キリシタン改易相次ぐ(1614)
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『慶長十九年の激震:キリシタン改易・追放の時系列分析と戦国末期の終焉』
序章:禁教前夜 – 徳川幕府とキリシタンの緊張関係
慶長十九年(1614年)に日本全国を揺るがしたキリシタン大名の改易と信徒の追放という一連の事変は、徳川幕府による支配体制確立の過程における画期的な出来事であった。しかし、この激震は突如として発生したものではない。その根源は、戦国時代から続くキリスト教に対する為政者の宥和と警戒の二元的な政策、そして徳川家康の天下統一事業の最終段階における国内の潜在的脅威の排除という、深遠な政治的文脈の中に存在する。
1. 戦国時代からの遺産:宥和と警戒の二元性
日本の為政者による最初の本格的なキリスト教規制は、豊臣秀吉が天正十五年(1587年)に発布した「伴天連追放令」に遡る 1 。九州平定の過程でキリシタン大名の勢力と、彼らが領内の寺社を破壊するなどの過激な行動を目の当たりにした秀吉は、宣教師の国外退去を命じた 2 。しかし、この追放令は、信仰そのものを禁じるものではなく、南蛮貿易がもたらす経済的利益は維持しようとする、限定的なものであった 4 。この「貿易の実利は取り、布教は制限する」という姿勢は、徳川家康の初期の対キリスト教政策にも色濃く受け継がれた。
家康は当初、朱印船貿易の推進を重視し、キリスト教を事実上黙認していた 6 。しかし、その水面下では、スペインやポルトガルといったカトリック国の領土的野心への警戒と、神の前に万人は平等であるという教えが幕府の根幹をなす身分制度と相容れないという本質的な矛盾を深く認識していた 7 。さらに、一部のキリシタン大名による領内の寺社破壊や他宗派への非寛容な態度は、日本の伝統的な宗教秩序を統制しようとする幕府にとって、看過できない問題としてくすぶり続けていた 8 。
2. 導火線:岡本大八事件(慶長17年/1612年)の衝撃
この緊張関係を一気に爆発させ、家康を全国的な禁教へと踏み切らせた直接的なきっかけが、慶長十七年(1612年)に発覚した岡本大八事件であった 10 。
この事件は、家康の側近であった本多正純の与力で、自身もキリシタンであった岡本大八(洗礼名:パウロ)が、肥前のキリシタン大名・有馬晴信に対し、旧領回復の恩賞を斡旋すると偽り、多額の賄賂を詐取したことに端を発する 11 。約束が果たされないことに業を煮やした晴信が家康に直訴したことで事件が露見。追い詰められた大八は、逆に晴信が長崎奉行の暗殺を企てていたと告発した 10 。これにより、単なる収賄事件は、幕府への反逆を巡る疑獄事件へと発展した。
最終的に、大八は駿府市中を引き回された上、火刑に処され、晴信は領地没収(改易)の上、甲斐国へ流罪となり、後に死罪を命じられた 8 。キリシタンであった晴信は教義に基づき自害を拒み、家臣に首を打たせたという 13 。
この事件が家康に与えた衝撃の核心は、単なる個人の腐敗ではなかった。幕府の中枢(本多正純の配下)と有力な外様大名(有馬晴信)が、「キリシタン」という共通項で結びつき、幕府の権威の象徴である朱印状の偽造という国家統治の根幹を揺るがす行為にまで及んだ点にある 12 。これは家康にとって、キリスト教が幕府の公式な指揮系統や身分秩序を越えた、潜在的に危険なネットワークを形成しうるという恐怖を現実のものとして突きつけた。この一件により、キリスト教はもはや黙認できる存在ではなく、幕府の統治に対する明確な脅威であるという認識が決定づけられ、全国的な禁教政策へと舵を切るための政治的口実と正当性が与えられたのである。
第一章:慶長17-18年 – 禁教令の段階的発布と全国への拡大
