伏見城指月造成(1592)
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文禄元年 伏見城指月造成 ― 天下人秀吉、同時遂行された二つの国家事業 ―
序章:文禄元(1592)年という時点 ― 豊臣政権の頂点と新たな野望
文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が山城国伏見の指月の丘に新たな拠点の造成を開始した事実は、単なる一城郭の建設に留まらない、戦国時代の終焉と近世の幕開けを象徴する多層的な意味を持つ事象である。この「伏見城指月造成」を正確に理解するためには、それが開始された文禄元年という年が、豊臣政権にとってどのような時点であったのかを、国内統治と対外政策の両面から俯瞰する必要がある。この巨大事業は、平穏な治世下で計画されたものではなく、朝鮮半島を舞台とした未曾有の対外戦争のさなかに、それと並行して推進された、もう一つの国家プロジェクトであった。
朝鮮半島での戦況と国内への影響
天正18年(1590年)に小田原北条氏を滅ぼし、奥州を平定して名実ともに天下統一を成し遂げた秀吉の目は、すでに海峡の向こう、大陸へと向けられていた 1 。彼の目標は明国の征服であり、その経路として朝鮮に服属と先導(「仮道入明」)を求めたが、交渉は決裂する 2 。ここに、世に言う「文禄の役」が勃発する。
文禄元年(1592年)正月、秀吉は全国の大名に動員令を発し、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に約25万の兵力を集結させた 3 。3月13日には朝鮮へ渡海する軍勢の編成(陣立て)を正式に発令。一番隊の小西行長、二番隊の加藤清正らを筆頭に、総勢約16万の大軍が9つの軍団に編成され、3月から4月にかけて、延べ40,000隻の船舶で順次玄界灘を渡った 3 。4月12日、一番隊が釜山に上陸すると、長年の戦乱で戦闘に習熟し、鉄砲という最新兵器で武装した日本軍は、朝鮮側の抵抗を次々と粉砕していく 2 。その進撃は凄まじく、わずか20日後の5月2日には、朝鮮国の首都・漢城(現在のソウル)が無血開城するに至った 2 。
この間、最高司令官である秀吉自身は、3月26日に京都を発ち、4月25日に前線基地として突貫工事で築かせた名護屋城に着陣した 3 。彼はこの地から大陸の戦況報告を受け、全軍の指揮を執ったのである。この対外戦争は、豊臣政権の軍事力を最大動員したものであり、兵糧米の確保のために博多に米相場が設けられ、九州全体が兵站基地と化すなど、日本は国家総力戦の様相を呈していた 4 。
太閤と関白 ― 国内統治の二元体制
秀吉が対外戦争に専念する一方で、国内の統治体制も新たな段階に入っていた。彼は朝鮮出兵に先立つ天正19年(1591年)12月、甥であり養子でもある豊臣秀次に関白の位と、政庁として機能していた京都の聚楽第を譲った 4 。自らは「太閤」と称し、表向きは政務の一線から退いた形をとったのである。
これにより、豊臣政権は関白秀次が京都の聚楽第で内政や儀礼を司り、太閤秀吉が軍事と外交を掌握するという、一種の二元統治体制へと移行した。秀次は前田利家ら諸侯への官位授与に関わるなど、内政面で着実に実績を重ね、政権内での影響力を高めていった 11 。しかし、実質的な最高権力者が依然として太閤秀吉であることに変わりはなく、彼の意向が政権の最終決定を左右する絶対的な権威を持っていた。伏見における新拠点の造成は、まさにこの「太閤」の新たな政庁兼私邸として計画されることになるのである 8 。
二大事業の並行遂行が意味するもの
文禄元年は、朝鮮出兵という空前の規模の対外戦争と、伏見における新城および新都市の建設という巨大な国内事業が、同時に推進された稀有な年であった。これは、天下統一を成し遂げた豊臣政権の国力、全国の大名を動員しうる組織力、そして秀吉個人の絶大な権威が、まさにその頂点に達していたことの証左に他ならない 4 。
しかし、この二正面作戦は、豊臣政権の輝かしい力の誇示であると同時に、その基盤を揺るがす深刻な矛盾を内包していた。朝鮮へ派兵された西国大名を中心に、諸大名は過大な軍役を負担させられた 7 。それに加え、伏見の造成は「天下普請」として、同じく諸大名に普請役という経済的・人的負担を強いるものであった。この軍役と普請役という二重の負担は、大名、特に豊臣恩顧の大名の疲弊を招き、政権の財政的・人的資源を著しく消耗させた 1 。結果として、この巨大事業に直接的な負担を免れた徳川家康が相対的に勢力を温存することに繋がり、後の豊臣政権の弱体化、ひいては滅亡への遠因となったのである 1 。したがって、伏見城指月造成の開始は、豊臣政権の栄華の絶頂を象徴する出来事であると同時に、その後の衰退への序章でもあったと位置づけることができる。
