最終更新日 2025-09-14

伊達政宗遅参弁明(1590)

政宗は小田原征伐に遅参し、死装束で秀吉に謁見。パフォーマンスで死罪を免れるも、会津を没収され減封。葛西大崎一揆扇動の嫌疑も花押の弁明で乗り切り、近世大名として岩出山へ転封された。
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伊達政宗の遅参弁明(1590年):窮地を好機に変えた独眼竜、一世一代の賭け

序章:なぜ「遅参」は伊達政宗のキャリアを決定づけたのか

天正18年(1590年)、相模国小田原。天下統一の総仕上げに臨む豊臣秀吉の眼前に、一人の若き武将が死装束で進み出た。奥州の覇者、「独眼竜」伊達政宗。参陣命令に大幅に遅刻した彼のこの行為は、単なる遅参の弁明に留まらない。それは、伊達政宗という武将の政治的生存戦略、そして戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、東北地方の運命を決定づけた一大事件であった。

本報告書は、この「伊達政宗遅参弁明」という事象を、単に「遅刻して謝罪し、許された」という表層的な事実の追認に終わらせることなく、その背景にある複雑な政治情勢、伊達家内部の深刻な葛藤、そして政宗自身の冷徹な計算を、時系列に沿って多角的に解き明かすことを目的とする。なぜ彼は遅れたのか。その遅延の裏には、いかなる野心と打算、そして苦悩が隠されていたのか。本報告書は、この歴史的瞬間に秘められた多層的な真実に迫るものである。

第一章:天下統一前夜―秀吉の小田原征伐と奥州の独眼竜

この事変を理解するためには、まず豊臣秀吉による天下統一事業という巨視的な文脈と、その中で異彩を放っていた伊達政宗という存在を正確に位置づける必要がある。秀吉が構築しようとしていた新秩序と、それに抗う東国勢力、そしてその狭間で揺れ動く独眼竜の姿を浮き彫りにする。

第一節:豊臣秀吉の「惣無事令」と北条氏の抵抗

織田信長の後継者として天下統一事業を推し進めた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)に九州を平定すると、天下の平定を宣言し、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を全国に発布した 1 。これは、全ての領土紛争を豊臣政権の裁定に委ねさせるという、武力に代わる新たな秩序の確立を目指すものであった。しかし、関東に巨大な勢力圏を築いていた北条氏政・氏直父子は、この新秩序に公然と従おうとはしなかった 2 。天正17年(1589年)11月、北条氏の家臣が秀吉の裁定を無視して真田氏の領地である名胡桃城を奪取する事件が発生 3 。これが惣無事令違反の決定的な証拠となり、秀吉は北条氏討伐の絶好の口実を得た 5

天正18年(1590年)、秀吉は22万とも言われる空前の大軍を動員し、北条氏の本拠地・小田原城を包囲する 6 。その戦略は、難攻不落を誇る城を力攻めにするのではなく、圧倒的な兵力と、城の目前に築いた石垣山城(一夜城)などの最先端の陣城を見せつけることで、敵の戦意そのものを喪失させるという、巧みな心理戦でもあった 7

第二節:奥州の覇者、伊達政宗の台頭と野心

その頃、東北地方では「遅れてきた英雄」伊達政宗が、凄まじい勢いでその版図を拡大していた 8 。18歳で家督を継いだ政宗は、人取橋の戦いなどで南奥州の反伊達連合軍と激闘を繰り広げ、天正17年(1589年)6月、摺上原の戦いで宿敵・蘆名義広を破り、会津黒川城を攻略した 8 。これにより、現在の福島県中通り地方と会津地方、山形県南部、宮城県南部を支配下に収め、その領国規模は150万石とも称される全国屈指のものとなった 1

しかし、この蘆名攻めは、秀吉が発した惣無事令を明確に無視した行為であった 12 。中央の権威がまだ完全には及んでいなかった東北において、政宗は自らが「陸奥太守」として地域の秩序を形成する主権者であるという自負を持っていた。これは、伊達家が代々世襲してきた奥州探題という職に根差す、独自の秩序観の現れであった 1 。天下取りへの強い野心を抱く政宗にとって、秀吉の介入は自らの野望を阻む最大の障壁であり、彼の行動原理は常に中央政権との緊張関係の中にあった。

