上田城再建(1601)
関ヶ原で西軍についた真田氏の上田城は、戦後徳川の命で破却された。信之の治世を経て、仙石氏が再建に着手するも、未完のまま終わったのである。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
上田城、破却と再興の真実 ― 関ヶ原の戦後処理から近世城郭への変遷
序章:関ヶ原前夜、上田城を巡る運命の選択
慶長5年(1600年)、日本全土を二分する天下分け目の戦いが目前に迫っていた。豊臣秀吉の死後、その権力構造は大きく揺らぎ、五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を拡大していた。これに対し、石田三成ら豊臣恩顧の諸将は警戒を強め、両者の対立はもはや避けられない状況にあった。家康が会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけ、討伐の軍を起こしたことは、この対立の火蓋を切る直接的な引き金となった 1 。この国家的な動乱の渦中にあって、信濃国上田城を本拠とする真田家は、一族の存亡を賭けた重大な決断を迫られることとなる。
「犬伏の別れ」― 真田家の決断
家康による会津討伐の軍に従っていた真田昌幸、信之(当時は信幸)、信繁(幸村)の父子三人は、下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)の陣中にあった。ここで彼らのもとに、三成からの家康打倒を促す密書が届く 1 。この一通の書状が、真田家の運命を、そして上田城の未来を大きく左右することになる。父子三人は密議を重ね、一族が二つに分かれて戦うという苦渋の決断を下した。世に言う「犬伏の別れ」である 3 。
この決断の背景には、複雑に絡み合った人間関係と、戦国武将としての冷徹な計算があった。長男の信之は、徳川四天王・本多忠勝の娘であり、家康の養女でもある小松姫を正室としていた 4 。徳川家との深い縁故から、信之が家康率いる東軍に与することは、ある意味で必然であった。一方、父・昌幸と次男・信繁は、豊臣方(西軍)につくことを選んだ。信繁の妻が西軍の有力武将である大谷吉継の娘であったことに加え、昌幸自身が豊臣秀吉から受けた恩義を重んじた結果であった 4 。
しかし、この選択は単なる縁故や恩義に留まるものではない。通説では、どちらの軍が勝利しても真田の家名を存続させるための、昌幸による深謀遠慮であったとされる 5 。勝った側が負けた側の助命を嘆願するという計算も含まれていたであろう。事実、家康は信之が味方についたことを大いに喜び、父・昌幸の所領である上田領を与えるという安堵状を早々に発給している 2 。
さらに、この決断の深層には、昌幸個人の気質と戦略的判断が存在した。昌幸と家康は、かつての沼田領を巡る対立などから、個人的な関係が良好ではなかったとされ、昌幸の反骨精神が西軍参加を後押しした側面も否定できない 2 。また、第一次上田合戦で徳川の大軍を寡兵で退けたという輝かしい戦歴は、再び徳川と対峙することへの自信となっていたであろう。地政学的に見れば、上田城は中山道と北国街道が交差する交通の要衝である。昌幸がこの地で徳川軍の主力を引きつけることができれば、関ヶ原の本戦における西軍の勝利に大きく貢献できる。つまり、「犬伏の別れ」は家名存続という守りの戦略であると同時に、西軍を勝利に導くための極めて能動的な軍事戦略の始まりでもあった。この選択こそが、後の上田城破却という悲劇的な結末への直接的な伏線となるのである。
上田城への帰還と臨戦態勢
決別後、昌幸と信繁は上田城の防備を固めるため、急ぎ帰還の途についた 1 。その道中、信之が城主を務める上州沼田城に立ち寄り、「孫の顔が見たい」と称して入城を試みる。しかし、信之の妻・小松殿は、夫の留守中に舅である昌幸の入城を毅然として拒絶した。この有名な逸話は、たとえ親子であっても、もはや敵味方として対峙する関係が始まっていたことを示す象徴的な出来事であった 1 。
上田城に戻った昌幸と信繁は、徳川軍の来襲に備え、ただちに臨戦態勢を整えた。城の防御施設を点検・強化し、兵糧を蓄え、兵士たちの士気を鼓舞する。来るべき戦いは、真田家の、そして上田城の運命を決する戦いとなるのであった。
表1:上田城を巡る主要年表(1600年~1628年)
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関係する主要人物 |
出来事の意義 |
1600年(慶長5年)7月 |
犬伏の別れ |
真田昌幸, 信之, 信繁 |
