中山道宿駅制整備(1602)
慶長七年、徳川家康は中山道宿駅制を整備。戦国伝馬制を継承し、東海道と並ぶ国家幹線として、江戸と京を結ぶ安定交通網を確立。大久保長安らが指揮し、参勤交代や公用輸送の基盤となり、泰平の世を支えた。
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戦国終焉の帰結としての中山道宿駅制整備(1602年)―その歴史的文脈と多角的分析―
序論:関ヶ原の戦い後の天下統一と交通網の戦略的意義
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康にとって天下統一事業の決定的な一歩であった。しかし、武力による制圧は、恒久的な支配体制の始まりに過ぎない。大坂には依然として豊臣氏が健在であり、西国大名の動向も予断を許さない状況下で、家康が直面した喫緊の課題は、武力で得た覇権をいかにして永続的な「制度」として全国に浸透させるか、という点にあった 1 。この国家基盤構築の中核をなしたのが、江戸を基点とする全国的な交通・通信インフラ、すなわち五街道の整備であった。
徳川幕府が推し進めた街道整備は、単なる土木事業ではない。それは、権力者の命令を全国の隅々にまで迅速かつ正確に伝達し、地方の情勢を把握し、年貢米を輸送し、そして万一の反乱に際しては即座に軍隊を派遣するための、国家の神経網であり血管網であった 2 。家康が目指したのは、戦国時代のように在地領主の権力を介在させる間接的な支配ではなく、幕府が交通路を直接掌握し、管理する中央集権的なシステムであった 3 。この構想は、日本の政治的・経済的中心が、伝統的な京都から新たな拠点である江戸へと移行したことを物理的に、そして恒久的に示す行為に他ならなかった。道が江戸から放射状に伸びるということは、空間の認識そのものを徳川中心に書き換える、壮大な地政学的プロジェクトだったのである 4 。
さらに、この宿駅伝馬制は、戦国時代を通じて進行した兵農分離の完成形とも位置づけられる。軍事行動を専門とする武士階級と、それを後方で支える輸送・通信インフラは明確に分離される必要があった。宿駅制は、公的輸送の責務を街道沿いの特定の町(宿場)に専門的に負わせることで、武士階級を純粋な軍事・統治機能に特化させることを可能にした社会システムの一環であった 3 。本報告書は、慶長七年(1602年)の「中山道宿駅制整備」という事象を、単なる江戸幕府の政策開始点としてではなく、戦国時代という前史からの必然的な帰結として捉え、その歴史的文脈、具体的な整備過程、そして制度が内包した多面的な意味を徹底的に分析・解明するものである。
第一章:戦国時代の伝馬制―織田・豊臣政権下の交通政策とその限界
慶長七年(1602年)の中山道宿駅制整備は、全くの白紙から始まったわけではない。その構想の源流は、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉といった天下人の交通政策に求めることができる。彼らの試みは、徳川の制度の「雛形」となりつつも、その目的と性質において本質的な差異を内包していた。
戦国大名は、群雄割拠する中で領国を効率的に支配するため、本城と支城を結ぶ独自の交通・通信網を整備した。これは、兵の移動や軍需物資の輸送を円滑にし、領内の情報を迅速に集約するための、極めて軍事的な要請に基づくものであった 5 。中でも織田信長は、商業の活性化と軍事行動の迅速化を両立させるため、領国内の関所を撤廃し、街道の整備を進めたことで知られる 5 。信長が発給した「伝馬朱印状」は、特定の通行者に対し、宿場が伝馬(公用の馬)を提供するよう命じるものであり、彼の絶対的な権威を象徴する文書であった 6 。
信長の後を継いだ豊臣秀吉もこの政策を継承し、全国統一事業を推し進める中で、さらなる交通整備に努めた 5 。特に天正十八年(1590年)の小田原征伐や、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に際しては、京都・大坂から九州の肥前名護屋城に至る長大な軍事輸送路を重点的に整備し、大規模な兵員と物資の移動を可能にした 3 。
しかし、これらの織田・豊臣政権下の交通政策には、徳川のそれとは一線を画す明確な限界があった。信長や秀吉の交通政策は、常に「合戦に勝利する」「遠征軍を派遣する」といった、特定の軍事目標に直結した「目的志向型」の性格が強かった。整備される道や制度は、その時々の戦略的必要性に応じて構築される、いわばプロジェクトベースのものであり、全国を網羅する恒久的なシステムではなかったのである 3 。
