京枡流通徹底(1592)
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京枡流通の徹底と近世日本の黎明:豊臣秀吉の度量衡統一事業に関する総合的分析
序章:1592年、京都―天下人の新たな秩序
利用者によって提示された「京枡流通徹底(1592)」という事象は、特定の単一法令の発布を指すものではなく、豊臣秀吉が推進した一連の国家改造計画がその実効性を試され、全国規模で浸透し始めた象徴的な時点として理解することが極めて重要である。1592年(文禄元年)は、秀吉による国内の武力統一が成り、その巨大な軍事力を朝鮮半島へと差し向けた「文禄の役」が開始された年である。この未曾有の大規模な対外戦争は、数十万の兵士を動員し、彼らを支えるための兵糧の計算、調達、輸送という巨大な兵站(ロジスティクス)の確立を国家に強いた 1 。
この国家的要請こそが、京枡の普及を単なる平時の行政命令から、実務上の焦眉の急務へと変質させた原動力であった。全国各地の大名から徴発される兵糧米の量を正確に把握し、前線へ公平に分配するためには、全国で統一された計量基準が不可欠であった。もし、各大名の領国で用いられる枡の大きさが異なれば、兵糧の計算はたちまち混乱し、不公平感は諸大名の不満を煽り、ひいては兵站の崩壊、作戦の破綻に直結しかねない。戦国時代の兵士は、1日に1人あたり7.5合から1升の米を消費したとされ、7万の軍勢であれば1日で700石もの米が必要となる計算である 1 。この膨大な量を管理する上で、基準の統一は絶対条件であった。
したがって、1592年という年は、それまで太閤検地の一環として進められてきた京枡統一政策が、戦時下における国家運営に必須のインフラとして初めて本格的に機能し、その重要性が証明された「転換点」として歴史に刻まれる。それは、天下人の描いた新たな秩序の理念が、国家存亡をかけた現実の要請と結びついた瞬間であり、京枡が単なる器から、国家統治の根幹をなす道具へと昇華した画期であった。
第一章:混沌の器―統一以前の日本列島
豊臣秀吉による統一事業が着手される以前、室町時代から戦国時代にかけての日本列島は、度量衡、特に容量を計る「枡」に関して、極度の混沌状態にあった。かつて朝廷が定めた公定枡である「延久宣旨枡」は、公家政権の権威失墜と共に形骸化し、その実効力は失われていた 2 。その結果、各地の荘園領主、寺社勢力、そして戦国大名が、それぞれ独自の基準で枡を作り、自らの領国内でのみ通用する「私枡」を流通させていたのである。その大きさは、大きいものでは14合(現在の1.4升)に達するものから、小さいものでは2合しかないものまで、まさに多種多様であった 2 。
この度量衡の不統一は、社会のあらゆる側面に深刻な弊害をもたらしていた。
第一に、年貢徴収における不正の温床となっていた。代官や地方役人などが、農民から年貢米を徴収する際には大きな枡を用い、それを集計して領主に報告・納入する際には小さな枡を使うという手口が横行した。この「出入枡」と呼ばれる不正行為によって、役人たちは差額を容易に着服し、私腹を肥やしていたのである 3 。これは、領主にとっては税収の損失であり、農民にとっては過酷な搾取に他ならなかった。こうした不正は農民の不満を増大させ、しばしば一揆の直接的な原因となり、社会不安を助長する大きな要因となっていた。
第二に、経済発展の深刻な阻害要因となっていた。戦国時代は、商品流通が活発化し、領国を越えた商業取引が盛んになりつつあった時代である 2 。しかし、国境を越えるたびに枡の大きさが変わる状況では、公正な取引は望むべくもなかった。単位換算の手間や、相手の枡が本当に正しい大きさなのかという不信感が常に付きまとい、全国規模での市場経済の円滑な発展を大きく妨げていた 3 。
第三に、各大名による合理的・計画的な領国経営を困難にしていた。自領の田畑からどれだけの収穫が見込めるのか、その正確な生産力を把握することは、財政基盤の安定と軍事力の維持に不可欠である。しかし、領内でさえ枡の基準が曖昧であれば、正確な収穫量の算定は不可能であった 4 。自己申告制の検地(差出検地)では、収穫量を過少申告して年貢を少なく納める、いわゆる「脱税」も横行しており、大名が自領の経済力を正確に管理することは極めて難しかったのである 5 。
