最終更新日 2025-10-08

亀山城(丹波)築城(1609)

1609年、家康は天下普請で丹波亀山城を改築。西国大名の財力を削ぎ大坂を包囲する狙いで、城主は岡部長盛、設計は藤堂高虎。高虎は今治城天守を献上し、五層天守を築いた
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慶長十四年の天下普請:徳川家康の深謀と丹波亀山城の大改築

序章:天下普請前夜の丹波亀山城

慶長十四年(1609年)、徳川家康の命により敢行された丹波亀山城の大規模な改築、すなわち天下普請は、単なる一城郭の修築に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いを経てもなお燻り続ける戦国の火種を完全に消し去り、徳川による盤石な治世を確立するための、壮大な戦略の一環であった。この歴史的事業の真の意味を理解するためには、まず、この城が天下普請の舞台となる以前に、いかなる歴史を歩んできたかを知る必要がある。

明智光秀による創築と丹波統治の拠点化 (天正五年頃)

丹波亀山城の歴史は、天正五年(1577年)頃、織田信長の命を受けて丹波平定に乗り出した明智光秀によって幕を開ける 1 。光秀は、京都から山陰道へと繋がる交通の要衝であり、亀岡盆地を一望する小高い丘、荒塚山を築城の地として選定した 3 。この地は、丹波攻略を進める上での軍事拠点として、また平定後の丹波国を統治するための政治的中心として、極めて重要な戦略的価値を有していた 3

天正十年(1582年)、日本史を揺るがす大事件「本能寺の変」において、光秀がその軍勢を発したのが、まさしくこの丹波亀山城であった 3 。彼の天下統一の夢は山崎の合戦で潰えるが、亀山城は創築の当初から、天下の動向と密接に関わる運命を背負っていたのである。この時点での城は、石垣や堀を備えつつも、戦国乱世の実戦を第一義とする、質実剛健な城郭であったと推察される。

豊臣政権下での城主変遷と役割

光秀の死後、丹波国は天下人となった羽柴(豊臣)秀吉の支配下に入る。亀山城は、その重要性から豊臣一門や重臣が城主として配されることとなった。信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝、秀吉の甥である豊臣秀勝らが相次いで城主を務めた 6

特に注目すべきは、後に小早川秀秋となる羽柴秀俊が城主であった時代に、城が修築され、天守が三層から五層へと改築されたという記録である 3 。これは、豊臣政権が亀山城を単なる地方拠点ではなく、畿内に近接する重要拠点として認識し、その威容と防御能力を高めようとした意図の表れと言えよう。その後、豊臣政権の中枢を担う五奉行の一人、前田玄以が城主となり、京都所司代としての活動拠点ともなった 5

関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、城の運命は再び大きく転換する。玄以の子・茂勝が跡を継ぐも、慶長七年(1602年)に丹波八上藩へ移封され、亀山城は徳川幕府の直轄領、すなわち天領とされた 4 。これは、徳川家康が京都と西国を結ぶこの戦略的要衝を、譜代大名に任せる前の段階から、自らの直接管理下に置くことを決断した、極めて重要な布石であった。

【表1:丹波亀山城 歴代城主一覧(明智光秀~岡部長盛)】

西暦(和暦)

城主

備考

1

1578年(天正6年)頃

明智光秀

織田信長の命により築城。丹波統治の拠点とする。

2

1583年(天正11年)

羽柴秀勝

豊臣政権下、信長の四男(秀吉の養子)が入城。

3

1585年(天正13年)

豊臣秀勝

秀吉の甥が入城。

4

1591年(天正19年)

羽柴秀俊(小早川秀秋)

秀吉の養子。この時期に五層天守への改築があったとされる。

5

1595年(文禄4年)

前田玄以

豊臣五奉行の一人。京都所司代を兼務。

6

1602年(慶長7年)

前田茂勝

玄以の子。八上へ移封後、亀山は天領となる。

7

1609年(慶長14年)

岡部長盛

徳川譜代大名。天下普請による大改築を主導。

この城主の変遷は、戦国時代から江戸時代初期にかけての権力移行の縮図そのものである。織田家臣(明智光秀)、豊臣一門、豊臣五奉行(前田玄以)、そして徳川直轄地を経て徳川譜代大名(岡部長盛)へと支配者が移り変わる様は、丹波亀山城が常に中央政権にとっての重要拠点であり、その支配者が時代の覇者と連動してきたことを明確に示している。したがって、慶長十四年の天下普請は、単なる城郭の機能向上を目的とした事業ではなく、徳川による丹波、ひいては西国に対する「最終的な支配権の確立」を天下に宣言する、象徴的な意味合いを持つものであった。

