五大老設置(1595)
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日本の戦国時代における「五大老設置(1595年)」:秩序再構築の真相と崩壊への設計図
序章:天下人、最後の賭け
文禄4年(1595年)、豊臣政権は栄華の絶頂にありながら、その足元には深い亀裂が走り始めていた。天正18年(1590年)の天下統一からわずか5年、太閤豊臣秀吉がその晩年の情熱を傾けた朝鮮出兵(文禄の役)は泥沼化の様相を呈していた 1 。朝鮮半島へ渡った諸大名は疲弊し、国内には厭戦気分が蔓延、政権の輝きには翳りが見え始めていたのである 3 。この巨大な政権は、秀吉という一個人の圧倒的なカリスマと権威によってかろうじて維持されており、その統治基盤は決して盤石なものではなかった。
この危うい均衡をさらに揺るがしたのが、後継者問題の再燃であった。長年実子に恵まれなかった秀吉のもとに、文禄2年(1593年)、側室の淀殿が拾(後の豊臣秀頼)を産んだ。これは豊臣家にとって無上の吉報であると同時に、政権内部に新たな火種を投じるものであった。なぜなら、すでに秀吉は姉の子である豊臣秀次を養子とし、関白の位を譲って正式な後継者と定めていたからである 5 。実子・秀頼の誕生は、秀次の立場を根底から揺るがし、政権内部に潜在的な対立構造を生み出すこととなった。
本報告書は、1595年の「五大老設置」という事変を、単なる制度設立としてではなく、この後継者問題を巡る政権崩壊の危機、すなわち「豊臣秀次事件」という秀吉自らが引き起こした悲劇に対する、必死の、そして最後の秩序再構築の試みとして捉え直すものである。その設立に至る過程を時系列で克明に追い、制度そのものに内包されていた矛盾と、それが後の豊臣家滅亡へと至る宿命であったことを解き明かすことを目的とする。
第一部:崩壊への序曲 ― 豊臣秀次事件のリアルタイム・ドキュメント
五大老制度の設置は、平穏な状況下で計画された政権構想ではなかった。それは、豊臣政権を根幹から揺るがした一大粛清事件の直後に、緊急避難的に構築されたものである。この直接的な引き金となった「豊臣秀次事件」の経過を、あたかもリアルタイムで追体験するかのように再現することから、本論を始める。
第一章:関白秀次と太閤秀吉 ― 亀裂の深層
秀頼誕生以前、秀次への権力委譲は着実に進められていた。天正19年(1591年)、秀吉は甥である秀次に関白の座を譲り、自らは「太閤」として政務の後見役に退いた。これは秀次を名実ともに後継者とするための布石であり、秀吉が肥前名護屋にあって朝鮮出兵の指揮を執る間、秀次は京都の聚楽第にあって内政を預かるという二元政治体制が敷かれていた。
しかし、文禄2年(1593年)8月の秀頼誕生が、このパワーバランスを劇的に変化させる。秀吉の愛情と関心は、老いて初めて得た実子・秀頼へと異常なまでに集中した 5 。秀吉が秀頼の将来に天下を継がせたいという欲望を強めるにつれ、秀次との関係は急速に冷却化していく。秀次は自身の将来を悲観し、情緒不安定になったとも伝えられるが、これが後の勝者によって誇張された側面を持つ可能性も否定できない 7 。物理的な距離と役割分担は、太閤と関白の間にあったはずの信頼関係を蝕み、相互不信を増大させるのに十分な時間と状況を提供したのである。
第二章:1595年・夏の激震 ― 粛清へのカウントダウン
そして運命の文禄4年(1595年)、事態は急転直下、破局へと向かう。
前触れ(4月~6月)
4月16日、秀次の弟である大和中納言・豊臣秀保が、領国の大和にて17歳の若さで急死する 8。死因は病死とも、あるいは自殺や他殺ともいわれ、謎に包まれている。この不審な死が、後に起こる悲劇の前兆であったのかもしれない。
決定的な亀裂を生んだとされるのが、6月20日に起きた「天脈拝診怠業事件」である。これは、天皇の侍医であった曲直瀬道三(玄朔)が、病にあった後陽成天皇の診察よりも、秀次の診察を優先したとされる事件である 7。この一件が、天皇への奉仕を至上とする秀吉の逆鱗に触れ、秀次への不信感を決定的なものにしたという説は有力である。曖昧な「謀反」の嫌疑よりも、この具体的な「不敬」こそが、粛清の直接的な口実となった可能性は高い。
粛清の開始(7月)
7月初旬、石田三成らが秀次を詰問する。この詰問が「謀反の疑い」についてであったのか、あるいは「天脈拝診怠業事件」に関するものであったのかは、史料によって見解が分かれる 9。いずれにせよ、秀次が太閤の勘気を被ったことは明白であった。
7月8日、秀次は秀吉に弁明すべく伏見城へ向かうが、面会は許されなかった。秀吉は秀次に高野山へ赴くよう命じたとされる。これは通説では「追放」と解釈されてきたが、近年の研究では、秀次が自らの潔白を証明し、秀吉の怒りが解けるのを待つために、自発的に高野山へ蟄居したという説も提唱されている 6。
