最終更新日 2025-10-08

下田湊再興(1604)

1604年、家康は江戸の海上交通路確保と西国大名監視のため、長谷川長綱に下田湊を再興させた。慶長地震津波で壊滅するも、再度の復旧を経て海の関所として確立した。
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慶長九年 下田湊再興の真相:戦国から泰平へ、伊豆の要港が紡いだ徳川の国家戦略

序章:再興前夜の下田湊

忘れられた要衝:なぜ「再興」が必要だったのか

慶長九年(1604年)、伊豆国下田において湊が再興された。この歴史的事実は、しばしば徳川幕府による初期のインフラ整備の一例として、簡潔に語られる。しかし、「再興」という言葉は、その前提として「衰退」あるいは「荒廃」した状態があったことを示唆している。一体、下田湊はどのような経緯でその機能を失い、そして、なぜ徳川家康はこの伊豆半島の先端に位置する港に、新たな価値を見出したのであろうか。

その答えは、日本の歴史が最も激しく揺れ動いた時代、すなわち戦国時代の終焉に遡る。かつて下田は、関東に覇を唱えた後北条氏の水軍が牙を研ぐ、東国随一の軍事拠点であった。しかし、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ、小田原征伐の圧倒的な武力の前にその機能は徹底的に破壊され、戦国の終焉と共に、下田湊は歴史の表舞台から一時的に姿を消す。そこには、栄光と戦略的価値を失い、静かに朽ちていく港の姿があった。

本報告書が解き明かす「下田湊再興」の多角的意義

本報告書は、この「下田湊再興(1604)」という単一の事象を、単なる港湾工事の記録としてではなく、より広範で重層的な歴史の文脈の中に位置づけ、その真相を徹底的に解明することを目的とする。具体的には、以下の三つの視点から、この出来事を立体的に分析する。

第一に、「戦国から江戸へ」という時代の転換点として捉える視点である。後北条氏の軍事拠点であった港が、いかにして徳川幕府の経済・物流を支える拠点へとその性格を変貌させたのか。これは、日本社会全体のパラダイムシフトを象徴する出来事であった。

第二に、徳川幕府が描いた壮大な国家戦略の具体例として分析する視点である。江戸という巨大消費都市の誕生と、それを支える海上交通網の構築、さらには西国大名への睨みという軍事・政治的意図。下田湊の再興は、これらの要素が複雑に絡み合った、高度な国家プロジェクトの一環であった。

第三に、計画と現実の相克、すなわち人為と天災の物語として読み解く視点である。慶長九年の再興事業は、為政者の計画通りには進まなかった。事業の開始直後に発生した巨大地震と大津波は、完成したばかりの港を無に帰した。この予期せぬ自然災害と、それに対する徳川政権の対応こそが、「再興」という言葉に真の深みを与えるのである。

本報告書は、これらの視座に基づき、戦国時代の記憶が色濃く残る伊豆の地で、いかにして泰平の世の礎となる港が築き上げられていったのか、そのリアルタイムな過程を時系列で描き出すものである。

第一章:戦国期伊豆における下田湊の盛衰 ― 北条水軍の拠点から廃墟へ

慶長九年の「再興」を理解するためには、まずその前史、すなわち戦国時代における下田の役割と、その没落の過程を詳らかにする必要がある。下田湊の盛衰は、関東の覇者・後北条氏の興亡と密接に連動していた。

後北条氏の伊豆支配と「伊豆水軍」

戦国時代の伊豆国は、小田原に本拠を置く後北条氏にとって、相模国に次ぐ第二の本拠地とも言うべき重要な領国であった 1 。初代・北条早雲(伊勢盛時)が伊豆国を平定して以来、この地は後北条氏の東国支配の基盤であり続けた 2

伊豆半島は山がちで平野が少なく、そこに所領を持つ武士たちは必然的に海との関わりを深く持っていた 1 。後北条氏は、これらの在地武士や沿岸の民を巧みに組織化し、「伊豆水軍」と呼ばれる強力な海上戦力を編成した 4 。彼らは単なる海賊衆ではなく、後北条氏から交易の特権を与えられるなど、傭兵的な性格も帯びた専門家集団であった 6 。その任務は、駿河湾の制海権を巡って甲斐武田氏の水軍と熾烈な海戦を繰り広げ、また房総の里見氏の動きを牽制するなど、後北条氏の領国経営において死活的に重要な役割を担っていた 4

