最終更新日 2025-09-19

伏見城再建(1597)

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伏見城再建のリアルタイム・ドキュメント:天災、権威、そして天下人の最後の夢

序章:黄昏の天下人、最後の拠点 ― 指月伏見城

戦国乱世を終焉に導いた天下人、豊臣秀吉。その治世の最終章において、政治の中枢となったのが伏見城である。しかし、今日我々が目にする伏見城のイメージは、一度目の破滅的な崩壊を経て再建された二代目の姿である。その再建の物語を理解するためには、まず、幻と消えた初代「指月(しげつ)伏見城」の存在意義を紐解かねばならない。

背景:聚楽第から伏見へ

文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす一大政変が起こる。秀吉が後継者として定めていた関白・豊臣秀次の切腹事件である。この事件を契機に、秀吉は秀次が政務を執っていた壮麗な政庁「聚楽第」を、一片の情けもなく徹底的に破却した 1 。これにより、豊臣政権は物理的にも象徴的にも、その中心を失った。新たな政治の中枢拠点の建設は、喫緊の課題となったのである。

その舞台として選ばれたのが、京都南郊の伏見であった。秀吉は当初、この風光明媚な指月の丘に、自らの隠居後の住まいとして屋敷の建設を開始していた 2 。しかし、文禄2年(1593年)の嫡子・秀頼の誕生、そして秀次事件を経て、この屋敷の性格は劇的に変貌を遂げる。単なる私的な隠居所から、豊臣政権の威信を内外に示す新たな「本城」へと、その役割が格上げされたのだ 4

この拠点移動は、単なる遷都以上の意味を持っていた。聚楽第が「関白の政庁」という公的な性格を帯びていたのに対し、伏見城は秀吉個人の私邸から出発している。秀次という公的な後継者を排除した後に、この私的空間が政権の本拠地へと昇格するプロセスは、豊臣政権そのものが秀吉個人の家産、すなわち「豊臣家」の私的支配へとその性格を純化させていく過程を象徴していた。秀次とその支持勢力に連なる記憶を物理的に消し去り、秀頼を唯一絶対の後継者とする新体制を天下に宣言する、極めて政治的な意図が込められた事業だったのである。

指月伏見城の築城と役割

指月伏見城の築城は文禄元年(1592年)頃から始まり、急ピッチで進められた。近江の石工集団「穴太衆」をはじめとする最高の技術が投入され、淀城から天守や櫓を解体・移築し、各地から名石や名木を集めて、贅を尽くした城郭が築かれていった 1 。そして文禄3年(1594年)8月1日、秀吉は完成したばかりの城へと入城を果たす 1

この城に課せられた重要な役割の一つが、外交の舞台としての機能であった。当時、朝鮮出兵(文禄の役)の講和交渉のため、明からの使節団が来日する予定となっており、指月伏見城は彼らを迎え入れ、日本の国威と豊臣政権の威光を誇示するための壮大な装置となるはずであった 4 。宇治川の対岸には支城として向島城も築かれ、二つの城は壮麗な桜並木で結ばれていたという 2 。天下人の最後の拠点として、指月伏見城はまさに栄華の頂点を体現していた。

第一章:慶長伏見地震 ― 天下人の権威を揺るがした天災

順風満帆に見えた豊臣政権の黄昏に、未曾有の災厄が襲いかかる。それは、人の力では抗いようのない、大地の咆哮であった。

発生:文禄五年(慶長元年)閏七月十三日、亥の刻(午後10時頃)

文禄5年(1596年)9月5日深夜、畿内一円を巨大地震が襲った。後に「慶長伏見地震」として知られるこの天災は、推定マグニチュード7.5前後とされ、凄まじい揺れが広範囲を破壊した 6 。当時、日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスはその書簡に「約三時間が程絶え間なく続けり」と記しており、本震の激しさと、人々の恐怖を煽る絶え間ない余震の様子を伝えている 7 。この地震は発生時の年号から「文禄伏見地震」とも呼ばれるが、災異を理由に同年中に「慶長」へと改元されたため、慶長伏見地震の名が定着している 8

