京都御馬揃え(1581)
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天正九年京都御馬揃え ― 天下人信長、泰平を演出し、新秩序を宣言した一日 ―
序章:天正九年の天下情勢と御馬揃えの胎動
天正九年(1581年)、織田信長の権勢はまさに頂点に達しようとしていた。前年の天正八年(1580年)八月、十年にも及んだ石山合戦が、本願寺勢力の退去という形でついに終結した 1 。これにより、信長の畿内における支配体制は盤石のものとなり、長きにわたる戦乱に疲弊した京都とその周辺地域には、束の間の、しかし確かな平穏が訪れていた。織田政権は、単なる軍事力による制圧の段階を終え、安定した統治機構へと移行しつつあったのである。
しかし、天下統一への道はまだ半ばであった。東には甲斐の武田勝頼、北には越後の上杉景勝、そして西には中国地方一帯に覇を唱える毛利輝元という三大勢力が依然として健在であり、織田家の方面軍は各地で熾烈な戦いを続けていた。このような状況下で、信長が京都という日本の中心地で挙行した空前絶後の大軍事パレード「京都御馬揃え」は、単なる戦勝記念の祝祭ではなかった。それは、いまだ抵抗を続ける敵対勢力に対し、織田政権の圧倒的な軍事力と、畿内を完全に掌握したという政治的安定性を可視化して見せつける、一大示威行動であった 2 。この壮大な催しは、「天下布武」がもたらした「泰平」を具体的に演出し、織田による支配の正統性を天下内外に宣言するための、計算され尽くした政治的パフォーマンスだったのである。
この壮大な政治劇のもう一人の重要な登場人物が、第106代正親町天皇であった。戦国の動乱の中で朝廷の権威は失墜し、財政は極度に逼迫していた。即位の礼の費用すらままならず、毛利元就らの献金に頼らざるを得なかったほどである 3 。信長が足利義昭を奉じて上洛して以降、彼は朝廷にとって最大の経済的支援者となった 4 。御所の修理や儀式の復興など、信長の援助なくしては朝廷の権威回復はあり得なかった。一方の信長もまた、天皇が持つ伝統的な権威を巧みに利用した。敵対勢力との和睦に際して勅命を仰ぐなど、自らの天下統一事業を正当化するための後ろ盾として、朝廷の存在は不可欠であった 3 。両者は、互いの利害が一致した、持ちつ持たれつの共存共栄関係にあったと言える。
しかし、その関係は常に穏やかなものではなかった。信長が正親町天皇に譲位を迫ったとする説 5 や、天皇家の宝物である名香「蘭奢待」を勅許を得て切り取った一件 3 など、信長の行動は時に朝廷の権威を脅かすものであり、両者の間には常に緊張が走っていた。この京都御馬揃えの開催経緯についても、信長が朝廷を威圧するために一方的に強要したという見方 2 と、安土城で行われた馬揃えの評判を聞いた天皇側が京都での開催を望んだという見方 3 が存在する。これらは必ずしも矛盾するものではない。天皇は信長の強大な力を利用して朝廷の威光を世に示し、信長は天皇の伝統的権威を借りて自らの権力を誇示する。双方の思惑が一致した結果として、この一大イベントは実現したと考えるのが最も妥当であろう。
すなわち、京都御馬揃えは、単なる「軍事パレード」という言葉だけでは捉えきれない、多層的な意味を持つ儀式であった。参加者には織田軍団の武将たちだけでなく、近衛前久をはじめとする公家衆も名を連ねていた 2 。そして、その舞台は天皇の膝元である内裏の東であり、天皇自身が観覧した 2 。これは、信長が誇示する強大な武力(武)が、天皇の伝統的権威(文)と公的に結びついたことを天下に示す演出に他ならなかった。信長は、武力と権威を統合した新たな時代の統治者像を、この壮麗なパレードを通じて高らかに宣言しようとしていたのである。それは、旧来の秩序が終わり、信長による新しい秩序が始まることを告げる、視覚的な「公布式」であった。
第一章:喧騒の序曲 ― 京を揺るがす準備の日々
天正九年二月二十八日の壮麗な一日が訪れるまで、京都では約一ヶ月にわたり、喧騒と興奮に満ちた準備が進められていた。その様子は、当時の公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』に生々しく記録されており、華やかな舞台裏で繰り広げられた人々の動きを今に伝えている。
天正九年一月二十五日:公家社会への衝撃
事の起こりは、一月二十五日の夜であった。神官であり公家でもある吉田兼見のもとに、明智光秀からの書状が届く。「今度信長御上洛ありて御馬汰(馬揃え)なり。御分国ことごとく罷り上るべきの由、仰せ出され候。公家衆も必ず参向すべし」― 信長が上洛し、馬揃えを催すこと、そして配下の武将だけでなく公家衆にも参加が命じられたことが記されていた 2 。この通達が、信長本人からではなく、信長と朝廷との連絡役を担っていた光秀からもたらされた点に、当時の政治的力学が窺える。
