二条城下武家地設定(1603)
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空間の平定:慶長八年「二条城下武家地設定」に見る徳川の京都支配戦略
序章:天下分け目の後の京都―新たな支配秩序の空間的宣言
慶長五年(1600年)九月、関ヶ原の戦いは徳川家康の軍事的勝利をもって幕を閉じた。しかし、この天下分け目の戦いの終結は、直ちに徳川による盤石な支配体制の確立を意味するものではなかった。特に、豊臣家の本拠地であり、長らく日本の政治と文化の中心であった京都および上方地域は、依然として複雑かつ繊細な政治的空気を内包していた。朝廷の伝統的権威が色濃く残り、豊臣恩顧の大名や、秀吉の治世を記憶する町衆の感情が渦巻くこの地は、家康にとって、武力のみでは制し得ない、慎重な統治戦略を要する「敵性地」に近い空間であった 1 。
当時の京都は、応仁の乱以来の長い戦乱の時代を経て、市街地が上京と下京に二分され、それぞれが堀や土塁で囲まれた一種の自治都市としての性格を保持していた 2 。豊臣秀吉は、聚楽第の建設や市街を囲む御土居の築造を通じて、この分断された都市の再編と一体化を試みたが、その支配構造はあくまで秀吉個人の権威に依存するものであった 3 。関ヶ原を経て、この都市の新たな支配者となった家康の眼前にあったのは、旧勢力の影響力が深く根を張る、統治上の巨大な課題であった。
本報告書は、慶長八年(1603年)に画期を迎える「二条城下武家地設定」を、単なる城郭建築や都市開発事業として捉えるのではなく、徳川家康が京都という伝統的権威の中心地に対して断行した、周到に計画された**「空間的・視覚的な権力掌握のプロセス」**として分析するものである。それは、城と武家地という物理的構造物を京都の中心部に楔として打ち込む行為であった。この事業が、いかにして新たな時代の到来を宣言し、旧来の権威である朝廷と、旧勢力の象徴である豊臣家を心理的に圧迫し、その影響力を削いでいったのか。そのリアルタイムな過程と多層的な意味を、戦国時代という力と戦略が交錯する視点から徹底的に解明することを目的とする。
この家康による京都改造は、豊臣秀吉の都市計画に対する直接的な「上書き」行為という側面を持つ。秀吉は聚楽第を建設し、その周囲に大名屋敷を配置することで、京都を自らの権力の中心地として再編した 3 。それは京都の「豊臣化」とも言える事業であった。家康は、聚楽第の跡地という象徴的な場所を意図的に避けながらも 5 、その南方に、より永続的で堅固な城郭を築き、同様に武家地を配置した。この行為は、秀吉が示した「権力者が京都を支配する」という方法論そのものを継承しつつ、その主体を豊臣から徳川へと完全に置き換えるという、極めて象徴的な意味合いを帯びていた。秀吉の遺産を物理的に再利用するのではなく、その「概念」を乗っ取り、より強固なシステムとして実現することで、権力の正統性が徳川へ移行したことを空間的に証明しようとしたのである。これは単なる都市計画ではなく、前政権に対する**「概念的上書き」**という、高度な政治的メッセージであった。
第一章:前史としての聚楽第―豊臣秀吉の都市改造とその空白
徳川家康による二条城を中心とした都市改造を理解するためには、その前史として、豊臣秀吉が京都に築いた壮麗な政庁、聚楽第の存在を避けては通れない。秀吉の「都づくり」と、その後の聚楽第の破却によって生じた「権力の空白」こそが、家康の新たな計画の舞台を用意したからである。
秀吉の「都づくり」と聚楽第大名屋敷町の形成
天正十三年(1585年)に関白に就任し、名実ともに天下人となった豊臣秀吉は、その権勢を天下に示すべく、京都の大規模な改造に着手した 3 。その中核をなしたのが、天正十四年(1586年)に平安京の大内裏跡地という、日本の歴史上最も象徴的な場所に建設を開始した聚楽第であった 3 。この場所の選定自体が、秀吉が天皇を擁し、伝統的権威の後継者として君臨しようとする強い意志の表れであった。
