最終更新日 2025-09-17

二条城会見(1611)

慶長16年、家康と秀頼の二条城会見。家康は秀頼の器量に驚き、豊臣家根絶を決意。徳川の天下を決定づけ、豊臣滅亡への序曲となった。
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慶長十六年、二条城の対面 ― 徳川の天下を決定づけた一日

序章:偽りの融和

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから11年の歳月が流れた。徳川家康は征夷大将軍に就任後、その座を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に隠居しながらも、事実上の最高権力者として天下の采配を振るっていた。江戸に幕府が開かれ、徳川による支配体制は着実にその礎を固めつつあった。しかし、その盤石に見える治世において、なお一つの巨大な影が存在した。大坂城に座し、65万石の直轄領と太閤秀吉が遺した莫大な金銀を背景に、依然として天下人の遺児としての権威を保持する豊臣秀頼である。

慶長16年(1611年)3月28日、京の二条城において、この徳川家康と豊臣秀頼の会見が実現した。表向きは、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位に伴う儀礼への列席を名目とし、両家の親睦を深めるための和やかな対面とされた 1 。世上には、この会見によって徳川と豊臣の間の緊張が緩和され、天下泰平が確固たるものになったかのように映った。

しかし、この歴史的な対面の裏には、融和とは全く異なる冷徹な政治的計算が隠されていた。これは「緊張緩和」のための会談ではなく、家康が周到に仕組んだ、豊臣家を徳川の支配構造に完全に組み伏せるための最終段階の儀式であった。慶長10年(1605年)の上洛要請を淀殿の猛反対によって一度は阻まれた家康は、天皇の代替わりという誰もが拒否し得ない公儀の権威を盾に、豊臣側が到底拒絶できない舞台を整えた 3 。この時点で、秀頼の上洛は選択肢ではなく、応じなければ徳川への反逆と見なされかねない、実質的な最後通牒としての意味合いを帯びていた。したがって、二条城会見は、偽りの融和を演出しながら、豊臣家が徳川の権威の下にあることを天下に知らしめるための、壮大な政治劇に他ならなかったのである。

第一章:会見に至る道程 ― 徳川と豊臣、水面下の攻防

二条城での対面は、突如として設定されたものではない。それは、関ヶ原の戦い以降、家康が十余年にわたって推し進めてきた、豊臣家を徐々に無力化していく長期戦略の集大成であった。

第一節:家康の豊臣家弱体化戦略

家康の戦略は、軍事、経済、政治の三つの側面から、豊臣家を静かに、しかし確実に追い詰めていくものであった。

第一に、経済基盤の解体である。関ヶ原の戦後処理において、家康は西軍に与した大名の領地を没収・減封する一方で、その論功行賞の原資として、豊臣家の直轄地であった「太閤蔵入地」を惜しげもなく東軍諸将に分配した 4 。これにより、かつて全国に220万石あったとされる豊臣家の蔵入地は、本拠地である摂津・河内・和泉の約65万石にまで激減し、その経済力は著しく削がれた 6 。さらに、佐渡金山や石見銀山といった主要鉱山も徳川の直轄下に置かれ、豊臣家の財源は断たれていった 4

第二に、財政の枯渇策である。家康は、豊臣家に残された莫大な蓄財を消費させるため、寺社の造営や復興を秀頼に盛んに勧めた。特に、方広寺大仏殿の再建は、太閤秀吉の遺志を継ぐ事業として、豊臣家としても断ることができないものであった 7 。これらの事業には巨額の費用がかかり、『当代記』には「太閤御貯えの金銀払底」と記されるほど、豊臣家の財産は急速に失われていった 7 。これは、豊臣家が再び戦を起こそうとしても、その軍資金を物理的に枯渇させるという、家康の深謀遠慮に他ならなかった。

第三に、政治的地位の転換である。慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた。これは、豊臣政権が公家官職である関白を頂点としていたのに対し、武家の棟梁としての地位を確立するものであった 8 。さらに決定的なのは、わずか2年後の慶長10年(1605年)に将軍職を息子の秀忠に譲ったことである 8 。これにより、将軍職は徳川家が世襲するものであることを天下に宣言し、豊臣秀頼を頂点とする体制の可能性を完全に否定した。この時点で、豊臣家はもはや「天下人の家」ではなく、徳川将軍家に従うべき「一大名」へと、その政治的地位を事実上引き下げられていたのである。

