最終更新日 2025-09-14

上杉景勝会津転封(1598)

秀吉は家康牽制のため上杉景勝を会津120万石へ転封。景勝は軍備増強し、直江状で家康を挑発。これが会津征伐を招き、関ヶ原の戦いの引き金となる。上杉家は減封されるも存続した。
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慶長三年 上杉景勝会津転封の真相 ― 関ヶ原への序曲、巨大国替えの全貌

序章:天下分け目の前夜 ― 慶長三年、豊臣政権の黄昏

慶長3年(1598年)、日本の歴史が大きく動こうとしていた。天下を統一した太閤・豊臣秀吉の生命の灯火が、明らかに衰えを見せ始めていたのである。この年の3月15日、秀吉は京都の醍醐寺で盛大な花見の宴を催した。北政所や淀殿をはじめ、諸大名の妻女ら1300人もの人々を招いたこの催しは、豊臣政権の栄華の頂点を示すものであったが、同時にそれは、迫りくる黄昏を振り払うかのような、最後の輝きでもあった 1 。この頃から秀吉の体調は急速に悪化し、死期を悟った彼は、幼い嫡子・秀頼の将来を深く憂慮し始めていた。

秀吉は、自らの死後の権力構造を安定させるため、有力大名による集団指導体制の構築を急いだ。これが「五大老・五奉行」制度である。徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、そして上杉景勝という、いずれも百万石級の大名を「五大老」に任じ、重要政務を合議させた 2 。その下で、石田三成ら実務官僚である「五奉行」が日常の政務を執行するという二元的な統治体制であった 4

しかし、この体制は、有力大名の合議制という体裁をとりつつも、その実態は極めて脆弱な均衡の上に成り立っていた。なぜなら、その権限や序列を定めた法的な裏付けはなく、秀吉個人の絶大な権威と、関東255万石を領する筆頭大老・徳川家康と、秀頼の後見人として大坂城にあって豊臣家を支える前田利家という、二人の巨頭の相互牽制によって、かろうじて維持されているに過ぎなかったからである 2 。秀吉は繰り返し諸大名に秀頼への忠誠を誓わせたが、その誓紙が絶対的な拘束力を持たないことを、誰よりも秀吉自身が理解していたであろう 1

この危うい権力構造の中で、徳川家康の存在感は日増しに高まっていた。内大臣という高い官位を持ち、五大老の中でも群を抜く石高を誇る家康は、秀吉の健康不安が広まるにつれ、水面下で着々と影響力を拡大していた。秀吉の死は、この脆弱な均衡の崩壊を意味し、権力の真空状態が生まれることを予測した諸大名は、固唾をのんで天下の情勢を見守っていた。慶長3年という年は、まさに嵐の前の静けさ、天下分け目の戦いへと至る序曲が静かに奏でられ始めた年だったのである。そして、この年の初頭に下された一つの巨大な人事異動こそが、その序曲の最初の、そして最も重要な一音となった。

主要人物相関図

この時代の複雑な人間関係を理解するため、主要人物の関係性を以下に示す。

  • 豊臣家:
  • 豊臣秀吉: 天下人。死期が迫り、後継者・秀頼の将来を案じる。
  • 豊臣秀頼: 秀吉の嫡子。幼少のため、政務を執ることはできない。
  • 五大老(秀頼後見人):
  • 徳川家康: 筆頭大老。関東255万石。秀吉死後の天下を窺う最大の実力者。
  • 前田利家: 加賀100万石。秀頼の傅役(後見人)として大坂城に入る。家康を牽制する重鎮。
  • 上杉景勝: 本報告書の中心人物。越後から会津120万石へ転封。豊臣家への忠誠心が厚い。
  • 毛利輝元: 安芸120万石。西国最大の有力大名。
  • 宇喜多秀家: 備前57万石。秀吉の猶子であり、豊臣家への忠誠心が強い。
  • 五奉行(実務担当):
  • 石田三成: 豊臣政権の中枢を担う奉行。家康の台頭を強く警戒し、上杉景勝と連携を深める。
  • その他主要大名:
  • 伊達政宗: 奥羽の有力大名。豊臣政権に服従しつつも、天下への野心を隠さない。
  • 蒲生秀行: 会津92万石の領主であったが、家中騒動により宇都宮へ減転封される。家康の娘婿。
  • 堀秀治: 上杉景勝の転封後、越後の新領主となる。