翌天正十五年(1587年)に完成した聚楽第は、単なる邸宅ではなく、政庁としての機能を備えた城郭であった。さらに秀吉は、その周囲の広大な土地を整備し、配下の大名たちに屋敷を構えさせた。その範囲は、北は元誓願寺通、南は丸太町通、東は堀川、西は千本通に及んだと推測されている 4 。前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元といった有力大名の屋敷が軒を連ね、その瓦には金箔が用いられるなど、壮麗な大名屋敷街が形成された 4 。この聚楽第と大名屋敷町は、秀吉の権力が京都の都市空間を支配し、再編成したことを可視化する巨大な装置として機能した。天正十六年(1588年)の後陽成天皇の行幸は、その権威が朝廷にも認められたことを天下に知らしめる、壮大な政治的儀式であった 4 。
聚楽第の破却と権力の空白地帯の出現
しかし、この豊臣政権の栄華を象徴した聚楽第の命運は、あまりにも短かった。文禄四年(1595年)、秀吉は甥であり後継者であった関白・豊臣秀次を謀反の疑いで高野山に追放し、切腹させた。この秀次事件に連動し、秀吉は秀次の居城であった聚楽第を徹底的に破却するよう命じたのである 4 。竣工からわずか8年、壮麗を極めた殿舎や城郭は跡形もなく破壊され、その部材の多くは伏見城などに移築された 7 。
この徹底的な破却は、京都の中心部に広大な「権力の空白地帯」を生み出した 7 。聚楽第と共にその威光を支えていた大名屋敷群もその多くが役割を終え、跡地はその後約30年間にわたって空き地同然の状態であったとされる 6 。この物理的な「空白」は、関ヶ原の戦いを経て京都の新たな支配者となった徳川家康にとって、自らの権力構造を投影するための、またとないキャンバスとなったのである。
さらに重要なのは、聚楽第の盛衰が、家康に物理的な土地だけでなく、「なぜ京都に武家の拠点を置くべきか」という戦略的な教訓をも与えた点である。秀吉は聚楽第を政治の中心舞台として活用し、天皇の権威を巧みに利用して自らの権力を正当化する上で、それが極めて有効であることを証明した 4 。しかし、その権力基盤は秀吉個人のカリスマに依存し、秀次の死と共にあまりにもあっけなく解体された。これは、聚楽第が恒久的な統治機構としての設計に欠けていたことを示唆している。家康はこの秀吉の成功(京都を政治利用する有効性)と失敗(権力基盤の脆弱性)の両方から学び、単なる将軍の宿所ではない、京都所司代という常設の行政機関と一体化した、永続的な支配拠点としての二条城を構想するに至った。それは、秀吉の試みを反面教師として、より完成度の高い**「京都支配システム」**を空間的に構築しようとする、壮大な試みの始まりであった。
第二章:慶長六年~八年 京都改造のリアルタイムクロニクル
関ヶ原の戦いから間もない慶長六年(1601年)から、徳川家康が征夷大将軍に就任する慶長八年(1603年)にかけての約二年間、京都では徳川による新たな支配体制を空間的に確立するための都市改造が、急ピッチかつ計画的に進められた。それは、まさにリアルタイムで進行する、旧時代の解体と新時代の建設のドラマであった。
慶長六年(1601年):計画の始動と「空間」の収用
- 5月: 関ヶ原の戦勝処理を一段落させた徳川家康は、満を持して上洛し、自らの京都における新たな拠点となる城地の検分を行った 10 。選ばれたのは、かつての聚楽第の南、平安京のメインストリートであった二条大路に面し、天皇の住まう京都御所を南西から睨みつける絶好の戦略的位置であった 1 。この場所は、朝廷を「守護」するという名目の下に、その実、監視下に置くという家康の政治的意図を明確に示していた。
- 同月: 城地の検分とほぼ同時に、周辺住民に対して衝撃的な命令が下される。城地の確保および武家地の造成のため、**「町家四、五千軒が立ち退く」**という大規模な強制移転である 10 。これは、単なる用地確保の問題ではなかった。徳川の新たな権力が、京都に住まう人々の生活や財産権に対して絶対的に優越することを見せつける、強烈なデモンストレーションであった。移転を余儀なくされた町衆の間には大きな混乱が生じたであろうことは想像に難くない。同時に、この移転は新たな都市区画の創出を促し、例えば浪華(大阪)から移住してきた薪炭商らによって新たな町が形成されるなど、京都の経済地図にも変化をもたらした 11 。
