最終更新日 2025-09-24

人吉城改修(1601)

慶長六年、相良家は関ヶ原の危機を犬童頼兄の奇策で乗り越え、人吉城を近世城郭へと大改修。徳川への恭順と領内示威を兼ね、七百年続く家系の礎を築いた。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

慶長六年 人吉城改修 ― 関ヶ原の動乱を乗り越え、近世大名として再生する相良家の礎 ―

序章:時代の転換点に立つ人吉城

慶長6年(1601年)という年は、日本の歴史において単なる暦上の一年に留まらない。それは、前年の関ヶ原の戦いによって徳川家康が実質的な天下人となり、約一世紀半にわたる流動的で激しい「戦国」の時代が終焉を迎え、固定的で秩序ある「江戸」という新たな幕藩体制へと移行する、まさに歴史の分水嶺であった。この重大な転換点において、肥後国人吉で断行された人吉城の大規模な改修事業は、時代の変化を象徴する極めて重要な出来事であった。

肥後国南部の人吉球磨地方を拠点とする相良氏は、鎌倉時代に地頭として着任して以来、約700年という日本史上稀に見る長期間にわたり、一貫してこの地を統治してきた稀有な一族である 1 。その長大な歴史は、急峻な九州山地に囲まれた地の利と、時勢を読んだ巧みな外交戦略によって支えられてきた 1 。しかし、豊臣秀吉による九州平定後、その立場は安泰とは言い難かった。肥後北半国には武断派の雄・加藤清正、南半国には文治派の吏僚・小西行長という、豊臣政権の中枢を担う巨大な大名が配置され、相良氏は両者の間で常に緊張を強いられる存在となったのである 5

本報告書が主題とする「人吉城改修」は、したがって、単に老朽化した城郭を建て替えるという次元の事業ではない。それは、存亡の危機であった関ヶ原の戦いを、絶妙な機転と大胆な策略によって乗り越えた相良家が、新たな支配者である徳川家康に対して恭順の意を明確に示し、近世大名としての新たな地位を領内外に宣言するための、極めて高度な政治的、軍事的、そして象徴的な意味を込めた一大事業であった。本報告書は、この改修がなぜ慶長6年というタイミングで可能となり、何を意味したのかを、関ヶ原の動乱に至る背景から遡って、時系列に沿って徹底的に解明するものである。

第一部:関ヶ原前夜 ― 相良氏と中世城郭としての人吉城

1-1. 豊臣政権下の相良家:微妙なバランスの上に立つ小大名

豊臣秀吉による九州平定後、相良氏は旧領である球磨郡二万石を安堵されたものの、その政治的地位は根本的に変化した 6 。独立した戦国大名から、豊臣政権に組み込まれた一地方領主へとその立場を変えたのである。特に、肥後一国が加藤清正と小西行長によって分割統治される体制は、相良氏にとって常に予断を許さない状況を生み出した 8 。清正は秀吉子飼いの武断派、行長は吏僚的な文治派であり、両者は豊臣政権内部の派閥対立を象徴する存在であった 5

領地を接する両者との間で、相良氏は巧みな外交を展開する必要に迫られた。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においては、加藤清正の配下として当主・相良頼房(当時の名は長毎)自らが渡海しており、武断派との関係が深かったことが窺える 5 。しかし、同時に隣接する小西氏との関係も決して疎かにはできなかった。この絶妙なバランス感覚こそが、相良氏が生き残るための生命線であった。

一方で、相良家内部も盤石ではなかった。家臣である深水頼蔵が突如出奔し、加藤清正のもとへ駆け込むという事件が発生し、お家騒動が外部に露見するほどの不安定さを抱えていた 5 。このような内外の緊張関係の中で、相良氏は豊臣政権の終焉と、それに続くであろう新たな動乱の時代を迎えようとしていた。

1-2. 改修以前の人吉城:中世の面影を残す土の城

慶長6年の大改修が着手される以前の人吉城は、我々が今日目にするような総石垣造りの近世城郭とは全く異なる姿をしていた。球磨川とその支流である胸川を天然の要害とする立地は変わらないが、その構造と防御思想は、まさしく中世山城そのものであった 9

