最終更新日 2025-09-27

七尾港整備(1590)

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天正十八年(1590)「七尾港整備」の総合的考察:戦国末期における港湾都市の再編と前田利家の能登経営

序章:問いの再設定―「七尾港整備(1590)」とは何か

利用者より提示された「七尾港整備(1590):能登国:七尾:港湾整備で北前交易の基盤を確立」という歴史事象は、一見すると特定の年に行われた単一の土木事業を指し示すように見える。しかし、戦国時代から近世へと移行する激動の時代背景の中にこの事象を位置づけるとき、その意味はより深く、複合的なものとして立ち現れる。本報告書は、この「七尾港整備(1590)」を、単なる港湾インフラの建設という側面からのみならず、戦国末期の都市政策、経済思想、そして統治理念の根本的な変革を映し出す歴史的画期として総合的に解明することを目的とする。

まず、「1590年」という年紀そのものを再定義する必要がある。天正十八年(1590)に七尾港で特定の工事が着工、あるいは竣工したことを直接的に示す詳細な一次史料は、現在のところ限定的である。むしろ、この港湾整備と不可分一体の事業であった前田利家による小丸山城の築城は、天正十年(1582)頃に始まり、天正十七年(1589)頃まで続いた長期的なプロジェクトであった可能性が複数の資料から示唆されている 1

では、なぜ1590年が象徴的な意味を持つのか。それは、この年が豊臣秀吉による小田原征伐の完了をもって、実質的な天下統一が達成された画期的な年であるからに他ならない 4 。この歴史的転換により、全国の大名は絶え間ない軍事動員と領土拡張の競争から解放され、その政策の重心を領国の内政充実と経済基盤の強化へと大きくシフトさせることが可能となった。

したがって、本報告書が論じる「七尾港整備(1590)」とは、特定の単年に行われた工事を指す固有名詞としてではなく、前田利家の能登入部(1581年)以来、段階的に進められてきた一連の港湾都市再編事業が、天下統一という新たな政治情勢の下でそのグランドデザインを確定し、本格的な軌道に乗った**「象徴的な時点」**として捉えるべきものである。

この視座に立つとき、本報告書の核心的論点が見えてくる。すなわち、「七尾港整備」の本質とは、中世的な防衛思想に基づく山城(七尾城)と、その麓に広がる港津(府中・所口湊)という、政治と経済が物理的に分離した都市構造を抜本的に解体し、港湾と統治拠点を一体化した近世的な平山城(小丸山城)と城下町へと再編する壮大な都市計画であった、という点である。これは単なる都市の移転ではない。統治者が領国の経済と物流の動脈を直接掌握し、富の源泉を管理下に置こうとする、近世的領国経営思想へのパラダイムシフトを体現するものであった。さらに、この事業は来るべき豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を見据えた、日本海側の兵站拠点整備という軍事戦略的側面を内包していた可能性も視野に入れ、豊臣政権下で全国的に展開された都市再編政策の一環として位置づけることで、その歴史的意義を多層的に解き明かしていく。

第一章:前史―能登畠山氏時代における七尾の都市構造と港の役割

前田利家による都市再編を理解するためには、まずその前段階、すなわち能登畠山氏の治世下における七尾の姿を把握する必要がある。畠山氏時代の七尾は、日本海側有数の繁栄を誇る都市であったが、その構造は中世的な特徴を色濃く残すものであった。

巨大山城・七尾城と「千門万戸」の城下町

戦国期の能登支配の拠点であった七尾城は、標高約300メートルの山上に築かれ、春日山城(新潟県)、月山富田城(島根県)と並び日本三大山城の一つに数えられるほどの規模と堅固さを誇った 5 。その縄張りは七つの尾根筋に沿って広がり、山全体が一個の巨大な要塞都市を形成していた 7