- 10月~12月: 家康は再度京都に入り、屋敷地の測量を自ら確認する 10 。そして、西国を中心とする諸大名に対し、二条城の築城工事への動員、すなわち「天下普請」を命じた 12 。これは、大名たちの財力を削ぎ、徳川への忠誠と奉仕を義務付けるための、巧みな政治的手段であった。
慶長七年(1602年):築城と都市インフラの再編
- 通年: 年が明けると、西国大名の負担による普請が本格的に開始された。この巨大プロジェクトの現場総責任者として采配を振るったのが、慶長六年(1601年)に初代京都所司代に任命された 板倉勝重 である 13 。彼は普請奉行(総奉行)として、諸大名の統制から資材の調達、工事の進捗管理まで、一切を取り仕切った 15 。
- 実際の建築作業は、当代随一の大工頭・中井正清らが指揮を執り、驚異的な速さで進められた 16 。この過程で、既存の都市環境は大胆に改変されていく。特に象徴的なのが、平安時代以来の名勝であった神泉苑の扱いである。家康はその豊かな湧水に着目し、神泉苑の寺域を大幅に削って城域に取り込み、その池を外堀の広大な水源として利用した 17 。歴史ある天皇の遊覧地が、徳川の城の軍事施設の一部へと転用されたこの事実は、時代の支配者が誰であるかを雄弁に物語っていた。
慶長八年(1603年):二条城の完成と新時代の幕開け
- 2月12日: 徳川家康、朝廷より征夷大将軍に任ぜられる。これにより、名実ともに武家の棟梁としての地位を確立し、江戸に幕府を開く大義名分を得た。
- 3月: ほぼ完成した二条城に、家康は征夷大将軍として初めて入城する 12 。そしてこの城において、将軍宣下の祝賀の儀を盛大に執り行った 17 。これは、新たな武家政権の拠点が、伝統的権威の中心地である京都に誕生したことを天下内外に宣言する、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。
- 同時期: 城の完成と並行して、その周囲に計画されていた武家屋敷の配置も完了し、「二条城下武家地」が名実ともに機能を開始する。京都の中心部に、徳川の権力を体現する巨大な軍事・行政複合体が誕生した瞬間であった。
この一連のプロセス、特に「町家四、五千軒の立ち退き」という強硬な手段は、京都の社会構造そのものを変革する意図を持っていた。戦国時代の京都の町衆は、「町組」と呼ばれる自治組織を形成し、時の権力者と交渉し、時には対立するほどの独立した勢力であった 2 。数千軒にも及ぶ大規模な強制移転は、こうした既存のコミュニティを物理的に破壊し、その結束力を根底から弱める効果があった。移転後の新たな町割りは、徳川の都市計画に基づいて一方的に行われるため、町衆は否応なく新しい支配秩序の中に組み込まれていく。家康は、武家地を創設するという軍事・行政的な目的を達成する過程で、同時に、潜在的な抵抗勢力となりうる
京都町衆の自治能力を根本から削ぐ という、高度な社会政策を並行して実施していたのである。
表1:二条城築城と武家地設定に関する時系列年表(1601年~1603年)
年月 |
徳川家康の動向 |
幕府・所司代の命令・動向 |
工事の進捗と京都の状況 |
慶長6年 (1601) |
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5月 |
上洛し、京都屋敷(二条城)の地を自ら検分 10 。 |
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城地および武家地造成のため、町家四、五千軒の立ち退きが開始される 10 。 |
10月 |
再度上洛し、京中の屋敷地を測量 10 。 |
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12月 |
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西国諸大名に対し、二条城の造営(天下普請)を命じる 10 。 |
築城工事が着手される。 |
慶長7年 (1602) |
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5月 |