7月15日、秀次は高野山・青巌寺にて切腹。享年28。これもまた、通説では秀吉が切腹を命じたとされるが、秀吉には秀次を生かしておく意図があったとする史料も存在する 7。秀次が、もはや弁明の機会はなく、自らの死によって身の潔白と豊臣家への忠誠を示そうとした、悲壮な自決であった可能性も十分に考えられる 5。
根絶やしの惨劇(8月)
秀次の死だけでは、この粛清劇は終わらなかった。
8月2日、京都・三条河原において、秀次の妻子・側室ら39名が公開処刑されるという、前代未聞の惨劇が繰り広げられた 10。この中には、出羽の雄・最上義光の愛娘で、まだ秀次と会ったことすらないとされた駒姫(享年15)も含まれていた 7。処刑中止を伝える秀吉の使者が、わずかに間に合わなかったという悲劇も伝えられている 7。
この常軌を逸した処断は、秀吉の老いによる冷静な判断力の欠如を物語っている。万が一、幼い秀頼が夭折した場合の備えとなるべき豊臣家の血筋を、自らの手で根絶やしにするという行為は、政権の安定という観点から見て、あまりにも不合理である 8。この残忍極まりない仕打ちは、諸大名に秀吉政権への恐怖と深刻な不信感を植え付け、豊臣政権が内側から崩壊していく遠因となった 8。
この一連の事件が明らかにするのは、五大老制度の設置が、周到に準備された政権構想などではなく、秀吉の秀頼への溺愛と老いによる暴走が生んだ「人災」に対する、必死の事後対策であったという事実である。関白とその一族の粛清は、豊臣家の後継者候補をわずか3歳の秀頼ただ一人にしてしまうという、極めて危険な権力の空白を生み出した。秀吉は、自らが作り出したこの危機的状況を収拾し、幼い秀頼の将来を保障するために、新たな権力構造を「緊急に」構築する必要に迫られた。それは、天下人の最後の賭けだったのである。
第二部:秩序の再構築 ― 五大老制度の成立
秀次一族の血で汚れた政治の舞台を浄化し、新たな統治体制を構築する試みが、事件の直後から矢継ぎ早に進められた。それは、秀吉の焦燥と、政権崩壊への恐怖の表れであった。
第三章:権力の空白と秀吉の焦燥
秀次粛清により、豊臣政権は秀吉の死と同時に瓦解しかねない、極めて脆弱な状態に陥った。秀吉の最大の懸念は、自身の死後、徳川家康を筆頭とする有力大名が、幼い秀頼をないがしろにし、天下の実権を簒奪することであった。もはや、秀吉一人のカリスマに依存した独裁体制には限界がある。彼は、自身の寿命を悟り、個人の力からシステムの力へと、政権の存続基盤を移すことを決意した。有力大名の合議による集団指導体制を構築し、権力の暴走を防ぎ、秀頼の後見体制を確立すること。それが、残された唯一の道であった。
第四章:「御掟」の発布 ― 合議制の誕生
1595年8月3日。三条河原の惨劇から、わずか一日後のことである。大坂城の壁に、「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条からなる壁書が掲示された 11 。この壁書こそが、五大老制度の実質的な発足を示す、最も重要な一次史料である。
この掟には、徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、そして小早川隆景という、当代随一の五人の大名の署名があった 11 。彼らの連署によって発布されたという事実は、今後の豊臣政権の最高意思決定が、秀吉個人ではなく、この五人の合議によって行われることを内外に宣言するものであった。これが、後の「五大老」の原型となる。
その条文は、秀吉の意図を明確に示している。
特に重要なのは、「御掟」の第一条と第二条である。
- 第一条「諸大名縁辺之儀、得御意、以其上可申定事」 :諸大名は、秀吉の許可なく婚姻関係を結んではならない 12 。
- 第二条「大名小名深重令契約、誓紙等堅御停止之事」 :大名同士で同盟を結び、誓紙を取り交わすことを固く禁じる 12 。
これらの条文が、誰を念頭に置いたものであったかは明白である。当時、単独で巨大な派閥を形成し、政権を脅かしうる力を持っていたのは、関東250万石を領する徳川家康ただ一人であった 13 。したがって、これらの条文は事実上、家康の政治的行動を封じ込めるために作られた「対家康法」としての性格が極めて強かった。
秀吉の狙いは、武力ではなく、「法」によって家康をコントロールすることにあった。家康をこの合議体に組み込み、彼自身にこの法を守ることを誓わせる。そして、前田利家や毛利輝元といった他の有力大名を、その法の「監視役」兼「執行役」として配置する。これにより、もし家康が法を破れば、他の大老たちが「盟約違反」として家康を討伐する大義名分が生まれる。それは、家康という巨人を封じ込めるために設計された、巧妙な「檻」であった。しかし、この檻は、秀吉という猛獣使いの死と、檻の番人たる前田利家の死によって、やがて容易に破られる運命にあった 15 。
