最終更新日 2025-09-28

三島宿整備(1601)

慶長六年、徳川家康は東海道の要衝三島宿を整備。箱根越えの拠点として人馬継立を担い、問屋場や本陣を設置。伝馬役と助郷制度は住民に重い負担を課したが、幕府支配の礎となった。
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戦国の終焉、公儀の道:慶長六年「三島宿整備」の歴史的深層

序論:関ヶ原の戦塵、未だ収まらぬ中での国家構想

慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原の地で繰り広げられた天下分け目の合戦は、徳川家康の勝利によって幕を閉じた。しかし、この軍事的勝利は、そのまま恒久的な政治支配を意味するものではなかった。豊臣家は大坂城に依然として存続し、西国にはその恩顧を受ける大名が多数存在していた 1 。戦塵未だ収まらぬこの緊迫した状況下で、家康が次なる一手を打つべき喫緊の課題は、軍事的成功をいかにして揺るぎない全国支配体制へと転換させるか、という点にあった。その壮大な国家構想の中で、交通網の整備、とりわけ江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道の再編が、最優先課題の一つとして掲げられたのである。

この政策決定の背景には、いくつかの戦略的必然性が存在した。第一に、軍事的・政治的要請である。江戸を本拠地とする家康にとって、朝廷の権威が残る京都、そして豊臣家の拠点である大坂を常時監視し、有事の際には迅速に軍隊を派遣できる体制を整えることは、覇権を維持するための絶対条件であった 2 。東海道を幕府の完全な管理下に置くことは、西国大名への強力な牽制となり、徳川の支配力を物理的に示す意味合いを持っていた。

第二に、情報伝達の重要性である。広大な日本列島を統治するためには、迅速かつ確実な情報網が不可欠であった。それは国家の神経系統にも等しく、幕府の指令を全国の隅々にまで伝達し、同時に各地の情報を正確に江戸へ集約するシステムがなければ、実効性のある統治は望めない 1 。宿場ごとに人馬を常備させ、リレー方式で公用文書や物資を輸送する宿駅伝馬制度は、この情報伝達の速度と確実性を飛躍的に向上させるものであった。

家康の構想は、単なるインフラ整備に留まるものではなかった。それは、江戸を起点とする全国的な交通網を整備することによって、江戸を名実ともに日本の政治・経済の中心として位置づける、壮大な国家改造計画の第一歩であった 2 。戦国時代を通じて分断され、各大名の領国ごとに閉じていた空間を、江戸を中心とする一つの「公儀(こうぎ)」の道で結び直す。慶長六年(1601年)の東海道整備は、まさにこの新たな「空間的支配」を高らかに宣言する行為だったのである。それは、物理的な「道」を支配下に置くことを通じて、徳川が日本の新たな統治者であることを天下に可視化し、その支配を実体化させる、極めて高度な政治的事業であった。本報告書は、この国家的プロジェクトが「三島宿」という一つの宿場でいかに具体化されたのかを、戦国時代という前史から紐解き、その歴史的深層を徹底的に解明するものである。

第一章:戦国時代の遺産 — 分断された伝馬制度とその限界

慶長六年に徳川幕府が創設した宿駅伝馬制度は、決して無から生まれたものではない。それは、戦国大名たちが百年にわたる群雄割拠の時代の中で、自らの領国経営のために築き上げた既存の伝馬制度という「遺産」を継承し、再編し、そして昇華させたものであった。この制度の前史を理解することは、徳川の交通政策の革新性を理解する上で不可欠である。

戦国大名の独自伝馬制

室町・戦国時代、統一的な交通政策は存在せず、街道の統治は分断的であった 7 。その中で、後北条氏、武田氏、今川氏といった東国の有力大名たちは、領国内の統治と軍事行動を円滑化するため、それぞれ独自の伝馬制度を整備していた 5 。これらの制度は、本城と支城間の兵員移動、軍需品の輸送、そして領内各地への指令伝達といった、軍事・政治上の必要性を主目的としていた 8 。例えば、武田氏は専用の伝馬印や手形を発行し、公用と私用の利用を厳格に区別するなど、体系的な交通統制を行っていたことが知られている 9 。後北条氏においても、永禄二年(1559年)に作成された『小田原衆所領役帳』から、家臣団に課された諸役の中に伝馬役が含まれていた可能性が示唆されており、領国規模での体系的な制度が存在したと推測される 10

