二条御所新造(1569)
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権威の城砦:織田信長による二条御所新造の真相 ―1569年、京に現出した天下人の意志―
序章:上洛―新時代の幕開け
戦国乱世の京都に、新たな権力構造が生まれようとしていた永禄11年(1568年)、二人の男の邂逅が時代の歯車を大きく動かすことになる。一人は、兄である第13代将軍・足利義輝を「永禄の変」(1565年)で三好三人衆らに殺害され、流浪の身となっていた足利義昭 1 。もう一人は、尾張から美濃へと勢力を拡大し、天下にその名を轟かせつつあった織田信長である。
義昭は、仏門から還俗して将軍位への執念を燃やし、越前の名門・朝倉義景などを頼ったが、いずれも彼の望む上洛の兵を動かすことはなかった 3 。膠着した状況を打破したのは、美濃を完全に手中に収め、次なる一手を探していた信長からの使者であった 3 。信長にとって、足利将軍家の後継者である義昭を奉じることは、天下に号令するための絶対的な大義名分を獲得することを意味した 5 。一方の義昭にとって、信長の圧倒的な軍事力は、将軍職という悲願を達成するための唯一無二の力であった。
両者の利害は完全に一致した。永禄11年7月、義昭は信長の本拠である岐阜城に入り、両者の同盟は成立する。同年9月、信長に擁された義昭は、まさに電光石火の勢いで上洛作戦を開始した。行く手を阻む近江の六角義賢・義治父子は観音寺城の戦いで瞬く間に駆逐され、織田軍は畿内を制圧 4 。三好三人衆らの抵抗勢力は京都から一掃され、同年10月18日、足利義昭は朝廷より将軍宣下を受け、室町幕府第15代将軍に就任した 4 。
当初、両者の関係は蜜月そのものであった。義昭は信長を「我が父とも思う」とまで述べ、その恩義に深く感謝したと伝わる 7 。将軍となった義昭は、ひとまず京都の六条にあった本圀寺を仮の御所(居館)とした 8 。しかし、この協力関係は、互いの利害が一致した上での「政略的パートナーシップ」に過ぎなかった。義昭が目指すのは伝統的な幕府権力の再興であり、信長が構想するのは旧来の権威を利用した新たな天下秩序の構築であった。その根本的な目的の相違は、上洛の成功という熱狂の陰に隠れ、潜在的な対立の火種として燻り続けていた。そして、信長の圧倒的な軍事力と政治的手腕は、義昭を将軍の座に押し上げると同時に、彼が信長の「傀儡」と見なされる素地をも作り出した。この複雑な力関係を、物理的な形で京都の中心に顕現させることになるのが、後に築かれる壮麗かつ堅固な二条御所だったのである。
第一章:本圀寺の変―新御所造営の引き金
新将軍・足利義昭を擁立し、京都の情勢を安定させたと判断した織田信長は、永禄11年(1568年)の暮れに主力を率いて本拠地である美濃へと帰国した。この信長不在という権力の空白は、京都から駆逐された三好三人衆にとって千載一遇の好機であった。彼らは和泉・堺に潜伏して再起の機会を窺っており、信長が去った京都を急襲し、新政権の脆弱さを天下に晒すことで、失地回復を図ろうと画策した。
永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は行動を開始する。彼らが率いる軍勢は、将軍・義昭が仮の御所としていた六条の本圀寺を突如として包囲し、攻撃の火蓋を切った 8 。この事件は「本圀寺の変」として知られる。
本圀寺は、もともと法華宗(日蓮宗)の有力寺院であり、政治的な駆け引きの舞台となることはあっても、本格的な籠城戦を想定した防御施設ではなかった。土塀や堀は存在したものの、戦国時代の城郭に比べればその防御力は著しく劣っていた。三好勢の狙いは、この防御の甘さを突き、信長の援軍が到着する前に将軍を弑逆、あるいは捕縛することにあった。
しかし、三好勢の目論見は外れる。京都には、明智光秀をはじめとする信長配下の武将たちが将軍警護のために駐留しており、彼らは義昭の側近たちと連携して必死の防戦を繰り広げた 8 。さらに、信長と盟友関係にあった摂津の池田勝正や、三好一族でありながら信長方に付いていた三好義継らが畿内から救援に駆けつけ、三好三人衆を撃退することに成功した。
