二川宿整備(1601)
慶長6年、家康は東海道の宿駅制度を整備。二川宿は当初「二村一宿」体制だったが、交通量増大で機能不全に。40年後、幕府直轄領となり計画移転で現在の宿場町が完成した。
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天下布武から天下泰平へ:慶長六年の宿駅制度と二川宿整備の戦略的意義
序章:関ヶ原の残響と新たな秩序の胎動(1600年〜1601年初頭)
関ヶ原の戦い直後の政治情勢:徳川家康が直面した全国統治の課題
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いにおける徳川家康の勝利は、日本の歴史における画期的な転換点であった。しかし、この軍事的な覇権確立は、即座に安定した政治支配を意味するものではなかった。豊臣家は依然として大坂城に健在であり、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた 1 。家康が直面した最大の課題は、この限定的な軍事的勝利を、いかにして恒久的かつ全国的な政治支配体制へと転換させるかという点にあった。
この課題に対し、家康は矢継ぎ早に布石を打っていく。まず、関ヶ原で敵対した外様大名を九州や東北などの遠国へ転封(国替え)し、その旧領地や交通の要衝には、徳川一門である親藩や、古くからの家臣である譜代大名を配置した 2 。これは、万が一反乱が起きても、それが政治の中枢である江戸や経済の中心地である大坂へ即座に波及することを防ぐための、物理的な安全保障体制の構築であった。
しかし、大名の配置転換だけでは、広大な日本を効率的に統治することはできない。真の全国支配には、中央からの指令を迅速に伝達し、各地の情報を正確に収集するための情報通信網、そして有事の際に軍隊を速やかに移動させ、平時においては経済を活性化させるための物流網が不可欠であった。この国家的要請こそが、関ヶ原の戦いのわずか数ヶ月後に発令されることになる、宿駅伝馬制度の直接的な動機となったのである 1 。
戦国時代の「道」と「宿」:軍事行動と兵站(へいたん)を支えた伝馬制度の遺産
「素人は戦略を語り、プロは兵站を語る」という言葉が示すように、食料や武器弾薬といった物資を前線へ供給する兵站は、古来より軍事行動の生命線であった 3 。戦国時代、群雄割拠する大名たちは、それぞれの領国内において、軍事物資の輸送や伝令の迅速な伝達を目的とした独自の伝馬制度を整備していた 5 。これは、領内の特定の宿場(宿駅)に馬や人足を常備させ、リレー方式で輸送を行うシステムであった。
徳川家康自身も、その重要性を早くから認識し、領国経営に積極的に活用していた経験を持つ。三河時代から伝馬制度を設けていたと伝えられ 6 、特に駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国を領有していた時代には、領内の宿駅整備を進めている 1 。天正15年(1587年)から18年(1590年)にかけて、本拠地である駿府と旧領の岡崎を結ぶ伝馬制を整備した実績は、後の全国規模での制度設計の重要な雛形となったと考えられる 1 。
ただし、これらの戦国期の伝馬制度は、あくまで各々の大名領内に閉じた、軍事優先のシステムであった。その目的は領国経営と軍事行動の円滑化にあり、全国的な統一基準は存在しなかった。家康が構想したのは、この戦国時代の遺産ともいえる伝馬制度を、全国規模で統一し、軍事だけでなく平時の統治と経済活動を支える恒久的な国家インフラへと昇華させることであった 5 。
平和的統治のためのインフラ再構築:軍事路から経済・情報路への転換という国家的ビジョン
家康は、新たな政治の中心地として江戸を確立するため、諸大名に大規模な城下町の造成事業(天下普請)を命じた 2 。しかし、都市がその機能を十分に発揮するためには、それを支える広域交通網が不可欠である。都市という「点」を、街道という「線」で結び、全国的な「面」として機能させる必要があった。
