最終更新日 2025-10-01

中津蔵屋敷設置(1601)

慶長六年、細川忠興は中津藩の大坂蔵屋敷を設置。関ヶ原後の新時代、武力から経済へ転換する中で、膨大な石高を現金化し、藩財政を確立する戦略的拠点とした。これは小倉城築城の財源ともなった。
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慶長六年の決断:中津藩蔵屋敷設置に見る戦国終焉と新時代の幕開け

序章:関ヶ原の余燼、大坂の胎動

慶長六年(1601年)。日本の歴史が、ひとつの巨大な分水嶺を越えた直後の年である。前年秋、美濃国関ヶ原で繰り広げられた天下分け目の合戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わり、豊臣家が築いた権力構造は事実上崩壊した。戦国の動乱はここに終焉を迎え、日本は「元和偃武」として知られる永き泰平の世へと、その第一歩を踏み出しつつあった。しかし、戦場の砲煙は消え去っても、人々の心に深く刻まれた戦国の気風は、未だ列島の隅々に色濃く燻っていた。論功行賞による大名の改易や転封が矢継ぎ早に行われ、新たな知行地を得た者、故郷を追われた者、それぞれの思惑が交錯し、天下は静かな緊張感に包まれていた。

この激動の時代にあって、大名たちの価値観は、根底からの変革を迫られていた。これまで武将の力量を測る最大の尺度は、戦場における武功、すなわち動員可能な兵力であった。しかし、徳川の治世が現実のものとなるにつれ、大名同士の私戦は厳しく禁じられ、武力を行使する機会は急速に失われていく。代わって浮上したのが、「石高」という新たな権力の指標である。領地の経済生産力を米の収穫量で数値化したこの制度は、大名の序列を決定づける絶対的な基準となった。

この新たな時代の論理は、大名たちに全く新しい能力を要求した。それは、槍働きや軍略の才ではなく、領地を経営し、年貢として徴収した米をいかに効率的に富、すなわち貨幣へと転換するかという「統治」と「経済」の能力である。参勤交代、江戸藩邸の維持、城郭の普請、そして膨れ上がる家臣団の俸禄。これら近世大名としての責務を果たすためには、莫大な現金収入が不可欠であった 1

本報告書が主題とする慶長六年(1601年)の「中津藩による大坂蔵屋敷の設置」は、このような時代の大きな地殻変動を象徴する、極めて重要な事変である。一見すれば、それは単なる一藩の財政政策に過ぎないかもしれない。しかし、その背景を深く探る時、我々は戦国武将が近世大名へと自己変革を遂げるための、意識的かつ戦略的な一手であったことを看取する。武力という「ハードパワー」の時代が終わりを告げ、財政・経済運営能力という「ソフトパワー」が支配の根幹を成す新時代の幕開け。その黎明期に、一人の戦国武将が下した決断の意味を、本報告書は時系列に沿って徹底的に解明するものである。

第一章:豊前の新領主、細川忠興 ― 膨張する石高と財政的挑戦

この歴史的決断の主役は、細川藤孝(幽斎)の子、細川忠興(三斎)である。忠興は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕え、激動の戦国乱世を生き抜いた歴戦の武将であった。五十回に及ぶ戦陣を経験した猛将であると同時に、父・幽斎から古今伝授を受けるほどの当代随一の文化人でもあり、特に茶の湯の世界では千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられるなど、武と文を高い次元で兼ね備えた多面的な人物であった 2

関ヶ原の功臣、その恩賞と転封

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、忠興は一貫して東軍に与し、その勝利に大きく貢献した。この功績に対し、徳川家康は破格の恩賞をもって報いた。忠興は、それまでの丹後宮津12万石の所領に加え、豊前一国と豊後二郡(国東郡、速見郡)を与えられ、その石高は実に39万9千石(実高30万石とも)に達したのである 4 。これは、一介の大名から、九州を代表する大大名へと一躍躍り出ることを意味した。同年十二月、忠興は新たな本拠地として、かつて黒田官兵衛(如水)が築いた豊前国中津城に入城した 4