第三節:東国同盟の夢と現実―伊達・北条の連携

秀吉という巨大な脅威に対し、北条氏は単独で抗うことの無謀を理解していた。そこで彼らが構想したのが、徳川家康、そして伊達政宗と連携し、秀吉の「西国国家」に対抗する「東国国家」を形成することであった 14 。政宗もまた、この構想に積極的に応じた。北条氏とは、共通の敵である常陸の佐竹氏を挟撃する軍事計画を練るなど、緊密な同盟関係を築いていたのである 16 。小田原城に籠城した北条氏が、最後まで伊達氏の援軍を期待していたことは想像に難くない 16

秀吉からの小田原参陣命令は、この東国同盟の要である政宗に対し、究極の選択を迫るものであった。同盟を堅持し、勝ち目の薄い戦いに身を投じるか。それとも、同盟を反故にして東国での信義を失い、天下人に臣従するか。政宗の遅参は、単なる優柔不断や状況判断の遅れに起因するものではない。それは、自らが犯した「惣無事令違反」という過去の罪と、「北条氏との軍事同盟」という現在の約束との間で板挟みになった彼が、活路を見出すために必要とした、必然的な政治的葛藤の時間だったのである。秀吉に降伏しても惣無事令違反を問われれば所領没収は免れない。北条に味方すれば、圧倒的兵力差の前に滅亡は必至。この絶望的なジレンマこそが、彼の決断を遅らせた根本的な要因であった。

第二章:決断の刻―小田原参陣を巡る葛藤と伊達家中の動揺

中央の政治情勢が緊迫の度を増す中、伊達家の内部でも、政宗の決断をさらに困難にする深刻な事態が発生していた。小田原への遅参の直接的な原因として語られる「弟・伊達小次郎誅殺事件」である。この事件は、単なるお家騒動に留まらず、政宗の冷徹な政治判断を浮き彫りにする。

第一節:「政宗毒殺未遂事件」の通説とその疑点

伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』などによれば、事件の経緯は次のように記されている。天正18年(1590年)4月5日、政宗の母・義姫(保春院)が、小田原への出陣祝いと称して政宗を宴に招き、毒を盛った。義姫は、疱瘡で片目を失った政宗を疎み、容姿端麗な次男の小次郎を溺愛していたため、彼に家督を継がせようとこの凶行に及んだという 18 。異変に気づいた政宗は解毒剤を飲んで一命を取り留め、家中の分裂と混乱を避けるため、4月7日、断腸の思いで弟・小次郎を手討ちにしたとされる 16

しかし、この通説には近年、複数の史料的矛盾が指摘されている。

第一に、義姫の出奔時期の矛盾である。通説では、事件発覚後、義姫は実家の最上家へ逃げ帰ったとされる。しかし、政宗の師であった虎哉宗乙和尚が友人に宛てた書状には、義姫が山形へ出奔したのは事件から4年以上が経過した文禄3年(1594年)11月4日の夜であったと記されている 18。自分を毒殺しようとした母を、4年間も居城に置き続けるというのは極めて不自然である。

第二に、 親密な書状の存在 である。事件後とされる文禄2年(1593年)、朝鮮出兵中の政宗が母・義姫に宛てた手紙が現存する。その中には、母からの手紙や金銭の気遣いに対する深い感謝の念が綴られており、親子の情愛に満ちている 19 。毒殺犯と被害者という関係であれば、このような心情の吐露は考え難い。

第二節:新説―政宗による自作自演の可能性

これらの疑点から、近年では事件が政宗自身によって画策された「自作自演」であったとする説が有力視されている。その目的については、いくつかの解釈が存在する。

一つは、 家中統制のための粛清説 である。当時の伊達家臣団の中には、必ずしも政宗に心服していない勢力も存在し、小次郎を旗頭に立てようとする動きがあった可能性が指摘されている 22 。政宗が小田原参陣で長期間領国を空ける不在中、こうした反対派がクーデターを起こす危険性があった。その火種を事前に摘み取るため、母を巻き込む形で毒殺未遂事件を演出し、小次郎を排除する大義名分としたという見方である 19