当時の城は、石垣を多用するのではなく、土を主たる材料としていた。丘陵の地形を巧みに利用し、独立した複数の曲輪(郭)が点在する縄張りを特徴としていた 9 。これらの曲輪は、大規模な土塁や空堀、そして尾根筋を人工的に断ち切って敵の侵攻を阻む「堀切」といった、中世的な防御施設によって固められていたのである 10 。石垣が用いられていたとしても、それは門の周辺や特に重要な区画の基礎部分など、限定的なものであったと考えられる。

もちろん、全く手が加えられていなかったわけではない。18代当主・相良義陽は天正年間(1573年~1593年)に大規模な改修を行っている。この改修では、城主の拠点である内城(現在の本丸部分)を拡張し、さらに山麓に「御館(みたち)」と呼ばれる新たな居館を水堀で区画して増設した 9 。これは、戦国末期の在地領主が、中央集権化の圧力の中で当主の権力を強化し、家臣団を統率しようとした努力の現れであった。

しかし、この天正期の改修は、あくまで中世城郭の思想的枠組みの中で行われた改良であった。織田信長や豊臣秀吉が築いた安土城や大坂城のような、巨大な石垣と天守を持ち、支配者の権威を視覚的に誇示する「見せる城」、すなわち近世城郭の域には達していなかった。人吉城が依然として「土の城」であったという事実は、加藤清正が築いた熊本城や小西行長が拠点とした宇土城といった巨大な石垣の城に囲まれた、相良氏の政治的・経済的地位を如実に物語っている。城の姿は、大名の格そのものであった。この未完とも言える天正の改修は、来るべき時代の動乱を乗り越えた後に、全く新しい思想に基づく城郭へと全面的に生まれ変わる必然性を、静かに示唆していたのである。

第二部:存亡を賭した関ヶ原 ― 西軍から東軍へ

2-1. 不本意な西軍参加:地政学的宿命

慶長5年(1600年)6月、会津の上杉景勝に対する徳川家康の討伐軍が編成されると、その隙を突いて石田三成が大坂で挙兵し、西国の諸大名に檄を飛ばした 13 。九州において、相良家の周囲は島津家をはじめ西軍に与する大名が多く、また豊臣政権への恩義という建前からも、地理的・政治的に東軍に味方することは極めて困難な状況であった。

この地政学的宿命に従い、当主・相良頼房は、約1,570名という相良家史上最大規模の軍勢を率いて上洛し、西軍に合流する 5 。これは、頼房の積極的な西軍支持というよりは、周囲の圧力と、何よりもまず家名を存続させるための、やむを得ない苦渋の選択であった。

相良軍が参加した最初の戦いは、徳川方の鳥居元忠らが守る伏見城攻めであった。宇喜多秀家を総大将とする西軍の猛攻に加わり、城は壮絶な戦いの末に落城する 5 。この軍事行動によって、相良家の西軍参加は既成事実となった。しかし、その銃声と鬨の声の裏で、相良家は早くも生き残りを賭けた、もう一つの戦いを始めていた。

2-2. 水面下の内通工作:家康への密書

伏見城を攻めている、まさにその最中から、相良頼房は徳川家康に対して密かに使者を送り、「西軍に従っているのは本意ではない」という旨の書状を届けていた 5 。これは、700年の長きにわたり幾多の危機を乗り越えてきた相良氏ならではの、したたかで現実的な生存戦略の現れであった。戦いの趨勢がどちらに転ぶかを見極め、万が一の場合に備えて保険をかけておくという、小大名が生き残るための知恵であった。

2-3.【時系列解説】大垣城の奇策:家老・犬童頼兄(相良清兵衛)の乾坤一擲

伏見城攻めの後、相良軍は近江・勢田城の警備を経て、9月5日、西軍の最前線拠点である美濃・大垣城に入城した 5 。ここには、同じく九州から参陣した秋月種長、高橋元種といった大名も籠城しており、城の守将は石田三成の縁戚にあたる福原長堯らが務めていた。城兵の総数は約4,800名であった 5

慶長5年9月15日、関ヶ原決戦と孤立

9月15日早朝、大垣城からわずか数キロメートルの関ヶ原で、東西両軍の主力による天下分け目の決戦の火蓋が切られた。相良軍らは大垣城に残留していたため、この本戦には参加していない 5。戦いは当初西軍優勢とも伝えられたが、午後に小早川秀秋らの裏切りによって戦局は一変し、夕方までには西軍は総崩れとなった。この報が大垣城にもたらされた時、城内の将兵は東軍の中に完全に孤立したことを知る。