その山麓には「千門万戸」と称えられる広大な城下町が展開していた 6 。応仁・文明の乱以降、戦乱を逃れた多くの公家や文化人が七尾を訪れたため、町は京風文化が花開く洗練された空間となり、経済的にも大いに繁栄した。国宝『松林図屏風』の作者として知られる絵師・長谷川等伯がこの地で生まれ育ったことは、当時の七尾が持っていた文化的水準の高さを物語っている 6

分離しつつも連携する三つの都市機能

畠山氏時代の七尾の都市圏は、単一の城下町ではなく、それぞれ異なる機能を持つ三つの町が相互に連携することで成立していた複合都市であった 10

  1. 七尾城下町 : 七尾城の麓に形成された、守護畠山氏の居館や家臣団の屋敷が集中する政治・軍事・文化の中心地。
  2. 能登府中 : 古代以来の能登国府が置かれた場所であり、伝統的な商業・経済活動が営まれてきた経済都市。
  3. 所口湊町 : 七尾湾に面した港湾都市であり、物資の集散と海上交通の拠点。

これら三つの町は、それぞれが独自の発展を遂げながらも、一体として能登の政治経済を支えていた。しかし、この構造は統治の拠点である城が山上にあり、経済活動の中心である府中や港とは物理的に距離があるという、中世都市に典型的な「分離構造」を有していた。平時においては機能的であったこの構造は、しかし、有事の際には脆弱性を露呈することになる。

天然の良港・七尾港の経済的重要性

七尾の繁栄を支えた最大の要因は、その優れた港にあった。七尾港は古くは「香島津(かしまづ)」と称され、沖に浮かぶ能登島が天然の防波堤となる、波静かな天然の良港であった 10 。その地理的優位性から、室町時代にはすでに越後、佐渡、奥州といった日本海沿岸各地はもちろん、遠くは中国大陸との通商も行われていた記録が残る、国際的な交易拠点であった 11

港には、能登の特産品である珠洲焼や中居の鋳物製品、塩鯖、そして珍味として知られる海鼠腸(このわた)などが集積され、活発な取引が行われていた 13 。当時の七尾を訪れた京の禅僧、彭叔守仙(ほうしゅくしゅせん)が記した『独楽亭記』には、「呉の綾・蜀の錦」といった大陸からの輸入品や、米、塩、鉄などが盛んに商われる様子が活写されており、七尾港が多種多様な物資の集散地であったことがわかる 10

畠山氏の統治は、この港がもたらす経済的利益に大きく依存していた。しかし、その統治の根幹である七尾城と、富の源泉である七尾港が物理的に離れているという都市構造は、畠山氏の治世末期に顕在化する政治的混乱の中で、致命的な弱点となる。後継者問題を巡る内紛と、それに乗じた上杉謙信の侵攻により、山上の政治中枢と麓の経済拠点の連携は断たれ、難攻不落を誇った七尾城も内応によって落城の憂き目を見る 5 。この歴史的教訓は、後に能登の新たな支配者となる前田利家の都市計画に、決定的な影響を与えることになるのである。

第二章:転換点―前田利家の能登入部と統治理念の変革

天正五年(1577)の上杉謙信による七尾城陥落後、能登は目まぐるしく支配者が変わる不安定な時期を経て、やがて織田信長の勢力圏に組み込まれていく。そして、この地に新たな統治者として送り込まれたのが、前田利家であった。彼の能登入部は、七尾の都市構造、ひいては能登全体の統治理念を根本から覆す、まさに歴史的な転換点となった。

天正九年(1581年)前田利家の能登拝領

天正九年(1581)、織田信長の命により、前田利家は能登一国を知行として与えられ、七尾城に入城した 6 。これにより、能登は織田政権の統治下に置かれ、利家による新たな領国経営が開始される。信長の親衛隊ともいえる赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭として、常に信長の側近くに仕えてきた利家は 4 、その先進的な統治手法を間近で学び、吸収していた。

