京・御土居補修(1592)
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮出兵という国家的危機に対応するため、京都の御土居を首都防衛と統治強化のための戦略的事業として補修した。これは豊臣政権の危機管理能力と中央集権化を示す。
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戦国期日本の首都防衛戦略-文禄元年「京・御土居補修」の時系列的徹底分析
序論:文禄元年の京都と「補修」という謎
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、京都に壮大な都市改造を施した。その象徴ともいえるのが、都をぐるりと囲む長大な土塁と堀、すなわち「御土居」である。この巨大建造物は、わずか数ヶ月という驚異的な速さで完成したと記録されている 1 。しかし、そのわずか一年後の文禄元年(1592年)、この御土居に対して「補修」が行われたとされる。
築造後間もない土木構造物が、大規模な物理的破損を起こしたとは考えにくい。では、この「補修」とは一体何を意味するのか。それは単なる土塁の修繕作業だったのだろうか。本報告書は、この一見不可解な事象を、単なる物理的修復としてではなく、文禄元年という未曾有の国家的非常事態、すなわち「文禄の役(朝鮮出兵)」に対応するための、極めて戦略的な**「首都機能の強化・再編」**であったと位置づける。
この仮説に基づき、本報告書は文禄元年の国内外の情勢を時系列で追いながら、「京・御土居補修」の実態を徹底的に分析する。これにより、豊臣政権の卓越した危機管理能力、首都統治の具体的な姿、そして戦国乱世の終焉から近世へと移行する過渡期における京都の戦略的重要性を立体的に解明することを目的とする。
第一章:壮大なる都市改造の象徴-「御土居」の築造とその多角的機能
文禄元年の「補修」を理解するためには、まずその前年、天正19年(1591年)に築造された御土居が、いかなる目的と機能を持って計画されたのかを正確に把握する必要がある。
1-1. 天正19年(1591年)の築造:天下人の都市デザイン
御土居の築造は、豊臣秀吉による京都都市改造事業の核心をなすものであった。寺院を移設して寺町通や寺之内通を形成し、市中の街路を碁盤目状に再整備する「天正の地割」といった一連の事業と並行して、この壮大な土塁は計画・実行された 1 。公家の日記『言経卿記』などによれば、天正19年の年明けに着工され、閏1月を含む2ヶ月から、遅くとも4ヶ月という驚異的な短期間でその大部分が完成したとされる 2 。これは、墨俣一夜城の伝説を彷彿とさせる秀吉の卓越した土木技術と、天下人としての絶大な動員力を如実に示すものであった。この事業は、単なるインフラ整備に留まらず、戦乱で荒廃した京都を、自身の構想する新しい時代の首都として再設計するという、秀吉の強固な意志の物理的な表現であった。
1-2. 御土居の物理的実態:構造と規模
御土居は、まさに京都を城塞都市へと変貌させる巨大な構造物であった。現存する遺構や古絵図、そして近年の発掘調査から、その全貌が明らかになっている 5 。
- 規模 : 総延長は約22.5kmに及び、南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の範囲を囲い込んでいた 5 。北は鷹峯、南は東寺の南、東は鴨川、西は紙屋川(天神川)に至る広大な領域であり、市街地のみならず田畑までもその内に含んでいた 8 。
- 構造 : 基本構造は、土を盛り上げた「土塁(土居)」とその外側に掘られた「堀」からなる。土塁の断面は台形で、基底部の幅が約18mから20m、高さは約5mに達した 7 。一方、堀は幅が10数mから20m、深さは最大で約4mを測り、土塁と一体となって堅固な防御線を形成していた 7 。