慶長6年(1601年)に始まった宿駅制度の整備は、江戸の日本橋を起点とする五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)の制定と一体不可分のものであった 2 。これは、戦国の世の終焉を見据え、軍事路を平時の経済・情報の大動脈へと転換させる、壮大な国家的プロジェクトであった。その規模と構想は、かつて律令国家が都を中心に放射状の道路網「五畿七道」を整備したことに比肩しうる、新たな時代に合わせた国家基盤の再構築であったと言える 8 。
この事業は、単なる交通政策ではなかった。それは、関ヶ原の勝利を既成事実化し、徳川による「天下泰平」の世を盤石にするための、極めて高度な政治的、軍事的、そして経済的な複合戦略の一環だったのである。
【表1】戦国期伝馬制度と江戸期宿駅伝馬制度の比較
項目 |
戦国期の伝馬制度 |
江戸期の宿駅伝馬制度(東海道) |
目的 |
主に軍事目的(伝令、兵糧輸送)と領国経営 5 |
公用(情報伝達、参勤交代)および民間の経済活動(物流、旅行)の円滑化 1 |
運営主体 |
各戦国大名が領内独自に運営 5 |
江戸幕府(道中奉行)による全国統一的な管理 5 |
対象街道 |
大名領内の主要な街道 |
五街道(東海道、中山道など)を中心とした全国の基幹街道 5 |
規模・範囲 |
領国単位で閉じたシステム |
江戸と京都・大坂を結び、全国に広がる統一ネットワーク 10 |
義務の内容 |
不定期かつ軍事需要に応じた人馬の提供 |
各宿場に常備人馬数(例:東海道は100人100疋)が定められ、恒常的な継立義務を負う 12 |
利用対象者 |
主に大名とその家臣、軍関係者 |
幕府役人、大名などの公用利用者が優先されるが、一般の商人や旅人も有償で利用可能 12 |
標準化の有無 |
基準は各大名により異なり、統一性はない |
街道ごとに常備人馬数や駄賃などが標準化され、制度として確立 12 |
第一部:国家事業としての東海道整備計画
第一章:慶長六年の大号令 ― 宿駅伝馬制度の公布
慶長6年(1601年)正月:幕府による「伝馬朱印状」および「伝馬定書」の一斉発給
徳川家康は、関ヶ原の戦いでの勝利からわずか数ヶ月後の慶長6年(1601年)正月、天下統一政策の一環として、江戸と京都を結ぶ大動脈・東海道の宿駅に対し、「伝馬掟朱印状」と「伝馬定書」を一斉に下付した 10 。この驚くべき迅速さは、家康がこの街道整備事業をいかに最重要課題と位置づけていたかを如実に物語っている。
「伝馬掟朱印状」は、幕府の朱印が押された公式文書であり、どの宿場が人馬の継立地となるかを正式に指定するものであった 14 。これにより、各宿場は幕府の公的な交通網の一部として組み込まれることとなった。
一方、「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」とも呼ばれる「伝馬定書」は、制度の具体的な運用規則を定めたもので、主に5カ条から構成されていた 12 。これには、各宿場が常備すべき人馬の数や、荷物を継ぎ送る隣の宿場の指定など、宿駅制度の根幹をなす規定が盛り込まれていた。この二つの文書の発給によって、東海道における新たな交通システムが公式に始動したのである。
制度の核心:人馬の常備義務、継立の原則、地子免許などの詳細
慶長6年に定められた宿駅伝馬制度は、宿場に重い義務を課す一方で、その見返りとして経済的な特権を与えるという、巧みなバランスの上に成り立っていた。
- 人馬の常備義務: 東海道の各宿場は、原則として 人足100人、馬100疋 を常に用意することが義務付けられた 12 。これは、中山道の50人50疋、その他の街道の25人25疋と比較して突出して多く、幕府が東海道をいかに国家の最重要幹線と見なしていたかを示している 12 。
- 継立(つぎたて)の原則: この制度の核心は、公用の旅客や荷物、書状などを、宿場から次の宿場へとリレー形式で輸送する「人馬継立」にあった 12 。将軍の朱印状を持つ「御朱印伝馬」や、幕府役人の証明書を持つ「御証文」による公用利用は、原則として無賃で提供された 6 。一方で、一般の旅人や商人は、定められた公定料金(駄賃)を支払うことで、このシステムを有償で利用することができた 13 。