岡本大八事件を転機として、徳川幕府のキリスト教に対する政策は、黙認から弾圧へと大きく転換した。慶長十七年(1612年)から翌十八年(1613年)にかけて、禁教令は段階的に、しかし着実にその適用範囲を広げ、日本全土を覆う幕府の基本法として確立されていく。
1. 禁教への第一歩:幕府直轄領への禁教令(慶長17年/1612年)
岡本大八が処刑された慶長十七年三月二十一日、幕府は矢継ぎ早に最初の行動を起こした。江戸、京都、駿府といった幕府の直轄地に対し、キリスト教を禁止する禁教令を発布し、教会の破壊と布教の禁止を命じたのである 8 。この時点ではまだ全国規模の法令ではなかったが、諸大名はこの動きを事実上の「国々御法度」として受け止め、全国的な圧力として機能し始めた 14 。この命令に基づき、当時キリシタンの一大拠点であった京都の教会は破壊された 12 。
この禁教令は、身分や家康との個人的な関係を問わず、厳格に適用された。家康の側近であった旗本・原胤信など、棄教を拒否して潜伏する者も現れ始めた 8 。さらに象徴的だったのが、家康の侍女であったジュリアおたあの処分である。朝鮮出身の彼女は、家康から側室になるよう求められたが、キリスト教の信仰を理由にこれを拒絶。その結果、駿府城から追放され、伊豆大島へと流罪に処された 8 。これは、禁教が天下人である家康自身の意向にさえ優先される、幕府の絶対的な方針であることを内外に示す厳しい見せしめであった。
2. 禁教の理論武装:「伴天連追放之文」(慶長18年/1613年)
慶長十八年(1613年)、家康は禁教政策を全国に拡大するにあたり、単なる武力や権威による弾圧ではなく、その正当性を理論的に確立する必要性を感じていた。そこで、外交や法整備のブレーンとして重用していた臨済宗の僧、金地院崇伝(以心崇伝)に、禁教令の公式な声明文の起草を命じた 6 。
崇伝はこれを一夜にして書き上げたと伝えられている 16 。この文書は「伴天連追放之文」、あるいは「排吉利丹文」と呼ばれ、徳川幕府のキリスト教に対する基本姿勢を決定づける歴史的な文書となった 18 。
その内容は、単なる禁止命令に留まらない、高度にイデオロギー的なものであった。まず、日本を「神国」であり「仏国」であると定義し、神道・儒教・仏教の三教が一体となって国家の秩序と道徳を形成していると高らかに宣言する 1 。その上で、キリスト教を「正宗を惑わし、政体を改め、善悪をそこなう邪教」と断定。この「邪法」の蔓延は、日本の国体を破壊する「大禍の萌(きざし)」であると結論付けた 15 。
この崇伝による草案を承認した家康は、二代将軍・徳川秀忠の名をもって、慶長十八年十二月二十三日に「伴天連追放之文」を全国の大名へ公布させた 1 。これにより、禁教は徳川幕府の揺るぎない基本法として確立された。
この文書の公布は、徳川幕府による国家イデオロギーの確立宣言に他ならなかった。戦国時代には存在しなかった、統一された「公の思想」を幕府が定義し、それに反するものを「邪」として排除する論理を構築したのである。これは、武力による天下統一から、思想・宗教の統制による体制の恒久化へと移行する幕府の国家戦略の象徴であった。キリスト教の教え、特に神の前の平等という概念は、士農工商という厳格な身分制度を根幹とする幕藩体制とは本質的に相容れないものであり 7 、その排除は、徳川の天下を盤石にするための必然的な帰結であった。
第二章:慶長19年(1614年) – 弾圧の嵐、その詳細な時系列
「伴天連追放之文」によって理論武装を完了した幕府は、慶長十九年(1614年)、ついに全国規模でのキリシタン弾圧を本格的に実行に移す。この年の弾圧は、周到に計画された戦略的なキャンペーンであり、春のインフラ破壊から、夏の有力大名への見せしめ、そして秋の指導者層の物理的排除へと、段階的かつ組織的に進められた。