海城・下田城:対外防衛と交易の最前線

天下統一へと突き進む豊臣秀吉の脅威が現実のものとなる中、天正16年(1588年)、五代当主・北条氏直は伊豆半島の最南端、下田の地に新たな海城を築城した 7 。これが下田城である。下田湾を見下ろす要害に築かれたこの城は、後北条氏が誇る伊豆水軍の最大拠点であり、来るべき豊臣軍の海上からの侵攻に備える最前線基地であった 4

下田城の役割は、単なる軍事拠点に留まらなかった。伊豆半島先端という地理的条件を活かし、海上交通の要衝として、交易や情報収集の拠点としても機能していたと考えられる。まさに、後北条氏の支配領域の西端を守る、陸と海の結節点であった 9

豊臣秀吉の小田原征伐:下田城の落城と湊の荒廃

天正18年(1590年)、豊臣秀吉はついに後北条氏討伐の兵を挙げる。世に言う小田原征伐である。陸路から大軍が小田原城を目指す一方、豊臣方は九鬼嘉隆、脇坂安治、長宗我部元親といった、歴戦の猛者たちが率いる総勢1万4千もの大水軍を駿河湾に集結させた 10

豊臣水軍の最初の標的こそ、伊豆水軍の拠点・下田城であった。城主・清水康英はわずか600余の兵で城に籠もり、圧倒的な兵力差にもかかわらず約50日間にわたって頑強に抵抗した 4 。しかし、豊臣水軍の猛攻の前に衆寡敵せず、ついに開城を余儀なくされる 4 。この激しい攻防戦により、下田城は徹底的に破壊された。そして、城と一体となって機能していた湊の施設、例えば船着き場や倉庫、防御施設などもまた、壊滅的な打撃を受けたと推察される。伊豆水軍もこの敗戦によって事実上解体され、その構成員の多くは伊豆の各地に帰農した 4 。戦国大名・後北条氏と共に、その水軍拠点としての下田湊もまた、その歴史に幕を下ろしたのである。

徳川家康の関東入府と伊豆の支配体制

後北条氏滅亡後、その旧領である関東六カ国と伊豆・甲斐の一部を与えられた徳川家康は、江戸を新たな本拠地とした。伊豆国は、徳川家の直轄地である天領と、旗本たちの所領が複雑に入り組む形で再編された 11 。廃城となった下田城には、一時的に徳川家臣の戸田忠次が五千石で入ったが、これも長くは続かず、慶長6年(1601年)に彼が三河国へ移封されると、下田は完全に幕府の天領となった 10

この一連の動きは、下田の運命を大きく変えるものであった。特定の戦国大名が私的に利用する軍事拠点から、天下人である徳川幕府が直接管理・運営する「公」の湊へ。その性格が根本的に転換する土台が、ここに整ったのである。しかし、この時点での下田湊は、小田原征伐の戦火の傷跡が生々しく残り、かつての活気を失ったままの、荒廃した港に過ぎなかった。ここから、新たな時代に向けた「再興」の物語が始まることになる。

西暦(和暦)

出来事

主要人物

意義・備考

典拠

1588年(天正16年)

後北条氏、下田城を築城。

北条氏直

伊豆水軍の拠点として、対豊臣・武田の軍事機能を担う。

7

1590年(天正18年)

小田原征伐。豊臣水軍の攻撃により下田城落城。

豊臣秀吉, 清水康英

城と湊が壊滅的打撃を受け、伊豆水軍は解体。軍事拠点としての終焉。

4

1590年(天正18年)

徳川家康、関東へ入府。伊豆国を支配下に置く。

徳川家康

伊豆が徳川氏の直轄地・旗本領となり、新たな支配体制へ移行。

2

1601年(慶長6年)

