最終更新日 2025-10-03

三島大社領安堵(1601)

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慶長六年の選択:戦国終焉の刻、徳川家康と三嶋大社領安堵の深層

序論:慶長六年(1601年)の「安堵」が意味するもの

慶長六年(1601年)、徳川家康によって下された「三島大社領安堵」の命。この歴史的断片は、しばしば江戸幕府による寺社保護政策の一例として、あるいは東海道の交通安全を祈願する一幕として語られる。しかし、その本質は、単発の宗教政策や地域振興策に留まるものではない。それは、約一世紀半にわたる戦国の動乱が終焉を迎え、徳川による新たな天下泰平の秩序が形成される、まさにその黎明期に行われた、極めて高度な政治的・戦略的決断であった。

本報告書は、この慶長六年の「安堵」を、戦国時代という長く激しい文脈の終着点、そして近世という新たな時代の始発点として捉え直すことを目的とする。後北条氏という戦国大名による領域的かつ人格的な庇護から、徳川幕府による体系的かつ国家的な統制へと、三嶋大社を取り巻く権力構造が如何に変容したのか。そのダイナミズムを解き明かすことで、「安堵」という一語に込められた深層的な意味を徹底的に考察する。

分析の核心は、慶長六年という「刻」の重要性にある。天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)の直後であり、江戸幕府開闢(1603年)の直前という、まさに新秩序が胎動するその瞬間に、なぜこの安堵が必要とされたのか。それは新たな所領の寄進ではなく、既存の権利を新時代の覇者が公式に承認する「安堵」という形式が採られたのは何故か。そして、同年に断行された東海道宿駅制度の整備という国家的インフラ事業と、伊豆国一宮たる三嶋大社の権威の保護が、いかに不可分に連動していたのか。

これらの問いを、後北条氏の時代まで遡る詳細な時系列分析を通じて解き明かし、慶長六年の選択が、徳川家康の描いた壮大な国家構想の中でいかなる位置を占めていたのかを論証する。

【表1】三嶋大社を巡る権力者の変遷と社領政策年表

年代(西暦)

主要な出来事

支配者

三嶋大社への政策・社領状況

典拠

永禄年間(1558-70)

山中城築城

後北条氏(氏康)

西の防衛線として三島周辺の軍事的価値が増大。

1

天正18年(1590)

小田原征伐、後北条氏滅亡

豊臣秀吉

徳川家康が関東へ移封。伊豆国は家康の支配下に入る。

2

天正18年以降

太閤検地の実施

豊臣秀吉

荘園制の解体。寺社領も再編成の対象となる。

4

文禄3年(1594)

徳川家康による社領寄進

徳川家康(豊臣政権下)

黒印状にて330石を寄進。詳細な地割も指定。

6

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦い

徳川家康

徳川家康が事実上の天下人となる。

(一般的史実)

慶長6年(1601)

東海道宿駅制度の制定

徳川家康

三島宿が正式に宿場となる。三島大社領の「安堵」。

3

慶長9年(1604)

徳川家康による社領加増

徳川家康

200石を加増。合計530石となる。

6

元和3年(1617)

継目安堵の朱印状

徳川秀忠

二代将軍秀忠により、530石の社領が改めて安堵される。

8

第一章:戦国動乱と三嶋大社 ― 後北条氏の庇護と伊豆国の戦略的価値

慶長六年の徳川家康による安堵を理解するためには、まず、それ以前の約一世紀にわたり伊豆国を支配した後北条氏と三嶋大社との間に結ばれた、深く複合的な関係性を解き明かす必要がある。後北条氏にとって三嶋大社は、単なる信仰の対象ではなく、領国経営と軍事戦略に不可欠な、極めて重要な存在であった。

後北条氏による篤い崇敬と政治的意図

後北条氏の三嶋大社への崇敬は、初代早雲(伊勢宗瑞)にまで遡る。早雲は、関東進出の野望を抱いていた頃、三嶋大社に参詣して武運長久を祈願した際に、「二本の大杉を一体の小さな鼠がかじり倒し、その鼠が虎に変身する」という霊夢を見たと伝えられる 1 。彼はこの夢を、二本の杉を関東の両上杉氏、子年生まれの自分を鼠に見立て、やがて自分が両上杉を打倒するという神託であると解釈し、大いに喜んで神馬や太刀、鎧兜を奉納したという 1 。この逸話は、後北条氏の関東支配の正当性が、三嶋大社の神威に由来するという物語の原型を形成し、その後の代々の当主による崇敬の精神的基盤となった。

