最終更新日 2025-09-21

会津検地厳格化(1592)

文禄元年、蒲生氏郷は会津で厳格な検地を断行。秀吉の奥州仕置と朝鮮出兵を背景に、旧慣習を排し太閤検地を徹底適用。会津は92万石の大領国となり、近世的支配体制の礎を築いた。抵抗勢力は武力で鎮圧された。
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文禄元年の会津大変革:蒲生氏郷による検地厳格化と新秩序の胎動

序章:天正十八年、奥州仕置と蒲生氏郷の会津入封

戦国時代の終焉を告げる天正18年(1590年)、相模国の雄、小田原北条氏が豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に屈したことで、秀吉による天下統一事業は事実上の完成を見た 1 。しかし、秀吉の視線の先には、いまだ中央の権力が完全には及んでいない広大な奥羽地方が残されていた。この地の完全なる掌握こそが、天下統一の総仕上げとなる最後の課題であった。

天下統一の最終局面と秀吉の奥州仕置

秀吉は、北条氏滅亡の勢いを駆り、自ら大軍を率いて奥州へと進駐する。その最初の拠点として選ばれたのが、会津の黒川城であった 3 。この地で秀吉は、奥羽の諸大名を召集し、彼らの領地に対する大規模な再編、すなわち「奥州仕置」を断行した 2 。これは、奥羽地方に古くから根付く独立性の高い支配体制を一度リセットし、豊臣政権の権威の下に組み込むための強権的な措置であった。

この奥州仕置において、最も劇的な処分を受けたのが、前年に摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、会津を手中に収めていた伊達政宗である 3 。政宗は小田原への参陣が遅れたことを咎められ、苦心の末に獲得した会津領を没収されるという屈辱を味わった 2 。この処断は、政宗の際限なき野心を挫くと同時に、奥羽の全ての支配者に対し、誰が新たな「天下人」であるかを明確に示すための、極めて政治的な意味合いを持つ象徴的措置であった。

「抑え」として選ばれた男、蒲生氏郷

秀吉は、政宗から取り上げた奥羽の要衝・会津の地に、腹心中の腹心である蒲生氏郷を配置した。伊勢松坂12万石から会津42万石へという、破格とも言える大抜擢であった 8 。この石高は、後の検地と加増を経て、最終的には92万石という、徳川家康、毛利輝元に次ぐ全国有数の規模にまで膨れ上がる 10

この異例の人事には、秀吉の深謀遠慮が込められていた。第一の狙いは、言うまでもなく**「対伊達政宗の楔」としての役割である 9 。いまだ野心を隠さぬ政宗を、軍事的にも経済的にも常に監視し、その動きを封じ込めるための強力な「抑え」が必要であった。第二に、関東へ移封された徳川家康をも監視する

「地政学的な要」**としての機能も期待されていた 14 。会津は東北と関東を結ぶ結節点であり、この戦略的要地に絶対的な信頼を置ける強力な大名を配置することは、秀吉の国家構想において不可欠だったのである。

氏郷自身は、華やかな上方文化の中心から遠く離れた辺境の地への転封に、内心では落胆したとも伝えられている 14 。しかし、この人事は、氏郷の類稀なる才能に対する秀吉の深い信頼と、その才能がいつか自らを脅かすかもしれないという警戒心とが複雑にない交ぜになった、究極の選択であった 10

氏郷の会津入封は、単なる一大大名の配置転換に留まるものではない。それは、鎌倉時代以来の国人衆が強い力を持ち、中央の支配が及びにくかった奥羽という「在地性の強い世界」に、織田・豊臣政権が培ってきた「中央集権的で均質な支配システム」を移植しようとする、壮大な社会実験の幕開けを意味していた。氏郷は、伊勢松坂において近世的な城郭と城下町の建設を成功させた実績を持ち、信長直系の先進的な統治ノウハウを体得した、この実験の遂行者として最もふさわしい人物であった 14 。彼の会津入りは、秀吉の天下統一が単なる「軍事的制圧」の段階から、新たな社会秩序を構築する「制度的支配」の段階へと移行したことを、何よりも雄弁に物語っているのである。

第一章:新領主の着任と会津の現実(1590年~1591年)

蒲生氏郷が意気揚々と、あるいは内心の落胆を隠して会津の土を踏んだ時、彼を待ち受けていたのは平穏な新領地ではなかった。そこは、旧来の秩序が破壊された後の混乱と、新たな支配者に対する不満と抵抗が渦巻く、極めて不安定な土地であった。氏郷が後に断行する「検地厳格化」は、こうした混乱と抵抗の渦中でこそ、その真の意味を理解することができる。