伏見城の惨状:一次史料から読み解くリアルタイム

天下人の居城も、この自然の猛威の前にはあまりにも無力であった。公家・山科言経の日記『言経卿記』や、醍醐寺座主・義演の『義演准后日記』といった一次史料が、その地獄絵図を克明に記録している 9

  • 天守の崩壊: 完成からわずか2年、威容を誇った天守は無残にも崩れ落ちた 1 。『言経卿記』には「伏見御城ハテンシユ崩了」と、その衝撃を簡潔に伝えている 9
  • 城内の人的被害: 各所で石垣が崩落し、城内だけで500人から600人以上が圧死したと伝えられる 7 。特に被害が集中したのは、奥向きに仕える女性たちであった。これは、来たるべき明使の接待準備のため、通常より多くの侍女たちが城内の屋敷や長屋に集められていたことが被害を拡大させたと分析されている 11 。身分によって居住区の堅牢性に差があったことも記録から窺え、『言経卿記』によれば、ある中納言の屋敷では武士に死者はいなかったものの、身分の低い雑人は60人から70人が亡くなったという 9
  • 諸大名屋敷の倒壊: 城下に屋敷を構えていた諸大名も甚大な被害を受けた。徳川家康の屋敷では長屋が崩壊し、家臣の加々爪隼人佑(政尚)を含む十数名が死亡 9 。前田利家の一族で越中の木舟城主であった前田秀継夫妻も、伏見の屋敷で圧死している 12

京都全域への被害拡大

被害は伏見にとどまらなかった。豊臣政権のもう一つの象徴であった方広寺の大仏(京の大仏)も、この地震で大破した。『義演准后日記』には、大仏の左手が崩れ落ち、胸部も崩壊したと、その無残な姿が生々しく記録されている 11 。東寺や天龍寺といった古刹も倒壊し、京都全体での死者は1,000人を超えたとされる 6

この慶長伏見地震は、単なる物理的な破壊に留まらなかった。秀吉がその権力を盤石にするために築き上げた二つの巨大なシンボル、すなわち「権力の象徴」たる伏見城と、「豊臣政権の繁栄の象徴」たる方広寺大仏が、一夜にして瓦礫の山と化したのである 12 。この事実は、秀吉の権威が絶対的なものではなく、天運に見放され得るものであることを天下に示してしまった。かつて秀吉自身が伏見の普請に際し、「なまつ大事にて候まま(地震対策を万全にせよ)」と書簡に記していたことが 14 、この失態を一層皮肉なものとし、彼の威信を深く傷つけた。地震からの復興は、単なるインフラの修復ではなく、失墜した権威を回復し、再強化するための、一刻の猶予も許されない政治的、心理的な闘いの始まりを意味していた。

第二章:絶望からの即断 ― 木幡山への移転と再建計画

未曾有の国難ともいえる事態に、老いた天下人は驚くべき指導力を発揮する。その意思決定の速さは、彼の権威失墜に対する強い危機感の表れであった。

被災直後の秀吉の動向

地震発生時、城内にいた秀吉は幸いにも難を逃れた。倒壊の危険が迫る中、真っ先に駆けつけた細川忠興らに警護され、城外へと脱出したと伝わる 12 。余震が絶え間なく続く中、秀吉一行が避難場所として選んだのが、指月の丘の北東に位置する木幡山(こはたやま)であった。彼らはそこに仮の小屋を建て、急場をしのいだ 4

驚異的な意思決定の速さ

絶望的な状況下で、秀吉の判断は迅速を極めた。史料によれば、地震発生のまさに翌日、閏七月十四日には、避難先である木幡山に新たな城を築くという命令が下されている 16 。この即断即決は、平時であれば考えられないスピードであり、混乱を収拾し、内外に政権の健在ぶりをアピールしようとする秀吉の強烈な意志を示している。