しかし、この栄光に満ちた転封は、忠興にとって新たな挑戦の始まりでもあった。石高が三倍以上に膨れ上がったことは、単に収入が増えることを意味しない。それは同時に、統治すべき領地と領民、そして扶持すべき家臣団が、かつてない規模に膨張したことを示していた。旧領主である黒田家の統治から引き継いだばかりの土地で、いかにして人心を掌握し、安定した支配体制を築くか。そして何よりも、この巨大な領国をいかにして経営し、石高に見合った実質的な財政力を確保するか。これらは、忠興が直面した喫緊の課題であった。

新領地の現実と財政的課題

中津城に入った忠興がまず直面したのは、この膨大な石高をいかにして「富」に転換するかという、極めて現実的な問題であった。藩の運営には、武具の購入、公共事業、そして江戸での藩邸維持費など、あらゆる場面で現金(金銀)が必要となる 7 。しかし、農民から徴収する年貢は、あくまで現物である米である。この米を、有利な価格で、かつ安定的に現金化する仕組みを構築しなければ、いかに広大な領地を領有しようとも、それは「絵に描いた餅」に過ぎず、藩財政は早晩破綻する運命にあった。

39万9千石という膨大な量の年貢米を、領内やその周辺地域だけで有利に売却することは、到底不可能であった。需要をはるかに超える供給は米価の暴落を招き、期待される歳入を確保できないばかりか、領内の経済を混乱させる危険性すら孕んでいた。忠興にとって、この増大した石高は、藩経営を盤石にする「資産」であると同時に、一歩間違えれば統治を不安定化させかねない巨大な「リスク」でもあったのである。

さらに、忠興の胸中には、いずれ本拠地を豊前の中心地である小倉に移し、天下に示すに足る壮大な城を築くという構想があった 5 。この巨大プロジェクトを実行に移すためには、莫大な資金の調達が不可欠であり、それは新領地経営の初期段階から見据えておくべき最重要課題であった。

こうした状況認識の下、細川忠興の視線は、豊前からはるか東方、瀬戸内海の先に位置する都市、大坂に向けられる。増大した石高という資産を、藩経営の破綻という負債に転化させないための、そして未来への投資を実現するための、唯一にして最善の活路がそこにあった。忠興にとって、大坂への経済拠点、すなわち蔵屋敷の設置は、単なる選択肢の一つではなく、新領主として生き残るための必須の初期投資だったのである。

第二章:「天下の台所」の夜明け ― なぜ大坂だったのか

細川忠興が、自藩の経済的命運を託す地として大坂を選んだのは、決して偶然ではない。慶長六年時点の大坂は、日本の他のどの都市にもない、唯一無二の可能性を秘めた場所であった。その優位性は、歴史的経緯、地理的条件、そして経済的潜在能力という三つの側面から説明することができる。

豊臣の遺産と水運の要衝

大坂が日本の中枢都市として飛躍する直接的な契機は、豊臣秀吉による大坂城の築城と、それに伴う大規模な城下町建設であった 10 。秀吉は、自由都市として栄えた堺の特権を大坂に移し、全国から商人や職人を集住させることで、大坂を政治・経済の中心地へと強引に押し上げた。この過程で、東横堀川や西横堀川といった運河が次々と開削され、市中に水路のネットワークが張り巡らされた 12 。この都市インフラこそが、後に大坂を「水の都」たらしめ、その物流機能を決定づける最大の要因となった。

地理的に見ても、大坂は西国諸藩にとって絶好の位置にあった。瀬戸内海に面し、西日本の各地と海路で直結している。豊前国から年貢米を積み出した大型船は、瀬戸内海の安定した航路を通り、大坂湾まで効率的に物資を輸送することができた 13 。さらに、大坂は淀川を通じて京とも結ばれており、古くからの政治・文化の中心地へのアクセスも容易であった。この水運の利便性は、米という重く嵩張る商品を大量に輸送する必要があった諸藩にとって、他の何物にも代えがたい魅力であった 7