旧領主の影と在地勢力の不満

氏郷が入城した黒川城とその周辺地域は、長年にわたり蘆名氏が支配し、その直前には伊達政宗が占領した土地であった 3 。人々の心や土地の支配関係には、旧領主たちの影響が色濃く残り、新たな支配者である蒲生氏への帰属意識は希薄であった。

さらに深刻だったのは、秀吉の奥州仕置がもたらした在地社会の動揺である。多くの在地領主(国人衆)は所領を安堵されたものの、改易や減封によって土地を失った者も少なくなかった。彼らは浪人となり、豊臣政権と新領主・蒲生氏郷に対する不満分子として、会津の各地で燻っていた 18 。彼らにとって、氏郷は自分たちの土地と誇りを奪った侵略者に他ならなかった。

葛西大崎一揆の勃発と伊達政宗の暗躍

氏郷着任直後の天正18年(1590年)10月、その燻っていた不満はついに爆発する。奥州仕置によって改易された葛西氏・大崎氏の旧臣らを中心に、大規模な一揆(葛西大崎一揆)が蜂起したのである 7 。この一揆の鎮圧は、氏郷にとって会津統治の最初の試金石となった。

氏郷は、この一揆の背後で、会津を追われた伊達政宗が糸を引いていると確信していた 7 。政宗は表向き一揆鎮圧に協力する姿勢を見せながら、氏郷に対して「出陣してくれるな」との書状を送るなど、その行動は不可解な点が多く、両者の間には一触即発の軍事的緊張が走った 7 。この一連の騒乱を通じて、氏郷は奥羽の在地勢力が持つ抵抗の根深さと、隣国に控える政宗という存在の脅威を、身をもって痛感することになった。

支配体制の布石

こうした不安定な情勢に対応するため、氏郷はただちに領国支配体制の構築に着手した。彼は会津領内の軍事・交通の要衝に支城を配置し、蒲生郷安、玉井貞右、町野繁仍といった譜代の重臣を城代として送り込んだ 10 。これらの支城は、反乱の芽を摘むための軍事拠点であると同時に、在地勢力を蒲生氏の直接支配下に組み込むための行政拠点でもあった。これにより、会津全域にわたる支配のネットワークが、徐々に張り巡らされていったのである。

氏郷にとって、着任からの一、二年間は、領国経営という高尚な理念を語る以前の、純然たる「軍事的制圧と治安維持」に追われる日々であった。この経験こそが、後の検地において一切の妥協を許さない「厳格な」姿勢へと彼を駆り立てた直接的な要因であったと考えられる。彼は、一揆勢や政宗との対峙を通じて、奥羽の在地勢力が旧来の所領や慣習にどれほど強く固執しているかを痛いほど理解した。彼らの力の源泉であり、経済的基盤である土地の所有関係を根本から変革しない限り、この地に真の支配を確立することは不可能だと判断したのである。中途半端な改革は、さらなる抵抗を招くだけに終わる。実行するならば、豊臣政権という絶対的な権威を背景に、一気呵成に、そして有無を言わさぬ形で断行するしかない。この冷徹な認識が、文禄元年(1592年)の「会津検地厳格化」という歴史的決断の、直接的な動機となった。それは単なる税収確保策ではなく、在地社会の解体と再編を目的とした、極めて政治色の濃い「戦い」の始まりであった。

第二章:文禄元年(1592年)の激動:会津検地の厳格化と領国経営の始動

天正から文禄へと元号が変わった1592年、蒲生氏郷の会津統治は新たな段階へと移行する。この年、彼の領国経営の根幹をなす「会津検地」が本格化し、その徹底した手法から「厳格化」と評されることになる。この政策は、平穏な状況下で行われた行政改革ではなく、内外の巨大な圧力の中で断行された、まさに激動の産物であった。

外的要因:文禄の役勃発という衝撃

文禄元年(1592年)、秀吉は天下統一の次なる段階として、朝鮮への大軍派遣(文禄の役)を開始した 21 。これは全国の大名を動員する国家的な大事業であり、各大名にはその所領の石高に応じた莫大な軍役、すなわち兵員と兵糧の供出が義務付けられた。氏郷もこの国策に従い、九州の名護屋城へと出陣している。その道中、故郷である近江日野を遠望し、「思ひきや人のゆくへぞ定めなきわがふるさとをよそに見んとは」と歌を詠んだ記録は、彼の複雑な心境を物語っている 23

