最終更新日 2025-10-01

交易場所制整備(1600頃)

慶長五年頃、徳川家康は松前慶広に黒印状を与え、蝦夷地交易を松前藩に独占させた。これによりアイヌは経済的に従属し、商場知行制から場所請負制へと移行。収奪が深化し、後のアイヌ抵抗運動の遠因となった。
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蝦夷地交易の転換点―「交易場所制」の成立と松前藩体制の確立(1600年前後)

序章:戦国から統一へ―天下の再編と北方の辺境

慶長五年(1600年)、関ヶ原における徳川家康の勝利は、一世紀以上にわたる戦乱の時代に終止符を打ち、日本列島に新たな政治秩序をもたらす画期であった。この「天下統一」という巨大な地殻変動は、中央の政治・社会構造を再編しただけでなく、その波紋は遠く北の辺境、蝦夷地にまで及んだ。本報告書で詳述する「交易場所制整備」は、単なる一地域の経済政策の変更ではない。それは、戦国的な、多元的で無秩序な世界から、徳川幕府を頂点とする一元的で序列化された世界へと日本全体が移行していく過程で、北方の地がどのように位置づけられ、新たな秩序に組み込まれていったかを示す、極めて象徴的な事象であった。

戦国末期において、蝦夷地は中央の政治権力にとって、直接的な支配の対象というよりは、むしろ統制の及ばない辺境であった。しかし、その地がもたらす産物、すなわち良質な毛皮や、武士のステータスシンボルであった鷹、そして豊富な海産物は、経済的に大きな魅力を放っていた。豊臣秀吉による天下統一事業が進む中で、この北方の地もまた、新たな秩序の網の目から逃れることはできなかった。秀吉が蝦夷地の蠣崎氏に朱印状を与え、その地域における一定の権益を公認したことは、蝦夷地が初めて中央政権の公式な影響圏に組み込まれた歴史的な一歩であった 1

しかし、秀吉の築いた秩序は、彼の死とともに関ヶ原の戦いを経て、徳川のそれへと塗り替えられる。家康が目指したのは、全国の諸大名を新たな幕藩体制という強固な封建秩序の中に序列化し、配置し直す「天下の再仕置」であった。この壮大な構想において、松前を本拠とする蠣崎氏の処遇と、彼らが影響力を持つ蝦夷地の位置づけを再定義することは、避けて通れない課題であった。

徳川家康にとって、蝦夷地の統治問題は、単なる領土の拡大という欲求から発せられたものではなかった。むしろ、その本質は「秩序の確立」にあった。戦国時代を通じて形成された、各地の武将や商人が比較的自由に蝦夷地と関わり、アイヌと多様な交易関係を結んでいた多中心的で曖昧なネットワークを、幕府が公認した松前氏という単一の窓口を通して管理する一元的な支配構造へと転換させること。それ自体が、旧時代の混沌の終焉と、新時代の到来を内外に知らしめる重要な政治的行為だったのである。すなわち、1600年前後に起こった蝦夷地における交易体制の整備は、徳川による新たな「天下」が、その版図の最北端にまで及んだことを示す、決定的な分水嶺であったと言える。

第一章:松前藩成立前夜―戦国期蝦夷地における和人とアイヌの交易

1604年の体制転換がもたらした変化の劇的性を理解するためには、まずその前段階、すなわち戦国時代における蝦夷地の状況を把握する必要がある。この時代の和人とアイヌの関係性は、後の近世におけるような固定化された支配・被支配の関係ではなく、より流動的で多元的な様相を呈していた。

蠣崎氏の台頭と限定的な支配

15世紀以降、津軽海峡を渡り、渡島半島南部に定着した和人の集団は「渡党」と呼ばれ、各地に館を築いて活動していた。蠣崎氏は、これら渡党のリーダーとして頭角を現した存在である。彼らの勢力拡大の歴史は、先住民族であるアイヌとの絶え間ない緊張と交渉の歴史でもあった。長禄元年(1457年)に発生したコシャマインの戦いをはじめとする大規模な抗争を経て、蠣崎氏はアイヌの首長と和睦を結び、渡島半島の一部を「和人地」として、その支配領域を確立していった 2 。しかし、その支配はあくまで限定的なものであり、広大な蝦夷地の全域に及ぶものではなかった。

