最終更新日 2025-10-17

龍造寺隆信
 ~鶴の凶兆強行しぬかるみで討死~

「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信は、天正12年沖田畷の戦いで島津軍に敗れ討死。鶴の凶兆と泥濘の地形が彼の運命を分けた悲劇的な最期。

鶴翼の凶兆、泥濘の終焉:沖田畷に散った龍造寺隆信、その最期の日の徹底再構築

序章:運命の日、天正十二年三月二十四日への序曲

九州の鼎立と島原の火種

天正十二年(1584年)、日本の西端、九州の地は三つの巨大な勢力が覇を競う坩堝と化していた。北部に豊後の大友宗麟、南部に薩摩の島津義久、そして西部に肥前の龍造寺隆信。彼らは「九州三強」と称され、互いに領土を削り合う熾烈な戦いを繰り広げていた 1 。この均衡が、島原半島という一つの火種によって大きく揺らぐことになる。

戦いの直接的な引き金は、それまで龍造寺氏の麾下にあった島原の国衆、有馬晴信の離反であった 3 。晴信は、隆信の強圧的な支配に耐えかね、九州南部で破竹の勢いを見せる島津義久に誼を通じたのである。これは、九州北西部に絶大な影響力を持つ「肥前の熊」龍造寺隆信にとって、到底看過できる裏切りではなかった。

報せを受けた島津家中では、地理に不案内な島原への派兵に慎重論が渦巻いた。しかし、当主・島津義久はこれを一蹴する。「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきた者を見殺しにできようか」 5 。この決断により、島津氏は有馬氏救援のため、一族の猛将・島津家久を総大将として島原へ軍勢を派遣することを決定した。こうして、肥前の熊と薩摩の雄が島原半島で激突する運命の舞台が整えられたのである。

肥前の熊、大軍を率いて

有馬討伐の号令一下、龍造寺隆信が動員した軍勢は、まさに圧倒的であった。その数、諸説あるものの2万から5万7千ともいわれ、当時の九州における動員力としては最大級のものであった 3 。対する島津・有馬連合軍は、両軍を合わせてもわずか8000程度に過ぎず、その兵力差は歴然としていた 3

天正十二年三月十八日、隆信・政家父子が率いる大船団は須古城南方の龍王崎を出航 7 。順風に乗り、三月二十日頃には島原半島北部の神代(こうじろ)に着岸し、上陸を完了した。そして、龍造寺方に与する神代氏の鶴亀城を本陣と定め、戦の準備を進めた 7

この圧倒的な兵力差は、単なる軍事的な優位以上のものを龍造寺軍にもたらしていた。それは、指導者である隆信の中に深く根差した「慢心」という名の毒であった。彼の攻撃的で剛直な性格も相まって 2 、この出兵は危険を伴う決戦ではなく、裏切り者を懲罰するための単なる示威行動、力で蹂躙すれば済む戦と映っていた可能性が高い。後に島津軍の貧弱な陣立てを嘲笑することになるが 9 、その過信こそが、これから訪れる悲劇の最初の伏線だったのである。

第一章:出陣の朝、空に舞う凶兆

軍記物が語る「鶴の凶兆」

運命の日、天正十二年三月二十四日の払暁。龍造寺軍の陣営は、決戦を前にした静かな興奮と緊張に包まれていた。総大将である龍造寺隆信が、出陣の采配を振るおうとしたその刹那、異様な光景が将兵の目に飛び込んできた。本来、長寿や吉兆の象徴とされる鶴の群れが、異様に低い高度で陣の上を騒がしく飛び交い、鳴き声を上げたのである。

この不気味な光景に、歴戦の武将たちの間に動揺が走った。彼らは顔を見合わせ、囁き合った。「鶴が陣を掠めて低く飛ぶは、古来より不吉の至りと申す…」。それは、天がこの度の戦に警告を発しているかのような、不穏な前触れであった。