下田城主・戸田氏が移封。下田が天領(幕府直轄地)となる。

徳川家康, 戸田忠次

幕府による直接開発の条件が整う。

13

1604年(慶長9年)

幕府、下田湊の再興事業を決定・開始。

徳川家康, 長谷川長綱

江戸の経済・防衛を支える海上交通網整備の一環。

(本報告書の中心テーマ)

1604年4月12日(慶長9年)

代官頭・長谷川長綱が死去。

長谷川長綱

事業の計画・創始者。彼の死後も事業は継続される。

14

1605年2月3日(慶長9年)

慶長地震発生。大津波が伊豆沿岸に襲来。

-

再興直後の港湾施設が甚大な被害を受け、再度の復旧事業が必要となる。

15

1616年(元和2年)

下田奉行所を設置。

徳川秀忠, 今村重長

湊の管理が恒久的な行政機関に移管され、「海の関所」として確立。

17

第二章:徳川の天下と伊豆支配の黎明 ― 江戸幕府のグランドデザイン

戦国の世が終わり、徳川家康が天下の支配者として君臨する時代が到来した。家康が描いたのは、武力による支配だけでなく、経済と物流を掌握することによる、盤石な統治体制の構築であった。この壮大な構想の中で、荒廃したまま放置されていた伊豆下田湊は、新たな戦略的価値を与えられ、再興の時を待つことになる。

巨大消費都市・江戸と海上輸送路の確立

慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。これにより、江戸は日本の政治的中心地となり、全国から大名、武士、商人、職人が集まり、その人口は爆発的に増加した。この巨大都市の胃袋を満たし、その活動を支えるためには、膨大な量の米、木材、塩、その他諸々の物資を、全国各地から安定的かつ大量に輸送する必要があった。

当時の技術では、陸上輸送はコストと時間、輸送量の面で限界があり、唯一の大量輸送手段は水運、すなわち海上輸送であった 19 。大坂をはじめとする西国からの物資を江戸へ、あるいは東北地方の米を江戸へ運ぶための、安全で効率的な海上輸送路(シーレーン)を確立することは、新政権にとって最優先で取り組むべき国家的な重要課題だったのである。

伊豆半島の戦略的価値:西国大名への睨み

江戸幕府にとって、伊豆半島は単なる物流の中継地以上の意味を持っていた。それは、江戸湾の喉元に突き出した、地政学的に極めて重要な「匕首(あいくち)」であった。関ヶ原の戦いを経て天下を統一したとはいえ、豊臣恩顧の西国大名たちはいまだ健在であり、幕府にとって潜在的な脅威であり続けた。

これらの西国大名が保有する船舶が江戸湾に出入りするのを監視し、有事の際にはその動きを封鎖する上で、伊豆半島はまさに天然の監視塔であった。特にその先端に位置する下田は、江戸を目指す全ての船舶が通過する航路を見渡せる絶好の地点である。後に元和2年(1616年)に下田奉行所が設置された際、その主要な任務の一つが「西国大名の船舶に対する監視」であったことからも、幕府がこの地をいかに重視していたかが窺える 11 。下田湊の再興は、経済的な要請と同時に、このような軍事・政治的な安全保障上の要請が色濃く反映されたものであった。

代官頭・長谷川七左衛門長綱の登場

この国家的な一大プロジェクトの実行責任者として白羽の矢が立ったのが、長谷川七左衛門長綱(1543-1604)である 14 。彼は、石見・佐渡金山開発で辣腕を振るった大久保長安や、関東の治水・新田開発で名を馳せた伊奈忠次らと並び称される、徳川家康子飼いの有能なテクノクラート、「代官頭」の一人であった 20

もとは今川氏の家臣であったが、今川家没落後に父と共に家康に仕え、その才能を認められた 14 。天正18年(1590年)の家康の関東入府に際しては、各地で検地を実施するなど、新領国の経営基盤固めに大きく貢献した実務官僚である 14 。彼の任務は、単に年貢を徴収するだけでなく、検地、治水、産業開発、交通政策の確立といった、徳川政権の存立基盤そのものを築き上げることであった 20