- 特典(代償): このような重い公役負担の見返りとして、宿場に住む人々は、屋敷地に課せられる年貢(地子)が免除されるという税制上の優遇措置を受けた 14 。さらに、旅人を宿泊させる旅籠屋の経営や、一般旅客からの駄賃収入など、宿場としての経済活動から収益を得る権利が認められていた 12 。この「義務」と「権利」の組み合わせにより、幕府は直接的な財政負担を最小限に抑えつつ、国家インフラの維持・運営を可能にしたのである。
- 積載量の規定: 当初、伝馬一疋あたりに積載できる荷物の重量は30貫目(約112.5キログラム)と厳密に規定された 15 。これは、馬の疲弊を防ぎ、輸送の安定性を確保するための措置であった。
計画の推進者たち:代官頭・伊奈忠次や大久保長安らの役割
この壮大な国家プロジェクトを現場で推進したのは、家康の信頼厚い実務官僚たちであった。彼らの行政手腕なくして、制度の迅速な導入は不可能であっただろう。
- 伊奈忠次(いな ただつぐ): 関東代官頭として知られるが、その活躍は関東に留まらなかった。家康の関東入国以前、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、東海道筋の道路整備や兵糧輸送を一手に担い、その能力を高く評価されていた 16 。三河・遠江・駿河の奉行職としての経験も豊富であり、彼の知見と実行力が東海道全体の整備計画に反映されたことは想像に難くない。
- 大久保長安(おおくぼ ながやす): 美濃国奉行として、中山道の整備を主導した人物である 14 。彼の指揮下で、中山道では宿駅の指定や駄賃の決定、橋の架け替えなどが精力的に進められた 14 。東海道と中山道では制度の適用方法に若干の差異(例えば、中山道では伝馬定書に該当するものが用意されなかった)が見られるが 14 、両街道を一体の交通網として整備する国家構想の中で、伊奈や大久保のような有能なテクノクラートの存在は不可欠であった。
【表2】慶長六年 東海道宿駅整備 年表(1600-1601年)
年月 |
政治・軍事上の動向 |
交通政策上の動向 |
主要人物 |
備考 |
慶長5年 (1600) |
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9月15日 |
関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利 2 |
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徳川家康 |
軍事的な覇権を確立。 |
9月以降 |
戦後処理。西軍大名の改易・転封を実施 2 |
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徳川家康 |
徳川支配体制の基礎固めを開始。 |
慶長6年 (1601) |
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1月 |
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東海道の宿駅に対し「伝馬朱印状」「伝馬定書」を発給。宿駅伝馬制度が公式に始まる 10 |
徳川家康, 伊奈忠次 |
江戸と京・大坂を結ぶ大動脈の整備に着手。 |
年内 |
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三河国が徳川氏の支配下に復帰し、代官が配置される。 |
鳥山精俊 |
鳥山精俊が三河代官に就任 18 。 |
年内 |
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上記の幕府の指令に基づき、三河国二川村・大岩村が東海道33番目の宿場として指定され、業務を開始 19 |
鳥山精俊 |
当初は二つの村が共同で一つの宿場の役割を担う「二村一宿」体制であった。 |
第二章:なぜ東海道が最優先されたのか ― 路線選定の地政学
既存街道「本坂通(姫街道)」との比較:なぜ浜名湖南岸ルートが「本道」として選ばれたのか
慶長6年(1601年)の東海道制定において、家康は単に既存の道を追認したわけではなかった。特に遠江国と三河国を結ぶ区間において、彼の決定は従来の交通路を根底から覆す、きわめて戦略的なものであった。
