伏見城築城(1592)
文禄元年(1592年)、秀吉は伏見城築城を開始。当初は隠居屋敷構想だったが、秀頼誕生後は本格的な城郭へ変更。聚楽第部材移築等で秀頼への権力継承を盤石にする新政治中枢として機能した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
伏見城築城考:太閤秀吉、最後の都の創造と崩壊(1592-1596)
序章:天下人、最後の拠点へ
文禄元年(1592年)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その権勢の絶頂にあった。しかし、その栄光の裏では、彼の晩年を規定するいくつかの深刻な動揺が始まっていた。前年、天正十九年(1591年)に実子・鶴松が夭折し、豊臣家の後継者問題は再び暗雲に覆われた。秀吉はこの事態に対応すべく、甥の豊臣秀次に関白の位を譲り、自らは一線を退いた「太閤」として君臨する新たな統治体制を構築した 1 。この権力の移譲は、表向きには円滑な後継体制への移行と見られたが、秀吉自身の内面では、絶対権力者としての新たな拠点、すなわち自らの意志を直接反映させるための政治中枢の必要性が意識され始めていた。
当時の豊臣政権は、秀吉の本拠地であり、難攻不落の軍事要塞として設計された大坂城と、秀次が政務を執り、朝廷との儀礼を司るために京都に設けられた壮麗な聚楽第という二つの拠点を中心に運営されていた 3 。しかし、秀次が聚楽第を拠点に独自の政治活動を展開し始めると、この二元的な体制は、秀吉にとって潜在的な不安定要因をはらむものとなった 3 。ここに、秀吉が自身の隠居後の生活のため、そして何よりも政権を最終的に掌握するための新たな拠点を求める動機が生まれる。
その候補地として選ばれたのが、山城国伏見であった。伏見は、古来より風光明媚な土地として知られるだけでなく、京都(朝廷)、大坂(経済・軍事)、そして奈良(寺社勢力)という畿内の三大勢力圏を結ぶ結節点に位置していた 4 。宇治川、桂川、木津川が合流するこの地は、水運のハブであり、陸路の要衝でもあった 4 。この地理的優位性は、秀吉にとって計り知れない戦略的価値を持っていた。伏見を掌握することは、畿内全体の物流と交通を支配し、政権の中枢神経を完全にコントロールすることを意味したのである。
伏見城の築城計画は、秀吉個人の「隠居」という私的な動機から始まった 1 。しかし、その選定地が持つ公的な、あるいは戦略的な重要性は、当初から明確に意識されていた。私的な遊興のための館でありながら、有事の際には政権の司令塔として機能しうるという二重の性格。この両義性こそが、伏見という土地を秀吉最後の拠点として運命づけたのである。本報告書は、この伏見城、特に慶長伏見地震によってその短い栄華を閉じた最初の城、すなわち「指月伏見城」の築城から崩壊までの過程を時系列に沿って詳細に検証し、それが豊臣政権末期において持った多層的な意義を解き明かすことを目的とする。
表1:伏見城築城から慶長伏見地震に至る詳細年表(1592-1596)
年月日 (西暦) |
出来事 |
典拠資料 |
文禄元年 (1592) |
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8月11日 |
豊臣秀吉、伏見の指月周辺を視察。 |
7 |
8月17日 |
秀吉、隠居屋敷の場所を指月の丘に決定。 |
7 |
8月20日 |
屋敷の着工を決定。 |
7 |
9月3日 |
隠居屋敷の建設が開始される。 |
7 |
文禄二年 (1593) |
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8月3日 |
秀吉の嫡子、拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生。 |
7 |
9月 |
隠居屋敷が概ね完成し、伊達政宗との対面や茶会に用いられる。 |
7 |
(時期不明) |
秀頼誕生を受け、隠居屋敷を本格的な城郭へ改修する計画が浮上。 |
2 |
文禄三年 (1594) |
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2月 |
本格的な城郭への改修工事が開始される。 |
9 |
4月 |
淀古城から天守、櫓が移築される。 |
7 |
8月 |
秀吉、完成した殿舎に入城する。 |
5 |
10月頃 |