自由で多元的な交易ネットワーク

この時代の交易の最大の特徴は、松前氏(蠣崎氏)による完全な独占状態ではなかったという点にある。アイヌは、自らの産物を携えて津軽海峡を渡り、現在の東北地方の和人と直接交易を行うなど、複数のルートを確保した主体的な交易者であった 4 。16世紀の記録によれば、蝦夷地の東端であるメナシや、西の天塩からもアイヌの船が松前に交易に訪れ、中国産の絹織物である緞子(どんす)などをもたらしていたことが記されている。一方で、本州からも米や酒を積んだ船が松前に渡航しており、松前が多様な交易の結節点として機能していた様子がうかがえる 1

アイヌが和人地にもたらした品は、熊や鹿の毛皮、鷲の羽、干鮭、昆布といった蝦夷地の豊かな自然を反映したものであった。特に、道東のアイヌがもたらしたラッコの毛皮は、非常に人気の高い商品であった 5 。これらと引き換えに、アイヌは自らの社会では生産できない米や酒、鉄製品(鍋など)、漆器、木綿といった生活必需品や嗜好品を求めた 5

和産物の流入は、アイヌの生活文化に大きな影響を与えた。鉄鍋の普及は調理法を変化させ、木綿の衣類は新たな選択肢を提供した。しかし、この交易は同時に、アイヌ社会の経済構造を徐々に変質させていく側面も持っていた。特に鉄製品のような生活に不可欠な物資への依存度が高まるにつれ、アイヌ社会は和人との交易なしには生活の維持が困難な状況へと緩やかに移行していく。これは、経済的な自立性の喪失であり、日本国内の経済圏が北方へと拡大していく過程でもあった 7

さらに、和人からもたらされる漆器などの工芸品は、単なる実用品としてだけでなく、アイヌ社会において所有者の社会的地位を示す「威信財」としての役割を担った。これらの宝物をめぐる交易は、アイヌの集団間の関係性や、和人との関係を維持・保障する上で重要な機能を果たしていたのである 7

豊臣政権下の蠣崎氏

天正18年(1590年)、蠣崎慶広は豊臣秀吉に臣従し、その支配の正統性を中央政権から公認される。これにより、蠣崎氏は他の和人勢力に対する優位性を確立し、「蝦夷地の島主」としての地位を固めた 1 。しかし、この時点ではまだ、アイヌとの交易を完全に独占する権限までは与えられていなかった。戦国期の交易は、権力による一方的な「支配」というよりも、異なる文化圏間の「相互作用」の性格を色濃く残していたのである。だが、この相互依存関係と、交易への依存度の深化こそが、後に松前藩が独占権を確立した際に、アイヌ側が交渉力を失い、著しく不平等な条件を受け入れざるを得なくなる構造的な脆弱性の起源となった。戦国期の自由交易の中に、すでに近世における従属への伏線が内包されていたと言えるだろう。

第二章:決定的な転換点―慶長九年(1604年)徳川家康黒印状の衝撃

関ヶ原の戦いが徳川の勝利に終わると、全国の諸大名は新たな覇者への対応を迫られた。蠣崎慶広は時流を読み、いち早く徳川家康に服属の意を示した。慶長4年(1599年)には家康に謁見し、その忠誠の証として、姓を「蠣崎」から「松前」へと改める 5 。この迅速な行動への見返りとして、そして徳川による新たな全国秩序の一環として、慶長9年(1604年)、松前慶広(志摩守)に対して徳川家康から黒印状が下された。この一枚の文書こそ、その後の蝦夷地史の方向性を決定づけ、アイヌと和人の関係を根底から覆す、まさに歴史の分水嶺となるものであった 2

