伏見城下運河整備(1594)
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天下人の首都創生:文禄三年「伏見城下運河整備」の時系列的徹底解剖
序章: 1594年、伏見 ― なぜこの地で、この時に大事業は行われたのか
文禄三年(1594年)、豊臣秀吉は山城国伏見の地において、日本の国土形成史に画期を刻む壮大な事業を開始した。それは、単なる城郭の築造に留まらず、巨大な遊水池であった巨椋池(おぐらいけ)と宇治川の流路を人間の意志によって恒久的に作り変え、新たな運河と港湾を創出する、未曾有の国土改造計画であった。この「伏見城下運河整備」は、なぜこの時期に、この場所で断行されねばならなかったのか。その背景には、当時の豊臣政権が置かれた国内政治、国際関係、そして秀吉個人の野望が複雑に絡み合っていた。
第一に、豊臣政権の権力基盤が盤石であったことが挙げられる。天正十八年(1590年)の小田原征伐によって天下統一を成し遂げた秀吉の権力は、この時期に絶頂期を迎えていた 1 。彼は、その絶大な権力を背景に、大坂城築城や聚楽第造営、御土居の建設といった大規模な土木事業(天下普請)を次々と実行し、その権威を天下に示していた 3 。伏見における大事業もまた、この天下普請の一環として、全国の大名を動員し得るだけの政治的・経済的基盤があって初めて可能となったのである 4 。
第二に、豊臣家の後継者問題が決定的な転機をもたらした。文禄元年(1592年)当初、秀吉は甥の豊臣秀次に関白職を譲り、自らは太閤として、風光明媚な指月の丘に隠居後の屋敷の建設を開始した 6 。しかし、翌文禄二年(1593年)に側室の淀殿が嫡子・秀頼を産んだことで、計画は根底から覆る。秀吉にとって、伏見はもはや単なる隠居所ではなく、愛息・秀頼が将来君臨する豊臣政権の恒久的な本拠地、すなわち新たな首都として構想されることになった 8 。隠居屋敷の計画は、壮麗な天守閣を備える本格的な城郭へと大規模に拡張され、それに伴い、首都機能にふさわしい物流・交通インフラの整備が急務となったのである 9 。
第三に、当時の国際情勢が国内への注力を可能にした。文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)は、豊臣政権にとって膨大な国力を消耗させる一大事業であった 10 。しかし、文禄二年(1593年)には明との間で講和交渉が始まり、戦線は膠着、一時的な休戦状態に入っていた 10 。これにより、秀吉の関心は再び国内へと向き、また、朝鮮半島に派遣されていた西国大名を中心とする膨大な人的・物的資源を、国内の大規模プロジェクトへと振り向けることが可能となった。大規模な土木事業は、大名たちの軍役を平和時の経済力・労働力奉仕へと転換させ、その力を削ぎつつ中央への忠誠を再確認させる絶好の機会でもあった。伏見の壮大な都市開発は、対外戦争から国内の富の再分配と権力誇示へと、政権のエネルギーの方向性を転換する象徴的なプロジェクトであったと言える。
そして最後に、伏見という土地が持つ地理的・歴史的ポテンシャルである。平安時代より貴族の別荘が営まれ、観月の名所として知られたこの地は 7 、天皇の座す京都と、秀吉自身の本拠地であり経済の中心地でもある大坂との中間に位置する、絶妙な地政学的要衝であった 13 。この地に新たな政治・経済の中核を創出することは、伝統的権威である朝廷と、新興の武家政権、そして商業都市大坂とを有機的に結びつけ、豊臣政権の支配体制を完成させる上で極めて重要な意味を持っていた。
これらの要因が輻輳した結果、文禄三年(1594年)という年は、豊臣秀吉がその権力の全てを注ぎ込み、伏見を新たな天下の中心地へと作り変えるための巨大プロジェクトを開始する、まさにその時となったのである。
【表1】伏見城下運河整備 主要関連年表(1592年~1598年)
西暦(和暦) |
国内外の主要動向 |
伏見における動向 |
1592年(文禄元年) |
文禄の役(朝鮮出兵)開始。秀吉、秀次に関白職を譲り太閤となる 15 。 |
秀吉、隠居所として指月屋敷の建設を開始 6 。 |
1593年(文禄二年) |
嫡子・秀頼が誕生 6 。文禄の役、明との講和交渉が始まる 11 。 |
指月屋敷を本格的な城郭(指月伏見城)へ改築開始 15 。 |
1594年(文禄三年) |
小西行長ら、明との交渉を継続 11 。 |
伏見城の拡張普請と運河整備(太閤堤築堤)が本格化 17 。8月、秀吉が伏見城に入る 16 。 |
1595年(文禄四年) |
