最終更新日 2025-09-29

三木城廃城(1600)

三木城は1600年に廃城ではなく、池田輝政により姫路藩の重要支城として再編。真の廃城は1615年の一国一城令による。軍事拠点としての役割を終え、三木金物産業の発展へと転換した。
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三木城の運命:1600年、それは「廃城」ではなく「再編」だった

序論:問いの再定義 — 1600年、三木城で何が起こったのか

慶長5年(1600年)、日本の歴史を二分した関ヶ原の戦いは、多くの城の運命をも決定づけた。この天下分け目の戦いを経て、播磨国三木城が廃城になったという認識は、時代の大きな転換点における「支城整理」や「一円支配の再編」という文脈を的確に捉えている。しかし、史実を深く掘り下げると、この認識には重要な修正が必要となる。1600年という年は、三木城にとって「終わり」を意味する年ではなかった。むしろ、新たな支配体制下で戦略的価値を再評価され、重要な役割を担う「始まり」の年だったのである。

複数の記録を精査すると、関ヶ原の戦いの後、播磨一国の新たな領主となった池田輝政は、三木城を廃するどころか、自身の筆頭家老である伊木忠次を城主として配置し、姫路藩の東方を固める最重要支城として再編したことが明らかになる 1 。三木城がその歴史的役割を完全に終え、物理的に解体されるのは、徳川の天下が盤石となった後の元和元年(1615年)、江戸幕府による「一国一城令」の発令を待たなければならない 3

この事実の転換は、我々に新たな問いを投げかける。「1600年に三木城はなぜ廃城にならなかったのか?」「そして、なぜその15年後には廃城となったのか?」この二つの問いを解明することこそ、戦国乱世から近世の泰平へと移行する時代のダイナミズムを、三木城という一つの城郭の運命を通して理解する鍵となる。

関ヶ原の戦いは、多くの西軍大名の改易・減封をもたらし、その居城が機能を停止したため、「天下分け目 = 城の運命の分水嶺」というイメージが定着している 5 。三木城の事例は、この一般的なイメージとは対照的である。それは、旧支配者の滅びと共に城が消えるのではなく、新支配者の新たな領国経営構想の中で、その戦略的価値を「再評価」され、むしろ強化された稀有な事例と言える。この事変は、敗者にとっては「城の喪失」であった整理が、勝者である徳川方、特に新領主・池田輝政にとっては、領国を安定させるための「戦略的資産の再配置」であったことを明確に示している。

本報告書では、この視点に基づき、まず三木城の歴史的価値を決定づけた「三木の干殺し」を概観し、豊臣政権下での役割の変遷を追う。次に関ヶ原の戦いが播磨にもたらした激変を分析し、1600年に行われた池田輝政による「再編」の実態を明らかにする。そして最後に、1615年の真の終焉とその後の三木の変貌を描き出すことで、「三木城廃城(1600)」という事象の真相に迫る。

第一章:前史 — 「三木の干殺し」が残した刻印(- 1580年)

1600年時点での三木城の価値を理解するためには、その20年前に播磨の地を震撼させた「三木合戦」とその悲劇的結末である「三木の干殺し」に遡る必要がある。この戦いは、城そのものと播磨地域に、後世まで消えない深い刻印を残した。

三木城の地理的・戦略的重要性

三木城は、美嚢川左岸に広がる三木台地の北端に位置し、三方を切り立った崖に、南側を山や谷に囲まれた天然の要害であった 7 。15世紀末頃に別所則治によって築かれたとされ 7 、戦国時代には東播磨八郡を支配する最大勢力、別所氏の拠点として栄えた 6 。京都と西国を結ぶ交通の要衝にあり、播磨を制する上で極めて重要な戦略拠点であった。

