今井町自治確立(1568)
1568年、信長上洛。大和国の一向宗寺内町・今井は、当初抵抗し町を要塞化するも、後に巧みな交渉で恭順。武装解除と引き換えに自治権を獲得し、『陸の堺』と称されるほどの繁栄を築いた。
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戦国動乱を生き抜いた自治都市の誕生 ― 1568年を基点とする今井町自治確立の軌跡
序章:1568年という問い ― なぜこの年が重要なのか
大和国今井町の自治確立を語る上で、1568年という年は、一つの大きな問いを投げかける。歴史的な記録を丹念に追うと、今井町が織田信長から正式に自治権を認められたのは、天正3年(1575年)に発給された赦免状によるものであることが確認できる 1 。ではなぜ、それより7年も前の1568年が、この町の運命を語る上で重要な意味を持つのか。その答えは、この年に畿内全域で発生した、戦国時代の勢力図を根底から覆す地殻変動に求められる。
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて京へ上洛し、天下布武の号令の下、新たな時代の幕を開けた 2 。この出来事は、単に中央政権の担い手が交代したという以上の意味を持っていた。それは、畿内の国々が長らく続けてきた局地的な権力闘争の時代に終止符を打ち、天下統一という巨大な奔流へと否応なく飲み込まれていくことの始まりを告げる号砲であった。大和国も、そしてその地に根差す一向宗寺内町・今井町も、この歴史の転換点から無縁ではいられなかった。
したがって、本報告書は1568年を、自治が「確立」した年としてではなく、自治確立へと至る激動のドラマの「序曲が始まった年」と位置づける。信長の上洛という外部からの衝撃が、大和国の政治力学をいかに変え、今井町にどのような選択を迫ったのか。そして、その選択が如何にして1575年の決断、すなわち武装解除と引き換えに自治権を獲得するという類稀なる成果へと結実したのか。本報告書は、このダイナミックなプロセスを、当時のリアルタイムな情勢の中に身を置きながら、時系列に沿って克明に追跡するものである。1568年は、今井町がそれまで直面していた「局地的な戦乱」の時代から、天下統一という「巨視的な権力闘争」の時代へと巻き込まれていく、運命の分水嶺だったのである。
第一章:黎明期の今井 ― 寺内町の誕生と大和国の群雄割拠
1-1. 一向宗の拠点として
今井町の起源は、戦国時代の天文年間(1532-1555)に遡る。この時期、浄土真宗本願寺派の一家衆であった今井兵部卿豊寿が、大和国高市郡今井庄に一向宗の布教拠点として道場を建立したことが、町の始まりであった 1 。この道場は後の称念寺となり、町の中核を成す存在となる 7 。当初より、この町は単なる門徒の集落ではなく、計画的に形成された都市(寺内町)としての性格を帯びていた。周辺の農民を門徒として組織化すると同時に、戦乱を逃れた諸国の浪人や商人を積極的に集め、寺院の境内地を中心とした町場が形成されていったのである 1 。
1-2. 「守護不在の国」大和の動乱
当時の大和国は、守護職が存在せず、長らく地域の宗教的権威であった興福寺の力も衰退する中、まさに群雄割拠の様相を呈していた。「大和四家」と称される筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏といった国人領主たちが、それぞれ興福寺の衆徒という立場から武士化し、絶えず勢力争いを繰り広げる不安定な土地であった 8 。
この混沌とした状況に決定的な変化をもたらしたのが、畿内に一大勢力を築いた三好長慶の重臣、松永久秀の出現である。永禄2年(1559年)以降、久秀は大和国への侵攻を開始し、大和最大の武士団であった筒井順慶との間で、十数年にわたる熾烈な覇権争いを展開した 8 。両者の本拠地である筒井城を巡る攻防は幾度となく繰り返され、大和国中が焦土と化すほどの激しい戦いが続いた 12 。この長い戦乱は、大和の諸勢力に絶え間ない緊張と疲弊をもたらした。
1-3. 戦乱の中の寺内町
今井町は、まさにこの筒井氏と松永氏の抗争の渦中に位置していた。特定の勢力に与することなく独立を保っていたが、その脅威からは常に自衛する必要に迫られていた。例えば、永禄9年(1566年)には、松永派であった十市氏の一族が筒井氏に十市城を追われ、今井町にあった河合権兵衛(後の今西正冬)の屋敷へと退去したという記録がある 9 。この事実は、今井町が既に地域の政治的力学の中で、一種の避難場所としての機能も果たし始めていたことを示唆している。