移転の理由:なぜ指月ではなく木幡山だったのか

再建にあたり、なぜ倒壊した指月の地が選ばれなかったのか。その理由は複合的であった。

  • 地盤への懸念: 最大の理由は、指月の地盤そのものへの不信感であった。一度壊滅的な被害を出した土地は、地盤が軟弱であると判断された。これに対し、避難先であり、より地盤が強固と考えられた木幡山が、新たな築城地として選ばれたのである 15
  • 心理的・政治的意図: 壊滅した場所で再建を行うのではなく、全く新しい場所に、以前よりもさらに壮大な城を築くことには、大きな政治的効果があった。これは、災厄を完全に乗り越え、むしろそれをバネにしてより強固になった権力を天下に示すという、一種のデモンストレーションであった。不吉な記憶を払拭する「厄払い」と「権威の再起動」という狙いがそこにはあった。
  • 戦略的視点: 指月が宇治川沿いの丘陵地であったのに対し、木幡山はより標高が高く、防御性に優れた山城としての性格を強めることができた。国内の不穏な動きや、再開が迫る朝鮮出兵(慶長の役)といった緊迫した情勢下で、政権中枢の安全性を高めるという、冷静な戦略的判断も含まれていたと考えられる。

この木幡山への移転決定は、合理的な判断と政治的計算に加え、老いた天下人の深層心理をも映し出していた。晩年、秀頼の将来を極度に案じ、自らの死期を意識していた秀吉にとって、絶対的な自信を持っていた自身の居城が一夜で瓦解した体験は、計り知れない衝撃であったはずだ。それは、彼の死と豊臣家の未来に対する不安を増幅させたに違いない。指月という場所は、もはや「不吉な土地」として彼の心に刻まれた。より高く、より堅固な木幡山へ移ることは、物理的な安全保障を求めるだけでなく、死と不安の影から逃れ、権力と生命の永続性を願う、秀吉個人の切実な祈りが込められた象徴的な行為でもあったのである。

第三章:天下普請による驚異の突貫工事

木幡山への移転という方針が定まると、秀吉は持てる権力の全てを動員し、空前絶後の突貫工事を開始する。それは、豊臣政権の底力と、天下人の執念を天下に示す一大事業であった。

天下普請の発令

伏見城の再建は、全国の諸大名に工事を分担させる「天下普請」として行われた 19 。これは、単なる建設事業ではない。諸大名に労役と財政負担を課すことで、豊臣政権への忠誠を再確認させ、その力を削ぐという高度な政治的意味合いを持っていた 20 。各大名は、割り当てられた工区の資材調達、人夫の動員、そしてそれに関わる全ての費用を自己負担することが求められた 22 。これにより、膨大な人的・物的資源が、瞬く間に伏見の地へと集中投下されることとなった。

驚異的な工期の実態

工事の様相は、凄まじいの一言に尽きた。『義演准后日記』は、その様子を「夜ヲ日ニ転シ、松明灯シ連レ(夜を昼に変え、煌々と松明を灯し続けて)」と記しており、昼夜を問わず工事が進められたことがわかる 1 。その結果、城は驚異的なスピードで姿を現していった。

この怒涛の建設プロセスを時系列で整理すると、その異常な速さがより鮮明になる。

年月日(和暦)

