最終更新日 2025-09-23

三原城築城(1567)

永禄10年、小早川隆景は毛利氏の瀬戸内海覇権確立のため三原城を築城。水軍運用効率を高める海城として、隆景の戦略思想と最先端技術が結集。後に「浮城」と称された。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

永禄十年 浮城創出—智将小早川隆景による三原城築城の戦略的軌跡

序章:永禄十年、天下の潮目

永禄十年(1567年)、備後国三原の地に、後の世に「浮城」と謳われる壮麗な海城の礎が置かれた。この三原城築城という一大事業は、単なる一城郭の建設に留まらず、戦国時代の勢力図が大きく塗り替わる転換期において、中国地方の覇者たる毛利氏がその未来を賭して投じた、極めて高度な戦略的布石であった。この年、毛利氏を取り巻く情勢は、一見すると栄光の頂点にあった。前年の永禄九年(1566年)、長年にわたる宿敵であった出雲の尼子義久を月山富田城に降し、山陰・山陽十一ヶ国を支配下に収めるという偉業を成し遂げたのである 1 。これにより、毛利氏は名実ともに西国最大の勢力としての地位を確立した。

しかし、智将・毛利元就とその三男・小早川隆景は、この勝利が新たな、より広範な闘争の序章に過ぎないことを冷徹に見抜いていた。尼子氏という背後の脅威が消滅したことで、毛利氏の戦略的関心は必然的に、東の畿内、西の九州、そして南の四国へと向けられることとなった。西には九州の覇権をめぐり雌雄を決する時が迫る大友宗麟、南には伊予国(現在の愛媛県)の河野氏を圧迫し、毛利氏の勢力圏を窺う諸勢力、そして東には、やがて天下布武の旗を掲げることになる織田信長の影が、まだ遠いながらも確実にその存在感を増しつつあった。全方位に展開する新たな戦略環境において、兵員、兵糧、武具といった軍事資源を迅速かつ大規模に投射できる能力、すなわち瀬戸内海の絶対的な制海権の確保は、もはや選択肢ではなく、毛利氏の存亡を左右する至上命題となっていたのである。

この文脈において、永禄十年の三原城築城開始という決断の真価が浮かび上がる。それは、尼子氏滅亡という輝かしい「戦後」の状況を、論功行賞や占領地経営といった内向きの処理に費やすのではなく、即座に大友・織田という次なる仮想敵国に対する「戦前」の準備期間と捉え直した、驚くべき先見性の発露であった。通常、大戦争の直後は国内の安定化に注力するのが常道である。しかし毛利氏は、尼子氏を降した翌年には、三原城という巨大な軍事インフラの建設と、伊予への大規模な軍事介入を同時に開始している 3 。これは、中国地方統一がゴールではなく、全国規模の生存競争へのスタートラインに立ったに過ぎないという、極めて現実的な国家認識があったことを示唆している。したがって、三原城は過去の勝利を記念する碑ではなく、未来の戦争に勝利するための能動的かつ攻撃的な戦略拠点として構想されたのであった。それは、毛利氏が一地方勢力から、天下の動静を左右する国家へと脱皮しつつあったことの何よりの証左と言えよう。

本報告書は、この永禄十年という天下の潮目に行われた三原城築城の全貌を、築城主・小早川隆景の戦略思想、当時の政治・軍事状況、そして用いられた最先端の技術という多角的な視点から、時系列に沿って徹底的に解き明かすものである。


