最終更新日 2025-09-18

伊賀惣国一揆再建(1568)

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永禄十一年 伊賀国権力構造の再編 ―六角氏の崩壊と惣国一揆の自立―

序論:問いの提示 ―「再建」の本質を探る

永禄十一年(1568年)は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を敢行し、畿内の政治情勢を一変させた、戦国史における一大転換点として広く認識されている。この歴史的な激動の最中、伊賀国において「伊賀惣国一揆再建」と称される事象が発生したとされる。一般的にこの出来事は、「国人自治体制を再建し内政を運営」したものと要約されるが、この簡潔な記述の裏には、より複雑でダイナミックな歴史の展開が隠されている。一見すると伊賀内部の自律的な動きと捉えられがちなこの「再建」は、なぜこの特定の年に、そしてどのような形で実行される必要があったのか。

本報告書は、この問いを深く掘り下げることを目的とする。その核心的な仮説は、「伊賀惣国一揆再建」が単なる内部的な体制整備ではなく、畿内全体の地政学的な大変動、とりわけ長年にわたり伊賀の事実上の宗主国として君臨してきた南近江の六角氏が、信長の侵攻によって瞬く間に崩壊したという外部要因に直接的に起因する、受動的かつ能動的な自己防衛体制の再構築であった、というものである。伊賀の国人衆は、突如として出現した権力の空白と、織田信長という未知かつ強大な軍事的脅威に直面し、国家存亡の危機感から、既存の自治統治システムを再確認し、強化せざるを得なかったのである。

この仮説を検証するため、本報告書は三部構成を採る。第一章では、1568年以前の伊賀国が有していた特異な統治構造、すなわち「惣国一揆」の実像と、六角氏との関係性を中心とした外部環境を明らかにする。第二章では、本報告書の核心部分として、永禄十一年に伊賀周辺で発生した一連の出来事を、可能な限り詳細な時系列に沿って再構成し、事態の急変が伊賀国に与えたリアルタイムの衝撃を追体験する。そして第三章において、これらの分析を踏まえ、「再建」という言葉が具体的に何を意味したのか、その歴史的意義はどこにあるのかを多角的に考察し、この事象が後の天正伊賀の乱へと至る道筋をいかにして決定づけたのかを論証する。


第一章:永禄十一年以前の伊賀国 ―「惣国一揆」の実像と外部環境―

永禄十一年の「再建」を理解するためには、まずその対象となった伊賀の社会構造と、それが置かれていた政治的環境を正確に把握する必要がある。伊賀は、その地理的特性から独自の統治形態を発展させ、外部権力と巧みな関係を築きながら、事実上の独立を維持していた。

第一節:伊賀の地理的特性と独立の気風

伊賀国が戦国時代において特異な存在たり得た根源は、その地理的条件に求めることができる。四方を険しい山々に囲まれた上野盆地を中心とするこの地域は、外部からの大規模な軍事侵攻を物理的に困難にする天然の要害であった 1 。この地理的閉鎖性は、中央権力の影響が及びにくい環境を生み出し、外部の価値観や支配体制とは一線を画す、独自の文化と社会を育む土壌となった。

中世後期、畿内各地で活動した「悪党」と呼ばれる武士団が、こうした伊賀の地勢を拠点としたことは、その自立性の強い気風を象徴している 2 。彼らの活動を通じて、特定の強力な支配者に服属せず、自らの実力で土地と権益を守ろうとする地侍層が伊賀国内に多数割拠する状況が形成された 3 。伊賀国内には東大寺などの荘園が点在していたが、それらを管理する地侍たちは、荘園領主の権威を認めつつも、実質的な支配権を自らの手中に収めていった。

この政治的風土は、なぜ伊賀に強力な守護大名や戦国大名が生まれなかったのかという問いに対する答えでもある。第一に、盆地という地形が、大規模な軍隊の展開と兵站の維持を著しく困難にした。第二に、盆地内に複数の荘園がモザイク状に存在し、それぞれに血縁を核とした同族集団が根付いていたため、一人の傑出した権力者が国全体を統一することが構造的に難しかった 5 。その結果、伊賀の地侍たちは、外部からの支配を一致団結して排除し、内部では互いの利害を合議によって調整するという、必然的な政治文化を醸成していった。これが、後に「伊賀惣国一揆」として知られる統治形態の原点である。伊賀の統治システムは、観念的な理念から生まれたものではなく、その地理的条件と歴史的経緯によって強く規定された、必然の帰結であったと言える。