いかなる大名も安定した支配を確立できない「権力の空白」と「永続的な紛争状態」という外部環境は、今井町の住民に強烈な自衛意識を植え付けた。自らの生命と財産は、自らの手で守るしかない。この極めて現実的な必要性が、称念寺という宗教的な核の下に人々を結束させ、商人がもたらす経済力がそれを支えるという、自治共同体の萌芽を育んでいったのである。理念としてではなく、生き残るための術として、自治の精神はこの時点で既に醸成されつつあった。
第二章:激動の刻(1568-1574)― 信長上洛と武装要塞都市への道
1568年の織田信長上洛は、大和国、そして今井町を取り巻く環境を一変させた。この年から1575年の降伏に至るまでの7年間は、今井町が存亡を賭けて武装を強化し、巨大な権力と対峙した激動の時代であった。以下の時系列表は、その過程を畿内全体の動向と共に示している。
年代 |
今井町の動向 |
大和国・畿内の主要動向 |
天文年間 (1532-55) |
今井兵部により称念寺の前身道場が建立され、寺内町が形成される 1 。 |
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永禄2年 (1559) |
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松永久秀が大和国への侵攻を開始。筒井氏との抗争が始まる 8 。 |
永禄11年 (1568) |
|
9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛 2 。松永久秀は信長に臣従し、大和国の支配権を安堵される 10 。筒井順慶は筒井城を追われる。 |
元亀元年 (1570) |
石山合戦の勃発に呼応し、明確に反信長勢力となる。環濠や土塁の構築を開始し、町の武装化を本格化させる 1 。 |
9月、石山合戦が勃発。本願寺が全国の門徒に決起を促す。 |
天正3年 (1575) |
明智光秀らの仲介により、信長軍に降伏。武装解除と引き換えに、自治権を認める赦免状を受領する 1 。 |
5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に大勝。信長の権威が不動のものとなる。 |
文禄4年 (1595) |
太閤検地により「今井村」とされ、石高が付けられる。寺内町としての特権が実質的に終焉する 1 。 |
豊臣秀吉による全国統一が進む。 |
2-1. 1568年9月-10月:天下布武の衝撃
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁した織田信長は、数万の軍勢を率いて京へと進軍した。行く手を阻んだ南近江の六角義賢は、観音寺城の戦いでわずか数日のうちに敗走し、信長は破竹の勢いで入京を果たす 2 。この圧倒的な軍事力は、畿内の諸勢力に大きな衝撃を与えた。
この新たな権力の登場に対し、大和国の松永久秀は極めて迅速かつ巧みに対応した。長年対立してきた三好三人衆を見限り、いち早く信長に臣従。その見返りとして、信長から大和一国の支配を事実上認められる(切り取り次第)という大きな政治的勝利を収めた 2 。これにより、大和国内のパワーバランスは決定的に松永方へ傾く。信長という巨大な後ろ盾を得た松永軍の前に、長年の宿敵であった筒井順慶はもはや抗う術もなく、三度目の筒井城の戦いで居城を追われ、雌伏の時を余儀なくされた 8 。
2-2. 1570年:石山合戦と今井町の決起
信長による畿内平定が進む中、元亀元年(1570年)、信長と石山本願寺との間で全面的な軍事衝突、すなわち石山合戦が勃発した。本願寺顕如は、信長を「仏敵」として全国の一向宗門徒に檄を飛ばし、徹底抗戦の構えを見せた。
この本願寺の呼びかけに、今井町は即座に呼応した。称念寺を中心とする一向宗の強固な信仰共同体であった今井町は、ここにきて明確に反信長勢力として旗幟を鮮明にしたのである 1 。この決断は、単なる宗教的な熱情によるものだけではなかった。大和国において信長が松永久秀を公認したことは、今井町にとって潜在的な脅威が現実化したことを意味した。信長=松永ラインという新たな支配体制から自らの共同体を守るためには、本願寺を中心とする反信長包囲網の一翼を担うことが、最も現実的な生存戦略であると判断されたのである。この年を境に、今井町の武装化は急速に進展していく。
2-3. 要塞都市の完成
今井町は、信長軍の来襲に備え、町全体を一つの城塞へと変貌させた。その防御施設は、当時の環濠集落の中でも屈指の規模と完成度を誇っていた。
まず、町の周囲には幅三間(約5.5メートル)にも及ぶ環濠が掘削され、その土砂を利用して内側に高い土塁が築かれた 16 。発掘調査によれば、この環濠は16世紀中葉から後半にかけて掘られた旧環濠と、16世紀末以降に新たに掘られた新環濠の二時期に分かれることが判明しており、信長との対立が激化したこの時期に、防御機能が大幅に拡張されたことがわかる 17 。場所によっては三重の環濠が巡らされていたとも伝えられる 16 。