第二節:周到に仕組まれた「上洛」という舞台

豊臣家の弱体化を着々と進める家康にとって、その主従関係を天下に示すための総仕上げが、秀頼の上洛と家康への挨拶であった。

最初の試みは慶長10年(1605年)、秀忠の将軍宣下に伴う祝賀を名目とした上洛要請であった 8 。しかし、これは秀頼の母・淀殿の「秀頼を自害させてでも、家康の下へは行かせぬ」という凄まじい剣幕の抵抗にあい、失敗に終わる 8 。この経験から家康は、単なる私的な要請では淀殿を動かせないと学び、より公的で、拒否することの難しい大義名分の必要性を痛感した。

その絶好の機会が、6年後の慶長16年(1611年)に訪れた。後陽成天皇が後水尾天皇に譲位するという、朝廷における最大の儀式である 1 。家康はこの儀式への参列を名目に駿府から上洛し、それに合わせて秀頼にも上洛を促した。天皇の権威を背景にしたこの要請は、豊臣家にとって前回とは比較にならないほどの重圧となった。

さらに家康は、豊臣家内部を切り崩すための周到な工作を行った。織田信長の弟である織田有楽斎や、秀吉の正室であった高台院といった、豊臣家に縁の深い人物を説得の使者として送り込んだ 1 。特に、淀殿と微妙な関係にあったとされる高台院をあえて起用するなど、家康は豊臣家内部の人間関係の機微を巧みに利用した 9

そして、この会見受諾の最大の要因となったのは、豊臣家の「孤立化」であった。関ヶ原以降、加藤清正や浅野幸長、福島正則といった豊臣恩顧の大名の多くは、徳川体制下で生き残る道を選び、江戸幕府との協調を重視するようになっていた 11 。家康は、彼らに秀頼説得の役を担わせることで、「豊臣家の安泰を思うならばこそ、大御所様への挨拶は不可欠」という論理を、豊臣家の内部から突きつけさせた 3 。もはや豊臣家は、かつての家臣たちの「助言」という名の圧力に抗うことができないほど、政治的に孤立していたのである。淀殿が6年前にはねつけることができた要求を、この時は受け入れざるを得なかった背景には、この決定的なパワーバランスの変化があった。

人物

立場・役割

会見における思惑・目的

典拠

徳川家康

大御所・事実上の最高権力者

豊臣家を完全に臣従させ、徳川の天下を確定的なものにする。秀頼の器量を見極める。

8

豊臣秀頼

豊臣家当主・右大臣

豊臣家の権威を保ちつつ、徳川との衝突を回避する。主家の当主としての威厳を示す。

8

淀殿

秀頼生母・豊臣家の実質的後見人

豊臣家の矜持を守り、秀頼を家康の下位に置くことを断固拒否。秀頼の身の安全を確保する。

10

加藤清正

豊臣恩顧大名(熊本藩主)

徳川の天下を認めた上で、豊臣家を存続させる。秀頼の身を命懸けで守護する。

8

浅野幸長

豊臣恩顧大名(紀州藩主)

清正に同調し、豊臣家の安泰を図る。秀頼の警護役を担う。

17

片桐且元

豊臣家家老

徳川と豊臣の間に立ち、両家の破局を回避する。現実的な妥協点を探る。

15

第二章:上洛をめぐる駆け引き ― 淀殿の抵抗と忠臣たちの苦慮

家康からの上洛要請は、大坂城内に激しい動揺をもたらした。特に、秀頼の母である淀殿の抵抗は、豊臣家の存亡を左右するほどの激しさを見せた。

第一節:「家康が大坂に来るべき」― 淀殿の矜持と恐怖

淀殿にとって、秀頼が家康の元へ出向くことは、豊臣家の権威を根底から覆す屈辱的な行為であった。彼女は「家康の方からこちら(大坂城)へ来るべきである」と強く主張し、上洛に猛反対した 15 。これは、亡き夫・秀吉のかつての家臣に過ぎなかった家康に、主筋である秀頼が頭を下げるなど断じてあってはならないという、彼女の強烈な矜持の表れであった。