絶望的状況下での密議と決断

西軍本隊の壊滅という絶望的な報を受け、城内で相良頼房、秋月種長、高橋元種の三将は、今後の身の振り方について密議を重ねた 5。徹底抗戦か、降伏か。しかし、西軍として戦った以上、降伏しても家名が存続できる保証はどこにもない。まさに絶体絶命の状況であった。この時、頼房の腹心であり、家中随一の知謀の士であった家老・犬童頼兄(後の相良清兵衛)が、起死回生の策を進言する。それは、単なる降伏でも寝返りでもない、敵中で敵将を討ち取り、城そのものを手土産として東軍に差し出すという、前代未聞の大胆不敵な策であった。

偽装工作の開始と実行

犬童頼兄は、まず東軍の攻撃に備えるというもっともらしい名目で、守将の福原長堯らに対し、「城外の竹林は敵の進攻の妨げとなるため、伐採して城壁の補強材としたい」と抗戦策を進言した 5。これは、西軍の将校たちを警戒させることなく城外の無防備な場所へと誘い出すための、巧妙な偽装工作であった。

そして9月17日、頼兄はこの策を実行に移す。竹林の視察と称して、石田三成の家臣である垣見一直、熊谷直盛、木村由信ら3名を城外へと誘い出した。そして、あらかじめ潜ませておいた自らの部隊に合図を送り、三将を急襲。その首を刎ねたのである 5 。頼兄はすぐさま城内に戻ると、残る守将・福原長堯に三将の首を突きつけ、降伏を迫り、これを同意させた 5 。こうして相良・秋月・高橋の三氏は、大垣城を内部から掌握することに成功した。

東軍との交渉と本領安堵への道

この比類なき功績を東軍に示すため、犬童頼兄は自ら大垣城を包囲していた東軍の将・井伊直政の陣営へ赴き、交渉を開始した 5。この大胆な行動と、敵将三名の首という何より雄弁な手土産は、相良家の寝返りが真実であることを証明するのに十分であった。大垣城攻めの一翼を担っていた水野勝成から相良頼房に宛てられた9月17日付の書状には、討ち取った三将の首を確かに受け取った旨が記されており、この謀略が東軍に迅速かつ高く評価されたことを示している 14。この犬童頼兄による乾坤一擲の奇策が、相良家を滅亡の淵から救い、本領安堵への道を切り開いたのである。

【表1】関ヶ原の戦いにおける相良軍の行動時系列表

時期(慶長5年)

場所

相良家の公式行動(西軍として)

水面下の行動(東軍への内通)

主要人物

結果・意義

7月~8月

伏見城

宇喜多秀家らと共に伏見城を攻撃、落城させる。

徳川家康へ「本意ではない」との密書を送付。

相良頼房

西軍への参加を既成事実化しつつ、生き残りの布石を打つ。

9月5日

美濃・大垣城

秋月・高橋氏らと共に大垣城に入城。籠城を開始。

東軍との接触機会を窺う。

相良頼房、犬童頼兄

西軍の拠点にあり、身動きが取れない状況に陥る。

9月15日

美濃・大垣城

関ヶ原の本戦には参加せず、城に留まる。

本戦の趨勢を見極める。西軍敗北の報に接する。

相良頼房、犬童頼兄、秋月種長

西軍の敗北により、城ごと東軍に包囲される絶望的状況へ。

9月16日頃

美濃・大垣城

-

犬童頼兄が「竹林伐採」の偽装工作を立案・進言。

犬童頼兄

敵中でのクーデター計画が始動。

9月17日

美濃・大垣城外

-

偽装工作を実行。西軍の将3名を謀殺し、城を掌握。

犬童頼兄

大垣城を内部から瓦解させ、東軍への最大の功績(手土産)を確保。

9月17日以降

大垣城攻囲陣

-

犬童頼兄が井伊直政と直接交渉。功績を認められる。

犬童頼兄、井伊直政、水野勝成

寝返りが正式に認められ、本領安堵への道が開かれる。

この「大垣城の奇策」こそが、慶長6年の人吉城改修を可能にした全ての源泉であった。単なる寝返りではなく、敵中で敵の主だった将校を謀殺し、堅城を内部から明け渡すという、極めて難易度とリスクの高い作戦の成功は、東軍にとって計り知れない価値を持つ「功績」であった。この功績がなければ、西軍に参加した相良家は、他の多くの大名と同様に改易(領地没収)の運命を辿った可能性が極めて高い 8 。慶長6年に積まれ始める人吉城の石垣の一つ一つは、文字通り、大垣城で流された血と、犬童頼兄の類稀なる知謀の上に築かれたと言っても過言ではない。