この地域には古来、浜名湖の北岸を山沿いに迂回する「本坂通(ほんさかみち)」が存在した 21 。この道は古代の東海道の本道であり、「二見の道」とも呼ばれていた 21 。戦国時代においても、今川氏や武田氏、徳川氏の軍勢が往来するなど、軍事・交通の要路として機能していた 21 。
しかし、家康は新たな東海道の「本道」として、この本坂通ではなく、浜名湖の南岸、今切(いまぎれ)の渡しと呼ばれる渡船ルートを経由する、より直線的な経路を選定した。これにより、歴史ある本坂通は東海道に付属する「脇往還(わきおうかん)」へと格下げされ、後世「姫街道」という名で知られるようになる 21 。この路線選定は、単なる地理的な選択ではなく、徳川の天下を盤石にするための高度な政治的判断だったのである。この決定により、本坂通沿いにあった市野宿などは相対的にその重要性を低下させ、新たに本道沿いに設置された浜松宿、舞阪宿、新居宿などが交通の結節点として繁栄していくことになった 21 。
軍事的・政治的意図:対豊臣家を睨んだ迅速な情報伝達・軍隊移動路の確保
家康が南岸ルートを本道とした最大の理由は、その軍事的・政治的優位性にあった。
- 迅速性: 浜名湖南岸ルートは、山越えの多い本坂通に比べて距離が短く、平坦であった。依然として大坂に豊臣家が健在である状況下で、有事の際に江戸と京・大坂を最短時間で結ぶことは、幕府の存亡に関わる最重要課題であった 1 。幕府の公式な飛脚であった「継飛脚」は、この道を昼夜走り続け、江戸・京都間をわずか3〜4日で結んだという 12 。
- 管理の容易性: 南岸ルートの要衝である新居には関所が設けられ、「入り鉄砲に出女」に象徴される厳格な通行管理が行われた 15 。これは、謀反を企む大名が江戸へ武器を持ち込むこと(入り鉄砲)や、人質として江戸に置かれた大名の妻子が国元へ逃げ帰ること(出女)を監視するための、重要な防衛策であった。また、幕府は意図的に大井川などの大河川に橋を架けず、渡船や川越人足による渡渉を強制した 15 。これも、大規模な軍隊の移動を困難にさせ、江戸の防衛ラインを強化する軍事的な意図があった。
本坂通にも気賀に関所が置かれ、本道並みの厳しい監視が行われたが 21 、国家の基幹ルートを幕府が最も管理しやすい南岸ルートに一本化し、そこに資源を集中させるという明確な意図があったと考えられる。これは、それまで「本道」であった本坂通を「脇道」へと格下げし、徳川の権威によって日本の地理的中心軸を新たに規定し直すという、空間の再定義ともいえる政治的行為であった。
経済的意図:江戸と京・大坂という二大経済圏を結ぶ大動脈の創出
軍事的・政治的側面に加え、経済的な合理性もこの路線選定の重要な要素であった。距離が短く平坦な南岸ルートは、大量の物資を効率的に輸送するのにきわめて有利であった。
家康は街道整備と並行して、慶長小判に代表される統一的な貨幣制度の整備も進めていた 9 。全国の流通を支える商人が、整備された街道と宿場を利用して安全に旅をできるようになることで、人、物、そして貨幣の流れが飛躍的に活発化し、江戸を中心とする新たな巨大経済圏の発展を促した 9 。東海道本道の制定は、徳川の世の経済的繁栄を支える大動脈を創出する事業でもあったのである。インフラ整備は、どの地域に富を集中させ、どの地域を停滞させるかを決定する権力そのものであり、家康はこの事業を通じて、徳川に従順な地域を育成する新たな経済秩序を意図的に作り出したと言える。
【表3】本坂通(姫街道)と東海道(慶長六年制定)の比較(遠江・三河間)
項目 |
本坂通(姫街道) |
東海道(慶長六年制定) |
比較分析(徳川幕府にとっての利点) |
主要ルート |
浜名湖の北岸を迂回する山越えルート 21 |
浜名湖の南岸を通り、今切の渡し(渡船)で湖口を横断するルート 23 |
南岸ルートはより直線的で距離が短い。 |
地形的特徴 |
本坂峠や引佐峠など、峠越えが多く、起伏に富む 23 |
比較的平坦だが、天竜川や大井川などの川越しや、今切の渡しという水上の難所がある 15 |
平坦なルートは、大量の荷物や大人数の移動に適しており、時間予測が立てやすい。 |
総距離(見付-御油間) |
約60キロメートル以上 |
約55キロメートル |