第一章:慶長十四年、徳川家康の深謀

関ヶ原の戦いから九年の歳月が流れた慶長十四年(1609年)。徳川家康は征夷大将軍の座を秀忠に譲り、駿府に隠居していたが、その政治的影響力は些かも衰えていなかった。むしろ、その視線は、依然として大坂城に君臨する豊臣秀頼と、西国に広がる豊臣恩顧の大名たちへ、鋭く注がれていた。この時期に家康が発令した一連の天下普請、その中でも特に丹波亀山城の大改築は、戦国の世を完全に終わらせるための、深謀遠慮に満ちた一手であった。

天下普請という名の「最終戦争」

家康が諸大名に命じた天下普請は、街道整備や河川工事といった公共事業も含むが、その本質は城郭普請にあった 11 。そしてそれは、単なるインフラ整備では断じてなかった。むしろ、武力を用いない経済戦争であり、政治的圧迫であった。家康の狙いは多層的であった。

第一に、豊臣家に恩義を感じる西国の大名たちに対し、莫大な普請費用を負担させることで、その財力を削ぐことにあった 12 。城を一つ築くには、巨額の資金、膨大な資材、そして数万の労働力が必要となる。これを豊臣恩顧の大名に担わせることで、彼らが戦のために蓄財し、軍備を増強することを物理的に不可能にしようとしたのである 14

第二に、普請への参加を命じること自体が、徳川への忠誠を測る「踏み絵」であった。この命令に逆らうことは、すなわち徳川への反逆と見なされる。諸大名は、たとえ内心で不満を抱えていようとも、恭順の意を示すために普請に参加せざるを得なかった。こうして家康は、自らの権威を天下に示し、徳川を中心とする新たな支配秩序を大名たちに再認識させたのである 12

この手法は、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城築城において、天下人が諸大名を動員した前例に倣ったものである 11 。しかし家康は、そこに「豊臣家封じ込め」という、より巧妙かつ冷徹な政治的意図を込めていた。それは、豊臣恩顧の大名たちが、自らの財力で、自らを封じ込めるための檻を築かされるという、極めて非対称的な戦争であった。丹波亀山城の石垣の一つ一つは、西国大名の財力から削り取られた「血税の結晶」であり、徳川の勝利を象徴する静かなるモニュメントでもあったのだ。

大坂包囲網の形成:なぜ丹波亀山城だったのか

慶長十四年前後、家康は集中的に城郭の天下普請を命じている。尾張の名古屋城、丹波の篠山城、そしてこの丹波亀山城である 15 。これらの城の配置図を広げれば、その意図は一目瞭然となる。すべてが大坂城の豊臣家を物理的、そして心理的に包囲する一大戦略拠点として計画されていたのである 2

中でも丹波亀山城が選ばれた理由は、その地理的優位性にあった。丹波亀山は、京都から山陰道への入口に位置する、まさに喉元を押さえる要衝である 3 。ここを堅固な近世城郭へと大改築することは、二つの大きな軍事的意味を持っていた。一つは、西国の諸大名が山陰道を経由して京都や大坂へ軍事行動を起こすことを未然に防ぎ、牽制すること。もう一つは、有事の際に徳川方が西国へ進攻するための、兵站と出撃の拠点とすることである 1

さらに重要なのは、同年に築城が開始された篠山城との連携である 17 。篠山城もまた、丹波国内の交通の要衝に位置する。この二つの城が完成すれば、丹波国内の主要な街道は徳川方によって完全に掌握される。これは、大坂城の背後、すなわち西からの脅威に対して、二重の分厚い防壁を築き、強力な楔を打ち込むことに他ならなかった。家康は、来るべき豊臣家との最終決戦を見据え、丹波の地に鉄壁の包囲網を築き上げていたのである。

第二章:布陣する築城の主役たち

国家の命運を左右する丹波亀山城の大改築。この一大事業を成功させるため、徳川家康は当代随一の人物たちを的確に配置した。城主としてこの地を治め、普請を監督する徳川譜代の猛将。縄張(設計)を担い、最新技術で城を生まれ変わらせる稀代の築城名手。そして、徳川の威光の下、労役と費用を提供するために動員された西国の大名たち。彼ら主役たちの顔ぶれと役割を分析することで、家康の人事戦略に込められた政治的メッセージが浮かび上がってくる。