豊臣秀次が高野山に追放され自害(秀次事件)。聚楽第が破却される 15 。 |
指月伏見城が完成。聚楽第の建物の多くが移築される 15 。 |
1596年(文禄五年/慶長元年) |
明からの講和使節が来日。講和交渉が決裂。 |
閏7月、 慶長伏見地震 が発生。指月伏見城が倒壊 7 。直ちに木幡山にて新城の建設を開始 20 。 |
1597年(慶長二年) |
慶長の役(第二次朝鮮出兵)開始。 |
木幡山伏見城が完成 21 。 |
1598年(慶長三年) |
慶長の役、日本軍の撤退開始。 |
8月、秀吉が木幡山伏見城にて死去 7 。 |
第一章: 前夜 ― 巨椋池に沈む土地の記憶と、天下人の野望(~1593年)
豊臣秀吉が新たな首都として選んだ伏見の地は、その風光明媚な景観とは裏腹に、古来より治水に悩まされ続けてきた土地であった。京都盆地の南端に位置するこの一帯は、琵琶湖を源とする宇治川、丹波山地から流れる桂川、そして奈良盆地を貫く木津川という、三つの大河川が合流する地点にあたる 22 。これらの河川は、しばしば氾濫を繰り返し、広大な低湿地帯を形成していた 24 。この地形的特性こそが、秀吉の大規模な運河整備事業の背景であり、同時に彼が克服すべき最大の挑戦でもあった。
この地域の景観を特徴づけていたのが、かつて周囲16km、面積約800haにも及んだ巨大な遊水池(湖)、巨椋池の存在である 12 。巨椋池は、三川が流れ込む天然のダムのような役割を果たし、その水面には槇島や向島といった島々が浮かんでいた 12 。池の周辺に暮らす人々は、漁業を営み、ヨシやハスといった水生植物を採取するなど、その豊かな自然の恩恵を受けて生活していた 12 。しかしその一方で、宇治川などが直接巨椋池に流れ込む構造であったため、大雨の際には河川の増水がそのまま池の水位上昇に繋がり、周辺地域は度重なる洪水被害に見舞われていた 12 。古代から水上交通の中継地として利用されてきたものの、流路が不安定で水深も浅く、大規模な物流を支えるには限界があった 12 。古代の港(津)として栄えた岡屋津なども存在したが、それはあくまで自然の地形を利用したものであり、恒常的な物流拠点とはなり得なかった 26 。
秀吉の計画は、この伏見が抱える根源的な「水害リスク」を、大規模な土木技術によって「水運メリット」へと劇的に価値転換させるという、まさに逆転の発想に基づいていた。通常、為政者はこれほど水害の多い土地を首都建設の候補地から外すのが常道である。しかし秀吉は、京都と大坂を結ぶという地政学的な優位性を何よりも優先した 14 。そして彼は、広大な「厄介者」であった巨椋池を、堤防によって宇治川と完全に分離・制御し、その宇治川の流路自体を伏見城下へと引き寄せることで、安定した水深を持つ港と運河を人工的に創出するという壮大な構想を描いたのである 13 。これは、かつて備中高松城を水攻めにした 1 経験などで培った、土木技術への絶対的な自信の表れであった。自然の摂理に抗うのではなく、それを読み解き、巨大な力で捻じ曲げて自らの意のままに作り変えようとする、天下人・秀吉の気宇壮大な世界観がこの計画には色濃く反映されている 3 。この事業は、単なるインフラ整備ではなく、自然を克服し支配するという、秀吉の統治イデオロギーそのものの実践であった。
この壮大な構想が具体化する直接の契機は、前述の通り、文禄二年(1593年)の秀頼誕生であった。この慶事により、文禄元年から建設が進められていた指月屋敷は、単なる隠居所から、豊臣家の権力を未来永劫にわたって継承させるための政治中枢へと、その性格を大きく変貌させた 8 。城郭は拡張され、より堅固で壮麗なものへと計画が変更される 9 。そして、この新たな首都に人、モノ、富を集中させるための大動脈として、大坂と直結する水運路の整備が、城郭本体の建設と並行して、国家的な最優先プロジェクトとして位置づけられることになったのである。
第二章: 始動 ― 天下普請の号令と大地を揺るがす槌音(1594年 正月~夏)
文禄三年(1594年)の年が明けると、伏見の地は天下を揺るがす槌音に包まれた。正月頃から、伏見城の拡張普請と宇治川の流路改修工事が本格的に始動したのである 15 。この事業は、秀吉の私的な事業ではなく、全国の諸大名に普請役を命じる「天下普請」として執行された 18 。普請役は軍役の一環と位置づけられ、各大名は保有する石高に応じて定められた数の人夫を動員し、資材を調達し、割り当てられた工区を完成させる義務を負った 4 。例えば、信濃の真田信幸(当時伊豆守)は、前年の文禄二年十二月十七日付の奉行連署状で普請役を命じられ、翌年二月中に京都へ到着するよう厳命されている 30 。また、父の真田昌幸も、同年六月一日付の秀吉自身の朱印状で、伏見城建設用の柾板を木曽から近江まで運搬するよう命じられており、全国の大名が様々な形でこの一大事業に関わっていたことがわかる 30 。その動員規模は、延べ25万人に達したと記録されており 16 、まさに国家の総力を挙げたプロジェクトであった。