距離の短縮は、情報伝達と軍隊移動の迅速化に直結する。 |
主要な難所 |
本坂峠の険しい山道 |
今切の渡し(荒天時は渡航不能)、大井川の川越し(水量により通行止め) 15 |
水上の難所は、関所と連動させることで、通行を完全に遮断・管理することが可能。軍事的にコントロールしやすい。 |
関所の位置と機能 |
気賀関所(入り鉄砲・出女の監視) 22 |
新居関所(入り鉄砲・出女の監視、今切の渡しの管理) 15 |
新居関所は渡船場と一体化しており、より厳格な通行管理が可能。 |
慶長6年以降の位置づけ |
脇往還(東海道の補助的街道) 21 |
本道(幕府公認の最重要幹線) |
「本道」と「脇道」を明確に区別することで、交通を本道に集中させ、管理コストと効率を最適化できる。 |
第二部:三河国における宿駅整備のリアルタイム展開
第三章:計画策定以前の二川・大岩地域
戦国期の支配関係の変遷:今川氏、松平(徳川)氏、そして家康関東移封後の支配者
慶長6年(1601年)に宿場として指定される以前の二川・大岩地域は、戦国動乱の渦中にあった。この地は、東三河における戦略的要衝である吉田城(戦国期には今橋城と呼ばれた)の勢力圏に属しており、その支配権を巡って周辺の有力大名による激しい争奪戦が繰り広げられていた 26 。
当初は駿河の今川氏が大きな影響力を及ぼしていたが、田原の戸田氏や、後に三河を統一する松平氏(徳川氏)との間で、領有権は目まぐるしく移り変わった 26 。やがて徳川家康が三河を平定すると、この地域もその支配下に組み込まれる。しかし、その支配も安定的ではなかった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により家康が関東へ移封されると、三河国は池田輝政をはじめとする豊臣系大名の所領となった。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、この地は再び徳川の支配へと戻ることになる。
このように、二川・大岩地域に暮らす人々は、数十年の間に今川、徳川、豊臣、そして再び徳川と、支配者が次々と交代する激動の時代を生きていた。彼らにとって、1601年の宿駅指定は、こうした支配者の交代劇の、いわば最終章を告げる出来事であった。それは単に新たな義務が課されるだけでなく、「これより先は徳川の世が続くのだ」という絶対的な権力の確定を、インフラ整備という目に見える形で突きつけられた、時代の転換を実感する象徴的な体験だったと言える。
本坂通沿いの集落として:宿駅制度以前の二川村と大岩村の役割と生活
慶長6年に東海道の本道が制定されるまで、この地域の主要な交通路は浜名湖の北岸を越える本坂通であった。二川村や大岩村は、この本坂通の沿線に位置する村落であり、公式な宿場ではなかったものの、街道を往来する旅人や商人、あるいは軍勢などに対して、非公式な形で休憩場所や食料、水などを提供していた可能性が考えられる。
しかし、それらはあくまで制度化されたものではなく、村の日常生活の一部として行われる、偶発的で小規模なものであっただろう。彼らの生活の基盤は、あくまで農業であった。そこに突如として、国家的な交通網の結節点としての役割、すなわち「宿駅」としての公的な義務が課せられることになったのである。これは、彼らの生活様式、経済構造、そして村のあり方そのものを根底から変える、一大転機であった。
地域の地理的特性:遠江国から三河国への入り口という戦略的位置
二川が宿場として選定された地理的要因も見逃せない。この地は、東の遠江国から西の三河国へ入る、まさに国境に位置していた 19 。国境という立地は、平時においては人や物の交流点として、有事においては防衛の最前線として、常に重要な意味を持つ。
新たに制定された東海道がこの地を貫通することになり、二川宿は三河国最初の宿場として、国境を越えてきた旅人や物資を次の吉田宿へと円滑に継ぎ送るという、きわめて重要な役割を担うことになった。この地理的な特殊性が、二川宿の性格を規定する重要な要素となったのである。
第四章:三河代官鳥山精俊の着任と二川宿設置の指令(1601年)
慶長6年(1601年):鳥山精俊の三河代官就任と、彼に与えられたミッション
