伊達家家法増補(1550頃)
伊達晴宗は天文の乱後、伊達家家法を実質的に増補。知行安堵状再編、抵抗勢力掃討、米沢への本拠地移転で統治を再構築し、集権的な戦国大名へ転換。
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伊達家における統治規範の崩壊と再編:天文の乱から「家法増補」への道程
序章:「伊達家家法増補」とは何か ―問いの再定義
日本の戦国時代、陸奥国米沢を拠点とした伊達家において、1550年頃に「家法増補」が行われ、領国経営の規範が統一されたという事象は、伊達家の歴史における重要な転換点として認識されている。しかし、この「家法増補」を単一の法典制定、あるいは既存法典の改訂という一点の出来事として捉えることは、歴史の複雑な実態を見誤る可能性がある。
リサーチの結果、1550年前後に特定の「増補法典」が編纂されたという直接的な史料は見出されない。むしろ、この概念が指し示す本質は、伊達家第14代当主・伊達稙宗が制定した画期的な分国法『塵芥集』(1536年)によって一度は確立された統治規範が、その後の伊達家を二分する大内乱「天文の乱」(1542年~1548年)によって完全に崩壊し、乱に勝利した第15代当主・伊達晴宗が、混乱を極めた領国を再統一するために断行した一連の政治的・軍事的・法秩序的回復措置の総体であると解釈するのが最も妥当である。
したがって、本報告書は「伊達家家法増補」を、特定の法典名ではなく、 天文の乱後の伊達晴宗による領国再編・統治体制再確立の歴史的プロセス として再定義する。このプロセスには、乱中に乱発された知行安堵状の整理、抵抗勢力の掃討、そして統治拠点の移転といった多岐にわたる施策が含まれる。本報告書は、これらの施策が既存の『塵芥集』を実質的に補強し、新体制下での運用を可能にした「実質的な家法増補」であったことを、法制史、政治史、軍事史の観点から時系列に沿って多角的に解明することを目的とする。
第一章:規範の礎 ― 伊達稙宗の拡大政策と分国法『塵芥集』の制定(1536年)
晴宗による「増補」を理解するためには、まずその原型であり、同時に内乱の原因ともなった父・稙宗の統治体制、特にその集大成である分国法『塵芥集』を深く分析する必要がある。
1.1. 制定の背景 ― 拡大する伊達家の統治限界
伊達稙宗は、戦国時代の奥州において類稀なる政治手腕を発揮した人物である。彼は十四男七女という多くの子女に恵まれたことを最大限に活用し、周辺の諸大名や国人領主との間に婚姻政策や養子縁組を積極的に展開した 1 。これにより、伊達家は南奥州一帯に広大な影響圏、いわゆる「洞(うつろ)」を形成し、稙宗自身も室町幕府から陸奥国守護に任じられるなど、その権威は頂点に達した 3 。
しかし、この急速な勢力拡大は、従来の慣習法に依存した統治の限界を露呈させた。広範な領域と多様な出自を持つ家臣団を一体的に支配するためには、統一された成文法による領国経営の強化が不可欠であった 3 。稙宗は、棟別制度や段銭制度といった税制改革と並行して、領国支配の根幹をなす分国法の制定に着手した 3 。
1.2. 『塵芥集』の構造と先進性
天文5年(1536年)4月14日に制定された『塵芥集』は、全171条にも及ぶ、戦国時代の分国法の中で最大級の規模を誇る法典である 3 。その名称は、法制史学者・滝川政次郎の説によれば、「塵芥」が当時の用例で「種類の多い」という意味も持ったことから、「世事万般のことを規定した法典」を意図したものとされる 8 。