黒印状の条文とその分析

北海道開拓記念館(当時)所蔵の黒印状には、蝦夷地における新たな秩序を規定する、簡潔かつ極めて重い意味を持つ三つの条文が記されている 8

第一条:交易独占権の確立

一、自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而、夷仁与直ニ商売仕候儀可為曲事事。

(定め

一、諸国から松前に往来する者たちが、志摩守(松前慶広)の許可なく、夷人(アイヌ)と直接商売をすることは、違反行為とする。)

この条文は、黒印状の核心部分である。それは、松前氏以外の全ての和人(本州から来る商人、漁民、他の大名の関係者など)が、アイヌと直接交易を行うことを明確に禁じるものであった。これにより、戦国時代を通じて存在した多元的な交易ルートは非合法化され、松前氏がアイヌ交易の唯一の窓口となる「交易独占権」が、徳川幕府という最高の権威によって法的に確立されたのである 8 。これ以降、蝦夷地における経済活動は、すべて松前氏の管理下に置かれることになった。

第二条:密貿易の禁止とアイヌの自由保障

一、志摩守ニ無断而令渡海、売買仕候者、急度可致言上事。付、夷之儀者、何方へ往行候共、可為夷次第事。

(一、志摩守に無断で(蝦夷地へ)渡海し、売買を行う者については、速やかに(幕府へ)報告すること。付け加えて、夷(アイヌ)については、どこへ行こうとも、彼らの自由とすること。)

この条文の前半は、第一条を補強し、密貿易の監視と取り締まりを松前氏に命じるものである。しかし、真に注目すべきは後半の「付(つけたり)」、すなわち補足条項である。ここで家康は、「アイヌはどこへ行こうとも自由である」と明記した。これは、アイヌの移動や行動の自由を幕府が公的に保障することを示す、極めて重要な一文であった 8

第三条:和人による不当行為の禁止

一、対夷仁非分申懸者、堅停止事。

(一、夷人(アイヌ)に対して理不尽な言いがかりをつける者については、厳しくこれを禁止する。)

この条文は、和人によるアイヌへの不当な行為や搾取を禁じるものであり、一見するとアイヌを保護する意図があったかのように読める 8

黒印状の歴史的意義と巧妙な統治戦略

この黒印状の下賜により、松前氏は蝦夷地における唯一の公的な支配者としての地位を確立し、ここに「松前藩」が実質的に成立した 2 。しかし、この文書の真の歴史的意義は、その条文に込められた徳川幕府の巧妙な辺境統治戦略にある。

一見すると、第一条で松前氏に絶対的な交易独占権を与えながら、第二条でアイヌの自由な往来を保障するという規定は、矛盾しているように映る。しかし、これは矛盾ではなく、計算され尽くした統治の設計思想の現れであった。

徳川幕府の基本方針は、直接統治が困難な辺境の民を、幕藩体制の直接の支配対象とはしないことであった。もしアイヌを幕府の直轄民と位置づければ、幕府には彼らの戸籍を管理し(宗門人別改)、年貢を徴収し(検地)、そして生活を保護する責任が生じる。しかし、米の収穫が望めない寒冷地の蝦夷地でそれを実行するのは、統治コストが利益を大幅に上回る不経済な事業であった 13

そこで幕府が採用したのが、アイヌを幕藩体制の枠外に置かれた「異邦人」あるいは「自由な民」として規定し、直接統治の責任を回避するという方策であった。これが第二条の「アイヌの自由保障」の真意である。その上で、和人社会との唯一の接点である「交易」の窓口を松前藩に独占させることで、蝦夷地から産出される富の吸い上げと、安全保障上の管理という、経済的・政治的実利は完全に掌握した。

