三好長慶の入京(1549)
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権力移行のリアルタイム・クロニクル:三好長慶の入京(1549)—戦国期中央政権の転換点
序章:入京に至る道程—権力闘争の序曲
天文18年(1549年)の三好長慶による入京は、戦国時代の畿内における権力構造を根底から覆した画期的な事件である。この出来事は、単なる一武将の上洛という範疇に収まらず、応仁の乱以来続いてきた室町幕府と管領細川氏による統治体制(細川政権)の事実上の終焉と、実力者が中央政権を掌握する新たな時代の幕開けを告げるものであった。本報告書は、この歴史的転換点に至る背景、事変のリアルタイムな経過、そしてそれがもたらした深遠な影響を、多角的な視点から徹底的に分析するものである。
父・三好元長の非業の死と長慶の家督相続
三好長慶の行動を理解する上で、その原点には父・三好元長の非業の死が存在する。元長は、主君である室町幕府管領・細川晴元の重臣として、晴元の政敵であった細川高国を滅ぼすなど、多大な軍功を挙げた人物であった 1 。しかし、その勢威は次第に主君・晴元の猜疑心を招くことになる。晴元は、同族でありながら元長と対立していた三好政長や、河内の実力者・木沢長政らと共謀し、享禄5年(1532年)6月、宗教勢力である一向一揆を煽動して元長を攻撃させた 1 。堺の顕本寺に追い詰められた元長は、なすすべなく自害に追い込まれた 2 。
この時、長慶はわずか10歳であった。父の死を目の当たりにした彼は、母と共に本拠地である阿波へと退避し、困難な状況下で三好家の家督を相続することとなる 1 。しかし、長慶は早くも非凡な才覚の片鱗を見せる。父を死に追いやった一向一揆の勢力は、やがて晴元の統制を離れて畿内で暴走を始めるが、天文2年(1533年)、12歳の長慶(幼名:千熊丸)が晴元と一向一揆の和睦を斡旋したのである 1 。この早熟な政治手腕は、彼が単なる武将ではなく、大局を見据えた交渉能力を若くして身につけていたことを示唆している。
主君・細川晴元政権下の長慶:協力と確執の17年間
その後、長慶は木沢長政の仲介を経て、父の仇である細川晴元に帰参する 1 。以後約17年間にわたり、彼は晴元の配下として、天文法華の乱をはじめとする数々の戦いで軍功を重ね、三好家の再興を着実に進めていった 1 。この時期の長慶は、晴元への忠誠と、父の仇への憎悪という相克する感情を内に秘めながら、雌伏の時を過ごしていた。
両者の間に横たわる不信感は、些細なきっかけで表面化する。天文8年(1539年)、長慶は父・元長がかつて務めていた河内十七箇所(現在の大阪府守口市周辺)の代官職を晴元に要求した。しかし、晴元は自身の側近である三好政長を優遇し、長慶の要求を退けた 7 。この一件は、晴元政権内における長慶の立場を明確に示し、両者の間にあった亀裂を決定的なものとした。
宿敵・三好政長の台頭と「父の仇」という動機
長慶と晴元の対立の核心には、常に三好政長の存在があった。政長は三好一族の傍流出身でありながら、晴元の側近として重用され、畿内における権勢を拡大していた 7 。彼は晴元政権の権力を体現する存在であり、三好本宗家の当主である長慶にとって、その権益を脅かす最大の政敵であった。
長慶の政長に対する敵意は、単なる権力闘争に留まらなかった。『続応仁後記』によれば、天文17年(1548年)に長慶が河内守護代・遊佐長教の娘を継室に迎えた際、岳父となった長教から、父・元長を死に追いやった陰謀の黒幕が政長であったことを改めて聞かされたという 9 。これにより、長慶の打倒政長への決意は、個人的な復讐という強烈な動機に裏打ちされることになった。
細川氏綱の擁立:反晴元派の結集と大義名分の獲得
周到な戦略家であった長慶は、感情的に行動を起こすことはなかった。彼は、自らの挙兵を正当化するための大義名分を求めた。その鍵となったのが、かつて晴元に敗れた細川高国の養子・細川氏綱の存在である 8 。氏綱にとっても晴元は養父の仇であり、長慶とは「父の仇を討つ」という共通の目的で結ばれていた 11 。
天文17年(1548年)頃から、長慶は晴元を見限り、氏綱を新たな主君として擁立する姿勢を鮮明にする 9 。これは、自らの行動を単なる主君への謀反ではなく、「細川京兆家の家督を正統な後継者である氏綱に戻すための義挙」と位置づけるための、極めて高度な政治的戦略であった。父の仇を討つという個人的な動機と、細川家の内紛を収拾するという政治的な大義名分が完全に一致した時、長慶はついに17年間の雌伏の時を破り、行動を開始するのである。