その体裁は、鎌倉幕府が制定した武家法の基本法典『御成敗式目』を強く意識しており、前文、本文、そして制定に参画した家臣たちの起請文という構成を模倣している 3 。しかし、その内容は伊達氏の領国支配の実情に即した独自のものであり、特に以下の点に顕著な特徴が見られる。
- 刑事法の重視 : 全条文の約3分の1が、殺人、強盗、傷害といった刑事法規で占められている 9 。これは他の分国法と比較しても極めて詳細であり、領国内の治安維持と、大名による裁判権の独占を強く志向した稙宗の意思の表れである。
- 私法規定の充実 : 土地の売買、賃借、質入、相続、そして婚姻に至るまで、家臣や領民の日常生活に深く関わる私法規定が数十条にわたって整備されている 9 。特に第163条では、当事者間の合意があっても、正式な仲介者(媒宿)を介さない婚姻を禁じ、違反者は同罪とするなど、家臣団の私的な結びつきにまで大名権力が介入しようとする強い意志が読み取れる 11 。
- 経済規定の整備 : 『塵芥集』制定に先立つ天文2年(1534年)には、質屋に関する13条の法令『蔵方乃掟』が制定されており、『塵芥集』の補助法として機能した 3 。これは、領国内の経済活動に対しても統一的な基準を設け、統制しようとする先進的な試みであった。
1.3. 他の分国法との比較分析
『塵芥集』は、同時代の他の分国法と比較することで、その位置づけがより明確になる。
- 『今川仮名目録』(今川氏) : 東国で最も早く制定された分国法であり、主に土地に関する訴訟の裁定基準としての性格が強い 12 。『塵芥集』もその影響を受けつつ、より社会全体の規範を網羅しようとした点で包括的である。
- 『甲州法度之次第』(武田氏) : 『今川仮名目録』の影響を受けつつ 15 、家臣団統制の性格がより色濃い 15 。当主自身も法に従うと明記する点に特徴があるが 17 、『塵芥集』は条文数においてこれを大きく凌駕し、より体系的である。
- 喧嘩両成敗 : これら多くの分国法に共通して見られるのが「喧嘩両成敗」の原則である。これは、私的な武力闘争(自力救済)を厳しく禁じ、理由の如何を問わず当事者双方を処罰することで、全ての紛争解決を大名の裁判権の下に一元化しようとするものであった 18 。『塵芥集』にもこの規定は含まれており、戦国大名としての権力確立を目指す共通の方向性を示している。
『塵芥集』の制定は、伊達家の統治を新たな段階へと引き上げる画期的な出来事であった。それは単なる法律集ではなく、伊達稙宗が自らを「奥州の宗主」として位置づけ、その広大な影響圏に統一的な秩序をもたらそうとする壮大な政治的理念の表明であった。神社仏閣に関する規定から始まり、刑事、民事、経済に至るまで、領国社会のあらゆる側面を網羅しようとしたその設計は、伊達氏の当主が単なる一地方領主ではなく、領域全体の秩序を司る公権力であることを内外に示す、極めて意図的なものであった。
しかし、この強力な中央集権化志向と家臣団への厳格な統制は、同時に大きな火種を内包していた。自立性の高い国人領主や譜代の家臣たちの既得権益と衝突する危険性をはらんでいたのである。そして、この緊張関係は、稙宗が嫡男・晴宗の意思さえも無視して強行しようとした養子縁組問題をきっかけに、破滅的な内乱として爆発することになる。かくして、『塵芥集』が目指した理想の統治秩序は、その制定者自身の手によって揺るぎ、崩壊の淵へと追いやられるのであった。
第二章:秩序の崩壊 ― 天文の乱、詳細な時系列分析(1542年~1548年)
『塵芥集』によって確立されたはずの伊達家の統治秩序は、制定からわずか6年後、伊達家史上最大の内乱「天文の乱」によって根底から覆される。この乱は、単なる父子の家督争いに留まらず、伊達家の統治理念そのものを問う、南奥州全域を巻き込んだ大戦乱であった。
