京都学問所再興(1604)
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京都学問所再興(1604年):戦国から泰平へ、知の夜明け
序章:慶長九年、京都の夜明け前
慶長九年(1604年)、京都。天下分け目の関ヶ原の合戦から、はや四年が過ぎていた。徳川家康による新たな治世が実質的に始まり、百年以上も続いた戦乱の時代は、ようやく終わりを告げようとしていた。しかし、人々の記憶には、血と炎の匂いがまだ生々しくこびりついている。都大路には復興の槌音が響く一方で、その喧騒の底には、長い動乱がもたらした深い疲弊と、未来への漠然とした不安が静かに澱んでいた。
この時代の空気は、単なる政治的安定への渇望だけではなかった。それは、より根源的な、精神的な支柱を求める時代の叫びでもあった。力のみが正義とされた下剋上の世は終わった。では、これから始まる新しい時代、泰平の世は何を以て治められるべきなのか。武士階級は、戦場での武勇に代わる新たな存在意義を模索し始めていた。彼らはもはや単なる戦闘者ではなく、民を治める統治者としての能力と、その支配を正当化する理論的権威を必要としていた 1 。一方、戦乱を生き抜き、たくましい経済力を蓄えた町衆たちは、商業活動の安定を願い、その富を文化や教養へと投資する意欲を高めていた 3 。
奇しくも、武士が求める「統治の論理」と、町衆が希求する「安定した社会秩序」。この異なる階層の異なる動機が、「学問による秩序の形成」という一点で交差する。慶長九年の京都は、まさにそのような新しい時代の価値観が産声を上げようとする、夜明け前の静かな緊張感に満ちていたのである。「京都学問所再興」とは、この時代の要請に応えるべく、様々な人々の思惑が交錯し、結実した歴史的な事象であった。
第一部:灰燼の都 ― 知の断絶と再生の萌芽
第一章:応仁の乱が遺したもの ― 知的インフラの壊滅
慶長九年の出来事を理解するためには、時計の針を百三十年以上も巻き戻し、応仁・文明の乱(1467-1477年)の惨禍から語り始めなければならない。室町幕府の権威が失墜し、細川勝元の東軍と山名宗全の西軍が京の都を主戦場として睨み合ったこの大乱は、実に十一年の長きにわたって続いた 4 。京都に集結した兵力は、誇張を含むとはいえ、東軍十六万、西軍十一万とも言われ、市街地は文字通り焦土と化した 6 。
この戦火がもたらしたものは、単なる物理的な破壊に留まらなかった。それは、日本の「知的インフラの壊滅」というべき、文化的な大災害であった。相国寺をはじめとする五山禅刹、公家の邸宅、由緒ある寺社が次々と炎に包まれ、そこに長年蓄積されてきた膨大な典籍や学術の伝統が、灰燼に帰したのである 4 。中世日本の学問と文化の頂点であった五山文学は、その活動拠点を失い、急速に衰退へと向かう 8 。これにより、京都は文化の中心地としての機能を長期間にわたって麻痺させられ、深刻な「知の空白」が生じた。
しかし、歴史の力学は逆説的である。この徹底的な破壊は、結果として、日本の知のパラダイムシフトを促す決定的な契機となった。禅宗思想を基盤とし、ある種、貴族的で閉鎖的な性格を持っていた五山文学という旧来の権威が後退したことで、生まれた知の空白地帯。その焼け跡の土壌は、やがて来るべき新しい時代が求める、より実践的で、統治の論理に直結する儒学、特に朱子学が根を下ろし、力強く芽吹くための格好の舞台となったのである。物理的な破壊が既存の権威を無力化し、新しい思想が台頭する余地を生み出した。まさに、破壊が創造の母となった瞬間であった。
第二章:焼け跡から立ち上がる人々 ― 町衆という新たな担い手
公家や武家、大寺社といった伝統的な権威が応仁の乱によって力を失墜させる中、京都の焼け跡から新たな主役が立ち上がった。それは、自らの町を自らの手で守り、復興させるために強く結束した「町衆(まちしゅう)」であった 4 。彼らは自治組織を形成し、その卓越した経済力と組織力を背景に、荒廃した都市の再建を担っていく。戦乱で中断していた祇園祭を見事に復活させたことは、彼らのエネルギーを象徴する出来事であった 3 。
これまでの学問や文化は、主に公家、武家、そして大寺社といった特権階級がパトロン(支援者)となって支えるものであった。しかし、彼らが没落したことで、文化の担い手に構造的な変化が生じる。経済力を手にした町衆が、新たなパトロン層として歴史の表舞台に登場したのである。このパトロンの交代は、文化そのものの質を大きく変えた。すなわち、それまでの貴族的、宗教的な色彩の濃い文化から、より現実的で実利を重んじ、市民的な性格を帯びた文化への転換が促されたのだ。
