七尾城下復興(1594)
1594年、前田利家は能登畠山氏の旧七尾城下を、港湾都市として再編。上杉謙信による壊滅から、軍事から経済への転換を象徴する都市革命を推進し、後の金沢城下町建設の礎を築いた。
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戦国期能登における都市革命:七尾城下復興(1594年)の真相
序章:黄昏の名門と「千門万戸」の城下町
文禄三年(1594年)という年号を軸に「七尾城下復興」を理解するためには、まずその「復興」の対象となった都市が、いかに輝かしい存在であったかを知る必要がある。戦国末期、能登国(現在の石川県能登半島)に君臨した守護大名・能登畠山氏は、七尾城を拠点として約170年間にわたり能登を統治した 1 。特に七代目当主・畠山義総(はたけやま よしふさ)の治世は最盛期を迎え、その権勢と文化的成熟度は「能登畠山文化」と称される独自の華を咲かせた 2 。
この畠山氏の栄華を象徴するのが、七尾城とその城下町であった。七尾城は七つの尾根にまたがる天然の要害を利用して築かれた、日本三大山城の一つにも数えられる巨大な山城である 3 。そして、その山麓から七尾港に近い能登府中にかけて、家並みは一里(約4km)余りにもわたって連なっていたと記録されている。その繁栄ぶりは、まさに「千門万戸」と呼ぶにふさわしいものであった 4 。当時、七尾を訪れた禅僧・彭叔守仙(ほうしゅく しゅせん)は、その紀行文『独楽亭記』の中で、市場に様々な品物が溢れ、多くの人々が行き交う活気ある様子を「山市晴嵐(さんしせいらん)」と詩的に描写している 4 。
七尾の繁栄は、単なる経済的なものに留まらなかった。京都との文化的交流も盛んで、多くの公卿、歌人、連歌師、禅僧らがこの地を訪れ、高度な文化活動が展開された 1 。近年のシッケ遺跡の発掘調査では、天目茶碗や香炉といった優美な遺物が出土しており、その文化水準の高さは考古学的にも裏付けられている 1 。山麓には「大工町」や「鍛冶畑」といった地名が残り、多様な職人たちが居住する区画が形成されていたこともわかっている 7 。
しかし、この七尾の都市構造を深く分析すると、それは単一の機能を持つ都市ではなかったことが見えてくる。その基盤には、古代から能登国の国府が置かれ、国津(国の公式な港)である「香嶋津(かしまづ)」を擁する港湾都市としての歴史があった 5 。畠山氏は、この古来からの経済基盤の上に、自らの政治・軍事・文化の中心地としての城下町を重ねて建設したのである。つまり、畠山氏時代の七尾は、「港湾機能を持つ古来の経済都市」と「守護大名の政治・文化都市」という二つの顔を持つ、複合的な先進都市であった。この重層的な都市構造こそが、後の上杉氏による破壊を一層深刻なものとし、同時に、新たな支配者である前田利家が「港湾機能」という本質に着目し、全く新しい都市へと再編する構想を抱く重要な伏線となったのである。
本報告書は、この栄華を極めた都市の壊滅から、前田利家による新たな都市創造に至るプロセスを詳細に追跡し、文禄三年(1594年)という年が、その壮大な歴史の転換点としていかなる意味を持っていたのかを解明するものである。
表1:七尾城下復興に関連する時系列年表
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
典拠 |
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1550年 |
天文19年 |
畠山家中の内紛により七尾城下が焼失 |
7 |
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1576年 |
天正4年 |
上杉謙信が能登へ侵攻(第一次七尾城の戦い) |
8 |
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1577年 |
天正5年 |
七尾城落城、城下壊滅 |
8 |
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1581年 |
天正9年 |