しかし、これらの制度は本質的に、それぞれの「分国」内に閉じたものであった。大名間の境界を越えて人や物資を円滑に輸送する統一的な仕組みはなく、各大名の領国がそのまま交通の断絶点となっていた。これが戦国時代の伝馬制度の最大の限界であった。

織田・豊臣政権から徳川へ

全国統一への道を切り開いた織田信長は、関所の撤廃や主要河川への架橋事業(例:天竜川)を進め、商業交通の発展を促した 8 。これは物流の円滑化に大きく貢献したが、全国を網羅する統一的な伝馬制度の構築までには至らなかった。続く豊臣秀吉は、政務の拠点である大坂城と隠居城である伏見城を結ぶ京街道を整備した 1 。この二元統治の拠点を街道で結ぶという発想は、江戸と京・大坂という二大拠点を結ぶ東海道整備を構想した家康にとって、一つのモデルとなった可能性がある。

家康自身もまた、天下統一以前から交通網整備の重要性を深く認識していた。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有していた天正十五年(1587年)から同十八年(1590年)にかけて、駿府と岡崎を結ぶ東海道の各宿駅に対し、自身の朱印状を数多く発給し、領内の伝馬制を整備した経験を有していた 1 。この五カ国経営時代の実務経験が、後の全国規模での制度設計における貴重な基盤となったことは想像に難くない。

戦乱に翻弄された三島

徳川による整備以前、三島は交通の要衝であるがゆえに、戦乱の舞台となることも少なくなかった。伊豆国に位置するこの地は、小田原の北条氏、駿河の今川氏、そして甲斐の武田氏という三大勢力の力がぶつかり合う境界地域にあった 11 。特に永禄十二年(1569年)、北条氏を攻める戦略の一環として伊豆に侵攻した武田信玄は、三嶋大社の社殿や宝蔵を焼き払ったと伝えられている 12 。交通の要衝が安定した統治機構なくしてはいかに脆弱であるか、そして地域の信仰の中心である三嶋大社さえもが戦火に晒されるという事実は、戦国時代の交通の現実を象徴している。

徳川幕府が構築した伝馬制度は、こうした戦国時代の経験と遺産の上に成り立っていた。それは、各大名が培った制度運営のノウハウを吸収し、それらを統合して全国規模のシステムへと再構築する試みであった。特に、武田氏の体系的な民政・交通管理の手法は、後の制度設計に色濃く影響を与えたと考えられる。その証左として、この国家的大事業の執行責任者の一人に、旧武田家臣で民政手腕に定評のあった大久保長安が抜擢されている点が挙げられる 13 。家康は、かつて敵対した勢力の優れた統治システムや有能な人材であっても、自らの天下統一事業のために積極的に導入する、極めて合理的な思考の持ち主であった。戦国大名の分断された伝馬制は、徳川の新たな「公儀の道」の礎石として、その歴史的役割を終えることになったのである。

表1:戦国大名と徳川幕府の伝馬制度比較

項目

後北条氏の伝馬制 (推定)

武田氏の伝馬制

徳川幕府の東海道伝馬制

目的

軍事・通信 (領内限定)

軍事・通信・公用 (領内限定)

公儀の通行 (軍事・政治・経済) の全国的円滑化

管理主体

小田原の奉行衆

蔵前衆・代官

幕府 (後の道中奉行)

規模

不明 (『小田原衆所領役帳』から体系的であったと推測) 10

体系的 (伝馬印・手形による統制) 9

東海道各宿に100人・100疋を常備 4

性格

分権的・領国ごと

分権的・領国ごと

中央集権的・全国統一基準

第二章:慶長六年正月、江戸からの指令 — 宿駅伝馬制度の確立

関ヶ原の合戦からわずか4ヶ月後、世情がいまだ安定を見ない慶長六年(1601年)正月、徳川家康は矢継ぎ早に次の一手を打った。江戸から東海道筋の各宿場に対し、宿駅伝馬制度の確立を命じる指令が発せられたのである。この迅速な政策決定と実行は、徳川による新たな時代が、武力のみならず、高度な統治システムによって幕を開けることを天下に示すものであった。