統治理念の転換:山城から平山城へ

七尾城に入った利家は、早々にこの城が持つ根本的な問題点を見抜く。七尾城は確かに軍事的には優れた要塞であるが、山上に位置するため日常生活や物資の輸送に多大な労力を要し、領国全体を効率的に統治・運営する政庁としては極めて不便であった 1 。戦乱が常態であった時代ならば防衛機能が最優先されたであろうが、天下統一が目前に迫り、これからは経済力こそが領国経営の基盤となると見抜いていた利家にとって、経済活動の中心である港から離れた山城は、もはや時代遅れの遺物であった。

この判断は、単なる利便性の追求に留まらない。それは、統治の中心概念が「防衛」から「経済と行政」へと移行したことを示す、統治理念そのものの転換であった。利家は、畠山氏が陥った政治と経済の分離という轍を踏むことを避け、統治と経済の拠点を一体化させることを決断する。その具体策こそが、港に近い所口村の小丸山(こまるやま)の地に新たな城を築き、能登支配の本拠地を移転させるという壮大な計画であった 3

リアルタイム解説(1582年~1589年):小丸山城の築城と城下町の形成

利家の決断は迅速に実行に移された。小丸山城の築城とそれに伴う都市開発は、天下の情勢が目まぐるしく動く中で、着実に進められていく。

  • 築城開始(1582年頃) : 本能寺の変が起こる天正十年(1582)頃、小丸山城の普請が開始された 3 。この地は、桜川と御祓川(みそぎがわ)が七尾南湾に注ぐ合流点に位置する小高い丘であり、河川と海を天然の堀として利用できる戦略的な要地であった 19 。城は港を直接見下ろす位置にあり、有事の際には能登水軍の司令部としても機能する「水城」としての性格も備えていた 17
  • 城下町の計画的移転 : 築城と並行して、七尾城の麓にあった城下町も計画的に小丸山の周辺へと移転させられた。単に住民を移動させるだけでなく、商人、運送業者、造船業者、さらには檜物師(ひものし)や塗師(ぬし)といった職人たちも集められ、新たな城下町が形成された 14 。これは、都市の経済を支える人的資源を、新たな統治拠点に集約しようとする明確な意図の表れであった。
  • 利家の金沢移転と城代の配置(1583年) : 築城開始の翌年、天正十一年(1583)に賤ヶ岳の戦いが勃発する。この戦功により、利家は秀吉から加賀国の石川・河北二郡を加増され、その本拠を金沢城へと移すことになった 3 。しかし、これにより七尾の都市開発が頓挫することはなかった。能登は依然として前田領国の重要な一部であり、小丸山城には利家の兄である前田安勝が城代として置かれ、能登統治と城の普請は継続された 3
  • 築城の継続と完成(~1589年頃) : 利家本体は金沢に移ったものの、小丸山城の工事はその後も続けられ、天下統一が目前に迫った天正十七年(1589)頃に一応の完成を見たとする説が有力である 1 。この約七年間にわたる長期の工事期間は、城郭本体だけでなく、城下町の区画整理や港湾施設の整備などが、段階的かつ計画的に進められたことを物語っている。

この一連の動きは、利家が師である織田信長の統治哲学を忠実に継承し、自身の領国で実践したことを示している。信長が琵琶湖畔に安土城を築き、水運という経済の動脈を掌握したように 21 、利家は七尾湾という日本海交通の要衝に小丸山城を築くことで、能登の富をその手中に収めようとしたのである。港湾を直接支配下に置くことは、交易から上がる利益を確実に収取するだけでなく、家臣団を城下町に集住させ、知行地からの直接収入ではなく俸禄によって統制するという、近世大名の支配システムを構築するための不可欠な布石であった。