西暦

出来事

関係人物・勢力

典拠・関連史料

文禄5年閏7月13日

1596年9月5日

慶長伏見地震発生。指月伏見城、天守などが倒壊。

豊臣秀吉、諸大名

『言経卿記』 9 , 『義演准后日記』 9

文禄5年閏7月14日

1596年9月6日

秀吉、木幡山への新城建設を命令。

豊臣秀吉

16

文禄5年閏7月中

1596年9月

木幡山にて昼夜兼行の突貫工事(天下普請)が開始される。

諸大名

『義演准后日記』 1

文禄5年10月

1596年11-12月

本丸が完成。

普請担当大名

1

慶長2年5月

1597年6-7月

天守、主要殿舎が完成。秀吉・秀頼父子が入城。

豊臣秀吉、豊臣秀頼

1

慶長2年10月

1597年11-12月

舟入御殿、学問所、茶亭などが完成。城の主要機能が整う。

豊臣秀吉

2

慶長3年8月18日

1598年9月18日

豊臣秀吉、再建された伏見城にて死去。

豊臣秀吉

2

工期短縮を可能にした要因

この驚異的な工期を実現させた背景には、いくつかの要因があった。

  • 資材の再利用: 慶長伏見地震では、大規模な火災が発生しなかった。これにより、倒壊した指月伏見城の木材や石材の多くが、損傷を免れ、再利用することが可能であった 4
  • 聚楽第からの転用: 工期短縮の最大の要因は、すでに解体が進められていた聚楽第からの大規模な資材転用であった。『当代記』にも「聚楽城並諸侍之家門伏見へ引移サル」と記されている通り、壮麗な門や御殿建築がそのまま伏見へと移築され、新たな城の部材となった 1
  • 圧倒的な動員力: 天下人の命令一下、全国の大名から動員された膨大な数の人夫と、彼らが持ち寄った資材が、あらゆる工区で並行して作業を進めることを可能にした。

この突貫工事は、豊臣政権が未だ強力な中央集権体制を維持していることを天下に示す、何よりの証拠となった。瓦礫の中から、わずか1年足らずで新たな巨城を出現させたことは、諸大名や民衆に、秀吉の権威が天災ごときでは揺るがないことを強烈に印象付けたのである。

第四章:新生・木幡山伏見城の威容 ― 構造と意匠

昼夜兼行の突貫工事の末に木幡山に出現した新生・伏見城は、単なる再建に留まらず、あらゆる面で初代を凌駕する、壮大かつ華麗な城郭であった。それは戦国時代の終焉を告げ、桃山文化の頂点を極めた、まさに「天下人の城」と呼ぶにふさわしい威容を誇っていた。

城郭の全体構造

木幡山の複雑な地形を巧みに利用した縄張りは、極めて壮大であった。山頂に本丸を置き、その周囲に西の丸、二の丸、三の丸、松の丸、名護屋丸といった曲輪群を段状に、かつ立体的に配置した 24 。さらに、城郭本体だけでなく、山麓に広がる大名屋敷群や城下町までをも含めた広大な範囲を、長大な堀と土塁で囲い込む「惣構え」の構造を採用し、伏見全体を一つの巨大な要塞都市として設計していた 25

建築技術の粋

その構築には、当時の最先端技術が惜しみなく投入された。

  • 段築石垣: 城の東側から南側にかけての急峻な斜面には、石垣を一度に高く積み上げるのではなく、途中に帯状の平坦面を設けながら2段から4段に分けて築く「段築石垣」が多用された 24 。これは、難易度の高い地形を克服する土木技術の高さを示すと同時に、城の威容を視覚的に高める効果も持っていた。
  • 巨大な舟入: 城の南東麓には、宇治川の水運と直結する、南北約300メートル、東西約90メートルにも及ぶ巨大な「舟入」(港湾施設)が設けられた 24 。これにより、伏見城は陸路だけでなく水運をも掌握する、一大物流拠点としての機能も有していた。
  • 防御施設: 城門である虎口は、敵が直進できないように道を何度も折り曲げる複雑な構造を持ち、後の江戸時代の城郭で標準となる「枡形虎口」へと発展する過渡期の形態を示していた 24