リアルタイムな政策実行

この時期の動向を時系列で追うと、家康の周到な計画性と実行力の高さが浮き彫りになる。

  • 慶長五年(1600年)九月十五日: 関ヶ原の合戦で徳川方が勝利し、徳川による全国支配の軍事的基盤が確立される 16
  • 慶長五年(1600年)後半: 家康は勝利の余韻に浸ることなく、直ちに戦後処理と並行して、新たな国家統治体制の構築に着手。その一環として、東海道整備計画の策定と、それを実行する奉行衆の人選が進められたと考えられる。
  • 慶長六年(1601年)正月: 東海道の各宿に対し、二つの重要な公文書が交付される。これにより、近世の東海道宿駅伝馬制度が公式に発足した 16

このスピード感は、家康が軍事的勝利を政治的支配へと転換させるプロセスをいかに重視していたかを示している。合戦の論功行賞と並行して、国家の根幹をなすインフラ整備に即座に着手することで、他の大名に対し、徳川の統治がすでに始まっていることを強く印象付けたのである。

指令の法的根拠:「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」

各宿場に交付された二つの文書は、それぞれ異なる役割を担い、制度の権威と実務を支える両輪となった。

第一に**「伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)」**である。これは徳川家康自身の朱印が押された、極めて権威の高い公文書であった 17 。現存する桑名宿宛の朱印状には、馬と手綱を引く馬士が描かれた「駒曳朱印(こまひきしゅいん)」が押されており、その文面には「この朱印がない場合は、伝馬を出してはならない」という趣旨が記されている 21 。これは、幕府が発行する手形を持つ者こそが正当な公用旅行者であり、それ以外の者への伝馬提供を禁じるという、通行資格の独占的管理を宣言するものであった。これにより、幕府は東海道の交通を完全にその掌握下に置く法的根拠を確立した。静岡県富士市に残る吉原宿伝馬朱印状も、この時に発給された貴重な実物史料の一つである 19

第二に**「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」**である。これは、家康の側近である奉行、伊奈忠次、彦坂元正、そして大久保長安の三名の連署によって出された、より実務的な規則書であった 17 。この文書には、各宿場が遵守すべき具体的な義務、すなわち常備すべき人馬の数、荷物の継立方法、公用荷物の優先順位、賃銭の規定など、制度を運営するための細則が定められていたと考えられる。伝馬朱印状が制度の「大義名分」を示すとすれば、御伝馬之定は現場で運用するための「マニュアル」としての役割を果たした。

指令の担い手たち

この国家的大事業を現場で指揮したのは、家康が厚い信頼を寄せる三人の能吏であった。

  • 大久保長安: 元は武田信玄に仕えた家臣で、武田氏滅亡後に家康に登用された人物である 13 。鉱山開発や検地、そして交通制度の確立において卓越した手腕を発揮し、「天下の総代官」とまで称されたテクノクラートであった 22 。彼の登用は、旧武田家の優れた統治ノウハウを徳川のシステムに取り込むという、家康の戦略を象徴している。
  • 伊奈忠次: 関東代官頭として、家康の江戸入府以来、関東一円の民政やインフラ整備を一手に担ってきた人物。
  • 彦坂元正: 家康の側近として、財政・民政に通じた奉行。

この三名が連署することで、指令が民政、財政、そして技術的な裏付けを持つ、幕府の総力を挙げたプロジェクトであることを示していた。

義務の具体的内容

この指令によって東海道の各宿場に課せられた義務は、他の街道と比較して突出して重いものであった。公用の通行に備え、 人足100人、馬100疋 を常に用意しておくことが義務付けられたのである 4 。これは、後に整備される中山道が50人・50疋、甲州道中や日光道中、奥州道中が25人・25疋であったことと比べると、まさに破格の規模であった 7 。この数字の差は、徳川幕府が江戸と京・大坂を結ぶ東海道を、他のいかなる道をも凌駕する最重要幹線と位置づけていたことの何よりの証左であった。慶長六年正月、江戸から発せられたこの指令は、戦国の世の終わりと、公儀の道による新たな秩序の始まりを告げる号砲となったのである。