第三章:天正十八年(1590)―天下統一と七尾のグランドデザイン

天正十八年(1590)は、日本の歴史における大きな分水嶺であった。この年を境に、戦国の乱世は終わりを告げ、新たな秩序の下での国づくりが本格化する。前田利家が進めてきた七尾の都市再編もまた、この歴史的転換点において、その真価を発揮し、最終的なグランドデザインが固まることとなった。本章では、1590年前後の国内外の情勢と利家の動向を概観しつつ、七尾で具体的に行われたであろう「整備」の実態を、都市計画、港湾機能、制度という三つの側面から時系列的に解き明かす。


表1:七尾港整備関連年表(1577年~1616年)

西暦/和暦

国内外の主要動向

前田利家・前田家の動向

七尾における動向

1577/天正5

上杉謙信、七尾城を攻略。

織田信長配下として北陸戦線に従事。

上杉氏の支配下に入る。

1581/天正9

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織田信長より能登一国を拝領。

前田利家、七尾城に入城。

1582/天正10

**本能寺の変。**山崎の戦い。

柴田勝家と豊臣秀吉の対立が深刻化。

**小丸山城の築城を開始。**城下町の移転に着手。

1583/天正11

賤ヶ岳の戦い。

秀吉方として戦功。加賀二郡を加増される。

**本拠を金沢城へ移す。**兄・前田安勝を小丸山城代に置く。

1585/天正13

秀吉、関白に就任。富山の役(佐々成政征伐)。

秀吉軍として佐々成政を攻め、越中を平定。

小丸山城の普請と城下町・港の整備が継続される。

1587/天正15

秀吉、九州を平定。バテレン追放令。

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1589/天正17

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-

小丸山城が概ね完成したと推定される。

1590/天正18

小田原征伐、天下統一が完成。

豊臣軍の主力として小田原城を包囲。

天下統一を受け、港湾都市としての本格的な整備が加速。

1592/文禄元

文禄の役(朝鮮出兵)開始。

秀吉の命で肥前名護屋城に在陣。

日本海側の兵站拠点として機能。

1597/慶長2

慶長の役開始。

秀吉より嫡子・秀頼の傅役を任される。

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1598/慶長3

秀吉死去。

五大老筆頭として政務を執る。

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1599/慶長4

-

**利家死去。**家督を長男・利長が継ぐ。

-

1600/慶長5

関ヶ原の戦い。

利長、東軍に与する。

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1615/元和元

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。 一国一城令発布。

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一国一城令により小丸山城は廃城となる。

1616/元和2

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-

廃城後、城跡に七尾町奉行所が置かれ、能登支配の拠点となる。


国内情勢(1590年前後)―「惣無事」の到来

天正十八年(1590)七月、北条氏の小田原城が開城し、豊臣秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た。これにより、約一世紀半にわたって続いた戦国の動乱は終焉し、「惣無事(そうぶじ)」、すなわち天下の平和が実現された。秀吉政権は、この新たな秩序を盤石なものとするため、全国で太閤検地や刀狩を強力に推し進めると同時に、蔵入地(くらいりち)と呼ばれる直轄領の経営 22 や、佐渡金山、生野銀山といった重要鉱山の直轄化 24 を通じて、中央集権的な統治体制と強大な経済基盤の確立を急いだ。全国の大名たちもまた、この新しい時代の幕開けに対応し、軍事力による領土拡大から、領国内の安定統治と経済振興へと、その政策の舵を大きく切ることを余儀なくされたのである。

「整備」の実態①:都市計画(町割り)とインフラ整備

天下統一という安定期を迎えたことで、利家は能登経営に一層注力することが可能となり、七尾の都市整備は最終段階へと移行した。その具体的な内容は、利家が発したとされる『七尾町定書』から垣間見ることができる 14 。この定書は、利家が単なる城の建設者ではなく、都市全体の機能と秩序を構想する「都市経営者」であったことを如実に示している。