前田利家、織田信長より能登一国を与えられ七尾城に入城 |
9 |
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1582年 |
天正10年 |
利家、小丸山城の築城と新城下町の建設を開始 |
11 |
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1583年 |
天正11年 |
利家、金沢城へ移る。兄・前田安勝が小丸山城代となる |
12 |
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1594年 |
文禄3年 |
5月、小丸山城代・前田安勝が死去。子の利好が跡を継ぐ |
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13 |
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1596年 |
文禄5年 |
4月、利家が「七尾町定書」を発布し、都市経営を直接指示 |
13 |
第一章:軍神の侵攻と七尾城下の壊滅(天正四年~五年 / 1576-1577年)
畠山氏が築き上げた「千門万戸」の繁栄は、越後の「軍神」上杉謙信の侵攻によって、脆くも崩れ去ることになる。「復興」という事業が必要となった直接的な原因、すなわち七尾城の落城と城下町の壊滅は、天正四年(1576年)から翌五年にかけて、極めて戦略的かつ無慈悲に遂行された。
侵攻の背景と畠山家の内訌
当時、天下統一を推し進める織田信長と、それに抵抗する勢力との対立は激化していた。天正四年、信長との全面対決を決意した上杉謙信にとって、北陸道の要衝である能登国の掌握は、上洛ルートを確保するための絶対的な戦略目標であった 8 。
その標的となった能登畠山家は、まさに内憂外患の極みにあった。当主・畠山春王丸は幼く、家臣団は親上杉派の筆頭である遊佐続光(ゆさ つぐみつ)らと、信長に援軍を求め徹底抗戦を主張する親織田派の重臣・長続連(ちょう つぐつら)らとの間で激しく対立していた 3 。この深刻な内部分裂が、謙信に侵攻の絶好の機会を与えることになった。
二度にわたる攻城戦と城下の破壊
天正四年、能登に侵攻した謙信は、いきなり本丸である七尾城に攻めかかる愚を犯さなかった。彼はまず、富木城、穴水城、熊木城といった奥能登に点在する畠山氏の支城群を次々と攻略し、七尾城を完全に孤立させるという巧みな戦術をとった 8 。これは、後に豊臣秀吉が小田原合戦で用いた兵糧攻めと同様の思想に基づくものであり、籠城する将兵の士気を削ぎ、心理的に追い詰める上で絶大な効果があった。しかし、日本有数の堅城である七尾城は容易に落ちず、戦況は膠着。謙信は能登で越年を余儀なくされた 8 。
翌天正五年、謙信が北条氏政の越後侵攻の報を受けて一時帰国した隙を突き、長続連ら城方は失地回復を試みるが、それも束の間であった。同年閏7月、謙信は再び大軍を率いて能登へ出陣。七尾城は再び包囲され、籠城以外の選択肢を失った 8 。
長期にわたる籠城は、城内に悲劇をもたらした。兵糧は尽き、疫病が蔓延して城兵は次々と倒れていった。この絶望的な状況を好機と見た親上杉派の遊佐続光らは、ついに謙信に内応。城内に上杉軍を引き入れ、抵抗を続けていた長続連とその一族を殺害した。これにより、難攻不落を誇った七尾城は内部から崩壊し、ついに陥落した。この一連の戦闘と混乱の中で、畠山氏の重臣であった温井家や三宅家も滅亡の途をたどった 18 。
城下町の運命もまた、悲惨なものであった。畠山氏の権威の象徴であり、能登の経済・文化の中心であったこの都市は、戦闘の過程で徹底的に破壊された。これ以前の天文十九年(1550年)にも家中の内紛によって城下が焼失した記録があるが 7 、上杉軍の侵攻による破壊はそれを遥かに凌駕する規模であったと推察される。城下町の破壊は、単なる戦闘の余波ではなかった。それは、畠山氏の統治システムそのものを根絶やしにし、能登における支配を確固たるものにするという、謙信の明確な戦略的意図の現れであった。この徹底的な破壊により、能登の政治・経済・文化の中枢機能は完全に失われた。それは一つの時代の終わりであり、後に前田利家が全く新しい都市構想をゼロから描くことを可能にする、「完全なリセット」でもあったのである。