関ヶ原の戦いが終結し、三河国が再び徳川の直轄地となると、その統治を担う代官として鳥山精俊(とりやま きよとし)が任命された。彼は、関ヶ原の戦いの際に三河吉田で家康軍に合流して再出仕し、その功績を認められて慶長6年(1601年)に三河代官に就任した武将である 18 。かつて徳川氏の関東移封の際に一度所領を返上して三河に戻った経歴を持つことから、地域の事情に精通した人物として、この重要な任に選ばれた可能性が考えられる 18 。
彼に与えられたミッションは、戦乱の傷跡が残る三河国を安定的に統治すること、そして何よりも、幕府の最重要政策である東海道宿駅の設置を現地で遅滞なく実行することであった。鳥山精俊の役割は、家康や伊奈忠次といった中央の為政者が描いた壮大な国家計画と、二川・大岩という村落の現実とを接続する、いわば「翻訳者」であった。
現地での調査と宿場候補地の選定:なぜ「二川村」と「大岩村」が選ばれたのか
幕府から東海道のルートが示された後、鳥山精俊ら現地の役人は、具体的な宿場の設置場所の選定に入った。二川村と大岩村が候補地として選ばれた理由は、いくつかの要因が考えられる。
第一に、幕府が定めた東海道のルート上にあり、西の吉田宿、東の白須賀宿との距離が、人馬の継立を行う上で適切であったこと。宿場はおおむね2里から3里(約8キロメートルから12キロメートル)ごとに設置されており、この地理的条件が最も重要であった。
第二に、全くの未開の地に新たな宿場町をゼロから建設するよりも、既に人々が生活している既存の集落を活用する方が、はるかに効率的であったこと。二川村と大岩村には、街道沿いの村落として、人馬の継立業務を担うための潜在的な人的・物的資源があったと判断されたのであろう。
両村への通達と住民の反応:伝馬役負担という新たな義務に対する期待と不安
宿場の場所が決定されると、代官である鳥山精俊、あるいはその配下の役人から、二川村と大岩村の代表者(庄屋など)に対して、宿駅指定の通達がなされた。その内容は、東海道の宿場として、人足100人・馬100疋を常備し、公用の通行に無償で提供するという重い義務を課すものであった。同時に、その見返りとして、屋敷地の年貢(地子)が免除されることや、旅籠屋の経営などで収益を上げることが認められるといった特権も伝えられたはずである 12 。
この通達を受けた村人たちの心境は、複雑なものであったと想像される。これまで経験したことのない重い公役負担への不安。一方で、宿場町となることで街道を往来する人々から経済的な利益を得られるかもしれないという期待。そして何より、天下人となった徳川家の命令に逆らうことは許されないという、抗いがたい現実。期待と不安が入り混じる中、二川村と大岩村は、新たな時代における役割を受け入れざるを得なかったのである。
第五章:二川宿の誕生 ―「二村一宿」体制の成立とその実態
慶長6年(1601年)内:二川宿の公式な業務開始
代官からの指令に基づき、慶長6年(1601年)のうちに、二川宿は東海道五十三次の三十三番目の宿場として公式に業務を開始した 19 。江戸日本橋から数えて33番目、遠江国から三河国に入って最初の宿場という、重要な位置を占める宿場の誕生であった 19 。
初期体制の構造:東西に約1.3km離れた二川村と大岩村による業務分担の実務
しかし、その船出は異例の形態であった。当初の二川宿は、現在見られるような一つの連続した宿場町ではなく、東西に約1.3キロメートル(12町)も離れた「二川村(元屋敷)」と「大岩村(元屋敷)」という、二つの独立した村が共同で一つの宿場の機能を担う「 二村一宿 」という特殊な体制をとっていた 19 。
幕府から課せられた人足100人・馬100疋という重い常備義務は、この二つの村で等分に負担することとされた 19 。つまり、二川村と大岩村は、それぞれ50人・50疋の人馬を常に用意し、幕府の公用通行に備えなければならなかったのである。これは、既存の村落の資源を最大限に活用しようという、設立当初の現実的な判断がもたらした結果であった。
初期運営の課題:物理的な距離がもたらす非効率性と、増大する交通量による経済的疲弊