真田家が東西両軍に分かれる。上田城の運命を決定づける。 |
1600年(慶長5年)9月 |
第二次上田合戦 |
真田昌幸, 信繁, 徳川秀忠 |
真田軍が徳川軍に勝利するも、秀忠の関ヶ原遅参を招く。 |
1600年(慶長5年)9月 |
関ヶ原の戦い |
徳川家康, 石田三成 |
東軍勝利。西軍に与した昌幸・信繁は敗将となる。 |
1601年(慶長6年) |
上田城の破却 |
徳川家康, 真田信之 |
徳川の命により城が徹底的に破壊され、廃城同然となる。 |
1601年~1622年 |
真田信之の統治時代 |
真田信之 |
城なき城下町として、三の丸居館で藩政が行われる。 |
1622年(元和8年) |
真田氏の松代移封 |
真田信之 |
真田氏が上田の地を去る。再建への地ならしとなる。 |
1622年(元和8年) |
仙石氏の上田入封 |
仙石忠政 |
新たな領主として仙石氏が着任。 |
1626年(寛永3年) |
上田城の再建(復興)開始 |
仙石忠政 |
幕府の許可を得て、破却から25年ぶりに城の普請が始まる。 |
1628年(寛永5年) |
仙石忠政の死去 |
仙石忠政 |
藩主の急死により、再建工事が中断。未完のままとなる。 |
第一章:第二次上田合戦と徳川秀忠の蹉跌(慶長5年/1600年)
関ヶ原へ向かう東軍は二手に分かれた。家康率いる本隊が東海道を進む一方、嫡男・秀忠が率いる約3万8千の別働隊は、信濃・上州の諸大名を従えながら中山道を進軍する計画であった 1 。この別働隊の表向きの目的は、西軍に与した真田昌幸の討伐とされていた 6 。この進軍が、後に天下の趨勢にまで影響を及ぼす「第二次上田合戦」の幕開けとなる。
開戦に至るまでの神経戦
慶長5年9月2日、徳川秀忠は上田城に近い小諸に本陣を構え、ただちに真田昌幸に対して開城を勧告する使者を送った 1 。これに対し、昌幸は老獪な駆け引きを見せる。国分寺において、本多忠政や息子の信之と会談し、いったんは城を明け渡すかのような姿勢を示したのである 1 。しかし、これは来るべき籠城戦に備えて時間を稼ぐための策略であった。その裏で、昌幸は着々と戦の準備を整えていた。昌幸の真意に気づいた徳川軍は、ついに上田城への総攻撃を決断する。
上田城攻防戦のリアルタイム再現
徳川軍約3万8千に対し、籠城する真田軍は約3千。兵力差は10倍以上であり、誰の目にも勝敗は明らかに見えた 1 。しかし、ここから真田昌幸の「戦の神」とまで称された知略が冴えわたる。
攻撃が開始されると、昌幸と信繁は少数の兵を率いて自ら城外へ打って出た。これは徳川軍を挑発し、城の懐深くまでおびき寄せるための陽動であった 7 。血気にはやる徳川方の兵は、この挑発に乗り、真田勢を追って城の大手門近くまで殺到する。
徳川軍が射程圏内に入ったその瞬間、戦況は一変する。城壁に潜んでいた鉄砲隊が一斉に火を噴き、さらに城門の横に伏せていた兵が側面から突撃を敢行した 7 。不意を突かれた徳川軍は混乱に陥り、後退を余儀なくされる。
昌幸の策はそれだけでは終わらなかった。退却する徳川軍が城下を流れる神川を渡ろうとした時、事前に堰き止めておいた上流の堤防が切られた。突如として濁流と化した川は、退路を断たれた兵士たちを飲み込み、多数の溺死者を生んだ 7 。この神川を巡る攻防は、閏8月2日頃に繰り広げられたと記録されている 8 。第一次上田合戦の再現ともいえる巧みな戦術の前に、徳川の大軍はまたしても手痛い敗北を喫したのである。
秀忠の決断と関ヶ原への遅参
上田城の攻略に固執し、多大な時間と兵力を消耗した秀忠は、ついに攻略を断念せざるを得なかった。父・家康からの再三にわたる上洛命令を受け、遅ればせながら関ヶ原へと軍を進める 1 。しかし、険しい大門峠越えにも苦しめられ、秀忠の軍勢が美濃に到着した時には、すでに9月15日の本戦は終わっていた 1 。
この徳川主力部隊の遅参は、家康を激怒させ、秀忠にとっては生涯の汚点となった。真田昌幸は、軍事的には完璧な勝利を収め、徳川の次期将軍を相手にその武名を天下に轟かせた。しかし、この輝かしい勝利こそが、皮肉にも上田城の未来に暗い影を落とすことになる。関ヶ原で西軍が敗北した瞬間、この「勝利」は、真田家と上田城にとって、破滅的な未来を決定づける「敗因」へと転化した。徳川の天下が定まった後、新時代の覇者にこれほどの屈辱を与えた「抵抗の象徴」である上田城が、そのままの姿で存続することは、もはや許されなかったのである。
第二章:城の終焉 ― 徳川による上田城の徹底破却(慶長6年/1601年)