工事の中核をなしたのは、「太閤堤」と総称される一連の巨大堤防の建設であった 14 。これは、単一の堤防ではなく、それぞれが異なる機能を持つ複数の堤防群から構成される、極めて計画的なシステムであった。
その中でも最重要だったのが、宇治川を巨椋池から分離するための 槇島堤 (まきしまづつみ)である。この堤の築造は、加賀の大大名である前田利家に命じられた 15 。宇治橋の下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川の流路をこの堤で堰き止め、北へと大きく迂回させて伏見城下へと導くという、まさに河川の流れそのものを変える工事であった 12 。これにより、古代から水運の要衝であった淀や宇治の岡屋は港としての機能を失い、物流の拠点は新設される伏見港へと強制的に移されることになった 32 。
次に、巨椋池の真ん中を南北に貫く形で建設されたのが 小倉堤 (おぐらづつみ)である。これは、伏見城下から対岸の向島を経由し、南方の小倉村までを直線的に結ぶ長大な堤であった 12 。この堤の上は、奈良へと至る新たな「大和街道」として整備され、従来のように宇治を経由する必要のない短絡路が創設された 31 。
そして、伏見から淀、さらに大坂へと至る淀川左岸には 淀堤 (よどづつみ)、別名「文禄堤」が築かれた 12 。これは、伏見港から先の水運を安定させると同時に、堤の上が京都と大坂を結ぶ主要街道(京街道)となり、水陸両面における大動脈の役割を果たした 3 。
これらの工事には、当時の最先端土木技術が惜しみなく投入された。後年の発掘調査によって明らかになった堤の構造は、単なる土の盛り上げではなかった。特に水流が強く当たる護岸部分は、城郭の石垣を彷彿とさせるような堅固な石積みで補強されていた 32 。さらに、堤防から川に向かって突き出す形で「石出し」や「杭出し」と呼ばれる構造物(水制工)が約90m間隔で設置されていた 32 。これらは、水流の勢いを弱めて堤防の洗掘を防ぎ、航路の水深を維持するための高度な治水技術であり、この事業が極めて高い技術水準にあったことを物語っている 37 。
この事実は、伏見の土木事業が、戦国時代を通じて日本で独自の発達を遂げた「築城技術」の平和的応用であったことを示唆している。発掘された護岸が「城郭の石垣を思わすような威容」と評されるように 36 、その設計と施工には、各地で城の石垣を築いてきた専門技術者集団が深く関与したことは間違いない。秀吉自身が築城を得意とし、土木技術を戦術にまで昇華させた人物であったこと 1 、そして「普請はいくさなり」 5 という言葉が象徴するように、大名を厳格な指揮系統の下で動員し、巨大構造物を短期間で築き上げる手法そのものが、軍事作戦の応用であった。伏見の運河整備は、戦乱の時代に蓄積された日本の土木・組織運営技術が、天下統一後の国土建設という新たなステージでその能力を遺憾なく発揮した、技術史上の画期的な転換点と位置づけることができる。
【表2】太閤堤の構成と機能
堤防名称 |
築堤場所・地理的関係 |
主目的(治水・利水) |
副次的機能(交通・防衛) |
現代における痕跡 |
槇島堤 |
宇治川左岸。巨椋池と宇治川を分離する。 |
宇治川の流路を北へ変更し、伏見城下へ導水。伏見港の水位・水量を確保する 12 。 |
伏見城下町の東側を守る防衛線。 |
現在の宇治川左岸堤防 31 。 |
小倉堤 |
巨椋池の中央部を南北に縦断する。 |
巨椋池内の治水。横大路沼との分離 22 。 |
新・大和街道 を創設し、伏見と奈良を短絡路で結ぶ 12 。 |
近鉄京都線の線路敷 22 。 |
淀堤(文禄堤) |
伏見から淀を経て大坂へ至る淀川左岸。 |
宇治川下流の流路を固定し、洪水を防ぐ。 |
京街道 として、京都・伏見と大坂を結ぶ陸上の大動脈となる 3 。 |
旧京街道として一部が現存。 |
向島堤・三栖堤など |
伏見城下町の南側。 |
伏見城下町を宇治川の洪水から直接守る 24 。 |
徳川家康の向島城の防衛線ともなる 17 。 |
市街地化により多くは消失。 |
第三章: 結実 ― 新たな水の道、港、そして城下町の誕生(1594年 夏~年末)