2.1. 発端(1542年)― 父子の亀裂
乱の直接的な引き金となったのは、稙宗が自身の三男・時宗丸(後の伊達実元)を、後継者のいない越後守護・上杉定実の養子として送り込もうとした計画であった 5 。稙宗はこの縁組に際し、伊達家の精鋭百騎を時宗丸に付けて越後へ送ろうとしたが、これが家中の深刻な反発を招いた。
嫡男である伊達晴宗は、この措置が伊達家の軍事力を著しく削ぐものであると危惧。さらに、この計画は稙宗の独裁的な統治手法に不満を募らせていた譜代の重臣、中野宗時や桑折景長らにとっても、主君の暴走を止めるための絶好の口実となった 4 。彼らにとってこの問題は、伊達家の将来を左右する一大事であり、実力行使も辞さない覚悟を固めるに至った。
天文11年(1542年)6月、晴宗方はついにクーデターを決行。鷹狩りの帰路にあった父・稙宗を襲撃し、その身柄を確保すると、居城である桑折西山城の一室に幽閉したのである 22 。
2.2. 全面戦争への拡大(1542年後半~1546年)
晴宗による父の幽閉は、事態を収拾するどころか、南奥州全土を巻き込む大乱へと発展させた。幽閉された稙宗は、側近である小梁川宗朝の機転によって西山城から救出されると 23 、すぐさま反撃の狼煙を上げた。
ここに、伊達家を二分する勢力が形成される。
- 稙宗方 : 娘婿である相馬顕胤や懸田俊宗をはじめ、蘆名氏、田村氏、白石氏など、稙宗が築き上げた広範な婚姻ネットワークに連なる大名・国人が中心となった 5 。当初、その兵力と影響力は晴宗方を圧倒しており、戦況は稙宗方優位で進んだ 24 。
- 晴宗方 : クーデターを主導した中野宗時、桑折景長ら、伊達家譜代の家臣団がその中核を成した 24 。彼らは外部勢力との連携では劣るものの、伊達家内部の結束力で対抗した。
戦いの主戦場は伊達郡周辺となり、高子原の戦い 5 や阿武隈川を挟んだ攻防 26 など、数年間にわたって一進一退の激戦が繰り広げられた。天文15年(1546年)には、稙宗方が晴宗方の拠点であった西山城を奪還するなど、依然として稙宗方の優勢は揺るがなかった 24 。
2.3. 転換点(1547年)― 蘆名氏の離反
長期化する戦いの潮目が大きく変わったのは、天文16年(1547年)のことである。これまで稙宗方の中核を担ってきた会津の蘆名盛氏が、突如として稙宗を見限り、晴宗方へと寝返ったのである 24 。
この離反の背景には、蘆名氏と田村氏との領地を巡る対立があった。盛氏にとって、もはや伊達家の内紛に付き合うことよりも、自領の安定と拡大の方が優先順位が高かった。彼は義父である稙宗との関係を断ち切り、義兄にあたる晴宗と手を結ぶという、極めて現実的な政治判断を下した。
蘆名氏という大勢力の離反は、戦局に決定的な影響を与えた。南方の戦線が一気に晴宗方優位に傾き、これまで劣勢に立たされていた晴宗方は勢いを盛り返す。これと時を同じくして、晴宗は拠点を西方の出羽国米沢城へと移し、新たな支持基盤の拡大と戦線の再構築を図った 24 。
2.4. 終結(1548年)― 新体制の確立
蘆名氏の寝返りによって、乱の帰趨はほぼ決した。天文17年(1548年)、晴宗方の優位が確定的となる中、蘆名盛氏や岩城重隆らが仲介に入り、さらに室町幕府第13代将軍・足利義輝からの和睦勧告もあって、同年9月、ついに和議が成立した 5 。
6年以上にわたった大乱の戦後処理は、以下の通り決定された。
- 伊達稙宗は家督を晴宗に譲り、伊具郡の丸森城へ隠居する 5 。
- 伊達晴宗が伊達家第15代当主の座を継承し、本拠地を米沢城に正式に移す 29 。