浦賀湊との連携:江戸湾防衛・経済ネットワークの構築

長谷川長綱の経歴で特に注目すべきは、彼が相模国浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に陣屋を構え、三浦半島一円の天領を管轄していた点である 14 。浦賀は江戸湾の入り口に位置する天然の良港であり、長綱はここを江戸湾防衛と経済の拠点とすべく、湊の整備を進めていた 24

この事実を踏まえると、下田湊の再興は、決して単独で行われた事業ではなかったことが見えてくる。それは、長谷川長綱という一人の人物が統括した、より広域な港湾ネットワーク構想の一部であった可能性が極めて高い。具体的には、太平洋の荒波に面し、風待ちや避難の機能を担う「外港」としての下田と、江戸湾内への最終的な玄関口であり、厳格な船舶管理を行う「内港」としての浦賀という、二元的なシステムを構築しようとしたのではないか。

地理的に見ても、西国から江戸を目指す廻船は、まず下田で天候を窺い、順風を得て相模灘を横断し、浦賀で最終的な検査を受けてから江戸市中へと入るのが最も合理的かつ安全な航路となる 26 。この二つの港を、同じ代官頭が管轄し、同時期に整備に着手したことは、単なる偶然とは考えにくい。そこには、江戸という新首都の経済的繁栄と軍事的安全保障を一体的に確保しようとする、徳川家康と長谷川長綱の緻密なグランドデザインが存在したのである。下田湊再興は、この壮大な海上ネットワークを完成させるための、重要な一手であった。

第三章:慶長九年(1604年)「下田湊再興」のリアルタイム・クロニクル

慶長九年(1604年)は、下田湊にとって、そして徳川幕府の国家建設にとって、画期的な年となった。この一年間に、為政者の決断、技術者の計画、そして予期せぬ指導者の死が交錯しながら、再興事業は着実に進められていった。ここでは、断片的な史料から当時の状況を再構成し、時系列に沿ってそのリアルタイムな様相を描き出す。

【慶長九年 正月~三月】再興の決定と長谷川長綱の計画始動

前年に征夷大将軍となり、名実ともに天下の支配者となった徳川家康は、矢継ぎ早に全国のインフラ整備に着手していた。五街道の整備と並行し、江戸の生命線である海上交通路の確保は喫緊の課題であった。年が明けた慶長九年の初頭には、伊豆下田湊の再興が正式に幕府の方針として決定されたと推察される。

この命を受けた代官頭・長谷川長綱は、拠点である相模国浦賀の陣屋において、具体的な計画策定に取り掛かった。彼の手腕は、単なる土木工事の監督に留まらない。必要な資材、労働力、資金の算定、そして工事全体の工程管理まで、プロジェクト全体を俯瞰するものであった。伊豆は幕府直轄の金山を有し 12 、また良質な石材(伊豆石)の産地でもあったため 29 、資材や資金の調達は比較的円滑に進んだと考えられる。長綱は配下の代官や手代を現地に派遣し、測量や地質調査を行わせ、あるいは自ら下田の地に赴き、荒廃した湊の現状をその目で確かめたであろう。戦国の城砦の残骸が残る中で、新たな時代の港の青写真が、彼の頭の中に描かれていった。

【慶長九年 四月】指導者の死:長谷川長綱の急逝

計画が具体化し、いよいよ本格的な工事が始まろうとしていた矢先、事業は最大の危機に見舞われる。慶長九年四月十二日、プロジェクトの総責任者であった長谷川長綱が、62年の生涯を閉じたのである 14 。彼の死は、再興事業にとって計り知れない打撃であったはずだ。戦国時代の気風が色濃く残る当時、カリスマ的な指導者の死は、しばしば計画そのものの頓挫を意味した。

しかし、下田湊再興事業が中断、あるいは大幅に遅延したという記録は見当たらない。この事実は、極めて重要な示唆を含んでいる。それは、このプロジェクトが長綱個人の才覚や人脈だけに依存したものではなく、彼の構想が設計図や仕様書、人員配置計画といった形で文書化され、組織内で共有されていたことを物語る。彼の死後、その計画は配下の代官や手代たちによって滞りなく引き継がれ、実行された。これは、徳川政権が、特定の個人の力量に頼る属人的な支配体制から、官僚機構によるシステム化された統治体制へと着実に移行しつつあったことの証左と言える。下田湊再興は、その過渡期を象徴する、近世的な公共事業の萌芽であった。