この本質的な差異は、権力者が発給した朱印状のデザインにも見て取れる。信長の伝馬朱印には馬の顔が描かれるなど、高い意匠性が見られ、彼の革新的でカリスマ的な個性を強く反映している 7 。これは、信長個人の権威を視覚的に誇示する狙いがあったと考えられる。一方、徳川家康が用いた朱印は、「伝馬之調」といった文字が中心の実務的なものであり、個人のカリスマ性よりも制度そのものの権威を前面に押し出している 7 。これは、権力の源泉が、一人の天下人の個人的資質から、永続性を持つ「幕府」という統治機構へと移行していく時代の変化を象徴している。信長の朱印が「信長の命令に従え」というメッセージであるのに対し、家康の朱印は「この制度に従え」という、より普遍的で非人格的な命令へと変化しているのである。戦国期の伝馬制は、あくまで領国経営や軍事行動のための手段であったが、家康はそれを、今後数百年続く「天下泰平」の世を維持するための恒久的な社会インフラ、すなわち「体制維持型」のシステムとして再構築しようとした。その壮大な構想の第二歩が、中山道の整備だったのである。
第二章:慶長七年(1602年)中山道宿駅制整備のリアルタイムな時系列
関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に断行された東海道の宿駅制整備は、徳川幕府による全国交通網支配の第一歩であり、その後のすべての街道整備の基本モデルとなった 1 。この成功を踏まえ、家康は次なる一手として、東海道と並ぶもう一つの大動脈、中山道の整備に着手する。慶長七年(1602年)は、中山道沿いの村々が、幕府という巨大な権力システムに直接組み込まれる、まさに運命の年となった。
慶長七年初頭:整備の決定と奉行の任命
年が明けると、中山道の宿駅制整備が正式に決定された。この事業を現場で指揮したのは、家康の信頼厚い代官頭、大久保長安(十兵衛)をはじめとする奉行衆であった 10 。彼らは、東海道での経験を基に、中山道のルート上のどの集落を宿場に指定し、いかなる義務を課すかの実務に取り掛かった。
2月24日:御嵩宿への「伝馬朱印状」下付―制度開始の号令
この年の2月24日、中山道整備の開始を象徴する出来事が起こる。徳川家康自身の名で、美濃国御嵩宿(現在の岐阜県御嵩町)に対し、「伝馬朱印状」が下されたのである 10 。この朱印状には、馬の手綱を引く馬士の絵の上に「伝馬朱印」という朱印が押されており、一目でその目的がわかる意匠となっていた 11 。朱印状には「此の御朱印なくして伝馬を出すべからざる者也(この御朱印状がなければ伝馬を出してはならない)」といった趣旨の文言が記されており、幕府が公認した通行者(朱印状を持つ者)とそれ以外の者を明確に区別し、公用交通の優先性を絶対的なものとする強い意志が示されていた 9 。最高権力者である家康自身の名で発せられたこの命令は、中山道沿いの村々にとって、誰も逆らうことのできない絶対的な号令として受け止められた。
6月2日:「路次駄賃の定書」発布と運用の具体化
家康による権威の提示に続き、実務レベルでの制度設計が進められる。同年6月2日、大久保長安ら四人の奉行の連名で、同じく御嵩宿に対し「路次駄賃の定書(さだめがき)」が通達された 10 。これは、公用以外の一般の荷物(駄賃荷物)を輸送する際の公式な運賃(駄賃)を定めたものであった。これにより、宿場が輸送業務から得るべき正当な収入が保証されると同時に、不当な料金の請求が禁じられ、輸送システムの経済的な側面が具体的に規定された。
この一連のプロセスは、徳川初期の統治手法の巧みさを示している。まず、最高権力者たる家康が「朱印状」によって政策の基本方針を権威をもって示し、次に、実務官僚である奉行衆が「定書」によって具体的な運用ルールを定める。この権威による政治的決定と、官僚による実務的執行を分離・連携させる二段階の命令系統は、現場の混乱を防ぎつつ、抵抗を許さない威光と実用性を両立させる、近世的な統治システムの萌芽であった。
年内:宿場の指定と役割の賦課
御嵩宿への命令を皮切りに、同様のプロセスが中山道全域で展開された。江戸の日本橋から京の三条大橋(草津宿で東海道に合流)までの道筋に沿って、約二里から三里(約8kmから12km)の間隔を目安に、次々と宿場が指定されていった 8 。古くからの集落がそのまま宿場となる場合もあれば、複数の村から人々を移住させて新たな宿場町を形成する場合もあった 14 。宿場に指定された村々は、公用の人馬を提供する「伝馬役」という重い義務を負う代わりに、屋敷地の地税(地子)が免除されるといった特権を与えられた 9 。こうして慶長七年の一年間を通じて、中山道は戦国時代の分断された道を脱し、幕府の厳格な管理下にある一本の公道として生まれ変わったのである。