しかし、隆信はこの家臣たちの不安を一喝のもとに吹き飛ばしたと、後世の軍記物『北肥戦誌』などは伝えている 8 。彼は傲然と言い放った。「臆病者の見る夢よ!吉兆、凶兆など我が采配一つで決まるわ!ただちに進軍せよ!」。その声に逆らえる者は誰もおらず、龍造寺の大軍は天の警告を振り払うかのように、決戦の地・沖田畷へと進軍を開始した。この逸話は、隆信の傲慢で運命に逆らおうとする強烈な個性を象徴する場面として、後世に語り継がれていくことになる。

一次史料が記すもう一つの凶兆

一方で、この有名な「鶴の凶兆」とは別に、より生々しく、同時代に近い記録が残されている。それは、敵方である島津家の家臣・上井覚兼(うわいかくけん)が記した一次史料『上井覚兼日記』に見ることができる 12

その日記の、沖田畷の戦いの前日にあたる三月二十三日の条には、隈本(熊本)から届いた使者の報告として、次のような記述がある。「龍造寺隆信が肥後方面へ出陣しようとしたところ、二、三反ほどの畑地に夥しい数の蛇の死骸が現れた。人々はこれを『妖怪』の仕業であると恐れ、隆信は出陣を取りやめたという」 8

この「蛇の大量死」という凶兆は、鶴の逸話とは全く異なる、グロテスクで不気味な出来事である。日記という私的な記録に残されたこの情報は、当時、龍造寺の出陣に際して何らかの不吉な噂が流れていたことを示唆している。

この二つの凶兆譚の存在は、歴史がどのように語り継がれ、伝説へと昇華していくかという過程を浮き彫りにする。上井覚兼が記録した「蛇の死骸」は、おそらく戦場で交わされた生々しい噂話であろう。それは奇怪で不気味ではあるが、物語としての洗練さには欠ける。対して、後世の軍記物が採用した「鶴の凶兆」は、より文学的で象徴的である。吉兆の象徴である鶴が不吉な振る舞いをするという構図は、偉大な大名の運命が反転する悲劇を、より劇的に、そして詩的に演出する効果を持つ。「肥前の熊」とまで呼ばれた隆信の最期を飾る前触れとして、おびただしい蛇の死骸よりも、天意を示すかのような鶴の凶兆の方が、物語として遥かに相応しい。ここに、生々しい史実の断片が、語り継がれる中でより洗練された「伝説」へと姿を変えていく様が見て取れるのである。

第二章:沖田畷の地形と島津の策

通説としての「泥濘の隘路」

沖田畷の戦いを語る上で欠かせないのが、その特異な地形である。通説では、この地は眉山の麓から有明海の海岸線まで広がる広大な低湿地帯であったとされる 14 。その湿地の中央を、わずか数人が並んで歩ける程度の細長い一本道、すなわち「畷(なわて)」が貫いていた 14 。道の両脇は、場所によっては人の胸まで浸かるほどの深い泥田や沼地が広がっており、一度足を踏み入れれば身動きが取れなくなる、まさに天然の要害であった 4

島津家久は、この地形を最大限に活用する戦術を構築した。兵力で圧倒的に劣る島津・有馬連合軍が、龍造寺の大軍に正面からぶつかれば勝ち目はない。そこで家久は、この沖田畷を決戦の地と定め、隘路に誘い込んだ敵を殲滅する計画を立てた 3 。彼は意図的に中央の守りを手薄に見せかけ、龍造寺軍がその一点に殺到するように仕向けたのである 9 。これは、大軍の利点を無力化し、敵を一本の線にしてしまうという、寡兵が大軍を破るための見事な計略であった。

地形の再検証:火山麓扇状地の現実

しかし、この「広大な湿地帯」という通説は、近年の地理的な研究によって見直しが迫られている。現在の島原半島一帯の地質を調査すると、この地域は典型的な「火山麓扇状地」であることがわかる 15 。これは、火山の噴出物が麓に堆積して形成された緩やかな傾斜地であり、均一な沼地が延々と広がっているわけではない。