しかし、その抵抗の根底には、矜持だけではなく、母としての一人の女性としての切実な恐怖心があった。家康の居城である二条城に赴くことは、敵地に乗り込むに等しい危険な行為であり、秀頼の身に万一のことが起こるのではないかという懸念が、彼女の心を苛んでいた 14 。その恐怖は、『当代記』に「もし強いて上洛を迫るならば、秀頼を刺し殺し、自らも後を追う」とまで言い放ったと記録されるほど、凄まじいものであった 8 。淀殿の強硬な態度は、単なる意地やプライドではなく、豊臣家の権威と息子の命、その両方を守ろうとする必死の抵抗だったのである。

第二節:板挟みの忠臣たち ― 片桐且元、加藤清正、浅野幸長

淀殿の頑なな態度に、最も苦慮したのは豊臣家の重臣たちであった。彼らは、豊臣家への忠誠心と、徳川の天下という冷徹な現実との間で、苦しい選択を迫られた。

豊臣家の家老として徳川との交渉役を担っていた片桐且元は、まさに両家の板挟みとなっていた 18 。彼は、このまま上洛を拒否すれば「関東と不和になり」、豊臣家の取り潰しに繋がりかねないと危惧し、淀殿の説得に奔走した 15 。上洛の吉凶を占う籤で淀殿が大凶を引いた際、且元がこっそりと吉に書き換えたという逸話は、真偽はともかく、彼が豊臣家存続のためにいかに心を砕いていたかを物語っている 15

一方、豊臣恩顧大名の筆頭格である加藤清正と浅野幸長も、家康の依頼を受けて説得に加わった 1 。彼らは、もはや徳川の治世という現実を受け入れ、その体制の中でいかにして豊臣家を安泰に導くかという、現実的な視点に立っていた。彼らの行動は、単なる徳川への迎合ではない。その根底には、秀吉への恩義と秀頼への忠誠心が深く根差していた。

その覚悟を最も象徴するのが、『名将言行録』に記された清正の言葉である。彼は淀殿に対し、「このたび秀頼公がご上洛なさらなければ、世間では気弱な君と侮られ、ご威光を失ってしまうでしょう。ご安心くだされ。拙者は終始御輿に付き添い、二条城においても、万一の謀計があれば、幾万の兵がいようとも片端から蹴散らし、必ずや秀頼公を再びこの大坂城へお連れ申します」と、自らの命を賭して秀頼の身を守ることを誓った 8 。この鬼気迫る誓いによって、淀殿もついに折れ、秀頼の上洛が決定した。

しかし、清正や幸長の「忠誠」は、秀吉存命中の絶対的なものとは質的に異なっていた。それは、徳川の公儀を認めた上で、その秩序の中で豊臣家の存続を図るという、条件付きの、そして極めて現実主義的な忠誠であった。彼らが家康の依頼を受けて説得に動いた時点で、彼らは新しい時代の支配者への恭順を示しつつ、古い主家への最後の奉公を果たそうとしていたのである。この二つの忠誠が、最終的に両立し得なかった点に、彼らの悲劇があった。

第三章:慶長十六年三月二十八日 ― 二条城会見、その一刻

淀殿の承諾を得て、ついに運命の日、慶長16年(1611年)3月28日が訪れた。この一日の出来事は、あたかも精緻に演出された舞台劇のように進行し、その一挙手一投足が天下の力関係を決定づけていった。