宇治川の改修、伏見港の開港、太閤堤の造成など大規模な土木工事が始まる。 |
4 |
文禄四年 (1595) |
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7月 |
秀次事件が発生。豊臣秀次が切腹。 |
7 |
7月以降 |
破却された聚楽第の建物が伏見城へ移築される。 |
7 |
(時期不明) |
伏見が豊臣政権唯一の政治中枢となる。 |
4 |
文禄五年 (1596) |
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閏7月12日 |
伏見城と城下町は、明からの講和使節を迎える準備で賑わう。 |
12 |
閏7月13日 (9月5日) |
子の刻(深夜)、慶長伏見地震が発生。指月伏見城の天守などが倒壊し、甚大な被害を受ける。 |
1 |
閏7月15日 |
秀吉、新たな城地として木幡山を定め、再建に着手することを決定。 |
15 |
閏7月23日頃 |
木幡山での新城(木幡山伏見城)の築城が開始される。 |
1 |
第一章:指月の丘、隠居屋敷の胎動(文禄元年/1592年)
第一節:計画の具体化
文禄元年(1592年)夏、朝鮮出兵(文禄の役)の拠点である肥前名護屋城に在陣していた秀吉の視線は、すでに畿内に戻っていた。彼の胸中には、新たな拠点となる隠居屋敷の構想が具体化しつつあった。その構想が現実の計画として動き出すのは、同年8月のことである。一次史料によれば、そのプロセスは驚くべき速度で進行した 7 。
- 8月11日: 秀吉は、平安時代より観月の名所として知られる伏見の指月周辺を自ら散策し、候補地の視察を行った 7 。この地が持つ風光明媚な景観と、宇治川を眼下に望む立地は、彼の美意識を強く刺激したと考えられる。
- 8月17日: 視察からわずか6日後、秀吉は屋敷の建設地を指月の丘に正式に決定する 7 。この迅速な決断は、彼の構想がすでに固まっていたことを示唆している。
- 8月20日: 場所の決定から3日後には、着工が決定される 7 。
- 9月3日: 区画割りなどを経て、建設が開始された 7 。
この一連の流れは、秀吉の強大な権力と、彼の意思決定がいかに迅速に実行に移されたかを如実に物語っている。
第二節:初期構想「太閤の隠居屋敷」
特筆すべきは、この段階における計画が、軍事的な要塞である「城」ではなく、あくまで文化的な「屋敷」であった点である 1 。その目的は、茶会や宴を催し、風流を楽しむための、太閤の私的な遊興空間を創出することにあった 8 。この性格は、秀吉が名護屋城から発した指示からも窺い知ることができる。彼は、建設にあたり、前年に自らの命で切腹させたばかりの千利休の好みを反映した、侘びた趣向を取り入れるよう命じている 7 。これは、武威を誇示する壮大な城郭とは対極にある、洗練された文化的空間を目指していたことの証左である。この初期構想における伏見は、戦闘のための拠点ではなく、天下人がその治世の仕上げとして、文化の粋を集めた楽園を築こうとした場所であった。
しかし、この「隠居」という言葉の裏には、秀吉の老獪な政治的計算が隠されていた。彼は「隠居屋敷」の建設という、一見すると私的で無害な名目を掲げることで、諸大名の警戒心を和らげようとした。一方で、その建設自体は紛れもない権力行使であり、新たな政治秩序を構築するための布石であった。つまり、この構想は、文化的な隠居というソフトな名目で、大名統制というハードな実態を覆い隠す、秀吉一流の二重戦略だったのである。
第三節:天下普請の始動
「隠居屋敷」という私的な性格とは裏腹に、その建設は全国の諸大名を動員する「天下普請」として実行された。これは、伏見が単なる個人の邸宅ではなく、豊臣政権にとって公的な重要性を持つ施設であることを当初から示していた。建設開始の号令と共に、全国の有力大名たちは伏見の地に自らの屋敷を構えることを求められた 4 。
奥州の雄、伊達政宗もその一人であった。彼が伏見の屋敷から発した書状などが現存しており、当時の大名たちが伏見に集住し、新たな政治の中心地が形成されていく様子を伝えている 16 。大名たちは、普請の負担を強いられる一方で、太閤の膝元に屋敷を構えることで、政権中枢との繋がりを維持し、情報収集に努めた。こうして、指月の丘で槌音が響き始めると同時に、伏見は事実上の政治都市として胎動を開始したのである。それは、秀吉が描く新たな権力地図の中心点が、聚楽第から伏見へと静かに移動し始めた瞬間でもあった。