表2:慶長五年〜六年における東海道整備関連年表

年月

出来事

関連資料

意義

慶長5年(1600) 9月

関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利

16

徳川による全国支配の軍事的基盤が確立

慶長5年(1600) 後半

東海道整備計画の策定、奉行衆の人選

13

勝利を政治的支配に転換するための迅速な行動開始

慶長6年(1601) 1月

東海道の各宿に「伝馬朱印状」「御伝馬之定」を交付

17

宿駅伝馬制度の公式な発足

慶長6年(1601)

大久保長安らが中心となり、各宿の体制整備を指揮

22

制度の現場レベルでの実行段階へ移行

慶長6年(1601) 以降

中山道など他の五街道へも制度を順次拡大

8

江戸を中心とする全国交通網の形成が本格化

第三章:三島宿の選定 — 地政学的要衝と門前町の歴史的基盤

慶長六年の東海道宿駅制度確立において、数ある東海道筋の町の中から、なぜ三島が重要な宿駅として正式に指定されたのか。その理由は、単一の要因に帰せられるものではなく、この地が宿場として整備される以前から有していた、地政学的、歴史的、そして社会的な複数の特性が複合的に作用した結果であった。徳川幕府は、三島が持つ潜在能力を見抜き、それを自らの支配システムに戦略的に組み込んだのである。

地政学的要衝としての三島

三島の地理的位置は、東海道におけるその重要性を決定づける最大の要因であった。

第一に、 箱根八里の西の玄関口 という役割である。江戸から京へ向かう旅において、箱根の山々は最大の難所として知られていた。三島は、この険しい箱根峠を越えてきた東からの旅人にとっては、ようやくたどり着く最初の安息の地であり、心身を休める重要な拠点であった 24 。無事に峠を越えた安堵感から、多くの旅人が三島宿で「山祝い」と称して祝杯をあげ、散財したと伝えられている 26 。逆に、西から江戸を目指す旅人にとっては、これから始まる過酷な山越えに備える最後の拠点であり、三嶋大社に道中の安全を祈願する場所でもあった 26 。このように、箱根峠という物理的な障壁の存在が、三島の宿場としての価値を必然的に高めていた。

第二に、 交通の結節点 としての機能である。三島は、東西に貫く東海道という大動脈だけでなく、南北に延びる重要な街道が交差する地点でもあった。三嶋大社の鳥居前から南へは、伊豆半島を縦断して天城を越え、下田に至る下田街道が伸びていた。また、北へは甲斐国へと通じる佐野街道(甲州道)が分岐していた 24 。この「四辻の町」としての性格は、三島が単なる東海道の一通過点ではなく、伊豆や甲州方面からの人、物資、そして文化が交流する広域的なハブとしての潜在能力を秘めていることを意味していた。

歴史的・社会的基盤

三島が宿場として選定された背景には、古代から連綿と続く歴史的な蓄積があった。

その中核をなすのが、 三嶋大社の門前町 としての発展である。三嶋大社は古くから伊豆国一宮として崇敬を集め、源頼朝が源氏再興を祈願して成就したことでも知られる 27 。この大社の門前には、多くの参詣客を目当てにした商店や宿が自然発生的に形成され、町は常に賑わいを見せていた 24 。これは、幕府が宿場を指定するにあたり、すでに旅籠や商業施設といったインフラがある程度整っていたことを意味し、新たな宿場町をゼロから建設するよりもはるかに効率的であった。

さらに、三島は平安時代に 伊豆国の国府 が置かれた歴史を持ち、長らくこの地域の政治・経済の中心地としての役割を担ってきた 32 。これにより、地域における一定の格と、統治拠点としての経験値が蓄積されていた。加えて、富士山の雪解け水が溶岩流の隙間を通り、市中の至る所で湧き出すという、豊かな水資源にも恵まれていた 24 。この「水の都」としての特性は、多くの人々が生活し、往来する上で極めて有利な条件であった。