この本圀寺の変は、結果として義昭・信長方の勝利に終わったものの、新政権に深刻な課題を突きつけることになった。それは、将軍の居館が常に敵の攻撃目標となりうるという冷徹な現実と、その防御能力が決定的に欠如しているという事実であった 10 。この事件の報は直ちに岐阜の信長のもとへ届けられた。信長は、将軍の身の安全を確保し、揺らぎかねない新政権の威信を内外に改めて示すため、もはや猶予はないと判断する。そして、仮住まいの寺院ではなく、防備の整った新たな城郭様式の御所を建設することを即座に決断したのである 8 。
この決断は、室町将軍の「御所」が持つべき機能の概念を根本から変えるものであった。これまでの御所は、儀礼や政務を執り行う政治的・文化的な中心地としての性格が強かった。しかし、この事件以降、戦国乱世を生き抜くための「軍事拠点」としての機能が最優先されることになる。信長が主導する新しい御所は、単なる住居ではなく、高い石垣と深い堀で固められた「城」として構想された。それは、将軍の権威がもはや名目だけでは通用せず、圧倒的な軍事力によって裏打ちされなければならないという、信長の冷徹な現実認識の表れであった。この思想は、後に彼が築くことになる天下布武の象徴、安土城へと繋がっていくのである。
第二章:天下普請の号令―二条御所新造のリアルタイム・クロニクル
本圀寺の変を受け、信長は将軍の新たな居城たる二条御所の造営に乗り出す。その建設過程は、信長の卓越した実行力と政治的意図を如実に示すものであり、驚異的な速度で進行した。
第一節:場所の選定と普請の開始(永禄12年2月)
新御所の建設地として選ばれたのは、かつて義昭の兄である第13代将軍・義輝が非業の死を遂げた旧二条御所(武衛陣の御構え)の跡地であった 2 。この地は、もともと管領・斯波氏の邸宅があった場所で、「武衛陣」の名で知られていた 12 。義輝の御所は永禄の変で焼失し、跡地には真如堂が移されていたが、信長はこの真如堂に替地を与えて再び移転させ、跡地を確保した 8 。兄が殺害された場所に弟の城を再興するという行為には、三好勢によって断絶させられた足利将軍家の権威を、信長の力によって復活させるという強烈な政治的メッセージが込められていた。
普請は永禄12年(1569年)2月2日に「石蔵積み」(石垣の構築)から開始された 8 。驚くべきことに、この一大事業の普請総奉行は織田信長自らが務め、完成までの約3ヶ月間、京都に滞在して陣頭指揮を執った 8 。実務を担う奉行には、後に京都所司代となる村井貞勝と、信長の側近である島田秀満(秀順)が任命された 12 。動員された人数は、畿内および近国の武士を中心に8万人余りに及んだとされ、これは特定の戦国大名が単独で行う作事の規模を遥かに超えていた 8 。信長が将軍の権威を背景に広範囲の大名や国衆に賦役を課したこの手法は、後の安土城や大坂城の築城に見られる「天下普請」の先駆けと評価できる 16 。
第二節:石垣と堀の構築(2月~3月)―権力の誇示
新御所の設計は、従来の御所の概念を覆すものであった。その最大の特徴は、二重に巡らされた深い堀と、当時としては画期的な高さと堅牢さを誇る本格的な石垣(石蔵)であった 8 。後の発掘調査では、この二重の堀と石垣の遺構が実際に確認されている 8 。公家である山科言継はその日記『言継卿記』に、室町通り沿いの石垣が高さ「四間一尺」(約8メートル余)にも及んだと記しており、その壮大さに驚嘆している 8 。
この巨大な石垣を築くため、京都中から膨大な量の石材が集められた。しかし、その中には通常の石材だけでなく、墓石や石仏、五輪塔、さらには石臼といった転用石が大量に含まれていた 8 。神仏の宿る神聖な石や、先祖代々の墓石を城の基礎として踏みつけるこの行為は、旧来の宗教的権威や伝統を恐れない信長の合理主義と、既存の秩序を解体し自らの権力基盤として再構築する意志の表明であった。
