丸亀城築城(1597)
慶長二年、豊臣政権末期、生駒親正・一正父子は讃岐国亀山に丸亀城を築城。渦郭式の先進的な縄張りと野面積みの石垣が特徴。慶長の役の兵站、西讃岐の統治拠点として、生駒氏の政治的生存戦略を象徴した。
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慶長二年の地平:豊臣政権末期における丸亀城築城の戦略的意義
序章:亀山に立つ新たな礎石 ― 時代の要請と戦略的布石
慶長二年(1597年)、天下統一が成り、しかしその平穏が未だ盤石とは言えぬ時代、讃岐国那珂郡の亀山と呼ばれる独立丘陵において、一つの巨大な普請が開始された 1 。これは、豊臣秀吉より讃岐一国を与えられた領主・生駒親正と、その嫡男・一正による丸亀城の創築事業である。この事業こそが、後の世に「石垣の名城」と謳われ、四国を代表する堅城としてその名を馳せることになる丸亀城の原点であった 5 。
本報告書は、この慶長二年(1597年)の築城開始という歴史的瞬間を、単なる一地方領主による支城建設という矮小な視点から解放し、豊臣政権末期の国内統治と対外政策という二つの巨大な歯車が噛み合う、国家的事業の一環として再評価することを目的とする。利用者によって提示された「高石垣の名城が築かれ港町を掌握」という鮮烈なイメージは、事実として、築城開始から約半世紀後の寛永年間(1640年代)以降、山崎家治という築城の名手による大改修によって完成された姿である 7 。しかし、その壮麗な城郭の根底には、常に生駒氏による創築の理念と構造が存在していた。
したがって、本稿では、後の時代の輝かしい姿から遡り、その礎となった生駒氏による創築期の「リアルタイム」な状況に焦点を絞る。慶長二年という特定の時点における国内外の緊迫した情勢、そこに生きた為政者たちの戦略的意図、そして当時の最先端であった築城技術の実相を時系列に沿って解き明かし、丸亀城がこの地に築かれねばならなかった必然性を徹底的に論証する。
第一章:平定後の四国 ― 「よそ者」大名と潜在的脅威
1.1 天正十三年(1585年)の四国平定と権力構造の再編
丸亀城築城の背景を理解するためには、時計の針をその12年前に戻す必要がある。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉は弟・秀長を総大将とする10万を超える大軍を派遣し、当時「四国の覇者」として君臨していた土佐の長宗我部元親を攻めた 10 。圧倒的な物量の前に元親は降伏し、土佐一国のみの領有を許される形でその軍門に下った 12 。
この「四国平定」により、阿波、讃岐、伊予の三国は秀吉の支配下に組み込まれ、豊臣恩顧の大名が新たに配置される「国分(くにわけ)」が断行された 13 。阿波には蜂須賀家政、讃岐には仙石秀久、伊予には小早川隆景といった、秀吉子飼いの武将たちが封じられたのである。この措置は、四国における中世以来の在地勢力を一掃し、中央集権的な豊臣政権の支配体制を確立するものであった。しかし、この新たな統治体制は、在地の人々から見れば中央から送り込まれた「よそ者」による支配であり、旧領主や土着の豪族による潜在的な抵抗のリスクを常に内包する、脆弱な基盤の上に成り立っていた 8 。
1.2 生駒親正の讃岐入府と高松城築城
讃岐国主となった仙石秀久は、天正十四年(1586年)の九州征伐における戸次川の戦いで大敗を喫し、改易される 11 。その後任として、天正十五年(1587年)、織田信長、豊臣秀吉に仕えた歴戦の武将・生駒親正が讃岐十七万石余の国主として入府した 8 。
親正は当初、領国統治の拠点として丸亀も候補地として検討したとされるが、最終的には東讃の港町・高松の地を選定した 8 。そして、瀬戸内海に面したこの地に、海水を引き込んだ広大な水堀を持つ近世的な平城、すなわち高松城の築城に着手したのである 16 。これにより、讃岐国の政治・経済の中心は東讃に置かれ、親正の統治はここを起点として進められることとなった。
1.3 「西讃岐の押さえ」の必要性
高松城の完成により東讃の支配体制は固まったが、それは同時に、国府としての機能が東部に偏在することを意味した。一方で、西讃岐地域は、依然として旧勢力の影響が色濃く残り、また地理的にも伊予や、何よりも潜在的脅威であり続ける土佐の長宗我部氏と境を接する、地政学的に極めて不安定な地域であった。