第二章:世継ぎの誕生と城郭への変貌(文禄二年~四年/1593-1595年)
第一節:計画の激変 ― 秀頼誕生の衝撃
文禄二年(1593年)8月3日、大坂城において、秀吉待望の嫡子・拾丸(後の豊臣秀頼)が誕生した 7 。この一人の赤子の誕生は、伏見の丘で進められていた建設計画の運命を根底から覆す、まさに歴史的な出来事であった。秀吉の関心は、もはや自身の風雅な隠居生活にはなく、愛息・秀頼へと継承されるべき豊臣政権の永続的な基盤をいかにして築くか、という一点に集約された。
この瞬間、伏見の「隠居屋敷」構想は放棄され、壮大な「本城」を建設する計画へと劇的に変貌を遂げた 2 。秀頼が将来居城とするであろう大坂城を補佐し、太閤である秀吉自身が最高権力者として政務を執り、天下に号令するための新たな司令塔。それが、伏見城に与えられた新しい使命であった 8 。茶の湯を楽しむための屋敷は、天守閣を備えた本格的な城郭へと、その設計思想を180度転換させたのである。
第二節:創造のための破壊 ― 淀城・聚楽第からの部材移築
計画の急な変更と拡張に伴い、築城の速度を上げ、かつ新たな城に絶大な権威を付与するため、秀吉は大胆な手法を用いた。それは、既存の城や御殿を解体し、その部材を伏見へと移築することであった。この「創造のための破壊」は、単なる建設資材の再利用に留まらない、極めて高度な政治的・象徴的行為であった。
文禄三年(1594年)4月、まず標的となったのは、秀頼の生母である淀殿ゆかりの淀古城であった。この城の天守や櫓が解体され、伏見へと運ばれた 7 。これは、秀頼の権威の源泉である淀殿の存在を、象徴的に伏見へと取り込むことを意味した。
さらに決定的だったのは、文禄四年(1595年)7月の秀次事件後の措置である。関白の座を追われ、切腹を命じられた秀次の拠点であった聚楽第は、徹底的に破却され、その壮麗な建造物群は伏見城の部材として移築された 7 。これにより、旧権力の象徴であった聚楽第は物理的に消滅し、その権威は完全に伏見城へと吸収された。
この一連の移築は、秀吉の権力構造の再定義そのものであった。淀城(淀殿=秀頼の正統性)と聚楽第(秀次=旧権力)を物理的に解体・吸収することで、伏見城は単なる新築の城ではなく、豊臣家の全ての権威と歴史を継承・集約した唯一無二のシンボルとして創造されたのである。これは、秀頼への権力移譲を円滑に進めるための、計算され尽くした象徴的操作であったと言える。
第三節:幻の城の実像 ― 発掘調査が語る構造
慶長伏見地震による倒壊と、その後の木幡山への移転に伴う大規模な造成により、指月伏見城はその痕跡を地表からほとんど消し去り、長らく「幻の城」とされてきた 21 。しかし、近年の継続的な発掘調査によって、その壮大な姿が徐々に明らかになりつつある。
2009年以降の調査では、城の北西角と推定される地点などで、堅固な石垣が検出されている 22 。石垣は花崗岩の自然石を用いた野面積みで、残存高は高いところで2.8メートル、6段から7段にわたって積まれていた 22 。裏込めには礫が密に詰められ、極めて堅固な造りであったことがわかる。
また、発掘調査からは、この城が単一の郭ではなく、内堀によって区画された複数の郭を持つ「連郭式」の縄張りであった可能性が示唆されている 2 。これは、聚楽第などと同様の、政治的機能と居住性を重視したシンプルな構造であったと考えられる。
さらに、遺構からは金箔を施した瓦(金箔瓦)が多数出土している 2 。これは、織田信長の安土城や秀吉自身の聚楽第でも使用されたものであり、建物の屋根が黄金に輝いていたことを示している。これらの考古学的知見は、文献史料に記された伏見城の壮麗さが、決して誇張ではなかったことを裏付けている。
第四節:新首都の建設 ― インフラ整備と都市計画
城郭本体の建設と並行して、秀吉は伏見一帯の地形そのものを造り変える壮大なインフラ整備事業に着手した。これは、伏見を名実ともに日本の新たな首都へと変貌させるための、壮大な都市計画であった。
文禄三年(1594年)、まず建築資材の運搬を目的として、宇治川と巨椋池を結ぶ場所に「伏見港」が開かれた 4 。さらに、宇治川の流路を付け替え、城の外濠として利用するとともに、氾濫を防ぐための大規模な堤防、いわゆる「太閤堤」が築かれた 4 。この堤防の一つである小倉堤は、巨椋池の中を貫き、伏見と奈良を結ぶ新たな幹線道路(大和街道)となった 7 。