もう一つは、 遅参の口実を作るためのアリバイ工作説 である。秀吉への遅参が避けられない状況下で、「母による毒殺未遂と、それに伴う弟の誅殺という家中の非常事態が発生したため、出立が遅延した」という、やむを得ない事情をアピールするために事件を捏造したとする説である 22

さらに、誅殺されたとされる小次郎が、実は殺害されておらず、政治的に抹殺(出家)されたに過ぎないという 小次郎生存説 も存在する。東京都あきる野市の大悲願寺に残る文書には、同寺の住職となった秀雄という人物こそが小次郎であり、寛永19年(1642年)に没したと記されている 22

第三節:事件の真相と政宗の冷徹な判断

複数の史料を総合的に勘案すると、通説である「義姫主犯説」の信憑性は低く、政宗が伊達家の存続という至上命題のために、何らかの政治的決断を下したと解釈するのが最も合理的である。この事件は、単なる家督争いや遅参の言い訳という次元を超えた、高度な政治的意図を内包していた。

秀吉は、有力大名の家督問題に介入し、家を弱体化させることを常套手段としていた。政宗が小田原で秀吉と対峙している間に、本国で弟を担いだ勢力が蜂起すれば、伊達家は内外から崩壊する。また、惣無事令違反を詰問された際に、秀吉から「弟に家督を譲って隠居せよ」と命じられる可能性もゼロではなかった 23 。これは政宗の政治生命の終わりを意味する。

これらのリスクを予見した政宗は、小田原へ出発する前に、「伊達小次郎」という政敵になりうる存在、そして秀吉に利用されうる選択肢そのものを、物理的あるいは政治的に消し去る必要があった。小次郎誅殺事件は、豊臣政権という外部からの強大な圧力に対し、家中の結束を固め、来るべき直接対決に万全の態勢で臨むための、政宗による能動的かつ非情な「内部固め」の防衛戦略だったのである。

第三章:白装束の賭け―小田原への道と秀吉との対面

家中の憂いを断ち切った政宗は、いよいよ天下人との対決の地、小田原へと向かう。ここからの彼の行動は、一分一秒が伊達家の命運を左右する、緊張に満ちたものであった。その道程と、歴史に名高い謁見の場面を時系列で追う。

第一節:会津黒川城出発から小田原到着までの時系列記録

秀吉が3月1日に京を出陣するという報は、1月22日には政宗のもとに届いていた 11 。しかし、彼の行動は遅々として進まなかった。3月29日には、秀吉軍の先鋒が北条方の重要拠点である山中城をわずか半日で攻略したという報がもたらされ、豊臣軍の圧倒的な戦力差が誰の目にも明らかになる 11

政宗がようやく重い腰を上げたのは、家中の騒動を収拾した後の4月15日であった。しかし、この第一次出立は、南会津の大内付近まで進んだところで中止され、黒川城へと引き返している 16 。表向きの理由は北条領の通過が困難になったためとされるが、伊達成実ら重臣の中に秀吉への臣従に強く反対する声があり、その説得に時間を要したためとも考えられている 16

約1ヶ月にわたる逡巡と内部調整の末、政宗が最終的に黒川城を再出発したのは5月9日のことであった 16 。この大幅な遅れは、彼の迷いの深さと、家中を一枚岩にまとめることの困難さを物語っている。彼は進軍の途上においても、常に情報収集を続け、ギリギリまで最善の選択肢を模索していたのである 25

年月日(天正18年/1590年)

場所

主要な出来事・動向

典拠・備考

1月22日

会津黒川城

秀吉家臣・斯波義銀より、3月1日の関東出陣の報を受ける。

11

3月29日

(関東)