第二章:前田利家の能登入府と新時代の構想(天正九年~十一年 / 1581-1583年)
上杉謙信の急死後、能登は織田信長の勢力下に組み込まれ、新たな時代の幕が開ける。この荒廃した土地の再建を託されたのが、信長の部将として北陸戦線で戦功を重ねていた前田利家であった。彼の能登入府は、単なる支配者の交代に留まらず、都市のあり方そのものを問い直し、中世から近世へと移行する時代の大きなパラダイムシフトを体現するものであった。
能登国主としての第一歩
柴田勝家の与力として、上杉勢や一向一揆との戦いでめざましい活躍を見せた利家は、天正九年(1581年)三月、織田軍の先鋒として能登へ進駐する 10 。そして同年八月、信長より能登一国二十三万石を与えられ、名実ともに国持ち大名となった 9 。彼は当初、能登支配の拠点として、落城した七尾城に入城した 10 。
入城した利家は、まず七尾城の防御機能の回復に着手した。山城としては異例ともいえる大規模な石垣を構築するなど、一大要塞として改修を進めたのである 2 。これは、依然として不安定な北陸情勢に対応するための、武将としての当然の判断であった。しかし、彼がこの城に留まる時間は、極めて短かった。
中世山城の限界と価値観の転換
実際に七尾城を拠点として統治を始めると、利家はその致命的な欠点に気づかされる。七尾城は、軍事拠点としては比類なき要害であったが、平時の統治と経済活動を行うには、山上に位置するため港から遠く、著しく不便であった 12 。物資の搬入・搬出、商人の往来、情報の伝達、その全てにおいて非効率的だったのである。
この「不便さ」の認識は、単なる立地の問題ではなかった。それは、利家の統治者としての価値観が、時代の変化とともに大きく転換していたことを示している。戦国乱世の初期から中期にかけては、領国を守り抜くための「軍事的価値」が城に求められる第一の要素であった。しかし、信長、そして秀吉による天下統一事業が進むにつれて、大名には領国を豊かにし、石高を増大させる「経済的価値」の創出、すなわち経営能力が強く求められるようになった。
利家は、信長の楽市楽座政策などを間近で見てきた武将であり、経済力こそが軍事力を支える基盤であることを深く理解していた。彼は、能登国の真の富の源泉が、山中の要害ではなく、日本海に開かれた天然の良港、七尾港にあることを見抜いていた。彼が描いたのは、中世的な山麓の政治都市の再建ではなく、港と直結し、広域的な交易ネットワークの拠点となりうる、全く新しい近世的な商業都市の創造であった 6 。
この構想に基づき、利家は天正十年(1582年)、七尾港にほど近い所口村の小高い丘、小丸山に新たな城を築き、能登支配の拠点を移すという画期的な決断を下す 11 。自ら改修したばかりの七尾城を放棄し、平山城である小丸山城を築くというこの行動は、彼の統治思想が「守りの軍事」から「攻めの経済」へと完全にシフトしたことの物理的な表明であった。それは、統治の中心を、政治・軍事の論理から経済・物流の論理へと意図的に移動させる、まさに都市革命の始まりだったのである。
第三章:小丸山城築城と城下町の移転(天正十年~ / 1582年~)
前田利家の新都市構想は、天正十年(1582年)の小丸山城築城開始とともに、壮大なスケールで具体化されていく。それは単に城を移すだけでなく、城郭の構造、城下町の計画的な配置、そして宗教勢力の巧みな統制という三つの側面を統合した、極めて先進的な都市計画であった。この七尾における実践は、後の加賀百万石の拠点となる金沢城下町建設の、重要な試金石となった。
新拠点・小丸山城の構造と機能
小丸山城は、標高わずか22mの小高い丘に築かれた平山城である 12 。本丸を中心に天性丸、宮丸、大念寺山といった複数の郭で構成され、周囲は深い空堀で防御されていた 25 。特筆すべきは、城の防御に自然の地形を巧みに利用した点である。城の麓を流れる御祓川を開削して外堀の一部とし、さらに七尾湾そのものを天然の防御線とする「水城」としての性格を併せ持っていた 23 。これにより、小丸山城は陸からの攻撃に備えるだけでなく、能登水軍の拠点として、海上交通を掌握する機能も担うことになったのである。