この深い信仰心は、具体的な庇護政策として結実する。早雲以後、五代にわたる当主は、社殿の建立や所領の寄進を幾度となく行った 1 。これは単なる宗教的熱意の発露に留まらない。伊豆国一宮という最高位の神社を庇護下に置くことは、後北条氏が伊豆国の正統な支配者であることを内外に示威する、強力な政治的パフォーマンスであった。彼らの仁政と並び、こうした宗教的権威への敬意は、領民の心を掴み、その支配を盤石にするための重要な統治術だったのである。

『小田原衆所領役帳』に見る経済的支援の実態

後北条氏による庇護の具体的な姿は、同氏の分限帳である『小田原衆所領役帳』から窺い知ることができる。この史料には、「三島領」として御供米78貫文の存在が明記されている 3 。これは、後北条氏が三嶋大社の祭祀を維持するために、安定的かつ制度化された経済的支援を行っていた動かぬ証拠である。

さらに、同史料によれば、鶴喰村や安久村には三嶋大社の在庁官人が10人おり、神社の鍵を預かる「鍵取」の役を担っていたこと、また中村にも社領が存在し、その一部を後北条氏の家臣団が領有していたことなどが記されている 3 。これらの記述は、後北条氏の支配が、単に米や銭を寄進するに留まらず、社領の管理運営や神職組織の人事にまで深く関与する、包括的なものであったことを示唆している。後北条氏の支配体制の中に、三嶋大社は明確に組み込まれていたのである。

対武田氏の最前線としての三島

後北条氏が三嶋大社をこれほどまでに重視した背景には、伊豆国、とりわけ三島が持つ地政学的な重要性があった。三代氏康の時代、永禄年間(1558-1570)に箱根外輪山の西麓に山中城が築城されると、三島は対駿河・対甲斐の軍事的最前線としての性格を強めていく 1 。山中城は、箱根路を城内に取り込み、街道を監視・封鎖する機能を持つ、後北条氏の西の防衛線における最重要拠点であった 1

やがて甲相駿三国同盟が破綻し、武田信玄との抗争が激化すると、三島周辺は文字通り戦場と化した。永禄十二年(1569年)六月には、武田信玄による三島への攻撃があり、この際に三嶋大社の社殿も焼失した可能性が指摘されている 8 。戦火に晒された大社の再建は、後北条氏にとって喫緊の課題であったが、武田氏との戦闘に明け暮れる中で、その造営は大きな負担となっていた 8

このように、戦国時代の三嶋大社は、後北条氏の精神的な支柱であると同時に、その軍事戦略と不可分に結びついた存在であった。大社への庇護は、軍事拠点の安定化と、そこに住まう人々の精神的統合を図るための、戦国大名ならではの複合的な統治政策の一環だったのである。この後北条氏による人格的で、かつ軍事戦略と一体化した庇護関係こそが、徳川家康による新たな支配体制を理解するための重要な前史となる。

第二章:天下統一の奔流 ― 豊臣政権の支配と寺社領の変革

約一世紀にわたり伊豆国に君臨した戦国大名・後北条氏。その盤石に見えた支配は、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業の前に、脆くも崩れ去った。この権力構造の激変は、最大の庇護者を失った三嶋大社にとって、その存立基盤そのものを揺るがす未曾有の危機であった。

後北条氏の滅亡と伊豆国の権力空白

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が率いる圧倒的な大軍の前に、後北条氏の西の防衛拠点であった山中城はわずか半日で落城 1 。その後、本拠地である小田原城も開城し、後北条氏は滅亡した。これにより、三嶋大社は長年にわたる手厚い庇護を一夜にして失うこととなる。後北条氏という特定の大名家との人格的な信頼関係に基づいていた社領の権利は、その保証人を失い、法的に宙吊りの状態に陥ったのである。