3月3日には、この普請の性格を象徴する出来事が起こる。旧管領・細川京兆家の邸宅にあった名石「藤戸石」が、笛や太鼓の囃子に送られながら、大勢の見物人が見守る中で新御所の庭園へと運び込まれたのである 8 。これは単なる庭石の移設ではない。室町幕府の重鎮であった細川家の象徴物を、新しい将軍御所に献上させるというこの儀式は、旧権威が信長・義昭という新権威に完全に屈服したことを天下に示す、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。
第三節:殿舎の移築と天主の建造(3月~4月)―合理性と革新性
この御所が驚異的であったのは、その規模や堅固さだけではない。建設に要した期間もまた、前代未聞であった。イエズス会宣教師ルイス・フロイスはその著書『日本史』の中で、この壮大な城郭がわずか70日間で完成したと驚きをもって記している 8 。
この驚異的な工期短縮を実現したのが、信長ならではの徹底した合理主義であった。彼は、一から全ての建物を新築する時間的ロスを嫌い、義昭が仮住まいとしていた本圀寺の豪華な殿舎を解体し、新御所へ移築するという大胆な手法を採った 8 。フロイスによれば、本圀寺の僧侶たちは移築の中止を松永久秀を通じて嘆願し、さらには莫大な金品を信長に献上して思いとどまらせようとしたが、信長は一切聞き入れなかったという 8 。結果として、金箔で飾られた屏風や絵画といった壮麗な什器までもが、建物と共に本圀寺から運び込まれた 8 。
さらに、この御所は単なる将軍の館ではなく、三重の「天主」を備えていた 8 。御所に天主(天守)が設けられるのは異例のことであり、これは二条御所が儀礼の場であると同時に、有事の際には司令塔となる軍事拠点であることを明確に示していた。権力の象徴としての天守の原型が、ここに見られる。発掘調査では金箔瓦も発見されており、急ごしらえでありながらも、その建築が豪壮絢爛なものであったことが窺える 8 。
第四節:竣工と入御(4月14日)
普請開始からわずか2ヶ月余り、永禄12年4月14日、足利義昭は完成した二条御所へと移徙(入居)し、ここを名実ともに将軍御所とした 8 。この御所は、かつて義輝が築いた御所の遺構を利用しつつ、その規模を北東方向へ拡張し、約400メートル四方にも及ぶ壮大な城郭となっていた 8 。
4月21日、この一大事業を成し遂げた信長は美濃へと帰国する。その際、義昭は御所の東側に築かれた石垣の上から、信長の一行を見送ったと伝えられている 8 。これは、完成したばかりの堅固な城郭と、その庇護者である信長の存在を、将軍自身に、そして京の人々に強く印象付けるための演出であったのかもしれない。信長の築いた城は、将軍を守るための「砦」であると同時に、将軍を内側から監視し、その行動を規定する「檻」としての側面も併せ持っていたのである。
第三章:蜜月から対立へ―政庁としての二条御所
完成した二条御所は、当初、織田信長と足利義昭による新政権の権威を象徴する華やかな舞台として機能した。しかし、両者の蜜月関係が終わりを告げるとともに、この壮麗な城郭は、激しい政治的対立が繰り広げられる緊張の空間へとその性格を変貌させていく。
権威の舞台装置として
元亀元年(1570年)4月14日、二条御所の竣工を記念して、観世・金春の両座による能の興行が盛大に催された 8 。この祝宴には、主催者である義昭と信長はもちろんのこと、後に信長の同盟者として、また時には敵として歴史に名を刻む徳川家康、伊勢国司の北畠具教、畿内の実力者であった松永久秀や三好義継、さらには飛騨の姉小路頼綱、丹後の⼀⾊義道、大和の畠山秋高といった上洛中の諸大名、そして多くの公家衆が一堂に会した 8 。この催しは、単なる祝祭ではない。信長と義昭を中心とする新たな政治秩序が確立され、安定していることを天下に示すための、壮大なデモンストレーションであった。二条御所は、まさに新時代の幕開けを告げる政庁として、その第一歩を踏み出したのである。