文禄三年(1594年)の夏を迎える頃には、数ヶ月にわたる大規模な工事の成果が、伏見の景観を劇的に変え始めていた。槇島堤の完成によって、宇治川の濁流は巨椋池へと流れ込むことなく、伏見城の南麓を巡る新たな流路へとその姿を変えた 12 。そして、この新流路と城下町が接する地点に、京都への新たな玄関口となる内陸河川港「伏見港」がその威容を現した 13 。これにより、大坂から米や木材、諸国の産物を満載した船が、淀川・宇治川を遡上し、直接伏見の城下まで乗り入れることが可能となったのである 39 。
城下へと引き込まれた水路は、伏見城の広大な外濠としての軍事的な役割を兼ね備えた運河、すなわち現在の濠川(ほりかわ)や宇治川派流となった 13 。この運河は、全国から集められる膨大な築城資材を、船から直接建設現場近くまで運搬することを可能にし、築城工事の効率を飛躍的に高めた 17 。
そして同年八月五日、豊臣秀吉はついに完成途上の伏見城へと入城する 16 。これを合図に、城下町の建設は最終段階へと移行した。秀吉は、あらかじめ計画された都市計画に基づき、建設予定地にあった既存の村落や社寺を強制的に移転させ、更地にした上で、大名屋敷、武家屋敷、そして町人たちの住む町家を整然と配置していった 15 。現存する当時の伏見城下絵図を見ると、城を中心に、伊達政宗や毛利輝元といった全国の有力大名の屋敷が配され、伏見が名実ともに天下の政治の中心地として機能し始めたことが見て取れる 43 。
この一連の事業は、単にインフラを整備したという以上の意味を持っていた。それは、京都という都市の構造における「重心」を、意図的に南(伏見)へと移動させる、壮大な都市再編計画であった。それまで京都の外港機能は、淀川沿いの淀の津などが担っていた 32 。秀吉は、伏見港を新たに整備し、大坂からの水運の終着点とすることで、物流のハブ機能を自らの膝元である伏見に独占的に集中させたのである 13 。さらに翌年には、秀次事件をきっかけに京都の聚楽第を徹底的に破却し、そこに詰めていた大名や家臣団をも伏見へと移住させた 8 。これは、平安京以来千年にわたって形成されてきた伝統的な京都の中心部から、自らがゼロから創造した新都市・伏見へ、政治的・経済的な重心を物理的に引き寄せようとする、極めて明確な意図の現れであった。1594年に完成した運河と港は、まさにこの壮大な都市改造を実現するための「大動脈」を創り出す行為だったのである。
年末には、小倉堤の上の新大和街道や淀堤の上の京街道も機能し始め、伏見は水陸両面において京都、大坂、奈良、そして西国や東国へと繋がる、新たな交通ネットワークの中核として誕生した。1594年は、一人の天下人の意志によって、一地域の地勢が作り変えられ、新たな水の道と港、そして城下町が一体となって誕生した、驚異的な一年として歴史に刻まれることとなった。
第四章: 試練と継承 ― 地震、そして徳川の世へ(1595年~)
栄華を極めたかに見えた豊臣の新たな首都・伏見は、しかし、完成からわずか一年余りで未曾有の自然災害に見舞われる。文禄五年(1596年)閏七月十三日の深夜、京都盆地を震源とするマグニチュード7.5と推定される巨大地震、すなわち「慶長伏見地震」が発生したのである 19 。
この地震による被害は甚大であった。特に、秀吉が心血を注いで築き上げた指月伏見城は壊滅的な打撃を受けた。壮麗な天守閣は倒壊し、堅固なはずの石垣も各所で崩落、城内だけで600人(一説には500人以上)もの人々が圧死したと記録されている 7 。秀吉自身も、就寝中に難を逃れ、傍らの秀頼を抱きかかえて屋外へ避難したという逸話が残るほど、その揺れは凄まじいものであった 47 。
この悲劇は、秀吉の壮大な都市計画に潜んでいた致命的な欠陥を白日の下に晒した。秀吉は、水運と交通の便という地政学的・水文学的な合理性に基づいて伏見を選び、当代最高の土木技術で水の問題を解決した。しかし、彼が最初に城を構えた指月丘周辺は、活断層が近くを走る、地質学的には極めて脆弱な場所だったのである 19 。彼の知見は、水の流れを制御する水理学には及んでも、大地の揺れを予測する地質学には及ばなかった。
指月の地が城地として不適格であると判断した秀吉の行動は迅速であった。彼は直ちに、指月丘の東方に位置し、より地盤が固いと考えられる木幡山(こはたやま)に新たな城を築くことを命じた 7 。倒壊した指月城の部材を再利用しつつ、昼夜を徹した突貫工事が進められ、翌慶長二年(1597年)には新城が完成する 21 。城下町もまた、大規模な盛土造成を行った上で再計画され、大名屋敷の配置も大きく変更された 48 。
