伝馬町牢屋敷設置(1613)
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伝馬町牢屋敷設置(1613年)の歴史的深層:戦国から江戸への断絶と連続性
序章:戦国から江戸へ ― 刑罰思想の地殻変動
慶長18年(1613年)、江戸の小伝馬町に常設の牢屋敷が設置された。この出来事は、単なる一施設の移転新設に留まるものではない。それは、戦国乱世の価値観との決別であり、徳川幕府が築こうとした新たな社会秩序の礎石を据える、画期的な事業であった。本報告書は、この「伝馬町牢屋敷設置」という事象を、戦国時代という視座から徹底的に分析し、それが日本の刑罰思想、ひいては国家統治のあり方における地殻変動をいかに象徴するものであったかを解明することを目的とする。
なぜこの時期に、これほど大規模かつ恒久的な牢獄施設が必要とされたのか。それは、徳川家康が目指した「泰平の世」の秩序を構築する上で、いかなる役割を担う装置であったのか。この問いを解き明かすことは、戦国という「力」の時代から、江戸という「法」と「管理」の時代への巨大な社会システムの変容を理解する鍵となる。本報告は、牢屋敷の物理的な構造や制度の解説に止まらず、その誕生の背景にある思想的断絶と、そこに流れ込む歴史的連続性の両側面から、この歴史的転換点の本質に迫るものである。
第一章:牢獄なき時代 ― 戦国期における罪と罰
伝馬町牢屋敷の画期性を理解するためには、まずその前史、すなわち戦国時代における「罪」と「罰」のあり方を把握せねばならない。結論から言えば、当時の日本には、江戸時代にみられるような制度化された恒久的な牢獄は、原則として存在しなかった。
1-1. 「自力救済」の原則と公権力の不在
中世から戦国時代にかけての社会では、犯罪に対する制裁は、被害を受けた側が実力をもって加害者に対し報復を行う「自力救済」が原則であった 1 。安定した中央集権的権力が存在せず、各地域の戦国大名や村落共同体が独自の法理で動いていたため、犯罪者を公権力が捕縛し、長期間にわたり身柄を拘束して審理するという概念そのものが未発達だったのである 1 。
刑罰の主体は、領主や共同体、あるいは被害者本人であり、その内容は極めて直接的かつ即時的であった。最も一般的な刑罰は、共同体からの追放、あるいは斬首や磔といった即時の死刑であり、社会から逸脱した者を迅速に排除することが主目的であった 2 。近代的な「懲役」や「禁固」のように、犯罪者の身体を拘束し、労働を課したり更生を促したりするという発想は、この時代の刑罰観には存在しなかった。戦国時代に恒久的な牢獄が存在しなかったのは、単に技術や思想がなかったからではない。権力が各地に分散し、個々人や共同体による実力行使が正当化される社会構造においては、犯罪者を長期間「管理」するための恒久施設は、維持管理の負担が大きいだけで不要な存在だったのである。牢獄の「不在」は、戦国時代の権力構造と司法観を象徴する、必然的な帰結であった。
1-2. 過渡期の拘禁施設 ― 豊臣政権下の萌芽
しかし、戦国時代の末期、天下統一が進む中で、公権力が個人の身体を拘束し始める萌芽的な動きも見られる。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、豊臣秀吉の時代まで日本には「牢屋は知られていなかった」とされており、これは制度化された牢獄がなかったことを示す重要な証言である 1 。
その一方で秀吉は、支配下に置いた堺の町において、富裕な市民らを投獄するための施設を設けた事例が報告されている 1 。これは、それまでの自力救済の原則を「天下人」という超越的な公権力が否定し、司法権を独占しようとする意志の表れであった。この試みは、徳川幕府による、より高度で制度化された拘禁システムの前提となる重要な一歩であったと言える。
ただし、この時期の牢屋は、動物の檻のように木の柵で囲まれ、囚人は風雨に晒されるなど、極めて劣悪かつ一時的なものであった 1 。また、牢番や刑吏の役を「穢多」「非人」といった被差別身分の人々に担わせるなど、後の制度との連続性も見られるが、あくまで過渡的な形態に過ぎなかった 1 。秀吉による牢屋の設置は、公権力が個人の身体の自由を奪う権能を独占し始めた象徴的な出来事であり、この権力行使の形態が、後の伝馬町牢屋敷という恒久的な制度へと繋がる道筋をつけたのである。
【表1】戦国期と江戸初期における刑罰・拘禁制度の比較