新城主:岡部長盛 ― 徳川譜代の「黒鬼」に託された重責

慶長十四年、それまで天領であった丹波亀山に、新たな城主として岡部長盛が下総山崎藩から三万二千石で入封した 4 。この人選こそ、家康がこの城と天下普請をいかに重要視していたかの証左である。岡部長盛は、今川、武田を経て徳川に仕えた岡部正綱の子であり、家康が最も信頼を置く譜代大名の一人であった 21

長盛は、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴方の森長可、池田恒興といった名だたる武将を討ち取る武功を挙げ、その勇猛さから「岡部の黒鬼」と称されたほどの武将であった 21 。家康が、対豊臣戦略の最前線となるこの地に、単なる行政官僚ではなく、歴戦の猛将を送り込んだ意味は大きい。これは、丹波亀山城が平時の統治拠点であると同時に、有事を想定した純然たる軍事要塞であることを、西国の大名たちに無言のうちに宣告するものであった。

一方で、長盛は武勇一辺倒の人物ではなかった。亀山藩主時代、古世町の庄屋による不正を厳正に裁き、その事実を報告した者に対して永代の特権を与えるという文書が残されている 25 。この逸話は、彼が公正な裁定を下し、領民の生活にも配慮する優れた統治者としての一面を持っていたことを示している。武断と文治を兼ね備えた岡部長盛は、この困難な事業を監督する城主として、まさに適任者であった。

縄張奉行:藤堂高虎 ― 稀代の築城名手が描いた近世城郭の姿

丹波亀山城を、戦国時代の城から最新鋭の近世城郭へと変貌させるという技術的な大任は、築城の名手として天下にその名を知られた藤堂高虎に委ねられた 3 。浅井、豊臣、そして徳川と主君を変えながらも、その卓越した能力によって常に重用されてきた高虎は、この時期、家康から絶大な信頼を得ていた 27 。対豊臣包囲網の鍵となる城の設計を、家康は最も信頼する技術者に託したのである。

高虎の築城術は、革新的かつ合理的であった。彼は、複雑な構造を持つ従来の望楼型天守に代わり、規格化された部材を用いることで工期を短縮し、より整然とした外観を持つ「層塔型天守」の先駆者であった 29 。また、石垣の構築においても、隅角部を強化する「算木積み」を発展させ、より高く、より強固な石垣を築く技術を確立した 29

彼の設計思想は、華美な装飾よりも、鉄砲戦を想定した防御機能と、天下普請という大規模工事における効率性を最大限に重視するものであった 29 。高虎の参加は、丹波亀山城が当代最高の技術を結集した要塞となることを約束するものであった。

助役大名:動員された西国大名たちの実情

この天下普請の労働力と資金を提供したのは、主に西国に所領を持つ外様大名たちであった 16 。彼らは「助役大名」として、幕府から担当工区(丁場)を割り当てられ、普請を遂行する義務を負った。

丹波亀山城の普請に参加した大名の具体的な一覧は完全な形では残されていない。しかし、ほぼ同時期に行われた篠山城の天下普請では、普請総奉行の池田輝政をはじめ、福島正則、毛利秀就、浅野幸長、加藤嘉明、山内康豊といった、関ヶ原で東軍についたとはいえ、元は豊臣恩顧の錚々たる大名たちが動員されている 18 。亀山城にも、これに匹敵する規模と顔ぶれの大名が参加したと考えるのが自然である。

彼らにとって、この普請への参加は二律背反の感情を抱かせるものであった。一方では、徳川への恭順の意を示し、新たな支配体制下での家門の安泰を図る絶好の機会であった。しかし、その裏では自らの領国の財政を著しく圧迫する重荷であり、かつて恩を受けた豊臣家を追い詰めるための城を、自らの手で築くという皮肉な状況に置かれていたのである。

家康の人選は、それ自体が高度な政治的メッセージであった。生粋の徳川譜代であり、武勇で知られる岡部長盛を城主に据えることは、西国大名に対する「武断による威嚇」を意味した。一方で、元は外様でありながら実力と忠誠心で家康の信頼を勝ち取った藤堂高虎を設計責任者に抜擢することは、「出自や過去は問わない。徳川に忠誠を誓い、実力を持つ者こそが重用される」という、他の外様大名に対する「実力主義による懐柔」のアピールであった。家康は、この硬軟両様の巧みな人事配置を通じて、飴と鞭を使い分け、天下の支配構造を盤石なものにしようとしていたのである。