戦後処理において伊豆国は、関東へ移封された徳川家康の所領となり、その家臣である石川家成が三島近郊の梅縄城に入るなど 11 、新たな支配体制への移行が急ピッチで進められた。三嶋大社にとって、この新しい支配者である徳川家康との関係をいかに構築するかは、まさに死活問題であった。

太閤検地という「革命」

後北条氏の滅亡と並行して、三嶋大社をはじめとする全国の寺社に根源的な変革を迫ったのが、豊臣秀吉が強力に推進した太閤検地であった。これは単なる田畑の面積測量や収穫量調査ではない。それは、奈良時代から続く荘園制に代表される、重層的で複雑な中世的な土地所有関係を根本から解体し、すべての土地を国家(豊臣政権)が一元的に管理しようとする、まさに「革命」であった 4

太閤検地の本質は、土地の直接の耕作者を検地帳に登録し、その者から直接年貢を徴収する仕組みを構築することにあった 4 。これにより、領主、荘官、地頭、名主といった中間支配者が介在する余地はなくなり、寺社が長年にわたって享受してきた「不入の権(領主の徴税や検断を拒否する特権)」といった治外法権的な権利も、原則としてすべて否定された。武士が土地の支配権から切り離され、知行高という石高で評価される官僚的存在へと変えられていったのと同様に 5 、寺社もまた、旧来の由緒や伝統に依拠した権益を失い、天下人から公的に認められた「石高」を保有する存在へと、そのあり方を根本から変えざるを得なくなったのである。

三嶋大社への影響 ― 存亡の危機

この全国的なパラダイムシフトの奔流は、当然ながら三嶋大社にも及んだ。後北条氏から保証されていた「三島領78貫文」といった旧来の社領は 3 、太閤検地によってその権利の正統性が根底から問い直されることになった。検地帳にどのように記載されるか、あるいは全く記載されないかによって、その後の神社の経済的基盤は大きく左右される。

後北条氏という強力な庇護者を失った直後に、土地所有に関する社会の「ルール」そのものが変更されるという二重の危機に直面した三嶋大社は、もはや「古来からの由緒ある権利」を主張するだけでは存続し得ない状況に追い込まれた。生き残るためには、伊豆国の新たな支配者となった徳川家康を通じて、豊臣政権という新たな中央権力に公的に認められた「朱印地(あるいは黒印地)」を持つ存在へと、自らを変革させる必要があった。この絶体絶命の状況こそが、文禄三年(1594年)の徳川家康による最初の社領寄進へと繋がる直接的な背景となるのである。

第三章:徳川家康の台頭と布石 ― 文禄三年(1594年)の黒印状

後北条氏滅亡と太閤検地という二重の危機に直面した三嶋大社にとって、一条の光となったのが、伊豆国の新たな領主となった徳川家康の存在であった。家康は、豊臣政権下の一大名という立場でありながら、将来を見据えた巧みな布石として、三嶋大社への庇護を表明する。それが、文禄三年(1594年)に発給された黒印状による330石の社領寄進であった。

豊臣政権下の大名としての家康と黒印状の選択

天正十八年(1590年)に駿府から関東へ移封された徳川家康は、石高250万石を領する全国随一の実力者ではあったが、その立場はあくまで豊臣政権を構成する有力大名の一人に過ぎなかった。彼の伊豆国支配も、天下人である豊臣秀吉の権威の下で認められたものであり、その行動には自ずと政治的な制約が伴った。

この当時の家康の立場を如実に物語るのが、文禄三年(1594年)の三嶋大社への寄進状が、「朱印状」ではなく「黒印状」の形式で発給された点である 8 。朱印は、室町時代から江戸時代にかけて、武将が公文書に用いた朱肉の印であり、特に江戸時代には将軍家が発給する格式の高い文書に用いられるのが通例となった 13 。一方で黒印状は、より軽微な事項や、将軍以外の諸大名が用いる文書とされた 15 。家康がこの時点で、天下人である秀吉に遠慮して朱印の使用を避け、黒印状を用いたことは、彼が豊臣政権の秩序を遵守する恭順の意を示しつつ、自らの支配領域内での権威を行使するという、慎重かつ戦略的な判断の表れであった。この黒印状は、豊臣政権への服従と関東の新支配者としての威光という、二重の政治的メッセージを内包していたのである。