第三章:中山道宿駅制度の構造と機能―東海道との比較を交えて
慶長七年(1602年)に整備された中山道の宿駅制度は、前年に確立された東海道のそれをモデルとしつつも、その地理的条件や戦略的役割に応じて独自の特徴を持っていた。両街道を比較分析することで、徳川幕府の交通政策の複眼的な視点が明らかになる。
宿駅の責務と特権
中山道に設置された宿場(宿駅)の最も重要な役割は、幕府公用の旅行者や物資を次の宿場まで継ぎ送る「継立(つぎたて)」業務であった 15 。そのために各宿場には、人馬の手配や公用荷物の管理を行う「問屋場(といやば)」が設置され、宿役人が常駐した 16 。また、宿泊施設として、大名や公家、幕府の高級役人が宿泊する「本陣」、それに準ずる「脇本陣」、そして一般の武士や庶民が利用する「旅籠(はたご)」が軒を連ねた 16 。
これらの公的業務を円滑に遂行するため、各宿場には一定数の人馬を常に確保しておくことが義務付けられた。これが「常備人馬」である。その数は街道の重要度や交通量によって異なり、東海道が当初36人・36疋(ひき)、後に交通量の激増に伴い寛永十五年(1638年)から100人・100疋に拡充されたのに対し、中山道は基本的にその半分程度、50人・50疋(場所によっては25人・25疋)と定められていた 13 。この負担の見返りとして、宿場は伝馬役を担う家屋敷の地税(地子)を免除され、旅人の宿泊や物資輸送を独占的に行う経済的特権を与えられた 9 。
東海道との比較と中山道の戦略的価値
江戸と京都を結ぶ二大幹線として、東海道と中山道は相互補完的な役割を担っていた。東海道が総距離約492km、53の宿場を持つのに対し、中山道は総距離約534km、69の宿場を持つ、より長く宿場数の多い街道であった 21 。交通量は東海道が圧倒的に多く、参勤交代で利用する大名の数も多かったが、中山道には東海道にない独自の戦略的価値があった。
その最大の利点は、川留めの危険性が低いことであった。東海道には大井川や安倍川など、橋が架けられていない大河川がいくつも存在し、降雨による増水でしばしば交通が遮断された(川留め)。一方、中山道は木曽の山中など険しい峠道が続くものの、渡河不能になるような大河川は少なく、より安定した交通が期待できた 21 。
この安定性は、徳川幕府にとって極めて重要であった。なぜなら、東海道と中山道は、現代のインフラ設計における「冗長性(リダンダンシー)」を確保するための二重システムとして機能していたからである。東海道というメインルートに万一の障害(洪水、一揆、軍事的封鎖など)が発生した場合でも、中山道というバックアップルートによって江戸と上方の連絡を維持することができる。これは、徳川幕府が国家の安定運営において、いかにリスク管理を重視していたかを示す証左である。
「姫街道」としての性格
中山道の安定性は、その利用者の特性にも影響を与えた。特に、皇室や公家の姫君が将軍家へ降嫁する際など、国家的な重要行事においては、旅程の遅延は絶対に許されなかった。そのため、川留めのリスクが少ない中山道が頻繁に利用され、いつしか「姫街道」という異名で呼ばれるようになった 23 。文久元年(1861年)の皇女和宮の徳川家茂への降嫁の行列が中山道を通ったことは、その代表例である 14 。
この「姫街道」という優雅な響きの裏には、当時の長旅がいかに過酷で、特に身分の高い女性にとっては失敗の許されない国家的な行事であったかという現実がある。川留めによる数日間の足止めは、儀式の日程全体を破綻させかねない重大事であった。中山道が選ばれたのは、単に物理的に安定していただけでなく、こうした「失敗できない旅」を支えるという重要な社会的役割を担っていたことを意味する。街道の性格は、その主要な利用者によっても規定されるという好例と言えよう。参勤交代で中山道を利用した大名は、加賀藩前田家をはじめとして約30家にのぼった 20 。彼らにとっても、予測不能な川留めを避けられる中山道は、計画的な旅程を組む上で魅力的な選択肢だったのである。
第四章:信濃国における宿駅の成立と展開―佐久地方を事例として