この時代に既に、町衆たちの間には自律的な精神と、実生活に根差した教育への高い関心が育まれていた。後に彼らが資金を出し合い、日本初とも言われる学区制小学校「番組小学校」を創設するに至る精神の萌芽は、この戦国の世の混乱の中から生まれていたのである 9 。学問はもはや、特権階級の慰み事ではない。町を治め、商売を繁盛させ、子弟を教育するための、生きた知恵そのものであった。この町衆のエネルギーこそが、徳川の世の学問復興を、民間の側から支える巨大な底流となっていく。
第二部:天下人の構想 ― 文治による国家建設
第一章:徳川家康の深謀 ― なぜ学問は必要だったのか
天下統一を成し遂げた徳川家康の視線は、既に次なる時代を見据えていた。彼が目指したのは、単なる武力による支配体制の構築ではない。戦国乱世の再来を永遠に防ぎ、二百数十年続く泰平の世の礎を築くためには、人々の心を従わせる強固な思想的バックボーンが不可欠であると、家康は深く洞察していた。ここに、日本の統治史上、画期的な転換が起こる。すなわち、武力に頼る「武断政治」から、学問や教化によって人心を治める「文治政治」への移行である 1 。
家康にとって、その思想的武器として最も魅力的だったのが、朱子学であった。朱子学が説く、君臣、父子、夫婦といった社会の上下関係を、天地自然の秩序の現れとして絶対視する「上下定分の理」は、徳川幕府が構築しようとする士農工商の身分制度を正当化するための、この上なく好都合な理論であった 10 。下剋上が是とされた戦国の価値観を根底から覆し、「身分は固定的であり、それに従うことこそが自然の摂理である」という価値観を社会の隅々にまで浸透させることができれば、徳川の支配は盤石となる。
したがって、家康の学問奨励は、単なる平和への願いや文化的な趣味に根差すものではなかった。それは、自らの支配体制をイデオロギー的に武装し、人々の内面にまで及ぶ統制システムを構築しようとする、極めて高度な統治技術だったのである。武力による支配は常に抵抗を生むが、思想による支配は、人々が自発的に秩序に従う状況を生み出す。これこそ、武力よりも遥かに効率的で、持続可能な支配の方法であった。家康が学問、特に朱子学に投じた情熱は、徳川の天下を盤石にするための、計算され尽くした政治的投資に他ならなかった。
第二章:京都における布石 ― 伏見版と学問料政策
家康の壮大な文治国家構想は、慶長九年を迎える以前から、京都とその周辺地域で周到な布石として具体化されていた。彼の政策は、既存の権威の活用と、新しい技術の導入を巧みに組み合わせたものであった。
まず家康は、坂東の地にあって中世以来の学問の伝統を誇る足利学校を保護し、その庠主(校長)であった高僧、閑室元佶(かんしつげんきつ)を京都伏見に招聘した 11 。そして慶長六年(1601年)、元佶を開山として圓光寺を建立させる 13 。ここを拠点として、家康は画期的な文化事業に着手する。それが、木活字を用いた出版事業、世に言う「伏見版」の刊行であった。家康は自ら下賜した木活字を用いて、『孔子家語』や『貞観政要』といった儒学の基本文献を次々と出版させたのである 14 。これは、それまで一部のエリート層が写本によって独占していた知識を、より広範な武士階級に効率的に普及させるための、国家的なプロジェクトであった。知識の生産と流通のコストを劇的に下げ、標準化されたテキストを大量に供給する。この「知識のマスプロダクション」は、来るべき文治政治の担い手たちに、共通のイデオロギーを植え付けるための強力な手段となった。
同時に家康は、京都の有力寺社に対し、「学問料」という名目で寺領を安堵、あるいは寄進する政策を積極的に進めた 16 。これは単なる寺社の保護政策ではない。寺領を与える見返りとして、寺僧たちに学問に励むことを義務付け、学僧を養成させることを目的としていた 18 。これらの政策は全て、京都を知の再生拠点と位置づけ、新しい時代を担う人材を育成するための、深慮遠謀に満ちた準備工作だったのである。
第三部:邂逅 ― 慶長九年の京都で交錯する運命
そして、運命の慶長九年(1604年)が訪れる。家康によって周到に準備された舞台の上で、時代の要請に応えるかのように、様々な才能が出会い、交錯し、一つの大きな奔流を生み出していく。この年の京都で起きたことは、まさに歴史の化学反応であった。