三木合戦の勃発と「三木の干殺し」

当初、織田信長に従属していた三木城主・別所長治は、天正5年(1577年)に突如として離反し、中国地方の雄・毛利氏に与した 9 。叔父である別所吉親や周辺国人の説得が影響したとされるこの反旗は、信長の中国方面軍司令官であった羽柴(後の豊臣)秀吉の背後を脅かすものであり、織田政権にとって看過できない事態であった。信長は直ちに秀吉に別所氏討伐を命じ、長治は一族郎党と共に三木城に籠城、毛利の援軍を待つことになった 9 。こうして、天正6年(1578年)3月、壮絶な籠城戦の幕が切って落とされた。

秀吉は、難攻不落の三木城を力攻めでは落とせないと判断し、日本の戦史上でも特に苛烈な兵糧攻め、「三木の干殺し」を決行する。その戦術は徹底していた。秀吉は三木城を完全に包囲するため、平井山に本陣を構えると、城の周囲に南北約5キロメートル、東西約6キロメートルに及ぶ壮大な包囲網を構築した 3 。宮ノ上、鷹尾山、八幡山など、城を見下ろす要所に付城(つけじろ)と呼ばれる砦を次々と築き、その数は40以上に達した 3 。さらに付城間を土塁や柵で連結し、食料の搬入経路を完全に遮断したのである 11

瀬戸内海の制海権を握る毛利氏からの兵糧補給が唯一の望みであったが、秀吉はこの海上ルートも断ち切る。籠城する兵士やその家族、さらには別所氏に同調した国人や門徒衆など、城内には約7,500人が集まっていた 12 。時が経つにつれ、城内の食料は底をつき、人々は牛馬や犬猫、果ては草木の根や壁土まで口にするという地獄絵図と化した。数千人が餓死し、城内は飢えと絶望に満ち溢れた 11

秀吉は三木城を包囲し続ける一方で、神吉城や志方城といった周辺の支城を次々と攻略し、三木城の孤立を深めていった 9 。1年10ヶ月にも及ぶ長期の籠城戦の末、天正8年(1580年)1月、救援の望みは完全に絶たれた。

落城と別所氏の滅亡

最終的に秀吉は、「城主一族の切腹と引き換えに、城兵の命を助ける」という降伏勧告を提示した 10 。城兵の惨状に心を痛めていた別所長治は、この条件を受け入れることを決断。同年1月17日、長治は妻子を手にかけ、弟の友之ら一族と共に自刃して果てた。享年23歳であった 1 。長治が辞世の句として詠んだ「今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身と思へば」は、彼の苦渋の決断を今に伝えている 14

この凄惨な戦いは、秀吉の軍事的評価を不動のものにすると同時に、三木城を単なる地理的拠点から、播磨支配の「象徴」へと変貌させた。播磨の名族・別所氏を滅ぼしたこの地を確実に押さえることは、後の為政者にとって、他の国人衆への示威となり、新たな支配体制への抵抗を未然に防ぐ心理的効果を持つことになったのである。また、秀吉は戦後、疲弊した城下町の復興のため、年貢や労役を永久に免除する「地子免許」を与えた 13 。この政策は、後の三木の町の発展の礎となった。

第二章:豊臣政権下の三木城 — 中央集権化の波と城主の変遷(1580年 - 1600年)

別所氏の滅亡後、関ヶ原の戦いに至るまでの20年間、三木城は豊臣政権による播磨支配の拠点として、その役割を変化させていった。城主の変遷は、秀吉の天下統一事業が進む中で、地方支配のあり方が属将による分割統治から、中央集権的な直接支配へと移行していく過程を如実に物語っている。

支配安定化のための拠点として

三木合戦終結直後、秀吉は播磨の支配を安定させるため、信頼する子飼いの家臣を三木城に配置した。まず城主(または城代)となったのは杉原家次であり、その後、前野長康が続いた 2 。これは、播磨平定後の混乱を収拾し、織田政権の支配をこの地に浸透させるための直接的な措置であった。

天正13年(1585年)には、中川秀政が12万石で入城する 3 。秀政の時代には、城に天守が上げられた可能性も指摘されており 1 、三木城が単なる監視拠点ではなく、城郭として維持・強化されていたことがうかがえる。この時期、三木城は東播磨における豊臣政権の軍事・行政の中心として機能していた。