桃山文化の結晶

城の内部は、絢爛豪華という言葉の限りを尽くしていた。

  • 豪華な装飾: 天守の屋根は金箔瓦で葺かれ 28 、壁は黒漆の上に金で花模様が描かれるなど、かつての大坂城を彷彿とさせる豪華絢爛な外観であった 28 。御殿の内部は、狩野派の絵師たちによる金碧濃彩の障壁画で埋め尽くされ、欄間には極彩色の透かし彫りが施され、襖の引手や釘隠しといった細部に至るまで、贅を凝らした飾金具が用いられていた 29
  • 文化的空間: 城内には、政務を執り行う公式な空間である「表向き」の御殿だけでなく、山里丸には茶亭や学問所が設けられるなど、文化的な交流の場としての役割も重視された 24 。現在、京都の高台寺に残り、重要文化財に指定されている茶室「傘亭」と「時雨亭」は、この伏見城から移築されたものと伝えられている 24

この木幡山伏見城は、単なる軍事拠点でも、政庁でも、居住空間でもなかった。それら全ての機能を統合し、さらに文化・経済の中心地としての機能をも内包した、豊臣政権の「総合的権力装置」であった。その城の構造自体が、天下人の支配が軍事、政治、経済、文化のあらゆる領域に及ぶことを示す、物理的な宣言書だったのである。それは、戦国乱世の終焉と、統一権力の完成を象徴する、記念碑的建築物であった。

終章:最後の輝き ― 伏見城に託された夢と落日

天災を乗り越え、以前にも増して壮麗な姿で蘇った伏見城。しかし、それは豊臣家の栄華が放つ、最後の、そしてあまりにも儚い輝きであった。この城は、天下人の夢の終着点であると同時に、時代の大きな転換点を見届ける舞台となる運命にあった。

秀吉の晩年と伏見城

完成した木幡山伏見城は、秀吉がその波乱の生涯を閉じるまでの、最後の居城となった 4 。病に蝕まれ、死期を悟った秀吉は、この城で幼い秀頼の将来を盤石にするための最後の政治工作に心血を注ぐ。慶長3年(1598年)8月5日、秀吉は病床に徳川家康ら五大老を呼び寄せ、秀頼への忠誠を繰り返し誓わせる遺言状を示した 31 。天下人の権勢の全てを注ぎ込んで築いたこの城で、彼は息子の未来を大名たちに託したのである。

天下人の死と権力の移行

しかし、その願いも虚しく、慶長3年(1598年)8月18日、豊臣秀吉は城の全ての完成を見ることなく、この伏見城で62年の生涯を閉じた 2 。辞世の句「つゆとをき つゆときへにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」は、彼の栄華の儚さを物語っている。

秀吉の死後、事態は彼が最も恐れていた方向へと動き出す。遺言に基づき、幼い秀頼は政権の象徴である大坂城へと移り 33 、空いた伏見城には、五大老筆頭の徳川家康が「秀頼の後見役・留守居」として入城した 26

豊臣の城から徳川の城へ

皮肉なことに、豊臣家の安泰を願って築かれた伏見城は、秀吉の死後、家康が天下獲りに向けてその影響力を行使する絶好の拠点となった。秀吉という絶対的な重石がなくなった後、政権中枢である伏見城を掌握した家康は、その場所が持つ政治的正統性を背景に、事実上の最高権力者として振る舞い始める。

そして慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦において、伏見城は歴史の奔流に飲み込まれる。家康の忠臣・鳥居元忠が籠城する城を石田三成らの西軍が包囲攻撃し、激しい攻防の末、城は炎上し落城した 35

関ヶ原で勝利を収めた家康は、戦後、再び天下普請によって伏見城を再建させる 37 。そして慶長8年(1603年)、家康はこの伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開府した 35 。豊臣秀吉が築いた「天下人の城」という象徴的な意味合いは、この瞬間、完全に徳川のものへと上書きされたのである。

終焉と遺構

大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、京都の守りとしての伏見城はその戦略的価値を失い、元和9年(1623年)に廃城とされた 23 。その壮麗な建物は解体され、全国各地の寺社や城郭に下賜・移築された。西本願寺の唐門や御香宮神社の表門など、現存する遺構は、かつての栄華の記憶を今に静かに伝えている 26