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村越茂助を奉行として、本格的な工事が開始される 19 。 |
西国大名の負担による普請が本格化。京都所司代・板倉勝重が総奉行として指揮を執る 16 。 |
通年 |
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神泉苑の一部が城域に取り込まれ、堀の水源となる 17 。急ピッチで工事が進む。 |
慶長8年 (1603) |
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2月12日 |
伏見城にて征夷大将軍の宣旨を受ける 20 。 |
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3月 |
完成した二条城に初めて入城 12 。 |
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二条城(現在の二の丸部分)が完成 12 。城内で将軍宣下の祝賀の儀を執り行う 17 。 |
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城周辺の武家地設定が完了し、新たな都市景観が出現する。 |
第三章:可視化された支配―武家地の構造と機能
慶長八年(1603年)に完成した二条城と、その周囲に設定された武家地は、単なる武士の居住区ではなかった。それは、徳川による新たな支配のあり方を、京都の都市空間に可視化した、巨大な政治的装置であった。その空間配置、居住者、そして当時の絵図に描かれた姿を分析することで、徳川の支配戦略の巧みさが浮き彫りになる。
空間配置の政治性―城と役所と屋敷の連携
二条城下武家地の最大の特徴は、その極めて合理的かつ政治的な空間配置にある。徳川の支配機構が、二条城という軍事的中核を同心円状に固める形で配置され、権力のヒエラルキーがそのまま都市の地理に反映されていた。
-
北側:京都所司代屋敷
二条城の北側一帯には、広大な敷地を占める京都所司代の屋敷が構えられた 14。京都所司代は、朝廷の監視、公家衆との交渉、西国大名の動静監視、そして京都市中の行政・司法を司る、江戸幕府の京都における最重要機関であった 15。この最重要機関を城に隣接させることで、徳川の権力中枢が常に朝廷を睨み、京都全域を掌握しているという強烈なメッセージを発していた。 -
西側・南側:幕府重要役所と役人住宅
城の西側および南側には、目付屋敷をはじめとする幕府の重要な役所が密集し、そこに勤務する役人たちの住宅も併設された 21。これにより、二条城周辺は、行政・司法・監察機能が一体化した、さながら京都における「徳川ゾーン」へと変貌を遂げた。このエリアは、外部の町人地とは明確に区別され、武家の論理によって統制される空間となった。 -
油小路通などの主要街路:有力大名の京屋敷
油小路通などの主要な通り沿いには、徳川譜代や関ヶ原で功績のあった有力大名たちの京屋敷が配置された 21。これらの屋敷は、城への参勤や非常時の動員を容易にすると同時に、二条城を頂点とする徳川政権の序列を、街路レベルで可視化する役割を担っていた。
居住者の実態―統治システムの担い手たち
この新たに創出された武家地には、徳川の支配を支える二種類の人々が居住していた。常駐の行政官僚と、江戸から派遣される軍事官僚である。
-
京都所司代・板倉勝重
初代京都所司代として、この支配システムの確立に絶大な功績を残したのが板倉勝重である。彼は元々僧侶であったが還俗して家康に仕えた異色の経歴を持ち、その知見は朝廷や寺社勢力との複雑な交渉において大いに活かされた 13。また、駿府や江戸で町奉行を歴任した経験から、卓越した行政・司法能力を備えており、京都の治安維持と民政安定に手腕を発揮した 24。家康の絶大な信頼を得ていた勝重は、二条城の普請奉行を務め、その後も京都支配の全権を担い、徳川の権威をこの地に根付かせたのである 15。 -
二条在番