豊臣氏蔵入地(直轄領)化とその意味

しかし、文禄3年(1594年)、三木城の立場は大きく変わる。特定の城主を置かず、豊臣氏の直轄領、すなわち「蔵入地」となったのである 3 。これは、三木城の価値が低下したことを意味するものではなかった。むしろ、その経済的・戦略的価値が、政権にとって最重要レベルに引き上げられたことを示していた。

秀吉の権力が盤石になるにつれ、彼は畿内やその周辺の重要拠点を譜代大名に委ねるのではなく、直接支配下に置くことで中央集権体制を強化しようとした 15 。蔵入地は豊臣政権の経済基盤そのものであり、最も信頼できる代官によって管理される最重要拠点であった 16 。秀吉の直轄領は畿内から播磨にかけての地域に集中しており 15 、三木城がその一部に組み込まれたことは、この地が豊臣政権の心臓部に近い重要地域と認識されていた証左である。

したがって、関ヶ原の戦いの直前、三木城は特定の武将の私有財産ではなく、豊臣家の公的な戦略資産として、極めて高い価値を維持していた。この「価値の高さ」こそが、関ヶ原の勝者である徳川家康と池田輝政が、戦後この城を放置せず、即座に自らの支配体制に組み込む判断を下した直接的な背景となったのである。


表1:豊臣政権下における三木城主の変遷(1580年-1594年)

年代(和暦)

城主(城代)

当時の主な出来事

豊臣政権の意図(考察)

1580年(天正8年)

杉原家次、前野長康

三木合戦終結。秀吉による播磨平定が進む。

秀吉子飼いの武将を配置し、平定直後の播磨支配を安定化させる。

1585年(天正13年)

中川秀政

秀吉が関白に就任。四国征伐が行われる。

有力な譜代大名を配置し、東播磨の軍事・行政拠点としての機能を強化する。

1592年(文禄元年)

中川秀成

文禄の役(朝鮮出兵)が始まる。

秀政の死後、弟の秀成が家督を継ぎ、引き続き城主を務める。

1594年(文禄3年)

(蔵入地化)

秀吉による太閤検地が全国で推進される。

播磨の戦略的・経済的重要性を鑑み、中央政権による直接支配に切り替え、集権体制を強化する。


出典: 2 に基づき作成

第三章:天下分け目の関ヶ原と播磨の動乱(1600年)

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原で繰り広げられた戦いは、わずか一日で徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、日本の政治情勢を一変させた 17 。この天下分け目の戦いは、遠く離れた播磨国の勢力図にも決定的な影響を及ぼし、三木城の運命を新たな段階へと導くことになる。

播磨諸将の分裂と権力の空白

豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康と五奉行筆頭の石田三成の対立が先鋭化すると、全国の諸大名は東軍と西軍のいずれにつくか、苦渋の選択を迫られた。播磨の諸将も例外ではなかった。

西軍には、播磨守護の名門・赤松氏の末裔である赤松則英(置塩城主)、三木合戦で滅んだ別所長治の親族である別所吉治(丹波園部城主)、そして加須屋真雄(加古川城主)らが加わった 6 。彼らの多くは、豊臣政権下で所領を安堵された者たちであり、豊臣家への忠義や三成との関係から西軍に与したと考えられる。

一方、東軍には、三木城の近隣を領していた有馬則頼や、そして家康の次女・督姫を娶り、徳川家と姻戚関係にあった池田輝政らが馳せ参じた 17

関ヶ原での西軍の敗北は、彼らに与した播磨諸将の運命を暗転させた。赤松則英は戦後、徳川方に居城を攻められ、京で自害 6 。その他の西軍方諸将も改易(領地没収)または減封という厳しい処分を受けた 5 。これにより、播磨国内には広大な「無主地」が生まれ、巨大な権力の空白が生じた。この状況は、家康にとって、播磨の支配体制を根底から再構築するための絶好の機会となった。戦国時代から続く複雑な利害関係を持つ在地勢力を一掃し、更地となった播磨に、自らの意のままになる新たな支配体制を築くことが可能になったのである。