伏見城の歴史は、豊臣政権が抱えた最大のジレンマを象徴している。秀吉が後継者・秀頼の権威と安全を保障するために国家の総力を挙げて建設した究極の拠点が、結果的に最大のライバルである家康に継承され、徳川幕府の開幕を荘厳に演出する舞台装置として利用されてしまった。伏見城再建の物語は、天災に屈しなかった一人の天下人の執念の物語であると同時に、その夢が潰え、新たな時代へと移り変わっていく歴史の非情さを物語る、壮大な叙事詩なのである。

引用文献

  1. 【京都府】伏見城の歴史 創造と破壊を繰り返したその数奇な運命と ... https://sengoku-his.com/1838
  2. 京都伏見の歴史 - NPO法人 伏見観光協会 https://kyoto-fushimi.or.jp/rekishi02/
  3. 第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る - 城びと https://shirobito.jp/article/601
  4. 伏見のシンボル伏見城 - ゼミ生が語る「私の好きな京都」(2019年春学期) のページ http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~ksuzuki/z2019_fusimi.html
  5. 豊臣家の滅亡を早めた慶長伏見地震 - 今につながる日本史+α https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2018/06/23/133434
  6. 慶長伏見地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9C%B0%E9%9C%87
  7. 慶長年間の連続地震と 歴史的な研究課題 https://irides.tohoku.ac.jp/media/files/earthquake/eq/20160419_kumamotoeq_ebina.pdf
  8. 慶長伏見地震(文禄5年7月13日) - Yahoo!天気・災害 https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/263/
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  10. typhoon.yahoo.co.jp https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/263/#:~:text=%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%A7%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E,%E7%99%BA%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
  11. 文禄五年(1596)伏見地震における京都盆地での被害状況 https://www.histeq.jp/kaishi_26/HE26_92.pdf
  12. 天正地震 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC16%EF%BC%88%E7%AC%AC35%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89.pdf
  13. 慶長大地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E9%9C%87
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  16. 伏見城跡・指月城跡 - 京都 遺跡発掘調査 有限会社京都平安文化財 調査のながれ http://iseki-hakktsu.com/investigation/index46.html
  17. 伏見城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/husimi.htm
  18. 理文先生のお城がっこう 歴史編 第61回 秀吉の城13(指月伏見城) https://shirobito.jp/article/1805
  19. 超入門! お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何? - 城びと https://shirobito.jp/article/668
  20. 天下普請 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%99%AE%E8%AB%8B
  21. 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
  22. 名古屋城「天下普請」の全貌:家康の野望、武将たちの競演、そして空前の経済戦略 https://www.explore-nagoyajo.com/tenka-construction/
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  28. 理文先生のお城がっこう 歴史編 第62回 秀吉の城14(木幡山 ... - 城びと https://shirobito.jp/article/1825
  29. 名古屋城本丸御殿完成公開 絢爛豪華な見どころをご紹介します! | お知らせ https://www.nagoya-info.jp/news/detail/488/
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  31. 慶長3年(1598)8月5日は伏見城で病床にあった秀吉が五大老に秀頼を託す遺言状を示した日。家康ら五大老と三成ら五奉行に誓紙の交換もさせた。秀頼の傅役とした前田利家邸に前月に - note https://note.com/ryobeokada/n/n1f7fa94e12d6
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  35. 指月城跡,伏見城跡 発掘調査総括報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/40/40854/90644_1_%E6%8C%87%E6%9C%88%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E3%83%BB%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%B7%8F%E6%8B%AC%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  36. 伏見城「治部少丸」を巡る:石田三成ゆかりの地の歴史と現在 - MKメディア https://media.mk-group.co.jp/entry/kankou-jibusghomaru/
  37. 序論―「現場」からみた名古屋城石垣普請 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/%E5%BA%8F%E8%AB%96_1.pdf
  38. 都市史20 伏見城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html
  39. 旧伏見城域 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/9fushimi.pdf