武家の壮大な催しへの参加命令は、公家社会に静かな衝撃を与えた。兼見は翌二十六日、すぐさま光秀の居城である近江坂本城へと赴き、参加の免除を願い出ている 2 。この迅速な行動からは、武家の流儀に不慣れな公家たちが感じていた戸惑いや、準備にかかるであろう経済的・精神的負担の大きさが読み取れる。光秀は兼見に対し、この事前通達は信長の正式な命令ではなく、旧知の仲である兼見に配慮した自身の一存であることを明かしつつも、信長の機嫌を損ねることのないよう、慎重な対応を促した 2 。絶対的な権力者である信長と、旧来の権威である朝廷との間で、光秀がいかに腐心していたかが垣間見える逸話である。
二月中旬:京の変貌と準備の本格化
二月に入ると、京都の様相は一変する。開催日の十日ほど前から、丹羽長秀や柴田勝家をはじめ、織田軍団を構成する諸国の武将たちが、華美な装束に身を包んだ家臣団を引き連れて続々と上洛した。京の街は、馬のいななきと武具の触れ合う音、そして諸国の方言で満ち溢れ、大変な混雑に見舞われたという 2 。宿所や食料の確保、治安維持など、大軍勢の集結は京の町衆にとっても一大事件であった。
準備は着々と、そして壮大な規模で進められた。二月二十一日には、内裏の東側に、北は一条から南は三条(一説には近衛大路から三条坊門まで)に至る南北八町(約873メートル)もの長大な馬場が設営された 9 。さらに、宮中の東門の外には、天皇や公卿たちが観覧するための仮桟敷が建てられた。それは「仮」とは名ばかりの、金銀を散りばめた豪勢なものであったと『信長公記』は伝えている 9 。これほど大規模な土木工事を短期間で成し遂げる実行力は、織田政権の圧倒的な動員力と財力を天下に示すに十分であった。
この準備過程は、単に物理的な設営に留まらなかった。それは、織田政権が持つ高度な統治能力、いわば「総合プロデュース能力」の誇示でもあった。大規模な兵員の動員と宿営の管理、迅速なインフラ整備、そして武家と公家という異なる文化を持つ集団間の複雑な調整。これらすべてを滞りなく進める様は、織田政権が単に戦闘に強いだけの組織ではなく、広域にわたる兵站、土木技術、渉外能力、そして財政力を兼ね備えた、高度な統治機構であることを物語っていた。京都所司代である村井貞勝の指揮のもと、準備が着々と進む様は、それ自体が敵対勢力に対する静かなる示威行動となっていたのである 11 。
本番直前:各人の思惑と最終準備
開催日が近づくにつれ、参加者たちの動きも慌ただしくなる。二月二十三日には、明智光秀や細川藤孝、松井友閑らが馬場で実際に馬を乗りこなし、リハーサルとも言える騎乗練習を行っている 11 。これは、御馬揃えが単なる行進ではなく、参加者一人ひとりの馬術の技量や威容を披露する晴れ舞台であったことを示している。
公家側もまた、この歴史的イベントに真剣に取り組んでいた。関白・近衛前久は、一ヶ月も前から乗馬の訓練に励み、さらに本番二週間前には、より優れた馬を求めて奔走した。しかし、手配された馬が気に入らず、わざわざ坂本から取り寄せたにもかかわらず送り返すという逸話も残っている 2 。このことから、公家たちもこの催しを自らの名誉をかけた重要な舞台と捉え、威信をかけて準備に臨んでいたことがわかる。
武将たちの中には、この機会に公家の文化を取り入れようとする者もいた。二月十一日、小笠原秀清が吉田兼見に対し、馬揃えで着用する烏帽子と腰帯の借用を申し入れている 11 。武家が公家の装束を借りるというこの出来事は、信長が目指す武家と公家の融合という新しい秩序の姿を象徴する、興味深い一コマであった。
そして二月二十七日、当初は参加をためらっていた吉田兼見も、観覧のために万里小路邸に宿を取り、歴史が動く翌日に備えた 11 。京都中が、固唾を飲んで天下人信長の登場を待ちわびていた。
第二章:天正九年二月二十八日 ― 歴史が動いた一日
夜が明け、天正九年二月二十八日(西暦1581年4月1日)、ついに運命の日が訪れた。この日の出来事は、信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』に、他の記述とは比較にならないほど克明かつ詳細に記録されている 1 。それは、牛一自身がこの一日に、新しい時代の到来を告げる特別な意味を見出していたことの証左であろう。
午前八時頃(辰の刻):天下人の登場
午前八時頃、信長は宿所としていた下京の本能寺を出立した。行列は室町通りを北上し、一条通りを東へ折れ、内裏東に設けられた巨大な馬場へと向かった 9 。京の主要な大路を練り歩くこのルートは、その道程自体が、都の新たな支配者の威光を万民に見せつけるための演出であった。
