最終更新日 2025-09-14

伏見居住開始(1594)

文禄3年(1594年)、秀吉は伏見城での居住を開始。秀頼誕生後の新政治中枢として築城・都市開発を進めた。秀次事件を経て権力集中を図るも、慶長伏見地震で被災。再建されるも後の徳川政権拠点となった。
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伏見居住開始(1594年):豊臣政権、最終章の幕開け

序章:天下統一後の新たな秩序――伏見前夜の政治情勢

文禄三年(1594年)の「伏見居住開始」は、単に天下人・豊臣秀吉が居城を移したという事実にとどまらない。それは、天下統一後の豊臣政権が直面した内外の課題と、権力構造の地殻変動が生んだ、必然の帰結であった。この事象を深く理解するためには、まず伏見前夜、すなわち1590年代初頭の日本が置かれていた複雑な政治情勢を解き明かす必要がある。

文禄の役と国内統治の並行

文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮半島への大規模な出兵、いわゆる「文禄の役」を開始した 1 。秀吉自身は渡海せず、九州北端の肥前名護屋城に本陣を構え、そこから大陸への戦況を注視しつつ、同時に日本国内の統治も遠隔で行うという、前代未聞の二正面作戦を遂行していた 2 。この状況は、秀吉にとって大きな課題を生じさせた。名護屋はあくまでも戦時の前線基地であり、恒久的な政治の中心地ではあり得ない。一方で、京都・大坂という日本の伝統的な中枢から物理的に離れていることは、国内統治における権威の空洞化を招きかねない危険性をはらんでいた。聚楽第を後述する関白・秀次に譲った以上、太閤としての秀吉自身の権威を国内に示し、政務を円滑に執行するための新たな拠点が、畿内に必要不可欠となっていたのである。

関白秀次体制と太閤秀吉の二元政治

天正十九年(1591年)、秀吉は実子に恵まれなかったことから、甥の豊臣秀次を養子とし、関白の位と、政庁として機能していた壮麗な城郭「聚楽第」を譲った 3 。これにより秀吉は第一線を退き「太閤」として後見に回るという、形式上の権力移譲が完了した 5 。聚楽第は、後陽成天皇の行幸を迎え、全国の大名をひれ伏させて忠誠を誓わせた、豊臣政権の権威の象徴そのものであった 6 。それを秀次に譲ったことは、一見すれば円滑な後継体制の構築に見える。しかし、それは同時に、秀吉自身の手から政権の物理的な中心が離れたことを意味していた。この「権力の空白」を埋め、秀次の聚楽第とは別系統の、太閤直轄の最高意思決定機関として機能する新たな拠点の必要性が、伏見計画の根源的な動機の一つとなったのである。

嫡子・秀頼の誕生がもたらした政権の構造変化

この二元政治の均衡を根底から揺るがす画期的な出来事が、文禄二年(1593年)8月に起こる。側室の淀殿が、秀吉待望の実子・拾(のちの豊臣秀頼)を出産したのである 7 。この瞬間、豊臣政権の継承計画は白紙に戻った。いわば「中継ぎ」であった秀次の立場は微妙なものとなり、実子・秀頼への権力継承こそが秀吉の絶対的な目標となった。

この政権構想の根本的な転換は、建設が進められていた伏見の計画に即座に反映された。当初、風光明媚な地での穏やかな「隠居屋敷」として構想されていた計画は、秀頼の誕生を境に、天守閣や堅固な城郭施設を備えた本格的な「城」へと大規模に拡張・変更されたのである 3 。これは単なる施設の増築ではない。将来、秀頼を大坂城主とし、自らはその後見人として政務を執るための新たな政治中枢を建設するという、国家的なプロジェクトへの転換であった 9 。秀次の聚楽第に対抗し、そしてそれを凌駕する新たな権力の中枢を創造するという、秀吉の明確な政治的意志が、伏見城の城郭化に込められていた。伏見居住の開始とは、この秀頼を頂点とする新権力体制の司令塔を建設し、稼働させるという壮大な計画の第一歩だったのである。