この「二村一宿」体制は、壮大な国家計画が現場レベルで直面した「現実の壁」を象徴するものであった。机上の計画では、二つの村を合わせれば100人・100疋の義務を遂行できる。しかし、現実の運用において、二つの村が物理的に1.3キロメートルも離れていることは、致命的な欠陥となった。
- 連携の困難と非効率: 人馬の継立業務において、両村の連携はきわめて困難であった。例えば、二川村に大名行列が到着し、用意していた馬がすべて出払ってしまった場合、1.3キロメートル離れた大岩村から応援の馬を連れてくるには相当な時間がかかる。公用の旅人を長時間待たせることは許されず、宿場役人たちは常に綱渡りのような運営を強いられた 19 。
- 経済的疲弊: 当初、幕府の想定以上に東海道の交通量は増加していった。特に、後年になると参勤交代が本格化し、宿場の負担は増大の一途をたどる。二川宿は、二つの村に機能が分散しているため、旅籠屋や商店が集積して賑わいを呈するような、典型的な宿場町としての経済的メリットを十分に享受することができなかった。一方で、人馬提供の義務という負担だけは重くのしかかり、その結果、両村は経済的に行き詰まり、疲弊してしまったのである 19 。
この初期の失敗は、1601年の宿駅制度が一夜にして完成した理想的なシステムではなく、現場での試行錯誤と失敗を経て、長い時間をかけて完成度を高めていった、動的なプロセスであったことを示す貴重な事例である。
第三部:初期構想の修正と二川宿の完成
第六章:矛盾の顕在化から幕府直轄領への編入(1601年〜1643年)
参勤交代の本格化と交通量の爆発的増加
慶長6年(1601年)に「二村一宿」として始まった二川宿は、その後約40年もの間、その構造的欠陥を抱えたまま運営を続けることになる。この間、日本の社会は大きく安定に向かい、それに伴い東海道の交通量も飛躍的に増大した。特に寛永12年(1635年)、三代将軍家光によって参勤交代が制度として確立されると、全国の諸大名が江戸と国元を定期的に往復するようになり、東海道を通過する大名行列の数は爆発的に増加した。
この交通量の増大は、二川宿が抱える「二村一宿」体制の矛盾をいよいよ限界点まで押し上げた。分散した体制では増え続ける需要に対応しきれず、人馬の継立業務は頻繁に滞り、宿場機能は麻痺寸前の状態に陥った。両村の経済的疲弊も深刻化し、もはや自力での再生は不可能な状況であった 19 。
吉田藩領から幕府直轄領へ:宿場機能の維持を目的とした中央政府の直接介入
この危機的状況に対し、ついに幕府が直接介入を決断する。寛永20年(1643年)、二川宿の管轄権は、それまでの吉田藩から幕府へと移管され、幕府の直轄領(天領)に編入されたのである 19 。
これは、単なる領地の変更以上の意味を持っていた。二川宿という一宿場の機能不全が、もはや地域的な問題ではなく、東海道全体の円滑な交通を阻害する国家的な問題であると幕府が認識したことを示している。これは、吉田藩の統治能力を問うといった懲罰的な意味合いではなく、むしろ、藩の手に余る構造的問題を解決するために、より強力な権限と財源を持つ幕府が直接乗り出すという、一種の「救済措置」であった。東海道という国家インフラを最重要資産とみなし、その機能を維持するためには手段を選ばないという、幕府の強い意志の表れであった。
第七章:正保元年の大移転 ― 現在の二川宿の完成(1644年)
計画的な都市移転:現在地への集約と、宿場町特有の町割りの実施
幕府直轄領となった翌年の正保元年(1644年)、二川宿の抜本的な改革が断行された。二川村と大岩村は、それぞれが生活していた元屋敷の地を離れ、街道沿いの現在地へと集団で移転し、一つの連続した宿場町として再編されたのである 19 。
この大移転は、きわめて計画的に行われた。新たな町並みは、間口が狭く奥行きが深い、宿場町に特有の短冊形の宅地割り(町割り)が整然と実施された 19 。街道に沿って旅籠屋や商家が軒を連ね、町の中心部には大名などが宿泊する本陣や、人馬継立業務の中枢である問屋場が配置された。一方で、寺社は町の喧騒から少し離れた北側の高台にまとめられるなど、機能性を重視した合理的な都市計画がなされていた 19 。これにより、40年以上にわたって二川宿を苦しめてきた物理的な距離の問題は、ついに解消された。
「本宿」二川と「加宿(かしゅく)」大岩:役割分担の再定義と、大岩村の旅籠屋営業禁止の背景