第一章:新都「伏見」の選択 ― なぜ指月だったのか
天下人・豊臣秀吉が、数ある畿内の土地の中から、なぜ伏見の、とりわけ「指月」と呼ばれる丘を自らの新たな拠点として選んだのか。その選択は、単なる思いつきではなく、地理的、経済的、文化的、そして政治的な意図が複雑に絡み合った、極めて戦略的な判断であった。
水陸交通の要衝としての地理的優位性
伏見の地が持つ最大の利点は、その地理的条件にあった。古来より、京都(平安京)、大坂、奈良、そして近江といった畿内の主要都市を結ぶ街道が交差する陸上交通の結節点であり、人々の往来が絶えない場所であった 13 。
さらに重要だったのが、水運の拠点としての圧倒的なポテンシャルである。伏見の西側には、木津川、宇治川、桂川という三つの大河川が合流し、大坂湾へと注ぐ淀川の起点となっていた。そして、その南にはかつて広大な遊水池である巨椋池が満々と水を湛えていた 14 。秀吉は、この地の利を最大限に活用し、大規模な土木工事によって水路を整備することで、伏見を京都と大坂を結ぶ中継地、ひいては全国の物資が集散する一大経済拠点とすることを構想したのである 13 。
文化的権威の借用と演出
秀吉が造成地に選んだ「指月」の丘は、単に地理的に優れているだけではなかった。この地は、平安時代に左大臣・橘俊綱が「伏見山荘」を構えて以来、風光明媚な「観月の名所」として知られ、多くの貴族たちが別荘を営んだ由緒ある土地であった 8 。
農民から身を起こし、武力によって天下を掌握した秀吉にとって、自らの権力を盤石なものとするためには、軍事力や経済力だけでなく、伝統的な文化的権威を身にまとうことが不可欠であった。彼が聚楽第を平安京大内裏跡に築き、後陽成天皇の行幸を仰いだのも、その一環である。同様に、王朝文化の香り高い「指月」の地に自らの拠点を構えることは、単なる実利を超えて、自身が伝統文化の継承者であり、天下に君臨するにふさわしい正統な支配者であることを天下に知らしめるための、巧みな政治的演出であったと考えられる 21 。
大坂・京都との政治的距離感
伏見の立地は、当時の豊臣政権の統治構造とも密接に関わっていた。この地は、豊臣家の本拠地であり、後に秀頼が居城とすることになる大坂城と、朝廷が存在し、関白秀次が政務を執る政庁・聚楽第が位置する京都の、ほぼ中間にあたる 8 。
この絶妙な地理的関係は、太閤として依然として最高権力を保持する秀吉にとって、極めて好都合であった。『戦国の堅城』が指摘するように、伏見は「本拠である大坂と朝廷に影響力を行使する聚楽第の間に位置する城として、二元統制を行う秀吉に大変好都合な場所」だったのである 8 。彼は伏見に座すことで、大坂の豊臣本家(未来)と京都の関白政府(現在)の両方を物理的に掌握し、睨みを利かせながら、太閤としての独自の政治的影響力を行使することができた。伏見城の建設は、秀吉と秀次による二元統治体制を、都市の物理的な配置によって補強し、安定させるという高度な政治的意図を含んでいたのである。
秀吉の伏見・指月の選択は、軍事・経済的な合理性、文化的・政治的な象徴性という複数の戦略的意図が複合的に絡み合った最適解であった。彼は、単に既存の都市を利用するのではなく、伏見というポテンシャルの高い土地に、治水・利水という大規模な土木工事を加えて、全く新しい政治経済都市をゼロから創造しようとした。それは、自然地形を権力によって支配し、人流と物流を自らの城下に集中させるという、近世的な都市計画思想の壮大な実践の始まりであった。
第二章:造成の胎動 ― 隠居屋敷構想の始動(文禄元年八月~九月初頭)
豊臣秀吉による伏見城指月造成は、その意思決定から着工に至るまでの過程が、同時代の複数の史料によって記録されており、驚くべき速度で進行したことがわかる。この章では、史料に基づきそのプロセスを日付単位で追い、当初の計画が壮大な「城郭」ではなく、あくまで秀吉個人の「隠居屋敷」であったという事実を時系列で明らかにする。
【表1】伏見城指月造成 関連年表(文禄元年:1592年)
月日 |
朝鮮戦線での動向 |
国内(名護屋・京都)での動向 |
伏見での造成動向 |
関連人物 |
典拠史料 |
正月 |
- |
秀吉、朝鮮出兵を命令。 |