第一章:指月の丘――隠居構想から新首都計画への転換(1592年~1593年)

伏見という土地が選ばれ、当初の隠居屋敷構想が、いかにして国家的な新首都計画へと変貌を遂げたのか。その過程は、秀吉個人の美意識と、豊臣政権の戦略的要請が交錯するダイナミックな物語である。

風光明媚な隠居地の選定と初期の造営

文禄元年(1592年)8月、秀吉は京都南郊の伏見・指月の丘に新たな拠点の建設を開始した 1 。この地は、古来より宇治川と眼下に広がる巨大な巨椋池(おぐらいけ)を望む月見の名所として知られ、平安貴族たちにも愛された風光明媚な丘陵地であった 10 。室町時代には皇族である伏見宮家の邸宅も営まれており、文化的にも由緒ある土地柄であった 3

秀吉がこの地を選んだ理由は、単に景色が美しいからだけではない。伏見は、淀川水系を通じて大坂と、陸路で京の都心とを結ぶ、水陸交通の要衝であった 4 。東国から京へ入る街道も押さえることができる戦略的な立地でもあり、秀吉の卓越した地理的感覚がこの選定に働いたことは間違いない 12

当初の計画は、あくまで秀吉個人の「隠居屋敷」であり、茶会や宴を楽しむための、比較的穏やかな性格の施設として構想されていた 11 。文禄の役のさなか、名護屋城から発せられた指示には、当代随一の茶人であった千利休(前年に切腹)の好みを反映させるように、との一文も含まれており、秀吉の文化的なこだわりがうかがえる 2 。また、1585年の天正大地震を経験していた秀吉は、普請にあたって地震対策を特に重視するよう命じており、その慎重な姿勢も記録に残っている 2

秀頼誕生という画期:隠居屋敷から「天下人の城」へ

文禄二年(1593年)8月の秀頼誕生は、この穏やかな計画を一変させた。個人的な隠居屋敷の建設は、豊臣家の未来を盤石にするための、壮大な国家プロジェクトへとその性格を劇的に変える。計画は本格的な築城へと変更され、天守閣をはじめとする壮麗な城郭施設が設計に加えられた 7 。さらに、伏見の地に全国の有力大名を集住させるという、一大都市計画へと発展したのである 5

この計画変更が意味するものは大きい。それは、伏見を単なる秀吉の居城ではなく、大坂城(将来の秀頼の居城)、聚楽第(秀次の政庁)を睥睨する、事実上の「新首都」として機能させるという壮大な構想であった。豊臣政権の権力構造を、この伏見を頂点として再構築しようとする秀吉の野心が、この計画変更から明確に見て取れる。

諸大名への動員と「天下普請」の開始

この巨大プロジェクトの建設は、天下統一後の大名統制策として常態化していた「天下普請」の手法が用いられた。文禄の役で朝鮮へ渡海していない諸大名に対し、軍役(ぶやく)として普請への参加が命じられたのである 15 。例えば、東国の真田家などもこの普請役を命じられた記録が残っている 16

諸大名を動員する目的は、単に労働力を確保するためだけではなかった。これには複数の高度な政治的意図が込められていた。第一に、大名たちに巨額の普請費用を負担させることで、その経済力を削ぎ、謀反の芽を摘むこと。第二に、主君への奉仕を強制することで、その忠誠心を試すこと。そして最も重要なのが、第三の目的、すなわち新たな権力中心への物理的・心理的な強制参加である。

伏見の普請は、単なる建設作業ではなかった。それは、全国の大名を動員し、彼らの労力と財を投じさせることで、「伏見こそが豊臣政権の新たな中心である」という厳然たる事実を、大名たち自身の手で建設させ、その身体に刻み込ませるための、巨大な政治的儀式であった。彼らが汗を流して築き上げた城と城下町は、そのまま彼らを縛る新たな政治秩序の物理的な顕現となるはずだったのである。

