岡市観光情報サイト よかなび https://yokanavi.com/spots/26945
- 千鳥橋病院の近隣情報~黒田官兵衛 崇福寺(千代町)散策 https://www.chidoribashi-hp.or.jp/chidori-blog/289/
- 横岳山 崇福寺 - 博多の魅力 https://hakatanomiryoku.com/spot/%E6%A8%AA%E5%B2%B3%E5%B1%B1%E3%80%80%E5%B4%87%E7%A6%8F%E5%AF%BA
- 官兵衛と長政は、今どこに眠っているかご存知ですか? - 三好不動産 https://chintai.miyoshi.co.jp/contents/welove/198.html
- 黒田家墓所 参拝の心得 - 一般社団法人藤香会|NHK大河ドラマ 軍師 官兵衛 福岡の基礎・文化を築いた黒田長政 黒田官兵衛 https://toukoukai-kuroda.com/kokoroe/
- 黒田長政 (1568年 - 福岡市 http://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2013summer/14-18.pdf
- 知られざる福岡藩270年 第一回 黒田官兵衛と、その子孫たち|グラフふくおか(2013 夏号) https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2013summer/walk/index.html
- 福岡城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/02/
- 黒田官兵衛/福岡の歴史 https://www.2810w.com/fmmainkanbei.html
- 黒田長政 父黒田如水から学んだ決断方法 | 人生は創作|石川博信 - ジーレックスジャパン http://www.g-rexjapan.co.jp/ishikawahironobu/archives/3581
- 黒田長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34588/
- 企画展示 | No.599 没後400年 黒田長政 - 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/599/
- 黒田長政(黒田長政と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/31/
- 黒田長政(クロダナガマサ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF-16434
- 黒田官兵衛の息子・黒田長政の生涯|家康を勝利に導いた、父親譲りの戦略家【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1156223/2
- 黒田長政の辞世 戦国百人一首57|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/nd49b373d5cfa
- 名将言行録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%B0%86%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2
- ま ちの 史 跡 め ぐり https://www.town.sue.fukuoka.jp/material/files/group/12/1095.pdf
- 黒田官兵衛と、その子孫たち 知られざる福岡藩270年 https://www.pref.fukuoka.lg.jp/somu/graph-f/2013summer/walk/walk_01.html
- No.371 長政公はかく語りき | アーカイブズ | 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/371/index02.html
- 戦国武将の相続・成功例 毛利元就、徳川家康、織田信雄 https://www.kamomesouzoku.com/16067089881233
- 「三矢の教え」はフィクションだった?戦国大名・毛利元就が息子たちに遺した教訓とは - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/148188
- 黒田藩校が前身、修猷館高校の大事な教え - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/13679?page=1
- 福岡「修猷館高校」は230年前黒田藩の藩校として開校 | 冲中ブログ https://jasipa.jp/okinaka/archives/533
- 企画展示 | No.587 描かれた黒田如水・長政展 - 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/587/