第三章:天下普請、始動―近世城郭への大改築(リアルタイム・ドキュメント)

慶長十四年(1609年)、徳川家康の号令一下、丹波亀山城の大改築工事、すなわち天下普請が開始された。西国から動員された大名たちの下、数万の人々がこの地に集結し、明智光秀が築いた古城は、当代随一の技術者・藤堂高虎の手によって、全く新しい近世城郭へと生まれ変わろうとしていた。その工事の過程を、設計、石垣普請、天守建立の三つの段階に分け、当時の技術や逸話を交えながら再現する。

縄張と設計思想:高虎が見据えた「戦の城」の構造

普請の第一歩は、藤堂高虎による縄張、すなわち城全体の設計から始まった。高虎の計画は、光秀時代の城郭を土台としながらも、防御思想において根本的な変革をもたらすものであった。

城の中心には本丸を置き、それを守るように二の丸、三の丸を同心円状に配置する「輪郭式」と、本丸と二の丸を階段状に配置する「梯郭式」を組み合わせた、複合的な構造が採用された 18 。城と城下町全体を、内堀、外堀、そして惣堀という三重の堀で囲む壮大な防御計画が立てられた 32 。これにより、城郭単体だけでなく、城下町を含めた領域全体を防衛する思想が実現されたのである。

特筆すべきは、鉄砲戦への徹底した備えである。高く、そして急勾配に築かれた石垣(高石垣)の上には、防御と攻撃の拠点となる多聞櫓を連続して配置し、死角のない防衛ラインを構築した 33 。また、城の北側は保津川を天然の外堀として利用し、南側に城下町を計画的に配置することで、防御と経済の両面を考慮した合理的な都市設計がなされた 2 。高虎の縄張は、もはや一騎討ちの時代ではない、組織的な集団戦を想定した「戦の城」の理想形を追求したものであった。

石垣普請と刻印の謎:諸大名の汗と競争

設計が固まると、いよいよ普請の本体である土木工事が始まる。普請に参加した西国大名たちは、幕府から割り当てられた工区(丁場)において、自家の威信をかけて石垣の構築を競った。

この天下普請の生々しい現場の様子を今に伝えるのが、城跡の石垣に多数残る「刻印」である 8 。石の表面に刻まれた「卍」や四角形などの様々な印は、その石を運び、加工し、積み上げた大名家を示すものであった 33 。当初、これらの刻印は、自らの仕事ぶりを後世に伝えるための誇りの証、あるいは功績をアピールするためのものと考えられていた 37

しかし、近年の研究では、より現実的な理由が指摘されている。広島大学の三浦正行教授の説によれば、天下普請のような大規模工事の現場では、大名家間で貴重な石材の盗難が横行したという 37 。そのため、自家の所有物であることを明確にし、資材管理を徹底するために、こうした刻印が打たれるようになったというのである。この説は、華やかな普請の裏にあった、各大名家の熾烈な競争と、現場の混乱ぶりを物語る興味深い逸話である。

天守建立:伊予今治から移された革新的層塔型天守

この大改築のクライマックスであり、新生・亀山城の象徴となったのが、五層構造の壮大な天守の建立であった 2 。そして、この天守には、藤堂高虎の家康への忠誠心を示す、劇的な逸話が秘められていた。

藤堂家の公式記録である『高山公実録』によれば、高虎は慶長十三年(1608年)、伊予今治から伊賀上野へと転封になった際、自身の居城である伊賀上野城に新たな天守を築く計画を立てていた 38 。そのために、前任地である今治城の天守を解体し、その部材を大坂まで海上輸送していたのである 38

ところが、ちょうどその時、家康から丹波亀山城の天下普請が命じられる。家康に伺いを立てた高虎に対し、家康は「その天守の部材を亀山城に転用せよ」と命じた 38 。高虎は、自らの居城のために用意した最新鋭の天守を、惜しげもなく家康に献上したのである 41 。この逸話は、高虎の徳川家への絶対的な忠誠と、家康が丹波亀山城の完成を国家的な最重要課題と位置づけていたことを如実に物語っている。