関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。この結果、西軍に与した真田昌幸・信繁父子は敗将となり、その運命は勝者である徳川家康の手に委ねられた。ここから、利用者様が当初「再建」と認識されていた慶長6年(1601年)の事変、すなわち上田城の「破却」に至る戦後処理が始まる。
戦後処理と真田父子の処遇
西軍の首謀者格であった昌幸と信繁は、本来であれば死罪を免れない立場であった。しかし、ここで東軍として参陣し、戦功を挙げていた長男・信之が父と弟の助命のために奔走する。信之の舅であり、徳川四天王の一人である本多忠勝もまた、この助命嘆願に加わった。家康は当初、昌幸らの処刑を強硬に主張したが、信之らの必死の嘆願の末、ついに折れた。死罪は免じられ、昌幸・信繁父子は紀伊国九度山への配流という処分に決着した 9 。
上田城の接収と破却命令
昌幸と信繁が上田の地を去った後、彼らの本拠地であった上田城は徳川方に接収された。そして、徳川の天下が確固たるものとなった慶長6年(1601年)の前半頃、家康は上田城の破却を命じる 10 。これは、徳川に二度も反旗を翻し、特に次期将軍となる秀忠に拭い去れない屈辱を与えた真田昌幸とその拠点に対する、最終的な処断であった。
破却の実態 ― 廃城同然へ
上田城の破却は、徹底的に行われた。その実行部隊には、第一次上田合戦で昌幸に敗北を喫した仙石秀久など、徳川配下の諸将が加わったとされる 11 。これは単なる武装解除ではなかった。堀は埋め立てられ、土塁や石垣は崩され、城内にあった櫓や門などの建造物はことごとく破壊された 10 。城は軍事拠点としての機能を完全に喪失し、文字通り「廃城同然」の無残な姿で、跡地のみが信之に引き渡されたのである 11 。
この徹底的な破壊行為は、徳川家康の冷徹な政治的計算に基づいていた。まず、徳川に二度も苦杯をなめさせた「抵抗の象徴」を、物理的に地上から消し去る必要があった。さらに、この破却は、全国の豊臣恩顧の大名や潜在的な反抗勢力に対する強烈な「見せしめ」でもあった。かつての敵将であった仙石秀久に破壊を実行させた可能性が指摘されている点は、この行為が単なる行政処理ではなく、徳川による「報復」という強い意図を持っていたことを示唆している。
関ヶ原直後の当時、徳川の支配体制はまだ盤石ではなかった。上田城の破却は、「徳川に逆らう者は、家名はおろか、その拠点の痕跡すら残さない」という絶対的な意志を天下に示すための、象徴的な儀式であった。それは、戦国時代以来の「力による秩序」を終わらせ、徳川の「権威による新たな秩序」を打ち立てるための、重要な布石だったのである。
第三章:城主・真田信之の治世と「城なき城下町」の時代(1601年~1622年)
慶長6年(1601年)、上田城は焦土と化した。父祖伝来の地を受け継いだ真田信之の目の前にあったのは、もはや城とは呼べない無残な城跡であった。ここから、信之が松代へ移封されるまでの約21年間、上田は「城なき城下町」として、新たな時代を歩むことになる。
父祖の地と破却された城
関ヶ原での功績により、信之は父・昌幸の旧領であった上田領6万5千石を家康から安堵された 10 。しかし、彼が手にしたのは、軍事機能を完全に剥奪された土地であった。信之は上田城の再建を幕府に願い出たが、その申請が許可されることはなかった 14 。これは、父・昌幸が徳川に与えた屈辱の記憶が生々しく、幕府が上田の地に真田氏の城が再建されることを断じて許さなかったためである。
三の丸居館での藩政
城の再建を諦めた信之は、破壊された本丸や二の丸を避け、旧三の丸跡地(現在の上田高等学校の敷地)に居館(屋敷)を構え、そこを藩庁として政務を執った 9 。この居館は、軍事的な防御機能を持たない、純粋な行政施設であった。信之の治世は、戦国的な「城主」から近世的な「藩主」へと、大名の役割が変質していく過渡期の姿を象徴している。
戦乱からの復興と民政への注力
軍事拠点としての城を失った信之は、その情熱を領国経営へと注いだ。彼の治世は、戦乱で荒廃した領内を復興させることに捧げられた。まず、上田の城下町の整備に着手し、その大部分がこの時代に形成されたと伝えられている 15 。さらに、用水堰の開削やため池の築造といった灌漑施設を整備し、農業生産の安定化を図った 15 。また、農民が土地を捨てて逃亡することのないよう、年貢の減免措置を講じるなど、民の暮らしを第一に考えた政策を次々と実行した 15 。信之は、武将としてだけでなく、民政家としても非凡な才能を発揮し、上田藩の基礎を築き上げたのである。
元和8年(1622年)の松代移封