- 立地の活用 : 御土居は地形を巧みに利用して築かれた。東辺は鴨川、西辺は紙屋川を天然の堀として活用しており、これらの区間では大規模な堀の掘削は行われなかった 7 。
- 植生 : 土塁の上には、侵入を防ぐための障害物として、また土塁の崩落を防ぐ目的で竹が密に植えられていたとされ、「御土居藪」とも呼ばれた 7 。
これらの物理的特徴は、御土居が単なる境界線ではなく、明確な軍事的意図を持って設計された「惣構(そうがまえ)」であったことを示している。
1-3. 複合的目的:単一機能を超えたグランドデザイン
秀吉が御土居に込めた目的は、一つではなかった。それは、当時の京都が抱える複数の課題を同時に解決するための、多角的かつ統合的なグランドデザインであった。
- 治水機能 : 東辺を鴨川に沿って築くことで、古来より京都を悩ませてきた鴨川の氾濫から市街地を守る巨大な堤防としての役割を果たした 13 。江戸時代に新たな堤防「寛文新堤」が築かれると、御土居の東辺が取り壊されたという事実は、その治水機能が実際に重視されていたことを裏付けている 9 。
- 軍事防衛機能 : 戦国の世が終焉に向かっていたとはいえ、依然として潜在的な脅威は存在した。御土居は、外敵の侵入を防ぐための堅固な防塁であり、首都・京都の安全を保障する最終防衛線であった 13 。
- 都市境界の画定 : 御土居は、それまで曖昧であった京都の都市範囲を物理的に画定する役割も担った。土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」と明確に区分され、この区分は後の時代まで京都の基本的な都市構造を規定した 13 。この境界線上には「京の七口」と呼ばれる主要な出入口が設けられ、人々の往来や物資の流通を管理する拠点となった 13 。
御土居は、治水、防衛、都市計画という複数の機能を統合したインフラであったと同時に、極めて高度な政治的・社会的装置でもあった。洛中と洛外を物理的に分断することは、豊臣政権の統治が及ぶ範囲を可視化し、徴税、治安維持、身分制度の管理を効率化する上で絶大な効果を発揮した。それは、中世的な混沌とした都市空間から、支配者が隅々まで管理する近世的な整然とした都市空間への移行を象徴する、巨大なモニュメントだったのである。
第二章:激動の文禄元年(1592年)-朝鮮出兵と緊迫する国内情勢
天正19年に完成した御土居が、翌文禄元年に「補修」を必要とした背景には、この年、日本全体を揺るがした歴史的な大事件があった。豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち「文禄の役」の勃発である。
2-1. 国家の奔流:文禄の役の勃発
天下統一を成し遂げた秀吉の次なる目標は、明(中国)の征服であった 22 。その前段階として、朝鮮に対して服属と明への先導を要求したが拒絶され、武力による侵攻を決断した 23 。
文禄元年(1592年)1月、全国の諸大名に動員令が発せられ、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に巨大な前線基地が築かれた。3月には15万人を超える遠征軍の陣立てが決定し、4月12日、小西行長率いる第一軍が対馬から釜山へ渡海、戦争の火蓋が切られた 22 。日本軍は破竹の勢いで進撃し、主要都市を次々と攻略、わずか1ヶ月後の5月3日には朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させた 22 。これは日本の歴史上、類を見ない規模の対外戦争であり、国家の人的・物的資源のすべてが動員される、まさに総力戦体制の始まりであった。
2-2. 空虚の中心:秀吉の不在と首都の統治体制