330石の寄進 ― 「安堵」ではなく「新規設定」

家康が寄進した330石という社領は 6 、後北条氏時代の「78貫文」を単純に石高に換算して追認(安堵)したものではない。太閤検地によって中世的な土地所有関係が一度白紙化(リセット)された上に、徳川家康が自らの権威をもって新たに石高を「設定」し直した、全く新しい性質の所領であった。これは、三嶋大社が旧来の伝統的権威から脱却し、徳川氏を頂点とする新たな支配体系に正式に組み込まれたことを意味する、画期的な出来事であった。後北条氏に代わる伊豆の新支配者として、地域の宗教的中心である三嶋大社を掌握し、領民の人心を安定させるための、これは極めて重要な第一歩だったのである。

地割に見る統制の意図

家康の深謀遠慮は、寄進の石高だけでなく、その内訳である「地割」の指定にまで及んでいた。文禄三年十月十二日付の「徳川家康寄進神領地割帳」によれば、330石の内訳は、「神主100石、護摩堂25石、刑部大夫20石、在庁免25石、惣社人55石」などと、極めて詳細に定められていた 7

この事実は、家康が単に土地という経済基盤を与えただけでなく、三嶋大社の社家組織の内部構造や、各神職・社人の経済的序列にまで深く踏み込み、直接的な統制を及ぼそうとした明確な意図を示している。神主をはじめとする各役職の石高を定めることで、神社内部の権力構造を家康が望む形に再編成し、その掌握を確実なものにしようとしたのである。これは、経済的支配と組織的支配を両輪とする、後の江戸幕府による全国の寺社統制策の萌芽ともいえる巧みな統治術であった。文禄三年の黒印状は、来るべき徳川の世を見据えた、家康による周到な布石だったのである。

第四章:天下分け目の関ヶ原と慶長六年の「刻」― リアルタイム・シークエンス

文禄三年の黒印状によって、三嶋大社は徳川の支配体系に組み込まれ、一応の安定を得た。しかし、それはまだ豊臣の天下における一地方領主からの庇護に過ぎなかった。その状況を根底から覆し、慶長六年の「安堵」という決定的な瞬間へと導いたのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。

1600年(慶長五年)秋:権力構造の激変

関ヶ原における東軍の勝利は、徳川家康を名実ともに天下人の地位へと押し上げた。豊臣政権は事実上崩壊し、日本の統治権は完全に家康の掌中に帰した。これにより、家康の政治的立場は「豊臣政権下の一大名」から「日本の新たな支配者」へと劇的に変化した。彼が発する命令や文書は、もはや一地方のそれに留まらず、国家の最高決定としての重みを持つことになったのである。三嶋大社に与えられた330石の黒印地もまた、その保証主が天下人となったことで、その価値と安定性が飛躍的に高まることとなった。

1601年(慶長六年)正月:東海道宿駅制度の確立

天下の覇権を握った家康が、幕府開設に先駆けて最優先で着手した国家プロジェクトの一つが、交通網の整備であった。慶長六年正月、家康は江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道の各宿駅に対し、公的な伝馬業務を命じる「御伝馬朱印状」を発給。これにより、三島宿を含む東海道五十三次が公的な宿場として正式に制度化された 3

この政策の目的は、参勤交代や公用旅行者の円滑な移動を保証するだけでなく、有事の際の迅速な軍事行動を可能にし、全国の情報を江戸に集約させることで、幕府による全国支配を盤石にすることにあった。中でも三島宿は、「天下の嶮」と謳われた箱根峠の西麓に位置し、伊豆半島への玄関口である下田街道の分岐点でもあるという、交通上・軍事上の最重要拠点であった 17 。この三島宿の安定的な運営は、徳川政権にとって極めて重要な課題だったのである。