  • 計画的な都市インフラの構築 : 定書には、「府中の蔵や新しく建てた門などに、屋根のふき板が必要であれば、五百でも千でも作れ」とあり、奉行の監督下で公共施設の建設が計画的に進められていたことがわかる。さらに、「道奉行は、山、道、橋、植木まで念入りに申し付けよ」との条文は、道路や橋梁といった交通インフラの整備はもちろんのこと、植栽による景観管理にまで配慮が及んでいたことを示唆している 14
  • 町割りの実施 : 定書の中の「河原町など、都合のよいように見計らって町をたてさせよ」や、「藤橋村は明神野にたてさせよ」といった記述は、既存の村落を移転させたり、新たな区画に町を造成したりする、計画的な「町割り」が行われていた証左である 14 。小丸山城下には、大工町や作事町といった職人町 19 、あるいは鉄砲足軽の居住区である鉄砲町 26 などが、それぞれの職能や役割に応じて戦略的に配置された。このような機能別の町人地配置は、後の壮大な金沢城下町の都市計画の雛形となった。

「整備」の実態②:港湾機能の強化と土木技術

小丸山城下町の整備と一体で進められたのが、七尾港そのものの機能強化である。1590年時点の具体的な工事記録は乏しいものの、当時の土木技術の水準から、以下のような整備が行われたと推定される。

  • 港湾施設の建設 : 船が安全に停泊し、効率的に荷役を行うためには、港湾施設の建設が不可欠であった。石垣を用いた 波止(はと、防波堤)や護岸 が築かれ、港内の静穏を保ったと考えられる。戦国末期には、織田信長の安土城築城などを通じて、近江の穴太衆(あのうしゅう)に代表される石工集団による高度な石垣技術が確立されていた 27 。これらの技術が城郭だけでなく、港湾の築堤にも応用された可能性は高い。能登近隣の小松などには良質な石材を産出する石切り場も存在しており、資材調達の面でも条件は整っていた 30 。また、潮の干満差が大きい日本海側の港では、石造りの階段状の船着き場である**雁木(がんぎ)**も重要な施設であった 32
  • 航路の確保 : 大型船の入港を可能にするため、港内の海底に堆積した土砂を取り除く**浚渫(しゅんせつ)**工事が行われた可能性も考えられる 33 。これらの大規模な土木事業は、『七尾町定書』にも見られるように、奉行の指揮の下、領内の人的・物的資源を動員する公共事業として遂行された。

「整備」の実態③:制度的整備と経済の活性化

物理的なインフラ整備(ハード)と並行して、港の経済活動を円滑化するための制度的整備(ソフト)も進められた。利家は、後の加賀藩の政策にも通じるが、船の積載量に応じて課される船役(ふなやく)といった税制を整備、あるいは減免することで、海運業者の活動を奨励し、七尾港への船舶の寄港を促したと考えられる 13 。さらに、築城と同時に進められた商工業者の城下町への集住策 14 は、七尾の商業資本と技術力を高め、港を核とした経済循環を活性化させることを目的としていた。

このように、「七尾港整備」は、物理的な建設工事と、都市計画や制度改革が両輪となって進められた総合的なプロジェクトであった。1590年の天下統一は、この壮大な事業を加速させ、完成へと導く決定的な契機となったのである。それは、戦乱の時代の終わりを告げるとともに、近世という新たな時代における港湾都市・七尾の繁栄の礎を築く、壮大なグランドデザインの確定を意味していた。

第四章:近世港湾都市の設計思想―比較史的視点からの分析

前田利家による七尾の都市再編は、単独の事象としてではなく、彼自身の後の都市計画や、同時代に豊臣政権下で進められた他の都市政策との比較を通じて、その設計思想の先進性と時代的特徴をより鮮明に浮かび上がらせることができる。それは、戦国末期における都市計画が、単なる区画整理に留まらず、「権力の可視化」と「経済の掌握」という二大目的を達成するための高度な政治的行為であったことを示している。

前田家の都市計画思想の源流として

七尾における小丸山城と港湾の一体的整備は、後に前田家が百二十万石の領地を統治する拠点として築き上げた、壮大な金沢城下町の都市計画のいわばプロトタイプ(原型)となった。