第三部:近世城郭への変貌 ― 慶長六年の大改修

3-1. 本領安堵と新たな城への要請

関ヶ原の戦後処理において、大垣城での功績は徳川家康に高く評価された。その結果、相良氏は肥後国人吉二万二千石の所領を安堵されることとなった 6 。西軍に与した多くの大名が改易や減封という厳しい処分を受ける中、これはまさに奇跡的な生き残りであり、犬童頼兄の策がいかに的確であったかを証明している。

この本領安堵は、相良家にとって単なる領地の維持以上の意味を持っていた。それは、相良家が戦国時代の大名から、徳川幕府を頂点とする新たな幕藩体制下の一員である「近世大名」へと、その地位を公に認められ、生まれ変わったことを意味するものであった 17 。この新たな地位には、それにふさわしい新たな統治拠点が不可欠であった。中世の面影を色濃く残す「土の城」では、もはや新時代の支配者としての権威を示し、複雑化する藩政を担う行政機能を果たすことはできなかったのである。

3-2. 改修の多目的性:徳川への恭順と領内への示威

慶長6年に始まった人吉城の大改修は、複数の明確な目的を持つ、高度に政治的な事業であった。

第一に、 徳川幕府への恭順の表明 である。総石垣造りの近世城郭へと城を造り変えるという大規模な普請は、新たな天下人である徳川家に対して絶対的な忠誠を誓い、幕藩体制に組み込まれた大名としての責務を果たす意志を、形として示すものであった。これは、徳川の世の到来を祝福し、その秩序の構築に積極的に参加するという政治的メッセージであった。

第二に、 領内に対する新たな権威の象徴 である。堅固で壮麗な石垣の城は、領内の国人や民衆に対して、相良氏当主がもはや中世的な国人衆の連合盟主ではなく、絶対的な権力を持つ支配者であることを視覚的に訴えかける、強力な装置であった 18 。石垣の高さは、そのまま権力の高さの可視化であり、中世以来の合議制的な統治形態から、中央集権的な支配者へと完全に脱皮したことの宣言でもあった。

第三に、 行政・経済拠点としての機能確立 である。この改修は城郭本体に留まらず、球磨川北岸や胸川西岸に計画的な城下町を建設する事業と一体で進められた 17 。これにより、人吉は単なる軍事拠点から、球磨郡全体の政治・経済の中心地としての機能を確立し、近世的な藩体制の基盤を築いていくことになった。

3-3. 慶長6年(1601年)の到達点:石垣化の本格着手

このような多目的性を背景に、慶長6年、人吉城の大改修が本格的に開始された。この年の段階で、本丸、二の丸といった城の中枢部(詰の城部分)と、山麓に設けられた藩主の居館である「御館」部分が竣工したと記録されている 19

この時点での竣工は、まだ城全体の完成を意味するものではなかった。しかし、城の心臓部が、土塁と空堀に代わって高石垣で固められ、近世的な姿へと生まれ変わったことは、この事業の方向性を決定づける極めて重要な一歩であった。天正17年(1589年)頃から始められていた改修の流れを汲みつつも 17 、関ヶ原の戦いを経て、その規模、技術、そして思想が抜本的に「近世化」された点に、慶長6年の改修の核心がある。

3-4. 動員された技術:豊後石工と石垣技術

この大規模な石垣普請を実現するため、当主・頼房は豊後から専門の石工を招聘したと伝えられている 19 。当時の最先端技術であった石垣の構築には、高度な知識と経験を持つ専門技術者集団の存在が不可欠であった。近江の穴太衆などが全国的に有名であるが 22 、加藤清正の熊本城普請など、九州においても大規模な築城が盛んに行われており、地域に根差した石工集団が育っていた。豊後からの招聘は、おそらく隣国の大友氏の城郭などで培われた高度な石垣技術を導入しようとしたことを示唆している。