これらの土木工事により、京都、大坂、奈良、近江といった主要都市からの人や物資の流れは、すべて伏見へと集中するように再設計された。伏見は、単に太閤の居城がある場所というだけでなく、畿内、ひいては西日本全体の経済と交通を支配する一大ハブ拠点となったのである 4 。
表2:指月伏見城・大坂城・聚楽第の機能と構造比較
項目 |
指月伏見城 |
大坂城 (豊臣期) |
聚楽第 |
所在地 |
山城国伏見 (現・京都市伏見区) |
摂津国大坂 (現・大阪市中央区) |
山城国京都 (現・京都市上京区) |
立地 |
丘陵 (平山城) |
台地先端 (平山城) |
平地 (平城) |
規模 (推定) |
複数の郭を持つ大規模な城郭。発掘により高さ2.8mの石垣を確認 22 。 |
本丸は三段構造。天守台含む高さ約40m 25 。惣構を持つ巨大城郭。 |
本丸の周囲長約948m。西之丸南堀の幅43.5m 26 。 |
構造的特徴 |
政治機能と居住性を重視した連郭式の縄張り 2 。防御性は大坂城に劣るが、聚楽第よりは堅固 3 。金箔瓦を使用 2 。 |
輪郭式。巨大な堀と高石垣を持つ、鉄壁の防御を誇る軍事要塞 3 。 |
本丸を中心に複数の郭を配置。防御面では他の城に劣るが、石垣や堀を備えた城郭構造 3 。 |
主たる機能 |
太閤の政務・居住。秀頼を頂点とする新体制の司令塔。外交儀礼の舞台。 |
豊臣氏の本拠地。軍事・兵站の拠点。蔵入地の管理。 |
関白の政庁。朝廷との儀礼・交渉。天皇行幸の舞台。 |
象徴性 |
太閤の絶対的権威と、豊臣政権の永続性(秀頼への継承)を象徴。桃山文化の集大成。 |
天下人の武威と、全国支配の拠点を象徴。 |
関白としての公的権威と、朝廷との協調関係を象徴。 |
この比較から明らかなように、指月伏見城は、軍事拠点としての「防御の大坂城」と、儀礼・政務の拠点としての「都の聚楽第」の中間に位置し、両者の機能を統合・昇華させた新たな政治中枢として構想された。それは、太閤秀吉が直接政務を執行し、秀頼を頂点とする新体制を盤石にするための、全く新しい役割を担う戦略的拠点であった。
第三章:天下の政庁、伏見の完成(文禄四年~五年/1595-1596年)
第一節:聚楽第の終焉と権力の一元化
文禄四年(1595年)7月、豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ高野山で切腹するという衝撃的な事件(秀次事件)が起こった。これに続き、秀吉は秀次の居城であった聚楽第の徹底的な破却を命じた 4 。この措置は、単に一人の大名を粛清したに留まらず、豊臣政権の権力構造そのものを変質させる決定的な画期であった。
聚楽第の破却により、秀吉(太閤)と秀次(関白)による二元的な統治体制は完全に終焉を迎えた。政権内のあらゆる権能は、太閤秀吉が君臨する伏見城へと一元的に集中されることになったのである 11 。伏見は、もはや大坂城を補佐する拠点や、太閤の隠居所といった位置づけではない。名実ともに、豊臣政権における唯一絶対の政治中枢、日本の首都となったのである。全国の大名は伏見に屋敷を構えることを義務付けられ、日々の政務や重要事項の決定はすべてこの地で行われた。伏見城とその城下町は、日本の政治・経済・文化の神経系統が集約する一大センターとして、その栄華を極めていく。
第二節:権力の可視化 ― 桃山文化の殿堂
完成した指月伏見城は、単なる政治施設ではなく、秀吉の絶対的な権力と富を可視化するための、壮大な芸術作品でもあった。その内部は、当代随一の技術と贅を尽くして飾られ、絢爛豪華な桃山文化の粋を集めた殿堂となっていた。
発掘調査で出土した金箔瓦が示すように、城の屋根は陽光を浴びて黄金に輝いていた 2 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、大坂城の同様の瓦について「建物にいっそうすばらしい光彩を添えていた」と記録しており、伏見城もまた、見る者を圧倒する壮麗な外観を誇っていたことは想像に難くない 28 。
城内の御殿を飾ったのは、狩野永徳を筆頭とする狩野派の絵師たちが描いた豪華な障壁画であった 29 。信長の安土城や秀吉の聚楽第の障壁画も手掛けた永徳とその一門は、金箔をふんだんに用いた背景に、雄大な自然や勇壮な動物などを力強い筆致で描き出し、権力者の威光を讃える大画面様式を確立した 30 。伏見城の内部もまた、こうした壮麗な金碧障壁画で埋め尽くされていたと考えられる。