第一章:会津の空白 ― 蒲生騒動と九十二万石の行方

上杉景勝の会津転封という巨大な人事異動を理解するためには、まず、その直前に会津で何が起こっていたのかを知る必要がある。そこには、一人の名将の早すぎる死と、それに続く統治体制の崩壊という、戦国大名家が直面した典型的な事業継承の失敗があった。

名将・蒲生氏郷の遺産と影

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、伊達政宗に代わって会津の地を治めることになったのが、名将・蒲生氏郷であった 6 。氏郷は織田信長に見出された才気溢れる武将であり、茶の湯においては千利休の高弟「利休七哲」の筆頭に挙げられるほどの文化人でもあった 8

会津に入部した氏郷は、その卓越した経営手腕を遺憾なく発揮する。彼は、それまでの城下町「黒川」の名を、自らの故郷である近江日野の若松の森にちなんで「若松」と改称。城郭を近代的に大改修し、七層の壮麗な天守閣を築き上げ、自身の幼名「鶴千代」にちなんで「鶴ヶ城」と名付けた 9 。さらに、故郷の近江から多くの商人や職人を呼び寄せ、楽市楽座を導入して商業を活性化させ、会津塗や酒造といった地場産業の礎を築いた 6 。その結果、蒲生氏の石高は加増を重ねて92万石に達し、徳川家康、毛利輝元に次ぐ全国第三位の大大名へと成長した 6

蒲生騒動の勃発:統御不能の家臣団

しかし、文禄4年(1595年)、氏郷は病に倒れ、40歳という若さで急逝する 7 。この突然の死が、巨大な蒲生家に潜んでいた構造的脆弱性を露呈させた。氏郷の家臣団は、彼個人の類稀なるカリスマ性と統率力によってまとめ上げられた、多様な出自を持つ人材の寄せ集めであった 13 。この種の組織は、創業者という求心力を失った途端、内部崩壊の危機に瀕する。

家督を継いだのは、わずか13歳の嫡男・秀行であった 7 。若き当主では、歴戦の猛者である重臣たちを統率することは不可能に近かった。案の定、家臣団はたちまち主導権を巡って派閥争いを始め、特にお家騒動の中心となったのが、重臣の蒲生郷安と蒲生郷可の対立であった 13 。この深刻な内訌は「蒲生騒動」と呼ばれ、豊臣政権が直接介入せざるを得ないほどの事態へと発展した 16

秀吉の裁定と戦略的意図

慶長3年(1598年)正月、豊臣秀吉はついに裁定を下す。「御家の統率がよろしくない」との理由で、蒲生秀行に対し、会津92万石から下野国宇都宮18万石(一説に12万石)への大幅な減転封を命じたのである 12

この厳しい処分の裏には、単なる懲罰以上の、秀吉による高度な政治的計算があった。第一に、秀行は徳川家康の娘・振姫を正室に迎えており、親家康派の大名と見なされていた。豊臣政権の実務を担う石田三成らにとって、家康と姻戚関係にある巨大大名が東北の要衝・会津を領している状況は、将来の脅威と映ったのである。蒲生騒動は、この潜在的な脅威を排除するための絶好の口実となった 17

こうして、名将・氏郷が築き上げた東北の巨大国家は、その子の代にあっけなく解体された。そして、東北地方の地政学的要衝である会津に、意図的な「力の空白」が創出された。秀吉は、この空白地帯に、自らの天下構想の総仕上げとして、最も信頼でき、かつ最も戦略的な価値を持つ駒を配置しようとしていた。その白羽の矢が立ったのが、五大老の一人、上杉景勝であった。