第二節:「惣国一揆」の統治構造 ―十二人評定衆と掟にみる自治の実態

応仁の乱(1467-77年)の前後から、伊賀の地侍たちは「惣(そう)」あるいは「一揆」と呼ばれる、一種の自治共和体制を確立していった 7 。これは、特定の国主を戴かず、一国規模で地侍層が結合し、検断(警察・司法権)や半済(軍事目的の徴税権)といった統治権を自ら行使するものであった 8 。この統治共同体の執行部として機能したのが、伊賀国内の各地域から選出された12人(史料によっては10人ともされる)の「評定衆」であった 5 。彼らは合議によって国の重要事項を決定し、その運営にあたった。江戸時代の地誌『伊乱記』によれば、意見が割れた際には「入れ札」(投票)によって決したとされ、これは近世以前の日本における極めて先進的な共和制の姿を伝えている 7

この自治共同体の性格を最も雄弁に物語るのが、近江国甲賀郡の山中家に伝えられた唯一の史料『惣国一揆掟之事』(通称:伊賀惣国一揆掟書)である 11 。その制定年代は明確ではないが、1552年から1567年の間と推測されており 1 、まさに織田信長の脅威が現実のものとなる直前期に、伊賀の防衛体制が文書として確立されていたことを示唆している。その内容は、単なる地域の取り決めではなく、事実上の独立国家が定めた「憲法」であり、同時に「国家総動員法」とも言うべき性格を帯びていた。

掟書の主要な条項は、そのほとんどが対外的な軍事防衛に関するものである 11

  • 総力戦の原則: 他国勢力が侵入した際には、「惣国一味同心」して、つまり国全体が心を一つにして防戦することが義務付けられている。
  • 緊急動員システム: 敵侵入の報(注進)があれば、各里の鐘を鳴らし、それを合図に即座に出陣することが定められている。これは、情報伝達と動員の迅速性を確保するための高度なシステムである 12
  • 国民皆兵の義務: 17歳から50歳までの全ての男子に出陣義務が課され、長期戦の場合は番を編成して交代で務めることになっていた。さらに、若い僧侶も例外ではなく、出陣が求められた 10
  • 裏切りへの厳罰: 最も重い罪とされたのが、他国勢力を引き入れたり、内通したりする行為である。発覚した場合、その者は一族郎党から討伐され、所領は没収されるという厳しい罰則が科せられた 11
  • 特定の敵国への警戒: 掟書には、隣国である大和国(現在の奈良県)の勢力に対する強い警戒心が明記されており、「大和の大将級の浪人は絶対に許すな」といった具体的な記述も見られる 12 。これは、大和宇陀郡の三人衆などによる侵攻が、惣国一揆成立の一因であったことを示唆している 11

これらの条項は、伊賀が常に外部からの侵略の脅威に晒され、その存続のために内部の結束を何よりも優先していたという、厳しい現実を反映している。個人の利害や都合よりも「惣国」全体の防衛が絶対的な価値を持つという思想が貫かれており、『伊賀惣国一揆掟之事』は、伊賀が単なる地侍の寄り合いではなく、高度に組織化された独立武装共同体として機能していたことを示す、第一級の証拠と言えるだろう。

第三節:二重の外部権力 ―名ばかりの守護・仁木氏と実効支配者・六角氏

このように強固な自治体制を築いていた伊賀国であるが、完全に外部から孤立していたわけではない。戦国時代の政治秩序の中で、伊賀は二つの外部権力と複雑な関係を結んでいた。

一つは、室町幕府によって正式に伊賀守護に任じられていた仁木氏である。仁木氏は足利一門の名家であり、南北朝時代には伊賀・伊勢などの守護職を歴任した 13 。しかし、戦国時代に至る頃にはその勢力は著しく衰退しており、伊賀国内における支配力は極めて脆弱なものとなっていた 15 。伊賀の国人衆は、仁木氏を名目上の守護として形式的には立てていたものの、その実質的な支配を許すことはなく、統治の実権は完全に惣国一揆が掌握していた。仁木氏は、伊賀の自治を追認するだけの、いわば名ばかりの権威に過ぎなかったのである。