第一章:師、藤原惺窩 ― 新時代の知の探求者
この化学反応の中心にいたのが、近世儒学の祖と称される藤原惺窩(ふじわらせいか)であった。彼はもともと相国寺の禅僧であったが、仏教の教えに飽き足らず、儒学の世界に深く傾倒していく 19 。文禄・慶長の役の際、日本に連れてこられた朝鮮の儒学者・姜沆(カンハン)と運命的に出会い、彼との交流を通じて本格的な朱子学の知識を吸収した 20 。
その学識は天下に鳴り響き、徳川家康からも再三にわたって仕官の誘いを受けたが、惺窩はこれを固辞し、生涯在野の学者としての孤高の立場を貫いた 21 。彼は権力に仕えることを潔しとせず、京都に私塾を開いて、新しい時代の知を求める若者たちを身分を問わず迎え入れた。その門下からは、後に幕府の儒官となる林羅山、豪商にして文化人の角倉素庵、紀州徳川家に仕えた浅野幸長など、多彩な人材が輩出された 21 。惺窩の塾は、まさしく慶長年間の京都における知の梁山泊であり、新しい思想が生まれる震源地となっていた。
惺窩が仕官を断り続けたことは、結果的に彼の学問に絶対的な中立性と権威を与えた。もし彼が幕府の役人であれば、その学問は単なる「御用学問」と見なされたであろう。しかし、時の権力者さえもが頭を垂れる在野の大学者であったからこそ、彼の言葉は絶大な説得力を持ち、その思想はより広範な人々に受け入れられた。彼が「非公式」な立場に留まったことこそが、皮肉にも、彼の政治的・思想的影響力を最大化する要因となったのである。
第二章:パトロン、角倉素庵 ― 町衆の力を体現する文化人
惺窩が主宰する知のネットワークを、経済的な側面から、そして人的な交流の側面から力強く支えたのが、京都の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)の長男、角倉素庵(そあん)であった。彼は、朱印船貿易や河川開発といった父の巨大な事業を継承する辣腕の実業家であると同時に、自らも藤原惺窩に師事する当代一流の文化人でもあった 22 。
素庵の文化活動の中でも特筆すべきは、当代きっての芸術家であった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)と協力して出版した、美麗な活字本「嵯峨本」である 22 。これは、彼の豊かな財力と高い美意識が結実したものであり、近世初期の出版文化を代表する金字塔となった。
しかし、彼の歴史的な功績はそれだけではない。彼は、師である藤原惺窩と、後にその学問を継承し幕府の教学の礎を築くことになる若き俊英、林羅山とを引き合わせるという、極めて重要な仲介役を果たしたのである 22 。素庵の存在は、「京都学問所再興」が単なる武家主導のトップダウン政策ではなく、「武家(幕府)の構想」と「町衆(民間)のエネルギー」が見事に融合した、公民連携プロジェクトであったことを何よりも雄弁に物語っている。彼は、知的欲求(惺窩)、政治的需要(家康)、そして経済的基盤(角倉家)という、学問復興に不可欠な三つの要素を結びつける、まさに結節点(ハブ)の役割を果たした。単なる資金提供者ではなく、この知のネットワークを能動的に形成したプロデューサーであったと言えよう。
第三章:俊英、林羅山の登場 ― 慶長九年の運命的邂逅
慶長九年、この物語のもう一人の主役、林羅山(はやしらざん)は二十二歳の若者であった。京都に生まれ、相国寺の禅僧であった惺窩と同じく、五山の一つである建仁寺で学んだが、早熟な知性は仏教の教えに満足することなく、独学で朱子学の研究に没頭していた 10 。
その才能を惜しんだ角倉素庵の仲介により、この年、羅山はついに当代随一の儒学者、藤原惺窩と対面する機会を得る 26 。この出会いは劇的であった。惺窩は、羅山の若さに似合わぬ深い学識と鋭い知性に驚嘆し、一目でその非凡さを見抜いたと伝えられる。惺窩は、傑出した才能が門下に加わったことを喜び、自らの儒服を羅山に与えて、後継者として遇したという 27 。
この慶長九年の邂逅こそ、日本の近世思想史を決定づける瞬間であった。それは、思想が制度へと転化する、まさに触媒反応の始まりを意味していた。惺窩の学問は、あくまで個人的で求道的な性格が強かった。しかし、羅山という若く、野心的で、物事を体系化する能力に優れた弟子を得たことで、惺窩の思想は初めて、国家を動かす「公的なイデオロギー」へと昇華される可能性を手に入れたのである。惺窩が持つ学問的「権威」と、羅山の持つ「実行力」。この二つが結びついたことで、書斎の学問は、やがて来る徳川二百数十年の泰平を支える巨大な思想的建造物へと発展する道を歩み始める。この出会いがなければ、日本の近世は全く異なる姿になっていたかもしれない。