以後、二条御所は室町幕府の中枢として機能し、諸大名からの使者を引見する外交の場、そして政務を執り行う政治の中心となった。信長が築いた堅固な城郭は、将軍の権威を物理的に裏打ちし、その威光を高める上で絶大な効果を発揮した。
亀裂の顕在化
しかし、その華やかな表舞台の裏側で、信長と義昭の関係には徐々に深刻な亀裂が生じ始めていた。信長は、将軍の権威を利用しつつも、政治の実権は自らが掌握しようと考えていた。彼は義昭の行動を制約するための「殿中御掟」などを突きつけ、幕府の運営を自らの意のままにコントロールしようと試みる。
一方の義昭は、信長の傀儡となることを断固として拒んだ 7 。彼は自らを将軍として支える幕臣団を組織し、独自の政治判断で御内書(将軍の命令書)を発給するなど、将軍親政による幕府の再興を目指して活発に動き始める。そして、信長の力が強大化することに危機感を抱くと、水面下で甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、近江の浅井長政といった反信長勢力と連携し、密かに「信長包囲網」の形成を画策していくのである 4 。
かつて蜜月の象徴であった二条御所は、次第に権力闘争の舞台と化していった。義昭の側近である幕臣たちの中にも、信長との協調を重視する穏健派と、信長を排除して将軍の権威を取り戻そうとする強硬派との間で深刻な対立が生まれた 7 。壮麗な御殿の内部では、信長派と反信長派による熾烈な暗闘が繰り広げられ、かつての祝祭の空間は、疑心暗鬼と陰謀が渦巻く場へと変質していった。
皮肉なことに、信長が義昭の安全のために与えた堅固な城郭は、義昭に「この城に籠れば信長にも対抗できる」という自信を与え、彼の反信長活動を一層活発化させる一因となった可能性は否定できない。信長が与えた「安全な砦」は、義昭にとっては信長に対抗するための「最後の拠点」となり得たのである。この対立の深化は、信長に「将軍という既存の権威を利用する」という統治手法の限界を痛感させることになる。やがて義昭を追放し、室町幕府を事実上滅亡させた後、信長は将軍に代わる新たな権威の頂点として自らが君臨する道を模索し始める。その思想的到達点こそが、天皇をも超越する存在として自らを位置づけようとした、壮大な宗教的コスモロジーの具現である安土城の建設へと繋がっていくのである。
第四章:籠城と攻防―戦場と化した将軍御所
元亀4年(1573年)、織田信長と足利義昭の対立はついに臨界点に達した。前年末の三方ヶ原の戦いで武田信玄が徳川家康を破ったという報は、義昭に信長打倒の好機到来と判断させた。ついに義昭は反信長の旗幟を鮮明にし、自らが居城とする二条御所そのものを拠点として挙兵する。かつて新政権の象徴であった将軍御所は、今や戦場と化そうとしていた。
挙兵と籠城(元亀4年/天正元年/1573年2月)
2月、義昭は二条御所で挙兵し、信長との全面対決の意思を明らかにした 8 。彼は摂津や丹波など畿内近国の反信長勢力を味方に引き入れ、その兵力は6,000から8,000に達したとされる 20 。同時に、籠城に備えて二条御所の堀をさらに深く掘り下げるなど、防御体制の強化に乗り出した 8 。信長が築いた堅城を、今度は信長自身を迎え撃つための砦として活用しようとしたのである。
信長軍の入洛と包囲(同年3月~4月)
義昭挙兵の報を受けた信長は、迅速に行動を開始した。3月29日、彼は1万5,000を超える大軍を率いて岐阜を発ち、京都へと進軍する 8 。これに対し、義昭は数千の兵と共に二条御所に籠城し、信長軍を迎え撃つ姿勢を見せた 8 。
しかし、信長の戦術は義昭の予想を上回るものであった。信長は、堅固な二条御所への力攻めという損害の大きい作戦を避け、より狡猾で非情な手段に出る。彼は御所を包囲しつつ、その周辺の上京の町屋に火を放ち、焼き払うという焦土作戦を敢行したのである(上京焼き討ち) 8 。これは、御所への直接的な攻撃を避けながら、籠城する義昭方に兵糧や物資の補給路を断ち、同時に京都の民衆の支持を失わせるという、心理的・兵站的な圧力をかける狙いであった。燃え盛る炎と市民の阿鼻叫喚は、籠城する将兵の士気を著しく低下させたに違いない。