【表1:三原城築城に関連する年表】

西暦

和暦

小早川隆景および毛利家の動向

国内外の主要な出来事

1533年

天文2年

小早川隆景(徳寿丸)、毛利元就の三男として誕生 5

-

1543年

天文12年

-

鉄砲伝来。

1544年

天文13年

隆景、竹原小早川家の養子となる 6

-

1550年

天文19年

隆景、沼田小早川家を継承し、両小早川家を統一 6

-

1552年

天文21年

隆景、新高山城を築き本拠とする 8

-

1555年

弘治元年

厳島の戦い。隆景率いる小早川水軍が勝利に大きく貢献 10

-

1566年

永禄9年

第二次月山富田城の戦い。尼子義久が降伏し、尼子氏が滅亡 2

-

1567年

永禄10年

三原城の築城を開始 7 。伊予出兵を敢行 4

織田信長、美濃を平定し稲葉山城を岐阜城と改称。

1576年

天正4年

第一次木津川口の戦い。毛利水軍が織田水軍に勝利 12

-

1577年

天正5年

織田信長の中国攻めが本格化。三原城が毛利軍の本陣となる 7

-

1580年

天正8年

隆景、三原城の第一次大改修に着手 8

-

1582年

天正10年

隆景、本拠を新高山城から三原城へ正式に移転 7

本能寺の変。羽柴秀吉の中国大返し。

1585年

天正13年

秀吉の四国征伐に従軍。戦功により伊予国を与えられる 11

-

1595年

文禄4年

隆景、隠居し三原城へ帰還。最後の大改修に着手 8

-

1597年

慶長2年

隆景、三原城にて死去。享年65 10

-


第一章:智将・小早川隆景と毛利水軍の掌握

三原城築城という壮大な構想を実現せしめた人物、それは毛利元就の三男、小早川隆景である 5 。兄の吉川元春が勇猛果敢な武勇で「武」の側面から毛利家を支えたのに対し、隆景は卓越した知略と交渉力で「知」を担い、外交・政略の分野でその才能を遺憾なく発揮した 7 。彼の生涯は、毛利家の一員として、そして独立した大名・小早川家の当主として、瀬戸内海の制海権を掌握し、維持し、そして活用することに捧げられたと言っても過言ではない。三原城は、その生涯をかけた事業の集大成であった。

隆景は天文二年(1533年)、徳寿丸として生を受けた 6 。元就は早くから息子たちの資質を見抜き、安芸国の有力国人であった吉川氏と小早川氏にそれぞれ元春と隆景を養子として送り込むことで、毛利宗家を支える強固な両翼体制、すなわち「毛利両川」体制を築き上げた。隆景は天文十三年(1544年)に竹原小早川家の家督を継ぐと、さらに天文十九年(1550年)には、大内義隆の後ろ盾を得て本家である沼田小早川家をも統合し、瀬戸内海に広大な影響力を持つ小早川水軍を完全にその手中に収めた 5 。乃美宗勝をはじめとする有能な海の将を擁する小早川水軍は、以後、毛利水軍の中核として数々の海戦でその名を轟かせることになる 12

隆景の真価が天下に示された最初の舞台は、弘治元年(1555年)の厳島の戦いであった。兵力で圧倒的に劣る毛利軍が、大内義隆を事実上滅ぼした陶晴賢の大軍を破るという、日本合戦史上名高いこの奇跡的な勝利は、隆景の働きなくしてはあり得なかった。彼は、当時瀬戸内海最強の独立海洋勢力であった能島・来島・因島の三家からなる村上水軍を、巧みな交渉術で味方に引き入れることに成功する 10 。彼らの協力によって制海権を確保し、陶軍を厳島に孤立させたことが、元就の奇襲作戦を成功に導く決定的な要因となったのである 17 。この戦い以降、隆景は毛利家中における対水軍交渉の主要な窓口となり、独立性の高い海賊衆のプライドを尊重しつつも、起請文を交わすなどして彼らを毛利氏の戦略体系に組み込んでいくという、絶妙な外交手腕を発揮し続けた 18

しかし、村上水軍、特に能島村上氏はあくまで独立した傭兵集団であり、その行動は常に自らの利益に基づいて決定された。時には毛利氏と敵対する豊後の大友氏に味方するなど、その動向は予測しがたく、毛利氏の長期戦略における不安定要素であり続けた 13 。隆景がそれまで拠点としていた山城・新高山城からでは、これらの海賊衆を物理的にも心理的にも恒久的に統制することは困難であった。