表1:「御掟」および「御掟追加」の主要条文と解説(文禄4年8月3日) |
条文(書き下し文) |
御掟 |
一、諸大名縁辺の儀、御意を得、其の上を以て申定むべき事。 |
一、大名小名、深重に契約を令し、誓紙等堅く御停止の事。 |
一、自然喧嘩口論に於ては、堪忍を致すの輩、理運に属すべき事。 |
一、乗物御赦免の衆、家康、利家、景勝、輝元、隆景、並びに古公家、長老、出世衆。 |
御掟追加 |
一、天下領知方の儀、毛見の上を以て、三分二は地頭、三分一は百姓、之を取るべく候。 |
一、小身の衆は、本妻の外、遣者一人召し置くべく候。(中略)大身と雖も、手懸は一両人に過ぐべからざる事。 |
一、衣裳の紋、御赦免の外、菊桐之を付くべからず。 |
出典: 12 に基づき作成。
第三部:五人の巨頭 ― その実像とパワーバランス
制度は、それを運用する人間によって生命を与えられる。ここに選ばれた五人の大老は、それぞれが巨大な勢力を持ち、複雑な思惑を抱えていた。この制度は、発足の瞬間から、危ういパワーバランスの上に成り立っていたのである。
第五章:五大老のプロファイル
- 徳川家康 :関東一円に250万石を領有 13 。豊臣政権下で最大の石高と動員兵力を誇る、名実ともに天下の第二人者。秀吉にとっては最大の盟友であると同時に、最大の潜在的脅威であった。その存在を抜きにして政権運営は不可能であり、大老に加えることは必然の選択であった。
- 前田利家 :加賀・能登・越中を合わせ83万石余 16 。秀吉とは尾張時代からの盟友であり、政権内で最も秀吉の信頼が厚い人物であった 18 。その役割は、突出した力を持つ家康を監視し、その暴走を抑える「目付役」であり、五大老制度の要であった 16 。
- 毛利輝元 :安芸を中心に西国に120万石を領する大大名 19 。織田信長と覇を競った名門・毛利家の当主として、その家格と安定感を買われ、政権の重石として期待された。
- 宇喜多秀家 :備前・美作を中心に57万石 20 。秀吉の養子であり、一門衆としての性格が強い。秀吉への忠誠心は高く、豊臣家の代弁者としての役割を担ったが、五大老の中では最年少であり、政治的経験では他の宿老に及ばなかった 21 。
- 小早川隆景 :筑前などに約30万石を領有 22 。毛利元就の三男にして、輝元の叔父。当代随一の智将として知られ、秀吉からも「日本の西は隆景に任せれば安泰である」と絶大な信頼を寄せられていた 23 。政権のご意見番、調整役として、その知見が期待された。
この五人の顔ぶれは、不変ではなかった。慶長2年(1597年)に小早川隆景が死去すると、後任として会津120万石の上杉景勝が正式に加わる 25 。景勝は「御掟」発布の時点ですでに乗物免除の対象に含まれており、当初から大老格として処遇されていたことがわかる 12 。そして、慶長4年(1599年)に前田利家が病死。家康の唯一の抑止力が失われたこの出来事が、五大老制度の崩壊を決定づけることになる 15 。
表2:五大老の比較分析(1595年時点) |
大名 |
推定石高 |
本拠地 |
秀吉との関係 |
期待された役割 |
特記事項 |
出典: 13 等の情報を基に作成。
第六章:制度に内包された時限爆弾
この五大老制度は、その設計段階から致命的な欠陥を抱えていた。
第一に、五大老と、石田三成ら行政実務を担う五奉行との関係が挙げられる。通説では、五大老が最高意思決定機関、五奉行がその下の実務機関とされ、大老が格上と見なされてきた 26。しかし、近年の研究では、当時は五大老が「奉行」、五奉行が「年寄(宿老)」と呼ばれ、実質的な政権運営は秀吉の直臣である五奉行が担っていたという説も提唱されている 25。秀吉の真意は、両者を並立させ、相互に牽制させることで、特定の勢力への権力集中を防ぐことにあったと考えられる 29。しかしこの複雑な牽制構造は、秀吉という絶対的な調停者を失った後、深刻な内部対立を引き起こす原因となった。
第二に、朝鮮出兵が豊臣家臣団に残した深い亀裂である。現地で命を懸けて戦った加藤清正、福島正則らの武断派と、国内で兵站や和平交渉を担当した石田三成、小西行長らの文治派との間の確執は、修復不可能なレベルに達していた 4 。五大老制度はこの対立を調停する役割を期待されたが、秀吉の死後、家康はこの対立を巧みに利用し、武断派を自陣営に取り込むことで三成を孤立させていく 17 。
そして最大の欠陥は、構成員の圧倒的な力の不均衡にあった。家康の250万石という力は、他の大老たちが束になっても抑えきれるかどうか、というレベルであった。このシステムが機能するためには、秀吉の存命、利家の存在、そして他の大老たちの結束という三つの条件が不可欠であったが、それらはいずれも時とともに失われていった。