将軍が江戸にいる間、二条城の警備と管理を担当したのが「二条在番」と呼ばれる武士たちであった 26。彼らは幕府の直轄軍である大番衆の中から選抜され、通常二組(一組約50人)が江戸から派遣され、一年交代で勤務にあたった 27。この一年交代というシステムは、在番の武士たちが京都に土着化し、朝廷や他の勢力と癒着することを防ぎ、常に江戸の幕府中央への忠誠を維持させるための巧妙な仕組みであった。彼らの常駐は、二条城が単なる将軍の宿泊所ではなく、幕府の恒久的な出先機関であり、軍事拠点であることを明確に示していた 28。
絵図にみる武家地―国宝「洛中洛外図屏風(舟木本)」の分析
武家地設定から約12年後の元和元年(1615年)頃の京都の姿を活写したとされる国宝「洛中洛外図屏風(舟木本)」は、この新たな都市景観を伝える第一級の視覚史料である 29 。特にその左隻には、完成から間もない二条城とその周辺の武家地が詳細に描かれている 32 。
- 二条城の構造: 屏風に描かれた二条城は、慶長年間の創建当初の姿、すなわち現在の二の丸に相当する単郭の方形居館として表現されている 33 。高い石垣の上に築かれた白亜の壁、壮麗な御殿、そしてそびえ立つ天守閣が描かれ、堅固な要塞としての威容を誇っている。
- 周辺の屋敷群: 城の北、西、南には、整然と区画割りされた土地に、高い築地塀と重厚な長屋門を備えた大規模な武家屋敷が立ち並んでいる。屋根は黒い瓦で統一され、自然発生的に形成された町人地の雑然とした景観とは対照的に、計画的に造成された秩序ある景観を呈している。
- 武家地と町人地の境界: 屏風の中では、武家屋敷群と、瓦葺の二階建て家屋が密集する町家との境界が、道や堀によって明確に分断されている様子が見て取れる。これは、職住が一体であった中世都市から、身分ごとに居住区が分離される近世城下町へと、京都の都市構造が変貌を遂げたことを視覚的に証明している。
- 人々の活動: 城門を厳重に警備する武士、屋敷に出入りする供侍の一行、道を行き交う武士の行列など、武家地ならではの人々の活動が描かれており、この区域が武家社会の秩序と論理によって支配されていたことを物語っている 32 。
この「舟木本」に描かれた二条城周辺の景観は、徳川による「静かなる支配」の完成形を視覚的に表現していると言える。屏風の右隻には、豊臣家の象徴である方広寺大仏殿が描かれ、その周辺では祇園祭の山鉾が巡行し、活気あふれる町衆のエネルギーが満ち溢れている 30 。対照的に、左隻の二条城周辺は、整然としているが、どこか静かで、人の活動も武士階級に限定されている。そこには祭りの喧騒も商いの活気もない。この意図的とも思える対比は、豊臣的なるもの(混沌、民衆のエネルギー)と、徳川的なるもの(秩序、統制、静寂)を並置することで、時代の大きな転換点を描いている。二条城下の武家地は、単に武士が住む場所ではなく、
徳川幕府が理想とする秩序と統制が具現化されたモデル地区 として描かれているのである。その静けさは、武力による威圧がすでに日常の風景に溶け込み、人々がそれに従順になっている状態、すなわち「天下泰平」の萌芽を象-徴しているのかもしれない。
表2:慶長年間における二条城周辺の主要な武家屋敷・役所一覧(推定)
名称 |
所在地(推定) |
主な役割・機能 |
備考 |
二条城 |
二条通堀川西入 |
将軍上洛時の居城、京都における政庁・軍事拠点 26 。 |
慶長8年(1603年)完成。当初は現在の二の丸部分のみ 12 。 |
京都所司代屋敷 |
二条城北側一帯 |
朝廷・公家の監察、西国大名の監視、京都市中の行政・司法 15 。 |
初代所司代は板倉勝重。上屋敷・堀川屋敷など複数の屋敷から構成された 14 。 |
目付屋敷 |
二条城南側(城下) |
諸大名や幕臣の監察 21 。 |
城の南側は「城下」と呼ばれ、幕府の重要施設が置かれた 21 。 |
二条在番詰所 |
二条城内(東大手門横など) |
将軍不在時の城内警備・管理 27 。 |
江戸から派遣された大番衆が一年交代で勤務。城内には複数の番所があった 36 。 |
諸藩の京屋敷 |
油小路通沿いなど |
各藩の京都における拠点、情報収集、幕府との連絡 21 。 |
油小路通には十数藩の屋敷が並んでいた 21 。譜代や有力大名の屋敷が中心であったとみられる。 |
幕府役人住宅 |