第二章:下された密命 ― 秀吉の戦略と景勝への期待

蒲生家の改易によって生じた会津の「空白」は、豊臣秀吉にとって、自らの死後を見据えた天下の最終配置を完成させるための、最後の機会であった。彼がこの戦略的要衝に送り込むことを決めたのは、豊臣家への忠誠心と、その強大な軍事力において、最も信頼を置く大名の一人、上杉景勝であった。

慶長3年1月10日:会津転封命令

慶長3年(1598年)1月10日、秀吉は上杉景勝に対し、本拠地である越後国春日山から、陸奥国会津への国替えを正式に命じた 18 。これは単なる領地替えではなかった。景勝には、会津の旧蒲生領に加え、出羽国の置賜・庄内、佐渡一国、そして越後国の一部(東蒲原郡)などが与えられ、その総石高は実に120万石に達した 21 。これにより上杉家は、豊臣、徳川、毛利に次ぐ、全国で第四位の石高を誇る大大名へと躍進し、景勝は「会津中納言」と称されることになる 18

この破格の待遇は、景勝が織田信長亡き後、いち早く秀吉に恭順の意を示し、小牧・長久手の戦いをはじめ、小田原征伐、朝鮮出兵といった豊臣政権の主要な戦役において、一貫して忠勤に励んできた功績が高く評価された結果であった 24 。しかし、この栄転の裏には、秀吉の深謀遠慮が隠されていた。

秀吉の真意:対伊達・対徳川の二重の楔

秀吉が景勝を会津に配置した真の狙いは、二つの強大な勢力を同時に牽制する、極めて高度な地政学的戦略にあった。

第一の標的は、 伊達政宗 である。政宗は奥州仕置によって豊臣政権に服従したものの、その野心は衰えていなかった。会津は、その伊達領の南方に位置し、まさに喉元に突き付けられた匕首(あいくち)のごとき戦略的要衝であった。ここに豊臣政権に絶対の忠誠を誓う上杉軍を配置することで、政宗のいかなる不穏な動きも封じ込める「奥羽の楔」としての役割が期待された 27

そして第二の、そして遥かに重要な標的が、 徳川家康 であった。関東255万石を領する家康は、秀吉にとって最大の盟友であると同時に、自らの死後、豊臣家の天下を脅かす最大の潜在的脅威でもあった。景勝を会津に置くことは、その広大な関東平野の北の国境に、豊臣家最強の「番犬」を配置することを意味した。これにより、家康は常に背後からの軍事的圧力に晒されることになり、その行動は大きく制約される。万が一、家康が西(大坂)へ向けて兵を動かそうとすれば、景勝はその後背を突き、南北から挟撃することが可能となる 28 。これは、秀吉が自らの死後の家康の動きを封じ込めるために打った、最後にして最大の一手であった。

この配置は、秀吉ほどの戦略家が、自身の死後に家康と景勝が衝突する可能性を予測していなかったとは考えにくい。むしろ、その対立を前提としていたとさえ言える。両者を意図的に対峙させ、互いに牽制し、消耗させることで、豊臣家の安泰を図るという、さらに一段深い狙いがあった可能性も否定できない。景勝への120万石という破格の待遇は、この最も危険な「最前線」へと彼を送り込むための、甘い蜜であったのかもしれない。

第三章:史上最大級の民族移動 ― 越後から会津へ

慶長3年1月10日に下された転封命令は、単なる領主の交代を意味するものではなかった。それは、家臣団とその家族、商人、職人、僧侶など数万人に及ぶ人々が、生活の基盤と文化の全てを新天地へ移すという、さながら「国家の移転」とも言うべき壮大なプロジェクトの始まりであった。