さらに、秀吉の権力の象徴ともいえる「黄金の茶室」も、この伏見城内に設置されていた可能性が高い。組み立て式で移動可能であったこの茶室は、天皇や諸大名に秀吉の富を見せつけるための装置であり、伏見城が政権の新たな中枢となった以上、そこに置かれるのは必然であった 32 。指月伏見城は、まさに歩む者すべての度肝を抜く、権力の劇場空間として設計されていたのである。
第三節:外交儀礼の舞台
伏見城の壮麗さは、国内の大名や民衆に向けられたものだけではなかった。それは、東アジアの国際秩序の中で、日本の国威を海外に示すための極めて重要な外交装置でもあった。当時、文禄の役は膠着状態にあり、明との間で講和交渉が進められていた。伏見城は、その交渉のために来日する明の使節を公式に謁見する、外交儀礼の舞台として準備されていたのである 12 。
秀吉の狙いは、明の使節に対して、日本の圧倒的な国力と文化水準、そして自らの絶対的な権威を見せつけ、交渉を有利に進めることにあった。城の隅々まで施された黄金の装飾や、壮大な障壁画、洗練された庭園は、単なる美術品ではなく、外交的なメッセージを発信する強力なメディアであった。伏見城は、秀吉が構想する新たな国際秩序の中心となるべき場所として、意図的にデザインされた「劇場型国家装置」だったのである。この城の完成は、秀吉の権力が国内のみならず、国際的な舞台においても頂点に達したことを象徴していた。
第四章:慶長伏見地震 ― 栄華の終焉(文禄五年/1596年 閏七月)
第一節:その日の伏見 ― 地震前夜
文禄五年(1596年)閏七月、完成したばかりの伏見城とその城下町は、未だかつてないほどの活気に満ちていた。長きにわたる文禄の役の講和交渉が大詰めを迎え、明からの正使を迎える準備が着々と進められていたからである 12 。この歴史的な外交儀礼のため、城内には諸大名やその家臣、そして儀礼を彩るための多数の侍女たちが集められていた。城下の武家屋敷や町家も、全国から集まった人々でごった返していた。誰もが、太閤秀吉が築いた新たな都の栄華と、間もなく訪れるであろう和平の祝祭に心を躍らせていた。この輝かしい日常が、次の瞬間、未曾有のカタストロフによって跡形もなく打ち砕かれることになるとは、誰も予想していなかった。
第二節:激震 ― 子の刻の悲劇
閏七月十三日の夜。人々が寝静まった子の刻(深夜0時頃)、突如として大地が裂けるような轟音と共に、凄まじい揺れが伏見を襲った 13 。これが、後に「慶長伏見地震」と呼ばれる巨大地震であった。
公家の山科言経は、その日記『言経卿記』に、当時の恐怖を生々しく記録している。「近代是程事無之(近頃これほどのことはなかった)」と、誰もが経験したことのない揺れであったことを記し、あまりの恐怖に「庭上ニ出テ夜ヲ明了(庭に出て夜を明かした)」と綴っている 34 。揺れは一度では終わらず、その後も昼夜を問わず余震が続いた 35 。醍醐寺の僧、義演もその日記『義演准后日記』に「大山モ崩、大路モ破裂ス、非只事(大きな山も崩れ、大路も破裂した。ただ事ではない)」と記し、その惨状を伝えている 13 。人々は倒壊した家屋を恐れ、道端で仮設の小屋を建てて夜を明かすほかなかった 35 。
第三節:崩れ落ちた天守 ― 被害の全貌
この激震は、完成からわずか2年、栄華を極めた指月伏見城を容赦なく破壊した。秀吉の権威の象徴であった壮麗な天守閣は、轟音と共に崩れ落ちた。『言経卿記』は「伏見御城ハテンシユ崩了」と、その衝撃的な事実を簡潔に記している 13 。『義演准后日記』もまた、「大殿守悉崩テ倒了」と、天守が完全に倒壊したことを伝えている 13 。
被害は天守だけに留まらなかった。城内の門や御殿、多聞櫓などもことごとく大破、あるいは倒壊した 13 。城下に立ち並んでいた諸大名の屋敷も「事外崩了(ことのほか崩れた)」と記録されるように、壊滅的な被害を受けた 13 。
人的被害も甚大であった。特に悲劇的だったのは、明の使節を迎える儀礼のために城内に詰めていた多くの侍女たちであった。公家の壬生孝亮が記した『左大史孝亮記』によれば、「伏見二丸之女房三百人餘、依地震失命云々(伏見城二の丸の侍女300人余りが、地震によって命を失ったという)」とあり、華やかな儀礼の準備にあたっていた多くの女性たちが、倒壊した建物の下敷きとなって命を落とした 13 。城下町でも家屋の倒壊により、「死人千ニアマリ了(死者は千人を超えた)」と記録されており、伏見全体で数千人規模の犠牲者が出たと推定される 13 。
第四節:天下人の動揺と決断