信之による安定した治世が続く中、元和8年(1622年)、幕府は信之に対し、信濃松代10万石への加増移封を命じた 9 。これにより、真田氏は築城以来39年間にわたって統治した上田の地を離れることになった 10 。この移封は、幕府の周到な長期戦略の一環であったと考えられる。「真田氏」という名と、「上田城」という土地の記憶が強く結びついている限り、そこは徳川にとって潜在的なリスクをはらむ場所であり続ける。信之を上田から切り離すことで、徳川に抵抗した昌幸の記憶を土地から払拭し、完全に徳川の支配体制に組み込むための最終的な地ならしであった。この移封こそが、後の仙石氏による上田城「再建」を可能にする、最後の布石となったのである。
第四章:仙石氏の入封と上田城再興事業(1626年~)
真田氏が上田を去った後、この地は新たな領主を迎える。そして、破却から四半世紀の時を経て、ついに上田城は再興の時を迎える。しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。
新領主・仙石忠政の入封
元和8年(1622年)、真田信之と入れ替わる形で、小諸藩主であった仙石忠政が6万石余で上田に入封した 12 。忠政は、かつて第一次上田合戦で真田昌幸に大敗を喫した仙石秀久の子である。因縁浅からぬ仙石氏が上田の新たな支配者となったことは、時代の大きな変化を物語っていた。
幕府の許可と普請の開始
忠政は、入封後すぐに廃城同然となっていた上田城の復興を計画し、幕府に城普請(城の建設工事)を申請した。真田信之には決して下りなかった許可が、仙石忠政には下されたのである 14 。これにはいくつかの理由が考えられる。第一に、真田氏という「抵抗の記憶」が土地から切り離されたこと。第二に、仙石氏が徳川譜代に近い信頼のおける大名であったこと。そして第三に、大坂の陣(1615年)も終わり、徳川の天下が盤石となったことで、もはや上田城が反徳川の象徴となる恐れがなくなったことである。再建の許可は、徳川がこの土地を完全に掌握したという「勝利宣言」に他ならなかった。
そして寛永3年(1626年)、破却から実に25年の歳月を経て、上田城の復興工事がついに開始された 18 。
再建工事の具体的内容
再建にあたり、城の基本的な設計図である「縄張り」は、真田氏時代のものを踏襲したとされている 10 。これは、真田昌幸による城の設計が、軍事的に極めて優れていたことを示している。しかし、その内容は大きく刷新された。防御の中心は土塁から堅固な石垣へと変更され、本丸には7棟の二重櫓や櫓門が計画されるなど、近世城郭としての威容を備えるべく工事が進められた 18 。
忠政の急死と未完の城
再建工事は順調に進むかに見えたが、着手からわずか2年後の寛永5年(1628年)、事業を主導していた藩主の仙石忠政が病に倒れ、急死してしまう 11 。藩主という最大の推進力を失ったことに加え、重臣間の対立なども重なり、上田城の普請は中断を余儀なくされた 16 。
結果として、上田城の復興は未完成のまま終わることになる。忠政の死後、大規模な城普請が再開されなかったという事実は、江戸時代初期の社会の変化を象徴している。「元和偃武」を経て世の中が泰平へと向かう中、大名の価値はもはや巨大な城郭を築くことではなく、安定した藩経営にあるという価値観が定着しつつあった。未完に終わった上田城は、戦国の終わりと江戸の始まりという時代の狭間で、その役割を終えようとしていた城郭建築の姿を、そのままの形で現代に伝えているのである。
第五章:近世城郭としての新生上田城 ― その構造と戦略的意義
仙石忠政によって開始され、未完に終わった再興事業は、上田城を新たな姿へと生まれ変わらせた。それは、真田時代の面影を色濃く残しながらも、徳川の治世にふさわしい近世城郭としての性格を帯びたものであった。
表2:破却前(真田時代)と再建後(仙石時代)の上田城比較
比較項目 |
真田昌幸時代(~1600年) |
仙石忠政時代(1626年~) |
変化の意義 |
城の性格 |
実戦本位の戦闘拠点 |
藩の権威を示す行政拠点 |
戦国から江戸への時代の変化を象徴 |
主要防御施設 |
土塁、空堀、水堀 |
総石垣、水堀 |
防御力の向上と、近世城郭としての威容の整備 |
本丸の建造物 |
複数の櫓(瓦葺きの可能性あり) |
7棟の二重櫓(白漆喰塗籠)、櫓門 |
より格式高く、防御機能も洗練された建造物群 |
天守 |
なし |
なし |
実用性を重んじる設計思想の継承 |
縄張り(設計) |
梯郭式、隅欠き |
真田時代の縄張りを踏襲 |
昌幸の設計の卓越性を示す |
城主と幕府 |
徳川と敵対する独立勢力 |
幕藩体制下の一大名 |