【時系列解説】転封準備から実行までのリアルタイム・ドキュメント

  • 慶長3年(1598年)1月~3月:越後での準備
    転封命令が発せられると、上杉家の本拠地・越後春日山城下は、かつてない喧騒に包まれた。移住計画の策定、物資の輸送準備、そして領民への布告が矢継ぎ早に行われた。この大規模な移動に際し、秀吉からは、新領地へ連れて行くべき奉公人や侍と、旧領に残すべき百姓を区別するよう指示した朱印状が発給されており、豊臣政権がこの国替えを厳格に管理していたことが窺える 30。
  • 文化的・精神的支柱の移転
    この大移動において、物理的な移動以上に重要視されたのが、上杉家のアイデンティティそのものの移転であった。その象徴が、上杉家の軍神であり、精神的支柱である上杉謙信の遺骸の遷座である。甲冑を纏い甕に納められたと伝わる謙信の遺骸は、春日山城から丁重に運び出され、会津への長い旅路についた 31。これは、土地を離れても上杉家の正統性と「義」の精神は不変であることを内外に示す、極めて重要な儀式であった。

    同時に、善徳寺、正法寺、常慶寺といった、上杉家代々の菩提寺や祈願所も、その多くが越後を離れ、会津へと移転した。これらは「お供寺」と呼ばれ、上杉家の文化と信仰を丸ごと新天地へ移植する役割を担った 32。上杉家にとって「国」とは、越後の土地そのものではなく、謙信公の遺骸を祀り、家臣団と領民が一体となった統治共同体そのものであり、彼らは土地を捨ててでも、この共同体を維持することを選んだのである。
  • 慶長3年3月~4月:移動と入府
    3月6日、上杉景勝は在京の地であった京都を発ち、会津へと向かう 18。そして
    3月24日、景勝は若松城に公式に入城 し、ここに会津120万石の新たな領主が誕生した 18

    一方、主を失った越後では、4月以降、春日山城をはじめとする諸城が豊臣政権から派遣された上使に引き渡され、その後、新たな領主として堀秀治が入部した 34。長年、越後の政治・経済・文化の中心であった春日山城下町は、統治機構と主要な経済活動人口を失い、これ以降、急速にその活気を失っていくことになる 35。この転封は、現代で言えば「首都機能の移転」に等しい社会構造の激変を、両国にもたらしたのである。

上杉家 会津転封 前後所領比較表

この転封がいかに大規模で、戦略的な意味合いを持つものであったかを具体的に示すため、前後の所領を比較する。

項目

転封前(越後時代)

転封後(会津時代)

総石高

約90万石(太閤検地後)

120万1,200石余 18

主要所領

越後一国、佐渡一国、信濃川中島四郡、出羽庄内地方

陸奥国(会津、白河、田村、安達、信夫、伊達、刈田)、出羽国(置賜、庄内)、佐渡国、越後国(東蒲原) 22

本拠城

春日山城(新潟県上越市)

若松城(福島県会津若松市)

戦略的意義

対北条氏・対徳川氏の北陸における拠点

対伊達氏の監視、対徳川氏(関東)の牽制 28

この表が示すように、会津時代の所領は複数の国にまたがる広大かつ戦略的に配置されたものであった。これは、上杉家が単に会津一国を与えられたのではなく、伊達・徳川という二大勢力を包囲するための、広域な軍事ブロックを形成するよう意図されていたことを明確に物語っている。この転封は、単なる「加増栄転」ではなく、極めて軍事的な意図を持った「再配置」だったのである。

第四章:二つの国のその後 ― 新たな統治と残された波紋

上杉家という巨大な統治機構が去った越後と、それを受け入れた会津。二つの国は、この巨大な地殻変動の後、それぞれに新たな現実と向き合うことになった。会津では120万石の大大名として新たな国づくりが始まり、越後では新領主による困難な統治が開始された。