| 時刻(目安) | 場所 | 主な出来事 | 主要人物 | 典拠 |

| :--- | :--- | :--- | :--- |

| 早朝 | 淀 → 京・竹田街道 | 秀頼一行、京へ向けて出発。徳川義直・頼宣が見送り。 | 秀頼、清正、幸長、義直、頼宣 | 19 |

| 午前 | 京・市中 | 片桐且元の京屋敷にて衣装替え、隊列の再編成。 | 秀頼、且元 | 19 |

| 午前8時頃 | 二条城・城外~玄関 | 二条城に到着。家康自らが出迎え、諸大名が平伏。 | 秀頼、家康、諸大名 | 8 |

| 午前中 | 二条城・二の丸御殿 | 会見開始。席次をめぐるやり取りの後、三献の儀。 | 秀頼、家康、高台院、清正 | 11 |

| 午前中 | 二条城・二の丸御殿 | 刀剣の贈答。約2時間の会見の後、饗応。 | 秀頼、家康 | 19 |

| 午後1時頃 | 豊国神社・方広寺 | 会見終了後、豊国神社を参拝し、方広寺を視察。 | 秀頼、清正、幸長 | 19 |

| 午後 | 伏見 → 大坂 | 三条より乗船。清正の伏見屋敷に立ち寄った後、大坂城へ帰着。 | 秀頼、清正 | 19 |

【三月二十七日・未明~】大坂城出立から淀へ

前日の27日未明、豊臣秀頼は、福島正則らを留守居役として大坂城を出立した 19 。織田有楽斎、片桐且元・貞隆兄弟、大野治長ら約30名の側近が同行し、壮麗な楼船で淀川を下った。その行列の前後を、加藤清正と浅野幸長が率いる精鋭の騎馬武者それぞれ300騎、合計600騎以上が固め、物々しい警護体制が敷かれた 20 。この日の夜、一行は淀の宿で一泊した 19

【三月二十八日・早朝~午前】京への入洛と家康の演出

28日の早朝、淀では家康の九男・徳川義直(当時11歳)と十男・徳川頼宣(当時10歳)が、父の名代として秀頼を出迎えた 19 。これは、年少の息子たちを遣わすことで、儀礼を尽くしつつも家康自身の格を示すという、巧みな演出であった。

一行は竹田街道を通り、京の都へと入る 19 。しかし、その道中で秀頼を出迎える大名の姿はほとんどなかった。家康が事前に諸大名に対し、秀頼の出迎えを禁じていたためである 8 。京の入り口で一行を迎えたのは、警護役の加藤清正、浅野幸長に加え、池田輝政、藤堂高虎というわずか4名の大名のみであった 8 。これは、秀頼に従う大名がもはや少数であることを、秀頼自身と世間に視覚的に知らしめるための、家康による冷徹な政治的計算であった。

一行はまず片桐且元の京屋敷に入り、秀頼はここで上洛用の華麗な衣装に着替え、隊列を整え直してから、最終目的地である二条城へと向かった 19

【午前八時頃~】二条城での対面

午前8時頃、秀頼の行列は二条城に到着した。秀頼は城門の外で輿を降り、城内へと歩を進める 19 。そこには、息をのむような光景が広がっていた。徳川方の約30名の大名たちが玄関脇の白洲に平伏し、そして、大御所・徳川家康自らが玄関先まで出向いて秀頼を迎えるという、破格の待遇で敬意を表したのである 8

会見の場となったのは、徳川の権威の象徴たる二の丸御殿の「遠侍」あるいは「白書院」であったとされる 5 。室内に入ると、最初の、そして最も重要な政治的駆け引きが行われた。家康は秀頼に上座を譲ろうとしたが、秀頼は「大御所様は年長者であり、また妻(千姫)の祖父にあたられます」と述べ、これを固辞し、家康を上座に促した 11 。この一見、礼を尽くした美しいやり取りは、実質的に秀頼が自らの口で家康を上位者として認めたことを意味する、決定的な瞬間であった。

その後、秋元泰朝の媒酌により、儀式的な酒宴である「三献の祝い」が執り行われ、高台院も同席する中、家康と秀頼の間で盃が交わされた 11 。家康は秀頼に名刀「大左文字」の刀と脇差を、秀頼は返礼として「一文字」の刀と「左文字」の脇差を贈り、武家の儀礼に則って両家の新たな関係が確認された 19