人々の度肝を抜いたのは、何よりも信長自身の出で立ちであった。それは、日本の伝統的な武将の装束とは全く異なり、見る者に強烈な印象を与える、奇抜かつ豪華絢爛なものであった。
- 頭部と顔: 頭には能楽の『高砂』の翁を思わせる「唐冠」を頂き、その後ろには花が立てられていた。眉はくっきりと描かれ、頬には、中央に人形が見事に織り出された、インドか中国伝来と見られる「金紗の頬当て」を着用していた 9 。これは、信長が単なる日本の武将ではなく、神仙や異国の皇帝のごとき、国境や伝統を超越した存在であることを視覚的に訴えかける意匠であった。
- 衣服: 内には紅梅色と白の大きな段縞模様の小袖、その上には、細川忠興が都で探し求め献上したという、舶来の最高級織物「蜀江の錦」の小袖を重ねていた。袖口は金糸で縁取られ、その上に桐と唐草の紋様が施された紅色の肩衣と袴をまとっていた 9 。舶来の珍品と織田家の権威を象徴する桐紋を組み合わせることで、圧倒的な富と武家の権威を同時に示していた。
- 武具・馬具: 腰に差した太刀と鞘巻き(短刀)は金の延板で飾られ、乗馬用の腰蓑には、当時極めて珍重された白熊(ホッキョクグマ)の皮が用いられていた。履物である靴は猩々の皮で、その縁は唐錦で彩られていた 9 。これらはもはや実用的な武具ではなく、権威の象徴として昇華された美術工芸品であった。
この異様なまでの装束は、見る者に「住吉明神のご来現のよう」だと感じさせたと『信長公記』は記す 9 。これは、信長が意図的に自らを現人神として演出し、人々を畏怖させ、心服させようとしていたことの何よりの証拠である。この時代、イエズス会巡察師ヴァリニャーノが信長に謁見し、アフリカ出身の従者(後の弥助)を献上したのも、この御馬揃えの直前のことであった 13 。信長がこの弥助を伴っていたとすれば、その黒い肌は、信長の国際的な視野と、日本の枠に収まらない「天下」の広がりを象徴する、さらなる演出装置となったであろう。信長のパフォーマンスは、国内の敵対勢力だけでなく、来日した南蛮人という国外のオーディエンスをも意識した、グローバルなものであった可能性が高い。
行列の開始と展開:織田軍団の序列と威容
信長が馬場に到着すると、壮大な軍事パレードが開始された。その行列の順序と構成は、天正九年時点での織田政権の組織図そのものであり、その序列には明確な政治的意図が込められていた。
順番 |
指揮官 |
主な構成部隊 |
備考 |
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一番 |
丹羽長秀(惟住五郎左衛門尉) |
摂州衆、若州衆、西岡衆 |
織田家宿老筆頭。畿内近国の軍団を統括。 |
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二番 |
蜂屋頼隆(兵庫頭) |
河内衆、和泉衆、根来衆の一部 |
畿内南部の軍団。 |
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三番 |
明智光秀(惟任日向守) |
大和衆、上山城衆 |
畿内方面軍司令官。朝廷との連絡役も務める。 |
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四番 |
村井貞勝(作右衛門) |
根来衆、上山城衆 |
京都所司代。 |
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織田信忠(中将) |
美濃衆、尾張衆(騎馬80騎) |
織田家惣領。信長直轄の主力部隊を率いる。 |
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北畠信雄(中将) |
伊勢衆(騎馬30騎) |
信長次男。伊勢方面を統括。 |
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- |
織田信孝(三七) |
(騎馬10騎) |
信長三男。 |
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織田信包、信澄ほか一門衆 |
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織田一族の結束を誇示。 |
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近衛信基、正親町実彦ほか |
公家衆 |
旧来の権威である公家を新秩序に組み込む。 |
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細川藤賢、一色義定ほか |
旧幕臣衆 |
旧足利幕府の権威の継承を示す。 |