家康と三島の接点

注目すべきは、徳川家康が宿駅制度を確立する以前から、三島との間に直接的な接点を持っていたことである。慶長四年(1599年)、すなわち宿場指定のわずか2年前に、家康は三島を訪れ、後に有力な宿場役人となる世古氏が経営する本陣に宿泊した記録が残っている 27 。この滞在中に、後の側室となるお万の方(当時おきく)を見初めたという逸話は有名であるが、歴史的観点からより重要なのは、この訪問が家康に三島の地勢、町の規模、そして地域の有力者の存在を直接把握する機会を与えたという点である。この時の知見が、二年後の宿場選定において重要な判断材料となった可能性は極めて高い。

結局のところ、三島宿の指定は、徳川幕府の効率的な国家建設の手法を象徴する事例であったと言える。幕府は、全くの更地に新たな町を建設するという莫大なコストと時間を要する方法を避け、既に交通、経済、信仰の中心地として高度に機能していた三島という既存の都市インフラを最大限に活用した。幕府の役割は、この地に宿駅伝馬制という新たな「公儀」のシステムを導入し、その潜在能力を自らの全国支配体制へと戦略的に「接ぎ木」することにあった。家康の1599年の滞在は、まさにこの「接ぎ木」先を選定し、その状態を吟味するための、周到な事前調査であったと見なすことができるだろう。

第四章:三島宿の変貌 — 制度施行直後のリアルタイムな動態

慶長六年の指令は、三島の町に新たな公的使命を与え、その都市構造と社会機能を根底から変容させる契機となった。それまでの三嶋大社の門前町、あるいは交通の交差点という性格に加え、「公儀の道を維持する」という国家的な役割を担う「宿場町」へと、三島は急速に再編成されていった。その変貌の過程は、中核施設の設置と、地域社会の権力構造の再編という二つの側面から捉えることができる。

宿場の中核施設「問屋場」の設置

宿場町の心臓部として機能したのが「問屋場(といやば)」である。慶長六年の指令を受け、三島宿では現在の三島市役所中央町別館の場所に問屋場が設置された 35 。この施設は、宿場の二大業務を一手に統括する最重要機関であった。

第一の業務は、**人馬の継立(つぎたて)**である。幕府の役人や参勤交代の大名といった公用旅行者が宿場を通過する際、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶための人足と馬を差配する業務である 37 。前の宿場から到着した荷物を受け取り、新たな人馬に積み替えて次の宿場へと送り出す、物流の中継基地としての役割を担った。大名行列の通行などが重なると、問屋場は目の回るほどの多忙を極めたという 35

第二の業務は、 通信の中継 である。幕府の公用書状などを運ぶ飛脚(継飛脚)を次の宿場まで確実に送り継ぐ役割も担っており、問屋場は情報伝達網の重要な結節点でもあった 15

この重要な業務を円滑に遂行するため、問屋場には体系的な組織が置かれた。責任者である 問屋(といや)を筆頭に、その補佐役である年寄(としより) 、そして事務・会計を担当する 帳付(ちょうづけ) 、現場で人馬の手配を直接指揮する**馬差(うまさし) 人足指(にんそくさし)**といった役人が配置され、それぞれの職務を分担していた 36 。三島宿では当初、特定の家が問屋役を世襲していたが、後に業務の多忙化と宿場財政の悪化から、本陣を経営する世古氏や樋口氏といった有力者が交代で務める体制へと移行していった 36

宿泊施設の公的指定:本陣と脇本陣

公用旅行者のための宿泊施設も、制度に基づいて正式に指定・整備された。その筆頭が「本陣」である。本陣は、大名や公家、幕府の高級役人といった、身分の高い者だけが宿泊を許された公式の宿舎であった 40 。三島宿では、宿場成立以前から地域の有力者であった世古家と樋口家が、それぞれ**世古本陣(一の本陣)

樋口本陣(二の本陣)**として指定された 26 。これらの本陣経営者は、問屋役を兼務することも多く、名実ともに宿場の中心的な存在であった 36

本陣が満室の場合や、本陣に泊まるほどの身分ではないが一定の格式を持つ者が利用するために、「脇本陣」も設けられた。三島宿には3軒の脇本陣が存在した記録がある 32 。さらに、一般の武士や庶民が利用する「旅籠(はたご)」も多数存在し、後の天保十四年(1843年)の記録によれば、その数は74軒にも上り、三島宿が東海道有数の規模を誇る大宿であったことを物語っている 32