この国家的大事業を指揮するため、豊臣秀吉自身も京都を離れた。3月26日に聚楽第を出立した秀吉は、4月25日に肥前名護屋城に着陣し、ここを大本営とした 26 。これにより、日本の政治的中枢は事実上、西の果ての名護屋へと移動した。
最高権力者が長期にわたって首都を不在にするという異例の事態に対し、豊臣政権は周到な留守居(るすい)体制を敷いていた 28 。京都における政務は、天正19年末に関白職を譲られていた甥の豊臣秀次が名目上の最高責任者として統括した 26 。そして、その下で京都の実務的な行政、特に朝廷との折衝や治安維持といった重要任務を一手に担ったのが、京都所司代の前田玄以であった 31 。この秀次と玄以を中心とする留守居政権は、豊臣政権の組織的な成熟度を示すものであったが、同時に、絶対的権力者である秀吉が遠隔地にいるという、潜在的な脆弱性を内包する体制でもあった。
2-3. 国内の潜在的脅威と社会不安
秀吉の支配は盤石に見えたが、天下統一からわずか2年後のことであり、国内には依然として不安定要素が燻っていた。
- 政権内部の対立 : 朝鮮出兵をめぐり、豊臣政権内部では早くも路線対立が生じていた。小西行長や石田三成ら、早期講和を目指す文治派と、加藤清正や福島正則ら、あくまで武力による征服を主張する武断派の亀裂が深まりつつあった 35 。
- 潜在的反対勢力 : 九州の島津氏や関東の伊達氏など、かつて秀吉に屈した有力大名が、この国家の混乱に乗じて蜂起する可能性はゼロではなかった。
- 社会不安 : 大規模な軍勢の動員は、農村からの労働力の収奪を意味し、国内経済に大きな負担を強いた。戦争の長期化は、民衆の不満を高め、社会不安を醸成する危険性をはらんでいた。
特に、国家の主力が海外に出払い、国内の防備が手薄になる状況は、為政者にとって最大の懸念材料であった。この文脈において、首都・京都の防衛は、単なる一都市の治安問題ではなく、国家の存亡に関わる最重要の戦略課題として浮上したのである。もし京都で反乱や大規模な騒乱が発生すれば、それは即座に名護屋の秀吉、ひいては朝鮮で戦う将兵の士気に影響し、兵站線を脅かすだけでなく、豊臣政権の正統性そのものを揺るがしかねない。1592年の京都は、戦争を支える後方拠点であると同時に、豊臣政権の安定性を測るリトマス試験紙のような存在となっていた。この極度の緊張感こそが、「御土居補修」という事業を理解するための鍵となる。
第三章:時系列で見る「京・御土居補修」-首都機能維持と治安強化の実態
「京・御土居補修」は、孤立した土木事業ではない。それは、文禄元年に刻一刻と変化する国内外の情勢に呼応して実行された、計画的な首都防衛策であった。ここでは、当時の状況を時系列で再構成し、そのリアルタイムな動きを追う。
文禄元年(1592年)主要事象と御土居補修の関連年表
以下の年表は、国外(朝鮮半島)、国内(名護屋)、そして京都における動向を対比させることで、「補修」がどのような戦略的判断の下で行われたかを浮き彫りにするものである。
月 |
国外・名護屋の動向(文禄の役) |
京の動向(政治・社会) |
御土居補修に関する動き(推定・考察) |
1-3月 |
朝鮮出兵の陣立て決定。諸大名が名護屋へ集結。3月26日、秀吉が京都を出発 26 。 |
首都から最高権力者が不在となる。秀次・玄以による留守居体制が本格始動。市中には出征準備に伴う喧騒と緊張が漂う。 |
首都防衛強化の必要性が留守居政権内で最重要課題として認識される。御土居の現状を再評価し、機能強化の計画が立案される時期。 |
4-5月 |
4月12日、渡海開始。釜山、漢城を相次いで陥落させる 22 。4月25日、秀吉が名護屋に着陣 26 。 |
戦勝の報がもたらされ、祝賀ムードが生まれる一方、戦争の長期化や国内の治安悪化への潜在的な不安も広がり始める。 |
計画に基づき、具体的な「補修(機能強化)」工事が開始される。特に人の往来が激しい「七口」の検問施設の強化が最優先事項とされた可能性が高い。 |