第一部:決裂—摂津国をめぐる攻防(天文17年〜18年初頭)
遊佐長教との同盟と軍事バランスの転換
三好長慶が細川晴元との全面対決に踏み切る上で、決定的に重要な役割を果たしたのが、天文17年(1548年)に成立した河内守護代・遊佐長教との同盟であった 9 。長慶が長教の娘を継室に迎えたことで成立したこの姻戚関係は、単なる政略結婚以上の戦略的価値を持っていた。これにより、長慶は本国・阿波を中心とする四国からの強固な軍事力に加え、河内・和泉といった畿内南部の有力な勢力を味方につけることに成功した。この同盟は畿内の軍事バランスを劇的に変化させ、長慶に晴元・政長方と互角以上に渡り合えるだけの軍事基盤をもたらしたのである。
天文18年(1549年)1月:戦端の開始
天文18年(1549年)1月11日、長慶は居城である摂津・越水城(現在の兵庫県西宮市)から出陣し、晴元方の武将・伊丹親興が守る伊丹城(同伊丹市)の周辺を焼き払った 14 。この軍事行動が、長慶と晴元の全面戦争の事実上の火蓋を切るものであった。この攻撃は、摂津国における支配権を巡る前哨戦であり、長慶が自身の軍事力を誇示し、晴元方に揺さぶりをかける狙いがあったと考えられる。
両軍の勢力配置と水面下の調略
開戦当初、両陣営は摂津国を主戦場として対峙した。三好長慶方には、摂津の有力国人である池田氏、山城西岡の国人衆、丹波の内藤国貞などが馳せ参じ、反晴元連合を形成した 9 。一方の細川晴元・三好政長方は、摂津の三宅城(同茨木市)や榎並城(大阪市城東区)などを拠点とし、近江守護・六角定頼に援軍を要請して長慶の攻勢に備えた 9 。
この時期、両陣営は直接的な軍事衝突と並行して、畿内の国人衆を自陣営に引き入れるための熾烈な調略戦を展開していた。畿内の国人領主たちは、長年続いた細川氏の内紛の中で、常に勝ち馬を見極めようとする日和見的な態度を取ることが常であった。彼らの動向が、今後の戦局を大きく左右することは間違いなく、長慶と晴元の双方が、書状や使者を送って味方を募っていたと推察される。摂津の地は、まさに一触即発の緊張状態に包まれていたのである。
第二部:江口の戦いと入京—リアルタイム・クロニクル(天文18年5月〜7月)
天文18年(1549年)春、摂津における膠着状態を打破すべく、細川晴元と三好政長は主力を率いて前線へと進出した。戦いの舞台は、淀川と神崎川が複雑に入り組む水郷地帯、すなわち三宅城、榎並城、そして江口城(大阪市東淀川区)が形成する戦略的トライアングルへと移った。この地域は水運の要衝であり、京への玄関口でもある。ここでの戦いの帰趨が、畿内の覇権を決定づけることは明白であった。
江口の戦い 詳細時系列表
ユーザーの「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要求に応えるため、戦闘の経過を日付単位で可視化し、長慶の戦術的な卓越性と、情報・速度の重要性を明らかにする。この戦いは、複数の城と河川が絡み合う複雑な状況下で行われた。時系列で整理することで、各部隊の動きと長慶の戦略意図が明確になる。特に、政長の孤立化、連絡路の遮断、六角軍到着前の短期決戦という一連の流れは、長慶の作戦の核心であり、表形式で示すことでその見事さが際立つ。この表は、単なる事実の羅列ではなく、各出来事の因果関係を分析する「戦術分析表」としての価値を持つ。
日付 (天文18年) |
場所 |
三好長慶軍の動向 |
細川晴元・三好政長軍の動向 |
六角定頼軍の動向 |
特記事項・分析 |
5月5日 |
摂津・三宅城 |
迎撃態勢を固める。 |
三好政長が三宅城に入る 9 。 |
晴元からの援軍要請を受ける。 |
晴元・政長軍が三宅城に戦力を集結。 |
5月28日 |
摂津・三宅城 |
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細川晴元が三宅城に合流 9 。 |
出陣準備を進める。 |
晴元政権の主力が摂津に集結完了。 |
6月11日 |
摂津・江口城 |
政長の動きを察知し、即座に対応。弟の安宅冬康・十河一存に別府川を封鎖させ、水陸両面で三宅城と江口城の連絡を遮断 14 。 |
政長、榎並城から江口城へ入城 14 。 |
|