地域権力構造の再編

問屋場の設置と本陣の指定は、単なる施設の整備に留まらず、地域社会の権力構造を幕府の支配体制に都合の良い形へと再編する、巧みな政治的行為であった。幕府は、三島に古くから根を張り、地域社会に影響力を持つ世古氏や樋口氏といった土豪や有力商人を、問屋や本陣経営者という公的な「役職」に任命した。

これにより、彼らは自らの社会的地位を幕府によって公的に追認されるという利益を得る一方で、伝馬役の円滑な遂行という重い「責任」を負わされることになった。彼らは、幕府の権威を背景に宿場内で指導力を発揮する立場となったが、同時に、幕府の指令を忠実に実行する支配システムの末端組織としての役割を担うことにもなったのである。これは、幕府が江戸から遠く離れた地域の隅々にまで直接役人を派遣して統治するのではなく、既存の地域有力者を自らの支配ネットワークに組み込むことで、間接的ながらも強力に地域社会を統制するという、極めて効率的で洗練された地方支配の手法であった。慶長六年の「三島宿整備」は、物理的な町の変貌であると同時に、そこに住まう人々の社会的な関係性を、徳川の新たな秩序の下に再定義するプロセスでもあったのだ。

第五章:宿駅の重責 — 伝馬役と助郷制度がもたらした光と影

宿場町としての指定は、三島に多くの旅人や物資をもたらし、経済的な繁栄の礎を築いた一方で、その住民と周辺地域に対して、これまで経験したことのない重い公的負担を課すことになった。特に、東海道随一の難所である箱根越えという地理的条件は、三島宿が負うべき責務を本質的に過大なものとし、やがて宿場単独では支えきれないほどの重圧となっていく。宿駅制度がもたらした光と影、その「影」の部分は、伝馬役と、そこから派生した助郷制度に色濃く表れている。

伝馬役の過酷な実態

宿駅制度の中核をなす「伝馬役(てんまやく)」とは、公用の通行人や物資を、次の宿場まで無償、あるいは極めて低い公定賃金で輸送することを義務付けられた課役である 9 。この負担は、三島宿に居住する町人や百姓が、その所有する屋敷の間口に応じて割り当てられた 9 。彼らは、幕府の朱印状を持つ役人や大名が通行する際には、昼夜を問わず、定められた数の人足と馬を提供し、次の宿場まで荷物を継ぎ立てなければならなかった。これは、彼らの本来の生業の時間を奪い、生活を圧迫する極めて重い負担であった。

箱根越えという特殊要因

三島宿の負担を他の宿場と比較して著しく増大させたのが、箱根峠の存在である。三島宿から東の次の宿場は箱根宿であり、その間には険しい山道が約四里(約16km)にわたって続いていた。平坦地であれば一人で運べる荷物も、急峻な坂道では複数人の人足や、より多くの馬が必要となる。また、人馬の疲労も激しく、輸送に要する時間も格段に長くなる。

このため、三島宿が公用通行のために用意しなければならない人馬の延べ数は、他の平坦地の宿場とは比較にならないほど多くなる運命にあった。幕府が東海道の各宿に一律で課した「常備人馬100人・100疋」という規定は、箱根西麓に位置する三島宿にとっては、当初から現実の需要に対して著しく過小なものであったと言える。

助郷制度への道

特に、数百人から時には千人を超える規模となる参勤交代の大名行列や、幕府の重要な公務による大規模な通行が集中すると、宿場が常備する人馬だけでは到底対応不可能であった 42 。この慢性的な人馬不足を解消するために導入されたのが、「助郷(すけごう)」制度である。

助郷とは、宿場町だけでは負担しきれない伝馬役を補助するため、宿場周辺の村々が人馬を提供するよう命じられた制度である 41 。三島宿に関する記録では、元禄七年(1694年)に大規模な助郷の編成替えが行われたことが確認でき、その前年である元禄六年(1693年)の調査資料も残されていることから、17世紀後半には制度として確立していたことがわかる 44 。しかし、その制度的な萌芽は、宿場が成立した慶長六年当初の、需要と供給の構造的な不均衡の中にすでに内包されていたと考えるべきである。