この状況は、生駒親正にとって看過できない統治上の弱点であった。領国全土に安定した支配を及ぼすためには、西讃岐に強力な軍事・政治拠点を築き、国境地帯に睨みを利かせることが喫緊の課題だったのである 7 。丸亀城の築城計画は、このような国内統治の安定化という内向きの要請から、必然的に生まれてきたものであった。
この計画の背後には、単なる生駒氏個人の領国経営という次元を超えた、豊臣政権全体の四国統治戦略が透けて見える。四国平定は軍事的な勝利であったが、それは長宗我部氏をはじめとする在地勢力の完全な心服を意味するものではなかった。特に長宗我部氏は、土佐一国を安堵されたとはいえ、その勢力と影響力は依然として侮りがたく、豊臣政権にとっては常に警戒すべき対象であった。生駒氏のような中央から派遣された「よそ者」大名は、領民や在地豪族との関係が希薄であり、その支配の正当性を、目に見える形での強力な軍事力によって示威する必要があった。高松城が東讃統治と瀬戸内海交通の要であるならば、西讃岐は土佐・伊予からの侵攻やそれに呼応した反乱の起点となりうる脆弱性を抱えていた。したがって、「西讃岐の押さえ」として計画された丸亀城は、生駒氏の支配を盤石にするだけでなく、豊臣政権による四国支配体制全体を安定させるための、重要な楔(くさび)としての役割を期待されていたのである。
第二章:大陸への野望と瀬戸内海 ― 慶長の役という国家的触媒
2.1 慶長二年(1597年):築城と戦争の同時開始
丸亀城の築城が開始された慶長二年(1597年)という年は、歴史上、極めて重要な意味を持つ。この年、豊臣秀吉は、一度は講和交渉に入っていた朝鮮半島への再出兵を断行する。すなわち、第二次朝鮮出兵「慶長の役」が開始されたのである 2 。丸亀城の普請開始と、国家を揺るがす大戦の再開が完全に時を同じくしているという事実は、単なる偶然とは考え難い。それは、この城の建設が、生駒氏の領国経営という枠を超えた、より高次の国家的戦略の中に位置づけられていたことを強く示唆している。
2.2 兵站線としての瀬戸内海
文禄・慶長の役という未曾有の対外戦争において、豊臣政権の生命線を握っていたのは兵站、すなわち兵員と物資の補給であった。九州北端の肥前名護屋城は、朝鮮半島へ兵力を投射するための巨大な前線基地として機能した 18 。そして、政権の中枢である大坂や伏見から、この名護屋城を経由して朝鮮半島へ至る長大な輸送ルートの確保は、戦争遂行能力そのものであった。
この兵站ネットワークにおいて、最も重要な大動脈となったのが瀬戸内海の海上交通路である 16 。畿内から西へ向かう無数の船が、兵員、米、武具、そして塩や木材といったあらゆる軍需物資を運んだ。この航路の安全確保は、戦争の勝敗を左右する最優先事項であり、豊臣政権はこのルートの管理に神経を尖らせていた。
2.3 生駒親正の役割と丸亀の地政学的重要性
讃岐国主・生駒親正は、高齢を理由に直接朝鮮へ渡海することは免じられていたが、その代わりに豊臣政権から兵站の確保と物資の提供という、極めて重要な役割を命じられていた 22 。讃岐国は、この瀬戸内海兵站ルートのほぼ中間に位置し、物資の中継地として、また良質な塩や木材の供給地として、戦争を後方から支える上で不可欠な存在であった 23 。
中でも、丸亀は讃岐国の西部に位置し、古くから良港として知られる交通の要衝であった 16 。この地に強力な城郭を築き、港湾機能を完全に掌握することは、兵站ルートの安全性を飛躍的に高め、効率的な物資輸送を実現するために不可欠な措置であった。もし西讃岐で反豊臣勢力による反乱が起こり、丸亀の港が敵対勢力の手に落ちるような事態になれば、畿内と名護屋を結ぶ大動脈は寸断され、朝鮮半島で戦う将兵はたちまち窮地に陥る。
このように考察を進めると、丸亀城築城の真の目的が浮かび上がってくる。それは、第一章で述べた「国内統治の拠点」という側面と、この「国際戦争の兵站拠点」という側面が、分かちがたく結びついていたという事実である。国内の治安維持、すなわち西讃岐の潜在的脅威を封じ込めることは、国外への軍事投射、すなわち慶長の役を支えるための絶対条件であった。この二つの目的は表裏一体であり、丸亀城は、豊臣政権が構築しようとした「総力戦体制」を象徴する、極めて戦略的な城郭として計画されたのである。それは単なる支城建設ではなく、国家安全保障上の要請に基づく、一大インフラ整備事業であったと言っても過言ではない。
第三章:築城のリアルタイム・クロニクル(慶長二年~慶長七年)