第四章:統治者、板倉勝重の眼差し ― 秩序の守護者
こうした学者や文化人たちの活発な知的交流を、為政者の冷徹な眼差しで見つめていた人物がいる。当時の京都所司代、板倉勝重(いたくらかつしげ)である。京都所司代は、徳川家康の意を受け、京都の治安維持、朝廷や西国大名の動静監視、そして寺社政策などを一手に担う、幕府の最重要ポストの一つであった 28 。
勝重は、家康が推し進める学問奨励という国家方針を、京都の現場で具体的に実行する役割を担っていた 18 。彼は、藤原惺窩の塾をはじめとする民間の文化活動が、反体制的な動きに繋がらぬよう厳しく監督しつつも、それが幕府の国策に沿うものである限り、その発展を許容し、時には支援したであろう。徳川政権にとって、京都は依然として朝廷や豊臣恩顧の大名など、旧勢力が蠢く不安定な地域であった。人々が集い、新しい思想を議論する「塾」のような場所は、一歩間違えれば反体制の温床となりかねない。
勝重の役割は、単なる監督者ではなく、この新しい知のうねりを、幕府の統治にプラスになる方向へと巧みに誘導し、既存の権力構造の中に安全に「着地」させるための、優れた調整役であった。彼の存在によって、惺窩や素庵たちの活動は、幕府にとって「有益な文化振興」として公認され、潜在的な危険因子ではなく、体制安定に寄与する要素として位置づけられたのである。彼は、この知的ムーブメントの政治的なリスクマネージャーとして、不可欠な存在であった。
【慶長九年前後における京都学問復興の主要人物とその役割】
人物名 |
肩書・立場 |
1604年の学問復興における役割 |
動機・目的 |
徳川家康 |
征夷大将軍 |
グランドデザイナー :文治政治への転換を掲げ、学問奨励の国家方針を策定。 |
徳川幕府の長期的・安定的支配体制の確立。 |
藤原惺窩 |
在野の儒学者 |
知的指導者 :京都の私塾で新時代の学問を教授し、知のネットワークの中心となる。 |
純粋な学問的探求と、乱世を乗り越えるための新たな倫理の提示。 |
林羅山 |
儒学者(惺窩門下) |
イデオロギーの実行者 :惺窩の学問を継承し、後に幕府の教学として体系化する。 |
学問を以て身を立て、国家の秩序形成に貢献すること。 |
角倉素庵 |
京都の豪商・文化人 |
ネットワークの結節点/パトロン :惺窩を経済的に支援し、羅山を惺窩に紹介。 |
文化・学問への貢献と、町衆の社会的地位の向上。 |
板倉勝重 |
京都所司代 |
環境の整備者 :京都の治安を維持し、幕府の政策を現場で実行。知的活動を監督・保護。 |
幕府の命令遂行と京都の安定統治。 |
第四部:歴史の奔流へ ― 京都から始まったもの
第一章:「学問所再興」の真実 ― 建物ではなく、ネットワークの完成
これまでの議論を総括すると、「京都学問所再興」という言葉が指し示すものの真の姿が浮かび上がってくる。慶長九年(1604年)の出来事は、特定の学校(学問所)という物理的な「建物」が再興されたという記録ではない。むしろそれは、応仁の乱で一度は灰燼に帰した、京都における知の生産と継承のシステムが、新たな形で再構築されたことを象徴する出来事であった。
すなわち、徳川家康という国家レベルの 構想者 、藤原惺窩という 知的源泉 、林羅山という卓越した 実行者 、角倉素庵という経済と人脈の 支援者 、そして板倉勝重という秩序を保証する 統治者 。これら異なる階層、異なる動機を持つ人々が、京都という歴史的な舞台の上で、一つの目的に向かって連携する「人的ネットワーク」が完成した、記念碑的な年。それが慶長九年なのである。これこそが、近世日本の知的基盤となる「見えざる学問所」の再興であった。
この出来事は、日本の歴史における「知」のあり方が、大きな転換点を迎えたことを示唆している。すなわち、中世的な「場」(特定の寺社や学校といった物理的な拠点)に束縛された知のあり方から、近世的な「人」(学者やパトロンの有機的なネットワーク)に依存する、より柔軟で強靭な知の形態への移行である。戦乱の世は、物理的な建造物がいかに脆いかを人々に教えた。その苦い経験の中から、たとえ拠点が破壊されても、人の繋がりさえあれば知は再生産され、発展するという新しいモデルが、ここに確立されたのである。