この助郷役は、指定された村々の農民にとって、深刻な打撃となった。彼らは、田植えや稲刈りといった最も人手を必要とする農繁期であっても、宿場からの要請があれば、農作業を中断して人足として出役するか、あるいは農耕に不可欠な馬を提供しなければならなかった 42 。これは農村の生産力を直接的に奪うものであり、多くの村々を困窮させる原因となった。

このように、三島宿の整備は、結果として都市(宿場町)と農村の間に新たな収奪と依存の関係性を創出した。幕府による全国支配体制の維持という「公儀」の必要性は、まず宿場町に伝馬役という形で負担を課し、宿場町がそれを処理しきれなくなると、その負担を周辺農村に助郷役という形で転嫁するシステムを生み出した。江戸の幕府を頂点とし、宿場町を経由して周辺農村から労働力や生産手段(人馬)を吸い上げるという、この新たな社会階層的な収奪の連鎖は、近世日本の交通網がもたらした負の側面であり、江戸時代の社会経済構造を規定する重要な要素となったのである。

結論:戦国の終焉と新たな秩序の礎石として

慶長六年(1601年)に断行された「三島宿整備」は、単に東海道の一宿場が公式に成立したという一地方の出来事に留まるものではない。それは、百年に及ぶ戦国の動乱によって分権的かつ断絶していた日本社会を、徳川幕府による中央集権的な支配体制へと移行させるための、象徴的かつ実務的な一大事業であった。三島宿の事例は、この壮大な国家プロジェクトが、いかにして地域の歴史的・地理的文脈と結びつき、そこに生きる人々の生活を根底から変容させていったのかを如実に示す、絶好のケーススタディである。

本報告書で明らかにした通り、この事業の歴史的意義は、少なくとも三つの側面に集約することができる。

第一に、 支配の可視化 である。徳川家康は、関ヶ原の軍事的勝利を恒久的な政治支配へと転換させるため、江戸を起点とする「公儀の道」を全国に張り巡らせた。伝馬朱印状によって通行を管理し、宿場に公的義務を課すことで、人・モノ・情報の流れを幕府の掌握下に置いた。これは、徳川の権威が日本の隅々にまで及ぶことを物理的に示し、その支配権を可視化する極めて有効な手段であった。

第二に、 新たな社会経済システムの構築 である。宿駅伝馬制度は、後の参勤交代の制度を支え、全国規模での大名統制を可能にした。同時に、安定した交通路は、公用のみならず、次第に民間の経済活動や庶民の旅にも利用されるようになり、全国市場の形成と文化交流を促進した。三島宿が、交通の要衝として、また門前町として繁栄を続けたのは、この新たな社会経済システムの恩恵を享受した側面である。

第三に、 負担の再分配構造の確立 である。国家的なインフラを維持するためのコストは、宿場町民に課せられた伝馬役、そして周辺農民に課せられた助郷役という形で、社会の末端に転嫁された。特に箱根越えという地理的重圧を背負った三島宿とその助郷村の事例は、近世社会が、幕府を頂点とする階層的な負担の構造の上に成り立っていたことを明確に示している。この光と影の構造こそが、江戸時代という長期安定政権の実像であった。

結論として、「三島宿整備(1601)」は、戦国の終焉を告げるとともに、徳川による新たな秩序の礎石を据える画期的な事業であった。それは、道を制する者が国を制するという普遍的な原理を、近世日本においてシステムとして完成させたものであり、その後の日本の歴史の方向性を決定づける重要な一歩だったのである。