計画的都市移転とゾーニング
利家は築城と並行して、新しい城下町の建設に着手した。彼は、上杉軍の侵攻によって離散・荒廃していた旧七尾城下の町人や、畠山氏に仕えていた寺院を積極的に呼び寄せ、計画的に移転させた 13 。この新しい町は「所口町」と呼ばれ、東西・南北の街路がほぼ直交する、整然とした区画整理が行われた 26 。近年の研究では、城下を流れる御祓川を境として、東岸に大工町や作事町といった職人たちが住む「職人町」を、西岸の一本杉通り周辺に有力商人が店を構える「商人町」を配置するという、明確なゾーニング(用途地域制)が行われていた可能性が指摘されている 27 。
この都市建設において、利家は住民の生活や生業を妨げないよう細心の注意を払い、彼らの全面的な協力を得ることに成功した 13 。また、中居(なかい)の鋳物や穴水の材木など、能登各地に古くから根付いていた特産物や伝統産業に着目し、それらを新都市の建設や経済活動に集中的に活用した 13 。これは、地域の資源を最大限に活かす、効率的な領国経営の手法であった。
表2:旧七尾城下と小丸山城下の比較分析
比較項目 |
旧七尾城下(能登畠山氏) |
新七尾(小丸山)城下(前田氏) |
立地 |
山麓(標高約45m~95m) |
沿岸部の平山(標高約22m) |
都市機能の核 |
山城(政治・軍事拠点) |
港湾(経済・物流拠点) |
都市構造 |
城を中心に山麓に自然発生的に拡大 |
城と港を軸に計画的に町割り(ゾーニング) |
防御思想 |
城自体の堅固さに依存する「点」の防御 |
城、寺院群、河川、海を連携させた「面」の防御 |
経済基盤 |
守護所の権威に依存する領国経済 |
港湾を介した広域交易(日本海ネットワーク) |
時代の位置づけ |
中世的山城都市 |
近世的商業・港湾都市 |
防御と統制の思想「山の寺寺院群」
利家の都市計画の独創性を最もよく示しているのが、小丸山城の背後にあたる丘陵地帯に配置された「山の寺寺院群」である。彼は、奥能登方面からの敵の侵攻に備えるため、この地に29ヶ寺もの寺院を集め、有事の際には防御陣地として転用できるよう戦略的に配置した 19 。これは、寺院が持つ防御施設としての側面を利用した、巧みな都市防御システムであった。
さらに注目すべきは、その巧みな宗教政策である。この寺院群の配置にあたり、利家はかつて織田・前田軍を長年にわたり苦しめた一向宗(浄土真宗)の寺院を意図的に除外している 33 。一向一揆の強大な組織力と抵抗を身をもって知る利家にとって、彼らは単なる宗教勢力ではなく、自らの支配体制を根底から揺るがしかねない潜在的な反乱分子であった 36 。城の背後という最も重要な防衛ラインに彼らを置くリスクは、決して冒せなかったのである。これは、物理的な防御壁であると同時に、一向宗の影響力が城の中枢に及ぶのを防ぐ「イデオロギー的な防波堤」を築くという、極めて高度な統治技術であった。一方で、港町の漁師たちの間で深く信仰されていた浄土真宗の寺院は、城下町の別の場所に配置することで、民心の掌握を図ったと考えられている 27 。
利家が七尾で展開したこれらの都市計画は、主君である豊臣秀吉が伏見城下などで実行した、大名屋敷の計画的配置、治水と連携した港湾整備、寺町の戦略的配置といった先進的な都市計画思想と軌を一にするものである 37 。豊臣政権の中枢にあった利家は、そこで得た最新の築城・都市計画理論を、自らの領国である能登で実践した。七尾の新都市建設は、まさに北陸における豊臣流都市計画の初期の実践例だったのである。
第四章:文禄三年(1594年)-能登統治の転換点
天正十一年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの後、前田利家は豊臣秀吉から加賀の二郡を加増され、その本拠を金沢城へと移した 12 。これにより、能登の統治と進行中であった新都市・七尾の建設は、新たな局面を迎える。そして、それから約十年後の文禄三年(1594年)、この能登の統治体制を揺るがす重大な出来事が発生する。この年こそが、七尾の「復興」が新たな段階へと移行する、決定的な転換点となったのである。