慶長二年(1597年)の鍬入れから慶長七年(1602年)の一応の竣工まで、丸亀城の建設は、日本史が最も激しく揺れ動いた時代と完全に並行して進んだ。ここでは、築城現場の進捗と国内外の情勢を連動させ、当時の人々が感じていたであろう緊張感と時代のうねりを追体験する。
西暦(和暦) |
丸亀城での出来事(推定含む) |
日本国内の主要動向 |
朝鮮半島・国際情勢 |
1597年(慶長2年) |
生駒親正・一正父子により築城開始 2 。亀山にて縄張り、土工事(普請)が始まる。渦郭式の先進的な設計思想が採用される 15 。 |
豊臣秀吉、伏見城を築き移る。 |
慶長の役再開 (1月)。加藤清正、小西行長らが再渡海。漆川梁海戦、鳴梁海戦など激戦が続く。 |
1898年(慶長3年) |
普請が本格化。堀の掘削と並行し、石垣の構築が始まる。この時期の石垣は「野面積み」が主体であったと推定される 15 。 |
豊臣秀吉、伏見城にて死去 (8月18日) 16 。五大老・五奉行による集団指導体制が発足するも、徳川家康が台頭。 |
秀吉の死を受け、日本軍の撤退が始まる。泗川の戦い、露梁海戦などが発生。 |
1599年(慶長4年) |
秀吉の死後も築城は継続。曲輪の造成が進み、城の骨格が形成されていく。 |
前田利家死去。石田三成が襲撃され、佐和山城に隠居。徳川家康が伏見城西の丸に入る。長宗我部元親死去 25 。 |
日本軍の撤退が完了。 |
1600年(慶長5年) |
櫓台などの石垣工事が進む。作事(建築工事)の準備が始まる。 |
関ヶ原の戦い (9月15日)。生駒一正は東軍に属し、戦功を挙げる。 |
- |
1601年(慶長6年) |
関ヶ原の戦いを経て、徳川体制下での支配拠点として工事が加速。作事が本格化し、櫓や門の建設が進む。 |
徳川家康、征夷大将軍の宣下を受ける準備を進める。東海道の宿駅制度を定める。 |
- |
1602年(慶長7年) |
一応の竣工 15 。山頂に初期の天守が完成。城代として重臣が置かれ、西讃岐の拠点として機能し始める 4 。 |
生駒一正、高松城へ移る。 |
- |
3.1 慶長二年(1597年):普請の開始と戦時の緊張
慶長二年、生駒親正・一正父子の号令一下、亀山において丸亀城の普請が開始された 2 。まず行われたのは「縄張り」、すなわち城の設計図を地面に描く作業である。この時、安土城や大坂城といった織豊系城郭の粋を集めた、本丸を渦の中心に据える先進的な「渦郭式(螺旋式)」の縄張りが採用されたと見られている 9 。これは、来るべき実戦を想定した、極めて防御的な思想の表れであった。
縄張りが終わると、領内から動員された数多の人夫によって、地固めや堀の掘削といった大規模な土木工事(普請)が始まった 27 。汗を流す人夫たちの耳には、瀬戸内海を頻繁に行き交う兵員や物資を積んだ船の喧騒が届いていたはずである。1月に再開された慶長の役は、日本全土を再び戦時体制へと引き戻し、丸亀の地もその巨大な戦争機械の一部として機能し始めていた。築城現場は、新たな城への期待と、遠い異国での戦の緊張感が入り混じった、独特の空気に包まれていただろう。
3.2 慶長三年(1598年):秀吉の死と漂流する国家
年が明けて慶長三年、土工事がある程度進捗すると、城の防御の要である石垣の構築が本格化した。現在残る記録や遺構から、この時期に積まれた石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」が主体であったと考えられる 15 。これは、後の山崎氏による精緻で美しい「打ち込みハギ」の石垣とは異なり、戦時下での迅速な建設を優先した、実用本位の技術選択であった 29 。
しかしこの年の8月18日、日本全土を揺るがす一報がもたらされる。天下人・豊臣秀吉が、その栄華の象徴であった伏見城で死去したのである 16 。この報は、国家の巨大プロジェクトであった朝鮮出兵の即時中止を決定づけ、それに連動していた丸亀城の建設現場にも、計り知れない衝撃と先行きへの不安をもたらした。絶対的な権力者の不在は、五大老・五奉行による集団指導体制への移行を促したが、その水面下では、五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を拡大し、日本の政治情勢は一気に不安定化していった。
3.3 慶長四年~五年(1599年~1600年):関ヶ原の動乱を乗り越えて
秀吉という最大のパトロンを失った後も、生駒氏は築城を継続した。むしろ、日に日に増していく政情不安の中、自領である西讃岐に確固たる軍事拠点を完成させることの戦略的重要性は、以前にも増して高まっていた。曲輪の造成は着々と進み、櫓台などが徐々にその威容を現し始めた。