ここに、三原城築城のもう一つの深遠な意図が隠されている。それは単なる物理的な拠点建設に留まらず、毛利水軍の構造そのものを変革する試みであった。つまり、気まぐれな傭兵集団に依存する脆弱な体制から、毛利氏の戦略目標に直結した、より中央集権的な「準直轄水軍」を創設することである。そのために隆景は、瀬戸内海の要衝・三原に、村上水軍のどの拠点をも凌駕する圧倒的な規模と機能を持つ、巨大な軍港兼城郭を建設することを決断した。この新拠点が完成すれば、毛利氏は物理的な軍事力(常備艦隊の駐留)で優位に立ち、兵站・補給・修理能力を独占し、そして方面軍全体の戦略指令部を一元化することが可能となる。三原城は、独立性の高い海賊衆にとって、もはや無視することも逆らうこともできない、新たな権力の中心として機能するはずであった。それは、彼らを毛利氏の戦略体系に恒久的に組み込むための、いわば「海上の首都」を創設する事業だったのである。

第二章:三原城築城—海を拓く国家事業

永禄十年、小早川隆景による三原城築城は、まさに無から有を生み出す国家事業であった。それは単に山を削り、堀を穿つ従来の築城とは次元を異にする。海を埋め立てて大地を創出し、その上に瀬戸内海の覇権を象徴する拠点を築き上げるという、壮大なビジョンに基づいていた。

第一節:戦略的決断:なぜ「三原」であったのか

隆景がこの一大事業の地として三原を選んだのは、それまでの本拠地であった新高山城が抱える構造的な限界と、三原の地が持つ圧倒的な地理的優位性を深く洞察した結果であった。

隆景が天文二十一年(1552年)に築いた新高山城は、沼田川のほとりにそびえる堅固な山城であり、小早川領国の政治的中心として、また内陸の防御拠点として十全に機能していた 7 。しかし、毛利氏の勢力が中国地方全域に拡大し、その活動領域が瀬戸内海全域へと広がるにつれて、山城という形態そのものが足枷となり始める。防御には優れるものの、大規模な水軍艦隊の集結、維持、管理、そして迅速な出撃といった、海洋国家としてのオペレーションには決定的に不向きだったのである 7 。当時の三原湾は新高山城下まで深く湾入していたとはいえ、増大し続ける小早川水軍(ひいては毛利水軍全体)の差配をより効率的に行うには、もはや限界に達していた 9 。新たな時代が要請していたのは、防御機能だけでなく、広域にわたる兵站網のハブとして、また政治経済の中心地として機能する、海に直接開かれた新拠点であった 6

その条件を完璧に満たすのが、沼田川河口に位置する三原であった。この地は、京都と九州を結ぶ大動脈である山陽道(西国街道)が通過する陸上交通の要衝であると同時に、芸予諸島の島々が点在する瀬戸内海の海上交通の結節点でもあった 22 。沖合に浮かぶ大島と小島は、城郭の基礎として利用できるだけでなく、激しい潮流や波浪から港を守る天然の防波堤としても機能した 8 。この地に城を築くことは、陸路と海路という二つの大動脈を同時に掌握し、毛利本領である安芸と、東方への備えとなる備後の国境地帯を固め、毛利家の東方における最大の戦略的要塞を構築することを意味したのである 9 。隆景の拠点移行は、単なる居城の移転ではなく、小早川家、ひいては毛利家全体の戦略パラダイムが、内陸の国人領主的思考から、広域を支配する海洋国家的思考へと大きく転換したことを象徴する出来事であった。


【表2:小早川隆景の拠点城郭比較】

城郭名

高山城

新高山城

三原城

立地種別

山城

山城

海城(平城)

主要機能

沼田小早川家の伝統的拠点、防御

小早川領国の統治、内陸防御

水軍統括、広域兵站、陸海交通掌握、対東方・南方戦略拠点

築城・拠点化年代

- (天文20年入城)