【慶長九年 春~秋】再興事業の具体的内容

長綱の死を乗り越え、春から秋にかけて、下田の地では大規模な土木工事が展開された。その主目的は、湊の基本的な機能を回復させることにあった。

第一に行われたのは、**浚渫(しゅんせつ)**である。小田原征伐による破壊で生じた瓦礫や、その後の十数年間の放置によって河口から流れ込んだ土砂が、港の底に堆積していた 30 。これを人力で取り除き、廻船が安全に停泊できる水深を確保する作業は、再興の第一歩であった。

次に、 石垣や波除堤(なみよけつつみ)の建設 が進められた。下田湊は太平洋の荒波に直接晒されるため、港内の静穏を保つ防波施設が不可欠であった 32 。資材には、地元で産出される加工しやすく丈夫な伊豆石がふんだんに用いられたであろう 29 。当時の日本の築城技術や港湾土木技術、例えば漂砂を防ぐための突堤の設置や、石垣の堅固な組み方などが応用されたと考えられる 30

これらの工事を担ったのは、周辺の村々から賦役として動員された農民たちであった。彼らに加え、かつて伊豆水軍に所属し、船の扱いや海の知識に長けた元船乗りたちも、その専門技術を活かす形で作業に従事した可能性がある。槌音と人々の掛け声が、活気を失っていた下田の入り江に響き渡った。

【慶長九年 冬】再興後の湊の姿

年末を迎える頃には、再興事業は一応の完成を見たと考えられる。もちろん、後の下田奉行所のような恒久的な庁舎や、大規模な倉庫群が整備されたわけではない。しかし、少なくとも廻船が安全に出入りし、荷物の積み下ろしができる基本的なインフラは整ったはずである。

再び寄港し始めた船が、江戸の市場へ向けて伊豆の特産品である炭や木材、干物、天草などを積み出していく 29 。活気が戻り始めた湊は、代官頭の配下にある出先機関によって管理され、新たな時代の幕開けを静かに告げていた。しかし、この安堵も束の間のものであったことを、当時の人々はまだ知る由もなかった。

第四章:激震と大津波 ― 予期せぬ天災と「本当の再興」

慶長九年(1604年)を通じて行われた再興事業により、下田湊は戦国の荒廃から立ち直り、新たな時代の拠点としての第一歩を踏み出した。しかし、徳川政権の人為的な計画と努力は、自然の圧倒的な力の前に、あまりにも脆く崩れ去る運命にあった。再興の槌音がようやく止んだ直後、この地を未曾有の天災が襲う。

【慶長九年十二月十六日(1605年2月3日)】慶長地震の発生

再興事業が一応の完成を見てから、わずか数ヶ月後の慶長九年十二月十六日(西暦では1605年2月3日)、房総半島沖を震源とする巨大地震が発生した 16 。後世「慶長地震」と呼ばれるこの地震の規模は、マグニチュード7.9から8クラスと推定されており、その揺れは関東から東海、紀伊半島、四国、さらには九州にまで及んだとされる、広域巨大地震であった。

江戸城内でも石垣が崩れ、家屋が倒壊するなどの被害が記録されており 35 、震源域に近い伊豆半島が激しい揺れに見舞われたことは想像に難くない。

下田を襲った大津波

この巨大地震が引き起こした最大の脅威は、津波であった。地震発生後、巨大な津波が太平洋沿岸の広範囲に襲来した。特に伊豆諸島での被害は甚大で、八丈島では谷ヶ里の全家屋が流失し、57名もの死者を出す大惨事となった 36 。津波の高さは10メートルから20メートルに達したとも伝えられている 34

伊豆半島沿岸も例外ではなかった。下田近郊の田牛(とうじ)地区では、「寺堂ならびに尊像共に山奥に打入る」という記録が残っており、この記述から津波の高さは少なくとも3メートルから4メートルに達したと推定されている 15 。この規模の津波が、再興されたばかりの下田湊を直撃したのである。