表1:慶長19年(1614年)キリシタン弾圧関連年表
時期 |
場所 |
事変 |
主要人物・対象 |
年初~春 |
京都、長崎 |
教会堂の徹底的な破壊 |
南蛮寺(京都)、サント・ドミンゴ教会など13の教会(長崎) |
|
京都、大坂 |
信徒の捕縛と国内流罪 |
棄教を拒んだ信徒71名が津軽へ流される |
夏(7月) |
肥前日野江藩 |
キリシタン大名家の転封(国替え) |
有馬直純(日向延岡へ)、旧領は天領化 |
秋(9月) |
全国 |
指導者層の国外追放命令 |
高山右近、内藤如安、宣教師、有力信徒ら |
|
金沢、各地 |
追放対象者の長崎への移送 |
高山右近が金沢を出発 |
冬(11月8-9日) |
長崎 |
国外追放の実行 |
追放者がマニラとマカオへ向けて二手に分かれ出航 |
1. 春:象徴の破壊と共同体の解体
年が明けると、禁教令は直ちに実行に移された。幕府はまず、キリシタン共同体の精神的・物理的支柱である教会堂の破壊を命じた。特に、二大拠点であった京都と長崎では、徹底的な破壊が行われた 14 。京都では「南蛮寺」として知られた教会が破壊され、キリシタンの中心地であった長崎では、サント・ドミンゴ教会を含む13もの教会堂が打ち壊された 20 。これは、信徒たちの信仰の拠点を奪い、共同体を物理的に解体することを目的としたものであった。
同時に、一般信徒に対しても棄教が厳しく強要された。これに応じない者は容赦なく捕縛され、見せしめとして過酷な処分が下された。京都および大坂で捕らえられた信徒71名は、当時、蝦夷地と並ぶ流刑地であった津軽(現在の青森県)への流罪を命じられた 22 。彼らは慶長十九年五月に敦賀港を出航し、六月に津軽の外浜(現在の深浦か鰺ヶ沢と推定)に到着。将軍の命令として荒地の開墾に従事させられるという、厳しい運命を辿った 22 。
2. 夏:キリシタン大名家への見せしめ
次に幕府が打った手は、キリシタン大名家に対する見せしめとしての懲罰的処分であった。その標的となったのが、岡本大八事件で死罪となった有馬晴信の子、有馬直純である。
慶長十九年七月、直純は肥前日野江(4万石)から日向延岡(5万3千石)への転封、すなわち国替えを命じられた 8 。表向きは加増であったが、これは紛れもない懲罰であった。直純自身は父の事件後、速やかに棄教し、幕府の禁教令に従って領内のキリシタン弾圧を進めるなど、徳川家への恭順の意を示していた 8 。しかし、幕府にとって、かつてキリシタン大名の筆頭格であった有馬家の存在そのものが許されなかったのである。
さらに重要なのは、直純の旧領である島原半島が天領、すなわち幕府の直轄地とされたことである 8 。海外貿易の窓口である長崎に隣接するこの戦略的要衝を幕府が直接管理下に置くことで、キリスト教と海外勢力の結びつきを断ち切ろうとする明確な意図があった。この直純への処分は、「一度キリシタンであったという事実は、たとえ棄教しても許されるものではない」という幕府の強烈なメッセージであり、他のキリシタン大名やその可能性がある大名たちを震え上がらせる、一種の恐怖政治であった。この後、島原は松倉重政に与えられ、彼の苛政が後の島原の乱の遠因となる 8 。
3. 秋から冬へ:指導者層の国外追放
共同体の拠点を破壊し、有力大名への見せしめを終えた幕府は、キャンペーンの最終段階として、キリシタン共同体の頭脳であり心臓部である指導者層の物理的な排除に乗り出した。
慶長十九年九月、幕府は高山右近や内藤如安といった、棄教を拒み続ける元大名や有力な信徒、そして国内に潜伏していた宣教師たちに対し、国外追放という最も厳しい処分を決定した 8 。
追放対象者たちは全国各地から長崎に集められた。高山右近は、豊臣政権下で改易された後、客将として身を寄せていた加賀の前田家から、長い旅路を経て長崎へと護送された 23 。