この地質学的見地から沖田畷の地形を再構築すると、かつての姿は大きく異なって見えてくる。火山麓扇状地には、水が集まりやすい場所とそうでない場所が混在している。つまり、戦場全体が通行不能な沼地だったわけではなく、所々に深い泥田やぬかるみが点在する、複雑な地形だった可能性が高い 15

この見解を裏付けるかのように、沖田畷の戦いを比較的詳細に記録しているイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、この戦いの勝敗を決定づけたはずの「湿地帯」に関する具体的な描写が一切見当たらない 15 。もし戦場が通説通りの広大な沼地であれば、観察眼の鋭いフロイスがその点に言及しないのは不自然である。

これらの事実から導き出されるのは、島津軍の戦術が、単に「敵を沼地に誘い込んだ」という単純なものではなかったという可能性である。彼らの勝因は、神話的な巨大沼の存在ではなく、有馬氏という現地の協力者から得た詳細な地理情報に基づき、この複雑な地形を熟知していた点にある。どこが通行可能で、どこが通行不能な深田なのか。それを正確に把握し、龍造寺の大軍を意図的に特定のぬかるみへと誘導し、動きを封じ込めた。伝説では「広大な泥濘」という分かりやすいイメージに単純化されているが、その実態は、より高度で緻密な、地形の特性を読み切った戦術的勝利だったのである。

第三章:泥濘の死闘 ― 崩れゆく大軍

怒号と混乱の最前線

天正十二年三月二十四日、巳の刻(午前10時頃)とも午前8時頃ともいわれる時刻、ついに両軍は激突した 16 。龍造寺軍の先鋒は、自軍の圧倒的兵力を背景にした自信に満ち溢れ、沖田畷の中央道を猛然と突き進んだ。しかし、彼らを待ち受けていたのは、隘路に陣を構えた島津軍の熾烈な抵抗であった。特に、側面から浴びせられる鉄砲の一斉射撃は凄まじく、龍造寺軍の先鋒は狭い道の上で次々と斃れていった 14

道幅が狭いため、後続部隊は前進することも、側面から援護することもできない。先鋒が足止めを食らうと、数万の大軍は巨大な渋滞を引き起こし、進軍は完全に停滞してしまった 11 。前線では敵の攻撃で兵が倒れ、後方からは味方が押し寄せる。まさに進むも退くもできぬ地獄絵図が、沖田畷の隘路で繰り広げられていた。

吉田清内の独断と悲劇の突撃

後方の本陣にいる龍造寺隆信からは、最前線の混乱ぶりを正確に把握することはできなかった。ただ進軍が滞っているという事実だけが、彼を苛立たせた。業を煮やした隆信は、馬廻の吉田清内という武将を呼びつけ、前線の様子を確かめてくるよう命じた 11

前線に到着した清内は、味方が隘路で立ち往生している惨状を目の当たりにする。このまま「進軍できません」と正直に報告すれば、短気な隆信の激しい叱責を免れないだろう。主君の怒りを恐れた清内は、その場で致命的な独断を下す。彼は馬を駆って停滞する味方の陣列を駆け巡り、あたかも隆信の命令であるかのように大声で叫んだ。

「これは大将の下知なり!二陣、三陣、旗本まで、差支えて進まれず。命を惜しまず懸られよ!」 11

(これは総大将様からの御命令である!後続部隊が進めずにおられる。命を惜しまず、敵陣に突撃せよ!)