東西約600メートル、南北約310メートルに及ぶ広大な町域 18 の周囲には九つの門が設けられ、夜間は固く閉ざされて外部との交通を遮断した 18 。さらに、町内の道筋は意図的に見通しを悪くする「筋違い」と呼ばれるクランク状の構造になっており、万が一敵が侵入しても、その進軍を妨げ、迎撃を容易にする工夫が凝らされていた 1 。町の西口には櫓が設けられ、惣年寄筆頭となる今西家の屋敷自体が、城郭を思わせる堅固な構え(八つ棟造り)を持ち、有事の際の司令塔としての役割を担っていた 16 。こうして今井町は、信仰と生存戦略が一体となった、鉄壁の武装宗教都市へと姿を変えたのである。
第三章:存亡を賭けた決断(1575年)― 降伏と自治の獲得
3-1. 迫りくる脅威と内部の葛藤
天正3年(1575年)5月、織田信長は長篠の戦いで宿敵・武田勝頼の軍勢を壊滅させ、その権威を不動のものとした。これにより、信長は後顧の憂いなく、畿内に残る反抗勢力、とりわけ石山本願寺とその門徒衆の掃討に全力を注ぐことが可能となった。今井町もまた、本願寺に与する武装拠点として、信長軍の主要な攻撃目標の一つとなり、その軍事的圧力は日増しに高まっていった。
この絶体絶命の状況下で、今井町の町衆で構成される自治組織「今井郷惣中(いまいごうそうちゅう)」は、究極の選択を迫られた。本願寺への信仰と忠誠を貫き、玉砕覚悟で徹底抗戦を続けるのか。それとも、本願寺を見捨てて単独で信長に降伏し、共同体の存続を図るのか。町内では、連日連夜、激しい議論が交わされたであろうことは想像に難くない。それは、信仰と現実、理想と生存の間で揺れ動く、苦渋の決断であった。
3-2. 交渉のキーパーソンたち
この存亡の危機において、今井町が単なる殲滅戦ではなく、政治交渉による解決の道を見出すことができたのは、いくつかの重要な人物の介在があったからである。
一人は、織田家の重臣であり、畿内方面の交渉事を一任されていた明智光秀である。光秀は、武力による制圧だけでなく、外交交渉によって敵対勢力を巧みに切り崩す能力に長けていた。今井町が降伏を模索する中で、光秀がその交渉窓口となり、和睦の道筋をつけたことが記録されている 1 。
もう一人の重要人物が、堺の豪商であり、茶人として信長から絶大な信頼を得ていた今井宗久である 23 。宗久は、信長が堺に矢銭(軍資金)二万貫を要求した際に会合衆を説得して応じさせるなど、信長と堺の町衆との間を取り持つ重要な役割を果たしていた 24 。今井町と堺は経済的な結びつきも深く、また茶道文化を共有する土壌もあったことから 16 、宗久が信長との仲介役として動いた可能性は極めて高い。信長が個人的に価値を認める人物が間に入ることで、この問題は純粋な軍事案件から、高度な政治交渉へと昇華されたのである。
3-3. 降伏の条件と赦免状
明智光秀や今井宗久を通じた粘り強い交渉の結果、今井町は信長への降伏を受け入れた。その条件は、町の周囲に張り巡らされた環濠や土塁といった一切の武装を破棄することであった 9 。
そして天正3年(1575年)、今井郷惣中宛に、信長から「天下布武」の朱印が押された赦免状が正式に発給された 1 。この書状により、町民の生命と財産の安全、そして一向宗の信仰を続ける自由が保証された。しかし、その内容は単なる赦免に留まらなかった。武装解除という全面的な恭順の姿勢と引き換えに、今井町には「万事大坂同前」という破格の特権が与えられたのである 15 。これは、堺のような先進的な自治都市と同等の権利、すなわち町内における検断権(警察権・司法権)を含む高度な自治を、天下人である信長が公式に認めるという画期的な内容であった 26 。
この結末は、信長という人物の二面性を如実に物語っている。彼は、伊勢長島や越前の一向一揆に対しては根切り(皆殺し)という徹底的な殲滅策をとる「破壊者」の顔を持つ一方で、今井町に対しては、その経済的価値を冷静に評価し、支配下に置くことで自らの利益とする「現実主義的な統治者」の顔を見せた。今井町は、その類稀な経済力と、巧みな交渉戦略によって、信長の「経営者」としての一面に訴えかけることに成功し、滅亡の淵から奇跡的な生還を果たしたのである。
第四章:「陸の堺」の誕生 ― 自治都市・今井町の実像
信長からの赦免状によって法的な裏付けを得た今井町の自治は、その後、豊臣、徳川の時代を通じて発展し、その経済力は「海の堺、陸の今井」と並び称されるほどの隆盛を極めた 15 。その繁栄は、町衆自身の手による精緻な統治機構によって支えられていた。