町の形態は一つになったが、旧来の二つの村の役割分担には新たな区別が設けられた。移転後、二川は宿場の中心である「 本宿(ほんしゅく) 」とされ、大岩はそれを補助する「 加宿(かしゅく) 」として位置づけられた 19 。
人馬100人・100疋を提供するという公的な義務は、これまで通り両者で等分に負担した。しかし、経済活動においては明確な差がつけられた。加宿である大岩では、旅人を宿泊させる旅籠屋を営業することが許可されなかったのである 19 。
これは、宿場町の中心的な経済基盤である宿泊業を本宿である二川に集中させることで、過当競争を防ぎ、本宿の経済的な安定と発展を図るための政策であったと考えられる。大岩は、人馬提供という公的義務は負い続けるが、宿泊業という経済的権利は制限されるという、非対称な関係がここに成立した。この1644年の再編は、1601年の設立時に掲げられた理念を、43年の歳月を経てようやく実現させた「真の完成」であった。それは、徳川のインフラ政策が、一度の命令で終わる硬直的なものではなく、長期的な視点での運用、問題点の把握、そして改善という、柔軟なプロセスを経て完成されていったことを雄弁に物語っている。
結論:戦国の終焉を告げたインフラ整備
二川宿整備が象徴するもの:軍事優先の論理から、持続可能な全国統治システムへの移行
慶長6年(1601年)の二川宿の設置、そしてその後の40年以上にわたる試行錯誤の過程は、徳川幕府が戦国時代の軍事優先の論理から脱却し、平時における持続可能な全国統治システムをいかにして構築していったかを凝縮して示している。
当初の「二村一宿」体制は、既存の村落を活用するという、いわば戦国的な発想の延長線上にあったかもしれない。しかし、それが機能不全に陥ると、幕府は吉田藩からの領地召し上げと、計画的な都市移転という、中央集権的な権力を発動して問題を解決した。これは、力による支配だけでなく、制度設計(義務と権利のバランス)、経済的インセンティブ、そして問題発生時の柔軟な修正能力を伴う、より高度な統治技術への移行を象徴している。
1601年の「事変」の歴史的意義:徳川による二百数十年間の泰平の世の礎石としての宿駅制度
二川宿を含む東海道宿駅制度の整備は、単なる交通網の整備という枠をはるかに超える歴史的意義を持つ。それは、人、物、情報が全国を円滑かつ安全に移動するための物理的な基盤を創出し、参勤交代という画期的な政治システムを機能させ、ひいては江戸を中心とする統一された巨大経済圏を誕生させる原動力となった。
この強固なインフラこそが、徳川による二百数十年にわたる長期安定政権、すなわち「天下泰平」の世を物理的に支える、最も重要な礎石の一つとなったのである。その意味において、1601年の「二川宿整備」という一見地域的な事変は、戦国の世の終わりを告げ、新たな時代の扉を開いた、巨大な礎石を築くための、具体的かつ象徴的な一歩であったと結論付けられる。
引用文献
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- 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
- 兵站とは?現代用語の物流・ロジスティクスが何故重要なのか兵站を用いて解説しております。 https://mikasa-net.co.jp/logistics_heitan/
- 簡単戦国解説7【素人は戦略を語り、プロは兵站を語る】 - note https://note.com/sengokupanda/n/n5261a1b18759
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- 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
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- 東三河のご紹介 https://higashimikawa-kitankai.jp/?page_id=172
- トップページ|二川宿本陣資料館 https://futagawa-honjin.jp/