再建された港湾施設の壊滅

数ヶ月の歳月と多大な労力を費やして築き上げられたばかりの港湾施設は、この大津波によって再び壊滅的な打撃を受けたと考えるのが極めて自然である。後の元禄地震(1703年)や安政東海地震(1854年)の津波でも、下田では数百戸の家屋が流失し、多数の船舶が破壊されるという甚大な被害が記録されている 15 。慶長地震津波においても、新設されたばかりの石垣や波除堤は崩壊し、浚渫された港内は再び土砂で埋まり、船着き場や関連施設も流失した可能性が高い。長谷川長綱の構想と、それを引き継いだ人々の努力は、文字通り一夜にして水泡に帰したのである。

二度目の復興:徳川政権の危機管理能力

この予期せぬ大災害は、発足したばかりの徳川政権にとって、その統治能力が試される最初の大きな試練であった。特に、江戸の生命線を支える戦略的要衝として再興を進めていた下田湊の壊滅は、幕府の威信に関わる一大事であった。

ここで注目すべきは、幕府が下田湊の放棄という選択をしなかった点である。その戦略的重要性を再認識した幕府は、直ちに再度の復旧事業に着手したと推察される。この二度目の復興は、単なる土木工事に留まらなかった。被害状況の正確な調査、復旧のための追加予算の確保、被災した住民の救済、そして将来の津波に備えた、より強固な港湾施設の再設計。これらは、高度な行政能力と安定した財政基盤なくしては成し遂げられない。

この災害からの復旧プロセスこそが、徳川政権の危機管理能力と国家としての強靭さを、全国の大名や民衆に示す絶好の機会となった。慶長九年の「計画的再興」が志半ばで頓挫したとすれば、この慶長十年(1605年)以降に行われたであろう「災害復旧」こそが、下田湊を真に恒久的な港として蘇らせた「本当の再興」であったと言える。この苦難を乗り越えた経験が、下田湊を単なる物流拠点から、徳川の泰平を象徴する強固なインフラへと昇華させたのである。

第五章:「海の関所」としての確立と江戸時代の繁栄

慶長九年の再興計画と、それに続く慶長地震津波からの二度にわたる復旧事業。この産みの苦しみを経て、下田湊は徳川幕府の国家戦略における不可欠な要衝としての地位を不動のものとした。その重要性は、単なる物理的なインフラの整備に留まらず、新たな行政・経済システムをこの地に根付かせ、江戸時代を通じての繁栄の礎を築くことになった。

元和二年(1616年):下田奉行所の設置

一連の再興事業が完了し、下田湊が安定的かつ恒久的な港として機能し始めると、幕府はその管理体制をさらに強化する。元和二年(1616年)、徳川家康が没した年に、幕府は下田に常設の行政機関として「下田奉行所」を設置した 17 。これは、遠国奉行の一つであり、長崎奉行や佐渡奉行などと並ぶ、幕府の重要直轄地を統治する役職であった。

初代奉行には今村彦兵衛重長が任命されたと伝えられる 18 。奉行所の設置は、下田の管理が代官の臨時的な管轄から、幕府直属の恒久的な行政機関へと格上げされたことを意味する。その任務は、港の警備、そして何よりも江戸に出入りする廻船とその積荷を厳しく検問することであった 18 。これにより、下田は箱根関所の「陸の関所」に対し、「海の関所」としての役割を公式に担うことになったのである 39

廻船問屋の成立と湊町の発展

下田奉行所の監督下で、日々入港する膨大な数の船舶を効率的に検査し、管理する必要性が生じた。この行政需要に応える形で、官民連携のユニークなシステムが生まれる。それが「廻船問屋(かいせんどんや)」制度である。

第二代下田奉行とされる今村伝四郎正長は、奉行所の業務の一部を民間の有力な船主や商人に委託する仕組みを整えた 41 。廻船問屋は、奉行所の指示のもと、入港した船の積荷改めや乗組員の確認といった実務を代行した。これは、現代で言うところの行政サービスの民間委託の先駆けであり、官の権威と民の活力を融合させた、極めて合理的なシステムであった。