6-7月 |
戦線が膠着し始める。朝鮮各地で義兵の抵抗が激化 23 。7月22日、秀吉の母・大政所が死去 26 。 |
大政所の死去により、豊臣家内に動揺が走る。秀吉は一時帰京を考えるも、戦況を鑑み断念。伏見での新たな城(隠居城)の構想が具体化する。 |
工事は継続的に実施。土塁上の竹藪をより密に整備し、堀の浚渫や、見通しを確保するための周辺整理など、物理的な防御機能と監視能力を高める作業が進められる。 |
8-10月 |
8月、秀頼(拾)誕生 26 。明との休戦交渉が始まるが、戦況は泥沼化の様相を呈する 27 。 |
8月、伏見城の築城が開始される 26 。京都周辺で、御土居補修と伏見城築城という二つの大規模土木工事が並行して行われる状況となる。 |
伏見城築城と連携し、京都全体の防衛計画の一環として補修が再定義される。伏見と京都を結ぶ街道の防衛や、兵站路としての七口の役割がより重視され、連携が強化される。 |
11-12月 |
講和交渉は難航。朝鮮半島南部では日本軍が城塞に籠り、越冬体制に入る 37 。 |
秀吉は名護屋から尾張の堤防普請を命じるなど、遠隔地から国内のインフラ整備にも強い関心を示し続ける 26 。 |
年末にかけ、一連の機能強化作業が完了。強化された検問体制が常態化し、京都の治安は国家管理の下で高度に統制された状態となる。 |
3-1. 「補修」から「機能強化」へ:具体的な施策の推定
年表が示すように、文禄元年の「補修」は、戦争の進展と国内の緊張状態に密接に連動していた。築後わずか1年での大規模な物理的破損は考えにくいため、この事業の実態は、新たな戦略的要請に応えるための「機能強化」であったと解釈するのが最も合理的である。その具体的な内容は、以下のようであったと推定される。
- 検問機能の強化 : 御土居に設けられた「七口」は、洛中と洛外を結ぶ交通の要衝であった 13 。平時においては人々の自由な往来を管理する施設であったが、戦時下においては、その役割は一変する。敵対勢力の密偵や破壊工作員の潜入、徴兵を逃れた農民や主を失った浪人といった不穏分子の流入、さらには武器の不正な持ち込みなどを防ぐため、より堅固な門や番所を設置し、通行人に対する検問を厳格化したと考えられる。これは、首都の治安を維持するための最も直接的かつ効果的な手段であった。
- 監視能力の向上 : 高さ約5mの土塁は、それ自体が周囲を見渡すための優れた監視台であった 7 。この利点を最大限に活用するため、土塁上の要所に簡易的な櫓(やぐら)や見張り台を増設し、洛外の不審な動きを24時間体制で監視できるシステムを構築した可能性が高い。城郭防衛において、敵の動きを早期に察知することは極めて重要であり、その理論が首都防衛にも応用されたのである 39 。
- 防御障壁の再整備 : 物理的な突破をより困難にするための措置も講じられたであろう。土塁上に植えられていた竹をより密に植え直したり、新たな竹を追加で植栽したりすることで、乗り越えがたい障害物を形成した 7 。また、堀が埋まりやすい箇所を浚渫(しゅんせつ)し、常に一定の水深と幅を保つことで、防御効果を維持する努力が払われたと考えられる 40 。
これらの施策は、御土居という既存のインフラを最大限に活用し、比較的短期間かつ低コストで、首都の防衛能力を飛躍的に向上させることを目的としていた。それは、まさに国家的危機に対応するための、合理的かつ現実的な危機管理策であった。
第四章:補修の担い手たち-豊臣秀次政権と京都所司代・前田玄以の役割
この戦略的な首都機能強化プロジェクトは、誰が命令し、誰が実行したのか。その命令系統と実行体制を解明することは、豊臣政権の統治構造の成熟度を測る上で重要である。
4-1. 命令系統の解明:秀吉の遠隔指示か、留守居政権の現場判断か