4-1. 自治を支える統治機構「惣中」
今井町の町政は、「惣年寄(そうどしより)」と呼ばれる三つの有力な家によって運営されていた。元和7年(1621年)に今西氏と尾崎氏が任命され、寛永16年(1639年)に上田氏が加わった 1 。惣年寄は単なる名誉職ではなく、町の行政、財政、司法、警察といった広範な権限を掌握する、事実上の最高意思決定機関であった 30 。
特に注目すべきは、彼らに「死罪を除く司法権・警察権」が幕府から公式に委任されていた点である 26 。惣年寄筆頭であった今西家の屋敷には、罪人を裁くための「お白州」が設けられ 26 、同じく惣年寄の尾崎家の屋敷にも「裁きの間」と呼ばれる空間が存在した 29 。金銭の貸し借りや商取引上の紛争、町内での騒動といった問題は、武士や代官の介入を待つことなく、町衆自らの手によって裁かれ、解決された。これは、今井町が名実ともに高度な自治権を有していたことの証左である。
4-2. 住民が作る秩序「町掟」
惣年寄を中心とする統治機構の下で、町内の秩序は住民自らが定めた「町掟(まちおきて)」によって維持されていた 31 。この町掟は、日常生活の細部に至るまで規定し、住民一人ひとりがそれを遵守することで、共同体としての規律が保たれていた。
治安維持に対する意識は極めて高く、その一端は町の構造にも見て取れる。例えば、町内には旅籠屋が一切存在せず、外部の者が宿泊を必要とする場合には、必ず町年寄に届け出て許可を得なければならなかった 20 。夜間には九つの門がすべて閉ざされ、町は外部から完全に遮断された。莫大な富が集積する商業都市の安全を守るため、厳格な管理体制が敷かれていたのである。
4-3. 「大和の金は今井に七分」― 経済的繁栄
自治権の確立は、今井町の商業活動を飛躍的に発展させた。「大和の金は今井に七分」と謳われるほどの富がこの町に集まった 27 。その経済基盤は多岐にわたっていた。繰綿や木綿、古手(古着)といった繊維産業、酒造業、そして「細九」の屋号で知られた金物商などが栄えた 31 。
中でも特筆すべきは、その潤沢な資金力を背景にした金融業の発展である。町の有力商人たちは、諸藩の大名に資金を貸し付ける「大名貸し」を行い、大きな影響力を持った 1 。この経済力を象徴するのが、寛永11年(1634年)に幕府の許可を得て発行された独自の紙幣「今井札」である 1 。今西家や尾崎家が札元となり発行されたこの銀札は、藩札と同等の価値を持ち、高い兌換性(だかんせい)から信用を得て、74年間にわたり広く流通した 1 。一介の町が独自の通貨を発行し得たという事実は、今井町が当時の日本においていかに特異な存在であったかを物語っている。
今井町の自治の特質をより深く理解するために、同時代の代表的な自治都市である堺、平野郷と比較することは有益である。
項目 |
今井町 |
堺 |
平野郷 |
成立背景 |
一向宗寺内町 1 |
国際貿易港 35 |
荘園・環濠集落 36 |
自治の根拠 |
織田信長からの特権承認 15 |
経済力に基づく実力と伝統 38 |
地縁的結束と自衛組織 39 |
統治主体 |
惣年寄(今西・尾崎・上田氏) 28 |
会合衆(有力商人による寡頭制) 38 |
平野七名家 37 |
防衛機能 |
環濠・土塁・九つの門(後に撤去) 18 |
環濠・土塁 40 |
二重環濠・十三の門 36 |
経済基盤 |
国内商業(木綿、金融、酒造) 32 |
国際貿易、鉄砲生産 43 |
水運、国内商業(木綿) 42 |
この比較から、今井町が寺内町という宗教的結束を起源としながらも、信長という中央権力との政治的取引によって自治権を公認された点で、堺や平野郷とは異なる発展経路を辿ったことがわかる。その統治構造や経済基盤は、戦国乱世を生き抜き、新たな時代に適応していく中で形成された、独自の性格を持っていたのである。
第五章:泰平の世における自治の変容と遺産
戦国時代が終わり、強力な中央集権体制が確立される中で、今井町の自治もまたその姿を変えていく。しかし、その精神は失われることなく、新たな時代の枠組みの中で継承されていった。
5-1. 豊臣政権下の再編
天正3年(1575年)に自治権を獲得した今井町であったが、その特権的な地位は永続するものではなかった。豊臣秀吉が天下を統一すると、その中央集権的な政策は今井町にも及んだ。文禄4年(1595年)に実施された太閤検地により、今井町は「今井村」として公式に石高を算定され、年貢を納める義務を負うことになった 1 。これは、寺内町が有していた治外法権的な特権が、国家の統一的な支配体制の中に組み込まれ、実質的に終焉したことを意味する。秀吉の政権は、公家や寺社領といった伝統的な聖域にさえ石高制を適用しており 44 、今井町もその大きな歴史の流れから例外ではあり得なかった。