そして慶長十九年十一月八日と九日、長崎港に集められた数百名の宣教師と信徒たちは、二つの船団に分かれ、日本の地を後にした 25 。
- マニラ組: 高山右近とその家族、内藤如安など、主に日本人信徒を中心とする約100名が乗船し、スペイン領フィリピンの首都マニラへと向かった 23 。
- マカオ組: イエズス会の宣教師や同宿(カテキスタ)など、聖職者を中心とする100名以上が5隻のジャンク船に乗せられ、ポルトガル領マカオへと送られた 25 。この中には、天正遣欧少年使節の一員であった原マルチノも含まれていた 25 。
この大規模な追放により、日本のキリシタン共同体は指導者と組織を完全に失い、公的な活動の術を断たれることとなった。
第三章:主要人物たちの運命 – 改易、追放、そして信仰
慶長十九年の一連の弾圧は、多くの人々の運命を大きく変えた。幕府の絶対的な権力の前で、ある者は信仰を貫いて殉じ、ある者は時代の波に翻弄され、またある者は新たな戦場に活路を見出そうとした。彼ら一人ひとりの選択と結末は、この時代の厳しさと複雑さを雄弁に物語っている。
表2:禁教令により影響を受けた主要キリシタン大名・人物一覧
氏名 |
当時の身分・領地 |
受けた処分 |
その後の動向 |
高山 右近 |
元大名・加賀藩客将 |
国外追放(マニラ) |
追放の翌年(1615年)、マニラにて病死 |
有馬 直純 |
肥前日野江藩主 |
転封(日向延岡へ) |
棄教し、延岡藩主として家名を存続 |
内藤 如安 |
元大名・客将 |
国外追放(マニラ) |
マニラで客死 |
ジュリア おたあ |
徳川家康侍女 |
国内流罪(伊豆大島へ) |
伊豆大島で生涯を終える |
明石 全登 |
宇喜多秀家旧臣・浪人 |
潜伏・大坂城入城 |
大坂の陣で豊臣方として戦い、行方不明となる |
1. 信仰に殉じた者たち
- 高山 右近: 戦国時代を代表するキリシタン大名であった高山右近は、豊臣秀吉から「信仰を捨てるか、領地を捨てるか」と迫られた際、躊躇なく領地の返上を選んだことで知られる 2 。徳川の世になってもその信仰は揺らぐことなく、慶長十九年の追放命令を甘んじて受けた。当時62歳であった右近は、家族と共にマニラへ渡る 23 。マニラでは、その高名は既にヨーロッパにまで届いており、スペイン領フィリピンの総督から国賓級の盛大な歓迎を受けた 23 。しかし、長旅の疲労と慣れない気候の変化が老いた身体を蝕み、マニラ到着後わずか40日で熱病に倒れ、慶長二十年(1615年)二月にその生涯を閉じた 23 。彼の葬儀はマニラ全市を挙げて執り行われ、その死は篤信の士として悼まれたという 23 。
- 内藤 如安: 小西行長の重臣であった内藤如安もまた、信仰を捨てなかったキリシタン武将の一人である。関ヶ原の戦いで主家が滅亡した後も信仰を守り続け、高山右近と共にマニラへ追放された。彼は異郷の地マニラで、77歳の生涯を閉じた 31 。
- ジュリア おたあ: 彼女の物語は、権力者の個人的な要求にさえ屈しない信仰の強さの象徴として語り継がれている。朝鮮出兵の際に日本へ連れてこられた彼女は、その聡明さから家康の侍女となった。家康は彼女を側室に迎えようとしたが、ジュリアはキリスト教の教えを盾にこれを断固として拒絶した。その結果、彼女は駿府城から追放され、伊豆大島へと流された 8 。大名でも武士でもない一人の女性が、天下人の意に背いてまで信仰を貫いたという事実は、当時の人々に大きな影響を与えた。
2. 時代の波に翻弄された者
- 有馬 直純: 彼の事例は、徳川体制下における個人の選択の限界と、「家」の出自が持つ重みを物語っている。父・晴信の罪を背負い、自らは早々に棄教して幕府への忠誠を示したにもかかわらず、彼は「元キリシタン大名の嫡男」という過去から逃れることはできなかった 8 。日向延岡への転封という処分は、彼の家が徳川幕府から完全な信頼を得られていないことの証であった。彼の生涯は、信仰と政治、個人の意思と家の存続という狭間で苦悩した、この時代の多くの人々の姿を象徴している。