【巨漢の貴公子】家康の驚愕と歴史の逆説

この会見で、家康にとって最大の衝撃であり、そして歴史の皮肉とも言うべき出来事が起こった。それは、19歳の青年に成長した豊臣秀頼その人の姿であった。家康が最後に秀頼に会ったのは8年前、まだ11歳の少年の頃である。淀殿の庇護下で育った気弱な若君だろうと、ある種の侮りをもって見ていた家康の目の前に現れたのは、その予想を根底から覆す、威風堂々たる貴公子であった。

伝承によれば、秀頼の身長は六尺五寸(約197cm)にも及ぶ並外れた巨漢であり、その立ち居振る舞いは落ち着きと威厳に満ちていた 8 。その姿を目の当たりにした家康は、驚愕を隠せなかった。『明良洪範』には、家康が後に「秀頼は愚かな人物と聞いていたが、全くそうではなく賢人である。とても人の下知を受けるような様子ではない」と漏らしたと記されている 8

ここに歴史の逆説が生まれる。もし秀頼が家康の予想通り、凡庸で頼りない人物であったならば、家康は彼を一大名として存続させ、徳川の支配下に安穏と置くことも考えたかもしれない。しかし、家康が見たのは、父・秀吉の血とカリスマ性を受け継ぎ、知性をも感じさせる、潜在的な脅威そのものであった 13 。この若き獅子をこのままにしておけば、いずれ豊臣恩顧の大名や反徳川勢力を結集させ、徳川の天下を揺るがす存在になりかねない。家康の驚愕は、感嘆から即座に「危険」の認識へと転化した。皮肉にも、秀頼が示したその優れた資質こそが、家康に「豊臣家は根絶やしにするほかない」という最終決断を下させた決定的な要因となったのである 8

【会見中~午後】不動の警護と帰路

約2時間に及んだ会見の後、酒や吸い物などの饗応が設けられた。随行の諸将も別室で饗応を受けたが、加藤清正ただ一人はその席に着かず、終始秀頼の傍らに控え、片時も目を離さなかったという 19 。その懐には短刀を忍ばせ、万一の事態に即応する覚悟であったと伝えられている 25

午後1時過ぎ、全ての儀式を終えた秀頼一行は二条城を後にした。豊臣家の菩提寺である豊国神社を参拝し、隣接して再建中の方広寺の普請状況を視察した後、三条から再び船上の人となった 19 。途中、加藤清正の伏見屋敷に立ち寄り、その日のうちに大坂城へと帰着した 19

第四章:会見の残響 ― 天下の行方と豊臣家の黄昏

二条城での一日は、和やかな雰囲気のうちに幕を閉じた。しかし、その水面下では、天下の趨勢を決定づける地殻変動が起きていた。会見の残響は、豊臣家の黄昏を色濃くし、滅亡への道を不可逆的なものとしていった。

第一節:家康の電光石火の布石

会見で豊臣家を事実上屈服させ、秀頼という潜在的脅威を自らの目で確認した家康の行動は、電光石火のごとく迅速であった。彼は、会見で作り上げた既成事実を、具体的な支配体制として固定化する作業に直ちに着手した。

会見の直後、家康は西国の大名たちに対し、江戸幕府への忠誠を改めて誓わせる起請文を提出させた 8 。翌年には、その対象を東国の大名にも広げている 8 。これは、二条城会見で示した「徳川が主、豊臣が従」という序列を、全国の大名に公式に認めさせ、徳川公儀への絶対服従を再確認させるための、極めて効果的な措置であった。この会見は、豊臣秀頼が徳川家康の居城に出向いて挨拶をしたという一点において、両家の力関係が完全に逆転したことを天下に知らしめる、決定的な象徴的事件となったのである 11 。かつて秀吉に恩を受けた福島正則ら豊臣恩顧の大名たちも、もはやこの現実を認めざるを得なかった 11