こうして亀山城に築かれた天守は、破風(屋根の装飾)を持たない、直線的で実用的な外観を持つ「層塔型天守」であった 42 。一説には、これが日本初の本格的な層塔型天守であるとも言われ 3 、その後の日本の城郭建築史に大きな影響を与えた、技術的にも画期的な建造物であった。

【表2:新旧亀山城の構造比較】

項目

明智光秀 創築期(推定)

天下普請後(慶長十五年)

天守

三層三階 望楼型

五層五階 層塔型(高さ約26m)

石垣

野面積み(自然石を多用)が主体

打込接・切込接(加工石を使用)による高石垣

縄張

単純な曲輪配置

本丸、二の丸、三の丸を配した輪郭式・梯郭式の複合縄張

防御施設

単純な堀と土塁

内堀、外堀、惣堀の三重構造。多聞櫓を多用。

城郭規模

丹波統治の拠点

対大坂・西国を睨んだ国家規模の要塞

この比較から明らかなように、天下普請は単なる修復や増築ではなかった。それは、城の設計思想、工法、そして規模の全てにおいて、旧来の城郭を完全に凌駕する「アップグレード」であり、戦国時代の城から近世城郭への技術的飛躍を体現するものであった。

第四章:慶長十五年、竣工―大坂包囲網の完成

慶長十五年(1610年)、数万の人々と西国大名の財力を投じた丹波亀山城の大改築工事は、約一年という驚異的な速さで完了した 2 。丹波の地に忽然と姿を現した白亜の巨城は、徳川の威光を天下に示すとともに、大坂の豊臣家に対する包囲網の、まさに最後のピースが嵌ったことを意味していた。

新生・丹波亀山城の威容

完成した丹波亀山城は、それまでの丹波には存在しなかった、壮麗かつ堅固な近世城郭であった。高さ約26メートルに及ぶ五層の層塔型天守が青空に聳え立ち、その姿は遠く京の都からも望めたと伝えられる 1

藤堂高虎の革新的な技術によって築かれた、垂直に近い高石垣は、敵の侵入を物理的に拒絶する絶壁であった。その上を多聞櫓が巡り、城兵は鉄砲による十字砲火を浴びせることが可能であった 33 。合理的に配置された門と馬出(門の前に設けられた防御施設)は、敵の突進を阻み、城の防御力を飛躍的に高めていた 18 。この城は、もはや単なる砦ではない。徳川の圧倒的な権威と、当代最高の築城技術の結晶であり、西国に対する無言の圧力となる難攻不落の要塞であった。

戦略拠点としての機能と大坂の陣

丹波亀山城の完成は、徳川家康の対豊臣戦略において決定的な意味を持った。この城は、先んじて築かれた篠山城と連携し、西国から京都・大坂へ至る山陰道と周辺の街道を完全に封鎖する、鉄壁の防衛ラインを形成したのである 17 。これにより、大坂の豊臣秀頼が西国の豊臣恩顧大名と連携し、兵を挙げるという戦略的選択肢は、極めて困難なものとなった。

慶長十九年(1614年)に勃発した大坂冬の陣、そして翌年の夏の陣において、丹波亀山城はその戦略的価値を遺憾なく発揮した。徳川方の大軍が西国から大坂へ進軍する際の中継基地として、また膨大な兵糧や武具を蓄える兵站拠点として、後方を盤石に支えたと推察される。城主である岡部長盛自身も、冬の陣・夏の陣の両方に出陣し、天満口の戦いなどで武功を挙げている 23

この城の存在は、豊臣家を大坂城という巨大な「檻」の中に物理的に閉じ込め、外部からの援軍という最後の望みを断ち切る効果を持った。豊臣家にとって、丹波亀山城の白い天守は、自らの運命に下された「物理的な死刑宣告」のように見えたかもしれない。大坂の陣の帰趨は、この城が完成した慶長十五年の時点で、その多くが決していたと言っても過言ではないだろう。

城主・岡部長盛の藩政とその後

城の完成後、岡部長盛は初代丹波亀山藩主として、藩政の基礎固めに着手した 43 。彼は城下町の整備を進め、領内の安定に努めた。その統治は、元和七年(1621年)まで十二年間に及んだ。

同年、長盛は丹波福知山藩へ五万石で加増移封される 22 。これは、丹波亀山城の天下普請という国家的大事業を監督し、無事に完成させた功績に対する、幕府からの論功行賞であった。その後、岡部家は美濃大垣藩などを経て、最終的には和泉岸和田藩主となり、明治維E新までその地を治め続けることになる 22 。一人の武将とその一族の栄達は、徳川政権の安定化に貢献した者への報酬という、家康の巧みな人事政策を象徴している。