項目 |
戦国時代 (~慶長年間以前) |
江戸時代初期 (伝馬町牢屋敷設置後) |
司法の主体 |
被害者、共同体、地域領主(自力救済が原則) |
徳川幕府(町奉行所などの中央機関) |
主な刑罰 |
死刑、追放、私刑 |
死刑、追放に加え、制度化された拘禁(未決囚・既決囚) |
拘禁施設 |
原則として不在。一時的・臨時的なものは存在 |
恒久的・大規模な公営施設(伝馬町牢屋敷)が常設 |
拘禁の目的 |
一時的な身柄確保、即時的排除 |
裁判までの身柄確保、刑の執行待機、社会からの隔離・管理 |
根底思想 |
犯罪者の即時的排除 |
犯罪者の公権力による管理・統制 |
この表が示すように、戦国期から江戸初期への移行は、単なる施設の有無を超えた、国家の統治哲学そのものの変容であった。伝馬町牢屋敷の設置は、この変容を決定づけた象徴的な出来事なのである。
第二章:江戸創成と秩序への渇望 ― 牢屋敷前史
伝馬町牢屋敷の誕生は、徳川幕府が直面した喫緊の課題、すなわち「戦後社会」の秩序形成への直接的な解答であった。泰平の世の到来は、新たな形の社会不安を生み出し、幕府に強力な統制装置の整備を迫ったのである。
2-1. 徳川家康の江戸入府と都市建設
天正18年(1590年)、徳川家康は江戸に入府し、新たな政治の中心地を創り出すべく、大規模な都市計画を開始した 3 。この壮大な事業の一環として、司法・行政機関の整備は急務とされた。その中で、増大する江戸の人口と、それに伴い発生するであろう犯罪者を収容・管理する施設の必要性が、当初から認識されていた。
2-2. 慶長年間の社会情勢 ― 「泰平」の影に潜む混沌
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、世は泰平へと大きく舵を切ったが、社会には依然として戦国の荒々しい気風が色濃く残っていた。特に江戸や京都といった急成長する都市部では、「かぶき者」と呼ばれる異形の者たちが社会を闊歩していた 4 。彼らは派手な身なりで常識を逸脱した行動に走り、徒党を組んで市中で刃傷沙汰に及ぶことも少なくなかった 4 。
彼らの多くは、戦乱の終結によって活躍の場を失った武家奉公人や、主家を失った牢人たちであった 5 。彼らが持つ戦国時代の価値観、すなわち「力による自己主張」は、徳川幕府が構築しようとする「法による統制」という新たな秩序と激しく衝突した。この「かぶき者」の横行は、単なる治安の悪化ではなく、時代の転換期に生じた社会の軋轢そのものであり、幕府にとっては新秩序への挑戦と映った。慶長6年(1601年)には江戸で記録上最初の大火が発生するなど 8 、急激な人口増加と社会の変動は、都市の脆弱性を露呈させていた。このような旧時代のエネルギーを物理的に封じ込め、新時代の秩序を強制的に浸透させるための強力な装置が、幕府には必要不可欠だったのである。
2-3. 最初の公営牢獄 ― 常盤橋門外牢屋敷
こうした社会背景の中、徳川幕府は治安維持体制を強化すべく、江戸城の常盤橋門外、現在の日本銀行本店周辺に、最初の公的な牢屋敷を設置した 3 。この施設は、家康の江戸入府当初から存在したとされ、慶長年間を通じて江戸の刑事施設として機能した 3 。
しかし、この常盤橋門外の牢屋敷は、いくつかの問題を抱えていた。第一に、江戸の急速な都市拡大に伴い、城の中枢部にあまりにも近すぎたことである。大手門に近い場所に牢獄や処刑場といった「陰」の施設が存在することは、都市の威容や機能上、次第に不適切となっていった。第二に、その規模が、増大する犯罪や社会不安に対応するには不十分であったことである。新たな脅威である「かぶき者」をはじめとする不穏分子を収容し、社会から隔離するには、より大規模で恒久的な施設が求められた。常盤橋から小伝馬町への移転計画は、単なる場所の移動ではなく、江戸という都市の機能分化と空間の再編成プロセスの一環であった。それは、権力の中心の神聖性を高めると同時に、その司法権を江戸全体に効率的に及ぼすための、戦略的な都市デザインだったのである。
第三章:慶長十八年、小伝馬町 ― 「この世の地獄」誕生のクロニクル
慶長18年(1613年)、徳川幕府は江戸の刑事司法制度における歴史的な一歩を踏み出す。常盤橋門外にあった牢屋敷を、日本橋小伝馬町へと移転・新設したのである。この決定と実行の背景には、極めて戦略的な意図が隠されていた。
3-1. 移転の決定と実行(慶長18年 / 1613年)