これに対し、伊賀に対して実質的な影響力を持っていたのが、北に隣接する南近江の守護大名・六角氏であった。六角義賢(出家後は承禎)の時代、六角家は南近江6郡に加え、伊賀国4郡のうち3郡を間接的に統治していたと記録されている 17 。これは、六角氏が伊賀の宗主国として振る舞い、伊賀の国人衆もそれを一定程度受け入れていたことを示している。過去には、六角氏が幕府軍と戦った際に、伊賀・甲賀衆がこれに味方してゲリラ戦を展開し、勝利に貢献したという歴史的経緯もあり、両者の間には単なる支配・被支配に留まらない協力関係が存在した 19

伊賀の国人衆が、なぜこれほど強固な独立志向を持ちながら、六角氏の間接支配を受け入れたのか。それは、独立を維持するための高度な戦略的判断があったと考えられる。まず、六角氏自身、伊賀衆の卓越した戦闘能力 22 を熟知しており、彼らを直接支配下に置くことは多大なコストとリスクを伴うため、間接的な統治に留めていた可能性が高い。一方、伊賀衆にとって、当時畿内で大きな勢力を誇った六角氏を名目上の宗主とすることは、東の伊勢国司・北畠氏や、南の大和国人衆といった他の勢力からの干渉や侵攻を防ぐための、極めて有効な「盾」として機能した。つまり、両者の関係は一方的な支配ではなく、互いの利害が一致した、ある種の共存共栄関係であったと解釈できる。伊賀は、六角氏という「緩やかな支配者」の権威を利用することで、より直接的で過酷な支配を試みるであろう他の勢力を牽制し、自らの自治を守っていたのである。

永禄十一年以前の伊賀国は、このように、名目上の守護である仁木氏と、実質的な宗主である六角氏という二重の外部権力の下で、巧みに政治的なバランスを取りながら、その実質的な独立を維持していた。しかし、この絶妙な均衡は、永禄十一年秋、織田信長の上洛によって、あまりにも唐突に、そして決定的に崩れ去ることになる。


第二章:激動の永禄十一年 ―伊賀を取り巻く情勢の急変―

永禄十一年(1568年)秋、織田信長の上洛軍が畿内を席巻した。この軍事行動は、伊賀国を取り巻く政治・軍事環境を根底から覆し、惣国一揆のあり方に決定的な影響を与えた。ここでは、一連の出来事を時系列に沿って詳細に追うことで、伊賀が直面した危機の実態を明らかにする。

第一節:序曲 ―織田信長の上洛作戦始動(1568年9月以前)

永禄八年(1565年)の永禄の変で将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害された後、その弟である足利義昭は、越前の朝倉義景などを頼り、将軍職への復帰と幕府再興を目指して流浪していた。最終的に義昭が頼ったのが、美濃国を平定し、天下にその名を轟かせ始めていた織田信長であった。信長は「天下布武」の理念を掲げ、義昭を奉じて京都へ上ることを決意。これは、将軍を擁立するという大義名分を得て、畿内へと支配権を拡大するための絶好の機会であった。

上洛を成功させるためには、美濃から京都へ至るルートの安全確保が不可欠であった。その経路上に巨大な勢力圏を築いていたのが、南近江の守護大名・六角義賢、義治父子である。信長は、義昭を通じて六角氏に上洛への協力を繰り返し要請した。義昭は「協力すれば幕府の所司代に任じる」という破格の条件まで提示したが、六角氏はこれを頑なに拒絶した 23 。六角氏は足利一門佐々木氏の嫡流という名門意識が極めて強く、尾張の一地方大名に過ぎなかった信長の風下に立つことは、そのプライドが許さなかったのである。交渉は決裂し、信長は六角氏を武力で排除して上洛ルートを切り開くことを決断。畿内の勢力図を塗り替える戦いの火蓋が切られようとしていた。

第二節:観音寺城の陥落と六角氏の崩壊(1568年9月7日~13日)

永禄十一年九月七日、織田信長は美濃・岐阜城を出陣した。その軍勢は、尾張・美濃の兵に加え、同盟者である三河の徳川家康、そして北近江の浅井長政の援軍も加わり、総勢およそ6万という、当時としては破格の大軍であった 23 。対する六角軍の兵力は、約1万1千 23 。戦力差は歴然としていた。