1601年(慶長六年)二月~三月:「安堵」の断行

東海道という国家インフラの整備と並行して、家康は新たな統治体制の根幹をなす諸政策を矢継ぎ早に打ち出していく。ある記録によれば、家康が寺社の問題に本格的に取り組み始めたのは、慶長六年二月二十三日から三月十五日の間のことであったとされ 20 、この時期に寺社政策に関する集中的な意思決定が行われたことが窺える。

まさにこの流れの中で、「三島大社領安堵」は断行された。ここで極めて重要なのは、この行為が新たな石高の寄進(加増)ではなかったという点である。そうではなく、 天下人となった家康が、その新たな絶対的権威をもって、かつて(文禄三年に)一大名として黒印状で与えた330石の所領を、改めて国家の最高権力者として公式に承認・保証(安堵)する という、極めて象徴的かつ政治的な宣言であった。

この一連の出来事を時系列で俯瞰すると、家康の明確な戦略が浮かび上がってくる。まず、国家の基幹インフラとして東海道宿駅制度を確立する。次に、その最重要拠点の一つである三島宿の安定化を図るため、その門前町の中核であり、地域住民の精神的支柱である三嶋大社の権威と経済基盤を、天下人たる自らの名において保証する。慶長六年の「安堵」は、単独の宗教政策ではなく、東海道整備という国家プロジェクトと完全に同期した、パッケージとしての政策だったのである。それは三嶋大社への恩恵であると同時に、徳川幕府の交通政策を円滑に進めるための、計算され尽くした政治的投資に他ならなかった。

第五章:安堵の具体的内容と歴史的意義

慶長六年(1601年)の社領安堵は、徳川の新たな支配体制における三嶋大社の地位を確定させた。この安堵を基盤として、三嶋大社は江戸時代を通じて手厚い保護を受け、東海道の要衝に位置する伊豆国一宮として、その権威を不動のものとしていく。

安堵から加増へ ― 530石体制の完成

慶長六年の安堵によって盤石な基盤を得た三嶋大社に対し、家康はさらなる庇護を示す。江戸幕府が開かれた翌年の慶長九年(1604年)、新たに200石の社領が加増され、これにより江戸時代を通じての社領は合計530石となった 6 。この加増分は、沢地村のうち一町田から98石余、幸原村から101石余が充てられたという具体的な記録も残っている 8

1601年の「安堵」が、関ヶ原を経て覇者となった家康の支配の「正統性」を天下に示す行為であったとすれば、1604年の「加増」は、その支配が完全に安定し、さらなる恩恵を与えるだけの余裕と権威が確立されたことの象徴であったと言える。そして、この徳川家による庇護体制は、元和三年(1617年)に二代将軍秀忠によって改めて530石の「継目安堵の朱印状」が発給されるに及び 8 、完全に制度として確立した。黒印状に始まった徳川氏との関係は、安堵を経て、将軍家が代替わりしても揺らぐことのない朱印状による保証へと昇華したのである。

東海道の守護神としての役割

徳川幕府による手厚い保護は、三嶋大社とその門前町である三島宿に、未曾有の繁栄をもたらした。東海道の正式な宿場町として整備された三島宿は、箱根越えを控える旅人や、江戸と国元を往復する参勤交代の大名行列、そして三嶋大社への参詣客で常に賑わった 17 。三嶋大社は、この宿場町の繁栄と一体化した精神的中心であり、その祭礼は多くの人々を集め、経済を潤した。

家康の政策は、結果として三嶋大社を単なる一地方の宗教法人としてではなく、東海道という国家的交通網の安全と繁栄を祈願する、いわば「公的機関」として位置づけることに成功した。これは、宗教的権威を利用してインフラの安定と人心の掌握を図るという、幕藩体制における宗教と政治の巧みな統合を示す好例である。

伊豆国における他の主要寺社との比較

家康が三嶋大社をいかに重視していたかは、伊豆国における他の有力寺社への処遇と比較することで、より一層明確になる。

源頼朝ゆかりの社として篤い信仰を集めた伊豆山神社(走湯権現)に対して、家康は文禄三年(1594年)に200石を寄進し、慶長十四年(1609年)に100石を加増、最終的な朱印地は300石であった 21 。また、同じく頼朝の崇敬を受け、箱根関所に隣接する箱根権現(箱根神社)には、文禄三年(1594年)に200石を寄進している 23