転換点① : 政長の孤立。長慶はこれを好機と捉え、迅速に兵站線を断つという見事な判断を下す。 |
6月12日~23日 |
江口城周辺 |
江口城を包囲し、兵糧攻めを開始。 |
江口城に籠城。兵站を断たれ、士気が低下。 |
近江から京へ向けて進軍中。 |
長慶は六角軍の到着という時間的制約を意識し、持久戦と短期決戦の両面で準備を進める。 |
6月24日 |
江口城 |
六角軍到着前に決着をつけるべく、総攻撃を開始 9 。十河一存率いる水軍が渡河し、城の西口を突破 15 。 |
籠城戦で疲弊しており、総攻撃に耐えきれず壊滅。政長は敗走中に討死(水死説も) 7 。800名余りが討死。 |
鳥羽(京の南方)へ向けて進軍中。 |
転換点② : 短期決戦の成功。水軍を効果的に活用し、敵の弱点を突く戦術が光る。 |
6月25日 |
鳥羽 |
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榎並城の政長の子・政勝は逃亡。三宅城の晴元は京を経由し近江へ敗走 17 。 |
六角定頼率いる2万の軍勢が鳥羽に到着。しかし、政長の敗死と「晴元戦死」の誤報により、戦わずして近江へ撤退 9 。 |
勝敗の決定打 : 六角軍の遅延と誤報。もし間に合っていれば戦況は全く異なっていた可能性が高く、長慶の勝利は情報戦の勝利でもあった。 |
7月9日:三好長慶、細川氏綱を奉じての上洛
江口の戦いにおける決定的勝利は、畿内の権力地図を一変させた。最大の政敵であった三好政長は討死し、主君・細川晴元は戦意を喪失して逃亡した。これにより、京都への道は完全に開かれた。
天文18年(1549年)7月9日、三好長慶は、自らが擁立した細川氏綱を伴い、京都へ入った 1 。この入京は、武力による威圧的なものではなく、あくまで「細川京兆家の正統な当主である管領・細川氏綱を奉じての上洛」という形式が取られた。これは、旧来の権威を尊重する姿勢を示すことで、京都の公家や寺社、民衆の不安を和らげ、スムーズな権力移譲を実現しようとする、長慶の優れた政治感覚の表れであった。
この瞬間、細川晴元が約20年間にわたり維持してきた中央政権は事実上崩壊し、畿内における権力の中枢は、三好長慶とその一門へと劇的に移行したのである。
第三部:京の掌握と「三好政権」の胎動
三好長慶の入京は、単なる軍事的な勝利に留まらなかった。それは、新たな統治者として京都、ひいては畿内全域に秩序を確立する「三好政権」の始まりを意味していた。長慶は入京直後から、巧みな政治手腕を発揮し、権力の空白を迅速に埋めていった。
入京直後の統治政策:禁制の発給と治安維持
戦乱後の京都で最も懸念されるのは、勝利した軍勢による乱暴狼藉や、それに乗じた治安の悪化である。長慶はこの点を深く理解しており、入京後、矢継ぎ早に京都およびその周辺の主要な寺社に対して「禁制(きんぜい)」を発給した 14 。記録によれば、東寺、龍安寺、賀茂別雷神社、本能寺など、京都の宗教的・経済的中心地がその対象となっている 14 。
これらの禁制の内容は、軍勢による乱暴狼藉の禁止はもとより、臨時の軍税である「矢銭(やせん)」や兵糧の徴収、寺社の山林竹木の無断伐採などを厳しく禁じるものであった 14 。これは、単なる治安維持命令以上の意味を持っていた。禁制の発給は、本来、将軍や管領、守護といったその地域の正統な支配者の権能である。将軍と管領が都から逃亡した権力の空白状態において、長慶がこの権能を行使したことは、彼自身が新たな「公権力」として京都を統治する意思を内外に宣言する、極めて象徴的な政治的行為であった。旧来の秩序を尊重し、都市の経済活動と宗教的権威を保護する姿勢を示すことで、長慶は民心を安定させ、自らの支配の正当性を効果的に構築しようとしたのである。
公家・寺社との関係構築:『言継卿記』に見る長慶
京都の伝統的な支配層である公家たちも、この新たな実力者の登場に敏感に反応した。当時の公家・山科言継が記した日記『言継卿記』には、天文18年(1549年)8月27日、言継が長慶の江口の戦いでの勝利を祝して太刀一腰を贈ったことが記録されている 18 。これは、公家側が長慶を畿内の新たな支配者として公に認め、積極的に関係を構築しようとしていたことを示す証左である。長慶もまた、伝統的権威である公家や寺社との協調を重視し、穏健な統治を進めた。
傀儡管領・細川氏綱との共同統治体制の実態