会津における上杉家の統治開始

  • 戦略的家臣配置
    会津に入部した景勝は、直ちに秀吉の戦略意図を具現化するための防衛体制を構築した。まず、対伊達政宗の最前線となる白石城には猛将・甘粕景継を、福島城には本庄繁長、梁川城には須田長義といった信頼の厚い重臣を配置し、伊達領への圧力を強化した 18。そして、広大な新領国の中核であり、自身の後背地ともなる出羽米沢城には、腹心中の腹心である家老・直江兼続を30万石という破格の知行で配置した 18。これは、兼続を単なる城代ではなく、置賜地方一帯を統括する方面軍司令官として遇するものであり、景勝の兼続への絶大な信頼を示すものであった。
  • 領国経営と神指城築城
    景勝と兼続は、蒲生氏の旧臣であった岡定俊(岡左内)らを登用しつつ、領内の実態を把握するための検地や、軍事・経済の両面で不可欠なインフラである道や橋の普請を精力的に進めた 27。

    そして慶長5年(1600年)2月、景勝は一大プロジェクトに着手する。若松城は、城の南東に位置する小田山から城内を見下ろされるという防衛上の致命的な弱点を抱えていた 41。また、120万石の首府としては手狭であったため、景勝は会津盆地の中央、阿賀川のほとりに位置する神指ヶ原に、新たな居城「神指城」の築城を開始したのである 18。これは、若松城の約2倍の面積を持つ巨大な輪郭式平城であり、完成すれば120万石の威容を示す壮大な首都となる計画であった 43。しかし、秀吉が世を去り、家康との緊張が日に日に高まる中でのこの大規模な築城、街道整備、そして全国からの浪人の召し抱えといった動きは、家康の目には「謀反の準備」以外の何物にも映らなかった 27。

越後における堀家の挑戦と困難

  • 新領主の統治と在地勢力
    一方、上杉家が去った後の越後には、秀吉の家臣である堀秀治が45万石の領主として入部した 35。秀治は、上杉時代の統治機構を参考にしながら検地を実施するなど、新たな領国経営に乗り出したが、その前途は多難であった 45。

    越後には、上杉家に絶対的な忠誠を誓い、会津への転封に従わずに故郷に残った国人や地侍、いわゆる「上杉遺民」が数多く存在した 45。彼らは、長年越後を支配してきた上杉氏こそが正統な領主であると考えており、新参の堀氏を「外来の支配者」と見なし、その統治に強く反発した。
  • 「上杉遺民一揆」の胎動
    この在地勢力の不満は、会津の直江兼続によって巧みに利用された。兼続は彼らと密かに連絡を取り、組織化を進めていたとされる。越後に残された上杉旧臣たちは、兼続にとって単なる「元家臣」ではなく、有事の際に敵(堀氏)の後方を攪乱するための、いわば「戦略的資産」であった。
    この動きは、後の関ヶ原の戦いの際に「上杉遺民一揆」として現実のものとなる。一揆勢は越後各地で蜂起し、堀氏の城を攻撃するなど、組織的な軍事行動を展開した 46。これにより、家康から会津への侵攻を命じられていた堀秀治は、領内の反乱鎮圧に兵力を割かざるを得なくなり、その軍事行動は大きく掣肘された。これは、上杉側が転封後も越後を「失地」とは考えず、影響力を保持し続けていた証拠であり、彼らの国替えが単なる移動ではなく、より広域的な戦略の一環であったことを裏付けている。

第五章:歴史の転換点 ― 会津転封がもたらした長期的影響

上杉景勝の会津転封は、その時点では豊臣政権下の一人事異動に過ぎなかった。しかし、この一手は、秀吉の死という決定的な要因と結びつくことで、日本の歴史を大きく転換させる直接的な引き金となった。

秀吉の死とパワーバランスの崩壊

慶長3年(1598年)8月18日、太閤秀吉が伏見城でその波乱の生涯を閉じた 1 。この死は、彼が築き上げた権力の均衡を根底から揺るがした。家康を牽制するために上杉景勝を会津に配置するという壮大な「家康包囲網」は、その構想者自身を失ったことで、全く異なる意味合いを持つことになる。