この制度の本質は、豊臣政権が抱える構造的弱点の裏返しであった。徳川幕府が譜代大名や親藩によって中枢を固めたのとは対照的に、一代で成り上がった秀吉には、政権を支える強力な譜代大名層が存在しなかった。加藤清正や福島正則といった子飼いの大名はいたが、彼らの石高は数十万石レベルであり、家康や毛利といった巨大大名を抑えるには力不足であった 30 。結局、政権の安定のためには、これらの巨大外様大名の力を認め、体制内に取り込むしかなかったのである。五大老制度とは、忠誠心ではなく、利害関係とパワーバランスによって維持される、極めて脆い同盟関係に過ぎなかった。それは、豊臣政権の弱さを糊塗するための、苦肉の策だったのである。
結論:盤石な礎か、崩壊の設計図か
文禄4年(1595年)の「五大老設置」は、秀次事件で激しく動揺した豊臣政権に、一時的な安定をもたらした。秀吉の晩年からその死の直後にかけて、このシステムはかろうじて機能し、政権の即座の崩壊を防ぐ防波堤の役割を果たした。
しかし、それは豊臣政権の永続を約束する盤石な礎ではなかった。慶長3年(1598年)の秀吉の死、そして翌慶長4年(1599年)の、家康の唯一の抑止力であった前田利家の死によって、この制度は存在意義そのものを失う。家康は待っていたかのように「御掟」を公然と破り、伊達政宗や福島正則らとの私婚を推し進め、天下獲りへの野心を露わにした 17 。
これに豊臣家への忠義を貫こうとする石田三成ら五奉行が反発し、五大老の合議制は完全に崩壊。政権内部の対立は、やがて日本全土の諸大名を巻き込む「関ヶ原の戦い」へと発展していく 31 。
結論として、1595年の「五大老設置」は、秀吉個人の寿命という限界と、家康という巨大すぎる存在を前にして、政権崩壊をわずかに先延ばしにするための、巧妙かつ悲劇的な「崩壊の設計図」であったと評価できる。秀吉が自らの手で後継者を葬り去ったその年に始まったこの体制は、豊臣の時代の終わりと、徳川の時代の始まりを告げる、歴史の必然を内包した決定的な転換点だったのである。
引用文献
- 第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp38.html
- なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった? https://toyokeizai.net/articles/-/158743
- 「文禄の役」「慶長の役」とは? 朝鮮出兵の背景や結果について知ろう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/603246
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- 秀次は、秀吉に切腹を命じられたのか? 隠された歴史の真実とは - テレメール https://telemail.jp/shingaku/academics-research/lecture/g008376
- 「豊臣秀次」とはどんな人物? 「殺生関白」と呼ばれ切腹に至るまでの生涯を詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】 - HugKum https://hugkum.sho.jp/612055
- Kime Fatima 日記「夏休み特別企画:豊臣秀次切腹事件の真相」 | FINAL FANTASY XIV, The Lodestone https://jp.finalfantasyxiv.com/lodestone/character/172216/blog/5429059/
- 秀次事件の謎 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/ziken.htm
- 「豊臣秀次切腹事件」には大きなウソがある! 歴史を動かした大事件、その謎解きに挑む https://toyokeizai.net/articles/-/128078?display=b
- 豊臣秀次の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/88131/
- 五大老(ゴタイロウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81-65088
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- 江戸時代をつくった徳川家康の相続対策 https://www.kamomesouzoku.com/16579518637440
- 【最強決めようぜ!】全盛期の織田・豊臣・徳川の国力徹底比較。アニメやゲームで語られない実力差。 - 秋葉原とくまお https://akihabara.site/sengoku-power-comparison/
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