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(馬廻・小姓衆) |
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信長直属の親衛隊。 |
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柴田勝家(修理亮) |
越前衆(柴田勝豊、前田利家ら) |
北陸方面軍司令官。織田家筆頭宿老。 |
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(弓衆100人) |
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(名馬6頭) |
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奥州津軽など全国からの献上品。 |
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武井夕庵、松井友閑ほか |
坊主衆 |
信長の側近、文化ブレーン。 |
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殿 |
織田信長 |
(小人27人ほか) |
全軍の総帥。 |
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(出典:『信長公記』の記述に基づき作成 2 ) |
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行列の先頭を務めたのは、宿老筆頭の丹羽長秀であった。これに蜂屋頼隆、明智光秀、村井貞勝といった畿内とその周辺を統括する方面軍司令官たちが続く 2 。これは、畿内の平定が完了し、安定した支配が確立していることを示すための布陣であった。その後ろに、嫡男の信忠が率いる美濃・尾張の主力軍団、そして信雄、信孝ら息子たちが続くことで、織田家の後継体制が盤石であることを内外にアピールした。
特筆すべきは、近衛信基(前久の子)をはじめとする公家衆や、細川藤賢、一色義定といった旧足利幕府の臣下たちも行列に参加していたことである 9 。これは、信長が旧来の権威を単に破壊するのではなく、自らが構築する新しい秩序の中に再編成し、取り込んでいることを示す象徴的な光景であった。そして、行列の最後尾近くには、北陸方面で上杉氏と対峙する筆頭宿老・柴田勝家が、前田利家らを率いて登場する。これは、遠方の方面軍司令官も信長の命令一下、即座に馳せ参じるという、中央集権的な指揮系統の確立を誇示するものであった。
天皇の視線と儀礼の交錯
この壮大な光景を、内裏東の仮桟敷から正親町天皇とその子・誠仁親王、そして公卿や女官たちが、色とりどりの華やかな装束に身を包んで見下ろしていた 9 。彼らの目に、整然と進む数万の軍勢と、その中心で神のごとく振る舞う信長の姿は、どのように映ったであろうか。
この馬揃えが行われた内裏の東側一帯は「陣中」と呼ばれ、古来、牛車の乗り入れなどが禁じられた神聖な区域であった 2 。その禁忌の地で、大規模な軍事パレードが天皇の御覧のもとで行われたこと自体が、まさに前代未聞の出来事であった。それは、信長の新しい権力が、古くからの伝統や慣習をも凌駕したことを象徴する、画期的な瞬間であった。
行列の半ば、天皇から信長のもとへ十二人の勅使が派遣され、その威容を賞賛する言葉が伝えられた 9 。これは、この御馬揃えが信長の私的な武威発揚ではなく、天皇が公認し、祝福した国家的な儀礼であることを、満天下に知らしめる決定的な意味を持っていた。信長は、武力によって勝ち取った権力に、天皇という伝統の衣をまとわせることに成功したのである。
午後二時頃(申の刻)まで:壮麗なる終幕
パレードは午前八時頃から午後二時頃まで、約六時間にもわたって途切れることなく続いた 9 。信長は観衆を飽きさせぬよう、自ら頻繁に馬を乗り換え、飛ぶ鳥のような素早さで馬場を駆け巡り、その卓越した馬術を披露した。また、奥州津軽など全国各地の大名から献上された「鬼あしげ」「小鹿毛」といった六頭の名馬が披露され、信長の威光が日本の隅々にまで及んでいることを象徴的に示した 9 。
最後には、参加した騎馬武者たちが一斉に馬を駆けさせ、その華麗な手綱さばきと豪華な装束は、見る者すべてを圧倒した。『信長公記』は、その様を「日本は申すに及ばず、唐国・天竺にもこれほどの儀は、あるべしとも覚え候はず(日本は言うまでもなく、中国やインドにもこれほどの壮麗な儀式があったとは思われない)」と、最大限の賛辞で締めくくっている 9 。壮大なスペクタクルはついに終幕を迎え、信長は万雷の喝采の中、本能寺へと帰還した。