形式上、長慶は細川氏綱を管領として擁立し、その家臣という立場を維持した 1 。しかし、実権は完全に長慶が掌握しており、氏綱はいわゆる傀儡(かいらい)であったというのが通説である。ただし、近年の研究では、政権発足当初においては、氏綱の主体性もある程度は尊重されており、両者による「共同統治」の側面があったとする見方も提示されている 1 。この体制は、旧来の権威構造(管領)と新たな実力者(長慶)が共存する、過渡期的な権力形態であったと評価できる。
松永久秀の台頭と新たな家臣団の形成
この権力移行期に、後の三好政権を支える重要な人物が頭角を現し始める。長慶の右筆(秘書)であった松永久秀である 20 。久秀は、この時期から文官としてだけでなく、軍事指揮官としてもその才能を発揮し始めた。長慶は、旧来の家柄や出自にとらわれず、久秀のような有能な人材を積極的に登用した 22 。弟である三好実休、安宅冬康、十河一存といった一門衆の結束力と、能力主義によって抜擢された新たな家臣団が、三好政権の強固な基盤を形成していくことになる。
権力構造の比較—細川晴元政権と三好長慶政権
長慶の入京がもたらした権力の「質的変化」を明確に示すため、両政権の構造を比較する。晴元政権が旧来の幕府・管領体制に依存した守旧的なものであったのに対し、長慶政権が実力主義、経済力、そして新たな統治システムを基盤とした革新的なものであったことが浮き彫りになる。
項目 |
細川晴元政権 |
三好長慶政権(初期) |
権力の質的変化の分析 |
支配の正統性 |
室町幕府の管領職(細川京兆家当主)という伝統的権威 6 。 |
細川氏綱を管領に擁立しつつ、江口の戦いでの軍事的勝利という「実力」が最大の基盤 11 。 |
権力の源泉が「伝統的権威」から「軍事・統治能力」へと明確にシフト。 |
軍事基盤 |
畿内の国人衆の連合体。内紛が多く、結束力に課題 2 。 |
阿波・讃岐・淡路の四国勢という強固な直轄軍事力に加え、畿内の同盟勢力(遊佐氏など)を掌握 26 。 |
安定した動員力を誇る「本国」を持つことで、畿内の流動的な国人連合に依存しない強固な軍事力を実現。 |
経済基盤 |
伝統的な荘園からの収入が中心。 |
自治都市・堺との強固な連携による商業・貿易利権の掌握 28 。 |
経済の重心が農業から商業・貿易へと移行しつつあった時代の変化を捉え、新たな富の源泉を確保。 |
主要な家臣団 |
三好政長、木沢長政など、畿内の有力国人領主が中心。主君との関係は必ずしも安定せず 6 。 |
弟の実休・冬康・一存ら一門衆と、松永久秀のような能力主義で登用された新興家臣が中核 3 。 |
血縁による結束と、能力に基づく登用を組み合わせた、より近代的で効率的な家臣団を形成。 |
第四部:将軍不在の都—権威の変容と新たな秩序
三好長慶の入京は、畿内の権力構造だけでなく、日本の最高権威であった室町幕府将軍の存在そのものを揺るがす事態へと発展した。将軍が不在のまま統治される京都という前代未聞の状況は、権威と権力の関係性を根本的に変容させ、新たな政治秩序の到来を告げるものであった。
近江坂本への退避:足利義晴・義輝父子の動向
江口の戦いの敗報は、摂津三宅城にいた細川晴元のもとに衝撃をもたらした。自らの敗北が確実となった晴元は、京都に留まることは不可能と判断し、当時、京に在住していた第12代将軍・足利義晴と、その子で既に将軍職を譲られていた第13代将軍・足利義輝を伴い、近江国坂本(現在の大津市)へと逃亡した 25 。これにより、日本の首都・京都は、統治の最高責任者である将軍と、幕政を統括する管領がともに不在という、異常事態に陥ったのである。
近江へ逃れた義晴・義輝父子は、六角氏の庇護のもと、京都奪還の機会を窺った。特に父・義晴は、慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城の築城を開始するなど、抵抗の意志を示し続けた 30 。しかし、その願いは叶うことなく、天文19年(1550年)5月、義晴は近江の地で病没した 25 。父の遺志を継いだ若き将軍・義輝は、その後も幾度となく三好長慶との戦いを繰り広げることになる。
長慶による幕府機能の代行と「天下人」への道
長慶が取った次の一手は、当時の常識を覆すものであった。彼は将軍を追放した後、慣例であった新たな将軍の擁立を行わなかった。代わりに、将軍が不在となった室町幕府の行政機構、特に政所執事であった伊勢貞孝ら実務官僚を事実上、自らの指揮下に置き、その統治システムを政権運営に利用したのである 3 。これは、将軍という「権威」を棚上げにしたまま、その統治「機能」だけを掌握するという、極めて斬新な統治形態であった。