二条城の西部・南部 |
所司代や目付などの配下で実務を担う役人たちの住居 21 。 |
役所と住宅が一体的に配置され、武家屋敷街を形成した 21 。 |
第四章:事変がもたらした影響―京都の変貌と徳川の天下
二条城と武家地の建設は、単に京都の一角の景観を変えただけではない。それは、京都の政治的・社会的・経済的構造を根底から揺さぶり、徳川による新たな天下の秩序を不動のものとするための、決定的な布石であった。
朝廷・公家社会への無言の圧力
京都御所の南西、文字通り目と鼻の先に、壮大な天守閣をいただく巨大な城郭と、整然とした武家屋敷群が出現したことは、朝廷と公家社会に絶え間ない心理的圧力を与えることになった。徳川の強大な武力が、常に自分たちを監視しているという事実を、日常の風景として日々突きつけられることになったのである 1 。これにより、朝廷が幕府の意向を無視して独自の政治行動をとることは事実上不可能となった。慶長十六年(1611年)の豊臣秀頼との会見や、元和元年(1615年)の「禁中並公家諸法度」の発布など、以降、幕府が朝廷に対する優位性を確立していく上で、二条城は物理的・象徴的な拠点として決定的な役割を果たしていくことになる 17 。
京都の都市構造の再定義
この事業は、京都の都市構造そのものを根本的に再定義した。中世以来、公家町、武家地、寺社地、そして町衆の居住区が比較的混在していた都市のあり方は、この事業を画期として大きく変貌する。二条城下武家地という、武士階級に限定された広大な空間が出現したことにより、身分や機能によって都市空間を明確にゾーニング(区分け)するという、近世的な都市計画の理念が京都に導入された 21 。これは、京都に「徳川幕府の城下町」という新たな性格を付与するものであり、その後の京都の発展の方向性を決定づけるものであった。かつて自治的な性格を誇った商工業都市は、徳川の統制下にある政治都市として再編されたのである。
「天下普請」から「天下泰平」へ
西国大名を動員して城を築かせる「天下普請」の手法は、豊臣秀吉も用いたものである。しかし、その目的と意味合いは大きく異なっていた。秀吉のそれが、天下統一を祝祭するような華やかさと、権力誇示の性格を帯びていたのに対し、徳川のそれは、より冷徹な支配システムの一環として行われた。諸大名に莫大な経済的負担を強いることでその財力を削ぎ、幕府への奉仕を絶対的な義務として課す。このプロセスを通じて、大名たちを徳川の支配体制に完全に組み込むことが目的であった。二条城の完成は、戦国時代的な実力行使の時代の終わりと、法と秩序に基づく恒久的な支配体制、すなわち「天下泰平(パックス・トクガワーナ)」の確立を象徴する一大事業であった。
さらに、この政治的・軍事的な都市改造は、京都の経済構造にも静かだが確実な影響を及ぼした。武家地の成立により、数多くの武士とその家族、そして彼らに仕える奉公人たちが、この地域に定住または一時的に滞在するようになった 21 。彼らは、日々の食料、衣服、武具、その他あらゆる生活必需品を消費する、新たな巨大消費階級であった。この需要に応えるため、武家地の周辺には、新たな商人や職人が集積し始めたと考えられる。例えば、二条城の南側に、堀川の舟運を利用した材木商や、それに関連して樽・桶・建具などを製造する職人町が形成されたのは、その典型的な例である 21 。つまり、武家地の設置は、政治的・軍事的な都市改造であると同時に、
武家需要を核とする新たな商業・サービス業の集積を促す経済的な都市改造 でもあった。それは、京都の経済地図を徳川の支配体制に適合する形で塗り替える、大きな波及効果をもたらしたのである。
結論:慶長八年の画期―空間に刻まれた新秩序
慶長八年(1603年)の「二条城下武家地設定」は、単に京都の一角で行われた都市開発事業に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いにおける軍事的勝利を、恒久的かつ不可逆的な政治的支配へと転換させるために、徳川家康が日本の伝統的権威の中心地である京都のまさに心臓部に、物理的な構造物として新たな時代秩序を恒久的に刻み込んだ、極めて戦略的な政治行為であった。