天文21年 (1552年) 築城

永禄10年 (1567年) 築城開始

戦略的役割

小早川家継承の象徴

統一小早川家の政治的中心地

毛利家の海洋戦略を担う国家的要塞


第二節:築城始動:永禄十年のリアルタイム・クロニクル

『小早川家文書』や『小早川家系図』などの史料は、三原城の築城が永禄十年(1567年)に隆景によって開始されたことを記録している 8 。しかし、その始まりは、今日我々が想像するような壮大な石垣と櫓が立ち並ぶ城郭ではなかった。当初は、三原湾に点在する島々を繋ぎ、水軍の停泊地や兵站基地として機能させる「三原要害」と呼ばれる砦群の整備から始まったと考えられる 9 。実際、それより前の天文二十二年(1553年)の段階で、隆景が八幡原六郎右衛門尉に「三原要害」の在番を命じた文書が残っており、この地に既存の小規模な軍事施設が存在したことがわかる 8 。永禄十年の事業は、この既存の砦を基盤として、全く新しい構想の下で大規模に拡張するプロジェクトとして始動したのである。

この築城事業の特異性を理解する上で決定的に重要なのは、それが平時に行われたインフラ整備ではなかったという点である。まさに三原の地で槌音が響き始めたその時、隆景は兄の吉川元春と共に、伊予の同盟者・河野氏を救援するため、大規模な軍勢を率いて四国へ出兵していたのである 3 。これは驚くべき事実である。隆景は、備後国三原で国家的な土木事業の総指揮を執りながら、同時に海を隔てた伊予の戦線を遠隔で指導するという、二正面作戦を同時に遂行していたのだ。

この事実は、三原城の築城が、当初から進行中の戦争と密接に連携した、極めて実践的な軍事プロジェクトであったことを雄弁に物語っている。伊予への遠征は、海を渡る作戦であり、兵員、兵糧、武具の安定した海上輸送、すなわち兵站線の維持が勝敗を左右する。従来の山城や内陸の拠点からでは、この兵站線を効率的かつ安全に維持することは極めて困難であった。隆景は、伊予出兵という現実の軍事的課題に直面する中で、恒久的な兵站基地の絶対的な必要性を痛感したに違いない。

つまり、永禄十年の隆景の行動は、築城と戦争を同時並行で進める「デュアルタスク戦略」であり、これを可能にするという期待こそが、三原という立地を選んだ根源的な理由であった。伊予出兵は三原城築城の強力な「動機」となり、一方で三原城築城は伊予出兵を始めとする将来の軍事作戦を成功に導くための不可欠な「手段」であった。この二つの事象は、相互に影響を与え合う一体の戦略として、永禄十年の瀬戸内海を舞台にダイナミックに展開されていたのである。築城には小早川家の家臣団はもとより、支配下の国人衆、そして因島村上氏のような指揮下の水軍衆も動員されたとみられ、まさに毛利家の総力を挙げた国家事業であった 15

第三節:海城の技術:島を拓き、石を積む

三原城の建設は、戦国時代の土木技術の粋を集めた、前代未聞の挑戦であった。その核心は、三原湾に浮かぶ大島と小島という二つの島を巨大な石垣で連結し、その間を埋め立てることで広大な城地を人工的に創出するという、壮大な海洋土木工事にあった 8 。潮の干満という自然の力を計算し、瀬戸内の激しい潮流と波浪の浸食に永遠に耐えうる強固な基礎を築くことは、当時の技術水準において極めて高度な知識と経験を要した 8

日本の城郭史において、高く堅固な石垣が本格的に普及するのは、織田信長による安土城の築城(天正四年、1576年開始)以降とされている 30 。したがって、それより約10年早い永禄十年(1567年)に開始された三原城の初期の石垣は、自然石をほとんど加工せずに巧みに組み上げていく「野面積み」が主体であったと推測される 32 。特に、水面から直接石垣を垂直に立ち上げる技術は難易度が高く、三原城の西面に現存する石垣の一部は、この種の海城技術としては最古級の遺構である可能性も指摘されている 35