結果として、アイヌは法的には「自由」でありながら、その生活を支えるために不可欠な鉄製品や米などを手に入れるためには、松前藩が設定する不平等な交易条件を受け入れる以外に選択肢がない、という構造的な罠に嵌められることになった。アイヌに保障された「自由」は、経済的実権を完全に奪われた状態においては、実質的に無意味なものとなっていったのである。この法的フィクションこそが、その後250年以上にわたる近世蝦夷地支配の根幹をなす、極めて巧妙なシステムであった。黒印状は、松前藩の成立を告げると同時に、アイヌ社会が経済的従属へと向かう不可逆的な道のりの始まりを告げる号砲でもあったのだ。

第三章:支配構造の設計―「商場知行制」の確立と運用

慶長九年(1604年)の黒印状によって与えられたアイヌ交易の独占権という法的根拠を、松前藩はどのようにして具体的な支配システムとして構築していったのか。その答えが、蝦夷地という特殊な環境に適応するために生み出された、他に類を見ない封建制度「商場知行制(あきないばちぎょうせい)」であった。

「無高の藩」の封建制度

松前藩の統治における最大の特徴は、その領地で米が収穫できない、いわゆる「無高の藩」であったという点にある 13 。これは、全国の他の大名が土地の生産力(石高)を基準に藩の経済を成り立たせ、家臣に俸禄(知行)を与えていたのとは根本的に異なる状況であった。米による地方知行制が不可能な松前藩は、藩の存立基盤そのものである交易独占権を、家臣団を維持するための俸禄システムに組み込む必要があった。

その結果として考案されたのが商場知行制である。この制度は、藩主が上級家臣に対し、石高に代わるものとして、蝦夷地の沿岸をいくつかに区分けした特定の地域「商場(あきないば)」あるいは「場所(ばしょ)」を割り当て、その領域内におけるアイヌとの交易権を知行(給料)として分与するものであった 2 。家臣たちは、この交易権を通じて得られる利益によって生計を立て、藩主への奉公を果たしたのである。

「商場(場所)」の設定と交易形態の変化

松前藩成立当初、アイヌとの交易は原則として松前城下に集約され、藩が直接管理する形がとられていた 2 。全道からアイヌが産物を携えて松前に集まり、そこで和人との交換が行われていたのである 5 。しかし、藩の支配が安定し、より効率的に蝦夷地の産物を集積する必要が生じると、交易の形態は変化していく。藩は、松前城下で待つのではなく、自ら交易船を蝦夷地の各地へ派遣し、アイヌの集落(コタン)に近い沿岸部で直接交易を行うようになった 2

この各地に設けられた出先の交易拠点が、やがて制度化され、家臣に分与される「商場」となった。蝦夷地の海岸線は、河川や岬などを境界として細かく分割され、それぞれに「トカチ場所」(十勝)、「ムカワ場所」(鵡川)といった名称が与えられた 2 。例えば鵡川では、下流域と上流域でそれぞれ異なる家臣が知行主となっていた記録もあり、支配の網の目が蝦夷地の奥深くまで及んでいったことがわかる 5

知行主の権利と義務

商場を与えられた知行主(家臣)は、その領域内でアイヌと交易を行う排他的な権利を得た。しかし、それは単なる権利ではなく、重い義務とリスクを伴うものであった。知行主は、年に一度、自らの費用と責任において交易船を仕立て、米や鉄製品などの和産物を積み込み、自身の商場へと派遣しなければならなかった。そして、現地でアイヌの産物と交換し、それを松前に持ち帰って換金することで、ようやく収入を得ることができたのである 13 。交易が成功すれば大きな利益がもたらされたが、不漁や海難事故、あるいはアイヌとの関係悪化などがあれば、収入は途絶え、船や商品の調達にかかった費用はそのまま負債としてのしかかった。

一方で、藩主である松前氏は、自身の直轄地である「蔵入地」からの交易利益や、家臣の交易活動に対して課される運上金(税)などによって、藩の財政を維持した。このように、商場知行制は、アイヌ交易の利益を藩主と家臣団で分配するための、松前藩独自の封建的主従関係の根幹をなすシステムであった。