池田輝政の入封と「西国将軍」の誕生

戦後の論功行賞において、家康は最も信頼する武将の一人であり、娘婿でもある池田輝政をこの播磨に送り込む。輝政は、関ヶ原の前哨戦である岐阜城攻めで武功を挙げており、その功績と家康との血縁関係が評価され、播磨一国52万石という破格の所領を与えられ、姫路城に入封した 17

家康が輝政を播磨に配置したのには、単なる恩賞以上の深謀遠慮があった。播磨は、西国の玄関口にあたる戦略的要衝である。関ヶ原で敗れたとはいえ、西国には毛利氏や島津氏といった、依然として強大な力を持つ外様大名が多数存在していた。彼らに対する抑えとして、また西日本全体の監視役として、家康は輝政に絶大な期待を寄せたのである。輝政はその期待に応え、後に「西国将軍」と称されるほどの権威と実力を誇示することになる 20

この大規模な権力構造のリセットがあったからこそ、輝政は自らの理想とする「一円支配」を播磨で迅速に実現することができた。そして、その壮大な構想の中で、かつて豊臣家の直轄地であった三木城は、新たな役割を与えられることになったのである。

第四章:1600年の再編 — 姫路藩体制下における支城としての新生

関ヶ原の戦いを経て播磨52万石の領主となった池田輝政にとって、広大な領国をいかに効率的に、そして確実に統治するかは喫緊の課題であった。彼が打ち出した答えは、本城である姫路城を中核とし、領内の要衝に支城を配置して有機的なネットワークを形成する、近世的な「面の支配」であった。この壮大な構想の中で、1600年の三木城は「廃城」ではなく、姫路藩の東方を固める戦略拠点として「新生」を遂げたのである。

池田輝政の播磨一円支配構想と支城網

輝政は入封後、ただちに領国経営の青写真を描き、実行に移した。その中核をなすのが、支城網の構築である。彼は、三木、明石、赤穂、龍野といった領内の戦略的要衝に支城を置き、信頼できる家臣を配置することで、播磨の外周を固める防衛・統治システムを形成した 22 。これは、領内に残存する可能性のある反乱分子や、領外からの侵攻に備えるための極めて合理的な政策であった。

この支城網において、三木城は東播磨を統括し、京都・大坂方面からの玄関口を押さえる最重要拠点の一つとして位置づけられた。かつて別所氏が東播磨に覇を唱えた拠点であり、豊臣政権が直轄地としてその価値を認めたこの城を、輝政が見過ごすはずはなかった。

筆頭家老・伊木忠次の入城が示す重要性

三木城が輝政の構想の中でいかに重視されていたかは、そこに配置された人物を見れば一目瞭然である。輝政は、池田家の筆頭家老である伊木忠次に3万石(一説には3万7千石)という、大名に匹敵する破格の知行を与え、三木城主とした 1

伊木忠次は、輝政の父・池田恒興の代から仕える宿老であり、輝政が最も信頼を置く重臣であった 8 。藩のナンバーツーとも言える人物を配置したという事実は、三木城が単なる砦や監視所ではなく、姫路藩の東方を守る副次的拠点として、極めて高い政治的・軍事的価値を与えられていたことを雄弁に物語っている。戦国時代的な「点の支配」、すなわち個々の城が独立して防衛する体制から、藩主を頂点とするピラミッド型の支配構造が城の配置にも反映された、近世的な「面の支配」への移行がここに見られる。

姫路城大改築との連動

輝政の播磨経営にかける情熱は、慶長6年(1601年)から始まる姫路城の大規模な改修事業にも表れている。彼は8年の歳月と莫大な費用を投じて、白鷺城と称えられる壮麗な天守閣群を完成させた 19 。この巨大プロジェクトと並行して支城網の整備を進めたことは、彼の周到な計画性と、播磨を徳川の西国支配の拠点として盤石なものにしようとする強い意志を示している。三木城の再編は、この壮大な姫路藩体制構築の一翼を担う、不可欠な要素だったのである。