終章:丹波亀山城の歴史的意義と後世への影響

天下普請によって近世城郭として生まれ変わった丹波亀山城は、徳川の天下統一を決定づける上で重要な役割を果たした。しかし、その歴史的意義は、大坂の陣という一時代の軍事行動に留まるものではない。江戸時代の藩政の拠点として、そして明治維新後の激動の時代を経て現代に至るまで、この城は丹波の地の歴史と共に歩み続け、日本の城郭史、ひいては近世日本の形成に多大な遺産を残した。

江戸時代の丹波亀山藩と城主の変遷

大坂の陣が終結し、世が泰平となると、丹波亀山城の軍事的緊張は緩和されたが、幕府にとっての戦略的重要性は変わらなかった。岡部長盛が福知山へ移った後、城主は目まぐるしく交代した。大給松平家、菅沼家、藤井松平家、久世家、井上家、青山家、そして最終的に形原松平家と、その全てが徳川家と縁の深い譜代大名であった 4

この頻繁な城主交代は、幕府が丹波亀山という地を、西国監視の要衝として、また京都に近接する重要拠点として常に意識し、信頼できる譜代大名を配置し続けることで、その支配を盤石にしようとした政策の表れである。城は、江戸幕府の地方支配体制を支える重要な結節点として、二百数十年にわたり機能し続けた。

明治維新後の廃城から現代へ

三百年にわたる泰平の世を支えた丹波亀山城も、明治維新という時代の大きなうねりには抗えなかった。明治六年(1873年)に発布された廃城令により、その存続は許されず、壮麗な五層の天守をはじめ、櫓や門といった建造物は全て解体され、民間に払い下げられた 2 。かつての威容は失われ、城跡は石垣と堀の一部を残すのみとなった。

しかし、城の歴史はここで終わらなかった。大正八年(1919年)、城跡は宗教法人大本が購入し、聖地「天恩郷」として新たな道を歩み始める 7 。昭和初期の宗教弾圧により石垣が破壊されるという悲劇に見舞われたが、戦後、信者たちの手によって土中に埋もれた石が掘り起こされ、石垣は再び積み直された 30 。かつて戦いの砦であった場所は、平和を祈る祈りの場へとその役割を変え、今日に至っている。

天下普請が残した技術的・政治的遺産

丹波亀山城の天下普請は、日本の歴史に二つの大きな遺産を残した。

一つは、技術的遺産である。この普請は、藤堂高虎が編み出した「層塔型天守」や「高石垣」といった革新的な築城技術を、諸大名に披露する壮大なショーケースとなった 11 。ここで最新技術に触れた大名たちは、そのノウハウを自らの領国に持ち帰り、各地の城郭改修や土木工事に応用した。結果として、日本の城郭建築技術は飛躍的に向上し、全国に機能的で壮麗な近世城郭が誕生する礎となった。

もう一つは、政治的・社会的遺産である。天下普請という事業形態そのものが、徳川幕府の統治システムを象徴している。幕府が国家規模のプロジェクトを企画し、複数の大名(藩)に業務を分担させて実行させるこの手法は、現代の公共事業の原型とも言える 11 。参加を命じられた大名たちは、莫大な費用と人員を管理・運営する必要に迫られた。これにより、各大名家では、資材調達、兵站、財務管理、労働監督といった、近世的な行政能力と官僚機構が否応なく発達した。

つまり、家康は天下普請によって西国大名の財力を削ぐと同時に、結果として彼らを単なる戦闘集団であった戦国武将から、領地を経営する近世的な「行政組織」へと脱皮させることを促したのである。丹波亀山城の築城は、武力によって天下を制する時代から、法と経済、そして巨大な土木事業によって天下を統治する時代への移行を象徴する、画期的な事業として歴史に記憶されている。