この国家的な大動員は、各大名にとって、自領の生産力を正確に把握し、安定した財政基盤を確立することを、もはや猶予のならない死活問題へと変えた。軍役を果たせなければ、豊臣政権内での地位を失い、最悪の場合は改易される危険性すらあった。会津検地の「厳格化」は、この朝鮮出兵という巨大な外的圧力なくしては語れない。

「厳格化」の具体的な中身:太閤検地の徹底適用

氏郷が会津で実施した検地は、当時、秀吉が全国で展開していた「太閤検地」の基準を、一切の例外や在地での慣習的な妥協を排して、文字通り徹底的に適用したものであった 19 。その「厳格さ」は、以下の諸点に集約される。

  1. 石高制への完全移行: 土地の価値を、それまで地域ごとに異なっていた複雑で曖昧な銭換算の価値(貫高制)から、米の生産量(石高)という全国統一の基準へと完全に移行させた 10 。これにより、領主は領内の全生産力を、直接的かつ一元的に把握することが可能となった。
  2. 統一された測量基準: 1反を300歩、1歩を6尺3寸四方とする全国統一の基準を用いて、全ての田畑を実測した 24 。これにより、農民の自己申告(指出)に基づく慣習的な面積ではなく、客観的でごまかしの効かない面積が確定された。
  3. 京枡の導入: 年貢米を計量するための枡を、全国標準の「京枡」に統一した 24 。在地で用いられていた大小様々な枡を廃止することで、領主側が徴収量を正確に管理し、中間搾取などの不正を防ぐことが可能になった。
  4. 石盛(こくもり)の厳格な査定: 検地役人が田畑を実見し、上・中・下・下々といった等級に厳密に区分した。そして、その等級ごとに1反あたりの標準収穫量(石盛)を決定した 25 。この石盛に測量で確定した面積を乗じることで、その土地の公式な生産力(石高)が算出された。
  5. 年貢率の確定: 算出された石高に対し、原則としてその三分の二を年貢として徴収する「二公一民」という高い税率が適用された 25

この一連の改革が、それまでの会津の税制といかに断絶したものであったか、以下の表はそれを明確に示している。


【表1】会津における税制革命:貫高制と石高制の比較

項目

貫高制(旧制度)

石高制(新制度)

評価基準

土地の収益(主に銭)

米の生産力

単位

貫、文

石、斗、升

測量方法

自己申告(指出)が中心

統一基準による実測

課税対象者

複雑な重層的権利関係

検地帳に登録された耕作者(一地一作人)

年貢徴収

不定率、代銭納もあり

石高に応じた米納が原則

領主の掌握度

間接的・不正確

直接的・一元的


この表が示すように、氏郷の検地は単なる増税ではなかった。それは、土地と人間に対する支配のあり方そのものを根底から覆す「革命」であった。

検地の成果:「蒲生高目録」と92万石の誕生

この厳格な検地の結果、会津領内全ての村々の石高が詳細に確定され、それは「蒲生高目録」と呼ばれる領国経営の基本台帳にまとめられた 20 。現存する資料からは、例えば郡山地方の安積・湖南地域が44ヵ村で3万6791石余、西田・田村・中田地域が34ヵ村で2万9840石余と、極めて詳細なデータが記録されていたことがわかる 20

この「蒲生高目録」こそ、氏郷の領国経営の全ての基礎となるデータベースであり、財政と軍事の根幹をなすものであった。この検地とそれに続く加増によって、会津蒲生領の公式な石高は最終的に92万石近くに達し、蒲生家は徳川、毛利に次ぐ、全国でも屈指の大大名へと飛躍を遂げたのである 8

1592年の「会津検地厳格化」は、蒲生氏郷という一個人の政策であると同時に、豊臣政権の国家的な意思が、会津というフロンティアで最も先鋭的な形で現れたものであった。秀吉は朝鮮出兵を成功させるため、全国の資源を最大限に動員する必要があり、そのためには各大名領の生産力を統一基準で、正確に、そして可能な限り高く見積もる必要があった。一方、会津の新領主である氏郷は、抵抗する在地勢力を屈服させ、支配を確立するため、彼らの経済基盤である土地を完全に把握し、旧来の権益を剥奪する必要があった。この二つのベクトルが、文禄元年の会津で完全に一致したのである。秀吉の「国家の要請」は、氏郷が「領国の要請」を断行するための、この上ない強力な大義名分となった。氏郷は秀吉の権威を盾に、反対勢力を「天下への反逆者」として、容赦なくその力を振るうことができたのであった。