制度の全体像から、具体的な地域レベルでの実装へと焦点を移すと、中山道が持つ多様な側面がより鮮明になる。中山道はその全行程の約3分の1が信濃国(現在の長野県)を通過しており、この地域は街道の性格を理解する上で極めて重要である。特に、宿場が連続する佐久地方をケーススタディとすることで、幕府の画一的な制度が、いかに地域の歴史的・地理的条件と相互作用しながら根付いていったかを見ることができる。
信濃国と佐久地方の地理的重要性
中山道六十九次のうち、信濃国には上野国(群馬県)との境である碓氷峠を越えた十八番目の軽井沢宿から、美濃国(岐阜県)へ抜ける四十二番目の妻籠宿まで、実に25の宿場が置かれていた 25 。中でも佐久地方には、軽井沢宿から芦田宿までの9宿が集中しており、浅間山麓の高原地帯から佐久平の平坦地、そして千曲川を渡る変化に富んだ景観が広がっていた 13 。
幕府は、全くの無から宿場を創設したわけではない。多くの場合、既存の集落や古くからの交通の要衝を宿駅として指定することで、効率的に制度を立ち上げた。その結果、宿駅制度はこれらの地域の伝統的な機能を公的な制度として追認し、街道交通量の増加によってさらに強化する触媒として機能した。中央の権力が地方の潜在能力を吸い上げ、国家システムに組み込んでいくプロセスが、ここに見られる。
佐久地方における各宿場の個性
佐久地方の宿場は、それぞれが独自の歴史的背景と機能を有しており、一括りにはできない多様性を持っていた。
- 岩村田宿(二十二番宿): 元禄十六年(1703年)に内藤氏一万五千石の岩村田藩が成立して以降、城下町としての性格を強めた 27 。特筆すべきは、城下町であったため、大名などの宿泊は藩が直接管理し、幕府公認の「本陣」「脇本陣」が設置されなかった点である。その代わりとして、龍雲寺や西念寺といった大規模な寺院が本陣の役割を担った 28 。また、中山道だけでなく、甲州や上州へ向かう脇街道の分岐点でもあり、米穀の集散地として商業的に大いに栄えた 28 。
- 望月宿(二十五番宿): この地は、古代から「望月の駒」として知られる名馬の産地であった 27 。八月の満月の夜に朝廷へ馬を献上したことが地名の由来とされ、宿場機能に加えて、馬の供給地としての重要な役割を兼ね備えていた 31 。本陣・問屋を務めた建物は、現在「望月歴史民俗資料館」としてその姿を伝えている 14 。
- 小田井宿(二十一番宿): 北国街道との分岐点である追分宿と、商業都市である岩村田宿という二つの大きな宿場に挟まれ、旅籠がわずか5軒ほどしかない小規模な宿場であった 14 。そのため、参勤交代の大名行列本体は隣の追分宿に宿泊することが多く、小田井宿は姫君の一行など、比較的規模の小さい、あるいは静かな環境を求める女性の休泊に利用されることが多かった。これが「姫の宿」と呼ばれる所以である 14 。
- 塩名田宿(二十三番宿): 「近郷無類の暴れ川」と称された千曲川の渡河点に位置する宿場であった 27 。江戸時代初期には橋が架けられていたが、度重なる洪水で流失し、渡し船に頼ることが多かった 28 。川の増水による足止めは旅人にとっては災難であったが、宿場にとっては宿泊客を増やす要因となり、川と共に生きる宿場として独自の発展を遂げた。
これらの事例は、中山道宿駅制という統一的な制度の下で、各宿場がいかに地域の特性を活かし、あるいは制約を受けながら、多様な貌を形成していったかを示している。
宿場名(次) |
江戸からの距離 |
成立の背景・特徴 |
天保14年(1843)時点の規模(概算) |
本陣・脇本陣・旅籠の数 |
岩村田宿 (22) |
約161km |
城下町、商業中心地、脇街道分岐点。本陣・脇本陣なし 28 。 |
家数350軒、人口1,455人 |
本陣0, 脇本陣0, 旅籠8軒 |
塩名田宿 (23) |
約169km |
千曲川の渡河点。川留めにより繁栄 27 。 |
家数116軒、人口574人 |
本陣2, 脇本陣1, 旅籠7軒 |
八幡宿 (24) |
約173km |
穀倉地帯の米集散地として慶長年間に整備 28 。 |
家数90軒、人口396人 |
本陣1, 脇本陣4, 旅籠3軒 |
望月宿 (25) |
約178km |
古代からの名馬の産地「望月の駒」 27 。 |
家数142軒、人口601人 |
本陣1, 脇本陣2, 旅籠30軒以上 |
(注) 上記のデータは、天保十四年(1843年)の『中山道宿村大概帳』や各市町村史などの資料に基づき再構成したものである。
第五章:宿駅の負担と助郷制度の導入―制度の矛盾と展開