表2:三木城の役割の変化(関ヶ原以前 vs. 以後)

項目

関ヶ原以前(豊臣政権下)

関ヶ原以後(姫路藩体制下)

支配者

豊臣氏

姫路藩主 池田輝政

位置づけ

中央政権の直轄拠点(蔵入地)

巨大藩(姫路藩)の戦略的支城

主な機能

播磨全体の監視、経済的収益の確保

東播磨の統治、対畿内方面の防衛

城主/管理者

豊臣氏の代官

姫路藩筆頭家老 伊木忠次


出典: 2 などに基づき作成

第五章:真の終焉 — 一国一城令と城郭の解体(1615年以降)

1600年には姫路藩の重要拠点として存続した三木城が、その歴史に幕を下ろすのは、それから15年後の元和元年(1615年)のことである。その決定打となったのは、池田家の都合や三木城の価値の低下ではなく、徳川幕府が全国規模で断行した「一国一城令」という、時代の転換を告げる政策であった。

大坂の陣と「元和偃武」

慶長20年(元和元年、1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康に敵対しうる全国規模の勢力は完全に一掃された。これにより、約150年にわたって続いた戦国の世は名実ともに終焉を迎え、「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれる泰平の時代が訪れた。徳川幕府の支配体制は、ここに盤石なものとなったのである。

この新たな時代の到来は、城郭のあり方そのものを根本から変えることになった。戦国時代において城は、大名の軍事力の象徴であり、独立性を担保する拠点であった。しかし、平和な時代においては、その存在自体が幕府に対する潜在的な反乱の拠点となりうる、リスク要因と見なされるようになった。

一国一城令の目的と影響

大坂夏の陣終結直後の同年6月、江戸幕府は二代将軍・徳川秀忠の名で、諸大名に対し「居城以外のすべての城を破却すべし」とする一国一城令を発布した 3 。表向きは、城の維持管理にかかる大名の財政的負担を軽減するためとされたが、その真の狙いは、大名の軍事力を削ぎ、反乱の芽を物理的に摘み取ることにあるのは明らかであった。これは、戦国の世を終わらせ、徳川による恒久的な支配体制を確立するための、徹底した武装解除政策の一環であった。

この法令に基づき、全国各地で数百もの城が破却された。姫路藩も例外ではなく、その支城であった三木城も破却の対象となった 25 。城主であった伊木忠次の子・忠繁の代に、三木城はその長い歴史に幕を下ろし、軍事拠点としての役割を完全に終えたのである 1

三木城の存廃は、常に天下の情勢、特に「西国に対する警戒レベル」と密接に連動していた。1600年時点では、関ヶ原で勝利したとはいえ西国には依然として警戒すべき外様大名が多く存在し、徳川の支配は盤石ではなかった。そのため、対西国の最前線として三木城は存続・強化された。しかし15年後の1615年、大坂の陣を経て幕府の権威が絶対的なものとなると、もはや支城は「対外的な防衛拠点」としての価値よりも、「内なる反乱拠点」としてのリスクの方が大きいと判断された。三木城の廃城は、徳川幕府が自らの支配体制のフェーズを「武力による制圧」から「法と秩序による統治」へと移行させたことを示す、全国規模の政策転換の象徴的な出来事であった。

廃城後、三木城の部材の一部は、元和5年(1619年)から築城が始まった明石城の資材として転用されたと伝えられている 3 。一つの時代の終わりを告げた城が解体され、新たな時代の城を築く礎となる。これは、戦国の記憶が近世の秩序の中へと吸収されていく過程を象徴しているかのようである。

第六章:城跡が語るもの — 在郷町への変貌と「金物の町」の黎明

元和元年(1615年)の一国一城令により、三木城は軍事拠点としての物理的な姿を消した。しかし、城の「死」は、三木の町の「新たな生」の始まりでもあった。政治・軍事の中心が消滅したことは、皮肉にもこの地に新たなアイデンティティを育む契機となり、現代にまで続く「金物の町」としての歴史が本格的に幕を開けることになる。