- 内乱の象徴であった桑折西山城は、和睦の証として廃城となる 24 。
表向きは「和睦」という形をとったものの、その実態は稙宗の完全な敗北であり、クーデターを成功させた晴宗による新体制の発足を意味していた 24 。『塵芥集』に込められた稙宗の理想は、実子との骨肉の争いの末に潰え去り、伊達家は新たな統治の時代を迎えることとなったのである。
天文の乱 詳細年表(1542年~1548年)
年月日 |
主要な出来事(合戦、調略、人物の動向) |
関係勢力(稙宗方・晴宗方) |
結果・影響 |
天文11年 (1542) 6月 |
晴宗、父・稙宗を桑折西山城に幽閉。時宗丸(実元)の上杉家入嗣を阻止。 |
晴宗方 : 中野宗時、桑折景長ら譜代家臣 |
天文の乱が勃発。伊達家が二つに分裂する。 |
天文11年 (1542) 後半 |
小梁川宗朝、稙宗を西山城から救出。稙宗は娘婿の相馬顕胤、懸田俊宗らを頼る。 |
稙宗方 : 相馬顕胤、懸田俊宗、田村清顕ら |
乱が南奥州全域の大名・国人を巻き込む全面戦争へと拡大。 |
天文11年 (1542)~ |
高子原の戦いなど、伊達郡を中心に一進一退の攻防が続く。 |
稙宗方 : 当初は縁戚関係の多さから優勢。 |
戦線は膠着し、長期化の様相を呈する。 |
天文12年 (1543) |
晴宗軍と相馬顕胤軍が阿武隈川で激突。相馬軍が勝利し、晴宗軍は後退。 |
稙宗方 : 相馬顕胤 |
稙宗方の優位が続く。 |
天文15年 (1546) 6月 |
稙宗方、晴宗方の拠点であった桑折西山城を奪還。 |
稙宗方 : 勢力を盛り返す。 |
晴宗方は北方の白石城などへ拠点を移し、劣勢に立たされる。 |
天文16年 (1547) |
蘆名盛氏、田村隆顕との対立を機に稙宗方から離反し、晴宗方へ寝返る。 |
勢力移動 : 蘆名氏(稙宗方 → 晴宗方) |
戦局の決定的転換点。 南部戦線で晴宗方が一気に優勢となる。 |
天文16年 (1547) 頃 |
晴宗、拠点を西方の出羽国米沢城へ移す。 |
晴宗方 : 新たな本拠地を確保し、支持基盤を拡大。 |
後の伊達氏の拠点となる米沢への移転が始まる。 |
天文17年 (1548) 9月 |
将軍・足利義輝の和睦勧告と、蘆名盛氏・岩城重隆らの仲介により和議が成立。 |
仲介 : 蘆名盛氏、岩城重隆ら |
6年半に及んだ天文の乱が終結。 |
天文17年 (1548) 9月以降 |
稙宗は丸森城へ隠居。晴宗が家督を継承し、米沢城を正式な本拠地とする。 |
- |
晴宗による新体制が発足。伊達家の統治は新たな時代へ。 |
第三章:規範の再構築 ― 晴宗による戦後処理と「家法増補」の実践(1548年~1555年頃)
天文の乱の終結は、伊達家にとって新たな統治の始まりを意味したが、その前途は多難を極めた。6年半にわたる内乱は領国を荒廃させ、何よりも『塵芥集』が目指した法秩序を完全に無力化していた。晴宗の喫緊の課題は、この崩壊した秩序をいかにして再構築するかであった。彼が断行した一連の戦後処理こそが、条文の改訂ではなく、法の権威と実効性を回復させるという意味での「実質的な家法増補」であった。
3.1. 法的秩序の再編 ― 『伊達晴宗采地下賜録』の編纂
乱後の伊達領が直面した最大の混乱は、土地所有関係の無秩序化であった。内乱中、稙宗・晴宗双方は、自陣営に味方する国人や家臣を一人でも多く確保するため、知行安堵状(土地の所有権や支配権を認める文書)を競うように乱発した 29 。その結果、一つの土地に複数の領主が存在するなど、誰が正当な領主であるか全く判然としない、極度の混乱状態に陥っていた 5 。