第三章:祭りの後 ― 御馬揃えが残したもの
二月二十八日の壮大な一日は、それだけで終わりではなかった。その熱狂と興奮は、数日間にわたって京都を包み込み、様々な形で波紋を広げていった。この御馬揃えが、当時の人々に何を残し、日本の政治状況にどのような影響を与えたのかを分析することは、その歴史的意義を理解する上で不可欠である。
三月五日:異例のアンコール公演
二月二十八日の本番からわずか五日後の三月五日、禁中、すなわち天皇側からの「ご所望」という形で、再び馬揃えが挙行された 2 。この日は、先のパレードに参加した名馬の中から選び抜かれた五百騎余りが、再び内裏東の馬場に集結した。正親町天皇をはじめ、廷臣や女御・更衣といった宮中の人々が美しい装束で観覧し、その様子を「たいそう楽しまれ、お喜びになり」と『信長公記』は伝えている 9 。
この「アンコール公演」とも言うべき二度目の馬揃えの存在は、極めて重要である。もし最初の馬揃えが、信長による一方的な威圧行為であったならば、天皇側から再び開催を望む声が上がるはずがない。この事実は、朝廷がこのイベントを、信長からの圧力としてではなく、むしろ朝廷の権威を高める歓迎すべき催しと捉えていたことの強力な証左となる。信長が演出した壮大なスペクタクルは、朝廷の人々の心をも掴み、両者の蜜月関係が頂点に達した瞬間であった。
政治的効果の総括
京都御馬揃えがもたらした政治的効果は、多岐にわたる。
- 対敵対勢力への心理的打撃: 畿内およびその近隣諸国の武将をほぼ総動員し、数万の軍勢を整然と行進させることで、織田政権の圧倒的な国力と、寸分の乱れもない統率力を見せつけた。この情報は、当時織田家と敵対していた東の武田、北の上杉、西の毛利といった大名たちにも伝わったはずである 2 。自国が存亡をかけた戦いを繰り広げている最中に、敵の中枢がこれほど大規模で平和的な祭典を催す余裕があるという事実は、彼らにとって大きな脅威であり、戦意を削ぐ上で絶大な効果があったと推察される。
- 朝廷との関係強化と政権の正統性: 天皇を儀式の主賓として最大限に尊重し、その御前で武威を披露するという形式を取ることで、信長は自らの権力が天皇によって公認されたものであることを天下に示した。これにより、朝廷の伝統的権威を自らの政権の正統性の源泉として完全に取り込むことに成功した 4 。
- 畿内支配の安定化: 長年の戦乱で荒廃した京都において、これほど大規模かつ平和的な祭典を成功させたことは、京の民衆や商人たちに「織田の治世による泰平の到来」を強く印象付けた。治安の回復と経済の活性化を目の当たりにした人々は、織田による支配を肯定的に受け入れたであろう 2 。事実、羽柴秀吉はこの機会を利用し、播磨や但馬の名産品を諸将や公家衆への土産物として売り込み、販路拡大を図るなど、経済的な効果も生まれていた 13 。
参加者たちの心理とその後
この歴史的な一日を経験した人々の心にも、大きな影響が残された。
運営責任者の一人としてこの大事業を成功に導いた明智光秀は、この時点では信長から絶大な信頼を寄せられていた重臣であった 15 。この御馬揃えの成功は、光秀の有能さを示すとともに、彼の自負心を大いに高めたことであろう。主君・信長が神のごとく振る舞う姿を間近で見た光秀が、何を思ったのか。この栄光の記憶が、わずか一年三ヶ月後の本能寺の変へと至る彼の心理に、何らかの影響を与えた可能性は否定できない。
一方、当初は参加に戸惑いを見せていた公家の吉田兼見は、日記の中でその壮麗な様を「結構を尽くし」と記し、感激した様子を見せている。彼は後日、わざわざ信長のもとへ見物の礼を述べに訪れている 11 。このことは、信長が創り出した圧倒的なスペクタクルが、懐疑的であった旧来の文化人をも魅了し、新しい体制へと引き込む強力な力を持っていたことを示している。
終章:京都御馬揃えの歴史的意義
天正九年の京都御馬揃えは、単発の華やかなイベントとして歴史に記憶されるべきではない。それは、織田信長の天下統一事業の集大成であり、彼が構想した新しい国家の姿を可視化した、画期的な国家儀礼であった。
新しい「王権」の創造
この御馬揃えは、軍事、政治、宗教、文化といった、国家を構成するあらゆる要素を統合した、総合的なパフォーマンスであった。信長は、正親町天皇という日本の伝統的権威を巧みに利用し、その舞台装置の中心に自らを据えた。そして、神仙や異国の皇帝を思わせる異形の姿で登場し、自らを神格化することで、既存の将軍や関白といった日本の伝統的な権力者の枠組みとは全く異なる、新しいタイプの「天下人」像を創り上げたのである 16 。それは、中世以来の多元的な権威構造を破壊し、すべての権力を自身に集中させる、近世的な絶対的支配者への移行を宣言する試みであった。武力(軍団)と伝統的権威(朝廷)、そして経済力(豪華な装束や設営)のすべてを掌握した者だけが成し得る、新しい「王権」の誕生の瞬間であった。