この事業の最高意思決定者が豊臣秀吉であったことは間違いない。名護屋の大本営から、「首都・京都の防衛を万全にせよ」という大枠の指示が発せられた可能性は極めて高い。秀吉は遠隔地にありながらも、伏見城の築城や尾張の堤防普請を命じるなど、国内の重要事項に対して常に細やかな注意を払っていた 26 。
しかし、具体的に御土居のどの部分を、どのように強化するかという詳細な計画の立案と実行は、京都の状況を最もよく把握している留守居政権、特に実務責任者である前田玄以にその多くが委ねられていたと考えるのが妥当である。秀吉が示した大戦略に基づき、現場の責任者が戦術的な判断を下して実行に移すというこの関係性は、豊臣政権が単なる独裁者のトップダウンによる支配ではなく、権限委譲を伴う機能的な統治システムを構築していたことを示唆している。
4-2. 実行責任者・前田玄以:京都所司代の権能
この事業の現場における最高責任者は、京都所司代の前田玄以であった。彼の持つ権限と能力は、この任務を遂行する上で不可欠であった。
- 絶大な権限 : 京都所司代は、京都の行政、司法、警察権を総括し、朝廷や公家、寺社勢力との交渉、さらには西国大名の監視までをも担う重職であった 41 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが彼を「都の総督」と記したように、その権勢は絶大であった 43 。御土居の機能強化は、まさに玄以の職掌の中核をなす「京都の治安維持」そのものであり、彼が主導して事業を進めるのは当然のことであった 33 。
- 有能な行政官 : 玄以は元々比叡山の僧侶であり、公家や寺社との複雑な交渉事に長けていた 31 。同時に、織田信長、信雄の時代から京都奉行を務め、秀吉政権下でもその手腕を高く評価された有能な行政官でもあった 45 。大規模な土木事業に必要な人員や資材の調達、工程管理といった実務を的確に差配する能力を有していたことは疑いない。
4-3. 動員された労働力:天下普請か、在地動員か
天正19年の御土居築造は、全国の大名を動員する「天下普請」として行われた 13 。しかし、文禄元年の状況は全く異なっていた。西国大名を中心に、ほとんどの有力大名は当主自らが軍勢を率いて朝鮮半島に渡るか、名護屋に在陣しており、大規模な天下普請は物理的に不可能であった。
したがって、今回の「補修」における労働力は、主に以下の二つの供給源から賄われたと推定される。
- 所司代の直轄兵力 : 前田玄以は丹波亀山に5万石の所領を持つ大名でもあった 45 。自身の所領から動員した兵や人足を、事業の中核的な労働力として投入した可能性が高い。
- 京都の町衆の動員 : 豊臣政権は、都市民に対しても直接的な支配力を及ぼしていた。方広寺大仏殿の造営に際し、京都の町衆が「人夫役」として動員され、酒や餅が振る舞われる中で土固めを行ったという記録がある 48 。同様に、御土居の補修においても、京都の町衆が賦役として動員されたと考えられる。
この点は極めて重要である。国家の軍事力の中核である大名に依存することなく、首都において戦略的に重要な公共事業を遂行できたという事実は、豊臣政権の統治能力の「深度」を示している。それは、政権が直轄の行政官(所司代)を通じて、在地社会(都市民)を直接的に把握し、動員できるだけの統治機構を確立していたことを意味する。この事業は、豊臣政権が戦国大名の連合体という段階を越え、より中央集権的な近世国家へと変貌しつつあったことを物語る、象徴的な事例なのである。
第五章:御土居補修の多層的意義-軍事的・政治的・象徴的考察
文禄元年の「京・御土居補修」は、単なる防衛施設の強化に留まらず、軍事的、政治的、そして社会的・象徴的な側面において、多層的な意義を持つ戦略的行為であった。
5-1. 軍事的意義:兵站基地の保護と国内反乱への抑止力