勅命講和と束の間の和平(同年4月)
信長はさらに、軍事的な圧力と並行して政治的な揺さぶりをかけた。彼は正親町天皇に働きかけ、天皇の権威をもって両者の和睦を命じる「勅命」を引き出すことに成功する 8 。将軍といえども、天皇の勅命を公然と無視することはできない。進退窮まった義昭は、この勅命講和に応じざるを得なかった。
4月7日、勅命が下され、信長と義昭はこれを受け入れて講和した 20 。しかし、この和議は全くの付け焼き刃であった。義昭は和平交渉が進められている間も、二条御所の普請を密かに継続しており、徹底抗戦の意志を捨てていなかったことが記録されている 8 。彼にとって講和は、態勢を立て直すための時間稼ぎに過ぎなかった。
決裂、そして義昭の退去(同年7月)
束の間の和平は、わずか2ヶ月ほどで破綻する。同年6月、義昭は再び信長との対決姿勢を明確にし、7月3日、彼は二条御所を放棄して、より防御に有利と考えた宇治近郊の槇島城へと拠点を移した 8 。
義昭が去った二条御所には、彼の側近である三淵藤英や伊勢貞興、そして公家の日野輝資らが守備のために残された 8 。しかし、主を失った城の士気は低く、織田軍に包囲されると抵抗らしい抵抗もできず、7月12日までに全員が降伏した 8 。
この一連の戦いは、二条御所が確かに堅城であったことを証明したが、同時にその限界も露呈させた。御所はあくまで京都という都市の中に存在する「点」の防御拠点に過ぎず、その周囲の経済・兵站基盤である「面」(上京の町々)を信長に破壊されたことで、籠城そのものが無意味化されてしまった。城単体の性能だけでは戦争に勝てないという、信長の卓越した戦略眼が際立つ結果となった。そしてこの戦いは、信長にとって、将軍・義昭を京都から追放し、室町幕府という旧体制を終わらせるための、最終的かつ決定的な口実を与えることになったのである。
終章:破却と忘却、そして再発見
足利義昭との決裂が決定的となり、彼を槇島城で降伏させて畿内から追放したことで(槇島城の戦い)、織田信長は室町幕府を事実上終焉させた。かつて将軍の権威の象徴として築かれた二条御所もまた、その主を失い、歴史の表舞台から姿を消していく運命を辿ることになる。
占拠と殿舎の破却(天正元年/1573年7月)
義昭が槇島城へ移った後、信長は二条御所を占拠した。彼はまず、御所内の壮麗な殿舎を破却させ、さらに諸人による内部の略奪を禁じなかったという 8 。これは、義昭の権威を徹底的に剥奪し、その象徴であった建築物を無価値化する狙いがあった。
しかし、この時点での破壊は殿舎に限られていた。信長の築いた壮大な石垣や門、そして二重の堀は、まだそのままの姿で残されていた 8 。このことから、信長は義昭を追放しつつも、将来的に和解が成立した暁には、再び彼をこの御所に迎え入れるという選択肢を完全には捨てていなかった可能性が考えられる。
完全な解体と資材の転用(天正4年/1576年)
しかし、そのわずかな和解の可能性も、天正4年(1576年)2月に義昭が毛利輝元を頼って備後国の鞆に動座し、反信長活動の拠点を築いたことで完全に潰えた。信長は義昭との関係修復が不可能になったと判断し、二条御所の完全な解体を命じた 8 。
信長の思考は、ここでも徹底して合理的であった。彼は、不要となった建築物をただ破壊するのではなく、次なる目的のための「資材」として捉えた。同年9月以降、二条御所の門や建物は解体され、当時築城が進められていた信長自身の居城・安土城へと運ばれ、再利用された 8 。一方、巨大な石垣は「諸人に略奪」させ、つまり不特定多数の人々が自由に持ち帰ることを許可した 8 。これにより、石垣は瞬く間に解体された。そして同年12月には、上京の人々に命じて二重の堀を埋め立てさせ、義昭の二条御所は地上から完全にその姿を消したのである 8 。