第三章:抵抗と鎮圧:検地に反発する者たちと支配の浸透

蒲生氏郷が断行した検地は、会津の社会構造を根底から揺るがす「革命」であった。当然のことながら、それは在地社会からの激しい抵抗と動揺を引き起こした。「厳格化」とは、単に法令を厳密に適用することのみを意味するのではない。それは、抵抗を力でねじ伏せ、血を伴いながら新秩序を浸透させていく、権力闘争の過程そのものであった。

検地への反発:既得権益の剥奪

検地への反発は、社会のあらゆる階層から巻き起こった。国人衆や地侍といった在地領主層にとって、検地は死活問題であった。彼らはこれまで、土地を介した複雑な主従関係の中で、中間的な支配者として様々な権益を享受してきた。しかし、検地は土地の所有権を確定し、実際に土地を耕作する農民を直接の納税者として検地帳に登録する(一地一作人の原則) 24 。これは、彼らの中間的な権益を全て否定し、既得権益を根本から覆すものであった。

一方、農民にとっても検地は脅威であった。これまで領主に申告せず、密かに耕作していた隠田は摘発され、新たな課税対象となる。また、厳格な石盛査定と高い年貢率により、これまでよりも重い負担を課される可能性が高かった。彼らにとって、検地は生活を直接脅かすものであり、強い反発を招くのは必然であった。

秀吉の強硬姿勢:「撫で斬り令」

豊臣政権は、こうした在地からの抵抗を一切許容しなかった。その強硬な姿勢を象徴するのが、天正18年8月12日付で会津において発令された仕置令である。この法令には、検地や刀狩りといった新政策に抵抗する者は、「一人も残さず撫切り(なでぎり)」、すなわち皆殺しにするという、極めて過酷な命令が含まれていた 28 。これは、氏郷の強硬策が単独のものではなく、秀吉自身の承認を得た、豊臣政権全体の統一された意思であったことを明確に示している。この「撫で斬り令」という背景があったからこそ、氏郷は一切の躊躇なく、抵抗勢力の鎮圧に乗り出すことができたのである。

氏郷の断固たる対応と支配の浸透

蒲生氏郷は、平時から極めて厳格な軍規を課すことで知られた武将であった。逸話として、行軍中に隊列を乱したというだけで、寵愛していた武士でさえ斬り捨てさせたと伝えられるほどである 10 。そのような彼が、領国支配の根幹を揺るがす検地への抵抗を容認するはずがなかった。

一揆の兆候や組織的な抵抗に対しては、氏郷は即座に軍を動かし、武力をもって徹底的に鎮圧した。抵抗した国人衆や地侍、一揆の指導者たちは容赦なく処罰され、その所領は没収された。この暴力的な過程を通じて、会津に根を張っていた中世的な在地領主制は解体され、蒲生氏を絶対的な頂点とする、近世的な支配体制へと強制的に再編されていったのである。

会津における検地と、それに伴う抵抗・鎮圧のプロセスは、近世封建社会が成立する際の「産みの苦しみ」を凝縮したモデルケースと言える。それは、在地社会が長年育んできた伝統的な秩序(ミクロコスモス)が、中央集権国家の論理(マクロコスモス)によって、強制的に上書きされていく過程であった。それまでの国人や農民にとって、「土地」とは単なる生産手段ではなかった。それは先祖代々の権利や共同体の秩序が深く染み込んだ、生活世界そのものであった。氏郷の検地は、その神聖さすら帯びた土地を、京枡で測られ、石盛で評価される、均質で客観的な「課税対象物件」へと変質させた。この根本的な価値観の衝突が、激しい抵抗を生んだのである。彼らは自分たちの「世界」を守るために戦った。しかし、氏郷の背後には、秀吉という「天下」の権威と、それを支える圧倒的な軍事力が存在した。結果として、在地社会の論理は国家の論理に屈服させられた。この過程を経て初めて、会津は豊臣政権が支配する「均質な行政単位」として、完全に組み込まれることになったのである。

第四章:新たな会津の創造:若松城の築城と城下町の町割り(1592年~1593年)

蒲生氏郷の会津改造計画は、検地による社会・経済構造の変革だけに留まらなかった。それと並行し、あるいはそれを牽引する形で、新たな支配の物理的な象徴としての若松城の建設と、領国の経済基盤を確立するための城下町整備(町割り)が、壮大なスケールで進められた。これらは検地と一体となった、会津という土地を根底から作り変えるための、統合的なグランドデザインであった。