城が徳川の支配構造に完全に組み込まれたことを示す |
仙石氏による再建後の城郭構造
再建された上田城は、いくつかの際立った特徴を有している。
- 縄張りと天然の要害: 城の骨格である縄張りは、真田時代の梯郭式を踏襲していた 10 。これは、南側を千曲川の分流「尼ヶ淵」がもたらす高さ約15mの断崖絶壁、北と西を矢出沢川を利用した広大な水堀で守るという、天然の要害を最大限に活用した真田昌幸の設計思想がいかに優れていたかを物語っている 14 。仙石時代以降も、この尼ヶ淵の崖を洪水から守るための護岸石垣の普請が度々行われており、自然との闘いが城の歴史の一部であったことがわかる 11 。
- 石垣と櫓: 防御の主体は、戦国的な土塁から近世的な総石垣へと大きく変更された 20 。本丸には7棟の櫓が計画され、白漆喰塗籠の壁を持つ二重櫓が建てられた 21 。現在、城内に唯一現存する江戸時代の建造物である西櫓は、この寛永期に建てられたものであり、当時の建築様式を今に伝える貴重な遺構である 20 。現在の上田城の象徴ともいえる東虎口櫓門と南北櫓は、明治期に一度失われた後、古写真などを基に復元されたものである 14 。
- 天守の不在: 上田城には、真田時代から一貫して天守が建てられなかった 20 。これは、権威の象徴としての華美な建築よりも、実戦的な防御機能を最優先した昌幸の設計思想を反映している。仙石氏もこの思想を踏襲し、天守を築かなかった。
設計に込められた思想
新生上田城の設計には、軍事的な合理性だけでなく、当時の思想や文化的背景も見て取れる。
- 鬼門除けの隅欠き: 本丸の北東、すなわち鬼門とされる方角の隅が意図的に欠けた形になっている「隅欠(すみおとし)」が施されている 14 。これは、城に災厄が及ばないようにという呪術的な願いを込めたもので、真田昌幸が築城の際に城の鬼門除けとして海善寺を移転させたことからも、この思想が真田時代から強く意識されていたことが窺える 14 。
- 真田石の伝説: 本丸東虎口櫓門の石垣には、ひときわ大きな「真田石」と呼ばれる巨石が組み込まれている。これには、真田信之が松代へ移る際に父の形見として持ち去ろうとしたが、微動だにしなかったという伝説が残されている 20 。この伝説は、真田氏の記憶が、城主が変わった後もこの土地に深く根差していたことを象徴している。
再建後の上田城は、もはや徳川に反旗を翻すための拠点ではなかった。中山道の要衝を抑え、幕府の支配体制を支える地方拠点としての役割を担う城へと変貌を遂げたのである。真田氏の卓越した軍事設計という「記憶」を継承しつつ、それを徳川の支配構造の中に「上書き」して再利用することこそ、新生上田城の最大の戦略的意義であった。城は、かつての抵抗の記憶を内包したまま、新たな時代の秩序の礎となったのである。
結論:破却から再建へ ― 上田城が物語る徳川体制下の東国の要衝
本報告書は、慶長6年(1601年)に起きた事変が、一般に流布する「再建」ではなく、徳川による意図的な「徹底破却」であったという歴史的事実を起点として、その背景と、後の再興に至るまでの25年間にわたる詳細な経緯を明らかにしてきた。
上田城の運命は、真田昌幸という戦国最後の知将の抵抗と、徳川家康による新たな天下統一事業が激しく衝突した、時代の転換点を象徴する出来事であった。第二次上田合戦における輝かしい勝利が、皮肉にも関ヶ原での西軍敗北後、城の破却を招くという結末は、歴史の非情さを示している。
徳川による徹底的な破却は、その威光を天下に示すための政治的パフォーマンスであり、続く25年という長い空白期間は、土地に刻まれた「抵抗の記憶」を風化させ、真田氏と上田の地を切り離すための冷却期間であった。そして、仙石氏による再建の許可は、徳川の支配体制が盤石になったことを示す最終的な証左に他ならない。この過程を通じて、上田城は戦国時代の「個人の武威の象徴」から、幕藩体制下における「行政拠点」へと、その本質的な役割を変貌させたのである。
今日、我々が目にする上田城は、単一の時代に築かれた城ではない。そこには、真田氏の抵抗の記憶、徳川による破却の痕跡、そして仙石氏による未完の再建という、複数の歴史の層が重なり合っている。この稀有な城郭の変遷を辿ることは、戦国が終わり江戸が始まるという、日本史の大きなうねりを理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれるのである。
引用文献
- 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