秀吉という絶対的な重石がなくなったことで、徳川家康は公然と天下への野心を行動に移し始める。彼は秀吉が生前に禁じた諸大名間の私的な婚姻を推し進め、豊臣政権の法度を無視して影響力を拡大 1 。秀頼の後見人であった前田利家が翌慶長4年(1599年)に病死すると、もはや家康を抑えられる者はいなくなり、五大老体制は完全に形骸化した 2

会津征伐への道:猜疑心と挑発

こうした中央政界の激動を横目に、上杉景勝は会津の領国経営に邁進していた。慶長4年8月に会津へ帰国すると、神指城の築城や街道整備、武具の購入といった軍備増強を本格化させる 18 。これらの動きは、越後の堀秀治らを通じて逐一家康の耳に届き、家康は景勝に「謀反の疑いあり」との嫌疑を強めていった 39

家康は、豊臣政権の筆頭大老として、景勝に上洛して釈明するよう再三にわたり要求した。これに対し、直江兼続が返書として送ったとされるのが、世に名高い「直江状」である。この書状は、景勝に謀反の心がないことを釈明しつつも、その文面には「田舎者は上洛ばかりしているわけにはいかない」「家康公がご心配なら、こちらから出向いてもよい」といった、痛烈な皮肉と挑発的な言葉が並んでいたとされる 49 。この「直江状」が偽書であるという説は根強いが、いずれにせよ上杉家が家康の上洛要求を断固として拒否したという「事実」こそが、歴史を動かす決定的な要因となった 49

関ヶ原の戦いの直接的引き金として

景勝の明確な上洛拒否を受け、慶長5年(1600年)6月、家康は「上杉氏の謀反」を天下に公表し、諸大名を率いて「会津征伐」の軍を発した 39 。これは、豊臣秀頼の名の下に行われる公式な討伐軍であった。

この家康の決断こそ、石田三成が待ち望んでいたものであった。三成は、家康率いる東軍の主力が畿内を離れ、遠く東北へ向かった隙を突いて、7月に毛利輝元を総大将に担ぎ上げて挙兵する。天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られた瞬間であった。

会津転封がなければ、家康と三成の対立は避けられなかったかもしれない。しかし、それが「関ヶ原の戦い」という形を取ったのは、まさしく会津転封と、それに続く景勝の強硬な態度があったからに他ならない。家康が畿内にいれば、西国大名は容易に動くことはできなかったであろう。家康が会津へ向かい、畿内に権力の空白が生まれたからこそ、三成は「秀頼公のため」という大義名分を掲げ、西軍を組織することができた。上杉景勝の会津転封は、反家康勢力が結集するための、またとない「触媒」として機能したのである。

終章:総括 ― 戦略的配置が招いた天下分け目の戦い

上杉景勝の会津転封は、慶長3年(1598年)という、一つの時代が終わり、新しい時代が始まろうとする、まさにその境界線上で実行された。それは単なる一大名の国替えという事象に留まらず、豊臣政権の終焉と徳川の世の到来を決定づけた、日本史上極めて重要な画期であった。

上杉景勝会津転封の歴史的意義

本報告書で詳述した通り、この転封は、豊臣秀吉が自らの死後を見据え、最大の脅威である徳川家康を封じ込めるために打った、最後の、そして最大の大戦略であった。秀吉は、豊臣家に忠実な上杉景勝を関東の背後に配置することで、家康の力を削ぎ、豊臣家の安泰を図ろうとした。

この戦略は、上杉家を120万石という栄華の頂点に押し上げた。しかし、それは同時に、時代の奔流の最前線、すなわち徳川家康という巨大な力と直接対峙する最も危険な場所に、彼らを立たせることを意味した。結果として、秀吉の死後、この戦略的配置は家康を牽制するどころか、逆に家康に「謀反討伐」という大義名分を与え、天下の諸大名を動員する絶好の口実となってしまった。秀吉の深謀遠慮は、皮肉にも自らが最も恐れた事態、すなわち家康による天下掌握を加速させる結果を招いたのである。