  • 連続性 : 七尾で試みられた設計思想、すなわち城と城下町の一体的整備、用水の活用、そして職能ごとの計画的な町割りといった要素は、後の金沢において、より大規模かつ洗練された形で実現されている 34 。七尾での経験が、前田家の都市計画思想の礎を築いたことは間違いない。
  • 相違点 : 一方で、両者には明確な相違点も存在する。七尾の都市計画が港湾との直結、すなわち「経済性」を最優先したのに対し、金沢は内陸の台地に位置し、城の周囲を二重の惣構(そうがまえ)で囲み、防衛拠点として寺社群を戦略的に配置するなど、「防衛機能」がより強く意識されている 34 。この違いは、能登一国という領地から、加賀・能登・越中の三国を領する大大名へと前田家が成長する中で、その統治の規模と地政学的な条件が変化したことを反映している。

利家が山上の七尾城を放棄し、港を見下ろす小丸山に新たな城と町を築いた行為は、能登の民衆に対し、新しい支配者が経済と物流を完全に掌握する時代の到来を、視覚的に、そして象徴的に宣言するものであった。

豊臣政権下の都市政策との比較

利家による七尾の整備は、豊臣政権が全国で展開した都市政策の潮流と軌を一にするものであった。特に、博多と堺の事例との比較は、その時代的文脈を理解する上で極めて有益である。

  • 博多(太閤町割り) : 秀吉は、島津氏との戦乱で荒廃した国際貿易港・博多を復興させるにあたり、黒田官兵衛や石田三成といった腹心の部下を奉行として派遣した。彼らは豪商の神屋宗湛(かみやそうたん)らの協力を得て、碁盤の目状の整然とした商人町を計画的に造成した。これは「太閤町割り」として知られ、中央権力が商業都市を直接管理・再編し、貿易から生まれる莫大な利益を国家の財源として掌握しようとする明確な意図の表れであった 37
  • : 中世において、周囲を環濠で囲んだ自治都市として独自の繁栄を誇った堺も、織田信長、そして豊臣秀吉の時代にはその絶対的な支配下に組み込まれた。国際貿易港としての経済機能は維持されたものの、その自治権は失われ、天下人の厳格な統制を受けることとなった 40

七尾の都市再編は、博多のように中央から奉行が直接派遣されたわけではないが、その根底に流れる設計思想、すなわち「領主権力が経済拠点を直接管理し、計画的な都市開発を通じて領国経済を活性化させる」という点において、豊臣政権の都市政策と完全に共通している。これは、秀吉の先進的な政策が、直轄地である蔵入地だけでなく、前田家のような有力大名の領国経営にも強い影響を与え、一種のスタンダードとして普及していったことを示す好例と言える。この時代の港湾都市整備は、国内物流網の強化に留まらず、秀吉が視野に入れていた大陸との交易、そしてその先にある軍事行動の拠点としての価値も期待されていた。七尾港の整備もまた、この壮大な構想の一翼を担うものとして位置づけられていたのである。

第五章:日本海交易の結節点として―七尾港の機能と役割

前田利家によって再設計された七尾港は、単に新しい城下町の玄関口というだけではなかった。それは、日本海全体の物流ネットワークにおける戦略的結節点として、また、天下統一後の新たな国家プロジェクトを支える兵站拠点として、二つの重要な役割を担う運命にあった。

16世紀末の日本海海運と交易品

天正年間末期、日本海ではすでに活発な海運が行われていた。後の時代に「北前船(きたまえぶね)」として定型化されるような、大阪と蝦夷地(北海道)を結ぶ大規模な定期航路はまだ確立されていなかったものの、敦賀や若狭といった港を拠点として、日本海沿岸各地を結ぶ海上交通路は存在していた 43 。その交易形態は、船主が各地の港に立ち寄りながら産物を仕入れ、別の港で売却して利ざやを稼ぐ「買い積み」方式の原型が見られ、寄港地の経済を大いに潤していた 43