このような混沌の中から、社会は必然的に統一された基準を求めるようになる。商業の発展は取引の標準化を要請し、中央集権的な統治を目指す為政者は、国家の富を正確に把握する必要に迫られていた。まさにこの時代的要請に応える形で、度量衡の統一、とりわけ最も重要な穀物の計量器である枡の統一が、天下統一事業の重要な一角を占めることとなるのである。
第二章:先駆者の布石―織田信長と京枡の採用
豊臣秀吉による全国規模での度量衡統一事業は、全くの白紙から始まったわけではない。その壮大な計画の前提には、先駆者である織田信長による布石が存在した。永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内における覇権を確立した信長は、軍事・政治面だけでなく、経済政策においても革新的な試みを行った。その一つが、枡の統一であった。
信長は、当時の日本の経済・文化の中心地であった京都で、商取引において最も広く使用されていた「京都十合枡」に注目した 7 。これは、10合で1升となる十進法に基づいた合理的な枡であり、畿内一円に普及していた 2 。信長は、この京都十合枡を自らの領国における公定枡として採用することを決定したのである 3 。
信長の狙いは複合的であった。第一に、それは「楽市楽座」に代表される経済活性化策と密接に連動していた。商取引の基盤となる単位を統一することで、領国をまたぐ商人たちの活動を円滑にし、物の流通を飛躍的に高めることを目指したのである 3 。公正な取引の基盤を整備することは、商業の発展に不可欠であると信長は理解していた。
第二に、それは統治の安定化、特に税収の確実な把握を目的としていた。前述の「出入枡」に代表される徴税時の不正を防止し、農民の負担を安定させると同時に、自らの財政基盤を強化する狙いがあった 3 。農民の不満を和らげ、税収を確実に確保することは、絶え間ない戦争を続ける信長にとって極めて重要な課題であった。
しかし、信長のこの先駆的な試みは、天下統一が道半ばで終わったことにより、その影響範囲は畿内およびその周辺地域に限定された。全国的な規模で度量衡を統一するには至らなかったのである。それでもなお、信長の政策が持つ歴史的意義は大きい。彼は、数多ある私枡の中から、経済の中心地で流通し、合理性を備えた「京枡」という具体的な基準を選定した。そして、度量衡の統一が経済の発展と国家の統治に不可欠であるという明確な方向性を示したのである。この信長による布石があったからこそ、後継者である秀吉は、より壮大かつ徹底した全国統一事業へと迷いなく踏み出すことができたのであった。
第三章:天下人のものさし―太閤検地と石高制の確立
織田信長の後を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その支配体制を盤石なものとするため、国家の社会経済構造を根底から再編する事業に着手した。その中核をなしたのが、天正10年(1582)から慶長3年(1598)にかけて全国で実施された「太閤検地」である 11 。これは、単なる土地調査や測量に留まるものではなかった。それは、日本全国の土地と人民を豊臣政権の直接的な支配下に置き、その価値を単一の基準で把握するための、国家的な情報収集・再編事業であった 13 。
この革命的な事業を実効あらしめるため、秀吉は二つの「ものさし」を全国に強制した。一つは土地の面積を測るための「ものさし(検地尺)」であり、もう一つは土地の生産力を計るための「ます(京枡)」であった。秀吉は、1間を従来の6尺ではなく6尺3寸(約191cm)と独自に定め、この検地尺を用いて測量した300歩(1間四方)を1反とする新たな基準を導入した 6 。そして、この統一された基準で測量された土地の生産力を、信長が採用した京枡を用いて米の量で表示するという、画期的なシステムを創出したのである。