秀吉軍、北条方の山中城を半日で攻略。圧倒的戦力差が明確に。

11

4月5日

会津黒川城

(通説)母・義姫による毒殺未遂事件が発生。

18

4月7日

会津黒川城

弟・伊達小次郎を誅殺(あるいは政治的に抹殺)。

16

4月15日

会津黒川城

第一次小田原へ向け出立するも、南会津の大内付近で引き返す。

16

5月9日

会津黒川城

家中の動揺を鎮め、再度小田原へ向け出立。

16

5月27日

甲府

甲府に到着。浅野長政に書状を送り、秀吉への取次を依頼。

26

6月5日

相模国小田原

小田原に到着。白装束で参陣したとされる。

13

6月9日

相模国小田原

豊臣秀吉に謁見。遅参を弁明し、死罪を免れる。

5

第二節:豊臣政権との水面下の交渉

政宗は、単に運を天に任せていたわけではない。彼は秀吉に敵対する可能性を探りつつも、一方で豊臣政権の中枢と巧みに関係を構築していた。秀吉の重臣である前田利家や浅野長政、そして甥の豊臣秀次らに対し、かねてより奥州産の名馬を贈るなど、良好な関係を築く努力を怠らなかった 16

この布石は、彼の窮地を救う上で決定的な役割を果たした。5月27日に甲府へ到着した政宗は、秀吉に直接会う前に、まず浅野長政(長吉)に書状を送っている。その内容は、長政の「御執成(おとりなし)」、すなわち仲介によって秀吉との面会を実現したいという、極めて戦略的なものであった 26 。正面からの対決が避けられない状況でも、政権内部に理解者を作り、交渉のパイプを確保しておく。この老練な外交術こそ、政宗が幾多の危機を乗り越えてきた力の源泉であった 17

第三節:「もう少し遅ければ、ここが危なかった」―遅参弁明の舞台裏

6月5日、ついに小田原の陣に到着した政宗は、一世一代の賭けに出る。彼は髪を切り、白の死装束(白衣)を身にまとい、秀吉の前に進み出た 13 。これは、自らの命を完全に秀吉に委ねるという、絶対的な降伏の意思表示であった。

遅参に激怒していた秀吉も、この意表を突くパフォーマンスには度肝を抜かれた。『関屋政春覚書』などの記録によれば、秀吉は政宗の堂々たる態度に感心し、「田舎者にしては面白いやつだ」と興味を示したという 27 。そして6月9日、ついに謁見が許される。その場で秀吉は、手にしていた杖で政宗の首筋を軽く突き、「もう少し遅ければ、ここ(首)が危なかったぞ」と言い放ったと伝えられている 5

政宗は、惣無事令違反と遅参という二重の罪を率直に認め、その上で秀吉の裁定を全面的に受け入れるという姿勢を示した。彼は、秀吉が単なる反逆者を処断する冷酷な支配者であるだけでなく、気骨のある大胆な人物を好むという性格を見抜いていたのかもしれない。死を覚悟した潔さと大胆な演出によって、政宗は絶体絶命の窮地を乗り切り、死罪を免れたのである。

第四章:処分と再起―奥州仕置と仙台藩の礎

白装束の賭けに勝利した政宗であったが、彼の試練はまだ終わっていなかった。遅参の代償は大きく、その後の「奥州仕置」は、伊達家、ひいては東北地方全体の勢力図を根底から塗り替えるものであった。

第一節:会津没収と所領安堵―遅参の代償

秀吉は政宗の命こそ助けたものの、惣無事令違反の罪は不問にしなかった。その罰として、摺上原の戦いで政宗が獲得した会津、岩瀬、安積の三郡が没収されることとなった 13 。これにより伊達家の領地は大きく減封され、政宗は本拠地としていた黒川城を明け渡し、父祖伝来の地である米沢城へ戻ることを余儀なくされた 13

そして、没収された会津の地には、秀吉が最も信頼する武将の一人、蒲生氏郷が92万石という破格の所領で入封した 13 。これは、政宗の勢力を削ぐと同時に、豊臣政権の強力な楔を東北に打ち込むための、極めて巧みな地政学的配置であった。これ以降、政宗は常に氏郷という強力な監視役と隣接することになる。

第二節:葛西大崎一揆と政宗の嫌疑

小田原征伐後、秀吉は本格的な「奥州仕置」に着手する。小田原に参陣しなかった葛西氏と大崎氏は所領を没収され、その旧領には秀吉の側近である木村吉清・清久父子が新たな領主として入った 13 。しかし、天正18年(1590年)10月、性急な検地や刀狩りなど、木村氏の強引な統治に反発した葛西・大崎両氏の旧臣や領民たちが、大規模な一揆(葛西大崎一揆)を蜂起する 11