- |
豊臣秀吉 |
4 |
3月13日 |
- |
秀吉、朝鮮渡海軍の陣立てを発令。 |
- |
豊臣秀吉 |
3 |
3月26日 |
- |
秀吉、京都を発ち名護屋へ向かう。 |
- |
豊臣秀吉 |
3 |
4月12日 |
小西行長ら一番隊、釜山に上陸。 |
- |
- |
小西行長 |
2 |
4月25日 |
- |
秀吉、肥前名護屋城に着陣。 |
- |
豊臣秀吉 |
3 |
5月2日 |
日本軍、首都・漢城を占領。 |
- |
- |
小西行長、加藤清正 |
2 |
8月11日 |
- |
秀吉、大坂より上洛の途上。 |
指月周辺を自ら散策・視察。 |
豊臣秀吉 |
8 |
8月17日 |
- |
- |
建設地を指月の丘に正式決定。 |
豊臣秀吉 |
8 |
8月20日 |
- |
秀吉、伏見に赴く。 |
造成の着工を決定。「縄打ち」を命令。 |
豊臣秀吉 |
8 |
8月24日 |
- |
- |
最初の区画割り(屋敷割り)開始。 |
- |
8 |
9月3日 |
- |
- |
建設工事が本格的に開始される。 |
- |
8 |
10月下旬 |
- |
- |
二方の石垣が完成。 |
- |
22 |
12月 |
- |
秀吉、名護屋城に在陣中。 |
秀吉、名護屋から普請に関する指示を出す。 |
豊臣秀吉、前田玄以 |
8 |
当初の計画:「城」ではなく「屋敷」
上記年表が示すように、伏見での新拠点建設計画は、秀吉の電光石火の意思決定によって推進された。8月11日に現地を視察してから、わずか9日後の8月20日には着工が決定し、測量と設計にあたる「縄打ち」が命じられている。この事実は、公家である吉田兼見の日記『兼見卿記』にも「今日、太閤大阪より伏見に至り御上洛と云々。伏見御屋敷普請縄打仰付らる」と記されており、当時の人々にとっても大きな出来事であったことがうかがえる 22 。そして9月3日には、早くも建設工事が本格的に始動した 8 。視察から着工まで、わずか3週間余りという驚異的なスピードである。
この迅速な展開は、秀吉のトップダウンによる意思決定と、それを即座に実行に移せる豊臣政権の強力な執行体制を物語っている。しかし、ここで注目すべきは、この時点での計画が、あくまで秀吉個人の「隠居所」としての「屋敷構え」であったという点である 8 。これは、前年に関白職と聚楽第を秀次に譲ったという政治的流れを汲むものであり、当初から壮麗な「城郭」を意図していたわけではなかった 8 。その目的は、茶会や宴を楽しむための、比較的私的な空間を設えることにあったと考えられている 20 。
当初「隠居屋敷」として事業を開始したことには、秀吉の戦略的な計算があった可能性も否定できない。朝鮮出兵という国を挙げた大事業の最中に、新たに大規模な城郭を建設すると公言すれば、普請役を課せられる諸大名からの反発を招きかねない。そこで、まずは私的な「屋敷」という名目で事業を小規模に開始し、周囲の抵抗感を和らげようとしたのかもしれない。また、戦況や、この時点ではまだ不確定であった後継者問題の推移を見極めながら、計画を柔軟に変更する余地を残しておくという意図もあったであろう。この初期構想の「曖昧さ」こそが、翌年以降に訪れる状況の激変に対応し、計画を飛躍的に大規模化させるための布石となったのである。
第三章:天下普請の発令と始動 ― 怒涛の造成工事(文禄元年九月~十二月)
文禄元年9月に本格着工した伏見の造成は、秀吉個人の屋敷建設という枠を瞬く間に超え、全国の大名を動員する「天下普請」として展開された。その工事は驚異的な速度で進捗し、遠く肥前名護屋の陣中から秀吉が直接指示を下すという、特異な状況下で推進された。
【リアルタイム時系列】
- 9月~: 造成が本格化すると、秀吉は諸大名に対し、伏見への動員を命じた。これは、各大名の知行高(石高)に応じて人夫や資材を供出させる「普請役」であり、豊臣政権下で確立された事実上の「天下普請」であった 10 。この命令により、全国から膨大な労働力と資源が伏見に集結し始めた。
- 10月下旬: 奈良興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』には、着工からわずか2ヶ月足らずで、早くも「二方の石垣ができ上がった」と記録されている 22 。これは、動員された大名たちが競うように工事を進めた結果であり、普請が急ピッチで進んでいたことを示している。
- 12月: 秀吉は、朝鮮出兵の拠点である肥前名護屋城に在陣しながらも、伏見の造成に細心の注意を払っていた。彼は京都所司代の前田玄以らに宛てた書状の中で、具体的な指示を与えている 8 。