この偽りの命令は、前線の将兵に絶望的な決断を強いた。「臆病者」の烙印を押されることを何よりも恥とする武士の意地が、彼らを無謀な行動へと駆り立てた。先陣の兵たちは「よし、さらば死を一挙に定めよ」と叫び、後続の兵も「我らも負けられぬ」と、次々に道から外れ、両脇の深田へと飛び込んでいったのである 8

その結果は悲惨であった。重い甲冑を身に着けた武者たちは、泥濘に足を取られ、瞬く間に身動きが取れなくなった。『北肥戦誌』は、その様子を「草摺・上帯・胸板まで見えなくなるほど」ズブズブと沈んでいったと記している 11 。完全に無力化された彼らは、島津・有馬連合軍にとって格好の的となった。泥中でもがき苦しむ龍造寺の兵たちは、一方的に射殺され、あるいは討ち取られ、沖田畷の泥田は瞬く間に血の海と化した。

この大崩壊は、単なる戦術的失敗ではなかった。それは、後方から戦況を把握できず苛立つ総大将の焦り、主君の叱責を恐れた使者の嘘、そして「臆病」を恥とし、無謀な突撃を是とする武士の価値観という、いくつもの人間的な要因が連鎖して引き起こした悲劇であった。龍造寺軍の敗北は、その主力が敵兵と刃を交える前に、すでに決定づけられていたのである。

第四章:「肥前の熊」の最期

本陣への強襲

前線が崩壊し、自軍の兵が泥濘でなぶり殺しにされている間、龍造寺隆信は後方の本陣で苛立ちを募らせていた。彼は極度の肥満体であったため馬に乗れず、六人担ぎの豪奢な山駕籠に乗って戦場に来ていた 11 。戦況が思わしくないことに痺れを切らした隆信は、駕籠から降りると、小高い場所に置かれた床几(しょうぎ、折り畳み椅子)に腰を下ろし、自ら戦況を見極めようとした 11 。しかし、この行動が、彼自身を敵の標的として晒す結果となる。

この好機を、島津家久が見逃すはずはなかった。彼は龍造寺軍の混乱を見極め、全軍に総攻撃を命令。中でも、川上忠堅(かわかみただかた)率いる島津軍の精鋭部隊は、前線の乱戦を巧みに迂回し、手薄になった龍造寺軍の本陣目指して一直線に突進した 5

最後の対峙と辞世の句

島津の突撃部隊が本陣になだれ込むと、そこはすでに大混乱に陥っていた。総大将を守るべき旗本衆は、迫りくる敵の勢いに恐れをなして逃げ散り 17 、隆信を運んできた駕籠の担ぎ手たちも、主君を見捨てて我先に逃亡した 21

瞬く間に孤立した隆信の前に、島津の猛将・川上忠堅が立ちはだかった。この最後の場面について、後世の軍記物は劇的なやり取りを記録している。絶体絶命の状況にもかかわらず、隆信は泰然自若として忠堅に問いかけたという。

「お前は大将の首を取る作法を知っているのか」 22

これに対し、忠堅は少しも臆することなく言い返した。

「この剣で命をおとす寸前だが、どんな気分だ?」 22

この問いに、隆信は静かに一言、辞世の句として答えた。

「紅炉上一点の雪(こうろじょういってんのゆき)」 11

これは禅の言葉であり、「燃え盛る炉の上に置かれた一片の雪が瞬時に消え去るように、全ての執着や迷い、野心も消え失せ、無の境地にある」という意味を持つ 11 。生涯を戦に明け暮れた「肥前の熊」が、その最期に見せた悟りの境地であった。この言葉を最後に、川上忠堅の一太刀が振り下ろされ、龍造寺隆信は討ち取られた。時に未の刻(午後2時頃)、享年56であった 11

史実と創作の狭間

この禅問答のような気高い最期は、しかし、後世に脚色されたものである可能性が高い。フロイスの記録や『上井覚兼日記』といった同時代の史料は、より簡潔に、彼が敵兵に囲まれ、駕籠に乗っていたところを襲われて討ち取られた、と記しているに過ぎない 8 。そこには、詩的な辞世の句も、敵将との哲学的な対話もない。あるのは、肥満のために動けず、家臣に見捨てられた総大将が、なすすべもなく敵の刃に倒れるという、より無慈悲で即物的な最期である。