- 第二次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada3.html
- 「関ヶ原の戦い」で真田家が決断した「犬伏の別れ」一族存亡をかけた親子の本当の狙いとは? https://mag.japaaan.com/archives/113569
- 関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた真田昌幸・信繁・信之の苦悩【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10660
- 関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた真田昌幸・信繁・信之の苦悩【後編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10662
- 【徳川秀忠軍の上田攻め】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096320
- 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/
- 徳川勢を震え上がらせた真田昌幸・上田合戦の策略 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2818
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- 上田城の歴史情報 - 上田城下町観光協会 https://nagano-ueda.gr.jp/ueda-jo/ueda-jjo-history/
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- 真田氏築城と慶長の破却 - 上田城について https://museum.umic.jp/uedajo/about/sanadashi.html
- 【お城の歴史】上田城の歴史を徹底解説!真田家の軌跡と上田城の魅力 - ユキチのお城ナビゲーション https://yukichiloglog.com/explanation-of-ueda-castle/
- 真田信之 - 上田を支えた人々〜上田人物伝〜 https://museum.umic.jp/jinbutu/data/053.html
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- 上田城(長野県上田市) 徳川軍を二度退けた真田の城 - 縄張りマニアの城巡り https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2025/03/01/100000
- 史跡上田城跡保存管理計画書 史跡上田城跡整備基本計画書 https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/21187.pdf
- 国史跡上田城跡石垣解体修復工事報告書 一本丸南櫓下尼ヶ淵石垣解体修復工事 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/0/595/459_1_%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E8%A7%A3%E4%BD%93%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
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- 仙石氏による復典 - 上田城について https://museum.umic.jp/uedajo/about/sengokushi.html
- 国史跡 上田城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/uedajyo.htm
- 上田城~2度に渡り徳川軍を撃退した真田昌幸の城 DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/nagano/uedajou.html
- 【日本100名城 上田城編】天然の要害を利用した長野が誇る不敗の城 https://shirobito.jp/article/570
- 歴史の散歩道 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/24236.pdf