3. 新たな戦場を選んだ者
- 明石 全登: 宇喜多秀家の旧臣で、熱心なキリシタンであった明石全登は、他の者たちとは異なる道を選んだ。主家滅亡後、浪人として潜伏生活を送っていた彼は、慶長十九年の禁教令によってさらに追い詰められた。同年、徳川と豊臣の対立が決定的となり大坂冬の陣が勃発すると、彼は信仰の自由を求めて(あるいは幕府への反抗として)、豊臣方に馳せ参じた 33 。彼の存在は、禁教令が多くのキリシタン武士や浪人を反幕府勢力へと追いやる結果を招いたことを示している。彼にとって大坂城は、信仰と武士としての誇りをかけて戦う最後の戦場であった。
第四章:連鎖する影響 – 大坂の陣と禁教政策の深化
慶長十九年(1614年)という年は、キリシタン弾圧と、徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣という、二つの歴史的な出来事が完全に重なり合った年であった。この二つの事象は、単に同時期に起こっただけではなく、相互に影響を及ぼし合い、徳川幕府の支配体制を決定づける上で、より深刻な連鎖反応を引き起こしていく。
1. 大坂の陣とキリシタン浪人
慶長十九年の禁教令とそれに伴う改易・追放は、多くのキリシタン武士たちから所領や生活の糧を奪い、彼らを浪人へと追いやった。時を同じくして、豊臣秀頼が大坂城で兵を募り始めると、行き場を失った彼らの多くが、反徳川の旗印の下に集結した 33 。
豊臣方は、彼らを貴重な戦力として積極的に受け入れた。豊臣秀頼は「もし我らが勝利した暁には、キリスト教の信仰を認める」といった趣旨の約束をしたと伝えられているが、それがどこまで本心であったかは定かではない 34 。しかし、幕府の弾圧に苦しむキリシタンたちにとって、それは一縷の望みであった。明石全登に代表されるキリシタン武将たちは、信仰のために戦うという大義名分を掲げ、大坂方の中核として勇猛に戦った。
2. 幕府の確信と弾圧の激化
大坂城にキリシタン浪人が集結し、豊臣方として戦ったという事実は、家康と幕府首脳部に、ある種の確信を植え付けた。それは、**「キリスト教は、徳川の天下泰平に対する、紛れもない反乱分子である」**という認識である。彼らにとって、大坂の陣は単なる豊臣家との戦いではなく、幕府の秩序に服さない「邪教」の徒との戦いという側面を帯びることになった。これは、豊臣家を滅亡させるための格好の政治的口実ともなった。
翌慶長二十年(1615年)の夏の陣で豊臣家が滅亡すると、幕府のキリシタン弾圧は、その正当性を得て、さらに組織的かつ苛烈なものへとエスカレートしていく。慶長十九年の追放を免れて国内に潜伏していた信徒や、密かに再入国した宣教師たちを対象に、より徹底した摘発が始まった 15 。
この弾圧強化の流れは、元和八年(1622年)、長崎で宣教師や信徒ら55名が一斉に処刑された「元和の大殉教」へと繋がる 8 。そして最終的には、寛永十四年(1637年)の島原の乱という、キリシタン農民を中心とした大規模な反乱を引き起こすことになる 8 。慶長十九年の出来事は、これらの大規模な殉教と反乱へと至る、長い弾圧の時代の序曲であった。
この一連の流れは、相互に影響を及ぼし合うフィードバックループを形成していた。すなわち、幕府の禁教令がキリシタン浪人を生み出し、彼らが大坂城へと向かう。そして、彼らが大坂方で戦ったという事実が、幕府の禁教政策をさらに正当化し、強化させる。この連鎖反応は、戦国時代の終焉が単なる豊臣家の滅亡を意味するのではなく、徳川幕府の支配体制にそぐわない全ての要素(この場合はキリスト教)を、日本社会から根絶しようとする、より大規模な社会改造の始まりであったことを示している。