第二章:文禄三年(1594年)――伏見始動、激動の一年の時系列分析

文禄三年(1594年)は、「伏見居住開始」が宣言され、豊臣政権の重心が大きく動いた決定的な一年であった。秀吉の行動を月単位、時には日単位で追いながら、その一つ一つに込められた政治的意図を分析することで、歴史が動く瞬間のリアルタイムな様相を浮かび上がらせることができる。

文禄三年(1594年)主要関連年表

月日

事象

場所

主要人物

意義・典拠

1月3日

伏見城築城のため6人の普請奉行を任命。諸大名に軍役を賦課。

大坂城

秀吉

築城の本格化 15

2月14日

秀吉、伏見屋敷に入る。

伏見

秀吉

象徴的な「ソフトオープン」 15

2月21日

秀次を招待し茶会を開催。直後に大坂城へ帰城。

伏見

秀吉、秀次

秀次への牽制と伏見の披露 15

2月25日-3月2日

吉野で大規模な花見の宴を催す。

大和国吉野山

秀吉、秀次、諸大名、公家

圧倒的な権威の誇示 2

3月15日

自作の能(豊公能)を大坂城で披露。

大坂城

秀吉

文化的な権威の確立 17

4月頃

淀城の天守・櫓を伏見へ移築開始。

淀・伏見

-

既存資産の活用と建設の迅速化 18

6月3日

秀吉、伏見の工事現場を視察。

伏見

秀吉、徳川家康

普請の進捗確認と大名への奨励 20

8月1日

「八朔」の吉日に、秀吉が伏見城へ公式に入城。

伏見城

秀吉

伏見政権の正式な発足 10

10月頃

殿舎が完成。宇治川の治水工事などが本格化。

伏見

-

都市インフラ整備の進展 14

12月

淀殿と秀頼(拾)、伏見城へ移る。

伏見城

淀殿、秀頼

権力継承の中核が伏見に集結 22

第一四半期(1月~3月):築城本格化と政治的デモンストレーション

年が明けた文禄三年正月、秀吉は矢継ぎ早に行動を開始する。1月3日、大坂城において伏見城築城のための6人の普請奉行を任命し、諸大名への軍役賦課を正式に発令した 15 。これにより、伏見城の建設は国家事業として本格的に始動した。

そして2月14日、秀吉は建設途上の「伏見屋敷」に初めて足を踏み入れる 15 。しかし、これは永住を目的とした「移徙(いし)」ではなかった。むしろ、工事の重要性を内外に示し、普請にあたる大名たちにプレッシャーをかけるための、象徴的な「初入り」というべきデモンストレーションであった。その証拠に、秀吉はすぐには滞在せず、17日には近江国大津へ下向し、19日に伏見へ戻ると、21日には関白秀次をわざわざ伏見に招待して茶会を催し、その直後には慌ただしく本拠である大坂城へと帰城している 15

この一連の行動は、極めて計算された政治的パフォーマンスであった。秀吉はこの時期、物理的な拠点構築(伏見普請)と、文化的・政治的な権威の誇示(茶会、花見、能)を、同時並行かつ戦略的に展開していた。まず、伏見への「初入り」で自らの新たな権力基盤を誇示する。次に、その場所に既存の権力者である秀次を招き入れ、両者の序列を暗黙のうちに示す(茶会)。そして間髪入れず、2月末には秀次をはじめ諸大名や公家衆を引き連れて、日本の文化的中心地である大和国吉野山で、山全体を貸し切るかのような空前絶後の花見の大宴会を催す 2 。これは、自らが政治・軍事のみならず、文化や自然さえも支配する絶対的な存在であることを、天下に知らしめるための壮大な演出であった。さらに3月15日には、大坂城で自らの功業を題材とした新作の能(豊公能)を自ら演じてみせる 17

この一連の流れを俯瞰すると、1594年の「伏見居住開始」とは、単なる引っ越しではなく、秀吉による一連の権威誇示イベントの幕開けを告げる号砲であったことが理解できる。