さらに、三原城の石垣には「アブリ積み」と呼ばれる、他ではほとんど見られない特殊な工法が用いられたと伝わっている 24 。これは、石材の内部(控え)よりも表面を長く取る形で積む手法とされ、一見すると不安定に見えながらも、石同士が巧みに噛み合うことで驚異的な強度を生み出すという 36 。その技術の難易度の高さから「余人は真似るべきではない」とまで言われたこの工法は、波の力を受け流し、吸収するために海城という特殊な環境下で生み出された、小早川家お抱えの石工集団が持つ秘伝の技術であったのかもしれない 24

隆景の土木技術への深い理解は、城郭本体に留まらなかった。城の東側を流れる和久原川の治水工事においても、その独創性が発揮されている。川岸から川中に向けて三角形の石垣を突き出させた「水刎(みずはね)」と呼ばれるこの構造物は、洪水の際に川の流れの勢いを弱め、城郭用地を水害から守る堤防としての役割を果たした 22 。それと同時に、川の流れの方向を巧みに変えることで、城の東側の曲輪(東築出)の敷地を新たに確保するという、治水と築城(用地創出)を一体化した、極めて合理的かつ高度な発想の産物であった 37 。三原城は、まさに大地を拓き、水を治めることで築かれた、自然と対峙し、それを克服しようとした人間の叡智の結晶であった。

第三章:浮城の変容と発展—隆景の生涯と共に

永禄十年に産声を上げた「三原要害」は、決して完成された姿で出現したわけではなかった。それは、築城主である小早川隆景の生涯と、彼を取り巻く政治・軍事環境の激変に呼応するように、数次にわたる改修を経て、壮大な「浮城」へと変貌を遂げていく。三原城の発展の軌跡は、毛利家、そして隆景自身の権力構造の変遷を映し出す鏡であった。

最初の大きな転機は、天正年間(1573年〜)に訪れる。天正五年(1577年)、織田信長による本格的な中国攻めが開始されると、三原城は対織田戦線の最前線司令部としての役割を担うことになった 7 。この国家存亡の危機に際し、隆景は天正八年(1580年)から十年にかけて、三原城の第一次大規模改修に着手する 8 。この改修により、城は単なる水軍基地から、毛利家の東方方面軍全体を指揮統制する広域司令部機能を備えた巨大城郭へと大きく拡張された。そして改修が完了した天正十年(1582年)、隆景は本拠地を伝統ある山城・新高山城から三原城へと正式に移転させる 7 。これは、隆景の戦略的重心が、完全に瀬戸内海へと移ったことを内外に示す象徴的な出来事であった。

二度目の、そして最後の大改修は、隆景の晩年、文禄四年(1595年)に開始される。本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉にいち早く恭順の意を示した隆景は、その知略と誠実さを高く評価され、豊臣政権下で重用された。一時は筑前国(現在の福岡県)名島城主として九州経営の一翼を担ったが、文禄四年に家督を養子の秀秋に譲り、三原を隠居の地と定めて帰還したのである 8 。しかし、彼の情熱は衰えていなかった。隆景は三原城の最終的な完成を目指し、最後の大改修に着手する。この時、彼は現場の家臣に対し、「古めかしい造りではだめだ。大坂城や聚楽第のような新しい様式で作事するように」と明確な指示を下している 8 。これは、彼が豊臣政権の中枢で目の当たりにした、最新の築城技術と、権威を象徴する壮麗な意匠を自らの城に取り入れようとしたことを示している。廃城となった新高山城の石垣を昼夜兼行で運ばせるほどの熱の入れようであり、この時期に、広島城の天守が六つも入ると言われる日本有数の規模を誇る壮大な天主台が完成したと考えられている 7 。石垣の角を強化するため、長方形に加工した石材を長辺と短辺が交互になるように組み上げる「算木積み」といった、より進んだ技術が導入されたのも、この最終改修期であった可能性が高い 22