対外戦争の遂行において、後方基地の安定は絶対条件である。当時の京都は、朝鮮半島へ送られる兵員、武器、食糧といった物資が集積・中継される、極めて重要な兵站(へいたん)基地であった。御土居の防御機能を強化することは、この兵站の結節点を物理的に保護し、戦争遂行能力そのものを担保する上で不可欠な措置であった。
同時に、強化された首都の防衛体制は、国内の潜在的な反豊臣勢力に対する強力な抑止力として機能した。いかに国内が手薄に見えようとも、首都・京都が難攻不落の要塞と化しているという事実は、安易な反乱を企てる者たちの意欲を削ぐに十分であった。これは、武力による直接的な威嚇ではなく、堅固なインフラを誇示することによる間接的な抑止力であり、高度な統治技術の現れであった。
5-2. 政治的意義:留守居政権の権威確立と国家の安定性の誇示
絶対的権力者である秀吉の不在は、留守居政権の求心力低下を招きかねない危険性をはらんでいた。このような状況下で、首都の防衛体制を強化するという目に見える成果を上げることは、豊臣秀次や前田玄以ら留守居政権の権威を高め、その統治能力を内外に示す上で絶大な効果があった。
この事業は、「太閤殿下(秀吉)がご不在であっても、豊臣の治世は盤石であり、国家を統治するシステムは完璧に機能している」という強力な政治的メッセージを発信するものであった。それは、遠く朝鮮で戦う将兵たちに安心感を与え、国内の諸勢力には政権の安定性を印象づける、計算された政治的パフォーマンスでもあったのだ。
5-3. 社会的・象徴的意義:「洛中」という安全空間の再保証
御土居は、洛中と洛外を分かつ物理的かつ象徴的な境界線であった 7 。戦争という国家的非常事態において、この境界を「補修=強化」することは、洛中に住む公家、富裕な町衆、そして有力寺社といった支配層や都市民に対し、「豊臣政権は、あなた方の生命と財産の安全を確実に保障する」という明確な意思表示であった。
戦国時代の京都は、幾度となく戦火に見舞われ、そのたびに市街は荒廃した。人々は常に不安と隣り合わせで暮らしてきた。秀吉が築いた御土居は、その悪夢の時代の終わりを告げ、洛中を絶対的な安全空間として規定するものであった。『洛中洛外図屏風』に描かれるような、秩序だった平和な「洛中」の日常 49 。その平和を、戦時下においても物理的に担保し、再保証すること。それこそが、民心の安定を図り、社会の動揺を防ぐための、最も効果的な社会心理政策だったのである。
結論:戦国時代の終焉を告げる土塁-御土居が後世に遺したもの
本報告書で詳述してきた通り、文禄元年(1592年)の「京・御土居補修」は、単なる土木事業ではなかった。それは、文禄の役という国家的危機に際して、豊臣政権が首都・京都の持つ戦略的重要性を深く認識し、その防衛機能と統治システムを体系的に強化した、極めて計画的な国家プロジェクトであったと結論付けられる。
この一連の事象は、豊臣政権が有していた高度な危機管理能力と、中央集権的な統治システムの成熟度を明確に示している。最高権力者が首都を不在にする中でも、留守居政権が現場の状況に応じて的確な判断を下し、大名の軍事力に依存することなく、直轄の行政機構を通じて在地社会を動員し、国家的な事業を遂行し得たという事実は、戦国時代の統治形態からの明らかな飛躍を物語っている。
御土居の強化は、戦乱の時代が終わり、国家が都市を防衛し、管理し、その内部の秩序を維持する近世という新しい時代への移行を象徴する出来事であった。徳川による泰平の世が訪れると、御土居の軍事的・政治的重要性は次第に薄れ、都市の発展を妨げるものとして多くが取り壊されていった 15 。しかし、その痕跡は今なお京都の地名や起伏に残り、豊臣秀吉という一人の天下人が描いた壮大な都市デザインの記憶と、国家の危機に際して首都を守ろうとした人々の営みを、我々に静かに語りかけているのである。
引用文献
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