- 意匠に関する指示: 秀吉は、建物の趣向について「利休好み」にするよう命じた 8 。前年に自らが切腹を命じた千利休の名をあえて持ち出したこの指示は、秀吉の茶の湯への深い傾倒と、利休亡き後の文化を自らが主導するという強い意志の表れであった。それは、伏見の屋敷が単なる住居ではなく、高度な文化的空間として構想されていたことを示唆している。
- 構造に関する指示: 同時に秀吉は、「なまづ大事にて」(地震対策を最も重要視せよ)と、建物の堅牢性、特に耐震性について繰り返し注意を促した 23 。畿内が地震の多い地域であることを熟知していた彼のこの懸念は、奇しくも4年後の文禄5年(1596年)に発生する慶長伏見地震によって、悲劇的な形で現実のものとなる。
普請役の実態と大名の負担
伏見の普請は、長束正家、増田長盛、石田三成、前田玄以といった豊臣政権の中枢を担う奉行衆によって統括され、全国の諸大名に工区が割り当てられた 10 。大名にとってこの普請役は、知行高に応じて課せられる極めて重い経済的・人的負担であったが、同時に天下人たる秀吉への忠誠を示す絶好の機会でもあった 25 。
史料からは、具体的な担当大名の姿も浮かび上がってくる。徳川家康もその例外ではなく、家臣の松平家忠が普請に従事したことが彼の日記『家忠日記』に記されている 23 。また、信濃上田城主の真田昌幸・信幸・幸村(信繁)親子にも、奉行連署状をもって普請命令が下されていることが確認されている 10 。伏見の普請現場は、豊臣政権の支配構造そのものを可視化した空間であった。奉行衆が全体を統括し、諸大名が割り当てられた工区で、いわば互いの威信をかけて工事の質と速さを競い合う。その進捗は、各大名の動員力と忠誠度を測るバロメーターであり、土木工事そのものが極めて政治的な意味合いを帯びていたのである。
全国からの資材調達
巨大な造成を支えるため、資材は全国各地から集められた。石垣に用いる良質な花崗岩は、瀬戸内海の讃岐国小豆島などから海上輸送された 8 。また、建築に不可欠な木材は、四国の土佐国や東北の出羽国といった遠隔地からも調達された記録が残っている 8 。これらの事実は、豊臣政権が陸路・海路を問わず、全国規模の広域的な物流ネットワークを完全に掌握していたことを示している。発掘調査では、実際に笠置山系の花崗岩が多く使用されていることも判明している 8 。
【表2】指月造成における普請役担当大名(推定含む)
大名名 |
当時の知行高(石高) |
普請における役割(判明分) |
典拠史料 |
徳川家康 |
255万7千石 |
作事(家臣・松平家忠が担当) |
『家忠日記』 23 |
真田昌幸・信幸・幸村 |
約3万8千石 |
堀普請、用材(柾板)運搬 |
『真田家文書』 10 |
藤堂高虎 |
5万石(伊予宇和島) |
広間の作事 |
『駒井日記』 22 |
牧主馬(秀次家臣) |
不明 |
湯殿の作事 |
『駒井日記』 22 |
池田輝政 |
15万2千石(三河吉田) |
石垣構築 |
『多聞院日記』 23 |
名護屋からの遠隔指示に見られる秀吉の姿は、彼の非凡な二面性を如実に示している。一方では「利休好み」という高度に洗練された文化的趣向を追求し、他方では「地震対策」という極めて実務的かつ合理的な視点を持つ。この文化的洗練と現実的合理性の両立こそが、彼の天下人たる所以であり、造成途上の伏見の建築群の性格を規定していく重要な要素となったのである。
第四章:城郭と城下の一体開発 ― 新都市の誕生
文禄元年に始まった伏見の造成は、単に一つの「屋敷」を建てるという当初の構想を遥かに超え、地形そのものを大胆に改変し、新たなインフラを整備し、人々を計画的に移住させるという、壮大な「都市計画」へと発展していった。秀吉は、城郭と城下町を一体のものとして捉え、伏見の地に全く新しい政治経済都市を創造しようとしたのである。
大規模治水・利水事業 ― 宇治川の改造
秀吉の都市計画の根幹をなしたのが、宇治川の流路を根本から作り変えるという、前代未聞の大規模な河川改修事業であった。彼は伏見城築城と並行して、宇治川の流れを北へ大きく迂回させ、指月の丘の麓に引き寄せる工事に着手した 15 。