信長にとって、建築物は目的を達成するための「道具」に過ぎなかった。義昭を庇護し権威づけるという目的があるうちは壮麗な城を建て、その関係が破綻すれば、躊躇なく破壊し、次の目的(安土城建設)のための資材として再利用する。この徹底したプラグマティズムは、信長の非情さと先進性を同時に物語っている。
歴史からの忘却と再発見
地上から消滅した二条御所は、やがて人々の記憶からも薄れ、その正確な場所さえも歴史の中に埋もれていった。後世には、信長が皇子の誠仁親王のために建てた「二条新御所」(本能寺の変の際に織田信忠が籠城し自害した場所)や、さらに時代が下って徳川家康が築いた現在の世界遺産「元離宮二条城」などと、しばしば混同されてきた 8 。
しかし、約400年の時を経た昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)にかけて、歴史を揺るがす発見がなされる。京都市営地下鉄烏丸線の建設工事に伴う発掘調査で、烏丸丸太町交差点付近の地下から、信長が築いた二条御所のものと見られる壮大な石垣と二重の堀の遺構が発見されたのである 8 。石垣からは、文献の記述通り、石仏や五輪塔などの転用石が多数見つかった 8 。
この発見は、文献史料だけでは知り得なかった二条御所の正確な位置と規模、そしてその構造を明らかにし、歴史の解像度を飛躍的に高めた。発掘された石仏を含む石垣の一部は、現在、京都文化博物館や京都御苑椹木口の内側などで保存・展示されており、信長と義昭が生きた時代の痕跡を今に伝えている 8 。我々が目にする現代の京都の風景の地下には、戦国乱世の権力闘争の記憶が今なお息づいているのである。
補遺:「二条城」「二条御所」を巡る歴史的混同の解説
京都の歴史上、「二条」の名を冠する城や御所は複数存在し、時代や場所、築城者が異なるため、しばしば混同されやすい。本報告書の主題である「足利義昭の二条御所」への理解を深めるため、主要な「二条」関連の城館を以下に整理する。
名称(通称) |
築城/改修者 |
主な使用者 |
場所(現在の地名) |
時期 |
特徴と役割 |
末路 |
足利義輝の二条御所 (武衛陣の御構え) |
足利義輝 |
足利義輝 |
上京区武衛陣町付近 (京都御苑の西側) |
永禄8年(1565)頃 |
室町幕府13代将軍の御所。管領・斯波氏の邸宅跡に築かれた城郭風の館 2 。 |
永禄の変(1565年)で三好三人衆らに攻められ、義輝は討死。御所は焼失した 1 。 |
足利義昭の二条御所 (本報告書の主題) |
織田信長 |
足利義昭 |
上記の義輝の御所跡地を拡張 (烏丸丸太町付近) |
永禄12年(1569) |
室町幕府15代将軍の御所。信長が天下普請で築いた本格的な城郭。二重の堀、石垣、天主を備えた 8 。 |
天正元年(1573年)に義昭が追放された後、天正4年(1576年)に信長によって完全に解体された 8 。 |
織田信長の二条新御所 (二条殿、下御所) |
織田信長 |
織田信長 誠仁親王 織田信忠 |
中京区御池通両替町付近 (旧龍池小学校跡) |
天正4-7年(1576-79) |
当初は信長自身の京都宿所として造営。後に誠仁親王に献上された 18 。 |
本能寺の変(1582年)の際、織田信忠が籠城し自害。御所は焼失した 21 。 |
徳川家康の二条城 (元離宮二条城) |
徳川家康 (家光が増築) |
徳川将軍家 皇室 |
中京区二条城町 (現存) |
慶長8年(1603)以降 |
徳川将軍が上洛した際の宿館。後に京都の拠点となる。大政奉還の舞台としても知られる 24 。 |
現存し、世界文化遺産に登録されている。 |
特に注意すべきは、本報告書の主題である「足利義昭の二条御所」と、本能寺の変で織田信忠が最期を迎えた「二条新御所」が、全く別の場所にある異なる建築物であるという点である 8 。両者ともに織田信長が建設に関わっているため誤解されやすいが、義昭の御所が将軍の権威と防衛のために築かれた「城」であったのに対し、二条新御所は元々公家の邸宅であった地に信長が自身の宿所として、そして皇子の御所として築いた「館」としての性格が強い。この区別を明確にすることが、戦国時代末期の京都における権力構造を正確に理解する上で不可欠である。