第二・三四半期(4月~8月):建設の進捗と公式移徙への道

春から夏にかけて、伏見の建設は驚異的なスピードで進められた。建設を迅速化するため、近隣の淀城を破却し、その天守や櫓を解体して伏見へ移築するという大胆な手法も取られた 18 。並行して、宇治川の流路を改修して伏見港を開設し、水運の便を確保するための大規模な土木工事も進められた 2

6月3日には、秀吉自らが伏見の工事現場を視察している。この時、特に工事の進捗が著しかった徳川家康の家臣・松平家忠に対しては、秀吉が衣服を与えて賞賛したという記録もあり、普請の進み具合に満足していた様子がうかがえる 20

そして、ついにその日が訪れる。文禄三年八月一日。この日は旧暦の8月1日にあたり、「八朔(はっさく)」と呼ばれる吉日であった。農作物の収穫シーズンの始まりを祝い、武家社会では主君と家臣が贈り物を交換する重要な儀礼の日でもあった 19 。秀吉はこの縁起の良い日を選び、公式に伏見城へと移り住んだ 10 。ここに、名実ともに「伏見政権」が発足したのである。ただし、この時点ですべての工事が完了したわけではなく、城や城下町の普請は翌文禄四年にも継続されている 20

第四四半期(9月~12月):新拠点の稼働と権力の集中

秋には城の中心となる殿舎が完成し 14 、伏見城は政庁としての機能を本格的に稼働させ始めた。そしてこの年の暮れ、決定的な出来事が起こる。12月、淀殿と、まだ幼子である嫡子・秀頼(幼名:拾)が、盛大な儀式をもって大坂城から伏見城へと移り住んだのである 22

これにより、太閤秀吉、その後継者である秀頼、そしてその生母である淀殿という、豊臣家の権力継承の核となる三者が、伏見城の一つの屋根の下に集結した。秀頼が将来入るべき大坂城は、いわば「未来の居城」となり、聚楽第にいる関白秀次は、政治の中枢からさらに一歩遠ざけられる形となった。この瞬間、伏見は名実ともに豊臣政権の最高司令部となり、その後の日本の歴史を左右する巨大な政治の舞台となったのである。

第三章:壮麗なる権力の象徴――指月伏見城と城下町の全貌

慶長伏見地震によって、わずか2年で地上から姿を消した指月伏見城。しかし、それは束の間の幻であったからこそ、その壮麗さと革新性は後世の人々の想像力をかき立ててきた。近年の発掘調査の成果と断片的な文献史料を組み合わせることで、その全貌を再構築することが可能である。

発掘調査から見る城郭の構造:天守、御殿、そして防御施設

指月伏見城は、政治、居住、遊興、そして軍事という複数の機能を併せ持つ複合的な施設であった。城の中心には天守閣がそびえ立ち、その周囲には政務や儀礼の場となる御広間や御小広間、秀吉の私的な空間である御小座敷や御風呂屋などが配置されていた 5 。特に、秀吉の趣味を反映した茶の湯のための施設は充実しており、「山里御茶」「四帖半」「二帖半すきや」といった複数の茶室が存在した記録がある 5 。名護屋城から運ばれたとされる、組み立て式の「黄金の茶室」も、明の使節をもてなす際などに使用された可能性が高い 25

城の構造は、聚楽第や同時期に築かれた向島城と同様に、比較的シンプルな長方形の郭が連なる連郭式であったと推定されている 5 。これは、防御一辺倒の中世城郭とは異なり、政治を行う場としての機能性や壮麗さが優先された、近世城郭の初期の姿を示すものである。とはいえ、防御が疎かにされていたわけではない。城の周囲は、最大幅が約100メートルにも達する巨大な堀や空堀、高石垣で固められていた 3 。また、宇治川から水を引き込んだ「舟入」と呼ばれる軍港施設も備え、舟入櫓や矢蔵といった軍事施設も完備されていた 5