複数の資料が示す通り、牢屋敷の小伝馬町への移転は慶長18年(1613年)頃に行われた 3 。現地の説明板には年代に若干の揺れが見られるものの、慶長年間(1596年~1615年)に移転したことは確実である 3 。
この1613年という年は、歴史的に極めて重要な時期にあたる。翌年には大坂冬の陣が勃発し、徳川家による天下平定が最終段階に入るからである。この天下統一の総仕上げを目前にしたタイミングで、江戸に大規模な牢屋敷を設置したことは、幕府が軍事的な制圧と並行して、法と制度による支配体制のインフラ整備を急いでいたことを示している。豊臣家滅亡後に増加が予想される牢人や不満分子、そして一般の犯罪者を収容・管理する能力を事前に確保しておくことは、軍事的勝利を盤石な政治的安定へと繋げるための、不可欠な布石であった。伝馬町牢屋敷は、物理的な「城」と同様に、徳川の「泰平」を守るための重要な「砦」として構想されたのである。
3-2. なぜ小伝馬町だったのか? ― 立地の戦略的意味
移転先として小伝馬町が選ばれたのには、明確な理由があった。
第一に、 交通の要衝 であったことである。小伝馬町は、江戸の主要街道である奥州街道(日光街道)に通じる本町通りに近く、また江戸市中の公用輸送や物資集積・配送を担う「伝馬役」の拠点であった 13 。この立地は、地方から送られてくる囚人の受け入れや、罪人を江戸市中に見せしめとして練り歩かせる「市中引き回し」の起点として、交通の便が極めて良かった 16 。
第二に、 都市機能の集約 という観点である。伝馬役という幕府の公用を担う町に、牢屋敷という公的な施設を置くことは、都市機能の合理的な配置であった。
第三に、 江戸城との絶妙な距離感 である。城の中枢からは適度に離れているため、その神聖性を損なうことがない。しかし、町奉行所の管轄下に置きやすい距離にあり、幕府の司法権が直接及ぶことを可能にした。
そして最後に、この立地は牢屋敷を**「見せる権力装置」**として機能させるための意図的な選択であった。多くの人々の往来がある場所に「この世の地獄」を置くことで、幕府の法の厳しさと、それに逆らう者の悲惨な末路を、江戸の住民だけでなく、街道を通じて江戸を訪れる全ての人々に対して無言のうちに知らしめる、強力なプロパガンダ装置としての役割を担っていた。その存在自体が、江戸の日常風景に埋め込まれた、恒常的な警告となったのである。なお、牢屋敷が設置されたことで周辺の地価は格段に安かったとされ 17 、処刑場があった場所は明治時代になっても人々から忌み嫌われ空き地となっていたという事実は 18 、この施設が放つ「穢れ」のイメージを物語っている。
3-3. 牢屋敷の建設と初代牢屋奉行の役割
移転に伴い、約2,600坪(約8,850平方メートル)という広大な敷地に、新たな牢屋敷が建設された 9 。この施設の管理責任者として任命されたのが、初代・石出帯刀である。石出家は、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預かったことを起源とし、以来、代々世襲で牢屋奉行(公式には囚獄)の職を務めることとなる 19 。
興味深いことに、初代・石出帯刀は慶長18年9月3日(1613年10月16日)に没している 19 。これは、牢屋敷の移転・設置が完了したとみられる時期とほぼ一致する。この事実は、彼がこの国家的な大事業を完遂し、その重責を全うした直後に生涯を終えたことを強く示唆している。彼の死と共に、伝馬町牢屋敷の約260年にわたる歴史が本格的に幕を開けたのである。
第四章:伝馬町牢屋敷の解剖 ― 構造・制度・人間
慶長18年に誕生した伝馬町牢屋敷は、単なる拘禁施設ではなかった。それは、江戸社会の秩序と身分制度を、より凝縮された暴力的な形で再生産する「小宇宙」であり、公式の管理体制と非公式の恐怖支配が共存する、二重の権力構造を持つ特異な空間であった。
4-1. 物理的構造 ― 隔離と監視の空間
伝馬町牢屋敷の敷地面積は、約2,600坪余り(約8,600~8,850平方メートル)に及んだ 9 。その構造は、脱獄を許さず、内部を完全に社会から隔離するために、幾重にも防御が施されていた。
- 外構: 敷地の周囲はまず堀が巡らされ、その内側には土手が築かれていた 3 。さらにその内側を、高さ7尺8寸(約2.3メートル)の堅固な練塀が囲んでいた 9 。
- 門: 敷地への出入り口は厳しく制限され、南西部に公式の「表門」、そして死体を運び出すための「不浄門」が北東部に設けられていた 9 。