しかし、この制度は、その設計思想そのものに構造的な脆弱性を内包していた。それは本質的に「武士に商売をさせる」制度であったからだ。武士階級は、軍事と統治の専門家ではあっても、資本の調達、商品の仕入れ、輸送のリスク管理、価格交渉といった複雑な商業活動の専門家ではない。この制度が確立された時点で、商業資本や経営のノウハウを持たない武士たちが、やがて潤沢な資金力と全国的なネットワークを持つ専門の商人たちに経済的に依存し、最終的には支配権そのものが形骸化していく未来は、すでに運命づけられていたと言っても過言ではない。商場知行制の確立は、その後の場所請負制への移行という、次なる時代の扉を開くものでもあったのである。

第四章:交易の実態と力学―新たな秩序の下でのモノとカネの流れ

商場知行制という新たな制度の下で、具体的にどのようなモノが、いかなる力関係の中で取引されていたのか。その実態を詳細に見ていくことで、松前藩による支配がアイヌ社会に与えた経済的影響の深刻さが明らかになる。

主要交易品目

交易される品目は、それぞれの社会の生産物と需要を色濃く反映していた。

  • アイヌ側からの産物: 蝦夷地の豊かな自然からもたらされる産物が中心であった。獣皮(熊、鹿、ラッコなど)、猛禽類の羽(特に鷲の羽は矢羽として珍重された)、主食であり重要な交易品でもあった干鮭、そして昆布などが挙げられる 5 。特にラッコの毛皮は、当時、清(中国)との長崎貿易において「蝦夷錦」と並ぶ最高級の輸出品として極めて高い価値を持ち、松前藩の大きな利益の源泉となった。また、昆布は当初国内消費が主であったが、時代が下るにつれて重要な対中輸出品となり、北前船によって長崎や琉球経由で大陸へと運ばれる「昆布ロード」を形成していくことになる 14 。砂金もまた、藩の財政を支える重要な産物であった 23
  • 和人側からの商品: アイヌ社会では生産できず、しかし生活に不可欠、あるいは非常に魅力的な品々が提供された。米、酒、麹といった食料品、鉄製の鍋などの調理器具、刀や武具、そして漆器、木綿の反物や古着、タバコやキセルといった嗜好品がその代表である 1 。これらの品々は、アイヌの生活を豊かにする一方で、和人経済への依存を決定的に深める役割を果たした。

交換比率(レート)の不均衡化

松前藩が交易の独占権を確立したことによる最も深刻な影響は、交換比率、すなわち交易レートが著しくアイヌ側に不利なものへと一方的に改悪されていったことである 10 。自由な競争相手が存在しない独占状況下で、松前藩は自らの利益を最大化するために、アイヌの産物を安く買い叩き、和人の商品を高く売りつけることが可能となった。

その実態は、具体的な数値となって記録に残されている。例えば、17世紀半ばには、干鮭5束(100匹)と交換される米の量が、かつての1俵(2斗入り、約30kg)から、わずか8升入り(約12kg)の米俵へと、半分以下にまで引き下げられた 5 。これは、アイヌが以前と同じ量の米を手に入れるためには、倍以上の鮭を漁獲し、加工しなければならないことを意味した。

さらに、こうした制度的な搾取に加え、現場では和人による不正行為も横行した。交易の際に米の量を秤でごまかすといった行為は日常茶飯事であり、アイヌがそれに憤慨しても、交易を打ち切られれば生活必需品が手に入らなくなるため、泣き寝入りするしかなかった 6

商人資本の浸透と武士経営の形骸化

商場知行制の下で交易の主体となるべき知行主の家臣たちは、深刻なジレンマに陥っていた。彼らは交易に必要な資本を持たず、また商才にも長けていなかった。そのため、交易船の建造や修理、そして交易品である米や反物などの仕入れに必要な資金や商品を、松前に拠点を置いていた近江商人などの豪商から借金して調達する以外に方法はなかった 13