信長軍は南近江へ侵攻し、六角氏の本拠地である観音寺城へと迫った。観音寺城は、標高433メートルの繖山(きぬがさやま)全体を要塞化した巨大な山城であり、18もの支城群に守られた難攻不落の名城として知られていた。六角氏は、前衛の支城である和田山城などで織田軍を迎え撃つ構えであった 23

しかし、信長の戦術は六角氏の想定を遥かに超えていた。九月十二日、織田軍の主力は、観音寺城のさらに奥、背後を突く位置にある支城・箕作城(みつくりじょう)に猛攻を仕掛けた 23 。佐久間信盛、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀らが率いる部隊は、峻険な山城であるにもかかわらず、決死の攻撃を敢行。激戦の末、わずか一日で箕作城と、隣接する和田山城を陥落させてしまったのである 26

この知らせは、観音寺城の本丸にいた六角義賢・義治父子に計り知れない衝撃を与えた。最強の支城が瞬く間に落ちたことで、城全体の防衛線は崩壊。父子は戦意を喪失し、九月十三日の夜、城に火を放って夜陰に紛れ、南へと逃走した 26 。主を失った観音寺城の将兵は次々と降伏し、信長はほとんど抵抗を受けることなく、名城・観音寺城をその手中に収めた。

この一連の出来事は、伊賀国にとって対岸の火事ではなかった。それは、長年にわたり自国の安全保障の基盤となってきた「宗主国の消滅」を意味した。伊賀の国人衆にとって、六角氏は時に介入してくる厄介な存在でありながらも、同時に他国からの侵略を防ぐ巨大な「盾」でもあった。その盾が、わずか数日の戦闘で木っ端微塵に砕け散ったのである。この衝撃的なニュースは、伊賀国内を瞬時に駆け巡ったはずである。そして、その盾の向こうから現れたのは、六角氏を遥かに凌駕する軍事力と、容赦のない殲滅戦をも辞さない苛烈さを持つ織田信長という、全く新しい次元の脅威であった。伊賀にとって、観音寺城の陥落は、自国の安全保障環境が根底から覆された、まさに国家存亡の危機であった。

第三節:権力の空白と新たな動乱 ―六角残党の伊賀流入(1568年9月14日以降)

観音寺城を脱出した六角義賢・義治父子が逃走先に選んだのは、彼らの支配領域の南端に位置し、旧来から協力関係にあった甲賀郡、そして伊賀国であった 18 。山深く、ゲリラ戦に長けた国人衆が割拠するこの地域は、織田の大軍から身を隠し、再起を図るには最適な場所だったのである。

伊賀・甲賀の国人衆は、敗走してきた旧主・六角親子を匿い、受け入れた。これは、過去の共闘関係に基づく「義理」によるものであったかもしれない 21 。しかし、それ以上に、織田信長という共通の敵に対する、冷徹な戦略的判断が働いていたと見るべきである。信長の苛烈なやり方は、自らの独立を至上の価値とする伊賀・甲賀の国人衆にとって、到底受け入れられるものではなかった。彼らにとって、六角氏を支援し、織田勢力に抵抗することは、自らの自治と存続を守るための唯一の道であった。

この結果、伊賀国は「権力の空白地帯」となる猶予もなく、間髪入れずに「反織田闘争の最前線基地」へとその姿を変えた。六角氏が持つ「反信長」という大義名分と、伊賀衆が持つ卓越したゲリラ戦のノウハウが結びつき、伊賀は信長包囲網の南の拠点という、明確な政治的・軍事的性格を帯びることになったのである 18 。六角氏の流入は、伊賀を畿内の主要な政治紛争の渦中へと否応なく引きずり込んだ。そして、この急迫した軍事的脅威こそが、伊賀の国人衆に「惣国一揆の再建」、すなわち対織田という新たな現実に即した国家防衛体制の再構築を迫る、直接的な引き金となったのである。

以下の時系列表は、永禄十一年秋の数週間に、伊賀国周辺で何が起こったのかを、各勢力の動向を並行して示すことで、その激動の様相を再現するものである。

表1:永禄十一年(1568年)における伊賀関連の時系列表

年月日

織田信長の動向

六角氏の動向

伊賀国の状況(推定含む)