このように、三原城の三段階の発展(要害→司令部城郭→近世的居城)は、小早川隆景と毛利家の政治的地位の変遷(地方の独立勢力→織田との対等な交戦国→豊臣政権下の大大名)と見事に同期している。城は、その時々の戦略的要請と政治的立場を体現するメディアであった。初期の「要害」は純粋な軍事・経済的利益を追求する機能的な施設であり、次の「司令部城郭」は国家総力戦に対応するための高度な軍事拠点であった。そして最後の姿は、軍事機能に加え、中央の文化と権威を取り入れた、大大名のステータスを「見せる」ための城郭へと変貌したのである。

しかし、この壮大な天主台の上に、ついに天主(天守)が建てられることはなかった 7 。その理由は定かではない。一説には、慶長二年(1597年)に隆景が城の完成を見ることなく病没したためとも言われる 10 。あるいは、豊臣秀吉や後の徳川家康といった中央の最高権力者への政治的配慮から、あえて天主という過度に象徴的な建造物を設けなかったのかもしれない。また、天主という象徴よりも、司令部としての広大な活動スペースや多数の櫓による実践的な防御能力を優先したという、隆景らしい合理的な判断があった可能性も考えられる。「不建の天主」の謎は、智将・小早川隆景の深謀遠慮を今に伝えている。

第四章:瀬戸内の覇権を象徴する軍事拠点

数次にわたる改修を経て完成した三原城は、単なる城郭の範疇を超えた、瀬戸内海の覇権を維持・運営するための巨大な軍事複合体であった。その構造は、陸戦を主眼とした従来の城郭思想から完全に脱却し、海軍力こそが国家の生命線であるという隆景の思想を物理的に具現化したものであった。

最盛期の三原城の縄張りは、壮大な天主台を擁する本丸を北(陸側)に置き、その東・西・南の三方を二の丸が囲み、さらにその外側に三の丸や東西の築出(つきだし)と呼ばれる出丸を配した「梯郭式」と呼ばれる構造を基本としていた 9 。その規模は、正保年間の絵図などから推測すると、東西約900メートル、南北約700メートルにも及び、城内には32基もの櫓と14の城門が林立する、まさに一大要塞であった 22

三原城の最も革新的な点は、城郭の防御システムと軍港の兵站・運用システムが、完全に一体化して設計されていることにあった。城の南側は直接瀬戸内海に面しており、本丸の南東部には「船入(ふないり)」と呼ばれる大規模な軍港が城郭内部に設けられていた 8 。これにより、小早川水軍の艦隊は、敵の攻撃に晒されることなく城内に直接出入りし、安全な環境下で兵員の乗降、兵糧や弾薬の補給、船体の修理を行うことができた。多くの海城において城と港が隣接していても機能的に分離しているのに対し、三原城では「船入」が城の主要な郭(くるわ)の一つとして組み込まれていたのである。船入の入口には「船入櫓」がそびえ立ち、港全体の防衛と管制を担っていた 22 。これは、艦隊そのものを城の最も重要な構成要素と見なす、画期的な設計思想の表れであった。城は艦隊を守り、艦隊は城を拠点として活動する。両者は不可分の一体として機能し、この「シームレスな統合」こそが、小早川水軍の運用効率を極限まで高め、瀬戸内海における毛利氏の機動力と制海権を絶対的なものにしたのである。三原城は、満潮時に海水が堀に満ちて海に浮かぶように見えたことから「浮城」の異名をとったが 8 、その本質は「陸に上がった艦隊」そのものであったと言えよう。

その防御システムもまた重層的かつ巧妙であった。城の背後(北側)に控える桜山には、万が一の際の最終防衛拠点となる「詰の城」として桜山城が整備されていた 7 。さらに隆景は、かつて本拠地であった新高山城下などから多数の寺院を城の周囲に移築させ、一大寺町を形成した 9 。これは単なる都市計画ではなく、有事の際には寺院の強固な塀や建物が防御陣地として機能することを見越した、高度な防衛思想の現れであった。三原の地は、もともと山と海に挟まれた隘路であり、城の存在そのものが東西の交通路を完全に遮断・管理できる構造になっていたが 9 、これらの重層的な防御システムによって、難攻不落の要塞都市が完成したのである。