この構造は、知行主である武士を、商人に対する債務者という弱い立場に追い込んだ。彼らが命がけで蝦夷地から持ち帰った交易品(毛皮や干鮭など)の多くは、松前に着くやいなや、借金の返済として商人の手に渡っていった。手元に残るのはわずかな利益のみであり、多くは次の交易の準備資金にも事欠き、さらに商人から借金を重ねるという悪循環に陥っていた。この時点で、商場知行制はすでに形骸化し始めていた。名目上の経営者は武士であったが、その経済的実権は、背後で資金と商品を供給する商人資本によって、事実上掌握されていたのである。


表1:商場知行制初期(17世紀)における主要交易品目と価値の変化

分類

品目

アイヌ社会での用途・意義

和人社会での用途・意義

交換比率の推移(一例)

アイヌ側産物

干鮭

主食、保存食

食料、商品

干鮭100匹に対し、米が約30kgから約12kgへ減額 5

熊皮・獣皮

衣類、防寒具、交易品

武具、防寒具、商品

不利なレートへと改悪された 10

ラッコ皮

威信財、高級衣料

中国向け高級輸出品

高値で取引されたが、利益は和人側が独占

昆布

食料

食料、薬品、対中輸出の重要品目 14

後に価値が急騰

和人側商品

貴重な食料、儀礼用

主食

アイヌ産物との交換レートが支配の道具となった

鉄製品(鍋等)

調理器具、生活必需品

商品

アイヌ社会の生活に不可欠となり、依存を深めた 7

漆器

宝物、威信財 7

商品

アイヌの首長層の権威の象徴として利用された

木綿・古着

衣類

商品

獣皮に代わる衣料として普及


第五章:軋轢と抵抗―体制強化がもたらした緊張

松前藩による交易独占と商場知行制の確立は、単なる経済システムの変化に留まらなかった。それはアイヌ社会の根幹を揺るがし、生活のあらゆる側面に深刻な圧迫をもたらすものであった。不平等な交易から始まった軋轢は、やがて生活圏の侵犯、そして尊厳の侵害へとエスカレートし、アイヌの間に深い不満と抵抗の念を醸成していく。1669年に蝦夷地全土を揺るがすことになるシャクシャインの戦いは、この構造的な矛盾が必然的にもたらした帰結であった。

経済的収奪の深化と生活の圧迫

前章で述べた交易レートの一方的な改悪は、アイヌの人々の生活を直接的に困窮させた。これまでと同じ量の米や鉄製品を手に入れるためには、より多くの獲物を狩り、より多くの魚を獲ることが求められた 4 。これは、労働の強化を意味するだけでなく、彼らが伝統的に維持してきた自然との共生関係、すなわち持続可能な資源利用のあり方を破壊するものであった。利益の最大化のみを追求する和人側の要求に応えるため、アイヌは自らの生活基盤である自然資源を過剰に収奪せざるを得ない状況に追い込まれていったのである。

生活圏への侵犯と環境破壊

松前藩の支配がもたらした脅威は、経済的な搾取だけに留まらなかった。和人たちは、より多くの利益を求めて、アイヌが「イオル」と呼ぶ伝統的な生活領域にまで、物理的に侵入し始めた。

その最も深刻な例が、鮭漁場への介入であった。和人たちは、アイヌにとって最も重要な食料資源であり、精神文化とも深く結びついた鮭の漁場に大規模な漁具を持ち込んで侵入し、乱獲を行った。これにより、アイヌは自らの食料を確保することさえ困難になるという、生存の危機に直面した 10

さらに、松前藩にとって重要な収入源であった砂金の採掘は、アイヌの生活環境に壊滅的な打撃を与えた。和人の砂金掘りたちは、アイヌにとっては聖なる場所でもある山々を無秩序に切り崩し、土砂を河川に流した。その結果、川は汚染され、濁り、鮭が遡上できない環境へと変貌してしまった 23 。これは、アイヌの食料基盤と精神的世界の両方を同時に破壊する行為であった。松前藩の支配は、単なる不平等交易ではなく、アイヌの生態系、社会、文化を含む生活様式全体を破壊する「環境破壊的収奪」の性格を帯びていたのである。