秀吉自身は、かろうじて難を逃れたものの、目の前で自らが心血を注いで築き上げた権力の象徴が、一瞬にして瓦礫の山と化す光景を目の当たりにした。この出来事は、彼の権威の根幹を揺るがす深刻な打撃であった。当時の人々にとって、地震のような天変地異は、為政者の不徳に対する「天罰」や、その治世の終わりを告げる「凶兆」と見なされることが少なくなかった。秀吉が築き上げた「天命に選ばれた天下人」という物語は、この自然の圧倒的な力の前に、深刻な亀裂を生じさせたのである。
諸大名や民衆の間で「太閤の運も尽きたか」という囁きが広がることを、秀吉は何よりも恐れた。この権威の失墜という危機に対し、彼は驚くべき速さで行動する。地震発生からわずか10日後の閏七月二十三日頃には、指月の丘は城地に適さないと判断し、近隣の木幡山に新たな城を築くことを決定し、直ちに着工を命じたのである 1 。
この異常とも言える迅速な再建命令は、単なる復旧作業や、優れた危機管理能力の発露というだけでは説明できない。それは、天災によって失墜した自らの権威を、人間の意志の力によって再び打ち立てようとする、必死の試みであった。崩れ落ちた城を、より強固に、より壮麗に再建することによってのみ、自らが「天に見放されていない」ことを証明できる。この政治的、そして心理的な強迫観念が、秀吉を前代未聞の速度での再建へと駆り立てたのであった。
終章:木幡山への継承と太閤の死
慶長伏見地震によって悲劇的な終焉を迎えた指月伏見城。その瓦礫が残る指月の丘は、すぐさま始まった木幡山での新城建設に伴う大規模な造成工事の中で、次第に埋め立てられていった 22 。こうして、秀吉が最初に築いた壮麗な城は、物理的にその姿を消し、後世の研究者が発掘によってその姿を明らかにするまで、長く「幻の城」として歴史の中に埋もれることとなる。
一方、木幡山では、全国の大名を動員した昼夜を徹した突貫工事が進められた 5 。秀吉の執念ともいえるこの再建事業により、新たな伏見城は驚異的な速さでその姿を現していった。しかし、その完成を見ることなく、太閤豊臣秀吉は慶長三年(1598年)8月18日、再建中の伏見城内でその波乱の生涯を閉じた 4 。辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにはの事も 夢のまた夢」は、彼が築き上げた栄華の儚さを物語っている 5 。
指月伏見城の築城は、秀吉の個人的な願望、後継者・秀頼への道筋の確立、そして国内外に示す絶対的権力の誇示という、彼の晩年における全ての野心と戦略が凝縮された一大事業であった。その短くも輝かしい栄華と、天災による突然の崩壊は、奇しくも豊臣政権そのものの運命を象徴する出来事となった。
秀吉の死後、伏見城は五大老筆頭の徳川家康の手に渡り、豊臣政権内部の権力闘争の中心舞台となる 11 。そして、関ヶ原の戦いを経て、家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開くのもこの伏見城であった 9 。秀吉が豊臣家の永続を願って築いた最後の都は、結果として豊臣の世を終わらせ、新たな徳川の時代の幕開けを告げる場所となったのである。指月伏見城の創造と崩壊の物語は、一人の天下人の夢の跡であると同時に、日本の歴史が大きく転換する時代の、激しい胎動を今に伝えている。
引用文献
- 天下の酒どころ 伏見城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44011/
- 資料 1 発見!伏見城の石垣 JR 桃山駅前の調査から - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza328.pdf
- 聚楽第が屋敷という名称なのに城なのか? http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/siro.htm
- 京都市伏見区役所:伏見区の歴史 : 安土桃山時代 秀吉が開いた城下町 https://www.city.kyoto.lg.jp/fushimi/page/0000013318.html
- 京都伏見の歴史 - NPO法人 伏見観光協会 https://kyoto-fushimi.or.jp/rekishi02/
- 京都伏見の歴史 https://kyoto-fushimi.or.jp/rekishi/
- 伏見城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E
- 都市史20 伏見城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html