金箔瓦に込められた意匠:聚楽第を超える豪華絢爛さ

指月伏見城の壮麗さを最も象徴するのが、屋根を飾った金箔瓦である。発掘調査では、秀吉の家紋である桐紋をあしらった金箔瓦が多数出土している 5 。金箔瓦は、織田信長が安土城で用いて以来、天下人の権威を視覚的に示す象徴的なアイテムであった。秀吉はそれを聚楽第で継承し、伏見城でその豪華さをさらに昇華させた。

注目すべきは、これらの金箔瓦の一部が、破却された聚楽第から持ち込まれ、再利用されたと考えられている点である 5 。これは単なる資材の節約やリサイクルではない。そこには、極めて高度な政治的メッセージが込められていた。関白秀次の権力の源泉であった聚楽第を物理的に解体し、その一部を新たな権力中心である伏見の礎とする。この行為は、聚楽第の権威と正統性を伏見城が「吸収」し、そして「上書き」するという、強烈な象徴的操作であった。秀次の時代の終焉と、秀吉・秀頼体制の絶対性を、天下に視覚的に宣言する行為だったのである。

水運を制する新都市:伏見港と街道整備がもたらした経済的変革

秀吉の構想は、単に一つの城を築くにとどまらなかった。それは、城を中心とした一大新都市を創造する、壮大な都市計画であった。その核となったのが、大規模な治水・インフラ整備事業である。

秀吉は築城に際し、まず宇治川の流路を大きく変更し、当時南に広がっていた巨大な遊水池・巨椋池とを堤防(太閤堤)で完全に分離した 13 。そして、付け替えられた宇治川の水を城の外濠として活用し、城下に伏見港を開設したのである 2 。これにより、それまで淀や鳥羽が担っていた港湾機能が伏見に集約され、伏見は京都と大坂を結ぶ淀川水運の新たな中継地として急速に発展した 13

さらに、陸路の整備も抜本的に行われた。巨椋池の中を南北に貫く長大な堤(小倉堤)を築き、その上に新たな大和街道を通して奈良と京都を短絡した 2 。また、宇治川には豊後橋(現在の観月橋)が架けられた 13

これらの事業によって、伏見は政治・軍事の中心であると同時に、情報と物資が集散する水陸交通のハブへと変貌を遂げた 21 。伏見城の建設は、単なる城造りではなく、経済と物流の動脈を再編する国家規模の都市開発であった。そこに、秀吉の天下人としての卓越したビジョンと実行力を見ることができる。

第四章:伏見政権の光と影――権力継承への布石と軋轢(1595年)

伏見政権が本格的に稼働を始めた翌年の文禄四年(1595年)、豊臣政権は発足以来、最大の内部抗争に見舞われる。関白・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、切腹に追い込まれた「秀次事件」である。この政変において、伏見城は単なる背景ではなく、事件の引き金ともなった重要な役割を果たした。

伏見城での政務と外交儀礼

文禄四年の伏見は、日本の政治の中心として活気に満ちていた。城下には、徳川家康、伊達政宗、毛利輝元といった全国の有力大名たちが広大な屋敷を構え、伏見に出仕して政務に参加した 8 。これは、大名たちを中央政府の直接的な監視下に置き、地方での不穏な動きを封じ込める効果があった。江戸時代の参勤交代の原型ともいえるシステムが、この伏見で既に機能し始めていたのである。

また、伏見城は外交の舞台としても重要な役割を担うはずであった。文禄の役の講和交渉のため、明からの使節団を迎える準備が進められており、伏見城の壮麗な殿舎は、日本の国威を海外に示すための迎賓館となる予定であった 27

秀次事件の勃発:聚楽第の破却と伏見への一極集中

しかし、この華やかな政治の舞台裏では、権力継承をめぐる暗い確執が進行していた。秀頼の誕生以来、秀吉と関白秀次の関係は微妙なものとなっていたが、文禄四年七月、両者の不和はついに表面化する 2 。秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ、弁明のために伏見城へ向かうが、登城すら許されず、城下の屋敷に留め置かれた末、高野山での蟄居と出家を命じられる 28 。そして、追い打ちをかけるように「死を賜る」という非情な命令が下され、秀次は高野山で自害に追い込まれた。享年28であった 28