新たな支配の拠点:若松城の建設

天正18年(1590年)に入城した氏郷は、蘆名氏時代から続く旧来の黒川城を、織田信長の安土城を彷彿とさせるような、近世的な大規模城郭へと大改築する計画に着手した 10 。工事は検地と並行して進められ、文禄2年(1593年)には、威風堂々たる七層の天守閣が完成したと伝えられている 14 。この壮麗な城は、氏郷の幼名「鶴千代」と、蒲生家の家紋である舞鶴にちなんで「鶴ヶ城」と命名された 10

その天守台の石垣には、自然石を巧みに組み合わせる「野面積み」という、当時の最新技術が用いられており、今なおその堅固さを伝えている 32 。この巨大な城郭は、単なる軍事施設ではない。それは、旧来の秩序を破壊した新たな支配者の絶対的な権威を、領内の民衆、そして隣国の伊達政宗をはじめとする奥羽の諸大名に見せつけるための、視覚的なモニュメントであった。

「若松」の誕生と城下町のグランドデザイン

氏郷は、城郭の改築と同時に、城下町の地名を「黒川」から「若松」へと改めた 8 。これは、彼の故郷である近江日野にある「若松の森」に由来する 33 。遠い故郷への望郷の念と、この地に新たな根を下ろし、全く新しい町を創造するという強い決意の表れであった 23

この新たな「若松」の町は、検地による領内把握と並行して、極めて計画的に整備された(町割り) 35 。その設計思想は、防衛機能と経済機能を高度に両立させることにあった。

  1. 防衛都市としての機能: 城を中心に内堀と、川を利用した外堀を巡らせ、その内側(郭内)を武家屋敷地、外側(郭外)を町人地や寺社地として明確に区分した 2 。これにより、城の防衛ラインを幾重にも設定した。さらに、町中の交差点を意図的に直角からずらした「筋違い」(鉤の手)や、道に面した家々の敷地を鋸の歯のようにギザギザに区画する手法が用いられた 16 。これらは、万が一敵が城下に侵入した際に、その進軍を妨げ、見通しを悪くするための巧みな工夫であった。
  2. 経済都市としての機能: 氏郷は、防衛一辺倒の町づくりに留まらなかった。彼は、自身の旧領である近江や伊勢松坂から、商才に長けた商人や、酒造、漆器、木地師といった優れた技術を持つ職人たちを積極的に若松へと招聘した 11 。そして、彼らに税の軽減などの特権を与え、自由な経済活動を保障する「楽市楽座」(会津では「十楽」と呼ばれた)を導入し、定期市の開設を奨励した 11 。これにより、若松は急速に奥羽の物流と商業の中心地として発展していくことになる。

氏郷の領国経営は、「検地による資源の把握(ソフトウェアの構築)」と、「築城・町割りによる支配と経済の物理的拠点構築(ハードウェアの構築)」が、完全に連動した統合的システムであったと言える。検地によって領国から吸い上げられる富(年貢)が数値化され、その富が巨大な鶴ヶ城の建設費や家臣団の維持費に投じられた。そして、その城と城下町は、その富を守り、さらに増大させるための装置として設計されたのである。武家を城下に集住させることで在地から切り離し、領主への統制を強化する。一方で、楽市楽座や商人の招聘によって新たな商業利益(運上金・冥加金)を生み出し、年貢に次ぐ第二の財源を確保する。検地、築城、町割りは、それぞれが独立した政策ではなく、「富の収奪、権力の可視化、経済の活性化、そしてさらなる富の創出」という、自己増殖的なサイクルを生み出すための、一体不可分の壮大な国家建設プロジェクトだったのである。

終章:蒲生氏郷が遺したもの:財政基盤の確立と会津の礎

蒲生氏郷の会津統治は、わずか数年という短い期間であった。文禄4年(1595年)、彼は朝鮮出兵の拠点であった肥前名護屋城で病に倒れ、天下統一の夢も、会津をさらなる理想郷へと作り変える志も半ばにして、40歳という若さでこの世を去った 8 。しかし、彼がこの地に遺したものは、その統治期間の短さを補って余りあるほど、決定的かつ永続的なものであった。