終章:歴史の奔流の中の三原城

慶長二年(1597年)、築城主である小早川隆景がその生涯を閉じると、彼が生涯をかけて築き上げた三原城もまた、歴史の大きな奔流に飲み込まれていく 10 。関ヶ原の戦いを経て毛利氏が防長二国へ減封されると、代わって安芸・備後の新領主となった福島正則が三原城に入り、養子の福島正之を城代として置いた 7 。この時期、正則の本城である広島城との様式的共通性から、海に面した二重櫓などが新たに整備された可能性が指摘されている 9

その後、元和五年(1619年)に福島氏が改易されると、紀州から浅野長晟が広島藩主として入封し、三原城には筆頭家老の浅野忠吉が配された 7 。以後、三原城は「一国一城令」の例外として存続を許され、浅野氏広島藩の東の守りを固める重要な支城として、明治維新を迎えるまでその役割を果たし続けた。

しかし、近代化の波は、戦国の智将が築いた浮城の姿を大きく変えてしまう。明治維新後、城の建造物は次々と解体された。そして決定的だったのは、明治二十七年(1894年)、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)が本丸と天主台を貫通する形で敷設されたことであった 7 。これにより、城郭は無残にも分断された。さらに、かつて城の威容を支えた壮麗な石垣の多くが、近隣の糸崎港を建設するための資材として無情にも転用され、その姿を消した 26 。追い打ちをかけるように、海側の埋め立てが進み、国道が建設されたことで、かつて満潮時には海に浮かぶと謳われた「浮城」の面影は、完全に失われてしまったのである 26

今日、我々が目にすることができるのは、往時の威容をわずかに伝える巨大な天主台とそれを取り巻く堀、そして駅の南側に断片的に残る船入櫓跡や中門跡の石垣のみである 7 。しかし、これらの遺構は、今なお雄弁に歴史を語りかけてくる。三原城は、戦国時代末期における日本の築城思想の大きな転換点、すなわち防御一辺倒の山城から、統治と経済、そして広域的な軍事展開を視野に入れた平城・海城へと、戦略の重心が移行する過渡期を象徴する、極めて重要な城郭である。それは、小早川隆景という一人の非凡な智将が抱いた壮大な戦略構想と、毛利氏という一大戦国大名の国家意思、そして海を拓き石を積んだ名もなき職人たちの最先端の土木技術が結集した、瀬戸内海の覇権を体現する不滅の記念碑なのである。鉄道の喧騒の中にたたずむ巨大な石垣は、時代の変遷を超えて、海と共に生きた武将たちの夢と情熱の記憶を、静かに、しかし力強く現代に伝えている。