尊厳の侵害と暴力の横行

経済的、環境的な圧迫に加え、和人による日常的な暴力と尊厳の侵害が、アイヌの不満をさらに増幅させた。交易の現場では、理不尽な要求や脅迫がまかり通り、不満を藩に訴え出ようとする者に対しては「毒殺するぞ」と恫喝することもあったという 10 。また、交易の不履行などを口実に、アイヌの子供を人質に取るという、非人道的な強硬策がとられることさえあった 4

徳川家康の黒印状には、確かに「夷人に対し非分申し懸ける者、堅く停止すべき事」(アイヌへの不当な行為は厳禁とする)という一文があった。しかし、現実にはこの条文は全く機能していなかった。それどころか、松前藩に交易独占権を与えた体制そのものが、構造的に「非分」を生み出し、助長する装置と化していたのである。松前藩の存立基盤は、アイヌ交易からの利益に全面的に依存していた。藩の財政を維持し、利益を最大化するためには、アイヌからの収奪を際限なくエスカレートさせる以外に選択肢はなかった。個々の和人による非道な行為の根源には、このような藩の存立構造そのものに内在する、システム的な問題が存在していた。蓄積された不満と絶望は、やがてシャクシャインという指導者の下で結集し、松前藩の支配に対する全面的な蜂起へと向かっていくことになる。

第六章:制度の変質―商場知行制から場所請負制への道

1604年に確立され、松前藩の支配体制の根幹をなした商場知行制は、その成立から一世紀も経たないうちに、その矛盾を露呈し、崩壊への道を歩み始める。武士による直接的な交易経営という、その制度設計自体に内包されていた構造的欠陥が、より効率的な利益追求システムである「場所請負制(ばしょうけおいせい)」への移行を不可避なものとした。この変質は、蝦夷地における支配の実権が、武士階級から商人資本へと静かに、しかし決定的に移譲されていく過程であった。

武士経営の破綻

商場知行制の根本的な問題は、統治と軍事を本分とする武士に、高度な専門知識と資本力を要する商業活動を強いた点にあった 13 。知行主である松前藩の家臣たちは、交易に必要な資金も、商品を仕入れ、在庫を管理し、価格交渉を行う経営ノウハウも持ち合わせていなかった。特に、蝦夷地との交易が複雑化し、より大規模な資本投下が必要になるにつれて、彼らの経営はますます困難を極めていった 13

その結果、家臣たちは松前に進出していた近江商人などの豪商から、交易資金や商品を借金で調達せざるを得なくなった。しかし、交易から得られる利益はわずかであり、多くは借金の返済に消え、負債は雪だるま式に膨れ上がっていった 13 。多くの家臣が経済的に破綻状態に陥り、自力での交易経営は事実上不可能となっていた。

場所請負制への移行

経営に行き詰まった家臣たちは、やがて自ら交易を行うことを断念し、知行として与えられた商場(場所)での交易権そのものを、債権者である商人に委託(請け負わせる)するようになった 13 。これが「場所請負制」の始まりである。

この制度の下では、商人が「場所請負人」となり、交易船の準備から商品の仕入れ、現地でのアイヌとの交易、産物の運搬と販売に至るまで、交易活動の一切を取り仕切った。その見返りとして、名目上の知行主である家臣は、場所請負人である商人から、毎年一定額の「運上金」と呼ばれる請負料を受け取った 13 。これにより、家臣は交易の失敗リスクや経営の煩わしさから解放され、安定した収入を確保できるようになった。一方で、藩主もまた、藩財政の安定化のためにこの制度移行を追認、あるいは推進した 27

この場所請負制への移行は、18世紀初頭の享保・元文年間(1716年~1741年)頃から本格化し、18世紀半ばには蝦夷地のほぼ全域が商人の請け負うところとなった 13

場所請負制下での支配の深化

場所請負制への移行は、単なる経営形態の変更に留まらなかった。それは、蝦夷地における支配のあり方を質的に変容させるものであった。場所請負人となった商人は、単に交易を代行するだけでなく、その地域の行政権をも事実上掌握するようになったのである 13