兄・前田安勝による安定統治
利家が金沢へ移った後、能登の統治は彼の兄である前田安勝(まえだ やすかつ)に一任された 12 。安勝は小丸山城主および七尾城代として1万3500石を知行し、事実上の能登国最高責任者となった 42 。彼は、天正十二年(1584年)に佐々成政が能登へ侵攻した末森城の戦いにおいて、子の利好(としよし)とともに敵の拠点を攻略するなど、数々の戦功を挙げた 13 。その働きぶりは、弟・利家からの絶大な信頼を物語っている。
安勝は、利家の構想を忠実に実行する現場の責任者として、十一年間にわたり能登の安定と七尾の都市建設を支え続けた。彼の存在なくして、初期の七尾の発展はあり得なかったであろう。
【リアルタイム解説】権力の空白と統治体制の再編
この安定した統治体制は、文禄三年(1594年)五月、突如として終わりを告げる。長年にわたり能登を治めてきた前田安勝が、病により急死したのである 13 。
この出来事は、前田家の能登支配にとって深刻な事態であった。安勝の死は、単に有能な武将を一人失ったというだけではない。それは、利家との個人的な信頼関係に基づき、現地のあらゆる事柄を差配してきた最高責任者の不在を意味し、能登における統治システムに突然の、そして重大な「権力の空白」を生じさせた。
安勝の跡は、その子である前田利好が継承した 13 。しかし、長年の実績と権威を持つ安勝と、まだ若い利好とでは、その統率力や利家との関係性において大きな隔たりがあったことは想像に難くない。
当時、利家自身は豊臣政権の五大老の一人として、伏見や大坂で天下の政務に忙殺されていた。しかし、信頼する兄を失ったことで、彼は遠隔地である能登の統治、とりわけ加賀藩の経済的生命線として育成中であった新都市・七尾の経営に対して、これまで以上に直接的かつ詳細に関与する必要性を痛感したはずである。
この安勝の死という偶発的な出来事こそが、能登の統治を「現場代理人(安勝)による統治」から、「中央(利家)からの強力なトップダウンによる直接統治」へと移行させる決定的な契機となった。1594年は、七尾の都市建設が、インフラ整備を中心とした「現場主導の建設期」から、より高度な政策に基づいた「中央集権的な都市経営期」へと、そのフェーズを転換させる画期となったのである。この体制転換がなければ、その二年後に発せられることになる、利家の都市経営思想の集大成ともいえる歴史的文書「七尾町定書」が生まれることはなかったかもしれない。
第五章:「七尾町定書」に見る都市経営の神髄(文禄五年 / 1596年)
文禄三年(1594年)の前田安勝の死による統治体制の転換は、その二年後、具体的な政策として結実する。文禄五年(1596年)四月、前田利家は、七尾の現地奉行であった三輪藤兵衛吉宗と大井久兵衛直泰に対し、府中城下町(所口町、すなわち新・七尾)の経営に関する10ヶ条からなる詳細な指示書、通称「七尾町定書」を発布した 13 。この文書は、単なる地方都市の条例ではない。豊臣政権の中枢で国家経営に携わっていた当代一流の為政者が、そのマクロな視点と最新の統治技術を、自らの領国経営というミクロなレベルに適用した、極めて貴重な歴史的史料である。
条文に込められた先進的な都市経営思想
「七尾町定書」の条文を詳細に分析すると、そこには近代的な都市経営にも通じる、多角的かつ戦略的な視点が貫かれていることがわかる。
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インフラ整備と資源管理:
第一条「府中の蔵や新しく建てた門などに、屋根のふき板が必要であれば、五百でも千でも作れ」という指示は、公共建築物の維持管理の重要性を示している 13。また、第三条「七尾城山の林を伐ってはならない」という命令は、旧城山が持つ木材や水源といった戦略的資源を保全し、持続可能な都市運営を目指す明確な意志の現れである 13。 -
社会秩序と住民統制:
第二条「町に奉公人がずっと家を借りて住んではならない。但し、しばらく宿を借りるということなら良い」という規定は、都市の人口流動性を管理し、身元不明な人間の長期滞在を防ぐことで治安を維持しようとする、高度な人口管理政策である 13。 -