引用文献

  1. #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
  2. 江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い~神奈川県の歴史~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/569/
  3. 東海道五十七次(3) 江戸幕府が京街道を管理下においたのはなぜ? https://arukitabi.biz/blog/20241118a/
  4. 東海道「駿河2峠6宿風景街道」 - 国土交通省中部地方整備局 https://www.cbr.mlit.go.jp/road/chubu-fukei/route/18.html
  5. 東海道五十三次とは - 川崎市 https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/123-9-2-2-0-0-0-0-0-0.html
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  8. 道 の 歴 史 - 歴史街道などを歩く http://s-yoshida5.my.coocan.jp/download/list/mitinorekisi.pdf
  9. 伝馬役(テンマヤク)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E5%BD%B9-102802
  10. #43 https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/043odawarashushoryouyakuchou.pdf
  11. 日本の歴史が凝縮された「伊豆半島」の面白さ【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 https://serai.jp/tour/24525
  12. 歴史の小箱 | 三島市郷土資料館 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_kobako017353.html
  13. 大久保長安(オオクボナガヤス)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89-39137
  14. 大久保長安 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89
  15. 静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/1649/1/2-1.pdf
  16. 「東海道53次」の「次」には、どういう意味があるのですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0216.htm
  17. 横浜旧東海道の概要 https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/miryoku/torikumi/tokaido/about.html
  18. 1601年(慶長6年)頃~ | 平塚しってもらい隊 http://hiratsuka-tai.com/?p=3644
  19. 吉原宿伝馬朱印状 - 富士市立博物館 https://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/a6-1-1-4.html
  20. 伝馬朱印状とはどういうものですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0106.htm
  21. 伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)|収蔵資料|物流博物館 https://www.lmuse.or.jp/collection/gallery/edo/02.html
  22. 大久保石見守長安逆修墓 - 島根県大田市観光サイト https://www.ginzan-wm.jp/purpose_post/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E5%AE%88%E9%95%B7%E5%AE%89%E9%80%86%E4%BF%AE%E5%A2%93/
  23. 慶長時代古文書[けいちょうじだいこもんじょ] - 岐阜県公式ホームページ(文化伝承課) http://www.pref.gifu.lg.jp/page/6747.html
  24. 三島宿 - あいち歴史観光 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/mishima.html
  25. 三島の歴史を紹介します http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn049915.html
  26. 東海道と箱根八里 https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido
  27. 三島宿(東海道 - 箱根~三島) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/hakone_mishima/mishimashuku/
  28. 【企画展】「三島宿へようこそ」 - CUMAGUS https://cumagus.jp/articles/XUuZmChXfju92FWoPpHo1
  29. 三島市の歴史的風致形成の背景 https://www.nilim.go.jp/lab/ddg/rekimachidb/files/059.pdf
  30. No.11 三島宿 | Life&Tripふじえだ https://fujieda-life-trip.com/toukaidou-shukuba/mishima/
  31. Download 三島ぶらり散策 三島市ふるさとガイドの会が案内する内容に沿って作られたパンフレット https://www.mishima-kankou.com/v2/files/pamphlet/mishima-pamphlet_05.pdf
  32. 東海道五十三次の解説 12 三島 - 一般社団法人日本製品遺産協会 https://www.n-heritage.org/2025/02/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%BA%94%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%AC%A1%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%80%8012%E3%80%80%E4%B8%89%E5%B3%B6/
  33. 旧東海道歩き旅(13)三島宿~沼津宿(2024.3.29・30) - インテンポでいこう! https://masa-chan.com/2024/09/01/post-3789/
  34. 三 島 富士山の湧水が流れる 東海道の宿場町 三島のまちあるき http://www2.koutaro.name/machi/mishima.htm
  35. 旧東海道 三島宿の散策 - 静岡県 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10979392
  36. (第311号)三島宿 問屋場と問屋 (平成26年4月1日号) - 歴史の小箱 | 三島市郷土資料館 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_kobako017358.html
  37. www.city.mishima.shizuoka.jp https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/densyoku/shiseki/shiseki_2.html#:~:text=%E5%95%8F%E5%B1%8B%E5%A0%B4%E3%81%AF%E5%85%AC%E7%94%A8%E4%BA%BA%E9%A6%AC,%E3%81%8C%E4%BB%BB%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  38. 「問屋場」(といやば)とはどういう施設ですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0212.htm
  39. 東海道と宿場の施設【問屋場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/06index.htm
  40. 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
  41. (第377号)箱根八里の難所と三島宿の伝馬役(令和元年10月1日号) https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn042368.html
  42. 【助郷の苦しみ】 - ADEAC https://adeac.jp/toyohashi-city/text-list/d100010/ht050090
  43. 歴史を訪ねて 街道筋の助郷制度 - 目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/sukego.html
  44. (第299号)宿場の仕事を課せられた助郷の村々 (平成25年4月1日号 ... https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn017346.html