この事件の凄惨さは、秀次一人の死に留まらなかった。秀吉は、秀次の妻子や側室、侍女ら三十数名を京都の三条河原で公開処刑するという、常軌を逸した残忍な措置に及んだ。さらに、秀次の政庁であった豪華絢爛な聚楽第は、徹底的に破却するよう命じられたのである 23

この一連の出来事と伏見城の関係は、決して偶然ではない。伏見城の建設と城下町の整備は、秀頼が誕生した直後から、秀次から秀頼へ権力を移行させるための物理的な基盤として着々と準備が進められてきた。伏見という新たな権力装置が完成に近づくにつれて、旧来の権力装置である聚楽第と、その主である秀次の存在は、秀吉の構想にとって次第に邪魔なものとなっていった。伏見城の存在そのものが、秀次を政治的に、そして心理的に追い詰める要因となったのである。

秀次事件は、伏見への権力一極集中を完成させるための、いわば最後の総仕上げであった。そのことを最も象徴するのが、破却された聚楽第の運命である。その建材の多くは伏見城の増築のために運び去られ 8 、秀次に仕えていた家臣団も伏見への移住を強制された 29 。秀次時代の完全な終焉と、伏見を中心とする秀吉・秀頼体制の絶対的な確立を天下に示す、これは冷徹かつ計算され尽くした政治的セレモニーであった。

第五章:束の間の栄華――慶長伏見地震と新たなる執念(1596年~)

秀次事件を経て、権力を完全に一極集中させた伏見政権。その栄華は永遠に続くかと思われた。しかし、その頂点で待っていたのは、人知を超えた自然の猛威による、あまりにも唐突な破局であった。

慶長元年閏7月13日:巨大地震による指月伏見城の崩壊

慶長元年(1596年)閏七月十二日の深夜から十三日の未明にかけて、畿内一帯を巨大な地震が襲った。のちに「慶長伏見地震」と呼ばれるこの災害は、伏見の地に壊滅的な被害をもたらした 14

公家・山科言経の日記『言経卿記』には、「伏見御城ハテンシユ崩了(ほうりょう)」(伏見城の天守は崩壊した)と記され 30 、僧・義演の『義演准后日記』にも「大殿守悉(ことごと)く崩テ倒了」(大きな天守はことごとく崩れ倒れた)とあるように 30 、完成したばかりの指月伏見城は、その中心である天守が倒壊するなど、無残な姿を晒した。城内で宿直していた女﨟73名、中居(雑役の女性)500名が圧死するという大惨事となった 14 。秀吉自身は奇跡的に無事であったが、その衝撃は計り知れないものであった 14

被害は城内にとどまらなかった。城下に立ち並んでいた大名屋敷も「事外(ことのほか)崩了」し、徳川家康の屋敷では長屋が崩れ、家臣が圧死した 30 。町家も多数が倒壊し、京都から伏見一帯は阿鼻叫喚の地獄と化した 31 。明の使節を迎える直前に起きたこの惨事は、秀吉の権威にとっても大きな打撃となった。

木幡山への即時再建命令:伏見に固執した秀吉の意図

常人であれば、この未曾有の天災を前に呆然自失となるところである。しかし、天下人・豊臣秀吉の対応は常軌を逸していた。地震発生のわずか二日後、閏七月十五日には、倒壊した指月の丘の北東約1キロメートルに位置する、より地盤の固い木幡山(こはたやま)に、新たな城の建設を開始するよう即座に命令を下したのである 14

再建は驚異的なスピードで進められた。倒壊した指月伏見城の部材や、破却済みであった聚楽第の残材を徹底的に再利用し 19 、全国の大名を再び動員して昼夜兼行の突貫工事が行われた。その結果、翌慶長二年(1597年)五月には主要な殿舎が完成し、秀吉は早々に新城へと移り住んでいる 32