引用文献

  1. 甦る威容。個性あふれる日本の名城。 虚飾を廃した最新鋭の層塔式天守閣。端正・清楚な五層天守。「亀山城」 - 幻の城 - 建築デザイン http://castle.atorie-ad.com/kameyama.shtml
  2. 丹波亀山城築城400年 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E7%AF%89%E5%9F%8E%EF%BC%94%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%B9%B4
  3. 亀山城の見所と写真・1000人城主の評価(京都府亀岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/193/
  4. 亀山藩 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Geography/HanKameyama.html
  5. 丹波 亀山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/kameyama-jyo/
  6. 亀岡城(丹波亀山城)の歴代城主 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/193/memo/1216.html
  7. 亀山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/193/memo/4233.html
  8. 明智光秀~1人でも多くの人に知ってもらいたい~|明智光秀|ぶらり亀岡 亀岡市観光協会 https://www.kameoka.info/mitsuhide/kameyama-castle.php
  9. 亀岡城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/kinki/kameoka.htm
  10. 亀山城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chugoku/kameyama.j/kameyama.j.html
  11. 翔べ 薩摩土手31 全国の大名を動員した公共事業としての側面 ①天下普請 - note https://note.com/saimonasuka/n/n0e4a0eb80efe
  12. 江戸時代の一大事業「天下普請」って何?ー超入門! お城セミナー ... https://shirobito.jp/article/668#:~:text=%E6%A8%A9%E5%A8%81%E3%81%AE%E8%AA%87%E7%A4%BA%E3%81%AB%E5%8A%A0%E3%81%88,%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82&text=%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%88%E3%80%81%E7%A7%80%E5%90%89%E6%B2%A1%E5%BE%8C,%E6%83%85%E5%8B%A2%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%A4%89%E5%8C%96%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AF%E3%81%9A%E3%80%82
  13. 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
  14. 天下普請にみる家康の狡猾さ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=AiXC1-e_iik
  15. 徳川家康による“対豊臣”の巧妙な布石 「慶長の築城ラッシュ」で注目したい城トップ3 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33380
  16. 大名家文書からみた名古屋城公儀普請( 1) 助役大名の動員過程について https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/04_%E5%A0%80%E5%86%85%E4%BA%AE%E4%BB%8B_%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E5%85%AC%E5%84%80%E6%99%AE%E8%AB%8B%EF%BC%881%EF%BC%89_%E7%84%A1%E5%AE%B3%E5%8C%96%E6%B8%88.pdf
  17. 100名城を巡る 篠山城 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/13676
  18. 第3章 史跡篠山城跡の概要 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/36/03_05614670.pdf
  19. 亀山城 (丹波国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD)
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  21. 岡部長盛 長久手の戦いで名を馳せた普請大名 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/soshiki/4/1516.html
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  25. 文化財めぐり 460 – マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/262064/9487396/9564898
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  28. 藤堂高虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
  29. 築城の名手 藤堂高虎の武将としての生き方と城づくり - お城カタリスト https://shiro1146.com/blog/takatora-01/
  30. 大本と丹波亀山城址(明智光秀公築城)・城址見学の皆さまへ - 大本本部 https://oomoto.or.jp/wp/kameyamajoushi/
  31. 篠山城大書院の公式ページ - withsasayama https://withsasayama.jp/osyoin/
  32. 丹波亀山城 : 丹波攻略の拠点として明智光秀が建てた総石垣の城。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2013/11/03/tamba-kameyama/
  33. 丹波亀山城見どころ解説マップ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/uploaded/attachment/25057.pdf
  34. History1 丹波攻略と平定の拠点「亀山城」について - 亀岡市公式 ... https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1269.html
  35. 気ままにぶらっと城跡へ㉖丹波亀山城へ行ってきた https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/tannbakameyamajo-kyoutohu
  36. 石垣の刻印 | 亀山城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/193/memo/1203.html
  37. 天下普請の刻印の謎! - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B%E3%81%AE%E5%88%BB%E5%8D%B0%E3%81%AE%E8%AC%8E%EF%BC%81
  38. 文化財めぐり 456 - マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/262064/9031849/9094046
  39. 藤堂高虎の城下町建設にみる 織豊期城下町プランの受容と展開 - 歴史地理学会 | http://www.hist-geo.jp/img/archive/201_023.pdf
  40. 突然の嵐は祟りか…?築城の天才も降参した「伊賀上野城崩落」の謎 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/114186/
  41. 今治城 - KemaAkeの全国城めぐり https://kemaake.com/c_shikoku/c_imabari.html
  42. 丹波亀山城(亀岡城)> ”明智光秀”が築城し”藤堂高虎”が縄張りを増強したお城 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12506182024.html
  43. 亀山藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_kameyama.html
  44. 文化財めぐり 461 - マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/262064/9594110/9650848