5-2. 江戸幕府下の天領として
関ヶ原の戦いの後、今井町は一時的に徳川幕府の直轄地(天領)となり、延宝7年(1679年)に再び天領に組み入れられて以降、これが定着した 1 。一見すると、これは町の独立性が失われたことを意味するように思える。しかし、実態は異なっていた。
江戸幕府は、今井町が持つ絶大な経済力と、惣年寄を中心とする高度な自己統治能力を高く評価していた。一般の村が平均40戸程度であったのに対し、今井町は1000軒を超える家数と4000人以上の人口を擁する巨大な町場であった 26 。幕府は、この町を直接支配するよりも、既存の自治組織を活用した間接統治の方が効率的であると判断したのである。結果として、惣年寄は幕府の代官の支配の一翼を担う存在として位置づけられ、町方支配の実務を継続して担った 16 。法的な独立性は失われたものの、戦国時代に培われた運営能力を幕府に認めさせることで、実質的な自治を維持し続けたのである。これは、外部環境の変化に適応しながら、自らのアイデンティティを維持した、したたかな共同体の姿であった。
5-3. 自治の精神と文化的遺産
戦国乱世を自らの力で生き抜いたという経験によって培われた「自治の精神」と共同体としての結束力は、江戸時代の泰平の世においても町の繁栄を支える原動力となった。経済的な豊かさは、人々の暮らしに潤いをもたらし、茶道、華道、能楽、和歌といった多様な文化活動を開花させた 13 。
この自治の伝統と経済的繁栄こそが、今日の我々が目にする奇跡的な町並みを残す最大の要因となった。住民たちは、自らの手で築き上げた町に強い誇りと愛着を持ち、その景観を大切に守り続けた。戦国時代に形成された町割り 18 と、江戸時代に建てられた500棟以上もの伝統的建造物が一体となって残る景観は、単なる偶然の産物ではない。それは、自治の精神が数世紀にわたって受け継がれてきたことの、何より雄弁な証なのである。
結論:今井町の選択 ― 抵抗と協調が生んだ奇跡
1568年の織田信長上洛という、戦国時代の秩序を揺るがす巨大な衝撃に対し、大和国の一寺内町であった今井町がとった行動は、日本の都市史において特筆すべき軌跡を辿った。当初、彼らは本願寺への信仰に基づき、信長に対して「武装抵抗」という明確な敵対行動を選択した。町全体を要塞化し、巨大な軍事力に立ち向かう覚悟を決めたのである。
しかし、彼らが非凡であったのは、その後の戦略転換の柔軟さにあった。信長の圧倒的な力の前に、ただ滅びる道を選ぶのではなく、力の差を冷静に判断し、「交渉による降伏と協調」へと大きく舵を切った。この現実主義的な決断こそが、町を殲滅の危機から救い、武装解除と引き換えに「自治」という最大の果実を勝ち取ることを可能にした。
今井町の事例は、戦国時代から近世へと移行する社会において、武力だけが全てを決定するわけではないという、重要な歴史的教訓を示している。彼らは、経済力という交渉の切り札を持ち、明智光秀や今井宗久といったキーパーソンを介した情報収集能力と交渉力を駆使し、そして何よりも「惣中」という共同体の強固な結束力を背景に、巨大な権力と対峙した。これらの「ソフトパワー」を巧みに用いることで、自らの存続と、その後の「陸の堺」と称されるほどの商業的繁栄を勝ち取ったのである。
今井町の自治確立の物語は、絶対的な権力に一方的に屈するのではなく、それと巧みに交渉し、時には利用することで、自らの活路を見出した人々の知恵と強靭さの記録である。その精神は、戦国の動乱を乗り越えて今なお我々の目の前に広がる、壮麗な町並みの中に、静かに、そして確かに息づいている。
引用文献
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- 織田公上洛列 http://www.lint.ne.jp/~uematsu/jidai8.html
- 称念寺について | 称念寺(稱念寺) 浄土真宗本願寺派 - 奈良 今井町 - https://www.imaicyou-syounenji.com/introduction.html
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- 信長の堺支配 「金と力のある街、力づくで潰しては元も子もない」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2752
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- 今井町【重要伝統的建造物群保存地区】|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/02old_house/03east_area/imaichonomachinami/