- 内部施設: 広大な敷地内は、機能ごとに区画されていた。囚人を収容する複数の「獄舎」に加え、罪人を取り調べる「穿鑿所」、拷問を行う「拷問蔵」、そして死刑を執行する「首斬場」があった 16 。さらに、牢屋奉行の屋敷や、配下の同心たちが暮らす長屋といった役人の居住区画も併設されており、施設全体が一つの町のような機能を持っていた 16 。
4-2. 公式の運営体制 ― 石出帯刀家の支配
この巨大施設の公式な運営は、世襲制の牢屋奉行・石出帯刀家が担った。
- 牢屋奉行(囚獄): 石出帯刀は町奉行の支配下にあり、その禄高は300俵10人扶持、格式は与力並とされた 17 。しかし、その職務は「不浄の役」と見なされ、将軍への拝謁が許される御目見以下の身分であり、登城することもなかった 20 。彼らは牢屋敷内の屋敷に居住し、江戸の社会から隔絶された形でその職務を全うした。
- 配下: 牢屋奉行の下には、実務を担う役人たちがいた。牢屋同心は当初40人であったが、時代と共に増員され幕末には76人となった 9 。さらに、囚人の世話や雑務を行う下男(獄丁)が30人から50人ほど配属されていた 9 。
- 司法手続きとの連携: 牢屋敷は、町奉行所などの司法機関と密接に連携していた。奉行所で作成された正式な「入牢証文」がなければ、いかなる罪人も受け入れることはなかった 22 。また、囚人は南北町奉行所、勘定奉行、寺社奉行、火付盗賊改といった管轄機関ごとに異なる色の捕縄で縛られており、役人は一目でその出自を判別できた 17 。
4-3. 牢内の身分秩序 ― 江戸社会の縮図
牢屋敷の内部は、牢外の江戸社会の厳格な身分制度を忠実に、そしてより残酷な形で反映していた。獄舎は収容される者の身分によって明確に分けられ、待遇には天と地ほどの差があった 17 。
【表2】伝馬町牢屋敷内の獄舎種別と収容対象
獄舎名称 |
主な収容対象の身分 |
待遇・特徴 |
典拠資料 |
揚座敷 (あがりざしき) |
旗本、高僧、神主(500石以上御目見以上) |
個室、良質な食事、世話役付き、布団等の差入可。 |
2 |
揚屋 (あがりや) |
御目見以下の武士、僧侶、神官、医師 |
揚座敷に次ぐ待遇。女囚は身分を問わず西揚屋に収容。 |
17 |
大牢 (おおろう) |
庶民(百姓、町人) |
雑居房。衛生環境は劣悪。有宿者と無宿者で東西に分離。 |
2 |
二間牢 (にけんろう) |
主に無宿人 |
大牢と同様、もしくはそれ以下の劣悪な環境。 |
17 |
百姓牢 (ひゃくしょうろう) |
農民 |
大牢に準ずるが、農民専用に区別。 |
10 |
女牢 (おんなろう) |
女性(西揚屋に集約) |
身分に関わらず一箇所に収容。 |
10 |
この表が示すように、牢獄は単なる拘禁施設ではなく、江戸社会の身分秩序を維持・強化するための装置でもあった。囚人たちは、牢の外で従っていたのと同じ身分と格差の原理に、牢の中でも支配されていたのである。
4-4. 裏の権力構造 ― 牢名主による恐怖支配
伝馬町牢屋敷の最大の特徴は、公式の管理体制の裏で、囚人自身による非公式の支配体制が機能していたことである。幕府は、牢内の直接的な統治を意図的に囚人たちに委任することで、最小限の費用で最大限の秩序維持(すなわち脱獄防止)を図った。
- 自治組織: 幕府公認の下、牢内には「牢名主」を頂点とする囚人による自治組織が存在した 21 。各獄舎には牢名主を筆頭に12名の「牢役人」が置かれ、彼らが牢内の全てを取り仕切っていた 21 。
- 入牢儀礼と搾取: 新入りはまず牢役人による厳しい尋問を受け、牢内での作法を叩き込まれる。そして、金銭(「ツル」と呼ばれた)の上納を強要された 25 。金銭を用意できない者は、「きめ板」と呼ばれる厚板で殴打されるなどの凄惨なリンチ(「仕置き」と呼ばれた)を受けた 2 。この暴力支配は、幕府の統治システムに組み込まれた、必要悪としての「機能」であった。
- 劣悪な環境と死: 牢内は、窓がなく日光も風も通らない、極めて不衛生な空間であった 9 。食事は一日二食の玄米と汁物のみで、外部からの差し入れも牢名主らに搾取されるのが常であった 9 。皮膚病などの病気が蔓延し、多くの者が命を落とした 9 。さらに、牢内が過密状態になると、牢名主の判断で「作造り」と称する口減らしの殺人が行われることさえあった 9 。殺害された者は病死として役人に届けられ、それが咎められることはなかったという 9 。