用いられた石垣の技法は、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」や、石の接合部をある程度加工して隙間を減らす「打込接(うちこみはぎ)」などが中心であったと考えられる。このような専門技術者を招聘し、大規模な普請を断行できること自体が、大名としての政治力と経済力の証明であり、城を築くという行為そのものが、極めて高度な政治活動であった。

【表2】人吉城の構造変化比較表(改修以前 vs 近世城郭)

比較項目

改修以前(中世山城)

慶長6年以降(近世城郭)

主要防御施設

土塁、空堀、堀切 10

高石垣、水堀 21

縄張(設計思想)

独立した曲輪が点在 9

本丸を頂点に、二の丸、三の丸を階層的に配置 10

建築材料

土、木材が中心

石材、瓦、漆喰を多用

城主の権威

御館と詰の城が分かれ、家臣団も各所に居住 10

城主の居館(御館)と政庁が城の中核に一体化 25

象徴性

軍事拠点としての機能が主

軍事機能に加え、政治的権威と経済中心地の象徴 17

技術

在地的な土木技術

専門技術者集団(豊後石工など)による石垣技術 19

第四部:長期普請の実態と歴史的意義

4-1. 寛永16年(1639年)までの長期事業

慶長6年に始まった人吉城の近世化は、一年で完結した事業ではなかった。それは、その後も断続的に続けられる、半世紀近くに及ぶ壮大な国家プロジェクトであった。最終的に、今日我々が目にするような広範囲にわたる石垣群が完成したのは、着工から38年後の寛永16年(1639年)のことである 20

特に慶長12年(1607年)からは、球磨川沿いの断崖絶壁に石垣を築くという難工事が始まり、外曲輪が造成されていった 19 。この工事により、城の防御範囲は格段に広がり、同時に川に面して複数の船着場が設けられた。中でも「水ノ手門」は年貢米の搬入などに使われる最大の港湾施設であり、人吉城が単なる山城から、球磨川の水運を最大限に活用する経済活動と一体化した拠点へと変貌を遂げたことを示している 11

4-2. 普請事業と藩財政

この半世紀近くにわたる大規模な土木事業は、表高二万二千石という小藩である人吉藩の財政に、極めて大きな負担を強いたことは想像に難くない。江戸時代を通じて人吉藩の財政は、度重なる天災や幕府からの普請手伝い(公役)などにより、窮乏することが多かった 29 。その構造的な財政難の遠因の一つが、この藩の創設期における大規模な城郭普請にあったと考えられる。城は藩の権威の象徴であり、統治の基盤であったが、同時にその維持・管理は常に財政を圧迫する重荷であり続けたのである。

4-3. 普請の中止と「お下の乱」

寛永16年(1639年)、完成間近であったはずの石垣工事は、突如として中止され、招聘されていた豊後の石工衆は全員帰国したと記録されている 31 。その理由は明確ではないが、この不可解な中断の翌年、寛永17年(1640年)に人吉藩を揺るがす大事件が勃発する。関ヶ原の最大の功労者であり、藩政の実権を握っていた犬童頼兄(清兵衛)とその一族が、藩主との対立の末に粛清されるお家騒動「お下の乱」である 32

この事件をきっかけに、石垣普請は完全に断念されたとされ、大手門から南の岩下門に至る部分の石垣はついに築かれることはなかった 32 。この二つの出来事のあまりの近接は、単なる偶然とは考えにくい。長期にわたる普請事業の経済的負担や、それに伴う藩政の主導権争いが、藩内部の対立を激化させ、最終的にお家騒動という悲劇の一因となった可能性が強く示唆される。人吉城の石垣普請は、関ヶ原の功労者である犬童頼兄の権勢の象徴であったが、その普請が引き起こしたであろう藩内の軋轢が、結果的に彼自身の失脚につながったとすれば、それは歴史の大きな皮肉と言えるだろう。

4-4. 結論:近世大名・相良家の礎としての人吉城

幾多の困難と内部対立を経ながらも、近世城郭として生まれ変わった人吉城は、その後、明治維新に至るまで人吉藩の藩庁として、そして相良氏の居城としてその中心的な役割を果たし続けた 10

慶長6年の大改修は、戦国の動乱を生き抜いた相良家が、その政治的勝利を後世に残る形あるものとして刻みつけ、近世大名としての新たな統治体制を確立するための、まさに礎となる事業であった。それは、徳川の世という新たな秩序への適応と、700年にわたる伝統の継承を両立させるための、相良氏の覚悟の表れであった。