この制度により、下田の湊町には大きな経済的利益がもたらされた。廻船問屋を営む商人たちは、手数料収入や廻船業そのもので富を蓄積し、豪商へと成長していった。現在も下田の町並みにその姿を残す、なまこ壁の美しい商家・鈴木家(屋号「雑忠」)などは、この時代に廻船問屋として栄えた代表的な存在である 13 。港の再興が、町の経済的発展と文化的な成熟を促す触媒となったのである。

風待ち港としての役割と航路の安定化

再興され、強固な管理体制が敷かれた下田湊は、全国的な海上交通網の中で、その地理的特性を最大限に発揮することになる。伊豆半島周辺の海域は、複雑な地形と厳しい気象条件から、古来より航海の難所として知られていた 32

特に、江戸と大坂を結ぶ菱垣廻船や樽廻船、あるいは寛文十年(1670年)に河村瑞賢によって開かれた東北からの東廻り航路を利用する船舶にとって、下田湊は荒天を避けるための「風待ち港」あるいは「避難港」として、なくてはならない存在となった 26 。房総半島沖の難所を越える前に、あるいは西からの強風を避けるために、多くの船が下田に入港し、順風を待った 27 。最盛期には、年間三千艘もの千石船が寄港したとも言われる 42

この「風待ち港」としての機能が、江戸への物資供給を格段に安定させた。天候という不確定要素によるリスクを、下田湊というインフラが吸収することで、日本の大動脈である海上輸送路の信頼性は飛躍的に向上した。慶長九年の再興事業は、単に一つの港を蘇らせただけでなく、江戸時代の経済と社会を根底から支える、巨大なシステムの重要な歯車を創り出したのである。

結論:下田湊再興が歴史に刻んだもの

慶長九年(1604年)の「下田湊再興」は、単なる一地方における港湾復旧事業ではない。それは、戦国の動乱が終わり、徳川による泰平の世が築き上げられていく過程を凝縮した、象徴的な出来事であった。本報告書で多角的に検証してきたその意義は、以下の三点に集約される。

第一に、下田湊再興は 国家建設の縮図 であった。荒廃した旧時代の遺構(後北条氏の城砦)の上に、新時代の要請(江戸への物資供給と海上監視)に応える新たなインフラを築き上げるというプロセスは、まさしく徳川幕府が日本全国で推し進めた統治体制構築のミニチュア版であった。そこには、為政者の明確なビジョン、それを実行する有能な官僚組織、そして予期せぬ天災をも乗り越える国家としての強靭さが示されている。

第二に、この事業は 機能転換の象徴 であった。戦国時代、下田は後北条氏の存亡をかけた「軍事拠点」であった。しかし、再興後の下田は、徳川幕府の治世を支える「経済・行政拠点」へとその役割を百八十度転換させた。この劇的な変貌は、日本の歴史が「乱」から「治」へ、武力による覇権争いの時代から、法と経済による統治の時代へと大きく舵を切ったことを、何よりも雄弁に物語っている。

そして第三に、下田湊再興は、歴史を動かす 人々の営みの証 である。徳川家康のグランドデザインと、それを具現化しようとした代官頭・長谷川長綱の情熱。彼の急逝という困難を乗り越え、計画を遂行した名もなき官僚や技術者たち。そして、過酷な土木作業に従事し、さらには大津波の災禍に見舞われながらも、故郷の港を蘇らせた伊豆の民衆。これらの様々な人々の営みが一体となって、一つの港を築き上げた。

慶長九年の出来事は、その後の下田奉行所の設置、廻船問屋の繁栄、そして幕末の開港へと続く、下田の長い歴史のまさしく起点となった。戦国の記憶の上に築かれ、泰平の世の礎となったこの港は、時代の転換点に立ち、未来への航路を切り拓いた日本の姿そのものであったと言えるだろう。

引用文献

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  4. 伊豆水軍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E6%B0%B4%E8%BB%8D
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  41. 了仙寺の歴史 https://ryosenji.net/history/
  42. 下田/開港の歴史 https://shimoda.izuneyland.com/kaikou.html