関ヶ原、そしてその後へ

関ヶ原における西軍の敗北により、上杉景勝の運命は暗転する。家康は、会津征伐の直接の原因を作った景勝に対し、会津120万石の所領をすべて没収。その上で、直江兼続が治めていた出羽米沢30万石のみを安堵するという、極めて厳しい処分を下した 18

しかし、上杉家は改易(領地没収・武士の身分剥奪)という最悪の事態は免れ、近世大名として存続を許された。景勝は、石高が4分の1に激減したにもかかわらず、会津時代に抱えていた約6000人の家臣を一人も解雇しなかったと伝えられている 54 。これは、主君への忠義を重んじる上杉家の気風を示す美談として語られる一方で、米沢藩を江戸時代を通じて深刻な財政難に陥らせる原因ともなった 56 。だが、この極度の困窮こそが、後に名君・上杉鷹山による藩政改革という、新たな物語を生み出す土壌となったこともまた、歴史の奇妙な巡り合わせと言えよう。

結論として、慶長三年の上杉景勝会津転封は、豊臣秀吉の最後の野心と、徳川家康の台頭、そして上杉家の忠義が交錯した、まさに歴史の転換点であった。この巨大な国替えがなければ、関ヶ原の戦いは起こらなかったか、あるいは全く異なる形で展開していたであろう。それは、一つの戦略的配置が、いかにして天下分け目の戦いを誘発し、新たな時代への扉を開いたかを示す、雄弁な歴史の証左なのである。


【巻末資料】慶長3年~5年 関連年表

年月日

出来事

慶長3年 (1598)

1月10日

豊臣秀吉、上杉景勝に越後から会津への転封を命じる 18

3月15日

秀吉、醍醐の花見を催す。これが最後の栄華となる 1

3月24日

上杉景勝、会津若松城に正式に入城する 18

8月18日

豊臣秀吉、伏見城にて死去 1

9月17日

景勝、秀吉の葬儀のため会津を発ち上洛する 18

慶長4年 (1599)

閏3月3日

五大老の一人、前田利家が死去。家康を抑える重しがなくなる 2

3月

石田三成が七将に襲撃され、佐和山城へ蟄居。家康が政権の実権を掌握 1

8月22日

景勝、会津へ帰国。これ以降、領国経営と軍備増強を本格化させる 18

慶長5年 (1600)

2月10日

景勝、直江兼続に命じ、新城・神指城の築城を開始 27

4月14日

兼続、家康の上洛要求に対し、挑発的な内容を含む返書を送る(通称「直江状」) 51

6月16日

徳川家康、景勝の謀反を理由に「会津征伐」のため大坂を出陣 39

7月17日

石田三成ら、家康不在の隙を突き、毛利輝元を総大将として挙兵する。

7月24日

家康、下野国小山にて三成挙兵の報を聞き、軍議を開く(小山評定)。会津征伐を中止し、西上を決意。

9月15日

関ヶ原の戦い。

引用文献

  1. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  2. 五大老(ごたいろう) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_ko/entry/032617/
  3. 一 秀吉死後の政情 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8034
  4. 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
  5. 五大老 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81
  6. 蒲生家/藩主/会津への夢街道 https://aizue.net/siryou/hansyu-gamouke.html
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  49. 上杉景勝が家康に送った「直江状」は偽文書か? “否定派vs.肯定派”専門家の見解 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10228
  50. 景勝が家康に屈服していたら… | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/266
  51. 直江状 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E7%8A%B6
  52. 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
  53. 『羽前米沢 秀吉期には 120万石を領する五大老で関ヶ原合戦後 30万石に大減封されるも家康が最も恐れた最強の武将上杉景勝居城『米沢城』訪問』 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/10925273
  54. かるーいお城の雑学(その18)大名の改易・転封 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/kaieki-tennpou-toha
  55. CS 22 上杉鷹山の改革 Reform of Yozan Uesugi https://glc-tokyo.com/news_column/p5343/
  56. 米沢藩の財政改革と上杉鷹山 https://kurume.repo.nii.ac.jp/record/456/files/keisya58_1-2_21-49.pdf