- 今井町、 重要伝統的建造物群保存地区 https://kashihara-kanko.or.jp/download/pamphlet/imai_machinami.pdf
- 今井町のしくみと心を支えた尾崎家について - 株式会社百代 HAKUTAI https://hakutai.info/archives/5784/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E7%94%BA%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF%E3%81%A8%E5%BF%83%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%AE%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
- 奈良県橿原市今井町について - 株式会社百代 HAKUTAI https://hakutai.info/archives/5772/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%B8%82%E4%BB%8A%E4%BA%95%E7%94%BA%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6
- 重要伝統的建造物群保存地区 今井町 その3 | あべしんのブログ https://ameblo.jp/polarstar0507/entry-12083838656.html
- 古代史オタクが行く奈良・和歌山2泊3日の旅~番外編・すがすがし~|バス観光マガジン https://www.bus-trip.jp/magazine/kankonews/nara/52811
- 2017年3月・奈良旅行 今井町③ - にゃんこと一緒 のんびりくるま旅 - FC2 http://alking.blog12.fc2.com/blog-entry-468.html
- 重要文化財 - 今井町町並み保存会 http://www3.kcn.ne.jp/~imaicho/bunkazai.html
- 2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p02.html
- 中近世の自治都市平野郷を訪ねる https://murata35.com/rekisiuo-ku/hiranogou/index.html
- 杭全 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%AD%E5%85%A8
- 会合衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E5%90%88%E8%A1%86
- 第35回特集展示「大阪町めぐり 平野-戦国時代を生き抜いた豪商の町-」 https://www.osakamushis.jp/news/2005/machi_hirano.html
- 戦国時代の京都について~その④ 巨大な「環濠集落」であった、戦国期の堺と京 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/04/25/113244
- 環濠都市・堺。500年の歴史&ロマンをめぐって - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/81
- 中世の自治都市・堺&平野~戦国時代に独立を維持した商業都市~ (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/2833/?pg=2
- 10 戦国堺をめぐる人々3:織田信長 https://xn--u6jwlr50i3oliz5cjiq.club/10-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A0%BA%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%80%853%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7/
- 室町時代の相国寺領荘園 https://www.shokoku-ji.jp/wp-content/uploads/2021/01/8d68664f1f56d8b9886f53a77adddc4d.pdf