1568年9月7日

岐阜を出陣。南近江へ侵攻開始。

観音寺城にて籠城の構え。

宗主国・六角氏と織田氏の対決を注視。緊張が高まる。

1568年9月12日

箕作城・和田山城を攻撃。

支城で激しい防衛戦を展開。

戦況の報が断続的に伝わる。惣国の防衛体制について評定衆による協議が開始される可能性。

1568年9月13日

支城を陥落させる。

観音寺城を放棄し、甲賀・伊賀方面へ敗走。

【権力構造の激変】 宗主国が事実上消滅。織田勢力が隣接する事態に。里々の鐘が鳴らされ、一揆の動員体制が発令された可能性が高い。

1568年9月14日以降

近江の平定を進め、9月27日には義昭と共に三井寺へ入る。

甲賀・伊賀の国人衆に匿われ、ゲリラ戦の準備を進める。

六角義賢・義治父子を受け入れる。評定衆による緊急会議が開かれ、**「惣国一揆の再建(=対織田防衛体制の再確認と強化)」**が決議される。

1568年10月~12月

9月28日に入京。畿内の支配を固める。

伊賀・甲賀衆と共に、近江国内で織田方への抵抗を続ける。

六角氏と共同で、反信長闘争を開始。伊賀は事実上、反織田連合の最前線基地となる。

この表が示すように、六角氏の「敗走」と伊賀の「再建」は、ほぼ同時に発生した、密接不可分な出来事であった。伊賀の国人衆は、外部環境の激変に対し、驚くべき速さで対応し、自らの運命を自らの手で切り開くための決断を下したのである。


第三章:「惣国一揆再建」の解釈 ―自治体制の再確認と強化―

第二章で詳述した通り、永禄十一年秋の情勢急変は、伊賀国に国家存亡の危機をもたらした。この危機に対応するために行われたのが「惣国一揆再建」である。この章では、「再建」という言葉が具体的にどのような行動を指し、それが伊賀の歴史にどのような意味を持ったのかを深く考察する。

第一節:「再建」の具体的な行動

まず明確にすべきは、1568年の「再建」が、無から有を生み出すような、全く新しい統治体制の「創造」ではなかったという点である。伊賀には、既に「惣国一揆」という高度に機能的な自治・防衛システムが存在していた。したがって、ここでの「再建」とは、その既存のシステムを、織田信長という新たな、そして桁違いの脅威に対応するために、 再確認し、再結束し、そして強化する 一連のプロセスであったと定義するのが最も適切である。それは、平時のための統治機構から、非常時、すなわち対織田戦争を遂行するための戦時体制へと、国家のあり方を転換させる行為であった。

史料に具体的な行動が記録されているわけではないが、当時の状況から、以下のような行動が取られたと強く推定される。

  1. 評定衆による国家方針の決定: 伊賀各地の地侍を代表する十二人評定衆が緊急に招集され、国家の最高意思決定会議が開かれたはずである。ここで、敗走してきた六角氏を庇護し、織田信長に対しては徹底抗戦するという、伊賀国人衆の総意としての方針が正式に決定された。これは、伊賀の運命を左右する極めて重要な政治的決断であった。
  2. 「惣国一揆掟」の再確認と厳格化: 『惣国一揆掟之事』に定められた数々の条項が、改めて全構成員に対して通達され、その遵守が厳しく求められた。特に、他国との内通を禁じる条項は、織田方からの調略を防ぐために、これまで以上に徹底されたであろう。違反者への厳罰を再確認することで、内部の結束を極限まで高め、惣国全体が一枚岩となって敵に当たる体制を固めた。
  3. 軍事体制の再編と近代化: 織田軍の強さの源泉が、鉄砲の集団運用や高度な兵站管理にあることは、既に伊賀の国人衆にも伝わっていたはずである。これに対抗するため、従来の夜襲や奇襲といったゲリラ戦術 22 に加え、国境付近の城砦の防備を強化し、兵糧や武具弾薬の備蓄を計画的に進めるなど、より組織的かつ近代的な防衛体制の構築に着手した可能性が高い。
  4. 対外関係の再構築と反信長連合への参画: 孤立して織田の大軍に抗することは不可能である。伊賀惣国一揆は、かねてより連携関係にあった隣国の甲賀郡中惣との同盟をさらに強化し 11 、共同で六角氏を支援する体制を確立した。さらに、この動きを契機として、浅井・朝倉氏、三好三人衆、石山本願寺といった、他の反信長勢力との連携を水面下で模索し始めたと考えられる。伊賀は、一地方勢力から、畿内全域に広がる「信長包囲網」の重要な一角を担う存在へと、その戦略的地位を変化させていったのである。