「戦国時代という視点」でこの事変を捉えるならば、これは個人の実力や多様な信仰がある程度許容された時代から、体制への絶対的な服従が求められる中央集権の時代への、完全な移行を象徴する事件であったと言える。
結論:潜伏の時代へ – 鎖国体制の礎として
慶長十九年(1614年)に断行された一連のキリシタン改易と追放は、単発の宗教弾圧事件に留まらず、その後の日本の歴史の方向性を決定づける極めて重大な転換点となった。この出来事は、国内のキリスト教共同体を根絶やしにすると同時に、日本の対外政策を大きく変容させ、最終的に「鎖国」と呼ばれる体制を築き上げるための礎となったのである。
1. 禁教政策の完成と鎖国への道
慶長十九年の一連の措置は、日本のキリスト教共同体が持つ公的な組織を完全に破壊した 36 。宣教師という指導者を失い、教会という物理的な拠点を奪われた信徒たちは、表舞台から姿を消すことを余儀なくされた。
この国内政策の転換は、必然的に対外政策にも影響を及ぼした。キリスト教の布教と不可分であったポルトガルやスペインとの関係は急速に冷却化する。幕府は、南蛮貿易がもたらす経済的利益よりも、キリスト教が国内の社会秩序を不安定化させるリスクの方をはるかに重く見るようになった 8 。その結果、幕府は貿易相手を、キリスト教の布教活動を伴わないオランダや中国に限定していく方針を固めていく 37 。この流れは、島原の乱を経て、寛永十六年(1639年)のポルトガル船来航禁止令をもって最終的な形となり、約200年にわたる「鎖国」体制が完成するのである 7 。
2. 「潜伏キリシタン」の誕生
公の場での信仰が不可能になった後も、全ての信徒が棄教したわけではなかった。多くの人々は、幕府の厳しい監視と弾圧の網をかいくぐり、密かに信仰を守り続けた 39 。これが「潜伏キリシタン」の時代の始まりである。
彼らは表向き仏教徒を装い、寺請制度に組み込まれながらも、宣教師不在の中で独自の信仰形態を育んでいった 40 。マリア像を観音像に見立てた「マリア観音」や、ラテン語の祈りを日本語の音に置き換えた「オラショ」などを通じて、彼らは250年以上にもわたる潜伏の時代を、世代を超えて信仰を継承しながら生き抜いた 35 。慶長十九年の弾圧は、日本のキリスト教史を、外国からの「宣教の時代」から、日本独自の「潜伏の時代」へと決定的に転換させた瞬間であった。
3. 総括:「戦国」の終焉と「江戸」の始まり
結論として、「キリシタン改易相次ぐ(1614)」は、日本の歴史における一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる鐘であった。それは、戦国時代から続いた多様な価値観や、大名個人の裁量がある程度許容された、流動的な時代の終わりを意味していた。徳川幕府が築こうとしたのは、思想的にも均質で、中央の絶対的な権威に全ての人民が服従する、静的で安定した社会であった。
この事変は、その理想的な社会を建設するための大規模な社会実験であり、体制を盤石にするための血を伴う儀式であったと言える。この激震を経て、日本は長く安定した、しかし閉ざされた「江戸」の時代へと、本格的に突入していくのである。
引用文献
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- 徳川家康の黒幕は天海僧正だけじゃなかったって本当?「金地院崇伝」とは? - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/5881
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