そして慶長五年(1600年)、ついに豊臣政権内部の対立が沸点に達し、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突する「関ヶ原の戦い」が勃発する。この天下分け目の決戦において、生駒一正は父・親正の意向を受け、東軍に与して参戦した。この決断が、生駒家の運命、そして建設途上にあった丸亀城の未来を決定づけることになる。東軍の圧倒的な勝利により、生駒氏はその所領を安堵され、讃岐支配の正当性を新たな覇者である徳川家から改めて承認されることになったのである。
この一連の出来事は、丸亀城の建設目的が、その過程で大きく変容したことを示している。当初は豊臣政権への奉公、すなわち対外戦争支援という国家的プロジェクトとして始まったこの城は、秀吉の死と関ヶ原の動乱を経て、徳川体制下で生駒家が自らの領国支配を強化し、生き残りを図るための私的な戦略拠点へとその性格をシフトさせた。この巧みな政治的立ち回りがあったからこそ、城は混乱期を乗り越え、完成へと向かうことができた。丸亀城は、単なる石と木の建造物ではなく、激動の時代を乗り切った生駒氏の「政治的生存戦略の記念碑」でもあったのだ。
3.4 慶長六年~七年(1601年~1602年):初期天守の完成と城の始動
関ヶ原の戦いを経て、徳川による新たな治世が始まると、丸亀城の工事は最終段階へと入った。建築工事である「作事」が本格化し、山頂には初期の天守が建てられ、各曲輪には櫓や門が次々と完成していった 4 。そして慶長七年(1602年)、築城開始から5年の歳月を経て、丸亀城は一応の竣工を見た 2 。
城の完成後、嫡男の一正は本城である高松城へ戻り、丸亀城には重臣の佐藤掃部が城代として置かれた 4 。これにより、丸亀城は名実ともに西讃岐の政治・軍事センターとしての機能を果たし始め、生駒氏による讃岐支配を盤石なものとするための、重要な一翼を担うことになったのである。
第四章:生駒期・丸亀城の構造と技術 ― 質実剛健の創始
4.1 縄張りの先進性:渦郭式縄張りと総構え
生駒氏によって創始された丸亀城は、その設計思想において、当時の最先端をいくものであった。残された絵図や後の城郭構造から、城が亀山山頂の本丸を中心に、二の丸、三の丸を螺旋状に配置する「渦郭式(かかくしき)」、あるいは「螺旋式」と呼ばれる縄張りを採用していたことが明らかになっている 9 。これは、姫路城や後の江戸城にも見られる極めて高度な設計思想であり、敵兵を城の中心部へ一直線に進ませることなく、渦を巻くように長く複雑な道のりを進ませることで、側面や背後からの多角的な迎撃を可能にする、非常に防御効率の高い縄張りであった 31 。
さらに、安土城や大坂城を手本として、城郭本体だけでなく、山麓の武家屋敷や城下町までをも堀や土塁で囲い込む「総構(そうがまえ)」の思想が取り入れられていたとされる 17 。これは、城郭単体の防御に留まらず、都市全体を防衛するという先進的な概念であり、生駒氏が丸亀の地を、単なる軍事拠点ではなく、政治・経済の中心地として総合的に開発しようとしていたことを示している。
4.2 石垣技術:野面積みのリアリズム
一方で、その先進的な設計思想(ソフトウェア)を具現化する石垣技術(ハードウェア)においては、時代の過渡期的な特徴が見られる。現在でも、丸亀城の南東山麓などには、生駒時代に築かれたとされる「野面積み」の石垣が残存している 24 。
野面積みは、自然石をほとんど加工せずに、石の形や大きさを巧みに組み合わせて積み上げる最も古い技法である 29 。その見た目は粗雑で荒々しいが、石と石の間に隙間が多いため排水性に優れ、地震の揺れにも柔軟に対応できる堅固な構造であった。石材を精密に加工する技術がまだ一般化していなかった関ヶ原以前の時代、そして慶長の役という戦時下で迅速な建設が求められた状況において、この野面積みは最も合理的かつ実用主義的な選択であったと言える 30 。
この生駒期の質実剛健な野面積みと、後の山崎氏による、石を精密に加工して積み上げる「打ち込みハギ」や「切り込みハギ」 9 を用い、優美な曲線を描く「扇の勾配」を持つ高石垣 36 との鮮やかな対比は、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけての、城郭石垣技術の劇的な進化を一つの城の中で見ることができる、極めて貴重な物証となっている。