都市計画とインフラ維持:
第四条「道奉行は、山、道、橋、植木まで念入りに申し付けよ」と、インフラ管理の責任者を明確化し、その職務範囲を具体的に定めている 13。さらに第五条から第七条にかけては、「河原町など、都合のよいように見計らって町をたてさせよ」「藤橋村は明神野にたてさせよ」「府中のほり道町は、本かじや町にたてさせよ」と、進行中であった集落移転や区画整理といった都市計画を、中央の権威をもって強力に推進する姿勢を示している 13。 -
産業振興とロジスティクス:
この定書の真骨頂は、産業と物流に関する具体的な指示にある。第八条「串海鼠(くちこ)は、いつもの年と同じように捕っておけ」と地域の特産品生産を奨励する一方、第九条と第十条では「炭千俵と塩二百俵を、敦賀まで送れ」「塩千俵を宮越(金石)まで送れ」と、具体的な品目と数量を挙げて藩外・藩内への供給を命じている 13。特に、金沢城下への塩の安定供給を七尾に課している点は、七尾がもはや単独の都市ではなく、加賀藩全体の経済圏を支える兵站・物流ネットワークの重要拠点として明確に位置づけられていたことを示している。
豊臣政権の国家経営思想の反映
この「七尾町定書」に見られる、資源の一元的な管理、計画的な都市開発、そして生産と物流の緊密な連携という思想は、当時の豊臣秀吉が進めていた中央集権的な国家経営政策と深く共鳴している。全国的な太閤検地による生産力の把握、海賊取締令による海上交通の安全確保 43 、京枡による度量衡の統一 44 といった秀吉の政策は、日本全体を一つの経済圏として捉え、その効率的な運営を目指すものであった。
利家は、豊臣政権の中枢でこれらの政策立案と実行に深く関与していた。彼が七尾で実践したことは、まさにその国家レベルの経営手法を、自らの領国である加賀・能登に適用したものであった。彼は七尾を、単なる能登の中心都市としてではなく、加賀藩という「国家内国家」の経済を支える、代替不可能な戦略的拠点として設計していたのである。「七尾町定書」は、戦国武将・前田利家が、近世大名、そして卓越した「経営者」へと変貌を遂げたことを示す、第一級の証拠と言えるだろう。
第六章:港湾都市・七尾の完成と加賀藩体制下の発展
前田利家の壮大な構想と、それを具現化した「七尾町定書」に代表される数々の政策によって、かつて灰燼に帰した七尾は、全く新しい港湾都市として生まれ変わった。その後の七尾の発展は、利家の計画がいかに的確で、時代の潮流を捉えたものであったかを雄弁に物語っている。
近世港湾都市としての繁栄
利家の計画は成功裏に実を結んだ。小丸山城下は、城という政治・軍事の中心を失った後も(小丸山城は後の一国一城令により廃城となる 23 )、港町として独自の発展を遂げていく。城下町の中心を流れる御祓川の河岸には、廻船問屋の巨大な倉庫が立ち並び、各地から物資を積んだ船が出入りした 6 。特に「越中屋」などの豪商は、その財力で町の経済を牽引した 6 。商人町として整備された一本杉通りは、和ろうそく屋や醤油屋などが軒を連ねる活気ある商業の中心地となった 45 。
七尾港は、能登半島で産出される豊富な海産物(鰤や鱈、海鼠など)、塩、木材といった物資の集積地となり、それらを藩内外へ供給することで、加賀藩全体の財政を支える重要な経済拠点としての役割を果たした 6 。
北前船交易の拠点へ
江戸時代中期以降、日本海海運が「北前船」の時代を迎えると、七尾の経済的重要性はさらに高まる。北前船は、大坂や瀬戸内の商品を北国へ、北海道の海産物(昆布や鰊粕など)を上方へと運び、莫大な利益を生み出す「動く総合商社」であった 47 。天然の良港である七尾港は、この北前船の重要な寄港地、そして船主たちの本拠地となった。北海道の江差に残る記録には、「鹿波屋」「津向屋」「越中屋」といった多くの七尾商人の名が記されており、彼らが日本海を舞台に雄大な交易活動を繰り広げていたことがわかる 6 。彼らがもたらした富は、七尾の町を潤し、遠隔地の文化を伝える役割も果たした。
文化の復興と継承