この法秩序の崩壊に対し、晴宗は断固たる措置を取る。彼はまず、乱中に発給された全ての判物(はんもつ)を例外なく一旦返上させた 29 。そして、それぞれの家臣の乱における功績を査定し(論功行賞)、それに基づいて改めて知行(所領)を再配分し、晴宗自身の花押が据えられた新たな安堵状を発給し直したのである 5 。天文22年(1553年)には、この新たな知行判物が家臣団に対して一斉に発給された記録が残っている 28 。
この一連の作業の際に作成された、新たな安堵状の控え台帳が『伊達晴宗采地下賜録』である 31 。この文書の編纂は、単なる事務手続きではない。それは、内乱によって宙に浮いた全ての土地所有権を一度当主である晴宗の元に回収し、彼の権威の下で再分配するという、極めて政治的な行為であった。これにより、晴宗を絶対的な頂点とする新たな知行秩序が文書によって確定され、『塵芥集』が定めた大名の土地支配権が、内乱後の厳しい現実に合わせて再適用された。これは、まさに法的秩序の再構築であり、「家法増補」の中核をなす事業であった。
3.2. 軍事的権威の確立 ― 抵抗勢力の掃討
文書による法秩序の再編だけでは、失われた権威を完全に取り戻すことはできない。その法が、破る者に対しては容赦なく執行されるという事実を、物理的な力をもって示す必要があった。その象徴的な事件が、懸田氏の滅亡である。
懸田俊宗は稙宗の娘婿であり、乱においては稙宗方の最有力武将として最後まで晴宗に抵抗した人物であった 29 。彼は和睦が成立した後も晴宗の裁定に強い不満を抱き、抵抗を続けた 24 。和睦の条件によって所領を没収されたことに反発し、新たにその地の領主となった中島伊勢守の所領へ侵攻するなど、晴宗の新体制に対する公然たる挑戦行動に出た 29 。
晴宗はこれを、伊達家当主への明確な反逆とみなし、天文22年(1553年)7月、討伐軍を派遣して懸田城を攻略、俊宗とその子・義宗を誅殺し、名門であった懸田氏を完全に滅亡させた 24 。この苛烈な措置は、新当主の権威に逆らう者は、たとえ乱以前にどれほどの勢力を誇った有力一族であろうとも、決して容赦しないという晴宗の断固たる意志を内外に知らしめるものであった。
懸田氏の滅亡によって、天文の乱の残滓は物理的に一掃され、晴宗政権はようやく盤石なものとなった 29 。これは、法的秩序の再編を、揺るぎない軍事力で裏付けた行為であり、法の強制力を回復させる上で不可欠なプロセスであった。
3.3. 統治拠点の刷新 ― 米沢への本拠地移転
法的・軍事的な再編と並行して、晴宗は統治の物理的な中心地そのものを刷新した。彼は、乱の最中から拠点としていた出羽国米沢城に、乱後、伊達家の新たな本拠地を正式に移転したのである 5 。
この本拠地移転には、明確な戦略的意図があった。
- 地政学的理由 : 米沢盆地は四方を山々に囲まれた天然の要害であり、防御拠点として極めて優れていた 37 。内乱の教訓から、より安全な本拠地を求めたのは当然の選択であった。
- 政治的理由 : より重要なのは政治的な意味合いである。父・稙宗の旧本拠地であった伊達郡・信夫郡(桑折西山城など)から物理的に距離を置くことで、旧体制の権威や影響力を断ち切り、自らが築く新政権の新たな象徴とする狙いがあった。過去との決別と、新時代の到来を宣言する行為であった。
この移転以降、米沢は晴宗、輝宗、そして政宗の三代にわたる伊達氏の本拠地として発展し、城下町の原型が形成されていった 36 。晴宗は、領内に入る商人を米沢に強制的に滞在させるなど、城下町の繁栄を企図した積極的な政策も展開している 38 。後に「独眼竜」として天下に名を馳せる伊達政宗も、この米沢城で生誕した 29 。