第二章:江戸への継承と全国への拡散
京都で産声を上げたこの知の奔流は、やがて政治の中心地である江戸へと受け継がれ、そこから全国へと拡散していく。慶長十年(1605年)、藤原惺窩の強い推挙を受けた林羅山は、京都二条城で徳川家康に謁見し、その才能を認められて幕府に仕えることになった 10 。
羅山は江戸に移り住み、上野忍岡の私邸に塾を開いて多くの門弟を育成した 10 。この羅山の私塾こそが、後に幕府の最高学府である「昌平坂学問所(昌平黌)」の源流となる 26 。昌平坂学問所は、幕府の公式な教学機関として、朱子学を正学と定め、全国の武士教育の中核を担った。そして、ここで学んだ多くの学者たちが、故郷の藩に戻って藩校の設立や運営に携わることで、京都で生まれた学問復興の波は、江戸という巨大なポンプを経由して、日本全国の隅々にまで広がっていったのである 30 。
この歴史の展開において、京都と江戸はそれぞれ異なる、しかし重要な役割を果たしたと言える。京都は、多様な才能が出会い、新しい思想が生まれる「知のインキュベーター(孵卵器)」であった。一方、江戸は、そこで生まれた思想を「国家システム」として制度化し、全国に展開する「ディストリビューター(配給者)」としての役割を担った。文化的な自発性から生まれた京都の動きが、江戸という政治の中心で権威付けされ、トップダウンで全国に普及していく。この京都から江戸への中心地の移動は、文化や学問がより中央集権的で政治的な性格を帯びていく、江戸時代という時代の特徴そのものを象徴している。
終章:剣から筆へ ― 時代の転換点としての一六〇四年
「京都学問所再興」は、単なる教育史、思想史上の出来事に留まらない。それは、日本社会の根幹をなす価値観が、不可逆的に転換したことを告げる、歴史の分水嶺であった。すなわち、剣の力が全てを決定した「武」の時代から、筆、すなわち学問と教養が統治の根幹をなす「文」の時代への、大いなる転換である。
戦国乱世は、力による秩序がいかに脆く、破壊的であるかを人々に痛感させた。その反省の中から、恒久的な平和を築くためには、人々の心を内面から治める、より高度な統治の原理が必要であるという認識が生まれた。慶長九年、京都で交わされた学者たちの議論、商人たちの支援、そして為政者たちの深謀遠慮は、まさにその新しい時代の要請に応えるものであった。
あの日、京都で起きたことは、決して華々しい事件ではなかったかもしれない。しかし、藤原惺窩、林羅山、角倉素庵らが織りなした静かな邂逅は、剣に代わって筆が国を治める時代の到来を告げる、静かだが決定的な一撃であった。それは、戦国の夕闇を払い、二百数十年にわたる泰平の世の扉を開いた、日本の知性の夜明けだったのである。
引用文献
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- 高い教育水準と思いやりの文化を育んだ『江戸庶民のくらし』に学ぶ「和の国民観」~「江戸時代」はどのような時代だったのか?~ー『和の国のかたち』39ー|高杉 麟太朗 - note https://note.com/w1273jp211/n/n2b8ea0e85564
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- 応仁の乱は戦国時代の発端!?応仁の乱の原因と乱による影響とは… - キミノスクール https://kimino-school.com/study/post-2138/
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- 林羅山(道春) - 大学事始 https://www.daigakukotohajime.com/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1
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- 昌平坂学問所 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80
- - 52 - 2.2 教育の歴史とその背景 2.2.1 総論 近世日本には様々な種類の学校が林立した。幕 - 水戸市 https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/1201.pdf