このような状況下で整備された七尾港は、能登半島の中心という絶好の位置を活かし、多様な物資の中継地として機能したと考えられる。

  • 移出品(能登から) : 能登の伝統的な産物である塩、塩鯖や海鼠腸(このわた)などの海産加工品、そして珠洲焼や中居の鋳物といった工芸品が、七尾港から各地へ向けて積み出された 13 。近世に入ると、加賀藩の重要な財源である年貢米も、ここから大坂の米市場へと海上輸送されることになる。
  • 輸入品(能登へ) : 上方(関西地方)からは、衣料品となる木綿や古着、茶、そして様々な生活雑貨がもたらされた。一方、北国からは、昆布や鰊(にしん)といった海産物が運ばれてきたと推定される 43 。実際に、七尾城下町の遺跡からは、中国産の青磁や白磁、染付といった輸入陶磁器や、国内の主要な窯業地である瀬戸・美濃で生産された陶器が多数出土しており、七尾が多様な物資の集散地であったことを考古学的にも裏付けている 46

軍事兵站拠点としての側面

七尾港整備のもう一つの重要な側面は、その軍事的な役割にあった。1590年の天下統一は国内に平和をもたらしたが、豊臣秀吉の目はすでに海外、特に大陸へと向けられていた。

  • 文禄・慶長の役(1592年~)との関連 : 七尾港の整備が本格化した1590年からわずか2年後、秀吉は朝鮮への大規模な出兵(文禄の役)を開始する。この未曾有の軍事行動を支えるためには、膨大な兵員と兵糧、武具を前線基地である九州の肥前名護屋城へと輸送する、巨大な兵站(ロジスティクス)網の構築が不可欠であった。
  • 日本海航路の重要性 : 兵站輸送は、瀬戸内海航路が主軸であったが、日本海側からの輸送ルートもまた、北陸・東北地方の大名が動員する兵員や物資を運ぶ上で極めて重要な役割を果たした 48 。前田家もこの出兵に際して一万を超える兵力を動員しており、その集結地および補給物資の集積・中継拠点として、整備されたばかりの七尾港が機能したことは想像に難くない 13
  • 利家の戦略的意図 : 利家自身、この出兵に際しては名護屋城に在陣し、兵站の重要性を誰よりも痛感していたはずである。彼にとって七尾港の整備は、平時における領国の経済振興という目的と同時に、豊臣政権が遂行する国家的な軍事プロジェクトへ貢献するという、大名としての責務を果たすための現実的な軍事投資でもあった。それは、秀吉への忠誠を示すとともに、有事の際に自身の軍団の生命線となる兵站線を確保するという、極めて戦略的な判断であった。

このように、七尾港の再編は、「平時の経済合理性」と「戦時の軍事合理性」という二つの要請が交差する点に位置づけられる。1590年という年は、国内の「戦国」は終わったが、対外的には新たな「戦国」が始まろうとしていた転換点であった。この内外の情勢の変化の中で、七尾港は経済と軍事の両面でその戦略的価値を最大化するように再設計されたのである。

第六章:未来への遺産―近世加賀藩の繁栄と北前船への道

前田利家が主導した「七尾港整備」は、戦国末期の政治的・軍事的要請から生まれたものであったが、その影響は時代を超え、江戸時代を通じての七尾の繁栄、ひいては現代に至る都市の骨格を決定づける、永続的な遺産となった。