この城があったからこそ、相良氏は鎌倉時代から明治維新に至るまで、約700年という日本史上稀に見る長期間にわたり、一つの土地を治め続けることができたのである 1 。人吉城の高く、そして堅固な石垣は、相良家のしたたかな生存戦略と、新たな時代への適応の歴史を、今に伝える雄弁な証人として、球磨川のほとりに静かに佇んでいる。

引用文献

  1. 相良700年が生んだ保守と進取の文化|日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story018/
  2. 人吉城跡について - 相良氏歴史文化基金 https://www.sagarauji.jp/castleruins
  3. 日本遺産巡り#23 相良700年が生んだ保守と進取の文化~日本でもっとも豊かな隠れ里-人吉球磨 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/120/
  4. 人吉球磨の文化の礎を築いた 相良700年 https://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/story0/story1/
  5. 相良氏の歴史・近世4 豊臣政権と相良氏 https://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei4.html
  6. 武家家伝_相良氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html
  7. 相良氏(さがらうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%B0%8F-68582
  8. 肥後国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E5%9B%BD
  9. www.osaka-touken-world.jp https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/hitoyoshi-castle/#:~:text=%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%AF,%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  10. 人吉城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/hitoyoshi-castle/
  11. 人吉城|日本百名城 - 城Trip(しろトリップ) https://shiro-trip.com/shiro/hitoyoshi/
  12. 三日月城の謎 - 人吉球磨ガイド https://hitoyoshikuma-guide.com/wp-content/uploads/2024/06/%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%9F%8E.pdf
  13. 肥後国人吉藩「相良清兵衛騒動」覚書 - 福山大学学術情報リポジトリ https://fukuyama-u.repo.nii.ac.jp/record/5538/files/KJ00004183632.pdf
  14. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  15. 立花宗茂の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/32514/
  16. 江戸時代の大名石高ランキング(後編6~10位) : 西日本の外様大名がずらり | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01712/
  17. 戦国大名相良氏が誕生しました。 - 人吉市 https://www.city.hitoyoshi.lg.jp/resource.php?e=52d123d3bbf317e096ca21d6bc310577a133ffeb4aaa38937178a743cfdf23775ff29c01fa085f8966acd2eadbee7ba8
  18. 相良氏の歴史・近世1 うち続く大乱 - 人吉・球磨の部屋 https://kuma.atukan.com/rekisi/kinsei1.html
  19. 相良700年の隠れ里 人吉球磨歴史さんぽ④ 【日本百名城 人吉城】|Desert Rose - note https://note.com/dessertrose03/n/na5a7bc61866f
  20. 人吉城 - 日本100名城 https://heiwa-ga-ichiban.jp/oshiro/hitoyoshi/index.html
  21. 歴史・文化に触れる | 人吉トラベル/人吉温泉観光協会 https://hitoyoshionsen.net/history_culture/
  22. 「穴太衆」伝説の石積み技を継ぐ末裔に立ちはだかる壁とは | 中川政七商店の読みもの https://story.nakagawa-masashichi.jp/102328
  23. 日本が世界に誇る「崩れない石垣」に秘められた建築技術!戦国時代の城はプロによって支えられていた - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/239935
  24. 人吉城跡〜「故郷の廃家」の歌碑〜 https://geo.d51498.com/urawa0328/kumamoto/hitoyosijou.html
  25. 人吉城跡|日本遺産ポータルサイト - 文化庁 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/1440/
  26. 人吉城跡 相良氏が35代670年居城 - Harada Office Weblog https://haradaoffice.biz/hitoyoshi-castle/
  27. GUIDE B00K https://kojodan.com/pdf/98.pdf
  28. 人吉城跡 - 人吉文化財 https://hitoyoshikuma-bunkazai.com/detail/hitoyoshi-castle-ruins/
  29. 人吉藩(ひとよしはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9-120386
  30. 人吉藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E8%97%A9
  31. 相良700年の隠れ里 人吉球磨歴史さんぽ③【筆頭家老屋敷跡の謎の ... https://note.com/dessertrose03/n/n9a4e0a802f37
  32. 人吉城(熊本県人吉市麓町18番地) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2014/05/18.html
  33. 人吉城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%90%89%E5%9F%8E