ここに、龍造寺隆信の「二つの死」を見ることができる。一つは、沖田畷の泥濘の上で迎えた、おそらくは乱戦の中の無残な「物理的な死」。もう一つは、後世の物語の中で作り上げられた、辞世の句と共に散る気高い「文学的な死」である。後者の物語は、一人の偉大な武将の敗北という事実を、単なる軍事上の失策から、運命と対峙した個人の悲劇へと昇華させる役割を果たした。歴史の記録と物語の創作が交錯する中で、隆信の最期は、より記憶に残りやすい、教訓に満ちた逸話として形成されていったのである。

主要史料の比較分析表

比較項目

『北肥戦誌』(軍記物)

ルイス・フロイス『日本史』

『上井覚兼日記』(一次史料)

凶兆

陣の上を低く飛ぶ鶴の群れ

言及なし

畑に現れた夥しい蛇の死骸の噂

戦場の地形

狭い道を挟んで広がる広大で深い泥濘・沼地

湿地帯に関する詳細な描写はない。有馬の船からの大砲による砲撃が戦局に影響したと言及 25

地形に関する詳細な描写はない

隆信の乗り物

六人担ぎの山駕籠

肥満のため六人担ぎの駕籠

言及なし

敗因

伝令の偽りの命令による、泥濘への無謀な突撃

島津軍の優れた戦術と大砲の威力

(戦術的詳細より結果に焦点を当てる)

最期の様子

川上忠堅との冷静で哲学的な問答の後、禅の辞世の句を詠んで討たれる

敵兵に包囲されて殺害される

駕籠の中にいたところを襲撃され、討ち取られる

終章:逸話の誕生と定着

首の行方と怪異譚

龍造寺隆信の死によって、沖田畷の戦いは決した。大将を失った龍造寺軍は総崩れとなり、数千の死者を出して敗走した 5 。隆信の首は川上忠堅によって掻き切られ、総大将・島津義久のもとへ届けられた。そこで厳粛な首実検(討ち取った首の本人確認の儀式)が行われた 8

通常、このような場合、討ち取った大将の首は丁重に敵方へ返還されるのが戦国の作法であった。しかし、この後、前代未聞の出来事が起こる。島津方の使者が隆信の首を届けたところ、悲嘆と混乱に陥っていた龍造寺家は、なんとその受け取りを拒否したのである 8

主君の首の受け取りを拒否された使者は、やむなく首を持って引き返すが、その道中で奇怪な現象に遭遇したと伝えられている。肥後国の高瀬川に差し掛かった時、それまで運んでいた隆信の首がにわかに鉛のように重くなり、ついには一歩も動かせなくなってしまったという 8 。人々はこれを、無念の死を遂げた隆信の強大な怨念の現れであると噂した。この怪異譚は、隆信の死が人々に与えた衝撃の大きさを物語ると共に、彼の逸話に超自然的な彩りを加えることになった。

史実、脚色、記憶の織物

こうして、「鶴の凶兆に始まり、泥濘の死闘を経て、壮絶な最期を遂げる」という龍造寺隆信の物語は完成した。この逸話は、いくつかの異なる層が重なり合って形成されている。

第一に、 「史実の核」 。兵力で優位に立ちながらも慢心し、地形を巧みに利用した島津軍の優れた戦術の前に大敗を喫し、総大将の隆信が戦死したという、動かしがたい歴史的事実がある。

第二に、 「文学的脚色」 。後世の『北肥戦誌』のような軍記物が、この史実に劇的な要素を加えた。天意を示すかのような「鶴の凶兆」、武士の覚悟を示す「最後の問答」、そして悟りの境地を表現した「辞世の句」。これらは、単なる敗北の記録を、英雄の悲劇として記憶に刻み込むための、見事な物語的装置であった。

第三に、 「民俗的伝承」 。受け取りを拒否された首が怪異をなすという話は、隆信という人物の強烈な存在感が、死後も人々の心に残り続けたことを示している。これは、歴史上の人物が民衆の記憶の中で伝説、あるいは神霊へと変化していく過程そのものである。