この「思想と技術のギャップ」こそが、豊臣政権末期という時代の特性を最も雄弁に物語っている。生駒親正は、信長・秀吉の下で飛躍的に発展した渦郭式や総構えといった最新の城郭設計理論を熟知していた。しかし、それを完全に実現するための、高石垣を可能にするような最新の石工技術は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、世の中が安定して初めて一般化するものであった 29 。つまり、生駒氏は「最新の城郭設計図」を描きながらも、それを物理的に支える手段は、まだ発展途上の技術に頼らざるを得なかったのである。この「未完の理想」こそが生駒期丸亀城の本質であり、後の山崎氏による大改修は、この生駒氏が描いた理想の設計図を、江戸時代の安定した技術力と潤沢な時間をもって完成させる作業であったと位置づけることができる。
4.3 城郭の構成:初期の姿を偲ぶ
生駒時代の絵図によれば、城の主要な構成も現在とは異なっていた。天守は、山上の最高所の中央部に建てられていたとされ、現在の天守台とは位置が異なる 4 。また、城の正面玄関である大手門は、現在の搦手(からめて、裏門)にあたる南側に設けられていた 24 。現在の栃ノ木御門跡周辺に見られる、城内で最も美しく丁寧に積まれた石垣は、この旧大手筋の名残である 24 。
これらの事実は、後の山崎氏、そして京極氏による改修が、単なる老朽箇所の修復ではなく、城の動線や防御思想を根本から再設計する、極めて大規模なものであったことを示している。しかし、その再設計もまた、生駒氏が最初に築いた渦郭式の骨格の上に行われたものであり、創始者の思想は城の根幹に生き続けていたのである。
第五章:築城がもたらしたもの ― 港町の掌握と新たな支配体制
5.1 経済拠点としての港町・城下町の形成
丸亀城の築城は、亀山という丘の上に軍事要塞を建設したというだけの意味に留まらない。それは、城と一体化した港町・城下町を計画的に整備するという、都市開発プロジェクトでもあった 4 。城の建設に伴い、武士や商人、職人が集住する町が形成され、丸亀は西讃岐における新たな政治・経済の中心地として生まれ変わった。
この都市開発により、生駒氏は西讃岐の物流と商業を直接その掌握下に置くことが可能となった。特に、丸亀港を拠点とする海上交通を管理下に置いたことの意義は大きい。当時、塩や木材は重要な交易品であり、これらの取引を統制することは、藩の財政基盤を強化する上で極めて重要であった 23 。城は、軍事力による支配の象徴であると同時に、地域の富を吸引し、管理・再分配する経済的なハブとしての役割をも担っていたのである。
5.2 支配の可視化と領民への影響
平野に孤立して聳える亀山の上に、巨大な城郭がその姿を現した時の、領民たちの驚きと畏怖は想像に難くない。天守や櫓、そして幾重にも巡らされた石垣と堀は、新たな領主である生駒氏の権威と権力を、誰の目にも明らかな形で視覚的に示す、絶大な効果を持った。これは、在地に根を張る旧勢力の影響力を削ぎ、新たな支配体制への服従を領民に促す、強力な心理的装置として機能した。
一方で、これほど大規模な普請は、動員される領民に多大な労役負担を強いたことも事実である。しかし、それは負の側面ばかりではなかった。城の建設とそれに続く城下町の形成は、多くの雇用を生み出し、商業を活性化させるなど、地域経済に大きな恩恵ももたらした 38 。城の建設は、地域の社会経済構造を根本から変革し、近世的な都市へと脱皮させる、一大プロセスでもあったのだ。
終章:未完の傑作 ― 山崎・京極氏へと続く礎
生駒親正・一正父子によって創始された丸亀城は、その完成からわずか13年後の慶長二十年(1615年)、徳川幕府によって発布された「一国一城令」により、一度は廃城の危機に瀕する 7 。讃岐国には本城である高松城があるため、支城である丸亀城は破却の対象となったのである。しかし、その西讃岐における戦略的重要性が幕府にも認識されていたためか、あるいは巧みな政治工作があったのか、要所を樹木で覆い隠すなどの措置により、完全な破却は免れたと伝えられる 39 。
その後、生駒氏はお家騒動(生駒騒動)が原因で改易となり、讃岐の地を去る。そして寛永十八年(1641年)、新たな西讃岐の領主として、築城の名手として知られる山崎家治が入封した 7 。家治は、生駒氏が残した城跡を基盤に、幕府からの銀300貫の供与と参勤交代の免除という異例の支援を受け、大規模な再築事業に着手する 39 。