このために、巨椋池の中に槇島堤や小倉堤といった巨大な堤防が次々と築かれた。これらは後に「太閤堤」と総称される 14 。この堤防群によって、奔放に流れていた宇治川は広大な巨椋池から完全に分離され、安定した流路が確保された 31 。この事業は、洪水から城下町を守るという治水の目的と同時に、より重要な二つの戦略的意図を持っていた。第一に、城の南側を流れる宇治川の新たな流路を、城を守る天然の外濠として機能させること。第二に、安定した水深を持つ水路を確保し、大坂と直結する大規模な河川港「伏見港」を創設することであった 14 。これにより、伏見は全国の物資が大坂経由で集積する日本最大級の内陸河川港へと発展する礎が築かれたのである 16 。この事業は、秀吉が自然の制約に従うのではなく、絶大な権力と当代最高の土木技術によって自然を改変し、自らの都市計画に従わせようとした、近世的な精神の象徴であった。
新都市のグランドデザイン ― 城下町の形成
河川改修と並行して、城下町の建設も計画的に進められた。その本格化は文禄3年(1594年)頃からであるが、その構想は造成初期から存在し、武家屋敷、町人地、寺社地が整然と区画整理され、現在の伏見市街地の原型が形作られていった 14 。
都市計画の核となるのは、指月の丘に築かれる城郭である。その周囲、特に西側の丘陵斜面には、全国から召集された有力大名たちの屋敷が配置された 9 。これらの大名屋敷群は、城を防御する第一の防衛ラインを形成した。『豊公伏見城ノ図』などの後代に作成された絵図には、石田三成や浅野長政といった豊臣政権の重臣から、徳川家康、伊達政宗、毛利輝元といった大大名の屋敷が、城を取り囲むように描かれている 14 。現在の伏見にも「伊達町」「毛利町」「治部町(石田治部少輔)」といった地名が残り、当時の名残を伝えている 20 。
さらに、武家屋敷地の西側に広がる低湿地帯は、城や外堀の掘削で出た土砂を用いて埋め立てられ、新たな市街地が造成された 14 。ここには、南北に走る京町通や両替町通を中核として、商人や職人が住む町人地が計画的に配置された 14 。このように、伏見の都市構造は、城郭を頂点に、武家地、町人地が同心円状に、かつ機能的に配置されるという、典型的な近世城下町の構造を持っていたのである 37 。
計画的な人口移住と経済圏の創出
秀吉の都市計画は、インフラや区画といった「ハード」面の整備に留まらなかった。彼は、都市の活気と経済機能という「ソフト」面を創出するため、計画的な人口移住を断行した。その最大の供給源となったのが、関白秀次に譲った政庁、京都の聚楽第であった。秀吉は、聚楽第の城下に住んでいた多くの町民を、町ごと伏見へ強制的に移住させたのである。現在も伏見の地に残る「聚楽町」「朱雀町」「神泉苑町」といった地名は、この歴史の生き証人である 8 。
さらに、全国から伏見に屋敷を構えることを命じられた大名たちは、それぞれの領国からお抱えの商人や職人たちを呼び寄せた 9 。これにより、伏見には短期間で多様な産業が興り、全国各地の物資と情報が集まる一大経済圏が形成された。特に、伏見が元来持っていた良質な地下水と、新たに整備された水運網が結びつき、後の伏見を代表する産業となる酒造業が大きく発展する基礎がこの時期に築かれたのである 39 。秀吉の都市計画は、物理的な空間を設計するだけでなく、都市の「魂」ともいえる人的・経済的ネットワークを旧都から新都へ意図的に移植する、極めて高度な都市プロデュースであったと言えよう。
終章:文禄元年末の到達点と未来への布石
文禄元年(1592年)という一年間を通じて展開された「伏見城指月造成」は、それ自体が完結した事変ではなく、豊臣政権の未来を左右する壮大な計画の序章であった。この年の末、造成事業はどこまで進捗し、どのような性格を帯びていたのか。そして、この事業が翌年以降、いかにしてその姿を劇的に変えていくのか、その布石と展望をここに総括する。
1592年末時点での到達点
文禄元年の暮れ、造成開始から約4ヶ月が経過した指月の丘では、隠居屋敷の建設が着実に進んでいた。全国から動員された大名たちの働きにより、基礎工事、特に石垣普請は相当な進捗を見せていたことが史料からうかがえる 22 。また、肥前名護屋の陣中にいる秀吉からの遠隔指示によって、建物の意匠は「利休好み」の風雅なものとし、構造は地震に備えて堅牢にするという基本方針が確定していた 8 。建築は具体的な設計と思想を得て、次の段階へと移行しつつあった。同時に、宇治川の改修や城下町の区画割りといった、新都市建設のグランドデザインも、その構想はすでに始動していた。
変貌の予兆 ― 隠居屋敷から政治拠点へ