幕府によって創設された宿駅制度は、江戸を中心とする公儀交通を確立し、全国支配を盤石なものにした一方で、その運営は宿場に極めて重い負担を強いるものであった。制度が発足して数十年が経過し、参勤交代が本格化すると、交通量は幕府の当初の想定をはるかに超え、宿駅制度は内側から矛盾を露呈し始める。その矛盾の象徴が「助郷(すけごう)制度」であった。
宿駅の疲弊と助郷制度の成立
宿駅の最大の義務は、公用通行の人馬を無賃、あるいは幕府が定めた極めて低い公定賃金で提供することであった 13 。寛永十二年(1635年)に参勤交代が制度化されると、大名行列の通行が急増し、宿場が常備する人馬だけでは到底対応しきれなくなった 15 。人馬が不足すれば、公儀交通に支障をきたす。この事態を解決するため、幕府は宿場周辺の村々に対し、不足分の人馬を提供する夫役を課した。これが助郷制度である 33 。
当初は臨時的な要請であった助郷役は、交通量の増大に伴って恒常化し、十七世紀後半、特に元禄七年(1694年)頃には全国的な制度として確立された 35 。各宿場ごとに、助郷役を負担する村々(助郷村)が指定され、その村々は幕府領・私領の別なく、宿場からの要請に応じて人馬を差し出す義務を負った 13 。
この助郷制度は、徳川幕府の財政的限界と、その支配イデオロギーの現れであった。幕府は、インフラ維持のコストを貨幣で直接支出するのではなく、「公儀のため」という大義名分のもと、支配下の農民から労働力(夫役)を直接徴発するという、中世以来の収奪構造を温存・活用したのである。助郷制度は、近世国家の基盤インフラが、前近代的な収奪システムによって支えられていたという、体制の根本的な矛盾を露呈していた。
助郷の過酷な負担と社会への影響
助郷村にとって、この課役は極めて過酷なものであった。特に農繁期に人馬が動員されることは、村の生産活動に深刻な打撃を与えた 13 。助郷に関する支出が、村の年間総支出の4割から5割を占めることも珍しくなく、多くの助郷村が財政的に窮乏した 13 。
この負担は、宿場と助郷村の間に深刻な対立を生み出した。助郷村は負担の軽減を求めて幕府や藩にたびたび訴願し、時には宿場役人の不正を追及することもあった 32 。一方、宿場側も公儀の命令を遂行するため、助郷村に厳しい要求をせざるを得ないという板挟みの状況にあった。この構造は、街道の発展によって経済的に繁栄する「都市」的な空間である宿場と、その繁栄を支えるために収奪の対象となる「農村」である助郷村との間の、近世社会における分断と緊張をはらんだ相互依存関係の縮図と言える。
信濃国佐久地方においても、助郷の編成は複雑を極めた。浅間山麓の軽井沢・沓掛・追分の三宿は、佐久郡内だけでなく上州の村々をも助郷に指定し、川西の塩名田・八幡・望月・芦田の四宿も広域の村々を共同の助郷とするなど、時代に応じて何度も編成替えが行われた 13 。制度は次第に複雑化し、常に助役を負う「定助郷」や、大規模な通行の際に臨時に動員される「大助郷」といった区分も設けられた 37 。この制度は、明治五年(1872年)に廃止されるまで、農村に重い影を落とし続けたのである 32 。
結論:戦国から江戸へ―中山道が果たした歴史的役割
慶長七年(1602年)の中山道宿駅制整備は、単なる一つの交通政策ではなく、日本の歴史が戦国の「力による支配」から江戸の「制度による支配」へと大きく転換する画期を象徴する一大事業であった。それは、徳川による二百数十年の泰平の世を支える物理的基盤を構築する上で、不可欠な要素であった。
本報告書で詳述したように、中山道の整備は、戦国大名による領国単位の交通政策という萌芽を、全国規模の恒久的システムへと昇華させるものであった。徳川家康は、江戸を中心とする新たな政治秩序を全国の隅々にまで浸透させるための神経網として街道を位置づけ、その管理・運営を幕府の直接支配下に置いた。慶長七年に発せられた「伝馬朱印状」と「路次駄賃の定書」は、権威による命令と官僚による実務という、近世的な統治手法の確立を示すものであった。
東海道との比較においては、中山道が単なる代替路ではなく、川留めというリスクを回避し、国家システムの安定性を確保するための「冗長性」を持つ戦略的なインフラであったことが明らかになった。「姫街道」という呼称は、その安定性が国家の重要行事を支えるという社会的役割を担っていたことを物語っている。さらに、信濃国佐久地方の事例分析を通じて、幕府の統一的な制度が、城下町、馬産地、渡河点といった地域の多様な歴史的・地理的条件と結びつきながら、いかに具体的に展開していったかを示した。