第五章:歴史的意義 ― 徳川の「泰平」を支える装置として
伝馬町牢屋敷の設置とその運営システムは、徳川幕府の統治思想を体現するものであり、日本の歴史に大きな影響を与えた。それは単なる刑罰施設ではなく、「泰平」という状態を能動的に創り出し、維持するための高度な統治技術であった。
5-1. 支配のパラダイムシフト
伝馬町牢屋敷の常設化は、支配のあり方における根本的な転換、すなわちパラダイムシフトを象徴している。戦国時代に見られた、個々の武将の武力やカリスマに依存する属人的な「力の支配」から、徳川幕府という中央集権機構が法と制度に基づいて人々を統制する、非人格的な「管理の支配」への移行である。
犯罪者を捕縛し、その身分に応じて分類し、法的手続きに従って拘禁・審理するというプロセスは、近世的な国家統治の基本原理の確立を示すものであった 27 。牢屋敷は、この新たな支配の形を具現化し、江戸の隅々にまで幕府の権威を浸透させるための物理的な拠点となった。
5-2. 都市の「陰」の集約と管理
江戸は、徳川の治世下で世界有数の大都市へと発展したが、その繁栄の光が強ければ強いほど、濃い影もまた生まれた。伝馬町牢屋敷は、この巨大都市で発生する犯罪、貧困、社会からの逸脱といった「陰」の要素を、小伝馬町という一区画に物理的に集約し、封じ込める装置であった。
社会の不安定要因を特定の空間に隔離することで、都市の他の部分の「陽」の側面、すなわち経済的繁栄や文化的成熟を際立たせ、安定させることが可能になった。牢屋敷は、江戸の秩序を維持するための不可欠な「安全弁」であり、同時に都市が生み出す矛盾を押し込める「ゴミ箱」でもあった。それは、社会の不安定要因を物理的に隔離する「空間的技術」であると同時に、その存在を見せしめとすることで民衆を心理的に統制する「心理的技術」でもあった。
5-3. 後世への影響 ― 近代監獄への道
伝馬町牢屋敷は、慶長18年(1613年)の設置から、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄へその機能を移すまでの約260年間、江戸の、そして日本の中心的刑事施設として機能し続けた 10 。
その運営システムに見られる「更生」という思想の不在は、この時代の刑罰観を如実に示している。牢内の凄惨な実態や、幕末に収容された吉田松陰が牢獄を懲罰ではなく人間更生の場とすべきだと構想したことからも 25 、その目的があくまで社会からの隔離と管理、そして秩序維持にあったことは明らかである。この「更生なき拘禁」という思想は、戦国時代の「即時的排除」の思想と、後の近代的な「教育・更生」を目的とする監獄思想との中間に位置する、過渡期的な刑罰観を体現している。戦国的な価値観を脱しつつも、近代的な人権思想には至っていない、まさに「江戸初期」という時代の精神を反映したものであった。
この施設は、良くも悪くも江戸時代の司法・行刑制度の根幹をなし、明治維新後の近代的な監獄制度が導入されるまで、日本の刑事拘禁のあり方を規定し続けた。幕末の動乱期に、吉田松陰をはじめとする多くの志士たちがこの牢獄で命を落としたことは 9 、この施設が時代の大きな転換点に至るまで、徳川の秩序を守る装置としてその役割を担い続けたことを物語っている。
終章:結論
慶長18年(1613年)の伝馬町牢屋敷設置は、日本の歴史における一つの分水嶺であった。それは、戦国時代における属人的かつ即時的な刑罰のあり方との決別を意味し、近世的な中央集権国家の確立過程における不可欠な一歩であった。
この施設は、徳川幕府が江戸という巨大都市、ひいては日本全土に新たな秩序を確立していく上で、物理的、心理的、そして象徴的な側面から、決定的な役割を果たした。その堅固な構造は物理的な隔離を、交通の要衝という立地は心理的な威嚇を、そして制度化された運営は新たな統治の形を、それぞれ体現していた。
伝馬町牢屋敷の内部に見られた光と影、すなわち石出帯刀家による公式の制度と、牢名主による非公式の暴力支配との共存は、効率性と秩序維持を最優先する江戸幕府の統治のプラグマティズム(実利主義)を色濃く反映している。この「この世の地獄」は、徳川260年の「泰平」を陰で支える巨大な礎石として、明治の夜明けまで江戸の中心にあり続けたのである。その歴史を深く理解することは、戦国から江戸へという時代の大きなうねりの本質を捉える上で、避けては通れない道程である。
引用文献