商都への変貌と蔵屋敷の黎明期

関ヶ原の戦いの後、日本の政治の中心は江戸へと移行する。しかし、大坂は秀吉時代に集積された商人資本と、前述の優れた物流インフラを基盤として、政治都市から経済特化型の商業都市へと、その性格を鮮やかに変貌させていった 11 。この動きを象徴するのが、淀屋常安に代表される豪商たちの活動である。淀屋は、幕府の許可を得て中之島の開発などを手掛け、私設の米市場を開設するなど、民間主導で大坂の経済的発展を牽引した 15 。全国から物資が集まり、ここで価格が形成され、再び全国へと流通していく。まさしく「天下の台所」としての機能が、この時期に形成されつつあったのである 14

諸藩が年貢米の換金拠点として大坂に蔵屋敷を設置する動きは、実は豊臣政権期に加賀前田家などによって既に始められていた 17 。しかし、その数が本格的に増加し、システムとして定着するのは関ヶ原以降のことである。慶長年間にはまだその数は決して多くはなかったが 18 、細川忠興のような鋭敏な感覚を持つ大名は、来るべき時代の経済の中心がこの地になることを確信していた。

特筆すべきは、慶長六年という時期の大坂が置かれていた、政治的に極めて特異な状況である。この時点では、徳川の支配体制はまだ盤石とは言えず、一方、豊臣秀頼とその母・淀殿は依然として大坂城に絶大な影響力を保持していた。つまり、大坂は徳川の権力と豊臣の権威が拮抗する、ある種の「政治的緩衝地帯」となっていた。この権力の隙間ともいえる状況が、逆に経済活動の自由度を高める結果をもたらした。細川家のような外様大名にとって、幕府の過度な干渉を警戒することなく、純粋な経済合理性に基づいて拠点を設けるには、またとない好機であった。経済的合理性に加え、この時期特有の地政学的条件が、忠興の決断を後押ししたのである。

第三章:中津蔵屋敷設置への道程 ― 慶長六年のリアルタイム再現

利用者から寄せられた「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるため、本章では慶長六年(1601年)の一年間に、豊前中津と摂津大坂で繰り広げられたであろう出来事を、史実の蓋然性に基づき再構成する。

初春:中津城での評定

年が明けた慶長六年の初春、豊前国中津城内では、藩主・細川忠興と家老たちによる重要な評定が開かれていた。議題は、この広大な新領地における最初の本格的な藩政の始動である。前年秋の入封以来行われてきた検地の初期報告が上がり、予想される年貢米の収穫量が具体的に示される。その膨大な量に一同が息を呑む中、忠興は、これをいかにして藩の財政基盤たる現金収入に結びつけるかという、核心的な問いを投げかける。

家臣の中には、領内や隣接する市場での売却を主張する者もいたであろう。しかし、経済に通じた奉行衆からは、供給過多による米価下落の危険性と、全国最大の市場となりつつある大坂の潜在能力に関する報告がなされる。瀬戸内海を往来する商人たちから得た情報であろう、そこでは米が安定して高値で取引され、全国の富が集積し始めているという。議論の末、忠興は決断を下す。「大坂に、我らの蔵屋敷を設ける」。これは、単なる米の販売拠点の設置に留まらず、細川家の経済戦略の拠点を、領国から遠く離れた商都に築くという、戦国武将の常識を超えた決断であった。

初夏:大坂への使者派遣と用地交渉

決定が下されると、行動は迅速であった。藩の重臣の中から、交渉能力と経済感覚に優れた者が「蔵役人」の筆頭として選任され、使者として大坂へ派遣される。彼らに課せられた使命は、蔵屋敷建設に最も適した土地を確保することである。

大坂に到着した使者たちは、まず用地の選定に取り掛かる。年貢米を積んだ大型船が接岸できる川沿いであることが絶対条件であった。必然的に、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島や、その両岸が最有力候補地となる 13 。水運の便が良く、将来の発展が見込める一等地である。