しかし、その栄光の裏には、宿駅制度が内包する構造的矛盾が存在した。参勤交代の定着による交通量の増大は、宿場の負担能力を超え、そのしわ寄せは「助郷」という形で周辺農村に転嫁された。この制度は、近世国家のインフラが前近代的な労働力収奪に依存していたという事実を浮き彫りにし、宿場と農村の間に深刻な対立を生んだ。
結論として、中山道宿駅制整備は、戦国の分断を克服し、統一国家・日本の物理的骨格を形成した。このインフラがなければ、参勤交代による大名統制も、全国規模の市場経済の発展も、そして後世に花開く庶民の旅や文化交流も、我々が知る形では存在し得なかったであろう。軍事・政治的目的から始まったこの壮大な事業は、結果として人、モノ、情報の流通を促進し、日本社会の均質化と活性化に大きく貢献した。その構築と維持の過程には、徳川幕府の統治の巧みさと、それが内包する構造的矛盾が集約されており、近世という時代そのものを理解するための重要な鍵となっているのである。
引用文献
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- 道 の 歴 史 - 歴史街道などを歩く http://s-yoshida5.my.coocan.jp/download/list/mitinorekisi.pdf
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- 戦国の世の通信から、現代に生きることのありがたさを知る https://kantuko.com/ncolumns/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C/
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- 佐久歴史の道【中山道 / 佐久甲州道】のご案内 | 小田井宿・岩村田宿・塩名田宿・八幡宿・望月宿・茂田井間の宿 https://www.sakucci.or.jp/nakasendo/
- 特集『信州歩く観光』 先人たちが歩き築いた歴史街道「中山道」を歩く。 https://www.go-nagano.net/tradition-and-culture/id21296
- 長野県に残る中山道と宿場町を巡る① 「軽井沢宿~下諏訪宿~妻籠宿」前編 https://www.go-nagano.net/tradition-and-culture/id17884
- 中山道5宿 - 佐久市観光協会 https://www.sakukankou.jp/sightseeing/nakasendou/
- 中山道・佐久の道|誰といつ行く - 佐久市観光協会 https://www.sakukankou.jp/plan/taiken5/
- 佐久・中山道さんぽ 第5弾|岩村田宿:暮らしの中にある宿場町 商人の歴史と人の営みを感じる町 https://plaza-saku.com/blogs/contents/20250624
- 望月宿 - 佐久広域連合 https://www.areasaku.or.jp/kankou/spot/19023.html
- 望月宿(佐久市)|馬を継ぐ宿として栄えた中山道の宿場町 - アサマdeドットコム https://asama-de.com/toshin/archives/327
- 助郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E9%83%B7
- 歴史を訪ねて 街道筋の助郷制度 - 目黒区 https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/sukego.html
- 【助郷(すけごう)】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100030/ht010640
- (第299号)宿場の仕事を課せられた助郷の村々 (平成25年4月1日号) - 三島市 https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn017346.html
- 助郷(スケゴウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A9%E9%83%B7-83668
- 宿場町と助郷村との関係 http://hist-geo.jp/img/archive/026_147.pdf