引用文献

  1. 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
  2. 神西三郎左衛門元通|伯耆国人物列伝 https://shiro-tan.jp/history-s-zinzai-motomichi.html
  3. 毛利元就 - 安芸高田市 https://www.akitakata.jp/akitakata-media/filer_public/71/ce/71ce4b82-31e3-4945-9add-b2ed4e68dd74/rei-wa-3nen-11gatsu-20nichi-shinpojiumu-mouri-motonari-rejume.pdf
  4. 毛利氏の伊予出兵 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%BC%8A%E4%BA%88%E5%87%BA%E5%85%B5
  5. 郷土三原ゆかりの人たち 小早川隆景(こばやかわ たかかげ) https://www.city.mihara.hiroshima.jp/site/kyouiku/yukari02.html
  6. 小早川隆景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
  7. 三原城(備後国・広島県三原市)別名:浮城、玉壺城 - 戦国探求 https://sengokutan9.com/Oshiro/Hiroshima/Miharajyou.html
  8. 【広島県】三原城の歴史 駅から徒歩0分!?小早川隆景が築いた海 ... https://sengoku-his.com/2172
  9. 三原城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%9F%8E
  10. 小早川隆景は何をした人?「父ゆずりの頭脳と確かな先見性で毛利の家を守り抜いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takakage-kobayakawa
  11. 「すべては毛利のため」知将・小早川隆景の生涯 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/585
  12. 小早川水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  13. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
  14. 小早川隆景(こばやかわ たかかげ) 拙者の履歴書 Vol.30〜海を制し命を繋ぐ - note https://note.com/digitaljokers/n/n373715d8c856
  15. 毛利水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%B4%E8%BB%8D
  16. 【47都道府県名将伝4】広島県/小早川隆景~慎重かつ果断に危機に克つ - 歴史チャンネル https://rekishi-ch.jp/column/article.php?column_article_id=108
  17. 厳島の戦い~じつは徹底的な頭脳戦!小早川隆景、冴えわたる智謀 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5840?p=1
  18. 重要文化財 村上家文書 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi12.pdf
  19. 「村上武吉」 毛利水軍の一翼を担った、村上水軍当主の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1187
  20. 能島村上氏 - 戦国日本の津々浦々 https://proto.harisen.jp/sizoku1/noima-murakami.html
  21. はじめに-村上海賊と瀬戸内海の城- - 尾道市 https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/47872.pdf
  22. 【続日本100名城・三原城(広島)】2度のピンチから逃れた巨大天主台のあるキセキの海城 https://shirobito.jp/article/829
  23. 江戸時代に三原を旅した人の日記に「立派な城で驚いた」と書かれています。 満潮時には,あたかも海に浮かんだように見えることから「浮城」とも呼ばれており - 国土交通省 中国地方整備局 建政部 http://www.cgr.mlit.go.jp/chiki/kensei/toshi/toshibi/mihara.html
  24. 三原城跡 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/sightseeing/3205
  25. 三原城跡 - 三原市ホームページ https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/50/139854.html
  26. 小早川水軍の拠点 三原城 - きままな旅人 https://blog.eotona.com/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E8%BB%8D%E3%81%AE%E6%8B%A0%E7%82%B9%E3%80%80%E4%B8%89%E5%8E%9F%E5%9F%8E/
  27. 村上水軍と河野氏・「家紋」を巡って 2 - じゅんのつぶやき - FC2 http://2103center.blog112.fc2.com/blog-entry-1314.html
  28. 村上海賊 | 因島のおすすめ | いんのしま観光なび(因島観光協会) https://kanko-innoshima.jp/recommended/kaizoku
  29. 城めぐり愛好家が愛する、一度は行きたい「海城・湖城」TOP10【2019】 - TRiP EDiTOR https://tripeditor.com/372093
  30. 海外にも類を見ない日本の伝統「石垣」の魅力に迫る! - トプコン https://www.topcon.co.jp/media/infrastructure/japanesetradition_stonewalls/
  31. 日本最初の石垣の城 https://www.keibun.co.jp/saveimg/kakehashi/0000000193/pdf_sub_3429_20160426101821.pdf
  32. 鳥羽城 : 戦国最強の水軍大将とも言われる九鬼嘉隆が築いた海城跡。 https://akiou.wordpress.com/2013/09/11/toba-jo/
  33. 城壁と石垣の積み方/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16929_tour_010/
  34. 城の石垣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/114708/
  35. 【萩原さちこの城さんぽ】浮城と呼ばれた、日本一の“駅近”城 三原城 - 城びと https://shirobito.jp/article/297
  36. 三原城 [2/2] かつて海に面していた船入櫓跡から中門跡へ。 https://akiou.wordpress.com/2018/08/12/mihara-p2/
  37. 浮城<備後国三原城> https://sirohoumon.secret.jp/miharajo.html
  38. 三原城(広島県三原市館町・城町・本町) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/07/blog-post_16.html
  39. 三 原 城 跡 近代化で大きく変わった三原城 https://old.shoai.ne.jp/chugoku-w/furusato.shiseki-miharajyou.ato-hiroshima.html
  40. 山陽の城(三原城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle07/075102/sub075102.html
  41. 備後国三原城(浮城)絵図 ~ 三原城と三原について http://mihara-jc.com/2009/2008/ukisiro.html