確立された財政・軍事基盤と会津文化の萌芽

氏郷が電光石火の如く断行した検地と町割りは、会津の社会を根底から変革した。これにより、会津蒲生領は92万石という全国でも屈指の石高を誇る、安定的で強固な財政基盤を持つ近世的領国へと生まれ変わった。この強大な経済力が、大大名にふさわしい軍事力を支え、氏郷は名実ともに関東・奥羽に睨みを利かせる、豊臣政権の重鎮としての地位を確立したのである。

彼の功績は、経済や軍事の側面に留まらない。氏郷が旧領から招聘した商人や職人たちが持ち込んだ技術と文化は、後の会津漆器や会津清酒といった、現代にまで続く会津の伝統産業の確固たる礎となった 11 。また、千利休の高弟「利休七哲」の筆頭に数えられるほどの文化人でもあった氏郷は、秀吉の怒りに触れて自刃した利休の子・千少庵を会津に匿い、その茶の湯文化を篤く保護した 8 。鶴ヶ城内に少庵のために建てられたと伝わる茶室「麟閣」は、武辺一辺倒ではない、氏郷の文化的側面を象徴する遺産である。さらに、彼自身が敬虔なキリシタン大名(洗礼名レオ)であったことから、会津の地に一時的ではあるが、南蛮文化の風が吹き込まれたことも見逃せない 15

氏郷の早すぎる死と歴史的意義の再評価

氏郷の死後、蒲生家は苦難の道を歩む。跡を継いだ嫡男・秀行はまだ幼く、家中で重臣間の対立(蒲生騒動)が勃発。その責を問われる形で、一時宇都宮18万石へと大幅に減らされて転封された 11 。関ヶ原の戦いでの功績により会津60万石への復帰を果たすも、その孫・忠郷の代で世継ぎがなく、蒲生家は無嗣断絶という悲劇的な結末を迎える 11

蒲生氏による直接の統治は、中断期間を挟んでも30年余りで終わった。しかし、氏郷が築き上げたものは、決して消えることはなかった。彼が築いた壮麗な鶴ヶ城と、防衛と経済の機能を見事に両立させた若松の町割り、そして石高制に基づく支配システムは、その後会津に入った上杉氏、加藤氏、そして江戸時代を通じて200年以上にわたり会津を治めた保科・松平氏に至るまで、その骨格がほぼそのまま受け継がれていったのである 2

結論として、文禄元年(1592年)の「会津検地厳格化」を中心とする一連の改革は、中世的な在地領主が割拠する混沌とした状態にあった会津を、近世的な中央集権的領国へと決定的に変貌させた、会津史上の一大画期であった。蒲生氏郷は、その後の会津藩の全ての基礎を、わずか数年のうちに創造した人物であり、まさに「会津藩の創業者」と呼ぶにふさわしい、不世出の経営者であったと言えよう。

引用文献

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  28. 奥州仕置とは 葛西・大崎一揆VS豊臣with政宗? - 戦国未満 https://sengokumiman.com/japan/osyushioki.html
  29. 蒲生氏郷(がもう うじさと) 拙者の履歴書 Vol.36〜織田・豊臣二代に仕えし会津の名将 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf1e67e17acd8
  30. 会津の歴史 | 一般財団法人 会津若松観光ビューロー https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/aizu-history/
  31. キリシタン大名、蒲生氏郷の足跡を訪ねる - 会津若松観光ナビ https://www.aizukanko.com/course/769
  32. 蒲生氏郷が心血を注いで築いた会津若松城、復元の天守より注目したい「本物」 - シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/2437
  33. 戦国時代のレオン⁈信長を魅了し、秀吉を恐れさせた男・蒲生氏郷の素顔 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/75573/
  34. 利休七哲の筆頭 蒲生氏郷/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96683/
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  37. 【商人旅】〜会津商人篇②〜 蒲生氏郷と保科正之、そして藤樹学 - 歴史食い倒れ紀行 https://rekishikuidaorediary.hatenablog.com/entry/2020/11/08/233057
  38. 藩が支え酒どころとなった会津若松市/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44017/
  39. 会津を統治した大名や藩主 12 世紀以降 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653700.pdf
  40. 織田信長の寵愛を受けた蒲生氏郷 会津若松でゆかりの地を巡る旅行へ - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/170803fukushima-aizuwakamatsu-5/
  41. 【会津藩物語】第四話 名将・蒲生氏郷がやってきた - お菓子の蔵 太郎庵 https://www.taroan.co.jp/kitemite/?p=2201
  42. キリシタン大名・蒲生氏郷/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97065/