- 牢屋の誕生 https://ywl.jp/file/rM1ZymRZIipKySv0mICE/stream?adminpreview=0
- 刑務所よりも恐ろしい牢屋敷の驚愕の実態! 牢名主の暴力が支配する弱肉強食の世界 https://sengoku-his.com/2558
- 歴史探訪と温泉: 伝馬町牢屋敷跡遺跡 https://hotyuweb.blog.fc2.com/blog-entry-963.html
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- かぶき者と古無僧|kataha - note https://note.com/kataha_comjo/n/n447a522d3017
- 春季展 古田織部と慶長年間のかぶきもの - 婦人画報 https://www.fujingaho.jp/culture/a70790/kabukimono-2017-0407/
- 牢人たちの戦国時代 / 渡邊 大門【著】 - 紀伊國屋書店ウェブストア https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582857269
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- 伝馬町牢屋敷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E7%94%BA%E7%89%A2%E5%B1%8B%E6%95%B7
- 元町コラム(2020年11月5日号) https://www.motomachi.or.jp/initiatives/column_20201105/
- 企画番組(平成25年2月 中央区歴史探訪 伝馬町牢屋敷) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=esAWguwz57o
- 伝馬町牢屋敷跡 | 一般社団法人中央区観光協会 https://www.chuo-kanko.or.jp/pages/other_details/119554
- 小伝馬町の名前の由来とは|怖い牢屋敷事件や処刑場というキーワードが…. - とーんと日本橋 https://tone-to-nihonbashi.com/kodenmatyou/
- 江戸の三伝馬町と天王祭 https://wako226.exblog.jp/241852315/
- 【街と街道を歩く】本町通りと日本橋通り(その1)|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/n445cca958fcf
- 江戸伝馬町牢屋敷と市中引き回し by 小猿 | 中央区観光協会特派員ブログ https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=1251
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- 囚人同士が人を“間引く” 江戸時代の牢獄に潜む恐怖のルールを史料から読み解く - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/253182
- 【新刊紹介】江戸の暗黒世界の実態:中嶋繁雄著『江戸の牢屋』 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/bg900121/
- 監獄変じてホテルになる - 松山大学法学部 https://law.matsuyama-u.ac.jp/archives/4936
- はじめに - アメリカ人の見た徳川家康 ~日本合衆国を造った男・徳川家康~ https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/01_03.htm
- 暴れん坊将軍の作った法律はこんなに画期的だった! - 國學院大學 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/45827
- 昭和43年版 犯罪白書 第三編/第二章/二 https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/9/nfm/n_9_2_3_2_2_0.html