注目すべきは、城郭という「点」の建造物が壊滅した一方で、太閤堤や運河といった「線」および「面」の広域インフラは、この大地震に耐え、その機能をほぼ維持したことである。この事実は、結果として、歴史の皮肉ともいえる対比を後世に残すことになった。秀吉の権力の象徴であった城は、自然の猛威の前にもろくも崩れ去った。しかし、人々の生活と経済を支えるために作られた堤防や港、運河は生き残ったのである。
慶長三年(1598年)、秀吉が再建された木幡山伏見城でその波乱の生涯を閉じると 7 、豊臣政権は急速にその力を失っていく。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、徳川家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城が西軍の猛攻により落城・炎上 21 。天下を手中に収めた家康は、伏見城を再建し、自らもここで将軍宣下を受けるなど、江戸初期の政治的中心地として一時期は利用した 21 。しかし、政治の中心が江戸へと移る中で伏見城は元和九年(1623年)に廃城となり、豊臣の栄華を象徴した建造物は歴史の舞台から姿を消した 21 。
秀吉の政治的遺産である豊臣家は滅びた。しかし、彼が創り出した経済インフラは、徳川の世でこそ、その真価を最大限に発揮することになる。政治的中心地としての役割を終えた伏見は、秀吉が整備した水運ネットワークを基盤として、京都と「天下の台所」大坂とを結ぶ物資の中継港として、江戸時代を通じて空前の繁栄を遂げた 7 。米30石(約4.5トン)を積むことができた三十石船などが伏見港と大坂の間を昼夜往来し 49 、旅客や米、薪炭、そして伏見の名産となる酒などを運んだ 41 。為政者の個人的な野心によって創造されたものが、その意図を超えて、後世の民衆の経済基盤として長く多大な貢献をなす。伏見の歴史は、そうした歴史の逆説的なダイナミズムを雄弁に物語っている。
終章: ランドスケープの再編 ― 秀吉の土木事業が現代に遺したもの
文禄三年(1594年)に行われた伏見城下の運河整備とそれに伴う一連の土木事業は、単なる過去の歴史的事件として終わるものではない。それは、400年以上の時を超えて、現代における京都南部の都市骨格、交通網、そして文化的景観そのものを規定し続ける、巨大な遺産となっている。
最も顕著な例は、交通網への影響である。秀吉が巨椋池を縦断して築いた小倉堤は、新たな大和街道となり 31 、その堤防跡のルートは、現在、京都と奈良を結ぶ近畿日本鉄道京都線の線路敷としてほぼそのまま利用されている 22 。淀堤が京街道の基礎となったように、秀吉による大地そのものの再編が、現代の我々の移動を支えるインフラの基盤となっているのである。
また、城下に引き込まれた運河(濠川・宇治川派流)は、伏見の文化的景観の核を形成している。江戸時代に舟運で栄えた記憶をとどめる水辺には、白壁の酒蔵が立ち並び、柳並木が揺れる 13 。月桂冠や黄桜といった日本を代表する酒造メーカーがこの地に集積し、伏見が日本有数の酒どころとして発展したのも、秀吉が整備した港を通じて、酒の原料である米の搬入と製品の搬出が容易であったことに起因する。現在、この運河には十石舟などの観光船が就航し、訪れる人々に伏見ならではの歴史的風情を伝えている 39 。
治水の観点からも、秀吉の事業は淀川水系全体の治水史における基礎を築いたと言える。宇治川と巨椋池を分離するという彼の基本的な構想は、その後の治水計画の前提となった。明治時代にオランダ人技師デ・レーケらの指導のもとで行われた近代的な淀川改修工事も、秀吉が創り出した河川の枠組みを、より強固で近代的な技術を用いて改良・発展させる形で行われている 24 。
結論として、文禄三年の「伏見城下運河整備」は、戦国時代の終焉と近世社会の幕開けを象徴する、日本のランドスケープ(国土景観)史上における「創世記的イベント」であったと総括できる。この事業は、治水、利水(水運)、都市計画、交通網整備を、一つの統合されたシステムとして構想・実行した、極めて総合的な国土開発計画であった 3 。それ以前、日本の地形は主に自然の力によって形成され、人々はそれに順応して暮らしてきた。しかし秀吉は、国家的な権力と資源、そして当代最高の技術を集中投下し、広域の河川流路や湖の存在といった、根源的な地理的条件を人間の意志で恒久的に作り変えてみせた。