- 伏見城の歴史 - 伏水(伏見)物語 - FC2 http://fushimimonogatari.web.fc2.com/momoyama/momoyamajyo.htm
- 伏見城の造営 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/News/kenkyu/06kiyou-3.pdf
- 伏見から江戸へ - 伏見通信 https://fushimimomoyama.jimdofree.com/%E8%B1%8A%E5%9B%BD%E5%BB%9F/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%B8/
- 文禄五年(1596)伏見地震における京都盆地での被害状況 https://www.histeq.jp/kaishi_26/HE26_92.pdf
- 1596 年文禄伏見地震に関する地震像の検討 https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/16055/files/hdsk_23_nishiyama.pdf
- 【編集部ニュース】『慶長の夏、伏見崩る ― 文月(ふみづき)に起きた歴史的大地震』をご紹介します。@京ちゃんの伏見ヒストリー日記 - 京都市伏見区 https://fushimi-kyoto.mypl.net/shop/00000356290/news?d=3064235
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- 第24回【指月城】大地震で失われた城の姿を探る - 城びと https://shirobito.jp/article/601
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- 発見!豊臣秀吉の幻の城「伏見城」の存在を裏付ける石垣などが出土 | 歴史・文化 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/26691
- 大坂城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E
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- 特別展示「THE 金箔瓦」によせて - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/410.pdf
- 狩野永徳 | 日本大百科全書 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=3254
- 青い日記帳「障壁画の豪華さと茶器の繊細さ―桃山文化の二面性を味わい尽くす」上 https://tsumugu.yomiuri.co.jp/feature/bluediarymomoyama1/
- 京狩野の祖・狩野山楽 - UAG美術家研究所 - 湯上がり美術談義 https://yuagariart.com/uag/shiga02/
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- 古城の歴史 指月伏見城 https://takayama.tonosama.jp/html/shigetsu.html
- 『言経卿記』原本の慶長地震の記事 - 東京大学史料編纂所 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/tokitune.jishin.html
- 『言経卿記』に見る文禄五年伏見地震での震災対応 -特に「和歌を押す」行為について- http://www.histeq.jp/kaishi_21/P153-164.pdf
- それでも指月伏見城はあった - 京都府埋蔵文化財調査研究センター https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/33morishima.pdf
- 伏見城跡・指月城跡 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/cmsfiles/contents/0000172/172102/shigetu1.pdf