晴宗が断行したこれら「法的」「軍事的」「行政的」な三位一体の改革は、それぞれが密接に連関していた。『塵芥集』という理想化された法典は、天文の乱によってその権威を失墜させ、空文化していた。晴宗はまず『采地下賜録』によって法の根幹である土地秩序を再構築し、次に懸田氏討伐によってその法を破る者への罰を実証し、最後に米沢遷都によって新たな法秩序が新たな中心地から発せられることを宣言した。この一連のプロセス全体こそが、内乱後の厳しい現実世界に法秩序を再着地させるための、極めて本質的な意味での「家法増補」だったのである。
第四章:新秩序の光と影 ― 晴宗政権の確立と新たな火種
伊達晴宗による一連の「家法増補」は、崩壊した伊達家の領国統治を見事に再建した。しかし、その新秩序は、父・稙宗の時代とは異なる権力構造を内包しており、次なる世代の新たな対立の火種を宿すことになった。天文の乱の終結は、伊達家の全ての対立に終止符を打ったわけではなかったのである。
4.1. 権力構造の変化 ― 功臣の台頭
晴宗は内乱に勝利し、伊達家当主の座を確固たるものにした。しかし、その勝利は彼一人の力によるものではなく、クーデターを共に戦い抜いた譜代家臣団の強力な支持に大きく依存していた。その結果、晴宗政権下の当主の権力は、父・稙宗が享受したような絶対的なものではなく、有力家臣との合議的な側面を色濃く持つものへと変質した。
特に、クーデターの首謀者であり、乱を通じて晴宗の参謀として活躍した中野宗時の発言力は絶大なものとなった 4 。宗時は晴宗から様々な特権を与えられ、家臣団の筆頭として権勢を振るい、伊達家の政治を事実上主導する存在となったのである 21 。天文の乱は当主の独裁を打ち破ったが、その代償として、特定の有力家臣が権力を掌握するという新たな歪みを生み出した。
4.2. 次世代への継承問題 ― 晴宗と輝宗の対立
永禄7年(1564年)、晴宗は46歳という若さで家督を嫡男の輝宗に譲り、隠居の身となった 28 。しかし、これは必ずしも実権の完全な委譲を意味しなかった。当時の伊達家では、当主が隠居した後も後見として政治の実権を握り続けるという慣例があり、晴宗もそれに倣った。隠居後も、伊達家の政は依然として晴宗と、その側近である中野宗時が牛耳る「二重統治」の状態が続いたのである 35 。
名目上の当主でありながら、思うように権力を行使できない輝宗にとって、この状況は強い不満の種であった 35 。父・晴宗の世代が作り上げた権力構造は、輝宗にとっては自らの治世を阻む「目の上のたんこぶ」に他ならなかった。こうして、父の代からの功臣たちと、新当主である輝宗との間には、静かだが深刻な対立の火種が燻り始めた。
4.3. 最終的解決 ― 元亀の変(1570年)
輝宗の不満が頂点に達した元亀元年(1570年)4月、伊達家は再び内紛の危機に瀕する。輝宗は、腹心として新たに台頭した遠藤基信らと謀り、中野宗時・牧野久仲(宗時の子)親子に謀反の疑いありとして、電光石火のクーデターを敢行した 4 。
輝宗の軍勢は、宗時らが拠点とする小松城を急襲し、これを攻め落とす 44 。不意を突かれた宗時親子は抵抗もままならず、相馬領へと落ち延びていった。この「元亀の変」と呼ばれる事件により、天文の乱以来、約30年にわたって伊達家中枢に君臨した中野一族は完全に失脚した 45 。
この事件は、輝宗が父・晴宗の代からの旧弊を一掃し、名実ともに伊達家の唯一絶対の支配者として君臨するための、いわば「第二のクーデター」であった。天文の乱がもたらした権力構造の歪みを、次世代の当主が力ずくで是正したこの元亀の変こそが、天文の乱の真の終結点であったと位置づけることができる 29 。