在郷町への転換と「三木金物」の発展

廃城に伴い、城主であった伊木氏とその家臣団は三木を去った。最大の庇護者であり消費者であった武士階級を失った城下町は、短期的には大きな経済的打撃を受けたであろう。しかし、これにより町の経済は自立を迫られ、商業を中心とする在郷町へと姿を変えていった 26

幸いなことに、三木には来るべき時代を生き抜くための「資産」が蓄積されていた。それは、鍛冶の技術である。三木における鍛冶の起源は古いが、その発展の直接的な契機は、皮肉にも町を灰燼に帰した三木合戦後の復興期にあった。羽柴秀吉は荒廃した町の復興のため、各地から優れた大工職人と、彼らが使う道具を造る鍛冶職人を集めた 29 。この時に集積された技術が、三木の産業基盤となったのである。

江戸時代に入り、世の中が安定すると、戦乱に代わって全国的な建築需要が高まった。城の廃城によって軍需を失った三木の鍛冶職人たちは、この民需に応える形でその技術を特化させていく。鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)といった高品質な大工道具の生産が本格化し、その販路を大坂や江戸へと拡大していった 30 。記録によれば、18世紀半ばには鋸鍛冶の存在が確認され、19世紀初頭には鑿や鉋の生産も行われるなど、製品ごとの分業体制が確立されていった 31 。城という政治権力の象徴が消えた土地で、職人たちの技術が新たな町の誇りとなったのである。

城跡の現在

かつて別所氏が栄華を誇り、秀吉が苦戦し、池田氏が藩屏の守りとした三木城の跡地は、時代の流れと共にその姿を変えた。本丸跡は「上の丸公園」として整備され、別所長治の像や辞世の句碑が建てられ、市民の憩いの場となっている 8 。園内には、籠城戦の際に使われたとされる「かんかん井戸」が唯一の遺構として残り、往時の記憶を今に伝えている 33

二の丸跡には「みき歴史資料館」が建てられ、三木の歴史と金物産業に関する資料を展示している 34 。宅地化の進行により、新城曲輪など多くの遺構は失われたが 26 、本丸、二の丸、鷹尾山城の一部、そして秀吉が築いた付城群の跡は、三木合戦の壮絶さを物語る貴重な史跡として国の史跡に指定されている 3

軍事拠点の喪失が、結果として400年以上続く地場産業の礎を築き、産業都市としての再生に繋がった。三木の歴史は、城の消滅という政治的決定が、地域の経済構造を軍事依存から産業依存へと転換させる引き金となりえたことを示す、歴史の逆説的なダイナミズムを内包しているのである。

結論:三木城の運命に見る、時代の転換

「三木城廃城(1600年)」という事象を深く掘り下げた結果、それは単純な「廃城」ではなく、戦国乱世から近世へと移行する日本の社会構造の変化を象徴する、多層的な歴史の転換点であったことが明らかになった。

慶長5年(1600年)の出来事は、城の価値の喪失を意味する「廃城」では断じてなかった。それは、関ヶ原の戦いに勝利し、徳川の新たな天下を見据えた新領主・池田輝政による、播磨一国を効率的に統治するための戦略的な「再編」であった。筆頭家老・伊木忠次の入城は、三木城が姫路藩の東方を固める最重要支城として、むしろその価値を高められたことを示している。

三木城が真の終焉を迎えるのは、その15年後、元和元年(1615年)の大坂の陣終結後である。徳川幕府が発令した「一国一城令」は、もはや内乱の火種となりうる支城の存在を許さないという、泰平の世の到来を告げるものであった。この全国規模の政策転換の中で、三木城はその軍事的役割を終え、解体されたのである。

三木城の運命は、日本の歴史における時代の変遷そのものを映す鏡であったと言える。

  • 戦国期 には、地域の独立領主(別所氏)の権力と独立の象徴であった。
  • 織豊期 には、天下統一プロセスにおける中央集権化の拠点として、豊臣政権の直接支配下に置かれた。
  • 江戸初期 には、徳川の支配を西国に及ぼすための巨大藩(姫路藩)の戦略的支城として再編された。
  • 元和偃武後 には、恒久的な平和の到来と共に軍事拠点としての存在意義を失い、歴史の舞台から姿を消した。