この山崎氏による大改修こそが、今日我々が目にする、天守へと続く四層に重ねられた壮麗な高石垣を完成させ、「扇の勾配」と賞される優美な曲線美を生み出し、「石垣の名城」としての丸亀城の名声を不動のものとした 5 。さらにその後、城主となった京極氏の時代に天守や大手門が完成し、城郭は最終的な姿へと至る 15 。
しかし、忘れてはならないのは、その壮大な城郭の根底には、常に生駒親正・一正父子が慶長二年(1597年)に描いた先進的な縄張りの思想が存在していたという事実である。豊臣政権末期の国家的要請と、戦国の動乱を乗り越えた巧みな政治的判断から生まれたこの城は、まさに時代の転換点に築かれた礎石であった。1597年の普請は、単なる一つの始まりではなく、今日の丸亀城の構造とアイデンティティを決定づけた、最も重要かつ根源的な一歩だったのである。それは、未完であったがゆえに、後の時代の最高の技術を受け入れる素地となり、時代を超えて進化し続ける名城の宿命を、その誕生の瞬間に宿していたと言えよう。
引用文献
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- 丸亀城 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/marugamejo/
- 丸亀城の歴史 - 丸亀城 - 丸亀市公式ホームページ https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2930.html
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- 丸亀の歴史 | 【公式】丸亀城キャッスルエクスペリエンス- 香川県丸亀市の城泊 https://marugame-castle.com/culture/
- 丸亀城(香川県丸亀市) 日本有数の高石垣と現存天守 - 縄張りマニアの城巡り https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2019/09/14/170000
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- 四国平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11099/
- 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577
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- 丸亀城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/shikoku/marugame/marugame.html
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- 香川親和(かがわ ちかかず) 拙者の履歴書 Vol.317~主君四変の果ての生き様 - note https://note.com/digitaljokers/n/nd28769699391
- 丸亀城 - 香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット https://www.my-kagawa.jp/blog/blog-20211109/blog-20211109
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- 縄張と曲輪 - 城をしろう・城はおもしろい - sirosiro ページ! https://sirosiro.jimdofree.com/%E3%81%8A%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%84%E3%82%8D/%E7%B8%84%E5%BC%B5%E3%81%A8%E6%9B%B2%E8%BC%AA/
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- 石垣(見所紹介) - 丸亀城 - 丸亀市公式ホームページ https://www.city.marugame.lg.jp/site/castle/2920.html
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