第二節:最後の防波堤の崩壊

豊臣家にとって、二条城会見がもたらした最大の打撃は、政治的地位の失墜だけではなかった。それは、彼らを守る最後の物理的・政治的防波堤の崩壊へと直結したのである。

会見からわずか3ヶ月後の慶長16年6月24日、秀頼の身を命懸けで守護した加藤清正が、帰国途上の船中で発病し、熊本で急死した 25 。享年50。公式な死因は病死とされているが、そのあまりに絶妙なタイミングから、家康による毒殺説が当時から根強く囁かれた 25 。真相は定かではないが、この時期に浅野幸長(慶長18年没)や池田輝政(慶長18年没)など、豊臣家に心を寄せる有力大名が相次いでこの世を去ったことは、豊臣家にとって致命的であった。

清正の存在は、単なる一大名のそれ以上の意味を持っていた。彼は秀吉子飼いの筆頭であり、豊臣家への忠誠の最後の象徴であった。彼が存命である限り、家康も豊臣家に対してあまりに露骨な強硬策は取りにくかった側面がある。その清正の死は、豊臣家から物理的な守護者と、徳川に対する政治的な交渉力・抑止力の両方を同時に奪い去った。清正の死をもって、徳川と豊臣の間に立ちはだかる最後の壁は取り払われ、もはや両家の全面衝突を押しとどめるものは何もなくなった。大坂の陣へと至る道は、この時点で事実上、開かれたと言っても過言ではない。

第三節:滅亡への序曲 ― 方広寺鐘銘事件

二条城会見で豊臣家を滅ぼす決意を固めた家康は、その実行に必要な最後のピース、すなわち戦を起こすための「大義名分」を虎視眈々と狙っていた 10

その格好の口実となったのが、会見から3年後の慶長19年(1614年)に起こった方広寺鐘銘事件である 14 。豊臣家が再建した方広寺大仏殿の梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文に対し、家康は「家康の名を分断し、豊臣の繁栄を願う呪詛である」として、突如激怒した 15 。これは誰の目にも明らかな言いがかりであったが、一度固めた討伐の決意を実行に移すための、計算され尽くした挑発であった。

この事件の弁明に奔走した片桐且元は、豊臣家内部で徳川方との内通を疑われ孤立し、ついに大坂城を退去する 15 。徳川との唯一の交渉役を失った豊臣家と、もはや交渉の余地なしと判断した徳川家の関係は完全に破綻し、同年11月、大坂冬の陣の開戦へと至る。二条城会見で蒔かれた滅亡の種は、3年の時を経て、ついに戦乱という形で実を結ぶこととなったのである。

終章:一日の会見、百年の天下

慶長16年の二条城会見は、歴史の教科書ではしばしば、徳川と豊臣の間の緊張緩和を象徴する出来事として、穏やかに語られることがある。しかし、その実態は全く異なっていた。それは、徳川家康がその老獪な政治手腕の全てを注ぎ込み、一滴の血も流すことなく豊臣家を精神的に屈服させ、徳川による天下支配の正統性を万邦に宣言した、一大政治劇であった。

この会見が内包する最大の歴史的皮肉は、豊臣秀頼が示した類稀なる器量と威厳にあった。その姿は、本来であれば豊臣家再興の希望の光となるはずであった。しかし、その光はあまりに眩しすぎたために、老いたる天下人・家康の警戒心を最大限に刺激し、かえって滅亡への時計の針を早める結果を招いてしまった。もし彼が凡庸な君主であったなら、一大名として家名を保つ道もあったかもしれない。しかし、彼は天下人の器を備えていたがゆえに、天下人たることを許されなかった。若き貴公子の悲劇は、戦国乱世の終焉と、新たな時代の非情な論理の到来を象徴している。

慶長十六年三月二十八日。京の二条城で繰り広げられた、わずか数時間のできごと。しかし、この一日の対面は、豊臣家の運命に事実上の終止符を打ち、その後250年以上にわたって続く徳川幕府という巨大な統治機構の盤石な礎を築き上げる、決定的な転換点となったのである。武力ではなく、儀礼と圧力によって天下の趨勢が決したこの日は、日本の歴史が「戦国」から「近世」へと大きく舵を切った、画期的な一日として記憶されるべきであろう。

引用文献

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  2. 「どうする家康」『徳川実紀』に見る徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2164
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  4. 豊臣体制の解体へと家康が利用した「征夷大将軍」という権威 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12011/
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