引用文献
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- 足利義輝邸跡 初代二条城 - ガイドブックに載らない京都 https://www.kyoto-inf.com/2019/03/01/posted-ashikagayoshiteruteiato/
- 史実で辿る足利義昭上洛作戦。朝倉義景との蜜月、信長への鞍替え。でも本命は上杉謙信だった? 【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1007630
- 足利義昭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD
- 近世(安土桃山時代~江戸時代)|織田信長は足利義昭をなぜ将軍職につけたのか|中学社会 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00738.html
- 11.足利義昭の上洛と高槻 https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/31967.html
- やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/ashikagayoshiaki-betrayal/
- 二条御所 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BE%A1%E6%89%80
- 二条古城(京都府京都市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/5058
- 旧二條城跡(足利義昭御所) | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/nijojo-2/
- 足利義輝(4)二条御所と永禄の変 - 大河ドラマに恋して - FC2 http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-3325.html
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- 旧二条城の石垣 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/13/memo/931.html
- 二条御所の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BE%A1%E6%89%80%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 二条新御所 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E6%96%B0%E5%BE%A1%E6%89%80
- K'sBookshelf 資料 本能寺の変 本能寺の変 ゆかりの地-二条御所(下御所)- https://ksbookshelf.com/HJ/HonnoujinohenYukari/Nijyougosho.htm
- 本能寺の変③ 信長・信忠父子の死 - 城びと https://shirobito.jp/article/1174
- 旧二条城跡 クチコミ・アクセス・営業時間|今出川・北大路・北野 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11555216
- 超入門!お城セミナー 第68回【歴史】:京都の二条城はいくつもあったってどういうこと? - 城びと https://shirobito.jp/article/809