請負人たちは、蝦夷地の各地に「運上屋」や「会所」と呼ばれる経営・行政の拠点を設置した。そして、そこに支配人を常駐させ、アイヌを直接管理下に置いた。この体制の下で、アイヌの位置づけは劇的に変化する。かつては(不平等ではあったが)交易の相手方であったアイヌは、今や和人商人に雇用され、大規模なニシン漁や昆布採取といった商品生産に労働力として組織的に動員される存在へと変貌していった 6 。商人は、アイヌの有力者を「役蝦夷」に任命して末端の労務管理を担わせるなど、より直接的で効率的な支配システムを構築し、収奪を一層強化していったのである 13

この制度の変質が意味するものは明らかであった。それは、松前藩の支配が名目化し、蝦夷地における実質的な権力が、封建領主である武士の手から、勃興しつつあった商業資本の手へと移譲されたことを示していた。これは、近世日本の社会全体で進行していた、封建的な権威が貨幣経済の力に侵食されていく大きな歴史的潮流の、いわば縮図であった。蝦夷地という特殊なフロンティアにおいて、その現象がより先鋭的に、そして劇的に現れたのである。松前藩は、自らが作り出した交易独占というシステムの、いわば上前をはねるだけの存在へと変貌を遂げたのであった。

終章:総括―「交易場所制整備」の歴史的意義

慶長九年(1604年)の徳川家康による黒印状下賜を画期とする「交易場所制」の整備は、その後の蝦夷地、アイヌ社会、そして日本史全体に、深く、そして不可逆的な影響を及ぼした歴史的な転換点であった。単に「交易場所を指定し管理を強化」したという表層的な理解を超え、その多層的な意義を総括することで、この事象の重要性が明らかになる。

第一に、この体制整備は、和人とアイヌの支配関係を質的に転換させた。戦国期まで存在した、多元的で比較的対等な側面も残していた交易関係は、松前藩を唯一の窓口とする一元的かつ収奪的な支配・被支配の関係へと決定的に変貌した。黒印状によって法的に裏付けられた交易独占権は、アイヌから交渉の自由を奪い、彼らを経済的に従属させるための強力な武器となった。

第二に、それはアイヌ社会のあり方を根底から変容させた。交易の自由を失い、和人経済圏への経済的従属を強いられたことで、アイヌ社会は深刻な変容を遂げた。自給自足的な生活様式は、和人との交易を前提とした特定産物(毛皮、海産物など)の生産へと特化せざるを得なくなり、伝統的な自然観や社会構造も大きく揺らいだ。そして、商場知行制から場所請負制へと移行する中で、アイヌは交易の主体から、和人資本に搾取される労働力へと、その社会的地位を大きく貶められていった。

第三に、この時期に確立された基本構造は、幕末に至るまでの近世蝦夷地支配の原型となった。「和人地」と「蝦夷地」という空間的な区分、松前藩による窓口の独占、そしてアイヌからの経済的収奪という三つの柱は、その後、場所請負制という、より洗練された収奪システムへと発展しつつも、その基本骨格は維持され続けた。シャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いといったアイヌの抵抗は、この強固な支配構造に対する必死の異議申し立てであった。

最後に、日本史全体における位置づけとして、「交易場所制整備」は、徳川幕府による新たな「天下」の秩序が、アイヌの住まう北の辺境にまで及んだことを示す象徴的な出来事であった。それは、戦国的な混沌から近世的な秩序へと移行する時代の大きなうねりの中で、蝦夷地を日本国家の政治的・経済的影響圏に明確に組み込む行為であった。そして、この時に引かれた境界線と構築された支配関係は、後の近代国家による北海道の領土化と開拓、そしてアイヌ民族がたどる苦難の歴史へと繋がる、長い物語の序章をなすものであったと評価できる。1600年前後の蝦夷地における変革は、北の島の運命を決定づけた、静かな、しかし決定的な革命だったのである。

引用文献

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