京枡の規格と石高制の導入
秀吉が太閤検地で公定枡として採用した京枡は、後の江戸時代に標準となる「新京枡」とは規格が異なる、安土桃山時代特有のものであった。複数の資料を分析すると、その一升枡の内法(うちのり)は、「口広(縦横)が各五寸(約15.15cm)、深さが二寸五分(約7.57cm)」であり、その体積は5×5×2.5=62.5立方寸、すなわち62,500立方分であったと推定される 17 。
この京枡は、全国の土地の価値を「石高(こくだか)」という新たな指標に変換するための、いわばアルゴリズムの基幹部品として機能した。検地のプロセスは以下の通りである。
- まず、統一された検地尺で田畑の面積を正確に測量する。
- 次に、その土地の質や日当たり、水利などを勘案し、土地を「上田」「中田」「下田」「下々田」といった等級に分類する 6 。
- 各等級ごとに、1反あたりの標準的な米の収穫量を定める。これが「石盛(こくもり)」であり、例えば上田は1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗といった具体的な数値が設定された 6 。この石盛を決定する際に、実際に米を計量する物理的な基準となったのが京枡であった。
- 最後に、その土地の面積に石盛を乗じることで、土地全体の潜在的な生産高が算出される。これが「石高」である 6 。
この一連のプロセスを通じて、それまで貨幣価値(貫高)や複雑な権利関係によって多様に評価されていた全国の土地が、「米の生産量」という単一かつ客観的な指標で一元的に評価されることになった。これが「石高制」の確立である 11 。京枡の容量がわずかでも変われば、全国の総石高も変動するため、京枡の統一は、この新たな国家統治システムの根幹を物理的に担保する、極めて重要な政治的行為であった。それは単なる計量器の標準化を超え、日本全土を覆う新たな価値評価システムと、それに基づく支配構造そのものを創出する事業だったのである。
主要な枡の規格比較
秀吉が定めた京枡は、後の時代にも変遷を遂げた。その歴史的変化と、江戸時代に競合した「江戸枡」との違いを理解するため、以下に主要な枡の規格を比較する。
枡の種類 |
制定時期(目安) |
縦・横(内法) |
深さ(内法) |
体積(立方分) |
現代の容量(約) |
京枡(秀吉時代) |
安土桃山時代 |
五寸 (約15.15cm) |
二寸五分 (約7.57cm) |
62,500 |
1.74 L |
新京枡(江戸幕府公定) |
江戸初期 (元和~寛永期) |
四寸九分 (約14.85cm) |
二寸七分 (約8.18cm) |
64,827 |
1.804 L |
江戸枡 |
江戸初期 |
五寸 (約15.15cm) |
二寸五分 (約7.57cm) |
62,500 |
1.74 L |
典拠資料: 2
この表が示すように、秀吉の京枡と、徳川家康が江戸で使用した江戸枡は、ほぼ同じ容積であったと考えられる 9 。しかし、江戸幕府が最終的に全国の公定枡として定めた「新京枡」は、口がわずかに狭く、少し深くなっており、容積も約3.7%増加している 2 。このことは、秀吉の政策が完成形ではなく、徳川幕府によってさらに改良・制度化され、近世を通じて続く安定したシステムの礎となった歴史の連続性を示している。
第四章:徹底の刻―京枡、全国へ(1582年~1598年)
京枡を全国に普及させるプロセスは、秀吉の天下統一事業と並行して、段階的かつ戦略的に進められた。その展開は、まさにリアルタイムで進行する壮大な国家プロジェクトであった。
黎明期(1582年~)
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が倒れた後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、実質的な後継者としての地位を確立した秀吉は、直ちに太閤検地に着手した。その最初の対象地は、京都周辺の山城国であった 12 。この初期段階における検地は、後の全国展開を見据えたモデルケースとしての意味合いが強かった。ここで京枡を用いた石高算定方式が試験的に導入され、その有効性と課題が検証されたと考えられる。秀吉は、天下人としての生涯をかけて検地を続けることになるが、その第一歩はこの時に記されたのである 6 。