これは、単なる城下町の建設を超え、国土そのものを経営・開発の対象と見なす、新しい時代における為政者の姿を示すものであった。武力による領土獲得の時代から、土木技術による国土経営の時代へ。この事業を通じて確立された「天下普請」というシステムは、徳川幕府へと引き継がれ、江戸時代の数々の大規模開発のモデルとなった 5 。1594年に伏見の地に響き渡った槌音は、戦国の終わりを告げ、技術と計画によって国土を統治する新しい時代の産声だったのである。
引用文献
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- 日本の河川技術の基礎をつくった人々・略史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu11.html
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- 大名家文書からみた名古屋城公儀普請( 1) 助役大名の動員過程について https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/04_%E5%A0%80%E5%86%85%E4%BA%AE%E4%BB%8B_%E5%A4%A7%E5%90%8D%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E5%85%AC%E5%84%80%E6%99%AE%E8%AB%8B%EF%BC%881%EF%BC%89_%E7%84%A1%E5%AE%B3%E5%8C%96%E6%B8%88.pdf
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- 天下の酒どころ 伏見城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44011/
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- 京都観光/旅行・ぶらり伏見 /京都市伏見区の歴史略年表 http://kyoto-fushimi.sakura.ne.jp/fushimi.htm
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- 戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?ー超入門!お城セミナー【構造】 https://shirobito.jp/article/922
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- 伏見はどのようにして水辺に直面する地となったのか - 月桂冠 https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/kyotofushimi/fushimikou/fushimikou01.html
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- 清水寺も焼失?伏見城も崩壊?地震が変えた京都の歴史 ~未来の防災のため、注目すべきたった一つのこととは?~ | ほんまもん京都がわかるブログ https://honmamonkyoto.com/jishin-rekishi-dansoutai-5414
- それでも指月伏見城はあった - 京都府埋蔵文化財調査研究センター https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/33morishima.pdf
- 淀川三十石船船唄 - 高槻市ホームページ https://www.city.takatsuki.osaka.jp/site/history/63578.html
- 三十石船 | ghorikai - Wix.com https://ghorikai.wixsite.com/ghorikai/sanpomiti-5
- 【京都府・宇治川派流】明治維新の歴史舞台も近いのどかな水辺 - ANA https://www.ana.co.jp/travelandlife/article/000937/
- 伏見港の「みなと文化」 https://www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/058.pdf
- 序論―「現場」からみた名古屋城石垣普請 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/%E5%BA%8F%E8%AB%96_1.pdf