利家の整備がもたらした長期的効果

  • 都市の持続性 : 慶長二十年(元和元年、1615年)、徳川幕府によって発布された一国一城令により、小丸山城は加賀藩の支城としての役目を終え、廃城となった 3 。しかし、城が失われた後も、その麓に形成された城下町と港は活気を失うことはなかった。それどころか、能登半島における商業と漁業の中心地として、自律的な発展を続けたのである 19 。これは、利家の都市計画が、単に城に依存する軍事都市ではなく、港という経済基盤を核とする持続可能な構造を持っていたことの何よりの証明であった。
  • 加賀藩の能登支配の拠点 : 廃城後、小丸山城の跡地には七尾町奉行所(後に所口町奉行と改称)が設置され、加賀藩による能登一円の行政と経済を管轄する地方拠点としての役割を担い続けた 14 。港は、藩の財政を支える蔵米を大坂の市場へ輸送するための重要な積出港となり、その経済的重要性は揺らぐことがなかった 14

「北前船寄港地」としての繁栄の礎

利家が築いた礎は、江戸時代中期以降、日本海海運の主役として登場する「北前船」の時代に、その真価を最大限に発揮することになる。北前船とは、大阪を起点に瀬戸内海、日本海を北上し、蝦夷地(北海道)との間で商品を売買しながら往復した商船群であり、「動く総合商社」とも形容されるほどの巨大な富を生み出した 49

七尾がこの北前船の重要な寄港地として、空前の繁栄を謳歌できた背景には、戦国末期に行われた整備事業があった。

  1. 物理的基盤(インフラ) : 利家が整備した安全な停泊地、荷揚げ施設、そして倉庫群は、数百石積みの大型船である北前船が寄港するための必須条件であった。
  2. 人的・経済的基盤 : 城下町に集住させられた商人や職人たちは、時代を経て資本と商業技術を蓄積し、北前船交易の担い手となる廻船問屋や船主を輩出していった。
  3. 制度的基盤 : 加賀藩による安定した統治と商業を重視する政策は、商人たちが安心して経済活動に専念できる環境を提供した。

現在も七尾市中心部に残る一本杉通りの歴史的な街並みや、その周辺で育まれた豊かな文化は、すべて北前船がもたらした繁栄の証である 52 。そしてその繁栄は、遡ること百数十年、前田利家が描いた港湾都市のグランドデザインの上に築かれたものであった。北前船が運んだのは、昆布や鰊といった商品だけではない。上方や北国の文化も運び、七尾独自の和ろうそく作りや食文化の発展にも寄与した 51 。戦国末期の軍事的・政治的決断が、数世代後の平和な時代における経済的・文化的繁栄の直接的な土台となったのである。この歴史の連続性を理解することこそ、「七尾港整備」という事象の最も深い意義を捉える鍵となる。

結論:戦国から近世への扉を開いた港湾都市

本報告書を通じて多角的に検証してきた「七尾港整備(1590)」は、単一の土木工事を指す言葉ではなく、戦国時代の終焉と新たな時代の到来という歴史の大きな転換点を的確に捉えた、前田利家による先見的な領国経営戦略の総体であったと結論づけられる。その本質は、統治の拠点を防衛機能に特化した山城から、経済活動と直結する港へと移し、政治・軍事・経済の諸機能を一体化させるという、統治パラダイムそのものの転換にあった。

この七尾における都市再編は、織田・豊臣政権下で全国的に進展した、より大きな社会変革の潮流を体現する象徴的な事例である。すなわち、領主権力による経済基盤の直接掌握、合理的な思考に基づく計画的な都市開発、そして中央集権的な領国経営体制への移行という、日本が戦国から近世へと移行していく過程で生じた社会システム全体の変革を、七尾という一つの都市空間が見事に映し出している。

利家が築いた物理的・制度的基盤は、政治情勢の変化によって小丸山城が廃城となった後も、都市の生命力として生き続けた。そして、江戸時代を通じて七尾を日本海有数の港町へと押し上げ、後の北前船交易の繁栄を準備する強固な礎となった。天正十八年(1590)という時点においてそのグランドデザインが固まった七尾の都市計画は、まさに中世以来の戦国の論理に終止符を打ち、経済が社会を牽引する近世という新たな時代の扉を開いた、画期的な事業として歴史的に再評価されるべきである。

引用文献

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