絶頂と破滅の序曲
京都御馬揃えは、織田信長の権力が文字通りその絶頂に達した瞬間であった。長年の宿敵であった本願寺勢力は屈服し、畿内は完全に平定された。朝廷は彼の意のままに動き、その威光は天にまで届くかに見えた。この壮麗な祭典は、信長の栄光の頂点を象徴するモニュメントとして、歴史に刻まれた。
しかし、歴史の皮肉は、この栄光の絶頂が、同時に破滅への序曲でもあったことを示している。この過剰なまでの自己顕示と神格化は、織田家臣団との間に、目には見えない心理的な亀裂を生じさせた可能性がある。特に、伝統的な秩序や価値観を重んじる武将たちにとって、主君が神として振る舞う姿は、尊敬を超えて、理解しがたい畏怖や、あるいは傲慢と映ったかもしれない。
この壮大な祭典から、わずか一年三ヶ月後。信長は、最も信頼していたはずの家臣・明智光秀の謀反により、京都・本能寺でその生涯を終える。京都御馬揃えという栄光の舞台は、奇しくも彼の最期の地と同じ京都であった。あの熱狂と喧騒の中に、そして天を衝くほどの自信に満ちた信長の姿の中に、すでに次なる時代の嵐の予兆が、そして彼の悲劇的な結末の萌芽が潜んでいたのかもしれない。京都御馬揃えは、戦国乱世が生んだ非凡な英雄が到達した輝かしい頂点であると同時に、その輝きが故に自らを滅ぼすに至る、運命の転換点でもあったのである。
引用文献
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- 第106代「正親町天皇」|20人の天皇で読み解く日本史 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパン https://discoverjapan-web.com/article/50814
- 正親町天皇と織田信長・豊臣秀吉 - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/historian-text/ogimachi-tenno/
- 正親町天皇 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
- 正親町天皇 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/21101/
- 正親町天皇とは?朝廷を立て直すため戦国武将らと対峙した「再生請負人」の生涯 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/122408/
- 織田信長は五層七階の安土城を造る。 https://www.town.ibigawa.lg.jp/cmsfiles/contents/0000001/1300/siryou2.pdf
- #256 『信長公記』を読むその31 巻14の4 :天正九(1581)年 信長 ... https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12803782033.html
- 天下統一期年譜 1581年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho15.htm
- 織田信長によるビッグイベントを成功させろ!多くの家臣が奔走した「御馬揃え」とは - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28349
- Q.京都御馬揃えについて教えてください。 https://akechikai.or.jp/archives/mitsuhide-qa/57904
- 大坂の幻〜豊臣秀重伝〜 - 第220話 京都御馬揃え(裏) https://ncode.syosetu.com/n8196hx/221/
- 安土桃山時代 日本史・日本史年表|ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
- 敵は本能寺にはいなかった?~明智光秀の生涯 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/akechimitsuhide-tekiwahonnouji/
- <論説>織 政権における寺社 配の構 造 - 京都大学 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstream/2433/239578/1/shirin_083_2_171.pdf
- 織田信長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7