しかし、用地の確保は一筋縄ではいかなかった。当時の大坂は幕府の直轄領(天領)であり、大名が直接土地を所有することは認められていなかったのである 19 。そこで使者たちは、当時の慣習に従い、大坂の有力な町人を「名代(みょうだい)」として立て、その町人名義で土地を賃借するという、複雑な交渉に臨んだ。この名代となる町人は、単なる名義貸しではなく、将来的に蔵屋敷の運営に関わる重要なパートナーとなる可能性があった。藩の信用と将来性を示し、有力町人との間に信頼関係を築くことが、交渉の成否を分ける鍵であった。

盛夏~秋:蔵屋敷の建設

用地交渉がまとまると、すぐさま建設工事が開始された。豊前から呼び寄せられた普請奉行の指揮の下、大坂の職人たちが動員され、夏の厳しい日差しの中で工事は急ピッチで進められた。

建設される蔵屋敷は、単なる倉庫ではなかった。それは、複数の機能を持つ複合施設であった。

第一に、藩の威信を示す壮麗な門構えと、蔵役人たちが執務し居住するための「屋敷」。

第二に、数万石の米俵を湿気や火災から守り、安全に保管するための巨大な「土蔵」。

そして、最も重要かつ技術を要したのが、川から直接、荷を積んだ小舟を引き入れるためのドック状の施設、「船入(ふないり)」であった 13。これにより、沖合の大型船から米俵を積み替えた小舟(茶船や上荷船)が、陸揚げの手間なく直接蔵の目の前まで荷を運び込むことが可能となり、輸送効率が飛躍的に向上するのである 7。この大規模な掘削と石垣普請は、当時の最先端の土木技術を要するものであった。

冬:豊前からの初荷到着

秋、豊前の国々では黄金色の稲穂が頭を垂れ、収穫の時を迎えた。農民から徴収された新米は、厳格な検査の後、俵に詰められ、最寄りの港へと集積される。そして冬の初め、いよいよその年の初荷が、大型の廻船に満載され、大坂を目指して豊前の港を出帆した。

数日間の航海の末、船団は大坂湾にその姿を現す。その報は飛脚によって、完成したばかりの中津藩蔵屋敷にもたらされた。屋敷内では、蔵役人や手代たちが慌ただしく準備を整える。沖合に停泊した廻船からは、待機していた数十艘の茶船や上荷船へと、次々と米俵が移されていく。やがて、米俵を山と積んだ小舟の列が、川を遡って蔵屋敷へと向かう。

そして、歴史的な瞬間が訪れる。先頭の小舟が、完成したばかりの船入の水門を潜り、屋敷の敷地内へと滑り込む。荷揚げ場の前で、藩の役人たちの厳しい検分の後、最初の米俵が蔵の中へと運び込まれていった。ここに、中津藩大坂蔵屋敷は、名実ともにその機能を始動させたのである。細川忠興の慶長六年の決断は、一年という歳月を経て、見事に結実した。

この一連の動きは、細川家が新領地経営において、いかに蔵屋敷の設置を重視し、戦略的に行動していたかを示している。以下の年表は、その文脈をより明確にするものである。

年代

出来事

意義

慶長五年(1600年)秋

関ヶ原の戦い

細川忠興、東軍に与し戦功を挙げる。

慶長五年(1600年)冬

豊前中津39万9千石へ加増・転封

九州を代表する大大名となるも、新たな財政的課題に直面。

慶長六年(1601年)

中津藩、大坂に蔵屋敷を設置

膨張した石高を現金化し、藩財政を確立するための最重要戦略。

慶長七年(1602年)

小倉城の築城を開始

蔵屋敷からの安定収入を前提とした、大規模な未来への投資。

この時系列が示す通り、蔵屋敷の設置は、新領地拝領の直後、かつ小倉城という巨大プロジェクトの直前という、極めて重要なタイミングで断行された。それは、細川家の豊前支配における一連の戦略的行動の「要」であり、来るべき時代を見据えた、まさに未来への布石であった。