第二節:名目上の守護・仁木氏の排除と自治の純化

永禄十一年の危機は、伊賀の統治構造から最後の「曖昧さ」を払拭する契機ともなった。それは、名目上の守護であった仁木氏の権威の完全な失墜である。これまで伊賀は、仁木氏を形式的に立て、六角氏を実質的な宗主とすることで、外部世界とのバランスを保ってきた。しかし、その「盾」であった六角氏が崩壊したことで、仁木氏を立てておく政治的意味は失われた。

この伊賀の態度の変化を象徴する出来事が、数年後に起こる。元亀二年(1571年)、畿内を平定した織田信長は、仁木氏の一族である仁木義視(友梅)を新たな伊賀守護として送り込んできた 29 。これは、伊賀を自らの支配体制下に組み込むための、信長による政治工作であった。驚くべきことに、伊賀の国人衆は一度はこの仁木義視を迎え入れている 31 。しかし、これはあくまで一時的な戦術であった。最終的に天正六年(1578年)、国人衆は義視の統治に反抗し、彼を伊賀から追放してしまうのである 29

この仁木義視の追放という出来事は、永禄十一年の「再建」と地続きの現象として理解しなければならない。1568年の時点で、伊賀は六角氏の崩壊を目の当たりにし、「いかなる外部権力にも依存せず、自らの力のみで国を守る」という、後戻りのできない決意を固めていた。六角氏という「緩やかな支配者」の庇護を失ったことで、伊賀の独立志向はより純化し、先鋭化していた。その彼らにとって、信長の傀儡(かいらい)である仁木義視による「直接的な支配」の試みは、到底受け入れられるものではなかった。義視の追放は、1568年に固められた伊賀の国家方針の、当然の帰結であった。この事件によって、伊賀は外部の権威を一切認めない、純粋な国人自治の「共和国」へと、その姿を完成させたのである。

第三節:天正伊賀の乱への序章として

永禄十一年(1568年)の「惣国一揆再建」によって確立された伊賀の徹底した反織田路線と、強化された軍事・政治体制は、その後10年以上にわたって維持されることになる。この期間、伊賀は信長包囲網の一翼として、織田勢力に対する執拗な抵抗を続けた。

そして天正七年(1579年)、その成果が劇的な形で示される。信長の次男であり、伊勢国を支配していた織田信雄が、父の許可を得ずに独断で伊賀へ侵攻したのである(第一次天正伊賀の乱)。信雄は1万の軍勢を率いて伊賀に攻め込んだが、待ち構えていた伊賀衆の巧みなゲリラ戦術と地の利を活かした迎撃の前に、惨憺たる敗北を喫した 3 。この勝利は、1568年以来、11年間にわたって培われてきた伊賀の自治防衛体制の有効性を、天下に証明する出来事であった。

しかし、この勝利は同時に、伊賀の悲劇的な結末を決定づけることにもなった。息子の惨敗に激怒した織田信長は、伊賀という小国の完全な殲滅を決意する。そして2年後の天正九年(1581年)、信長は自ら5万とも言われる大軍を組織し、四方八方から伊賀へとなだれ込んだ(第二次天正伊賀の乱)。伊賀衆は各地の城塞に立てこもり、百地丹波(三太夫)らに率いられて決死の抵抗を見せたが、圧倒的な物量の前に次々と拠点を失い、最終的に伊賀惣国一揆は壊滅した 7

この結末から振り返れば、1568年の「再建」は、伊賀がその独立を最後まで貫こうとした抵抗の始まりであったと同時に、天下統一という巨大な歴史の流れに抗しきれず、最終的に飲み込まれていく悲劇への序章でもあった。それは、戦国時代の小国が巨大権力と対峙し、いかにして戦い、そして敗れ去ったかという、一つの典型的な軌跡を示すものであった。