基準の具体化(1590年)
小田原北条氏を滅ぼし、東北地方の諸大名を服属させ、名実ともに天下統一を完成させた天正18年(1590年)、秀吉は京枡統一の動きを具体化させる。その象徴的な事例が、播磨国(現在の兵庫県)で取られた措置である。秀吉は、播磨一国の枡を統一するため、基準となる一升枡を製作させ、これを現地の鋳物師頭領であり、豊臣政権直轄地の代官でもあった芥田氏に下賜した 22 。この基準枡の裏面には、これを手本として写しを播磨国中に配布すべき旨が記されていたという 22 。これは、単に「京枡を使え」という抽象的な命令を下すだけでなく、物理的な「原器」を配布することで、基準の正確な複製と迅速な普及を図ろうとした秀吉の周到さを示している。
転換点(1592年)
序章で述べた通り、文禄元年(1592年)の文禄の役開始は、京枡普及の決定的な転換点となった。数十万の軍勢を動かすための兵糧米の計算、徴収、管理という喫緊の課題が、全国の大名に共通の計量基準の使用を事実上強制する状況を生み出した。各大名は、自領の石高に応じて定められた軍役を果たす義務があり、その一環として兵糧の供出も求められた。この過程で、豊臣政権が定めた京枡を用いなければ、自らの義務を正確に果たしていることを証明できなかったであろう。平時であれば抵抗したかもしれない地方の慣習も、戦時下という非常事態と、天下人の絶対的な権威の前では、急速にその力を失っていった。制度が実需によって一気に浸透する、歴史のダイナミズムがここに見られる。
制度化と徹底(1594年~)
文禄3年(1594年)、秀吉の政策は、さらに強権的かつ体系的な段階へと移行する。この年、秀吉は伊勢国に対し、京枡を公布するとともに、領内で使用されている旧来の枡をすべて取り上げるよう厳命した 23 。これは、もはや旧基準との併存を許さず、新基準への完全な移行を徹底させるという断固たる意志の表れであった。同様の指令が、全国の豊臣政権直轄地や従順な大名の領国に対しても発せられたと推測される。
この全国的な普及と品質維持を支えたのが、「枡座」と呼ばれる組織の存在である。特に京都では、福井作左衛門といった職人が枡座を管掌し、公定枡を独占的に製造・販売する特権を与えられていた 2 。豊臣政権は、この枡座を通じて、全国に流通する枡の品質と規格を管理し、政策の実効性を担保するためのサプライチェーンを構築していたのである。こうして、秀吉の死までの数年間で、京枡は日本全国を覆う統一的な計量基準としての地位を確立していった。
第五章:枡が変えた社会―構造変革の光と影
京枡の統一と、それに伴う石高制の確立は、単なる技術的な制度改革に留まらなかった。それは、中世以来続いてきた日本の社会構造を根底から変革し、近世という新たな時代の枠組みを創り出す、極めて強力な社会工学(ソーシャル・エンジニアリング)のツールであった。この変革は、社会の各階層に「光」と「影」を同時にもたらした。
武士階級(大名・家臣)への影響
大名にとって、石高制の導入は自らの支配体制を大きく変えるものであった。領地の価値が「石高」という客観的な数値で序列化され、それに応じて豊臣政権から軍役(動員すべき兵士や馬の数)が賦課されるようになった 25 。これにより、各大名は天下人の巨大な軍事システムの中に明確に位置づけられ、中央政権の統制力は飛躍的に強化された。また、大名は自らの家臣に与える知行(給与)も石高を基準として配分するようになり、主君の恩賞(御恩)と家臣の奉公の関係が数量的に規定される、近世的な主従関係が確立された 28 。
農民階級への影響
農民にとって、この変革は二つの側面を持っていた。