第四章:蔵屋敷という名の経済エンジン ― 機能と影響

慶長六年に設置された中津藩蔵屋敷は、その後、細川家の藩政を支える強力な経済エンジンとして機能していく。それは単なる米の貯蔵・販売施設に留まらず、金融、物資調達、情報収集といった多岐にわたる役割を担う、藩の出先総合機関であった。

蔵屋敷の組織と運営体制

蔵屋敷の運営は、武士階級である「蔵役人」と、町人階級である「出入商人」との巧みな協業体制によって成り立っていた。

  • 蔵役人 : 藩主から直接派遣された武士であり、蔵屋敷全体の監督・指揮を行った。その最高責任者は「留守居(るすい)」と呼ばれ、藩の権威を代表する重要な役職であった 18 。彼らは、蔵物の管理状況を監督し、重要な商取引を承認し、藩への送金額を決定するなど、最終的な意思決定を担った。
  • 蔵元(くらもと) : 蔵物の管理、出納、そして商人への販売といった実務を担当した。当初は蔵役人が兼任することもあったが、取引が複雑化・大規模化するにつれ、市場の動向や商慣習に精通した有力な商人が請け負うようになった 8
  • 掛屋(かけや) : 蔵物の売却代金の管理、藩への送金、さらには藩が必要とする資金の融通(大名貸)など、金融・会計業務を専門に担当した。掛屋は絶大な信用を持つ豪商が務め、藩の財政を実質的に動かすほどの力を持つことも少なくなかった 8

この武士による「監督」と、商人による「実務」という分業体制は、極めて画期的であった。それは、身分制度が厳格であった江戸時代において、経済運営という専門分野の実務を、武士が商人に「外部委託(アウトソーシング)」するという、社会的分業の始まりを意味していた。戦国時代、領国の経済は代官などの武士が直接管理するのが常識であったが、全国規模の市場経済が勃興する中で、相場や金融に関する高度な専門知識が不可欠となった。細川忠興の決断は、この時代の変化を的確に捉え、身分よりも実利と専門性を重んじた、合理的な経営判断であった。このシステムは、後の江戸時代の社会経済を特徴づける「武士の権威」と「商人の実利」の共存関係の原型となったのである。

多角的な機能

蔵屋敷が果たした機能は、主に以下の四つに大別される。

  1. 経済機能 : 最も基本的な機能であり、領国から送られてくる年貢米や砂糖、和紙、畳表といった特産物(これらは「蔵物」と呼ばれる)を、入札制度などを通じて大坂の商人に売却し、現金収入を確保することであった 23
  2. 金融機能 : 藩財政が窮乏した際、掛屋を通じて必要な資金を借り入れる「大名貸」の窓口となった 18 。蔵屋敷は、藩の信用力を示す拠点でもあり、その存在が円滑な資金調達を可能にした。
  3. 調達機能 : 領内では生産できない、あるいは品質が劣る物資(例えば、江戸で流行する呉服や書籍、高品質な武具、薬品など)を、大坂の市場で購入し、領国へ送る拠点であった 24
  4. 情報・政治機能 : 大坂は全国から人・物・金、そして情報が集まる一大拠点であった。蔵屋敷は、米相場の動向はもちろん、幕府の法令や諸藩の動静、さらには海外の情勢(長崎の蔵屋敷は特にこの機能が強かった 25 )といった、藩政運営に不可欠な最新情報を収集するアンテナとしての役割も果たした 26

米取引の革新と堂島米市場への道

蔵屋敷における米取引は、江戸時代の経済システムに革命的な変化をもたらした。取引は、現物の米を直接売買するのではなく、より洗練されたシステムで行われた。まず、幕府から公認された仲買人たちが、蔵屋敷が提示する米に対して入札を行う 8 。最高値を付けた仲買人が落札するが、その場で米と代金が交換されるわけではない。

落札した仲買人は、まず代金を掛屋に支払い、「銀切手」と呼ばれる受領証を受け取る。次に、この銀切手を蔵元に提示し、米との引換証券である「米切手(こめきって)」と交換する 8 。この米切手自体が市場で流通し、売買の対象となったのである。米の現物を持たずとも、この証券さえあれば誰でも米の取引に参加できるようになった。