当初は秀吉個人の私的な「隠居屋敷」として始まったこの事業は、年末の時点ですでにその性格を大きく変え始めていた。その最大の理由は、造成が「天下普請」という、豊臣政権の公的権力を行使する形で進められた点にある。全国の大名を動員した時点で、この事業はもはや私的な領域を超え、豊臣政権の威信をかけた国家プロジェクトとしての性格を帯びていた。
加えて、秀吉自身が朝鮮出兵の指揮を執るため、長期にわたって畿内を不在にすることが確定していた。この状況は、太閤の権威を京都・大坂に示し続けるための新たな政治的装置の必要性を高めた。伏見の造成は、秀吉の個人的な隠居生活の場という当初の目的から、太閤の政庁、すなわち豊臣政権のもう一つの中枢としての役割を期待されるようになっていたのである 8 。
未来への布石 ― 秀頼誕生がもたらすもの(展望)
そして、この造成事業の運命を決定的に変える最大の要因が、翌年に訪れる。文禄2年(1593年)8月3日、秀吉待望の実子、拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生するのである 8 。
この一人の赤子の誕生は、豊臣政権の構造と、伏見城の計画を根底から覆すほどのインパクトを持っていた。秀吉は、自らの血を引く後継者を得たことで、政権の世襲を現実的なものとして構想し始める。その結果、豊臣家の本城である大坂城を秀頼に譲り、自らは伏見を新たな本城とするという壮大な計画へと発展する 8 。これにより、伏見の「隠居屋敷」は、天守閣や櫓を備えた本格的な「城郭」へと、大規模な設計変更と改修が行われることになった。
さらに、膠着状態にあった朝鮮出兵をめぐり、明との講和交渉が本格化すると、伏見城にはもう一つの重要な役割が加わる。それは、明からの使節団を迎え、天下人秀吉の絶大な権力と日本の国威を見せつけるための、壮麗な迎賓館としての機能であった 8 。
文禄元年に開始された指月の造成は、結果として、この巨大な政治・軍事・外交の複合拠点へと変貌を遂げるための、第一段階、すなわち基礎工事としての歴史的意味を持つことになった。この事業の真の目的と規模は、秀吉を取り巻く国内外の情勢の変化に応じて、リアルタイムで変容し、拡大していったのである。この「変化し続けるプロジェクト」という動的な視点こそが、戦国末期の激動の中で生み出された伏見城という存在を理解する上で、最も重要な鍵となるであろう。
引用文献
- 第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp38.html
- (わかりやすい)朝鮮出兵 文禄・慶長の役 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/chosensyuppei.html
- 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
- 近世における水陸両用作戦について - 1592年の文禄 (朝鮮)の役を例として https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/assets/pdf/ssg2013_12_07.pdf
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- 「文禄の役」「慶長の役」とは? 朝鮮出兵の背景や結果について知ろう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/603246
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- 秀吉を警戒させた豊臣秀次の「影響力」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41591/2
- なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった? https://toyokeizai.net/articles/-/158743
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- 港町としての発展の歴史 - 月桂冠 https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/kyotofushimi/fushimikou/fushimikou02.html
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