結論:歴史的意義の総括

本報告書で検証してきたように、永禄十一年(1568年)の「伊賀惣国一揆再建」は、単一の孤立した事件ではなく、織田信長の上洛に伴う南近江・六角氏の崩壊という、外部環境の激変に直接触発された、伊賀の国人衆による政治的・軍事的な体制の再構築プロセスであった。それは、自らの自治と独立を守るための、必然的かつ能動的な選択であった。

この事象が持つ歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、それは伊賀が長年にわたる「間接支配」という曖昧な従属状態から完全に脱却し、いかなる外部権力にも依存しない 完全な独立主体として自立した瞬間 であった。六角氏という「盾」の喪失は、伊賀に自らの力のみで国家を防衛するという覚悟を固めさせ、その統治体制をより純化させる結果をもたらした。

第二に、それは伊賀が「反信長」という明確な政治的立場を選択し、その後十数年にわたって展開される 信長包囲網の重要な一角を占めることを決定づけた 出来事であった。六角残党を庇護した時点で、伊賀は信長の天下統一事業における明確な敵対勢力となり、両者の武力衝突は不可避となった。

そして第三に、それは13年後に訪れる悲劇的な結末、すなわち 天正伊賀の乱による惣国一揆の壊滅へと至る道筋を決定づけた、後戻りのできない転換点 であった。1568年の決断がなければ、伊賀は他の多くの国人勢力と同様に、早い段階で織田政権に組み込まれ、その独自の自治共同体を失う代わりに、国家としての絶滅は免れたかもしれない。しかし、彼らは独立の道を選んだ。その選択が、後の壮絶な抵抗と、最終的な悲劇の両方を生み出したのである。

したがって、永禄十一年(1568年)の「伊賀惣国一揆再建」は、戦国乱世の小国が、天下統一という巨大な権力の奔流に飲み込まれていく過程で、その独自のアイデンティティと独立性を最後まで貫こうとした抵抗の始まりとして、日本史において特筆すべき意義を持つものであると結論付けられる。

引用文献

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  12. 甲賀忍者も参戦!?「伊賀惣国一揆」の掟を徹底解剖! - 忍者ポータルサイト https://ninjack.jp/magazine/4SZtLxHT3i34Oe6dzoB3QD
  13. かなざわの人物 仁木義長 - 金澤伊丹氏歴史郷土財団 https://itaminorekishi.com/2021/10/25/nikiyosinaga/
  14. 武家家伝_仁木氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/niki_k.html
  15. 天正伊賀の乱 その1 - 忍びの館の忍者コラム - はてなブログ https://ninja-yakata.hatenablog.com/entry/2017/07/31/232454
  16. 仁木左京大夫義視館 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/024mie/015nikki/nikki.html
  17. 六角義賢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E8%B3%A2
  18. 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/308
  19. 甲賀の焼き討ちは無かった - 公益財団法人滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kiyou-21_kido.pdf
  20. 大河ドラマで毎回無視される近江の超名門大名『六角氏』~観音寺城を奪回せよ~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ZFQh_c9M_jI
  21. 戦国時代の忍者はどんな存在だった?伊賀・甲賀・風魔・軒猿・黒脛巾組 https://sengokubanashi.net/history/sengokujidai-ninja/
  22. 伊賀衆 群を抜く強さ-忍者として 傭兵として - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail203.html
  23. 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡市安土町) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/384
  24. 観音寺城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11093/
  25. 観音寺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  26. 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
  27. 六角氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F
  28. 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
  29. 仁木義視とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E8%A6%96
  30. 戦国!室町時代・国巡り(11)伊賀編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n61b4b7403d4a
  31. ZIPANG TOKIO 2020「忍術は紀元前4000年頃発祥 日本で山岳的な兵法へと発展 今、世界が注目する日本遺産(壱の巻)」 https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3019963/
  32. 伊賀忍/甲賀忍 忍者名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/igaSS/index.htm
  33. 上野城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%9F%8E
  34. 【天正伊賀の乱】伊賀忍者の棟梁?織田信長に徹底抗戦した百地丹波の武勇伝【どうする家康】 https://mag.japaaan.com/archives/203478
  35. 天正伊賀の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E4%BC%8A%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%B9%B1