光(安定化と権利の承認): 太閤検地によって作成された検地帳に、土地の直接の耕作者として名前が登録される「一地一作人」の原則が確立された 5 。これにより、農民は土地に対する耕作権を国家から法的に認められることになり、その地位は以前より安定した 28 。また、それまで土地に複雑な権利を持ち、農民から小作料などを徴収していた荘園領主(公家や寺社など)の中間搾取が排除された 5 。年貢の納入先が領主に一本化されたことで、税制の透明性は増し、代官による理不尽な搾取の機会は減少したのである 3 。
影(束縛と重税): 一方で、土地と農民が直接結びつけられた結果、農民は検地帳に登録された土地を離れる自由を事実上失い、身分的に固定化されることになった 5 。自らも農民出身であった秀吉は、自分のような存在が再び現れることを望まず、農民を土地に縛り付けることで社会の安定を図ったとも言える。さらに、年貢率は「二公一民」(収穫の3分の2を領主が徴収)あるいはそれに近い高率に設定されることが多く、農民の負担は決して軽いものではなかった 13 。石高はあくまで潜在的な生産力に基づくため、凶作の年でも定められた年貢を納める義務を負わされ、その生活は常に厳しいものであった。
商人階級への影響
商人階級にとって、京枡の統一は大きな恩恵をもたらした。全国で計量単位が統一されたことで、取引の安全性と効率性が格段に向上した 31 。これにより、領国を越えた遠隔地商業はますます活発化し、後の時代における全国市場の形成を促す重要な経済的基盤が築かれたのである 3 。秀吉の政策は、日本のどこでも同じようにビジネスができる仕組みを構築するものであり、経済の一元的な管理を目指すものであった 32 。
このように、京枡の統一は、中世的な多元的で複雑な権利関係が重なり合う社会(荘園制)を解体し、石高という単一の序列に基づいた、一元的で秩序ある社会(近世封建社会)を構築するための決定的な一歩であった。それは、社会全体の安定と効率性を最大化するという、非情なまでの合理性に基づいた革命であり、その後の日本の形を決定づけるものであった。
終章:近世への礎―秀吉の遺産と徳川の継承
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉はその波乱の生涯を閉じた。しかし、彼が断行した度量衡の統一と石高制という巨大な社会システムは、彼の死後も生き続けた。秀吉亡き後の覇権を握った徳川家康は、秀吉の政策の有効性を深く理解しており、それをほぼそのまま継承し、自らの統治体制の基盤として活用した 33 。
家康とその後継者たちは、秀吉が始めた改革をさらに盤石なものへと発展させた。江戸幕府は、秀吉時代の京枡を基礎としつつ、より精密に規格化された「新京枡」を新たに制定した 2 。この新京枡は、前述の通り、縦横が4寸9分、深さが2寸7分、容積が64,827立方分であり、現在の1升(約1.804リットル)の原型となったものである 2 。寛文9年(1669年)、幕府はこの新京枡を全国唯一の公定枡と定め、それ以外の枡の使用を厳しく禁じた 21 。
さらに幕府は、枡の製造・販売を厳格な管理下に置いた。京都の枡座に加え、江戸にも幕府直轄の枡座を設け、樽屋藤左衛門といった特定の商人にその運営を任せた 2 。これらの枡座が製造した枡には、品質を保証する焼印が押され、焼印のない私製枡の使用は厳しく罰せられた 37 。このような徹底した管理体制によって、度量衡の統一は、260年以上にわたる江戸時代の安定した社会経済システムを支える揺るぎない基盤として定着したのである。
結論として、「京枡流通徹底」は、1592年という一点の事象として捉えるべきではない。それは、織田信長がその方向性を示し、豊臣秀吉が全国規模で断行し、そして徳川家康が完成させた、戦国の世を終わらせ近世日本の社会構造を決定づけた、一連の長期的かつ巨大な国家プロジェクトであった。一つの小さな木製の器が、土地の価値を再定義し、人々の身分を固定し、国家の統治システムを刷新した。この事業がなければ、その後の日本の安定と経済発展は、大きく異なる様相を呈していたに違いない。京枡の統一は、まさに近世日本の黎明を告げる号砲だったのである。
引用文献
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