これらの事例と比較すると、三嶋大社の最終的な社領530石という石高は、伊豆国の主要三社の中で突出して手厚いものであったことがわかる。

【表2】徳川家康による伊豆国主要三社への社領安堵比較

社名

初期の寄進(時期・石高)

最終的な朱印高

備考(立地・特徴)

典拠

三嶋大社

文禄3年(1594) 330石

530石

伊豆国一宮。東海道三島宿に位置し、下田街道の起点。

6

伊豆山神社

文禄3年(1594) 200石

300石

源頼朝ゆかりの地。熱海の温泉地に位置する。

21

箱根権現

文禄3年(1594) 200石

200石以上

関東総鎮守。箱根関所に隣接する軍事・交通の要衝。

23

この歴然とした差は、単なる各社の社格や信仰の篤さだけでは説明できない。伊豆山神社や箱根権現もまた、源頼朝以来の武門の崇敬を集める重要な社であった。三嶋大社がこれほどまでに優遇された最大の理由は、やはりその立地にあったと考えられる。東海道という江戸幕府の生命線ともいえる幹線道路に直接面し、かつ下田街道の分岐点という、他の二社にはない交通上の圧倒的な戦略的重要性が、家康によって最大限に評価された結果なのである。

結論:戦国の終焉と近世の黎明を映す一点

慶長六年(1601年)の「三島大社領安堵」は、戦国時代の終焉を最終的に告げ、徳川による新たな泰平の世の到来を象徴する、一連の政策群の中核をなす重要な構成要素であった。それは単なる寺社領の確認作業ではなく、新時代の国家秩序を構築するための、計算され尽くした政治的行為だったのである。

後北条氏という一個の戦国大名による、人格的で領域的な庇護関係は、天正十八年(1590年)の小田原征伐と、それに続く太閤検地によって完全に解体された。混沌とした実力主義の時代が終わり、旧来の権威や慣習は一度リセットされたのである。それに代わり、天下人となった徳川家康は、三嶋大社を東海道という全国的な交通インフラと分かちがたく結びつけ、朱印地という新たな土地所有制度の下で、幕府の統治システムへと巧みに組み込んだ。

この一連の過程は、三嶋大社という一つの社を通して、戦国から近世へという日本のマクロな歴史的転換を鮮やかに映し出す鏡である。それは、個々の武将の武力とカリスマに依存した支配が終わりを告げ、法と制度に基づく中央集権的な秩序の時代が始まったことを、伊豆国三島の地で明確に示した、画期的な出来事であった。慶長六年の安堵は、戦乱の記憶が未だ生々しい人々の心に徳川の威光を刻み込み、東海道の礎を固める、まさに近世の黎明を告げる一石だったのである。

引用文献

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  3. 三島囃子の歴史 - 三島市民ポータルサイト https://mishima-life.jp/syagiri/syagiri_history1.asp
  4. 「太閤検地」とはどのようなもの? 目的や、当時の社会に与えた影響とは【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/269995
  5. 秀吉、太閤検地で構造改革を推進 - 郷土の三英傑に学ぶ https://jp.fujitsu.com/family/sibu/toukai/sanei/sanei-23.html
  6. 三嶋大社|家康ゆかりの情報|全国家康公ネットワーク http://www.ieyasu-net.com/shiseki/shizuoka/13mishimashi/0002.html
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  8. 三嶋大社|日本歴史地名大系|ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=598
  9. 【北条五代・逸話】北条七剣士の誓い | 三島市観光Web https://www.mishima-kankou.com/feature/4386/
  10. Untitled - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/285069/1-20160921171525.pdf
  11. ふるさと探訪 | 三島市郷土資料館 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_tanbou028755.html
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  15. 黒印状(コクインジョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E5%8D%B0%E7%8A%B6-63715
  16. 2023大河ドラマに登場!その生涯の半分以上を静岡県で過ごした徳川家康ゆかりのスポット https://hellonavi.jp/yukari-ieyasu/index.html
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