このシステムは、取引を現物から切り離し、米を金融商品へと昇華させた。これがさらに発展し、まだ収穫されていない未来の米を取引する「先物取引」の仕組みを生み出し、後に幕府公認となる「堂島米市場」へと繋がっていく 20 。細川藩の蔵屋敷もまた、この世界史上でも類を見ない先進的な市場形成の一翼を担ったのである。蔵屋敷からの安定した現金収入は、慶長七年(1602年)から始まる小倉城の大規模な築城 5 や、その後の藩政安定に不可欠な財源となったことは想像に難くない。

結論:一点の事変が映し出す時代の肖像

慶長六年(1601年)における中津藩の「大坂蔵屋敷設置」という事変は、単なる一藩の財政史上の出来事に留まるものではない。それは、日本の歴史が「武」の時代から「財」の時代へと大きく舵を切る、その転換点を鮮やかに映し出す象徴的な一齣であった。

本報告書を通じて明らかになったように、この決断の根底には、戦国乱世を生き抜いた武将・細川忠興の、新時代に対する鋭敏な洞察と、生存をかけた戦略的思考があった。関ヶ原の戦功による石高の急増は、栄光であると同時に、藩経営を破綻させかねないリスクでもあった。この課題に対し、忠興は領国という閉じた世界に固執することなく、全国市場の中心となりつつあった大坂の経済的ポテンシャルに活路を見出した。これは、武力による領土拡大の論理から、経済運営による領国経営の論理へと、思考様式を転換させた証左に他ならない。

その舞台となった大坂は、豊臣の遺産である優れた都市インフラと、徳川の天下という新たな秩序が交差する、過渡期ならではの活気に満ちていた。忠興の決断は、この時代の潮流を的確に捉えた、時宜を得た一手であった。

そして、蔵屋敷というシステムそのものが、来るべき江戸時代の社会経済構造を規定する礎となった。武士が政策決定と監督に専念し、高度に専門的な経済実務を商人に委託するという新たな社会的分業は、身分制社会における合理的な協業モデルを提示した。この仕組みが、大坂を「天下の台所」として空前の繁栄へと導き、世界初の先物取引市場を生み出す原動力となったのである。しかしそれは同時に、藩財政が商人資本に深く依存する構造を生み、後の時代に多くの藩が巨額の借財に苦しむ遠因ともなった。武士が経済的に商人に頭を下げざるを得なくなる未来への扉は、皮肉にもこの時に開かれたのである。

結論として、「中津蔵屋敷設置」は、戦国時代の終焉と近世社会の幕開けが交錯する一点で行われた、画期的な事変であった。それは、一個人の決断が、いかに時代の本質を捉え、未来を形作っていくかを示す好例である。細川忠興が振るった算盤の一閃は、もはや刀槍の響きではなく、新たな時代の到来を告げる、静かだが確かな合図だったのである。

引用文献

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  2. 特別展「細川家の至宝-珠玉の永青文庫コレクション - 東京国立博物館 https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=677
  3. 特別展『細川家の至宝 〜珠玉の永青文庫コレクション〜』 - 九州国立博物館 https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s26.html
  4. 香春とキリシタン展の解説・講演内容|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/n1bf982afc742
  5. 第1話 小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉の町に残したものとは - 歴史ブログ 小倉城ものがたり https://kokuracastle-story.com/2019/11/story1-hosokawatadaoki/
  6. 小倉藩(こくらはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E8%97%A9-64333
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  9. 第66回 天守台の直線美!町歩きも楽しめる 小倉城 萩原さちこの城さんぽ - 城びと https://shirobito.jp/article/1813
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  11. 天下の台所へ導いた水路 大阪城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44016/
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  14. 大坂はなぜ「天下の台所」と呼ばれたのか? 水運で繁栄した美しき水の都をひも解く【連載】江戸モビリティーズのまなざし(6) | Merkmal(メルクマール) - (2) https://merkmal-biz.jp/post/20019/2
  15. 第10話 〜淀屋常安 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/010.html
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