なぜ秀吉は、これほどまでに被災地である伏見に固執し、即座の再建を命じたのか。それは、秀吉にとって伏見が単なる居城ではなかったからに他ならない。伏見は、愛息・秀頼への権力継承を盤石にするための国家プロジェクトの中心であり、自身の晩年の政治構想そのものであった。この地を放棄することは、自らの政治計画の完全な失敗を天下に認めることであり、老いた天下人のプライドがそれを許さなかった。

秀吉の即時再建命令は、単なる復旧作業ではなかった。それは、天災ごときでは自らの政治的意志は微動だにしないという、天下に対する強烈なメッセージであった。そこには、自らの構想と秀頼の未来に対する、燃え盛るような執念が見て取れる。この執念こそが、伏見という地が持つ政治的・戦略的重要性を、何よりも雄弁に物語っているのである。

結論:伏見居住開始が歴史に刻んだもの

文禄三年(1594年)の「伏見居住開始」は、戦国時代の終焉と、それに続く新たな時代の到来を告げる、極めて重要な画期であった。この事象が日本の歴史に刻んだ意義は、多岐にわたる。

第一に、それは豊臣政権における「桃山時代」の真の開幕を告げる出来事であった。秀吉の権力がその絶頂に達し、豪華絢爛な桃山文化が最も華やかに花開いた時代、その物理的な舞台装置となったのが、この伏見城と城下町であった。伏見は、政治の中心であると同時に、当代一流の文化人や芸術家が集う文化創造の拠点でもあった。

第二に、伏見城の建設から秀次事件、そして地震後の木幡山での再建に至る一連の流れは、すべてが嫡子・秀頼への権力継承という一点に収斂する、秀吉の生涯最後にして最大の国家プロジェクトであったと評価できる。1594年の「伏見居住開始」は、その巨大プロジェクトが本格的に始動した瞬間であり、豊臣政権の権力が最も輝き、そしてその内部矛盾が最も先鋭化した最終章の幕開けであった。

そして最後に、伏見が残した政治的遺産は、皮肉な運命を辿ることになる。秀吉の死後、その政治構想の中心であった伏見城は、五大老筆頭の徳川家康が入り、天下分け目の関ヶ原の戦いの前哨戦の舞台となった 34 。戦後、家康によって再建された伏見城で、彼は征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府初期の政務を執ったのである 14 。秀吉が秀頼のために築いた壮大な政治都市・伏見は、結果として豊臣家を滅ぼす徳川家の政権基盤として、その政治的生命を長らえさせることになった。

この意味において、「伏見居住開始」は、豊臣政権の最終章であると同時に、次の徳川の世へと繋がる序章でもあった。それは、一人の天下人の夢と執念が凝縮された、日本史における一つの巨大な転換点だったのである。

引用文献

  1. 3度に渡って築城された伏見城 - きままな旅人 https://blog.eotona.com/%EF%BC%93%E5%BA%A6%E3%81%AB%E6%B8%A1%E3%81%A3%E3%81%A6%E7%AF%89%E5%9F%8E%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E/
  2. 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
  3. 伏見・指月城の復元 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/261.pdf
  4. 指月伏見城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/fushimijo/
  5. 資料 1 発見!伏見城の石垣 JR 桃山駅前の調査から - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/News/s-kouza/kouza328.pdf
  6. 聚楽第が屋敷という名称なのに城なのか? http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/siro.htm
  7. 都市史20 伏見城 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi20.html
  8. 新発見!伏見城城下町「正宗」の武家屋敷 - 公益財団法人京都市埋蔵 ... https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza248.pdf
  9. それでも指月伏見城はあった - 京都府埋蔵文化財調査研究センター https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/33morishima.pdf
  10. 古城山、指月の森・丘散策 - 伏水物語 http://fushimimonogatari.web.fc2.com/kojyou/kojyouyama.htm
  11. 天下の酒どころ 伏見城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44011/
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