伊達家において繰り返された「親子の対立」は、単なる個人的な確執ではなく、世代交代の度に「当主の権力」と「有力家臣の権力」のバランスを再調整する、一種の政治的メカニズムとして機能していた。稙宗の絶対的権力に対し、晴宗と家臣団が反旗を翻したのが天文の乱であり、その結果として強大化した家臣団の権力に対し、輝宗が当主権力の回復を図ったのが元亀の変であった。この二つの内乱は、振り子が一方に振れ、次世代で逆方向に振り戻るような関係にあり、二世代にわたる内紛を経て、伊達家は有力家臣の力を削ぎ、当主への権力集中を達成していく。この困難なプロセスを経たことで、伊達家の権力基盤はより強固なものとなり、伊達政宗の時代へと繋がっていくのである 46 。
結論:戦国大名伊達氏の転換点として「伊達家家法増補」を評価する
本報告書で詳述した通り、「伊達家家法増補(1550頃)」とは、特定の年に制定された単一の法典を指すものではない。それは、天文の乱(1542年~1548年)による法秩序の完全な崩壊から、伊達晴宗による統治再建事業(1548年~1555年頃)、そして次代の伊達輝宗による権力基盤の最終的な確立(元亀の変、1570年)に至る、約30年間にわたる長期的かつダイナミックな**「統治規範の再構築プロセス」**の総称である。
このプロセスは、二つの段階を経て進行した。
第一段階は、伊達晴宗による戦後処理である。彼は、①『伊達晴宗采地下賜録』の編纂による法的秩序の再編、②抵抗勢力・懸田氏の討伐による軍事的権威の確立、③本拠地の米沢移転による行政的刷新という三位一体の改革を断行した。これは、父・稙宗が『塵芥集』で示した理想的な法治国家像を、内乱という血腥い現実の中で再定義し、実効性を取り戻させるための、本質的な意味での「増補」であった。
しかし、この第一段階の改革は、乱の功臣である中野宗時ら有力家臣の権力増大という新たな権力構造の歪みを生んだ。これを是正したのが、第二段階である伊達輝宗による「元亀の変」であった。この輝宗による「第二のクーデター」は、父の代からの権力構造を破壊し、当主への権力集中を達成するための、いわば「第二の増補(権力構造の再々編)」であった。
この二世代にわたる内乱と再編の時代は、伊達家が中世的な国人領主の連合体から、当主を中心とする集権的な近世的戦国大名へと脱皮を遂げた、決定的な転換期であったと評価できる。この困難な時代を乗り越えて確立された強固な領国支配体制と、米沢という新たな戦略的本拠地こそが、次代の伊達政宗が奥州の覇者を目指す上での揺るぎない土台となったのである。したがって、「伊達家家法増補」の時代は、伊達家の歴史において、崩壊の中から新たな秩序を創造した、最も重要な画期の一つとして記憶されるべきである。
引用文献
- 伊達氏-家臣団- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/date/dt_kasin.html
- 「伊達稙宗」政略結婚や養子縁組を駆使し、奥州の宗主として君臨! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/587
- 伊達稙宗(だてたねむね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A8%99%E5%AE%97-93717
- 伊達家の武将たち/戦国観光やまがた情報局 https://sengoku.oki-tama.jp/m/?p=log&l=152831
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