そして、城という軍事・政治の中心が消滅した廃墟の上に、三木の人々は「金物の町」という新たな産業のアイデンティティを築き上げた。破壊と再生の物語は、時代に適応し、新たな価値を創造してきた日本の地域社会の強靭さを示す好例である。三木城の歴史は、一つの城郭の盛衰を通して、戦国の終焉と近世の黎明という、日本の歴史における最もダイナミックな時代の転換を見事に描き出しているのである。

引用文献

  1. 三木城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.miki.htm
  2. 三木城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%9F%8E
  3. 三木城の歴史 | 三木城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/203/memo/4321.html
  4. 三木城 [1/2] 秀吉の”干殺し”で落ちた別所氏の城 https://akiou.wordpress.com/2014/04/25/mikijo/
  5. 親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06917/
  6. 播磨戦国史-大名 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/harim_02.html
  7. 三木城跡 - 三木市ホームページ https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/13387.html
  8. 国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁 ウォーキングマップ - 三木市 https://www.city.miki.lg.jp/uploaded/attachment/46299.pdf
  9. 三木城の戦い(1/2)「三木の干殺し」と呼ばれた籠城戦 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/746/
  10. 国指定史跡 三木城跡及び付城跡・土塁 - 三木市ホームページ https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/26531.html
  11. 三木合戦古戦場:兵庫県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikijo/
  12. 秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/70936/
  13. 別所長治公〜三木城跡を訪ねて 三木の干殺し - よもぎありすのソロ活 https://tabiryokouchang.hatenablog.com/entry/2021/02/24/115413
  14. 三木城 | 観光スポット | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/spot/result/419?c-6=6
  15. 【豊臣氏の領国体制】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200970
  16. 豊臣体制論ノート - 歴史~とはずがたり~ - Seesaa https://sans-culotte.seesaa.net/article/18350990.html
  17. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
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  19. 池田家ゆかりの地 - 姫路・岡山・鳥取城下町物語推進協議会 https://www.city.tottori.lg.jp/hottriangle/ikedake.html
  20. 姫路城城主:池田家(1600-1617) 池田輝政の姫路 池田輝政(1565-1613)は義理の父、徳川家康(1543-16 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553716.pdf
  21. 天下の名城 姫路城を築いた男~西国将軍 池田輝政~ | 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/catv/2021/7804/
  22. 姫路城|池田家52万石の居城、近世城郭の頂点 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_117/feature02.html
  23. 伊木忠次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9C%A8%E5%BF%A0%E6%AC%A1
  24. 池田輝政の武将・歴史人年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/79688/
  25. 三木城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1955
  26. 三木城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/miki/miki.html
  27. 第4章 史跡明石城跡の価値と構成要素 - 兵庫県 https://web.pref.hyogo.lg.jp/ks24/documents/02_sankou3_4-12_aks01.pdf
  28. 日本100名城 - 明石城 https://heiwa-ga-ichiban.jp/oshiro/akashi/index.html
  29. 三木金物 - ひょうごを学ぶ!|ひょうごフィールドパビリオン https://expo2025-hyogo-fieldpavilion.jp/story/h_roots/14
  30. 三木金物歴史年表解説 - 山本鉋製作所 https://yamamotokanna.sakura.ne.jp/kanamononenpyoukaisetu.html
  31. 播州三木の鍛冶用具と製品(国登録文化財) https://www.city.miki.lg.jp/site/mikirekishishiryokan/12220.html
  32. 日本で最も古い鍛冶の町で作られる「三木金物」とは?Creemaクリエイターとのコラボレーション実施! https://www.creema.jp/blog/1727/detail
  33. 【三木城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_28215af2170019641/
  34. 三木城跡(上の丸公園):近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/5796
  35. 三木城の見所と写真・600人城主の評価(兵庫県三木市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/203/
  36. 三木城跡 - Guidoor https://www.guidoor.jp/places/8300