一度は義輝と和睦し、その帰京を認めるものの、両者の対立は再燃する。そして天文22年(1553年)、長慶は再び義輝を京都から追放し、近江朽木谷へと追いやった 31 。この後、長慶は摂津の芥川山城(高槻市)に本拠を移し、将軍不在のまま京都を、そして畿内を治める 32 。ここに、織田信長の上洛に先んじること十数年、実力による中央政権「三好政権」が名実ともに確立した。
この長慶の行動は、将軍権威の構造的な無力化という、より洗練された権力掌握術であった。戦国大名にとって、将軍の権威は地方の敵対勢力との調停など、依然として外交上の利用価値があった 35 。そのため、将軍を完全に排除、あるいは殺害することは必ずしも得策ではなかった。長慶は、将軍・義輝と対立と和睦を繰り返しながら 31 、その権威を利用しつつも、自らの支配を脅かす存在になることは決して許さないという、絶妙な力関係の調整を続けた。将軍を京都という政治の中心地から物理的に引き離し、幕府の実務機構を掌握することで、将軍を名目上だけの存在へと変質させたのである。この「権威と権力の分離・支配」こそが三好政権の本質であり、その後の武家政権のあり方に決定的な影響を与えた。
結論:天下人への布石—三好長慶の入京が持つ歴史的意義
天文18年(1549年)の三好長慶による入京は、戦国時代の政治史における一大転換点として、極めて重要な歴史的意義を持つ。この出来事は、単に畿内の覇権が細川氏から三好氏へ移ったというだけでなく、中央政権のあり方そのものを質的に変容させ、後の天下統一事業への道を切り拓く布石となった。
武力による中央政権掌握モデルの提示
第一に、長慶の入京とそれに続く三好政権の樹立は、応仁の乱以降、約80年にわたって畿内を支配してきた管領細川氏による幕府支配体制(細川政権)を、実力によって完全に終焉させた 24 。これは、守護代の家臣という出自の一個人が、軍事力と政治戦略を駆使して中央政権を掌握できるという、新たなモデルを提示したものであった。この前例は、後の織田信長による上洛と天下布武の事業に、直接的・間接的に大きな影響を与えたことは疑いようがない。
室町幕府の権威の決定的形骸化
第二に、長慶が将軍を京都から追放し、新たな将軍を擁立することなく首都を統治するという前例を作ったことは、室町幕府の存在意義を根底から揺るがした 34 。将軍はもはや自律的な権力者ではなく、有力な戦国大名によって庇護され、時にはその政治的意図によって利用される客体へとその地位を決定的に低下させた。長慶は将軍の権威を完全に否定したわけではないが、それを政治の中心から隔離し、自らがその機能を代行することで、幕府の権威を事実上、形骸化させたのである。
「最初の天下人」としての再評価
最後に、この1549年の入京を起点とする三好政権の成立は、三好長慶を「最初の天下人」として再評価する現代的な歴史研究の視点を裏付けるものである。長慶は、その広大な支配領域(畿内五箇国および四国・播磨の一部)と、能力主義に基づく家臣団の登用、堺との連携による経済基盤の確立、幕府機構を利用した先進的な統治システムなど、多くの点で織田信長に先駆ける要素を持っていた 1 。
結論として、三好長慶の入京(1549)は、旧来の室町幕府体制に事実上の終止符を打ち、実力者が中央を支配する戦国乱世の新たな段階を象徴する出来事であった。それは、長慶自身の覇業の頂点への第一歩であると同時に、日本の歴史が新たな統一権力の出現へと向かう、大きな潮流の始まりを告げるものであったと言えるだろう。
引用文献
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- 三好長慶の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46488/
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- 「永禄の変(1565年)」三好氏による足利義輝殺害事件。剣豪将軍の最期とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/212
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