経済的な復興は、地域の文化を再び花開かせる土壌となった。その象徴が、七尾の総鎮守である大地主神社(山王神社)の春季祭礼「青柏祭(せいはくさい)」である。1000年以上の歴史を持つともいわれるこの祭りは 49 、前田家の統治下でも手厚く保護され、発展を続けた。特に、高さ12m、重さ20トンにも及ぶ日本一巨大な曳山「でか山」が町中を巡行する勇壮な姿は、復興を遂げた七尾の町人たちのエネルギーと誇りの現れであった。現在でも、この祭りの山車には、前田利家やその妻・お松の方を模した人形が飾られることがあり、市民が利家による復興の偉業を記憶し、感謝していることを示している 50 。
前田利家による「七尾城下復興」の最大の成果は、単に町を物理的に再建したことではない。その本質は、七尾を、城という特定の権力者に依存する閉じたシステムから、港を介して日本海交易ネットワークという、より広大で開かれた経済システムに接続可能な「プラットフォーム」として設計し直したことにある。小丸山城は歴史の中に消えたが、彼が築いた港と町は、時代の変化に対応しながら発展を続け、後の北前船の隆盛という新たな経済活動の受け皿となった。利家の構想は、自身の時代を遥かに超え、江戸から明治に至るまでの七尾の経済的繁栄の礎を築いたのである。
結論:山城から港町へ-近世都市への脱皮が意味するもの
本報告書で詳述してきた「七尾城下復興」は、その言葉が持つ一般的な「元に戻す」という意味合いを遥かに超える、日本の都市史における画期的な事象であった。その歴史的意義は、以下の四点に集約される。
第一に、 本事象の本質が、旧状回復を意味する「復興」ではなく、中世的山城都市を戦略的に放棄し、港湾と結びついた近世商業都市をゼロから「創造」する、都市機能のパラダイムシフトであった 点である。前田利家は、畠山氏が築いた山麓の政治・文化都市の再建を目指さなかった。彼は、上杉謙信の侵攻によってもたらされた「完全なリセット」状態を逆手に取り、能登の経済的価値の源泉である港湾機能を核とした、全く新しい都市を構想し、実行した。これは、統治の基盤を軍事力から経済力へと転換させていく、戦国末期の時代の要請を見事に体現した決断であった。
第二に、 文禄三年(1594年)という年が、この都市創造プロセスにおける決定的な転換点であった ことである。この年の能登統治の責任者であった前田安勝の死は、単なる人事上の出来事ではなかった。それは、現場主導で進められていたインフラ整備の段階から、豊臣政権の中枢にいる利家自身の強力なリーダーシップによる、より高度で計画的な「都市経営」の段階へと移行する契機となった。二年後の「七尾町定書」の発布は、この転換を象徴するものであり、1594年はその直接的な前史として極めて重要な意味を持つ。
第三に、 都市史における意義として、七尾の新都市建設が、後の壮大な金沢城下町の都市計画の「試作(プロトタイプ)」となった 点である。計画的なゾーニング、防御思想を組み込んだ寺院群の配置、そして経済活動を最優先する都市構造といった、七尾で試みられた先進的な手法は、利家がその後、加賀百万石の本拠地として本格的に整備する金沢の都市計画へと昇華されていった。七尾は、近世城下町の完成形の一つである金沢誕生のための、重要な実験場だったのである。
第四に、 この事業が、後の加賀百万石の盤石な財政基盤を築く上で、不可欠な一歩であった ことである。利家が七尾で示した、港湾経済を掌握し、それを藩全体の物流・経済システムに組み込むというビジョンは、加賀藩の富の源泉を米だけに依存しない、多角的なものにした。七尾港を通じて日本海交易ネットワークに接続したことは、加賀藩に莫大な富をもたらし、その経済力が、江戸時代を通じて徳川御三家に準じるほどの高い政治的地位を維持する強力な基盤となった。
結論として、「七尾城下復興(1594)」は、一地方都市の再建物語に留まらない。それは、戦国という旧時代と決別し、近世という新時代にふさわしい都市のあり方を提示した、前田利家という卓越した経営者による都市革命であった。その遺産は、石垣や城郭ではなく、今なお活気ある港町・七尾の町並みと、そこに息づく人々の営みの中に、確かに受け継がれている。
引用文献
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