龍造寺隆信の最期を巡るこの逸話が、単なる戦の記録を超えて現代にまで語り継がれる理由は、この三つの層が見事に融合しているからに他ならない。それは、史実の重みと物語の魅力、そして人々の畏敬の念が織りなす一枚のタペストリーであり、傲慢が招く悲劇、運命の非情さ、そして戦国の世の厳しさを我々に伝え続ける、不朽の cautionary tale(教訓譚)なのである。

引用文献

  1. [合戦解説] 10分でわかる沖田畷の戦い 「九州の覇者は島津か龍造寺か」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=BmM4FWs4FC0
  2. 人物紹介(龍造寺家:龍造寺隆信) | [PSP]戦極姫3~天下を切り裂く光と影~ オフィシャルWEBサイト - システムソフト・ベータ https://www.ss-beta.co.jp/products/sengokuhime3_ps/char/ryuzouji_takanobu.html
  3. 沖田畷の戦い~島津家の強さが発揮された龍造寺との決戦 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1177/
  4. 龍造寺隆信最期の地、沖田畷古戦場跡と二本木神社 [長崎県島原市]|Rena - note https://note.com/rena_fr/n/nec4c90de9e02
  5. 薩摩島津氏-沖田畷の戦い- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/simazu/html/sm_oki.html
  6. 3/24 沖田畷の戦い | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-11197270848.html
  7. 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート②【2018.10/27】: 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/462822724.html
  8. 殿の首を受け取り拒否!? 戦国武将・龍造寺隆信の壮絶な最期…からの数奇な運命 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/258456/
  9. 島津家久、軍法戦術の妙~沖田畷、戸次川でみせた鮮やかな「釣り野伏せ」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3975
  10. 福岡以外の城-254鶴亀城(高来) http://shironoki.com/200fukuokaigai-no-shiro/254tsurukame-takaku/tsurukame-takaku0.htm
  11. 龍造寺隆信~討ち死に後、その首はなぜ受け取りを拒否されたのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5278
  12. 現代語訳 上井覚兼日記2 天正十二年(一五八四)正月~天正十二年(一五八四)十二月 | ヒムカ出版 https://himuka-publishing.com/publication/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3-%E4%B8%8A%E4%BA%95%E8%A6%9A%E5%85%BC%E6%97%A5%E8%A8%98%EF%BC%92%E3%80%80%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B9%B4%EF%BC%881584%EF%BC%89%E6%AD%A3%E6%9C%88/
  13. 『現代語訳 上井覚兼日記2』発売! - ヒムカ出版 https://himuka-publishing.com/info/%E3%80%8E%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3-%E4%B8%8A%E4%BA%95%E8%A6%9A%E5%85%BC%E6%97%A5%E8%A8%98%EF%BC%92%E3%80%8F%E7%99%BA%E5%A3%B2%EF%BC%81/
  14. 沖田畷の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Okitanawate.html
  15. 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート⑥【2018.10/27】: 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/463095928.html
  16. 沖田畷の戦い・史跡踏査会レポート⑨ - 佐賀の戦国史 http://sagasengoku.seesaa.net/article/464254761.html
  17. 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
  18. 竜造寺隆信とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%AB%9C%E9%80%A0%E5%AF%BA%E9%9A%86%E4%BF%A1
  19. 「龍造寺隆信」わずか一代で国衆から五州二島の太守に上り詰めた肥前の熊! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/755
  20. 沖田畷古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%B2%96%E7%94%B0%E7%95%B7%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
  21. 島原合戦(沖田畷の戦い)と阿蘇合戦/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(6) https://rekishikomugae.net/entry/2023/05/23/173421
  22. 龍造寺隆信 最期の言葉 戦国百人一首⑪|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/nf09c4e874ceb
  23. 龍造寺隆信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E9%9A%86%E4%BF%A1
  24. 「肥満の大将」と呼ばれた戦国武将の"驚きの最期" 肥前の龍造寺隆信の最期、一体何があったのか https://toyokeizai.net/articles/-/704161?display=b
  25. 沖田畷の戦いで龍造寺氏を破る - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/okitanawate-no-tatakai/