この一揆の鎮圧を命じられたのが、皮肉にも蒲生氏郷と伊達政宗であった。しかし、鎮圧の過程で、政宗がこの一揆を裏で扇動しているのではないかという深刻な嫌疑がかけられる 13 。政宗が書いたとされる一揆扇動の密書が氏郷の手に渡り、彼は再び絶体絶命の窮地に立たされた。政宗は、この危機に対し、再び大胆な行動に出る。京に上り、秀吉の前で直接弁明することを決意したのである。有名な「黄金の十字架」を背負って上洛した政宗は、秀吉の前で密書が偽物であることを、自身の花押(サイン)の鶺鴒(せきれい)の目の部分に針で開けた穴がないことを根拠に証明し、見事に嫌疑を晴らしたと伝えられている 13

第三節:新たな領国へ―伊達氏の転封と近世大名への道

葛西大崎一揆は、木村吉清の統治能力の欠如を露呈させると同時に、政宗の軍事力と統治能力を秀吉に再認識させる結果となった。一揆鎮圧の功績を認められた政宗に対し、秀吉は再度の領地再編を断行する。政宗は、伊達家が400年近く支配してきた伊達郡や信夫郡といった先祖代々の故地を没収される代わりに、一揆の舞台となった葛西・大崎の旧領十二郡を与えられた 13

これにより、伊達家の石高は最終的に62万石(後の検地で確定)に加増された。しかし、これは単なる加増ではなかった。伝統的な権力基盤であった故地を奪い、一揆の余燼燻る統治の難しい新領地へ移すという、巧妙な「国替え」であった。政宗は居城を米沢から岩出山城へと移し、この新たな領国経営に心血を注ぐことになる。この一連の出来事こそが、後の仙台藩62万石の礎を築くことになったのである。秀吉による奥州仕置は、単なる懲罰ではなく、政宗という戦国末期の覇者を、豊臣政権の統治システムに組み込むための、高度な地政学的戦略であった。政宗は、その中で巧みに立ち回り、伊達家の存続と発展の道筋を切り開いたのである。

結論:伊達政宗の遅参弁明が戦国史に与えた影響

天正18年(1590年)の「伊達政宗遅参弁明」は、彼の波乱に満ちた生涯における最大の危機であったと同時に、その類稀なる政治的才覚、交渉力、そして大胆な演技力がいかんなく発揮された独壇場であった。この一連の出来事は、歴史におけるいくつかの重要な転換点を示している。

第一に、政宗個人にとって、これは戦国的な独立大名から、中央集権体制下の近世大名へと脱皮する象徴的な通過儀礼であった。彼は、天下統一という抗いがたい時代の流れを前に、自らの野心と現実の力関係を冷静に分析し、滅亡ではなく臣従という道を選んだ。そして、遅参という絶体絶命の窮地を、白装束という計算され尽くしたパフォーマンスによって乗り切り、その後の葛西大崎一揆の嫌疑という危機をも乗り越えることで、伊達家を近世大名として存続させることに成功した。彼の決断と行動が、後の仙台藩62万石の繁栄の礎を築いたことは疑いようがない。

第二に、東北地方の歴史にとって、これは中央政権の支配が本格的に及ぶ画期的な出来事であった。秀吉の奥州仕置は、伊達政宗の力を削ぎ、蒲生氏郷という楔を打ち込み、最終的には伝統的な領地から引き離して新たな土地に移すことで、東北の地政学的構造を根本から作り変えた。これにより、奥州はもはや「中央から隔絶された独自の地域」ではなく、天下の統一的秩序の中に組み込まれた一地方となったのである。

遅参という失態を、死を覚悟したパフォーマンスで逆転させ、天下人の心を掴んだ政宗の姿は、旧時代の価値観が新時代の秩序に飲み込まれていく戦国末期のダイナミズムそのものを体現している。「遅れてきた英雄」は、自らの野心を完全に捨てることなく、しかし現実の巨大な力の前に巧みに頭を垂れることで、最も効果的な生存戦略を実践した。この事件は、伊達政宗という武将の真骨頂を示すとともに、戦国乱世の終焉を告げる象徴的な一幕として、後世に語り継がれている。

引用文献

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  8. 東北地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ https://busho.fun/column/tohoku-person
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