この事業を通じて、家康は複数の目的を同時に達成した。第一に、二条城という堅固な軍事拠点を確保し、朝廷と西国大名に対する物理的な威圧と監視の体制を構築した。第二に、城の周囲に京都所司代をはじめとする行政機関と武家屋敷を配置することで、徳川の支配が京都の隅々にまで及ぶことを視覚的に示した。第三に、大規模な町家の強制移転を伴う都市改造によって、京都町衆が持っていた自治的な力を削ぎ、幕府の直接的な統制下に置くことに成功した。そして第四に、天下普請という形で諸大名を動員することで、徳川への絶対的な服従関係を再確認させ、その経済力を削いだ。
武力による勝利を、誰もが目に見える「空間支配」という形に転換し、揺るぎない権威として定着させる。慶長八年のこの事変は、まさにその画期をなすものであった。戦国の世の終焉と、それに続く二百六十余年の泰平の世の始まりが、この京都の地において、石垣、堀、そして整然たる武家屋敷の街並みという、不動の形で宣言された瞬間だったのである。
引用文献
- 徳川家康と二条城 ~京都から眺める江戸時代~【前編】 - Kyoto ... https://kyotolove.kyoto/I0000553/
- Shocking! Completely different from today! Kyoto was divided into "two towns"! The surprising sig... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xeqLj8YWhjE
- 豊臣秀吉と「都づくり」 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/400.pdf
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- 超入門!お城セミナー 第68回【歴史】:京都の二条城はいくつもあったってどういうこと? - 城びと https://shirobito.jp/article/809
- 聚楽第城下町の大名屋敷の探し方 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/yasiki.htm
- 聚楽第跡の調査 https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/seminar/pdf/s125.pdf
- 聚楽第跡 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2285
- 聚楽第について http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/syokai.htm
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- 板倉勝重とは 京都所司代の「神」対応 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/itakurakatushige.html
- 二条城 - 西陣 くらしの美術館 冨田屋 https://tondaya.co.jp/explore/nijyou/
- 元離宮二条城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/nijo-castle/
- 信長が見た戦国時代の驚愕の京都 完全版!「上京・下京」に分裂した1570年頃の都をCGで完全再現【総まとめ】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=h0JhF14uVok
- 都市史21 二条城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi21.html
- 今後の展開はいかに!? 京都・徳川家康ゆかりのスポットめぐり https://souda-kyoto.jp/blog/01201.html
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